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《モーリス・ユトリロ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、エコール・ド・パリの画家として知られるモーリス・ユトリロについて取り上げます。エコール・ド・パリは1920年代頃に外国からパリに集まった画家たちの総称で、これと言った画風の共通点があるわけでもなく、ユトリロに至ってはパリ生まれのパリ育ちで外国人でもありません。便宜的な括りなので何故ここにユトリロが入るのか分かりませんが、個性的で作品の大半が同時代のパリの風景画なのもその要因かも知れません。 ユトリロの画風は大きく分けて初期の「モンマニーの時代」(1903~1907年頃)、最も評価の高い「白の時代」(1907~1914年頃)、色鮮やかな「色彩の時代」(1914年以降)という変遷があります。家庭の事情やアルコール中毒などが原因で抑圧的で不幸な人生を歩みましたが、多くの画家に影響を与え 今も人気の画家となっています。今日も過去の展示で撮った作品とともにご紹介していこうと思います。

まず簡単な生い立ちについてですが、モーリス・ユトリロは1883年に女性画家のシュザンヌ・ヴァラドン(当時18歳)の息子として生まれました。父親については分からず、私生児となります。母親のシュザンヌ・ヴァラドンは洗濯屋の娘で、たまたま洗濯物を届けに行った際に画家のモデルとなり、それがきっかけで印象派の画家達のモデルをつとめるようになり、さらに自身でも絵を描くようになりました。奔放な性格だったようで、ロートレックの愛人になったりと何かと名前が出てくる人物です。(先日のルノワールの記事に描きましたが、ルノワールが父親という説もあります) シュザンヌ・ヴァラドンは良い母親ではなく、モーリスを放置し祖母に任せていたようです。7歳の頃にスペイン画家のミゲロ・ユトリロがモーリスを認知し、この時からモーリス・ユトリロとなりました。しかし、この認知した戸籍上の父親とは1度も会うことが無かったのだとか。また、育ての親の祖母が飲酒好きだったせいもあってか、ユトリロは中学の頃から飲酒癖があったようです。成績不振で中学を退学し、義理の父(ポール・ムジス?)の紹介で銀行や商社に勤めますが、勤務中に飲酒したり暴行したり、挙動が不審だったためにいずれも長続きしませんでした。この頃には既にアルコール依存症だったようです。そしてついに、1904年に義理の父(ポール・ムジス)の勧めでアルコール依存症の治療のためにサン=タンヌ精神病院に入院します。退院する際に医師から対症療法として絵を描くことを勧められ、ここからユトリロの画業が始まっていきます。

モーリス・ユトリロ 「マルカデ通り」
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こちらは1911年の作品。製作年は白の時代だけど、色彩のせいか ぱっと観た感じは後の時代のように思えるかな。パリの町並みが美しい作品です。

この作品より前のモンマニーの時代は色彩豊富で厚塗りされているのが特徴です。輪郭線を使用しないでタッチだけで描き、印象派のシスレーやピサロの影響を受けていました。基礎の基礎(絵の具の使い方とか)は母に手ほどきを受けたようですが、ほぼ独学と言って良いようです。また、初期から自然は主役にはならず街や教会建築に興味を持っていました。

モーリス・ユトリロ 「ベルリオーズの家」
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こちらは1911~1914年頃の作品で「白の時代」となります。この頃は評価の高い作品が多いので、早くも画業の絶頂期と言えるかな。その名の通り作曲家エクトル・ベルリオーズの家を描いていて、画面の大半を建物の白壁が占め 質感豊かに表現されています。白の時代はこの漆喰を描いた時代とも言え、石灰・ハトの糞・卵の殻・砂などを混ぜています。質感を出すために素材そのものを変えるというのは画期的な発想ですね。

子供時代のユトリロは漆喰の断片で遊んでたりしていたようで、後年に「パリの思い出として持っていくものは?」と訊かれた時に「漆喰」と答えるほど気に入っていたようです。

モーリス・ユトリロ 「モン・スニ通り」
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こちらは1914年の作品。この絵でも先程の「ベルリオーズの家」が描かれていて、ユトリロの家の近くの光景です。寒々として誰一人歩いていないのが何とも寂しい。くすんだ壁の質感は流石かな。赤みがかった建物など若干の色彩も観られるように思います。

この頃の私生活はというと、ユトリロはアルコール依存症で鉄格子の嵌め込まれた部屋に閉じ込められていたようです。与えられた絵葉書を見ながら描くこともあったようで、そのせいかこの時期の作品は陰鬱な空気が漂った作品が多いように思います。

モーリス・ユトリロ 「サン=ピエール教会」
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こちらは1914年の作品。これも近所のモンマルトルの教会を描いていて、曇天の光景が静かな雰囲気です。背景には1912年頃に出来たサクレ・クール寺院が見えていて、様々な白が使われています。門の辺りに観える黒っぽいのは人影かな?? この後の色彩の時代になると人を描くことも多くなっていきます。

この頃、ユトリロは2度の自殺未遂をしています。アルコール依存が酷く、1杯のワインのために絵を売り、「リットル」にかけて「リトリロ」と呼ばれていたのだとか。

モーリス・ユトリロ 「クリニャンクールの教会」
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こちらは1913~1915年頃の作品。直線がすっきりして遠近感が強まって 色もちょっと軽くなった印象を受けます。まだ全体的に白っぽいけど、画風が変わってきているように思えます。ユトリロはこの教会の隣で生まれたのだとか。

1911年頃から友人で後に義父となる3歳年下の画家アンドレ・ユッテルと一緒に暮らしていたそうです。母のシュザンヌ・ヴァラドンはユッテルをモデルに描いていたのですがやがて恋人になり、21歳年下のこの画家と1914年に結婚しています。マザコンのユトリロは大いに嫉妬したようで、一層に葛藤を深めていくことになります。

モーリス・ユトリロ 「市庁舎の旗」
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こちらは1924年の作品で、既に「色彩の時代」と呼ばれる時代に入っています。先程までの作品と比べると色が明るくなっているのがよく分かると思います。人々もやや大きめに描かれていて賑やかな雰囲気です。

「色彩の時代」はその名の通り色彩は明るく開放的になり、一点透視法で描かれ空間に広がりを持たせるようになります。絵葉書に遠近法の線を入れてそれを元に風景を描いていたようで、白の時代の静寂や苦悩の重さが薄らぎ 軽快さが現れ厚塗りも消えていきました。

モーリス・ユトリロ 「メゾン・ベルノ」
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こちらは1924年の作品。町並みを描くのは変わっていませんが、だいぶ色が鮮やかになっています。ここで注目したいのが女性の姿で、この時期の特徴の1つに異常に腰の張った女性像が描かれている点が挙げられます。これは女性への嫌悪から来たのではないか?と考える研究者もいるのだとか。

色彩の時代の頃にはユトリロの絵は売れるようになっていました。義父のユッテルはユトリロの絵の価値を認めていなかったようですが、彼ら夫婦の作品よりも高値で売れるため、ユトリロに絵を描かせては売り払って夫婦で贅沢をするという生活が続いたのだとか。

モーリス・ユトリロ 「モンマルトルのジュノ通り」
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こちらは1926年頃の作品。画面は白っぽいけど、「白の時代」よりはだいぶ後の作品です。誰もおらずハッキリしない天気と相まってやや寂しげに感じるのもかつての画風を思わせます。一番最初にご紹介した「マルカデ通り」と構図もそっくりです。

1935年ユトリロが51歳の時にリュシー・ポーウェルという63歳の女性と結婚しました。(妻と言うよりは母親くらいかも。3歳下の義父に12歳上の妻、いやはや…。) この嫁がまたかなりの悪妻で、シュザンヌ・ヴァラドンが死んだ後のユトリロのマネージメントを行っていきます。画商との折衝を取り仕切るならまだしも、自分が描いた稚拙な絵まで売り出したほどの厚かましさだったようです。ユトリロは外出を禁止され、監禁状態で絵を描かされていたそうで、紙に石を包んで通行人に投げ、紙には「助けてくれ」と書いてあったそうです。 しかし、通行人は既に有名人だったユトリロの紙を喜んで保管していたのだとか

モーリス・ユトリロ 「モンマルトルのキュスティーヌ通り」
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こちらは1938年頃の作品。これも遠近感が強く、パリらしい町並みを描いています。こんなに家があるのに道行く人がやけに少ないのが寂しい。色も若干弱くなっているように思えます。

この年に聖母のように慕っていた母シュザンヌ・ヴァラドンが亡くなっています。シュザンヌは無神論者でしたが、ユトリロは最初の継父の一家が敬虔なカトリックだった影響か カトリック紙の社説を熱心に読むなど信仰心があったようです。49歳の時に洗礼を受け、母が死んだときは自宅の礼拝堂に篭って母とジャンヌ・ダルクに祈りを捧げていたのだとか。その信仰のためか、教会を描いた作品が多くなっています。

モーリス・ユトリロ 「モンマルトルの迷路」
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こちらは1942年の作品。制作当時の実景に基づいたものではなく写真などを元にしていると考えられるそうです。かなり色鮮やかで滑らかな絵筆となっていて初期とはだいぶ違う印象ですね。ちなみにタイトルの通りモンマルトル辺りはかなり分かりづらい道となっていて、スマフォで確認してても迷いそうになりますw ユトリロの作品を沢山観てから現地に行くと今でも面影があったりして面白いので、モンマルトルに行くならユトリロの絵で予習するのがおすすめですw

モーリス・ユトリロ 「Le Lapin agile, cabaret de Montmartre(モンマルトルのキャバレー オ・ラパン・アジル)」
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こちらは1947年の作品。ラパン・アジルはユトリロがよく描いたキャバレーで、かつてはルノワールやゴッホ、ピカソやアポリネールなど様々な芸術家が集まりました。(現存しています)  この頃になると画風がだいぶ大胆になってる感じがするかな。晩年の作品はあまり観る機会がないので貴重です。

ユトリロは1955年に亡くなりました。不健康だったけど72歳まで生きたのはちょっと意外。不幸の多い人生でしたが、それ故か作品は今でも輝き続けています。日本でも観る機会の多い画家の1人なので、画風の変遷や人生背景なども覚えておくと ちょっと見方も変わるのではないかと思います。

 参考記事:
  モーリス・ユトリロ展 -パリを愛した孤独な画家- (損保ジャパン東郷青児美術館)


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《黒田清輝》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、明治から大正にかけて活躍し日本洋画界の礎を築いた黒田清輝について取り上げます。黒田清輝は薩摩の生まれで、叔父の養子となり絵の手ほどきを受けていたようですが、最初は法律家になりたいと考えていたようで 法律を学ぶためにフランスに留学しました。しかし、パリで出会った林忠正(美術商)や山本芳翠らと交流したことで、絵心を掻き立てられたようで、フランス留学2年目に画家になる決意をしました。 その後、ラファエル・コランに師事し、アカデミックな画風と印象派などから影響を併せ持つ画風になっていき、フランスのサロンでも入選をしています。帰国後は「明治美術会」を結成し日本の西洋画に新しい風を吹き込み、1896年には東京美術学校に迎えられ、その翌月に「白馬会」を結成しました。文展の設立にも大きく関与し、貴族院議員にもなるなど後半生は公人としての側面が強くなっていき 絶大な影響力を持って数多くの教え子を輩出していきました。今日も過去の展示で撮った作品とともにご紹介していこうと思います。


黒田清輝 「田舎家」
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こちらは1888年の作品で油彩を始めて1年くらいの現存する最初期の油彩画です。この頃滞在していたフォンテンブロー近郊の食堂の裏庭を描いたようで、田舎の農家らしき家と その隣に詰まれた藁、そしてその周りにいる鶏たちが描かれています。ちょっと色が暗めですが、のんびりとした農家の日常を感じる作品です。この頃、黒田清輝はバルビゾン派に関心があったそうで、この作品からはバルビゾン派への傾倒も見られます。これを描いた頃、黒田はミレーの画集を買ったそうで、農村を描くバルビゾン派に共感していたようです。

黒田清輝は留学前も高橋由一の門下の細田季治や日本画の狩野派の画家にも学んでいた時期があるようです。ちなみに本名は「きよてる」と読むのだとか。「せいき」は画号なんですね。

黒田清輝 「裸体・女(後半身)」
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こちらも留学中の1889年の作品です。アカデミーで学んでいた時期で、自分でもモデルを雇ってこうした習作を描いたようです。これとよく似た作品もあるので、結構描いていたのかも。ちょっと岩のようなカクカクした感じ(特に右肩辺り)もしますが、裸婦という西洋画ならではの画題に真摯に取り組んでる様子が伺えます。後に黒田清輝の裸婦作品が日本美術界に大きな論争を巻き起こします。

黒田清輝はフランスには9年間いたのですが、1888年にフォンテーヌ・ブローの南端にあるグレー=シュル=ロワンという村を初めて訪れ、その2年後からそこを拠点として活動しました。(当時、この村はフランス外の画家が集まるコロニーとなっていました) ここで黒田清輝はマリア・ビヨーという農家の女性と出会い、彼女をモデルにした作品が何枚も残っています。

黒田清輝 「読書」
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こちらは1891年の作品で、初のサロン入選作となりました。この女性がマリア・ビョーで、真剣な眼差しで本を読んでいます。先程の裸婦よりもかなり自然で親密な雰囲気になっていると思います。室内でも割と明るめの色彩で、淡い光も感じられるかな。庶民的でありながら知的な女性像ですね。

ちなみにマリアは豚肉屋さんの娘らしく、「豚屋」という作品も残っています。

黒田清輝 「枯れ野原(グレー)」
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こちらも留学中の1891年の作品。グレーは留学した日本の画家がよく訪れた土地で、浅井忠の方がこの地にいた印象が強いかも。何も無い野原ですが、軽やかな色彩に師匠のラファエル・コランからの影響も感じられます。

黒田清輝 「落ち葉」
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こちらも1891年の作品でグレー村のポプラ並木を描いたもの。大胆なタッチは印象派のようで、晩秋の風情を強めています。アカデミックな画風だけでなくこうした近代的な手法も取り入れているのが黒田清輝の特徴じゃないかな。本人も会心の出来だったようで、留学時代の恩人にこの作品を贈ったそうです。

黒田清輝 「マンドリンを持てる女」
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これも1891年の作品。サロン出品の為に描かれた作品らしく、こちらは滑らかなタッチに観えます。最初の裸婦の習作に比べると血色も良くて艷やかな感じですねw ちょっとぼんやりした眼差しがくつろいでいて、親しげな表情に思えました。

黒田清輝 「夏図画稿(女の顔)」
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こちらは1892年の画稿。この女性は先程の「読書」のマリア・ビョーじゃないかな。これもサロン出品作の構想のようですが、完成することはなかったようです。素描だと一層に高いデッサン力が感じられます。

1893年には鏡に向かう裸婦を描いた「朝妝」で再びサロンで入選しています。黒田清輝は「人間の裸を描くことこそ美術の王道」とするフランス流の考えと共にこの作品を日本に持ち帰ってきました。1895年に国内で展示しましたが当時の日本では受け入れられず、それを観て驚く日本人達を描いたジョルジュ・ビゴーの「日本におけるショッキング」という絵も残っているほど話題になりました。ビゴーの風刺画に描かれた当時の女性たちの 口を開けて驚いたり顔を隠して恥ずかしそうな様子を観ると、相当にショッキングだったことが伺えます。(残念ながら「朝妝」は戦災で焼失しました) ヨーロッパでは理想化され、現実から離れた裸を見るにあたって、エロティックな下心のような現実的な関心をすべて捨てて純粋に美を感じ取るという鑑賞をしていましたが、日本の当時はエロティックな関心を示したり、冗談を言いながら観ていたようです。黒田清輝はその鑑賞態度も改めようと教えていたようです。しかし、後にまた同じような事件が起こります…。

黒田清輝 「舞妓」
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こちらは帰国後の1893年の作品です。割とタッチは大胆で爽やかな色彩となっています。障子や手すりなど水平垂直の線が多い構図も面白い。

フランスからの帰国後、黒田清輝は「明治美術会」という洋風美術団体で作品を発表していきました。その頃、日本には脂派(やには)と呼ばれる暗めの明暗表現の作風もありましたが、それに対して黒田清輝が持ち込んだ明るい外光描写は「紫派」と呼ばれ、日本の西洋画に新しい風を吹き込みました。(影を紫で表現したりしたため「紫派」と呼ばれた。) 今では「外光派」と呼ぶほうが多いかな。

黒田清輝 「昼寝」
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こちらも帰国後間もない1894年の作品。一気に画風が変わっていて印象派の筆触分割の技法を使っています。色が強くてフォーヴのようですらある。木漏れ日が落ちる様子なども表現されていて、明暗の表現も印象派っぽさを感じます。黒田清輝の中では異色の作品です。

黒田清輝は1894年11月~1895年2月まで日清戦争に従軍していました。しかし、実際には戦闘を目にしていなかったらしく戦闘画は不得手だったようです。

黒田清輝 「美人散歩(逍遥)」
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こちらは1895年の作品。また淡くアカデミックな雰囲気強めの画風に戻った感じがします。静かで気品のある女性は黒田清輝が好んだ美人像だと思います。師のラファエル・コランの影響も感じられる作品です。

1896年には西洋画科の発足に伴い東京美術学校に迎えられ、その翌月には明治美術会から独立する形で「白馬会」を結成しました。白馬会のメンバーには久米桂一郎、藤島武二、岡田三郎助、和田英作などがいます。西洋画科は白馬会のメンバーが要職を占めたので、旧派(脂派)に対して優位になった訳ですが、時代の流れを考えると妥当かも。黒田清輝は派閥争いみたいな話が結構多いw

黒田清輝 「湖畔」
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こちらは1897年に描かれた黒田清輝の代表作です。箱根の芦ノ湖を背景にしていて、モデルは奥さんの照子夫人です。夫人は23歳だったらしく瑞々しく清廉な印象を受けます。背景も夕暮れの涼し気な雰囲気があって、観ているだけで気持ちが落ち着きますね。ちなみにこの作品は第2回白馬会展の時には「避暑」というタイトルだったのだとか。

1897年には代表作の1つである「智・感・情」も描かれています。ここでも「朝妝図」と同じく女性の裸体を描いていて、これを載せた雑誌は発禁になってしまったそうです。智は「理想主義」、感は「印象主義」、情は「写実主義」をあらわしたもので、日本人女性をモデルに日本人が描いた最初の油彩裸婦となっています。

黒田清輝 「昔語り下絵(構図 II)」
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こちらは焼失してしまった1898年の代表作の下絵。恐らくこれが現存する下絵の中で最も完成作を想像しやすい作品だと思います。この絵には多くの下絵が残っていて、人物それぞれを何度も描いています。僧の話をじっと聞きながら後ろで手を繋ぐ男女の姿がロマンティックw 黒田清輝はアカデミズムを学んでいたため絵画は単なるスケッチではなく構想を練って描く構想画でなければならないと考えていました。この作品はその最たる例ですが、公人として忙しくなったこともありこの後は構想画よりもスケッチが主体になっていってます。構想画という発想も当時の日本にはあまり馴染まなかったようです。

この3年後の1901年に「腰巻事件」と呼ばれ事件が起きました。これは「裸婦婦人像」を白馬会第6回展に出した際、腰から下あたりを布で覆って展示されたというものです。この頃の考えとしては性器が描いてあったらアウトみたいな感じだったようですが、この絵ではその辺は曖昧に描かれています。しかしそれでも駄目だったようで、布を巻かれてしまいました。「朝妝」の騒動から6年経ってもまだそんな状況が続いていたんですね…。何かと黒田清輝が進みすぎていて当時の日本がついていけてない感じです。

黒田清輝 「花野下絵」「花野」
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こちらは1907~15年頃の構想画で、生涯の後半期に試みた唯一の大作とされています。師匠のラファエル・コランの作品かと思うほどそっくりな画風になっていて、コランの「緑野三美人図」を念頭に描いているようです。淡い色彩が神話的な雰囲気を強めていて、女神のような清らかな女性たちですね。

1910年には最初の帝室技芸員にも選ばれています。帝国美術院の院長や東京高等商業学校(一橋大学)のフランス語教師なんかもやってたらしく、多忙のためモチーフも身近なものになって行きました。

黒田清輝 「瓶花」
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こちらは1912年の作品。写実的で華やかな雰囲気となっていますが、黒田清輝っぽさがあまり感じられないかも。ちょっとここまでとは違った画風に思える作品です。

黒田清輝 「夕の梨畑」「夕の原」「夕の景」
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こちらは1919年の作品で、鎌倉に滞在したときに制作された3作セット。遠くに観えているのは富士山で、いずれも郷愁を誘うような光景です。筆致が粗く色合いなども印象派のような作風となっています。

黒田清輝 「案山子」
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最後にこちらは1920年の作品。自分でわざわざかかしを立てて描かれた作品らしく、こちらも大胆な筆致となっています。夕暮れに立つかかしが何とも寂しげ。

1920年には貴族院議員にもなっていますが、その4年後の1924年に亡くなりました。


ということで、アカデミックな部分と印象派を取り入れた部分のある画風で日本の洋画界を牽引した画家です。当時の日本の無理解の中、めげずに作品を発表し改革を行っていったのは日本の美術史にとって非常に大きかったのではないかと思います。教育者としての功績も大きいけど、純粋に画家一本だったらどうなったのだろうか?というのがちょっと惜しい気もします。東京国立博物館の裏にある黒田記念館で作品を観ることができるので、洋画好きの方は一度は足を運んでみるとよろしいかと思います。


 参考記事:
  近代日本洋画の巨匠 黒田清輝展 (岩手県立美術館)
  黒田記念館の案内 (2010年11月)
  黒田清輝-作品に見る「憩い」の情景 (東京国立博物館 本館18室)


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《ピエール=オーギュスト・ルノワール》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、日本でもつとに有名なフランスの画家ピエール=オーギュスト・ルノワールについて取り上げます。ルノワールは印象派の画家として扱われることが多いですが、ロココ的な要素があったり印象派に行き詰まりを感じて古典に傾倒した時期もあり、サロンでも入選を繰り返しています。また、晩年には独自の様式を確立していて、印象派だけではくくりきれない画家ではないかと思います。ルノワールは「絵は楽しくて美しいものでなければならない」という考えをもっていたため幸福感に溢れた作風となっていて、上流階級の人々や裸婦をよくモチーフにしていました。今日も過去の展示で撮った作品とともにご紹介していこうと思います。

ピエール=オーギュスト・ルノワールは仕立て屋の息子としてフランスのリモージュに生まれ、3歳でパリに家族と共に移り住みました。13歳の頃から磁器の絵付け職人の工房で働き、19歳で画家を目指し、グレールの画塾に入ります。その後は、
 19歳~38歳(1860~1879年頃):グレール画塾の修行時代。1874年から始まる印象主義への参加
 39歳~50歳(1880~1891年頃):印象派展から離れサロンでの成功を経て、アルジェリアやイタリアへ旅行を経験。そこで得たものから模索と試作の時期。1880年代には「アングル様式」という古典主義への回帰
 51歳~78歳(1890~1910年頃):様式を集大成した時期
となります。初期の頃は神話をモチーフにした作品、印象派時代には生活習慣や物語性の無い戸外風景の中の作品が多く描かれました。


ピエール=オーギュスト・ルノワール 「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」
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こちらは1872年の作品です。アルジェリアに行った後に描いたのか?と思ってしましますが、これは初期のものでドラクロワの「アルジェの女たち」などを下敷きにパリで描いたもののようです。女性の美しさをうまく表現しているのは流石ですが、後の作品に比べると色彩は落ち着いていて輪郭も明瞭なように思います。

なお、この絵を描く2年前の1870年(当時29歳)の時に普仏戦争が勃発して騎兵隊に従軍しています。また、この絵の2年後の1874年(当時33歳)の時にモネたちと「第1回印象派展」を開催しているので、これからという時期ですね。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」
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こちらは1876年の作品で、第3回印象派展に出品されています。今はアーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)の看板娘と有名かな? モデルはパトロンだった出版業者の娘で、こう見えて4歳の頃の姿です。微笑んでこちらを観る顔は理知的で 子供とは思えないほどの気品を感じます。この絵では印象派らしく筆触分割の技法が使われていて、パレットの上で絵の具を混ぜずにキャンバスに並べています。陰影も青や紫なんかを使っていて、当時はこうした技法は批判されがちでした(裸婦に落ちた影が青紫がかっているので、死体みたいだとか言われてみたり) しかし依頼主と本人は非常に気に入ったようで、生涯大切にしたのだとか。素晴らしい名画です。

第3回展にはルノワールの作品で最も有名な「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」も発表しています。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「リュシアン・ドーデの肖像」
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こちらは1879年のパステルの作品。お菓子を持ってふっくらした可愛い子供が描かれ、背景の赤も温かみを感じます。 輪郭は結構しっかりしているように思えるかな。ルノワールは少年時代に磁器の絵付けをしていて、それは絵画にも影響を及ぼしています。特に、柔らかな色彩や優美さ、官能的で繊細な点などはロココ様式の影響を受けているようです。この絵もどこかロココっぽさを感じました。

この絵の1年前の1878年にはサロンに応募して入選しています。ついに官展で認められたことで肖像などの注文も増えて画家としての成功を得ました。一方で印象派の仲間であったドガはサロンに参加する者は印象派展に相応しくないと考えていたようで、その考えの違いからルノワールは第4回から第6回の印象派展には参加していません。

ちょっとこの辺の時代の作品の写真が無いのでご紹介しづらいですが、1881年(40歳)の時にアルジェリアとイタリアに旅していて、アルジェリアの気候に影響を受けて全体的に色鮮やかで光が溢れるような画風へと進化しています。イタリアではルネサンス期の巨匠 特にラファエロに感銘を受けています。元々はアカデミックな絵画を否定していた訳ですが、次第に古典絵画への傾倒を深め1883年~1888年頃にかけて「アングル様式」と呼ぶデッサン重視の時代を迎えます。このアングル様式の時代の代表作がダンス3部作の「都会のダンス」「田舎のダンス」「ブージヴァルのダンス」(いずれも1883年)です。特に都会のダンスはそれっぽい感じがします。しかし、この画風の変化はあまりパトロンに受けなかったようで、以前ほど売れなくなったのだとか。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「ムール貝採り」
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こちらは1888~1889年頃の作品。この絵では波打つようなタッチでややボンヤリした感じもしますが、輪郭はしっかりしているのでまだアングル様式の傾向が強いように思えます。子どもたちが手を繋いでいたり、穏やかで優しい雰囲気が溢れている点はルノワールならではですね。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「Madame de Bonnieres(ボニエール夫人の肖像)」
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こちらは1889年の作品。これもはっきりくっきりした画風となっていて、これを見ても印象派っぽさはあまり感じないと思います。一方で柔らかく温かみのある赤い背景はルノワール独特の色彩感覚じゃないでしょうか。こちらを見て微笑む女性も幸せそうな雰囲気です。 それにしても胴の細さがやばいw 昔の女性は大変ですね。

この翌年の1890年に「田舎のダンス」のモデルをつとめたアリーヌと結婚しています。1885年にはアリーヌとの間に長男のピエールが生まれているんで、順序があれな感じですがw 「都会のダンス」と「ブージヴァルのダンス」もモデルのシュザンヌ・ヴァラドン(ユトリロの母)と二股していた時期もあったそうで、ユトリロの父親説まであるのだとか。意外と女性関係はゆるいw

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「帽子の女」
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こちらは1891年の作品。この頃からアングル様式を離れて「真珠色の時代」と呼ばれる独自様式へと進んでいきます。この絵でも青、黄色、赤など様々な色が白と響き合って、艷やかな印象を受けます。また、先程の絵もそうですが、ルノワールの女性像はファッションにも注目で、仕立て屋の息子だけあってファッションには関心が高かったことが伺えます。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「ピアノを弾く娘たち」
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こちらは1892年頃の作品。オルセー美術館所蔵の「ピアノに寄る少女たち」のヴァリアントで、構図的にはほぼ同じです。ピアノの練習をする姿に幸福感が漂い、背景の色も温かみを感じさせます。新しい境地を思わせる1枚で、この後の時代は一層に柔らかい画風へと進化していきます。

この頃、私生活では1888年頃からリュウマチの症状が表れ、1890年代からはさらに体調が悪化していっています。リュウマチは晩年まで苦しめられ続けることになります。また、1884年には次男のジャンが生まれています。ジャンは後に有名な映画監督になっていて、知ってる方も多いかも。3人の息子達は長男ピエール・ルノワール(俳優)、次男ジャン・ルノワール(映画監督)、三男クロード・ルノワール<通称ココ>(陶芸家)と、芸術一家です。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「長い髪の浴女」
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こちらは1895~96年頃の作品。この絵は割と輪郭がはっきりしているけど、背景はもやっとして柔らかい印象を受けるかな。肌の色や小ぶりな胸などはルノワールが好んだ裸婦像そのものと言ったところでしょうか。官能的でありつつ女神のような美しさで、ルノワールの裸婦の中でも傑作だと思います。

この頃から裸婦の作品が多くなっています。ルノワールは身体表現は芸術の本質的な形式の1つであると語っていたそうで、特に浴女や神話の裸婦をよく描いています。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「横たわる浴女」
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こちらは1906年の作品で、ルノワールに学んだ梅原龍三郎が西洋美術館に寄贈したものです。浴女とのことですが屋外にいるせいか神話的な雰囲気にも思えるかな。横たわる構図はロココの頃によく描かれた主題らしいので、ロココ的な要素もあるかもしれません。一層に豊満で柔らかい雰囲気が強まっているようにも思えます。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「ばらをつけた女」
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こちらは1910年代頃の作品でやはり梅原龍三郎による寄贈品。この頃になるとさらに色彩豊かになっていて、背景が萌え立つように温かみを感じさせます。タッチも粗くなっていて晩年の円熟味を感じさせる1枚です。

ルノワール一家は1903年にはカーニュ・シュル・メールに移り住み、1908年からは現在のルノワール美術館となっている邸宅に移りました。1910年くらいには車椅子での生活を余儀なくされています。

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「ばら」
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こちらは年代不明の作品。薔薇はルノワールが特によく描いた花です。結構粗めのタッチで描かれていて、華やかさよりも温かみが感じられるかな。ルノワールは「絵画は壁を飾るために描かれるものだ。だからできるだけ豊かなものであるべきだ」という考えをもっていたようで、人々に身近で喜びを与える存在として装飾画を描いていたようです。

こちらは晩年に住んでいたカーニュ・シュル・メールの邸宅
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晩年は椅子から立つこともできず、絵筆も手に縛り付けて描いていたようです。そのため、この家や庭の中をモチーフにした作品も多くなっています。

こちらも邸宅内にある建物を描いた作品。
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絵だけ観ると明るく爽やかな印象ですが、ルノワール自身は満身創痍だったりします。

このルノワール美術館には陶器に絵付けした作品もあります。
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画業の始まりは磁器への絵付けだったので、原点回帰みたいな感じでしょうか。絵画作品とはまた違ったデザインセンスを感じます。

最後にこちらはリシャール・ギノとの合作で、ルノワールの奥さんのアリーヌの像。
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リシャール・ギノはマイヨールの弟子で、ルノワールのデッサンと指示に基づいて形を作りました。1913年以降、彫刻作品をいくつか残していて、奥さんの像はこの他にも観た覚えがあります。1915年には奥さんに先立たれる訳ですが、在りし日の幸せで優しい雰囲気が漂っていますね。

そして1919年にルノワールはなくなりました。その年にレジオンドヌール勲章を受け、ルーヴル美術館に展示されていることが出来たので本望だったと思いますが、時は第一次世界大戦が終わったばかりで、戦争で長男ピエールと次男ジャンが負傷したりしていて不幸の時代を招いた戦争を嘆く手紙も残っています。作品だけ観ているとルノワールは幸せな人生だったように思えますが、その裏で苦労や悲劇を乗り越えてきたんですね。

ということで、ルノワールは逸話が多いこともあって記事にまとめるのも大変でしたw 今後も観る機会の多い画家だと思いますので、画風の変遷やその背景などを知っておくと一層に楽しめるのではないかと思います。

 参考記事:
  ルノワール美術館 (南仏編 カーニュ・シュル・メール)
  ルノワール-伝統と革新 感想前編(国立新美術館)
  ルノワール-伝統と革新 感想後編(国立新美術館)



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《円山応挙》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、18世紀半ばから後半にかけて京都で活躍した円山応挙について取り上げます。円山応挙は1733年に農家の次男として生まれ、幼くして奉公に出ました。10歳で京都に出て、呉服屋で働いていたこともあるそうで、絵の勉強は狩野探幽の流れを引く画家の石田幽汀に学んでいます。20代の頃は玩具商の尾張屋で「眼鏡絵」を描いていて、これが画業の出発点となりました。この「眼鏡絵」というのは西洋の遠近法を強調した風景画で、レンズを備えた覗き眼鏡を通してみると立体的に見える絵のことです。そして30代から応挙を名乗り、写生を重んじて自然や花鳥・動物を生き生きと写し取った斬新な画風はたちまち京都で評判となりました。応挙は「実物に即して描かないと絵とは呼べない。強さや生命力は形をしっかり描けば備わる」と考えていたようで、西洋絵画に影響を受けた眼鏡絵を描いていたこともあって、西洋的なアプローチをしていたのではないかと思います。そうした姿勢は円山派と呼ばれる門下に受け継がれ、京都画壇で確固たる地位を築いていきました。今日も過去の展示で撮った作品とともにご紹介していこうと思います。


円山応挙 「雪中老松図」
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こちらは1765年の作品。円山応挙の代表作に国宝の「雪松図屏風」がありますが、モチーフ的によく似ています。雪松図屏風では白い地を塗り残して雪を表現する手法が使われているわけですが、この作品も恐らく絹地の白さを活かし 周りの色で白雪を浮かび上がらせていると思われます。墨の濃淡だけで松の質感や風格まで出ていて流石です。

この作品の翌年の1766年から応挙を名乗り始めたそうで、応挙とは宋元時代の文人画家の銭舜(字は舜挙)に応ずるという意味となっています。過去の偉人に並ぶ存在になるという野心的な名前ってことですね。(応挙は名前や号を何度か変えています)

円山応挙 「秋冬山水図屏風」
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こちらは年代不明の作品。金地と墨で秋冬の山水を表しています。これも白が柔らかく感じられ、空気感まで表現されているようにも思えます。

応挙は「三遠」を意識していたことを自ら記しています。三遠は北宋の画家 郭煕が考案した構図で、
 高遠:下方から山の頂上を見上げる構図
 平遠;前山から後方の山を眺望する構図
 深遠:山の前方から背後をのぞきこむ構図
となります。応挙の絵を見たらこの視点で観ると発見があるかもしれませんね。

円山応挙 「青松白鶴図」
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こちらは1782年の作品。対になって並んだ掛け軸ですが、鶴のポーズが松の枝と幹の形に似ているように見えます。ちょうど松の枝に沿って対角線上に流れているような構図が観ていて心地良い。

円山応挙は鳳凰や龍といった架空の動物よりも生きた鳥や動物をよく観察して描こうとしたそうです。それは円山派と呼ばれる弟子たちにも引き継がれていきました。そのため、動物を描いた作品は多く存在します。

円山応挙 「朝顔狗子図杉戸」
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こちらは1784年の作品で、杉戸に描かれています。東博の応挙館の廊下を仕切る杉戸らしく、応挙館は元々は愛知県の明眼院の書院でした。

杉戸の右側のアップ。
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朝顔とコロコロした感じの子犬が何とも可愛らしい。写生といってもゆるキャラのような親しみがありますね。

こちらは左側のアップ
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仕草などに犬っぽさを感じます。こうした犬は円山応挙の作品によく出てきて、弟子の長沢芦雪の作品でも見かけます。芦雪のほうがさらにゆるかったりしますがw

円山応瑞 「狗子図」
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こちらは年代不明の作品。よほど子犬が好きだったんでしょうか。元気で無邪気な感じがよく出ています。

円山応挙 「臥牛図」
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こちらも年代不明の作品。菅原道真公をテーマにしていて、菅原道真は死後に運ばれた際 牛が臥して動かなくなった場所をお墓にしたとされ、牛は天神様(菅原道真が神様として祀られた)の使いとなりました。墨の濃淡でどっしりした牛の肉付きまで分かるのが凄い。尻尾のカスレなど単純なようで特徴がよく表れています。

円山応挙 「虎嘯生風図」
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続いても動物モチーフで、こちらは1786年の見事な虎の絵。背景にオーラのようなものが見えますが、これは虎は風を操るとされ、空に吠えた虎が風を巻き起こしている様子のようです。この時代は虎を日本で観ることが出来なかった為、応挙は輸入された虎の敷皮や猫を参考に虎を描いていました。模様はリアルだけど顔が猫っぽいのはそのせいかな

実際に見たことがないものでも写実的に描いた円山応挙ですが、当時は筆使いの個性がないとの批判もあったそうです。曾我蕭白は「絵を望むのなら私に乞うべきだが、絵図なら円山主水(もんど。応挙のこと)が良かろう」と言っていたようで、それまでの絵画と一線を画するものと考えられていたのかもしれません。

円山応挙 「芦雁図襖」
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これは1786年の作品で、先程のワンちゃんの杉戸と同じ応挙館にある襖絵の一部です。まるで目の前に雁が舞い降りてきたような躍動感と臨場感があります。写実的でもごちゃごちゃせず、余白を使って広がりや余韻を出すのは狩野探幽に通じるものを感じます。

円山応挙 「梅図襖」
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こちらも1786年に描かれた応挙館の襖絵。枝が4面に渡って伸びる構図が圧巻です。立派すぎて本当にこんな木があるの?って思ってしまいますがw 濃淡で立体感もしっかり表現されているのは眼鏡絵で培った技術でしょうね。

円山応挙 「波濤図屏風」
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こちらは1788年に描かれたもので、元は京都府亀岡市の金剛寺の襖絵だった品を改装した屏風です。そのため、右側に丸い把手らしき跡が見えます。 線で表された波が荒々しく動きを感じさせます。元の絵はこれが3面に渡って続くようなので、揃ったら一層に臨場感ある光景となるんじゃないかな。

円山応挙 「郭子儀携小童図」
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こちらは1792年の作品で、武勲で出世した唐の名将を描いています。長寿で息子たちはみんな出世したので、子孫繁栄の理想像としての意味もあるようです。体は輪郭線を使って表現していますが、ヒゲはフワッとした感じの表現になっているのが面白い(非常口の光の反射で台無しですみませんw) 武人だけど好々爺って感じの温厚な雰囲気です。

ちなみに応挙自身も温厚な人物だったそうです。その為か弟子の育成にも優れていて、弟子には息子の円山応瑞、源琦(げんき)、山口素絢(やまぐちそけん)、渡辺南岳、長沢芦雪などがいます。さらに与謝蕪村の高弟だった呉春も晩年の応挙に弟子入りを請いましたが応挙は親友として迎えいれました。(呉春は四条派の祖として後に円山派と並ぶ存在となります。) また、円山派の分派には原派・岸派・森派・鈴木派などもあり後世に絶大な影響力があったことが伺えます。

円山応挙 「龍唫起雲図」
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最後に1794年に描かれた眼光鋭い龍。翌年に亡くなっているので最晩年の作品です。濃淡で立体感や雲の湿気まで感じさせるのが凄い。架空の生物ですが、表情は人間っぽいしリアルな存在に思えます。

ちなみに円山応挙は幽霊を描いたこともあり、足のない幽霊の元祖とされています。あまりにリアルで幽霊が夜に絵を抜け出す…なんて逸話もあるくらいですw


ということで今回は全て東博の所蔵品でご紹介しましたw 円山応挙は江戸時代だけでなく近代の日本画にも大きな影響を与えているだけに詳しく知っておきたい画家の1人だと思います。展覧会もちょくちょく開催されるので、機会があったら是非チェックしてみてください。
 参考記事:円山応挙-空間の創造 (三井記念美術館)



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《ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル》  作者別紹介

今日は作者別紹介で、19世紀初頭のフランスで活躍した新古典主義の画家ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルについて取り上げます。アングルは新古典派の巨匠のジャック=ルイ・ダヴィッドに学び、若手画家の登竜門であるローマ賞を受賞しました。そしてイタリアに留学すると、制作しながらルネサンス期の巨匠の研究などを行っていましたが本国からは批判ばかりされていて、留学期間終了後もフランスには帰らず20年近く滞在しいます。しかし、1824年に帰国しサロンに出品した「ルイ13世の誓願」で評価が一気に高まり、アカデミー会員となりダヴィッドの継承者と見做され地位と名誉を手にしました。1834年には再びイタリアのローマに向かい、フランスアカデミーの院長にもなっています。晩年は巨匠として名を馳せ、弟子のシャセリオーを始め数多くの画家に影響を与えていて、特にルノワールは「アングル様式」と呼ぶスタイルを確立するほどアングルに傾倒しています。アングルの作品は重要すぎることもあって日本にはあまり来ませんが、今日も過去の展示や旅行で撮った作品とともにご紹介していこうと思います。

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「ヴァルパンソンの浴女」
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こちらは1808年の初期作品です。アカデミー・フランセーズ在籍中にローマで描かれたもので、留学の成果を評価してもらうためにフランスの美術アカデミーに送った3つの作品のうちの1つだそうです。この後も裸婦の作品が多く出てきますが、この作品は特に滑らかで写真のような精密さと艶が感じられます。特に肩から腰にかけての色使いには驚きますね。

ちなみに新古典主義とは古代ギリシア・ローマへの古典様式を理想として写実性や理性を重視した流派です。それまでのロココのような華美な流れに対抗したもので、古代遺跡が発掘されたのをきっかけに再びルネサンスをやってるような感じかな。(ルネサンスよりももっと古代ローマそのものって感じ) 絵画だけでなく建築や彫刻でも同様の動きがあり、神殿のような建物はだいたいこの流れです。絵画学校のアカデミーは新古典主義が中心的存在になっていくわけですが、その反動で近代美術というアンチテーゼを生んでいくことになります。

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「ユピテルとテティス」
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こちらは1811年の作品(グラネ美術館のキャプションだと1835年だった気がしますが、1811年とされています) これも留学先から本国に送った3枚のうちの1枚で、アングルは自身の最高傑作と考えていたようです。写真だと分かりづらいですが かなり大型で、見上げるような堂々たるゼウスの姿と艷やかなテティスの肌は理想的な美しさとなっていて、これぞ新古典主義と言った感じです。これは『イリアス』のワンシーンで、テティスがゼウスにトロイア軍に加勢するよう頼んでいます。左後ろにいるのは嫉妬深い妻のヘラで、じーっと観てますねw これだけ見事な出来なのに、アカデミーでは賛否両論だったようで、引き伸ばされたテティスの体などが批判されました。この引き伸ばしは勿論意図的にやっていて、女性の美しさを強調するためのもののようです。後で出てくる作品はもっと顕著なのでアングルの特徴の1つと言えそうです。

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「グラン・オダリスク」
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こちらは1814年の作品で、アングルの作品の中でも特に有名です。オダリスクはハレムの女奴隷のことで、官能的な美しさを見せています。そして、この作品が最も女性の体の引き伸ばしを感じるのではないでしょうか。写実を良しとする新古典主義なのに、胴の長さ・細さや手足の長さがおかしいだろ!と当時かなり批判されました。これはマニエリスムなどからの影響で強調する為にやっていたようですが、当時はあまり理解されることはなく、しばらく批判され続けたようです。しかし、解剖学的な正しさより自分が美しいと思うように表現するというのは非常に大きな改革で、後にルノワールやピカソはこうした点にも大きなインスピレーションを受けています。絵画の良し悪しって、時代とともに評価が変わるものですね。

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「アンジェリカ」
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こちらは1819年の作品。何だかめちゃくちゃ窮屈そうな格好をした女性像ですw この絵は次に紹介する作品のヴァリアントの1つで、アンジェリカだけ抜き出していて ここには描かれていませんが鎖で繋がれているのでこういう格好になっています。これも解剖学的にはどうなんだろ?って所もありますね。

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「アンジェリカを救うルッジェーロ」
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こちらは1817年~1819年頃の作品。ルドヴィーコ・アリオストの「狂えるオルランド」の1シーンを絵画化したもので、ヒッポグリフに乗ったルッジェーロが鎖に繋がれたアンジェリカを助けにきています。足元には怪物がいて、生贄になっているようです。ストーリーも場面もアンドロメダの話そっくりなので、私は以前これはアンドロメダを描いたものかと思ってましたw ちょっと画面がテカっていて申し訳ないですが、先程のヴァリアントに比べて明暗も一層ドラマチックになっているように思います。なお、この作品も当時は批判されたようです。巨匠への道は遠い…w

と、ここまで批判されまくっていたアングルですが、1824年のサロンに出品した「ルイ13世の誓願」で評価が一気に高まります。これは故郷のモントーバンのノートルダム大聖堂のための祭壇画で、同じサロン出品作のウジェーヌ・ドラクロワの「キオス島の虐殺」に対抗する作品として絶賛されました。これには本人も意外だったようで、周りの他の画家の作品に気圧されてたほどだったのだとか。その背景として当時、ロマン派が台頭しはじめ、新古典主義の巨匠ダヴィッドはナポレオン失脚に伴って亡命していたので、新古典主義の新しい旗手を求めていたというのもあるようですが、これによってアングルは押しも押されもせぬ新古典主義の巨匠となりました。翌年にはレジオン・ドヌール勲章、1829年には国立美術学校の教授といった地位も得て、これを境に評価が一変しています。

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「Madame Marcotte de Sainte-Marie(マダムマルコットドサントマリーの肖像)」
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こちらは1826年の作品。名声を得ると肖像画の仕事もあるんですねw 穏やかでじっとこちらを見つめていて、ちょっと緊張しているようにも思えるかな。質感豊かで写実的な印象です。

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「若い女の頭部」
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こちらは年代不明の作品。恐らく習作と思われます。仰ぎ見るようなポーズで、肌や顔に瑞々しい印象を受けます。描きかけでこれだけ実力を感じさせるのは流石ですね。

ジャン=オーギュスト=ドミニック・アングル & アレクサンドル・デゴッフ 「パフォスのヴィーナス」のポスター
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こちらのポスターの右側がタイトルの作品で、イタリアから再び帰ってきた後の1852年頃に描かれました。この絵でも左肩から首の辺りなんかは不自然だったり、背中から足の辺りはどうなってるんだ?って感じではありますが、そんなのお構いなしで滑らかな裸体がアングルらしくて美しい。これは高弟が背景を担当した共作となっていて、このポスターでは分かりませんが背景にキプロス島のパフォスの神殿が描かれています。

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「ルイ14世の食卓のモリエール」
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こちらは1860年の作品。足を組んで当時流行っていたトルコ風の格好をしているのがルイ14世です。テーブルの隣に座っているのが喜劇作家のモリエールらしく、当時の逸話を絵画化したようです。それにしてもルイ14世の座り方はどうなってるんだw と、ここまで観てくるとこれがアングルの味だと分かりますね。

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「トルコ風呂」
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最後にこちらは1862年 当時82歳のアングルの代表作! 手前で楽器を弾く後ろ姿の女性に見覚えはありませんでしょうか? 実はこれは最初にご紹介した「ヴァルパンソンの浴女」を元にしています。他にも過去のスケッチなどを元にいているらしく、この作品の為にモデルを使うことはなかったようです。まさにアングルの裸婦の集大成といったところでしょうか。老いても衰えない情熱を感じます。ちなみにこの作品は発注者に受け取りを拒否され、ルーヴル美術館でへの寄贈も2回拒否されているそうです。巨匠なのに何だか昔に戻ったみたいな扱いですねw


ということで、アングルは新古典主義の巨匠なのに我が道を行った画家で、近代絵画の画家たちに多大な影響を与えました。アングルへの評価を見ていると、美術の評価というのは当時には真価はわからず 長い歴史の中で決まっていくような気がしますね。たまに大型展で少数だけ来ることもあるので、機会があったら是非目にしてみてください。


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