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《月岡芳年》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師 月岡芳年を取り上げます。月岡芳年は歌川国芳に入門し、若い頃は師匠譲りのドラマチックな作品で人気を博しました。幕末から明治初期にかけて「血みどろ絵」と呼ばれる猟奇な作風を残し、芳年の代名詞のように語られることもありますが、これは芳年の作品のほんの一部であってその後も歴史画や風俗画を始め数多くのシリーズを手掛けました。月岡芳年の門弟には水野年方がいて、孫弟子の鏑木清方や曾孫弟子の伊東深水などにも繋がっていきました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


月岡芳年は1839年に江戸で生まれ、12歳で歌川国芳に入門しました。(同門には河鍋暁斎などもいます。)それからわずか3年後に「一魁斎芳年」の名前で「文治元年平家の一門亡海中落入る図」という作品を制作しています。駆け出しの絵師が3枚続の大判錦絵を手がけるのは異例中の異例だったそうで、親族から資金の提供があったのではないかと推測されるものの、すでに才能に満ち溢れていたのは確かだったようです。20歳を過ぎると役者絵や武者絵を継続して作るようになりますが、23歳の時に師匠の国芳が病死してしまいます。その為わずか10年の師弟関係となりましたが、国芳が芳年に与えた影響は大きいようです。27歳の時、「和漢百物語 小野川喜三郎」に初めて「月岡魁斎芳年」と月岡の号を署名したらしく、これは月岡雪斎という親戚の画姓を引き継いだものとされるようですが、一人立ちの決意も込められていたと考えられるようです。 1866年に兄弟子の落合芳幾と共に歌舞伎や講談の刃傷場面を描いた「英名二十八衆句」という作品を発表し、その後も過剰なまでに血を描写した「血みどろ絵」と呼ばれるの猟奇な作品を多く手がけています。そのインパクトから芳年というと血みどろのイメージで狂気の絵師とみなされることもあるようですが、このような表現は幕末の歌舞伎や講談で好まれた趣向だそうで、芳年はそれを過剰に演出したに過ぎないようです。また、この時期に空想の武者絵ではなく上野戦争で目の当たりにした戦闘のリアリズムを追求したのが要因のようです。しかし血みどろ絵の時期はほんの一時期で、それだけで月岡芳年を評価するのは妥当ではないと思われます。
その後、30歳の頃に明治の新しい時代になると、芳年だけでなく狩野派をはじめとするあらゆる絵師の基盤が揺らぎ、芳年は自らの方向性を模索する中、「一魁随筆」という武者絵を打ち出しました。しかし思ったような人気を得ることはできず、失意の中で明治5年(1872年)には神経衰弱という病に倒れ、それ以降生活は困窮していきました。

月岡芳年 「誠忠義心伝 礒合十郎左ェ門藤原正久」
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こちらは1868年の作品で、仮名手本忠臣蔵(実名ではなく名前を仮託して使っている忠臣蔵)を描いたシリーズです。畳を盾に矢を防いでいるものの出血多量で畳に血の手形が出来ています。この血みどろっぷりのインパクトが大きいので、芳年のイメージがリンクしてしまったのも頷けるかな。確かにリアリティを感じますね。この4年後に病気で倒れてしまいました。

月岡芳年は明治6年(1873年 35歳)にそれまで使っていた「一魁斎」の号に代わって新しく「大蘇」の号を用いるようになり、病から脱して意欲的に制作に携わるようになりました。明治8年(1875年)には郵便報知新聞で新聞錦絵の連載を開いて好評を博し、新聞小説の挿絵も手がけるなど新聞でも活躍しています。明治10年(1877年 39歳)の頃に勃発した西南戦争に取材するなど この時期は風俗・時事的な要素が濃くなると共に歴史画・神話画・徳川の時代を振り返るような作品も手がけています。この頃の画風は衣服の衣紋線や皺を強調して描いたり、人物の劇的な動きを与える芳年ならではの画風の確立が観られるようです。

月岡芳年 「義経紀五條橋之図」の一部の看板
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こちらは1881年の作品の一部で、実際の絵には弁慶と牛若丸が五條大橋で戦っている様子が描かれています。ひらひらと跳ぶこの義経に対し長刀で踏ん張るようなポーズの弁慶が対照的となっています。義経だけでも躍動感と緊張感がみなぎっていて迫力がありますね。

西南戦争が終わった後、40代となった芳年が精力的に取り組んだのは歴史画で、日本の神話から江戸時代に至るまでの揃いものを立て続けに発表しました。その基盤には師匠の武者絵があると考えられ、さらに時代考証を重んじた菊池容斎や、西洋の油絵の色彩、銅版の陰影などを加えたようです。また、この頃 天皇を中心とする明治政府にとって歴史画は国民を教化する有益なツールと認識され、芳年の絵も国民に歴史や修身を啓蒙する役割を担ったようです。

月岡芳年 「芳年武者旡類 源牛若丸 熊坂長範」のポスター
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こちらは明治16(1883年)の作品で、神話から戦国時代までの武者を描くシリーズの1枚です。武者震いと旡類(無類)を掛けたタイトルで、ここでは切り込む牛若と仰け反って長刀で受ける熊坂長範が描かれ、お互いに視線がぶつかり合っています。戦闘の迫力が伝わるポーズが見事で、まさに真剣勝負の瞬間ですね。

月岡芳年は明治15年(1882年)に絵入自由新聞社に挿絵絵師として月給100円の破格の待遇で迎えられ、人気の絶頂期となりました。その人気は非常に高く47歳の頃に出た「東京流行細見紀」では浮世絵師としてトップ名前が挙がるほどだったようです。画業においても40代半ばから亡くなるまでの10年の間に代表作・ヒット作を連発していて、いずれも明と暗、静と動を巧みに操ったドラマチックな画面構成となっています。こうした作品には浄瑠璃・歌舞伎・講談・落語・戯作・小説などが大きく関わっていたようです。

月岡芳年 「風俗三十二相 うるささう 寛政年間処女之風俗」
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こちらは私の大好きな1888年のシリーズものです。寝ている猫に覆いかぶさるように抱きついている華やかな着物の女性を描かれ、猫が可愛くて仕方がないといった感じの女性に対して、猫はやれやれといった感じなのが面白いw 猫の首輪と女性の襦袢はお揃いの柄になっているなど、猫好きの女性であることがよく伝わって来ます。

この時代、他の画家が新たな美術を模索する中、芳年は過ぎ去った江戸を懐かしむ庶民たちの感情に沿うように江戸へと回帰していったようです。

月岡芳年 「風俗三十二相 つめたさう(文化年間めかけの風俗)」
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こちらは腕まくりして手を洗う女性。派手な簪をしている妾で、タイトル通り水が冷たいんでしょうね。まるでその場を観ていたかのような心情表現が素晴らしい。

このシリーズは寛政から明治まで32枚揃いとなっています。「三十二相」とは元々は仏教用語で釈迦の姿の32の特徴を示すものですが、それに因んで女性の美しさを表す趣向となっています。歌川国貞なども当世三十二相」というシリーズを出しているので、そうしたものに影響されているかも知れません。

月岡芳年 「風俗三十二相 暗さう(明治年間妻君の風俗)」
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こちらは寝床の行灯に火を灯す女性が描かれ、ちょっと楽しげな表情をしています。緻密に描かれていて色っぽい雰囲気もありますね。

このシリーズでは各時代・各身分がタイトルに付けられていて、時代考証などもそれに合わしています。何気ない仕草や格好にもその時代を感じさせる工夫もあるようです。

月岡芳年 「風俗三十二相 かわゆらしさう(明治十年以来内室の風俗)」
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母子の仲睦まじい様子が描かれた1枚。このシリーズの中でも特に感情が表に出ているのではないかと思います。子供が可愛くて仕方ないという雰囲気が感じられ、子供もしっかり抱きついていますね。

この頃、「月百姿(つきのひゃくし)」という全100枚揃物のシリーズも手掛けています。(残念ながら写真が見つかりませんでした) 月と共に美人、役者、動物、武者、妖怪、伝説、歴史など様々なテーマが描かれていて正に月岡芳年の総決算とも言える代表作となっています。

月岡芳年 「雪月花の内・雪 尾上梅幸の岩倉の宗玄」
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こちらは晩年の1890年の作品で、歌舞伎の演目を描いた役者絵です。雪景色を背景に鋭い目つきと独特の髪型が何とも印象的。爪も長いしちょっと妖怪みたいに見えるけど、妖しい魅力がありますね。

月岡芳年 「芸妓図」
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最後にこちらは年代不明の肉筆画。非常にすらりとした印象を受け、画面外の左側にいる人と会話をしているような感じかな。肉筆においても艶っぽさは健在ですね。

晩年まで活躍した月岡芳年ですが、明治24年(1891年)に神経の病が再発し、54歳で亡くなってしまいました。晩年の作風が大好きなのでもうちょっと頑張って欲しかった…。

ということで、意外と写真が少なくて晩年に集中してしまいましたが、大好きな画家の1人です。数年に1度くらいの割合で個展も開催されるので、そうした機会には足を運んでいます。今後も開催されると思いますので、イチオシしたい画家です。

 参考記事:
  月岡芳年「月百姿」展 後期 (礫川浮世絵美術館)
  没後120年記念 月岡芳年 感想前編(太田記念美術館)
  没後120年記念 月岡芳年 感想後編(太田記念美術館)
  芳年-激動の時代を生きた鬼才浮世絵師 感想前編(練馬区立美術館)
  芳年-激動の時代を生きた鬼才浮世絵師 感想後編(練馬区立美術館)



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《ギュスターヴ・クールベ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、19世紀中盤頃に活躍した写実主義の画家ギュスターヴ・クールベを取り上げます。クールベの生きた時代は歴史画(宗教画)が最も権威があり、神話や聖人などを描くのが是とされていましたがクールベは「羽根の生えた天使なんて観たことが無い」と言って自然の風景や同時代の人物などを描き「レアリスム宣言」を行いました。また、歴史画にのみ許されていた大画面の作品に風景画を持ち込み、当時は存在しなかった個展を開催し、レズビアン達の裸体を描くなど様々な革新を起こし「反逆児」の異名で語られます。写実主義や同時代の事物を描くという姿勢は近代絵画の方向性として非常に重要で、後進の画家たちに決定的な影響を与えました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

クールベはスイス国境近い街で生まれ、神学校を出た後に父親の意向でソルボンヌ大学の法学部に入学していたそうです。絵画については新古典主義のダヴィッドの流れを組む画家フラジューロに師事していたというのが意外な所です。やがてパリに出て画家を目指し、アカデミーシュイスにも通い、ルーブル美術館で巨匠たちの古典を模写するようになったようです。

ギュスターヴ・クールベ 「Autoportrait au chien noir」
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こちらは1844年(25歳頃)の作品で、日本語にすると「黒い犬を連れた自画像」となります。1842年に描かれた後に1844年に修正され、同年のサロンで初入選しています。クールベのイメージのせいか、こちらを睥睨しているような表情に見えるかなw デビューとしてはかなり遅かったようですが自信家の雰囲気が出ているように思います。

クールベは1846年~47年頃にオランダやベルギーを旅行し、レンブラントやフランス・ハルスなども学んだようです。

ギュスターヴ・クールベ 「Les Amants dans la camagne, sentiments du jeune âge」
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こちらも1844年の作品で、日本語にすると「田舎の恋人、若かりし頃の気持ち」といった感じでしょうか。若い男女が寄り添っていて夢想的でロマンチックな雰囲気に思えます。この頃から現実的なものを描いていますが、若干後の時代の画風とは異なっているように思えます。

1849年にサロンに出品された「オルナンの食後」はドミニク・アングルやドラクロワに高い評価を得て、ドラクロワは「新人が出た、革命者が現れた」とまで絶賛しました。そのため、国家買い上げとなり それ以降のクールベ作品は無審査でサロンに出品できるようになったようです。

ギュスターヴ・クールベ 「Pompiers courant à un incendie」
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こちらは1851年の作品で、日本語にすると「火事に駆けつける消防士」となります。火事現場が目の前に広がるようなリアリティがあるけど、こんな場面を絵の題材にしているのはこれより前の時代にはあまり無いのでは?? 騒然とした中で割と無関係そうな男女がいたりするのも現実感ありますね。

この絵と同時期の1850~51年にサロンで「オルナンの埋葬」という大作を発表しますが、これはかなり批判されて問題作とされました。クールベの故郷オルナンでの葬儀の様子を描いたのですが、巨大なサイズのキャンバスは宗教画を描くのが一種のルールで それを破った上に 人物の身なりやポーズも現実的過ぎて絵画に相応しくないと考えられたようです。まあ当時主流の新古典主義のような神聖性も無ければロマン派のようなドラマチックな雰囲気も無いので、みすぼらしく観えたのかも知れません。しかし写実主義のスタイルを支持する人達もいて、新しい潮流となっていきました。ちなみに同時期に活躍した画家にバルビゾン派のミレーなどがいます。「種まく人」は「オルナンの埋葬」と同じ年の作品で、クールベと同様に社会の現実を描いています。

ギュスターヴ・クールベ 「Les Demoisellers des bords de la seine」
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こちらは1857年の作品で、日本語にすると「セーヌ河畔の若い娘たち」となります。昼寝しているようでこちらをチラっと観る仕草に色気を感じます。この2人は売春婦とされていて、ちょっと納得。同時代の女性の下着姿がけしからんと これも当時の批評家にはショックだったようです。

この2年前の1855年にパリ万国博覧会があり、アングルやドラクロワは華々しく特別室が設けられた訳ですが、クールベは「オルナンの埋葬」や「画家のアトリエ」などの出品を拒否されています。そこでクールベは板で作った個展会場を設けて自作を一般公開しました。入場者は少なく、観客の評判も芳しくなかったようですが、これが個展の発祥とされています。また、この個展の目録で「レアリスム宣言」を掲げ、「生きた芸術(アール・ヴィヴァン)を作りたい」とし、「芸術の世界は失望せり」と失意も漏らしています。こうして一見すると失敗に終わった個展ですが、マネを始めとした後進の画家たちを大いに刺激することになりました(サロンで拒否→自分で開催の流れはまんま印象派と同じですね)

ギュスターヴ・クールベ 「眠れる裸婦」
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こちらは1858年の作品。理想化されていない現実なのでしどけない雰囲気がw 裸婦が寝ている部屋を覗き見したような感じでしょうか。赤と緑の背景のせいか白いベッドと裸婦に存在感があるように思います。

この辺りから1860年代は特にエロティックで過激な作品が多いように思います。

ギュスターヴ・クールベ 「罠にかかった狐」
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こちらは1860年の作品。1860年代以降はこうした狩猟の光景を描いていて、次第に人気を博するようになっていきました。痛そうな狐のリアルな表情も見事ですが、パレットナイフを使って描いた雪の質感が大胆かつ緻密に感じられます。

クールベは動物・狩猟に関する作品も多く、国内でもよく目にする機会があります。クールベ自身の趣味が狩猟だったこともあり、臨場感が感じられます。

ギュスターヴ・クールベ 「Pierre-Joseph Proudhon et ses enfants en 1853」
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こちらは1865年の作品で、無政府主義の父とも呼ばれるピエール・ジョセフ・プルードンとその子供たちを描いています。やや悩ましげな感じがしますが、子どもたちは無邪気な感じ。実際にはこの人はナポレオンや国家を批判した罪で何度も投獄された後のようですが、割と穏やかな光景に思えるかな。親子の対比具合が面白い。

クールベ自身も政治的に左寄りで、晩年まで左翼活動にも従事しています。活動家からも一種のアイコンのようになっていたようで、絵画での反骨ぶりはそういう所から来ているのかも知れませんね。

ギュスターヴ・クールベ 「マドモアゼル・オーブ・ドゥ・ラ・オルド」
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こちらは1865年の作品。やや強い眼差しで端正な雰囲気で、古代風の髪型などと共に気品が感じられます。それでも理想化はしていない感じで、割とタッチは粗めかな。

クールベは「女神がお望みならまずそれを連れて来て欲しい」と言っていたようで、目に見えないものは描かないという主義でした。クールベの作風が詰まったような名言です。

ギュスターヴ・クールベ 「Le Sommeil」
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こちらは1866年の作品で、邦題は「眠り」「2人の友達同士」「怠惰と情欲」などと呼ばれるようです。レズビアンの裸婦を描いたもので、LGBTが活発に議論されるようになった昨今においても過激な題材に思えます。身をくねらせて密着する様子が何ともw

この他にも「世界の起源」という女性器を大写しにした作品などエロティックで挑戦的な絵をいくつか残しています。裸婦は美しく神聖に描いていた前時代とは真逆のアプローチで、スキャンダラスな過激さが特徴となっています。

ギュスターヴ・クールベ 「肌ぬぎの女」
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こちらは1867年の作品。もう過激さに慣れて この位なんてこと無く思えますねw 詳しいことは分かりませんがやつれた感じもして娼婦でしょうか。クールベの女性像は内面性も滲み出ているように思えます。

ギュスターヴ・クールベ 「La sieste pendant la saison des foins」
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こちらは1868年の作品で、日本語にすると「干し草の季節の昼寝」となります。のんびりした光景が広がり、色合いも爽やかです。クールベの風景画は当時の暮らしを感じさせるものが多いかも。

ギュスターヴ・クールベ 「もの思うジプシー女」
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こちらは1869年の作品。じっと物思いに耽っていて神秘性を感じます。女性の周りだけモヤッと白くなっているので非常に目を引きますね。

ギュスターヴ・クールベ 「波、夕暮れにうねる海」
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こちらも1869年の作品で、クールベがよく描いた波をモチーフにしています。エトルタの海の波で、力強く波濤の音まで聞こえそうなほどのリアリティです。クールベは葛飾北斎の「富岳三十六景」(1835年)の荒波の表現に強く揺さぶられたとも言われ、この絵でもその影響が伺えるようです。一方、近代絵画の父と呼ばれるセザンヌは、パレットナイフで厚塗りする技法をクールベから影響を受けたとされます。この波の絵1枚にも絵画の歴史が込められているんですね。

クールベは山育ちだったので、海は長い間 未知の世界だったようです。1860年代後半から海をテーマにした作品に本格的に取り掛かっています。1869年の夏に訪れたエトルタは英仏海峡に面したノルマンディーの小さな漁村で、エトルタの断崖は後にモネなども描いています。

ギュスターヴ・クールベ 「波」
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こちらは1870年の作品。さっきの作品とそっくりですが、似たような絵は結構あります。絵筆とペインティングナイフで質感を描き分けていて、波の崩れる一瞬を見事にあらわしています。空模様も臨場感あって実際に目の当たりにしているような感じですね。

クールベは1870年に起きたパリ・コミューンに参加し、ヴァンドーム広場の円柱破壊事件の責任を問われて逮捕されました。(本人は壊すのではなく移動を提案していたようです。参加も一時的だったので罪は比較的軽めでした) 1872年には出所したものの支払不能な円柱再建費用を請求されるのを避けて1873年にスイスに亡命しています。

ギュスターヴ・クールベ 「狩猟者のいる風景」
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これは1873年のスイス亡命直前に故郷オルナンを描いたもので、明るく豊かな自然の風景となっています。2頭の鹿とそれを狙うハンターの姿に緊張感がありますが、爽やかな印象のほうが強いかな。とても亡命するような状況で描かれたとは思えないくらい平和な光景です。

ギュスターヴ・クールベ 「馬小屋」
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最後に同じく1873年の作品。馬が草を食む様子が長閑です。クールベの自然や動物を描いた作品は普遍的なものを感じますね。

クールベは1877年に亡命先のスイスで亡くなりました。時代を切り開いた芸術家だっただけに批判も多く、まさに反逆児と言える生涯でした。


ということで、当時は軋轢が多く数多くの困難がありましたが、それ故に多くの革新を起こし今となっては非常に重要な画家となっています。国内でも観る機会が多い画家なので、その業績を詳しく知っておくと一層に楽しめると思います。


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《歌川広重》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、19世紀前半から中頃にかけて活躍した浮世絵師 歌川広重を取り上げます。歌川広重の本名は安藤重右衛門で、以前は安藤広重という表記もありましたが姓と画号の組み合わせとなるので最近は見かけなくなりました。歌川広重と言えば東海道五拾三次のシリーズが有名ですが、東海道五拾三次だけでも保永堂版、行書版、隷書版という図柄の異なるシリーズが3種類あり、東海道を題材とした揃い物を生涯に20種類以上制作したと言われます。また、木曽街道六拾九次や六十余州名所図会、名所江戸百景といった他のシリーズも合わせると作品数はかなりの数になります。東海道五十三次のシリーズ以降は当時から人気があり、海外にも陶器の梱包材などの形で輸出され ゴッホを始め西洋近代絵画にも大きな影響を与えました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

歌川広重は火消しの家に生まれ、12歳の頃には父の跡を継いで火消しになっています。しかし浮世絵師を目指し広重は14歳の頃に初代歌川豊国への入門を希望したものの、満員のため断られて その弟弟子にあたる歌川豊広に師事しました。初期は火消しを本業としながら浮世絵師としても活動し、美人画や役者絵、挿絵などを制作していたようですが、20年くらいの間あまり売れなかったようです。そして1831年頃に葛飾北斎が「冨嶽三十六景」のシリーズを発表すると、広重も同時期に「東都名所」と「本朝名所」を刊行しました。

歌川広重 「東都名所・金龍山雪景」
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こちらは1831~32年頃の作品で、広重が最初に出した風景画シリーズとなります。この頃の号は一幽斎廣重だったので、一幽斎描きとも呼ばれます。金龍山というのは浅草寺のことで、こんな雪なのに傘をさした人や参拝客で凄い賑わいで、静かな光景と対照的なのが面白い。一方、色はまだ地味な印象ですね。そのせいか、このシリーズはそれほど売れなかったようですw

1832年に養祖父の嫡子が元服したので火消しの職を譲り、絵師に専念するようになりました。号も一立齋に改めています。

歌川広重 「保永堂版 東海道五拾三次之内・日本橋 朝の景」
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こちらは1833年~34年頃に出版された最大のヒット作で出世作となるシリーズです。江戸から京都への街道の出発点となる日本橋の朝の様子が描かれ、橋を渡ってくる人や橋の袂で天秤を担ぐ人など、活気が伝わってきます。ちなみにこのシリーズは同じ絵でも摺りによって図像が異なってきます。例えばこの作品では上部に雲が描かれているのは、初期の摺りで、後の刷りでは省略されていきます。他にも様々な部分が変わるので、それで版が分かったりするようです。

東海道五拾三次のシリーズは1833年に版元の保永堂[ほえいどう](竹内孫八)と僊鶴堂 [せんかくどう](鶴屋喜右衛門)から共同出版され、後に保永堂単独の出版となりました。広重の代表作と言える大ヒット作となり、広重は生涯に20種類以上の東海道ものを制作したようです。1840年に丸屋清次郎の寿鶴堂[じゅかくどう]から出版された「東海道」もその中の1つで、画中の題が隷書体(れいしょたい)で書かれていることから隷書版東海道と呼ばれるそうです。(さらに行書版(江崎屋版・行書版・行書東海道)と呼ばれる東海道もあります)

歌川広重 「保永堂版 東海道五拾三次之内・亀山 雪晴」
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こちらも保永堂版で、三重県亀山あたりの山を大名行列が行進する様子が描かれています。輝くような白さが朝の清々しさを感じさせますね。空に使われているのはベロ藍じゃないかな。構図の面白さも広重の特徴となっています。

広重は雪や雨をよく題材にしていて、数あるシリーズの中で「東海道五拾三次 庄野・白雨」が最高傑作と呼ばれています。私はそれに劣らぬ人気の「東海道五拾三次 蒲原・夜之雪」が一番好きです。叙情性豊かな作品ばかりです。

歌川広重 「江都名所・両国橋納涼」
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こちらは1834年頃のシリーズ。画面を覆うような橋と橋桁が面白い構図を生み出しています。大勢で花火を見学しているのかな。夏の情緒も漂い季節を感じます。

冒頭に書いたように広重は東海道五十三次以外にも様々な風景シリーズを出しています。展覧会では東海道五十三次ばかり紹介されるので、今回はそれ以外の作品を多めにしてみました。

歌川広重 「木曽街道六拾九次之内 高宮」
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こちらは1835~1837年頃のシリーズ。広々とした遠近感で、山の青も鮮やかです。手前の2人が何やら背負っているのが気になりますが、中には名物の高宮布が入っているのでは?と考えられています。のんびりした平和な感じが微笑ましい。

歌川広重 「江戸近郊八景之内・飛鳥山暮雪」
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こちらは1838年頃の8枚揃えのシリーズのうちの1枚。見た目は代表作である東海道五十三次の「雪の蒲原」を思わせます。飛鳥山はお花見のイメージだけど、雪も風情がありますね。どこか寂しげな感じがとても好み。

歌川広重 「江戸名所三ツの眺・日本橋雪晴」
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こちらは1843年の作品。雪の後に晴れた清々しい雰囲気を感じます。俯瞰するような構図も開放感がありますね。

歌川広重 「薔薇に狗子」
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こちらは年代不明の作品。絵柄的にはもっと前の時代かもしれません。この作品は題材的にも円山応挙を彷彿とさせるコロコロした犬が描かれていて可愛らしい。広重は風景画だけでなく花鳥画も残していて、花鳥画では四条派の影響を受けたとされています。

広重は1848年~1854年頃に山形の天童藩からの依頼で肉筆画も描いていて、それらは天童広重と呼ばれていています。当時の天童藩は財政難で十年年賦という地方債のようなものを出していて、その満了期に近づくと広重の絵を渡して慰労と新たな10年の上納の契約をさせていたそうです。こうして描かれた広重の作品は円山応挙や松村景之ら四条派の描写を学んだ形跡が観られるとのことで、四条派は広重のルーツの1つと言えそうです。

歌川広重 「井の頭の池弁財天の社雪の景」
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こちらも年代不明の作品。井の頭公園にある弁財天の雪景色を描いていて、しんしんと雪が降り積もる情感溢れる光景です。手前の笠の人や足跡がとても良いアクセント。

歌川広重 「六十余州名所図会・越中 富山船橋」
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こちらは1853年~56年のシリーズ。構図や題材が面白く、その名の通り船で橋ができていてカーブを描いています。まるで空へと登っていくようでリズムを感じます。

六十余州名所図会は五畿七道の68ヶ国と江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69枚に、目録1枚を加えた全70枚からなる名所図会です。これも中々の名作揃い。

歌川広重 「六十余州名所図会・甲斐 さるはし」
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こちらも六十余州名所図会。甲斐の猿橋の様子を描いていて、渓流の上の橋を行く人々の姿も観られます。色鮮やかで絶景が目の前に広がるような傑作です。

葛飾北斎も1833~34年に諸國名橋奇覧という日本の様々な橋を描いたシリーズを描いています。歌川広重は葛飾北斎に対してライバル心を持ちつつ学んでいる部分もあったと思われます。ちなみに葛飾北斎も東海道五十三次を描いたシリーズがあるのですが、あまり知られてないかも。それぞれ得意分野が違って個性的ですね。

歌川広重 「東都名所年中行事 八月 向じま花屋敷秋の花ぞの」
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こちらは1855年頃の作品。秋の七草が咲く庭園と、それを眺める美人が描かれています。今の百花園かな?? 美人画はそれほど上手いとは思えませんが秋の風情が漂っています。

歌川広重 「有掛絵 奴姿の福助」
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こちらは1855年頃(?)の作品で、ちょっとキモ可愛い福助!w 福助は寛政年間(1789~1801年)に人形が売り出され、1804年頃に江戸で流行したそうです。何だか楽しそうな顔をしていて憎めません。デフォルメぶりが漫画みたいw

歌川広重 「名所江戸百景・鎧の渡し小網町」
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こちらは晩年の集大成とも言える1856~1858年のシリーズ。蔵がずら~~~っと並んで壮観な光景となっています。遠近感とリズム感があって面白い構図で、左に突き出た舳先みたいなのも大胆で驚かされます。

このシリーズの「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」はゴッホが模写したことでも有名です。構図や動きの斬新さは西洋でも驚かれたようです。

歌川広重 「名所江戸百景・浅草田甫 酉の町詣」
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こちらも猫好きの間では有名な作品かも。 外をじっと観ている猫の仕草が可愛らしく、何とも猫らしいw 空の色合いも清々しい傑作です。

歌川広重 「名所江戸百景・高輪うしまち」
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こちらは円と直線の幾何学的な構成が面白い作品。犬がワラジをほぐして遊ぶ様子も可愛いですね。歌川広重の作品には犬もよく出てきます。

歌川広重 「びくにはし雪中」
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こちらは亡くなった1858年に出版された作品で、襲名者で弟子の二代目広重による作品とされることもあります。(諸説あり) どちらか判明しづらいほど二代目も凄い腕だったんでしょうね。 タイトルの「びくに橋」は現在の有楽町付近にあった橋の名前で、画中の「山くじら」はイノシシの肉のことだそうです。その向かいの「十三里」というのはサツマイモ屋で、「栗より美味い」と「九里+四里」をかけて十三里としているのが面白いです。風情もあり洒落も効いている作品です。

歌川広重 「東都御殿山・真乳山図」
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こちらは年代不明の肉筆の掛け軸。寒さと清新な雰囲気を感じます。浮世絵と違って淡くてやや南画っぽさを感じます。

歌川広重 「御馬献上行列図」
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こちらも年代不明の肉筆。行列の様子。行列が大木の脇をぐるっと回ってくる動きを感じ、奥に富士が見えると言うのも面白い構成となっています。肉筆でも当時の風俗の様子を生き生きと描いているのは変わりませんね。

歌川広重 「富嶽図」
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最後にこちらも年代不明の肉筆。手前の茂みに隠れて舟の姿があり、雄大な富士山がそびえています。近景・中景・遠景の光景が並んでいるので奥行きと広々した雰囲気を感じます。こうした広重の風景画は日本人の心象風景のように思えます。


ということで、歌川広重は数多くの作品を残し、特に風景画において評価が高くなっています。特別展では東海道五十三次の保永堂版ばかりが紹介されますが、東博の常設などでそれ以外の魅力的な作品を観ることができます。よく目にする機会があるのでとても馴染みやすい画家だと思います。

 参考記事:
  浮世絵入門 -広重《東海道五十三次》一挙公開- (山種美術館)
  広重と北斎の東海道五十三次と浮世絵名品展 (うらわ美術館)
  殿様も犬も旅した 広重・東海道五拾三次-保永堂版・隷書版を中心に- (サントリー美術館)


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《ウジェーヌ・ドラクロワ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、19世紀前半から中頃にかけて活躍したロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ(フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ)を取り上げます。ドラクロワが活躍した時代はダヴィッドやアングルといった新古典主義の系譜が画壇の中心でしたが、この頃から美術だけでなく音楽や文学においてもロマン主義(ロマン派)が台頭し、ドラクロワはその代表格とされます。ドラクロワの一番の特徴は同時代の歴史的な出来事を歴史画風に描いた点で、1822年にキオス島で起きた虐殺をテーマにした「キオス島の虐殺」や、1830年の七月革命を題材にした「民衆を導く自由の女神」などが代表作として挙げられます。また、1832年からはアルジェリアやモロッコを旅行し、異国情緒を取り入れた作品なども残しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

ウジェーヌ・ドラクロワは1798年にパリで外交官(実の父は有力な政治家という説が有力)の子として生まれ、17歳の頃から新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲランに師事しました。そのため初期はアカデミックな画風だったようでルーベンスやラファエロに影響を受けていたようです。しかし同門でロマン派の先駆者となるテオドール・ジェリコーの作品に触発されるようになり、1822年に『神曲』から着想を得た「ダンテの小舟」という作品でサロンにデビューしました。この作品はかなり批判されたようですが、新古典主義の先輩画家であるジャン・グロが強力に推薦してくれたようです。

ウジェーヌ・ドラクロワ 「Nu assis, dit Mademoiselle Rose(マドモアゼル・ローズ)」
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こちらはサロンデビュー間もない1824年頃の作品。イギリスのロマン派の画家リチャード・パークス・ボニントンと共にモデルに向かって描いていたようで、モデルは2人のために何度もポーズを変えていたそうです。もうこの頃から粗目の筆致に見えるかな。ちょっと不安そうな顔が内面性を感じさせます。

これを描いた年に代表作となる「キオス島の虐殺」をサロンに出品しました。これは1820年から始まったトルコ軍のギリシャ侵攻によって1万人の人々が虐殺された事件を描いたもので、怒りや悲しみを叩きつけたような作品となり、この頃ちょうど敬愛するジェリコーが落馬で亡くなっているので、その悲しみも背景にあったのかも知れません。ジャン・グロには「これは絵画の虐殺だ」と酷評されたものの、新しいロマン派の代表画家として評価する者もいて、作品は国に購入されました。(親類・縁者のコネが強いのも後押ししたようです)

ウジェーヌ・ドラクロワ 「民衆を導く自由の女神」
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こちらは一番有名な1830年の作品で、同年に起きたフランス7月革命を主題としています。実際の事件を描いているのでリアリティがありつつ、「自由」「平等」「博愛」の擬人化である女性(マリアンヌ)など比喩的な表現も使われています。後ろのシルクハットの人物はドラクロワ自身という説もあるようです。こういう劇的で感情を鼓舞するような場面や、激しいタッチで強い色彩を用いている点などが新古典主義とは大きな違いとなっていて、ドラクロワはロマン派の代表として名をあげました。

ちなみにロマン派はそれまでの伝統や合理主義などに対して感情表現や神秘性といったものを取り入れたのが特徴とも言えますが一概にそうでもない所もあり、定義が難しいところです。山田五郎 氏が言っていた「古典主義に対して何でも反抗したので統一性はない」というのが一番スッキリ来る定義かもしれませんw 

ウジェーヌ・ドラクロワ 「シビュラと黄金の小枝(女預言者と黄金の小枝)」
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これは1838年の作品で、1845年のサロンに出品されました。叙事詩『アエネイス』に基づいた話で、アポロの巫女の女預言者シビュラが冥界に向かうアエネイスに、冥界の女王プロセルピナへの供物として黄金の小枝を探すように言い、指さしてその場所を教えているシーンです。鑑賞している人がアエネイスになったような視線になっているのが面白い構図となっています。当時の書簡によると、ドラクロワ自身が「金の枝を手に入れた」という想いを込めてこの作品を描いたとされていて、真なる芸術の領域を達し超えたと感じていたとも考えられるようです。

この作品を描く前の1832年にアルジェリアやモロッコを旅行し、1830年代末は古代のモデルという問題に心を砕いていたようです。異国情緒や神秘性を感じる作品はこの頃から多いように思います。また、詩人のバイロンやシェイクスピアに着想を得た作品なども残しています。

ウジェーヌ・ドラクロワ 「聖母の教育」
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こちらは1852年の作品で、聖母マリアの母アンナがマリアに旧約聖書の読み方を教えている場面が描かれています。この作品はかなり穏やかな雰囲気で、犬もいてのんびりした光景です。劇的な代表作とはだいぶ違っていますが、ここでも筆致は粗目で色彩豊かなのが面白い所だと思います。ちなみにこの10年前にドラクロワは女流作家のジョルジュ・サンドの別荘に滞在し、使用人とその娘をモデルにこの絵と同様の主題で描いています。サンドの恋人は作曲家のショパンでドラクロワとも友人だったようです。ちょうどこの絵もショパンの曲のような穏やかな印象ですね。

1855年のパリ万博で、ドラクロワはアングルと共に特別室を与えられて36点の油彩画を出品しました(先程のシビュラもそのうちの1点です) 2人はライバル関係と言った所ですが、アングルとしては比較されるのも嫌だったようですw

ウジェーヌ・ドラクロワ 「墓に運ばれるキリスト」
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こちらは1859年の作品で洞窟のようなところで、3人の男性に持ち上げられて更に深い地下へと運ばれるキリストを描いた作品です。シャベルと共にたいまつを持った人の周りや、洞窟の入口付近からもれる光などによって、光によって人々に微妙な影が落ちています。この作品は尊敬していたレンブラントに影響を受けていると指摘され、深い宗教性と友人に先立たれたドラクロワの悲しみの内面性が表されているようです。題材自体に悲しみを感じますね。

ドラクロワは1857年にアカデミーの会員になりました。1830年以降にブルボン宮やリュクサンブール宮などの大規模な装飾事業を手掛けていたのにこの頃まで会員ではなかったのが意外です。

ウジェーヌ・ドラクロワ 「海からあがる馬」のレプリカ
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こちらは1860年の作品で、モロッコに行った際のスケッチと馬を組み合わせて描いています。ターバンを巻いていて異国情緒があるし、躍動感ある姿勢がドラクロワならではのドラマチックな感じです。筆致も素早く、この後の時代の近代絵画の到来を感じさせますね。

ドラクロワは体調を崩し1859年以後は引きこもりがちになっていきました。そして1863年に亡くなっています。

ウジェーヌ・ドラクロワ 「ケレスを讃えて」
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こちらは年代不明の作品で、これまではパリ市庁舎の天井画習作とされてきましたが、現在ではドラクロワの死後の1866年頃の天井画のために弟子のアンドリウが描いたのではないかとされています。私には判別はつきませんが、大勢の人間が様々なポーズを取っているのは往年のドラクロワを思わせるものがあるように思えます。

ドラクロワの弟子と言って良いか分かりませんが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌも短期間ですがドラクロワに師事しています。また、ドラクロワは死後も近代の画家たちに大きな影響を与えました。色彩表現の重視によってその後の印象派に繋がる流れができ、ゴッホもドラクロワの色彩理論を学んでいます。描写についても個人の感性を重視した作品を描いたのも近代的に思えます。さらに新印象主義のシニャックは1899年に「ウジェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで」を刊行し、分割主義を理論的に体系づけ、やがてこの本は広く読み継がれ抽象絵画の創設にも大きな役割を果たしています。そう考えるとドラクロワは近代絵画の始祖の1人とも言えそうです。

ということで、ドラクロワも革命的な画家だと思います。日本ではまとめて紹介される機会はほぼ無く、名品展や海外の大型美術館展などで数点観られるといった感じです。しかし絵画の歴史の流れを知る上でも重要だと思いますので、覚えておきたい画家です。



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《葛飾北斎》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、18世紀末から19世紀後半にかけて活躍した日本を代表する画家である葛飾北斎を取り上げます。葛飾北斎は46~50歳頃の画号にすぎず 画風も画号もコロコロ変え(30回もしくは50回の説あり)、ありとあらゆるものを描いたことで知られています。その影響力は絶大で、日本のみならずジャポニスムの一端として印象派やナビ派など西洋美術にも影響を及ぼしました。過去に撮った写真もかなりあるので、デビュー当時の勝川春朗時代、琳派の宗理時代、読本挿絵に力を入れた葛飾北斎・戴斗の時代、冨嶽三十六景など錦絵を手掛けた為一の時代、晩年の画狂老人卍の時代 といった感じで時代の変遷とともにご紹介していこうと思います。


まずはデビュー期です。後に葛飾北斎となる幼名:時太郎は1760年に江戸に生まれ、家は有名な赤穂浪士の討ち入りの際に吉良上野介を護って死んだ家臣の子孫とされています。6歳の頃から絵を描き始め12歳のときには貸本屋で働くようになり、14歳で版木彫りの仕事をするようになりました。そして19歳の頃に勝川春章に入門し、勝川春朗の号を授けられてデビューしました。その後15年ほど様々な題材を描いていましたが、1792年に師が没すると叢春朗(くさむらしゅんろう)を用いて画風も変化していきます。

葛飾北斎 「四代目岩井半四郎 かしく」のレプリカ
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こちらは1779年の初期の作品。勝川春章に入門して翌年の錦絵デビュー作の1枚とされています。勝川派は役者を似顔で描くことで人気を博した流派で、初期の北斎も丁寧に役者に似せて描いていた様子が伺えます。割と師匠の作風にも近いかな。

勝川派で学んでいた頃から他の流派からも積極的に学んでいて、それが破門の原因の1つになっています。また、勝川派にいた頃、兄弟子に絵の拙さについて からかわれて絵を破り捨てられたことがあったそうで、それに奮起したことで絵が上達したと後に語っています。(兄弟子との不仲も勝川派を離脱した一因のようです…。) 勝川派の中堅になっても生活は苦しかったようで、唐辛子や暦を売る副業で生活していたなんてエピソードもあります。


続いては主に「宗理」を名乗っていた時期です。勝川春章が亡くなると1794年に勝川派から離脱し、江戸琳派の棟梁となり「宗理」の名を受け継いで画風が一気に変わりました。この時期は浮世絵制作は減り、摺物へと軸足を移していて肉筆も多く手がけて様々な描法を用いているようです。特に瓜実顔の女性は「宗理風」と呼ばれるスタイルとしてこの時期を代表する画風となっています。

葛飾北斎 「新板浮絵忠臣蔵 第十一段目」
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こちらは1800~04年頃の仮名手本忠臣蔵の討ち入りの場面を描いた作品。由良之助らが高師直の屋敷に討ち入り戦っています。歌舞伎などで当時から人気があったようです。

1798年には宗理の画号を門人の宗二に譲り、琳派から独立して「北斎辰正」へと改号、さらに「画狂人北斎」へと次々に号を変えています。

葛飾北斎 「見立富士の巻狩」
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こちらは1803年に描かれた源頼朝の巻狩を七福神が行っているように見立てた作品。大黒天が新田四郎の役になってイノシシに乗って、打ち出の小槌で尻尾を切ろうとしていたり、何だか楽しげな雰囲気で縁起の良い作品となっています。富士山が枠からはみ出すような趣向も面白い。

宗理様式の作画は1805年ころまで続いたようで、この時期には西洋風の画風も取り込んだりしていました。

葛飾北斎 「賀奈川沖本杢之図」のレプリカ
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こちらは1804~07年頃の作品で、洋風の風景版画シリーズの1枚です。現在の横浜の本牧あたりの光景のようで、うねる大波を表しています。何だか有名な「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を想起させますね。このデフォルメぶりは琳派からの影響もあるのかも。遠近感は西洋からの影響と思われ、この時期には他にも同様に遠近法が使われたものや緻密で写実的な西洋風の作品などもあります。

1805年に葛飾北斎を名乗った頃は読本挿絵に注力して大きく貢献したようで、曲亭馬琴と共に『新編水滸画伝』や『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』などで読者を引きつけ、読本挿絵の第一人者と認識されました。 この時期は中国絵画の影響を受けて豪快で大胆な画風となっている一方、洋風の風景版画や肉筆画も多く手がけていたようで、晩年の北斎の基盤となった時代とも言えそうです。

著:六樹園飯盛 画:葛飾北斎 「飛騨匠物語」のレプリカ
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こちらは1809年の読本の挿絵。著者は国学者や狂歌師でもあった人物で、この読本の内容は飛騨の名工を中心に悲恋や奇異をテーマにしているようです。北斎は単なる挿絵でなく芸術に押し上げている訳ですが、プライドの高さからちょっと問題も起こしますw

この頃、葛飾北斎は曲亭馬琴(北斎と袂別後に南総里見八犬伝を書いた滝沢馬琴)とのコンビで人気を博していたのですが、曲亭馬琴の指示に従わない挿絵を描くことがしばしばあったようで、ある時 草履を咥えた人物を描くようにとの指示を鼻で笑って取り合わず、それが原因で絶交になったというエピソードがあります。 また、この頃の北斎は席画(宴会とかで即興で描く絵)でも有名だったらしく、将軍に招かれてパフォーマンスをしたようです。足の裏に朱を塗った鶏を紙の上に歩かせて、竜田川のモミジでござい と言ったのだとかw 相手が大作家であれ将軍であれ、誰に対しても臆することない人物だったんでしょうね。

続いては「戴斗」を名乗っていた時期です。1810年~1819年まで戴斗の号を用いていて、門人の増えた北斎はこの時期は読本から遠ざかり様々な絵手本を発表しています。特に『北斎漫画』は死後の明治時代まで15版も作られ、日本のみならず海外にも大きな影響を与えました。

葛飾北斎 「略画早指南」のレプリカ
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こちらは前編で1812年頃(後編は1814年頃)に出された絵手本です。前編では丸と直線で絵を描く方法を指南をしていて、まるでセザンヌやキュビスムを先取りしたような理論となっています。北斎の影響力は西洋にも絶大だったので、西洋の近代画家たちもこの本を観てたんじゃないかなあ。発想も天才的でユーモアがありますね。

こうした絵手本は自身の門下や私淑(直接の教えを受けていないが、敬意を持って学ぶこと)する者たちに自らの画風を広めようと考えて作ったようです。

葛飾北斎 「北斎漫画」
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こちらは初版は1814年ですが、死後も1878年(明治11年)の第15編まで出版されました。このページだけでも色々描かれていますが、初編から15編までで凡そ3900の図があると言われていて、各編ごとに特色もあります(特色は下記の記事を参照ください) 実に生き生きとしていて、こんなものまで描くの?ってものまで幅広く扱っているのが魅力です。
 参考記事:浦上コレクション 北斎漫画:驚異の眼、驚異の筆 (うらわ美術館)

葛飾北斎 「羅漢図」
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こちらは肉筆で「戴斗」の署名から北斎50代後半(1810年代後半)頃の作品とされています。掲げた鉢から煙のようなものが立ち上がり、雲か龍を思わせますね。上の方に赤い稲光らしきものが光っています。この作品によく似た図が北斎漫画の2編に「半諾迦尊者」として収録されているのだとか。

この時期にも数少ないものの版画や肉筆も手がけていたようです。


続いては北斎の中でも最も有名な作品が作られた為一(いいつ)の時期です。1820年(61歳)の頃から為一の号を使い始め、為一期は大きく前期と後期に分けられます。前期は1820年~30年頃で、狂歌摺物の連作などを手がけています。一方、後期は1830~34年という短い期間に「富嶽三十六景」や「諸国瀧廻り」といった代表作を制作しました。


葛飾北斎 「冨嶽三十六景・東都浅草本願寺」
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まずは1831~34年の代表作「冨嶽三十六景」 北斎は、こんな構図どうやったら思いつくんだろう?という天才的な作品が多いですが、これも何処からの視点なのか不思議です。富士と屋根の三角が呼応していて面白い。

それまで浮世絵には風景画が無かったのですが、冨嶽三十六景の大ヒットで浮世絵に風景画というジャンルが生まれたほどの影響力があったようです。

葛飾北斎 葛飾北斎 「冨嶽三十六景・武州玉川」
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非常に摺りと状態が良く、「ベロ藍」が美しい逸品。構図もリズムがあってこのシリーズでも好きな作品です。

ベロ藍というのは「ベルリンの藍」の略で、ベルリンの染色職人が作り出した青い人工顔料です。これは江戸時代でも輸入されていて、冨嶽三十六景はベロ藍を使っているので青が非常に綺麗に出ています。ちなみに日本で一番最初にベロ藍を使ったのは伊藤若冲の「動植綵絵」とされています。

葛飾北斎 「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」
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恐らく世界的には日本画で一番有名なのはこの作品だと思われます。パスポートや2024年からの新千円札に使われるらしいので、日本人で知らない人はいないと思います。それだけ語り尽くされた名作ですが、このリズム感や迫力は北斎の凄さが凝縮されていますね。

「神奈川沖浪裏」をオマージュした作品は数知れずあります。ちょっと面白いところでは音楽の印象派と呼ばれるドビュッシーの「海」の楽譜の表紙にも引用されました。絵画だけでなく音楽の世界にも影響を与えたとは恐るべし。
 参考記事:ドビュッシー 、音楽と美術ー印象派と象徴派のあいだで 感想後編(ブリヂストン美術館)

葛飾北斎 「冨嶽三十六景・駿州江尻」
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曲がりくねって奥に続く道や 強風で身をかがめる人々など臨場感溢れる作品。ちぎれ飛ぶ紙で風の強さまで伝わってきます。これも特に好きな1枚です。

北斎は単なる名所の風景のみならず、波や風など 形にするのが難しい自然現象を描くことを試行錯誤していたそうです。この作品はそれが非常に感じられますね。

葛飾北斎 「冨嶽三十六景・凱風快晴」
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こちらも赤富士の愛称で知られる代表作。神奈川沖浪裏と山下白雨と合わせて三大役物と呼ばれたりもします。凱風(南風)が吹き渡り うろこ雲が秋の到来を感じさせますね。

北斎に傾倒した19世紀後半のフランス画家アンリ・リヴィエールは「エッフェル塔三十六景」という連作版画を作っています。北斎の洒落の効いた構図なども上手く取り入れてリヴィエール自身の構図として昇華した傑作です。
 参考記事:北斎とリヴィエール 三十六景の競演 (ニューオータニ美術館)

葛飾北斎 「百物語・皿やしき」
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こちらは1831~32年頃に描かれた妖怪をテーマにしたシリーズ。恐ろしくも首が皿になっている辺りに機知を感じさせます。

このシリーズにはもっと恐ろしい「百物語 笑ひはんにや」などもあります。子供が観たらトラウマになるレベルw

葛飾北斎 「雪月花 隅田」
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こちらは1833年の雪月花を描いたシリーズのうちの雪で、隅田川沿いの景色となっています。人の姿はあるけど時が止まったような静寂の世界となっていますね。それにしてもこれは何処からの視点なのか気になります。

北斎は「三つわり法」という構図をよく用いました。これは西洋の「一点透視法」とも違った独自のもので、地を画面の1/3、空を2/3で表すことで安定感を出すようです。(この絵だと逆に地が2/3かなw)

葛飾北斎 「諸國名橋奇覧・飛越の堺つりはし」
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こちらは1833~34年頃の日本の橋を描いたシリーズで現存が確認されるのは11図となっています。冨嶽三十六景と同時期だけに構図の斬新さや色合い、テーマなど似た感じになっていると思います。版元も同じ西村屋与八(永寿堂)なので、クオリティの高いシリーズです。

最後は晩年についてです。1834年に富士図を題材として「富嶽百景」を出版し、この巻末で「画狂老人卍」の号を用いてさらなる画技の向上を表明しています。最晩年には版画から遠ざかり、肉筆画に力を注いだようで、風俗画はほとんど描かず動物・植物・宗教などを題材にしていました。

葛飾北斎 「朱描鍾馗図」のレプリカ
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こちらは1846年の作品。全体的に赤みがかった鍾馗で、陰影があるためか立体感が感じられます。特に顔は影が表情を作っている感じ。これを描いた当時、疱瘡が流行っていて赤いものが効くという俗信があったためこうした絵を描いたのだとか。87歳とは思えないほどエネルギッシュな作品です。

北斎はお金に困ると画号を弟子に売ったりしていました。また、生涯に93回の転居をしていて、掃除が面倒で引っ越しをしたこともあったそうですw 画家になった娘の葛飾応為(阿栄)の画号は北斎が「おーい」」と呼んでたから…なんて説もあるくらいで、色々と無頓着です。

葛飾北斎 「弘法大師修法図」のポスター
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最後にこちらは1844~47年頃の西新井大師に伝わる大型の絵馬です。これは弘法大師が西新井で流行の疫病を鎮めた逸話を元にしているようで、この鬼は病魔と思われます。コロナで揺れる今だからこそ知っておきたい作品です。

葛飾北斎は90歳で亡くなりました。亡くなる直前に「あと5年、天が命をくれたら本当の絵描きになることができるだろう」と言っていたそうで、最後まで飽くことなく画業を極めようとしていました。


ということで、誰もが知っている葛飾北斎ですが全容を知ろうとするとかなり大変ですw とにかく仕事の量が半端なく研究熱と行動力が凄い! このエネルギーが日本史上最高の画家になった理由でしょうね。展覧会も頻繁に行われますので、機会があったらチェックしてみてください。


 参考記事:
  浦上コレクション 北斎漫画:驚異の眼、驚異の筆 (うらわ美術館)
  北斎とジャポニスム―HOKUSAIが西洋に与えた衝撃 (国立西洋美術館)
  新・北斎展 HOKUSAI UPDATED 感想前編(森アーツセンターギャラリー)
  新・北斎展 HOKUSAI UPDATED 感想後編(森アーツセンターギャラリー)
  すみだ北斎美術館の案内 (常設 2017年12月)


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