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《古代アンデス文明》 テーマ別紹介

今日はテーマ別紹介で、古代アンデス文明について取り上げます。アンデス文明と一口に言ってもその歴史は長く 地域も広いわけですが、15000年~13000年ほど前に南北アメリカに人類が入って5000年前頃から先土器時代が始まり、3500年頃前の先土器時代後期には農業に基づく定住生活となり社会と政治が複雑になっていきました。5000年前の紀元前3000年~2500年にはカラル遺跡など大規模な神殿も現れ、この頃から各地に祭祀センターが発達し、その後何千年もの間も保たれました。今回は2017年の国立科学博物館での古代アンデス文明展を再編集する形で、先土器時代、チャビン文明、モチェ文明、ナスカ文明、ティワナク文化、ワリ文化、シカン文化、チムー文化、インカ文化といったアンデス文明全体の流れをダイジェスト的にご紹介しようと思います。

 参考記事:
  古代アンデス文明展 前編(国立科学博物館)
  古代アンデス文明展 後編(国立科学博物館)

こちらはざっくりとしたアンデス文明の流れ
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時系列で観ると、B.C.3000年頃からカラル文化、B.C.1000年前後にチャビン文化、紀元頃からナスカが始まり、その後にモチェ、ティワナク、ワリ、シカン、チムーと続き、スペインに滅ぼされたインカまでとなっています。

南北アメリカにはおよそ15000年前に人類が入ったようで、23000年前に東アジアやヨーロッパ人を祖先とする人達が当時陸地だったベーリング海峡を渡ってアラスカ辺りで8000年ほど暮らし、その後新大陸に入って13000年ほど前に南北アメリカ大陸を分布する集団と北アメリカに住む集団の2つに分かれたようです。その後、5000年前頃から先土器時代が始まり、3500年頃前の先土器時代後期には農業に基づく定住生活となり社会と政治が複雑になっていきました。5000年前の紀元前3000年~2500年にはカラル遺跡など大規模な神殿も現れ、その後も各地に祭祀センターが発達していき、それは何千年もの間も保たれたようです。4000年前の起源2000年頃には身分の差が生まれたようで、副葬品にその違いが現れています。

先土器時代後期 「未焼成の小型男性人像(レプリカ)」
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こちらは紀元前3000年~前1500年頃のカラル文化の土偶。手が欠けているのは埋葬の儀式で壊されたのではないかと考えられているようで、これと同様の土偶も手が欠けていたのを観たことがあります。 ニット帽を被った子供にしか観えなくてちょっと親近感がw

この他にも北部高地にはコトシュ遺跡(紀元前2500~1800年頃)なども存在しました。

先土器時代後期 「線刻装飾のある骨製の笛2本(レプリカ)」
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これはレプリカですが、ペリカンの骨でできた笛。側面には猿や鳥、ネコ科の動物などが表されています。穴の塞ぎ方で音色を調整するようで、割と本格的な装飾付きの笛が早くも作られていたことに驚きます。

続いては紀元前1300年~500年頃にアンデスを文化的に統一したと考えられるチャビン文化(現在のペルーのリマの北辺り)についてです。アンデスは文化の統一と各地に個別の文化が育つ時代が交互に現れたと考えられているようで、このチャビンが初めての文化的統一となったようです。チャビンの美術や宗教はそれまでのアンデスのいくつもの宗教伝統を統合し、多様な祭祀センターとの交流によってできあがったようですが、贅をこらした遺物からは権力への関心も伺えるようです。

チャビン文化 形成期後期 「テノンヘッド」
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これは神殿の壁面に置かれた頭像。人間離れした異形をしていますが、神殿での儀式で幻覚剤を摂取した人がネコ科の動物に変容する感覚を体験したものを表していると考えられているようです。日本の鬼瓦みたいにも見えるけど、ちょっと意味合いは違いそう。

この文化の出土品にはには自分の首を切った人の像などもあります。不自然な方向に首が曲がっていて怖い像ですw

クピスニケ文化 形成期中期(前1200年~前800年) 「刺青またはフェイスペイントをした小像」
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何かのマスコットみたいな顔をした人物像。目や鼻、お腹に穴が開いているのは焼いた時に破裂しないようにするためのようですが、何とその穴を使ってオカリナとして吹くこともできるのだとか。私にはマワシを付けたお相撲さんの像に見えましたが意外な用途w

形成期後期(前800年~前500年) 「十四人面金冠(レプリカ)」
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こちらはチャビン文化と同時期のクントゥル・ワシ遺跡(チャビンより北。紀元前800~前550年頃)からの出土品のレプリカ。六角形の中に14の頭部が表されています。切断された首が多数詰められた籠を表現しているとのことで、その意味を知ると怖い文化があったのかも。アンデスは割とその手の話題が多い気がします。

何故チャビンの宗教が権威を失ったか理由は分かりませんが、チャビンが力を失ってからその影響から離れた各地の伝統が復活していったようです。ペルー北部でペルー芸術の古典となったモチェや、南部でチャビンと隣接のパラカスから文化を取り入れたナスカなどもこの時代に栄えていきました

ガイソナ文化 「ガイソナの双胴壺」
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ちょっと間が抜けたゆるキャラみたいな顔を持つ壺ですが、手には棍棒と盾を持っています。これも笛のようになるそうですが、それも意図して作ったのかな?? この表情がアンデスらしさなのかも。

モチェ文化 「アシカをかたどった鐙型単注口土器」
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これとか完全にゆるキャラでしょw モチェの人は棍棒でアシカを狩って食料や物づくりの材料にしていたそうですが、宗教美術にも登場するので単なる食料以上の存在だったのかもとのことです。それにしてもこのデフォルメぶりは現代的なものを感じます。

モチェ文明(紀元後200年~後750(800)年頃)は灌漑施設を発達させ、経済的発展によって文化も豊かだったようです。洗練された写実的な土器や黄金の装飾品など様々な出土品があります。

モチェ文化 「金地に象嵌だれた人形面の装飾品」
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こちらは胸飾りのパーツの1つだったと考えられている品。後ろからに紐を通す穴が2箇所あいているようです。目を見開いて歯が細かく表されていて中々迫力がある表情です。金地に象嵌する技術が見事。

モチェでは4つの世界を生きていたと考えられているようで、自然の世界、自然と隣合わせで生きる人間の世界、自然と人間に影響を与える神々の世界、そして死者や祖先の世界 の4つとなります。死者や自然を近くに感じてたのかもしれません。

後期モチェ文化 「ネコ科動物の毛皮を模した儀式用"ケープ"」
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ネコ科動物が具体的に何なのか分かりませんが、結構身近な存在だったのかもしれません。これは毛皮を模した儀式用の品なので、宗教的に意味のある動物だったんじゃないかな。金ピカで威圧感もありますが、抜けた顔と猫っぽい手が可愛いw

モチェ文化(古シパン王墓) 「擬人化したネコ科動物(レプリカ)」
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目のつり上がった鬼みたいな顔をしていますがネコ科動物を擬人化しているようです。頭の上の双頭の蛇はこの後のシカン時代にまで使われていくモチーフなのだとか。これも鋭い爪ですね。

続いてはモチェと同時期の地上絵で有名なナスカ文明(起源前200年頃~後650年頃)についてです。ナスカは北部に比べて農業には向かない干ばつの多い地域で、神へ願いを届けるために優れた芸術品を作りました。しかし気候変動の影響で近くの高地に移住して文化は途絶えてしまったのだとか。

ナスカ文化 「4つの首が描かれた土製内弩鉢」
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これは首級(斬られた首)をモチーフにした鉢。目が上を向いているのは死んでるからのようです。ちょっと変顔したパフィみたいと思ったけど、そんな可愛いものじゃなかったw

なお、アンデスでは首級に力が宿っているという信仰がどの文化でも共通してあったようですが、ナスカは特に好んで土器などに表していたようです。

ナスカ文化 「クモが描かれた土器」
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これもさっきの顔に似ていますが、クモを表しています。クモは豊穣と関連すると信じられていたそうで、そう言えば地上絵にもクモが描かれていますね。

ちなみにナスカの地上絵は水を求めた儀式に関係があると考えられているようです。宇宙人へのメッセージではなく神へのメッセージでしょうねw

ナスカ文化 「8つの顔で装飾された砂時計型土器」
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こういう顔のイラストって現代でも見かける気がしますw 上部はちょっとキュビスムを感じるし色使いもアーティスティック。

パラカス・ネクロポリス期、前300~後200年頃 「刺繍マント」
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こちらは高位者のミイラの包みの1枚。非常に緻密な模様となっています。

アップするとこんな漢字
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このクオリティで沢山織り込まれているのが凄い技術です。身分と権力がよく伝わってきます。

アンデスでは6世紀後半に干ばつや洪水などの深刻な気候変動によって社会が大きく変化したようで、人口の集中が顕著に現れました。北部海岸や中部海岸のモチェやリマには特に多くの人が集まり都市とみなすことができる街となったようです。一方、南部海岸のナスカでは多くの人が海岸部を離れて高地へと移り住みました。こうした中、中部高地南部のアヤクチョ地域の1つの集落が急速に都市化し、ワリという国家の首都になり、ワリはティワナクとナスカの要素を合わせた新しい宗教も生んだようです。同じ頃、ティワナクの人々も太平洋岸に近い谷に植民地を築き、10世紀にはペルー北部海岸に強力な国家シカンも成立するなど同時期にいくつかの国家が地域ごとに発生しました。

ティワナク文化 「かみ合う犬歯が生えた髑髏をかたどった銀の葬送用冠」
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これは葬送用の冠で、穴の部分が目になた髑髏をかたどっているようです。何故牙が生えているのか分かりませんが、よく見ると横向きの髑髏が表されているなど高度な加工技術が見て取れました。

ティワナク文化(紀元後500年~後1100年頃)は標高3800mにある巨大なティティカカ湖の湖畔にある盆地で繁栄した文化で、巨大な石造建造物が並び石の文化・石の文明と呼ばれるようです。15000~30000人ほどの人口があったようで、7世紀頃から周囲に宗教的・経済的に影響力をもったようですが、11世紀頃に衰退していきました。

ティワナク文化 「2人の男性の顔が彫られたティワナク様式の石のブロック」
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石の文化と呼ばれるだけあって、こうした石造が出土しています。これはコカの葉を噛んでいる像と考えられるそうで、わずかに右の頬が膨れています。

ティワナクは標高3800mという富士山の頂上くらいの所にあるのですが、こんな所でどうやって都市が繁栄できたのか疑問に思われていたようです。しかしジャガイモの農法を工夫したり、寒さに強いリャマを飼って標高の低い土地までキャラバンを組んで遠征するなどして生活を維持していたと考えられているのだとか。

ティワナク文化 「カラササヤで出土した金の儀式用装身具」
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ネコ科の動物やラクダ科の動物などを模した装身具。権力者が金で装飾するのは洋の東西問わず共通の文化なのかも。祭祀や葬送用に使われたそうです。

パリティ島はティティカカ湖の小島で、精巧に作った土器をわざわざ粉々にして生贄のリャマの骨と共に収めたりしていました。遠くはなれたアマゾン低地の住民の肖像が何故か出てきたり不明な点もあるようですが、交流があったことが伺えます。

ティワナク文化 「パリティ島で出土した肖像土器」
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耳飾りと口にピアスのようなもの(テンベタ)をしたアマゾン低地の住民と思われる肖像土器。かなり写実的に作られていて当時の人々の顔が想像できそう。 それにしてもアマゾンとティワナクの間に交易でもあったんでしょうか??

続いてはワリ(紀元後650年~後1000年頃)の文化についてです。図像や建築技術が似ていることなどから以前はティワナクの一部と考えられていたようですが、今では武力で広い範囲を領土として他民族を統治した帝国と考えられているようです。ナスカとティワナクの要素を融合した新しい宗教を持ち、ペルー海岸部に飛び地の植民地を持つなど海と高地の覇権を握った国だったようです。

ワリ文化 「人間の顔が描かれた多彩色鉢」
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様々な種族の人が描かれた鉢。それぞれ舌を出して可愛く見えますが、これは権力者が人々に語りかける様子 もしくは 敵を絞殺した様子を表しているようです。後者だと怖いですが、いずれにせよ多くの種族と関係のあった文化なのは伝わってきました。

ワリ文化 「ワリのキープ」
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こちらはキープと呼ばれる糸。文字を持たないアンデスではこのキープの結び目が文字の替わりとなっています。この後のインカ帝国でも行政に使われましたが、インカが我々と同じ10進法であるのに大してワリは5進法なのだとか。これを解読するのは文字よりよっぽど難しそうに見えるw

続いてシカン文化(紀元後800年~後1375年頃)についてです。シカンはモチェとワリの文化の特徴を併せ持つ新たな様式と宗教を持っていて、ワリ帝国もシカンの地域には覇権を確立できないくらいの勢力だったようです。
 参考記事:
  特別展 インカ帝国のルーツ 黄金の都シカン 1日ブログ記者 感想前編(国立科学博物館)
  特別展 インカ帝国のルーツ 黄金の都シカン 1日ブログ記者 感想後編(国立科学博物館)
 
中期シカン文化 「打ち出し技法で装飾をほどこした金のコップ(アキリャ)5点セット」
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シカンは金を使った品が結構多いように思いますが、こちらは飲料の容器。蛇の頭や神・王などが表されているようです。割とどれも同じに見えるので、どうやって作ったのか気になります。型でも無いとこんなに似せるの難しいんじゃないかな。

中期シカン文化 「金めっきした儀式用ナイフ(トゥミ)」
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変わった形のトゥミという儀式用ナイフ。生贄の首を切るのに使われたナイフです。禿げて下地が見えるので金箔が如何に薄いかが分かるようでした。

中期シカン文化 「ロロ神殿[西の墓]の中心被葬者の仮面」
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面白い顔の形の仮面。金を銅・銀に混ぜて表面だけ金の含有量を多くしていたらしく、当時は表面を磨いて金色に見えていたと考えられるようです。ちょっと赤っぽいのは辰砂(赤色硫化水銀)が塗られていたためで、血を想起させる生命力の象徴だったとかんがえられるようです。割と可愛い顔してますが、かなりの権力者だったのかも。

続いてはチャンカイ文化についてです。チャンカイはペルー海岸部にあり、強大なチムー帝国と宗教的中心地パチャカマクの間に位置していました。白黒の土器と優れた織物が有名だったようです。

チャンカイ文化 「図案サンプル」
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こちらは多様な技法で織り込んだ4枚の布をつなぎ合わせたもの。パターンの見本と考えられているようで、模様も様々です。鳥っぽいのが多いかな。幾何学的に動物を表した模様のように思える部分もあります。

そして最後に強大な帝国を築いたチムーとインカについてです。紀元1000年頃にワリとティワナクの生態が崩壊すると再び多数の地域政体が成立し、対立や衝突が生じたようですが、北部海岸でチムー王国が急速に拡大し14世紀末にはシカンを征服して有力勢力となりました。一方、ペルー南部高地のクスコでは小勢力だったインカが急速に力を付けていき、1470年にインカはチムーを破り最大規模の帝国となっていきました。その領域は4000kmにも及ぶものでしたが、急速に発展しただけに不安定で帝国内部には反乱もあったようで、1532年にスペイン人が来る時には内戦状態でした。その後はたった168人のスペイン人の侵略でインカ帝国は崩壊へと向かっていきます。 この辺の詳細は下記の記事などをご参照ください。
 参考記事:
  マチュピチュ「発見」100年 インカ帝国展 感想前編(国立科学博物館)
  マチュピチュ「発見」100年 インカ帝国展 感想後編(国立科学博物館)

チムー文化 「木製柱状人物像」
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チムーの首都チャンチャンの遺跡で見つかった柱。王宮の入口にあったようで、何かを持っているのですが保存が悪くて詳細は分からないようです。兵士っぽいし武器なんじゃないかな??

チムー王国(紀元後1100年頃~後1470年頃)はシカンを征服しシカンの金属精錬の技術も受け継いだそうです。海岸部などとの交易のネットワークなどもあり強い国だったようですが、1470年頃にインカと激突し敗北してしまいました。他にもチリバヤ文化(紀元900年頃~1440年頃)などもあり、外科手術を施した頭蓋骨や男児のミイラなどが出土されています。乾燥した地域なので死ぬと自然にミイラになるようで、ミイラと共に暮すなど独特のミイラ文化があったようです。定期的にミイラの衣服を取り替えていたのだとか。

チムー文化 「木製ミニチュア建築物模型」
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こちらは建築物の模型。何のために作ったのか分かりませんが、儀式をする人の像もあったと考えられているらしいので何か宗教的なものかもしれません。

インカ帝国(15世紀前半~1572年)は彼らのケチュア語で「タワンティンスーユ(4つの部分が一緒になった)」と呼んでいたようで、アンデスを統一した意味が込められているようです。アンデス史上最大にして最も強い政体で、ワリやティワナクなどの習慣や制度を用いて大規模な開発(インカ道など)も作って強大な帝国を作りました。(しかし皮肉にもインカ道はスペイン人の征服にも使われたりしました。)

インカ文化 「金合金製の小型人物像(男性と女性)」
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面白い顔をしていますが、生贄の儀式で子供と共に神に捧げられた人形らしく、それを知るとちょっと怖い。ちなみにこれは金の合金で出来た品ですが、インカの遺物で現存する金製品は少ないようです。何しろスペイン人が徹底的に集めて溶かして本国に送っていたので…。色々な意味でインカの歴史が感じられる品です。

インカ文化 「インカ帝国のチャチャボヤス地方で使われたケープ」
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先程のキープよりも紐の本数が多くて半端ない大きさです。しかも途中で枝分かれしてたりするし、インカは文字が無くても高度に発展した文化であったことがよく分かります。

1532年にインカ王が殺された後、傀儡政権となってからもスペインとの戦いは意外と長く、征服されてからも反乱があったようです。ようやくスペインから独立したのは1821年なので、実に300年くらいは征服されることになります。

ということで、長い歴史の間に数多くの文化が興っては消えて行きました。アンデスの文明は日本でも人気があり、定期的に国立科学博物館で展示が行われる傾向があるので今後もそうした機会があるのではないかと思います。歴史の流れを知っておくと、一層に興味深い文化です。


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《ガラスの歴史》 テーマ別紹介

今日はテーマ別紹介で、ガラスの起源から10世紀頃までの歴史を取り上げます。ガラスは今から4300年ほど前にメソポタミアで生まれました。その後、前1世紀頃に東地中海地域で吹きガラスの技法が生まれると、ごく一部の人の贅沢品だったのが一般の人々の日用品としてローマ帝国全土に広まり、やがてササン朝ペルシアやイスラーム王朝に受け継がれ、シルクロードを経て中国や日本にももたらされていきます。形や技法も高度化し、洗練された器や装身具は交易品として好まれ、それぞれの地域の特質も生まれていきました。今日も過去の展示で撮った写真と共にご紹介しようと思います。

 参考記事:
  雲母 Kira 平山郁夫とシルクロードのガラス (平山郁夫シルクロード美術館) [山梨 北杜編]
  Drinking Glass-酒器のある情景 感想前編(サントリー美術館)


ガラスがいつ何処で発明されたのかが明らかになったのは割と最近のことで、以前はエジプトや東地中海が起源と考えられていましたが、70年ほど前にイラクでアメリカの調査隊がガラスの円筒印章やガラスの塊を発見し、最も古いガラスは4300年前のメソポタミアであることが判明しました。

こちらは前16~13世紀頃の北メソポタミアの首飾り
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青く線状の模様がついていて、既に加工技術が装飾品を作るまでになっているのがよく分かります。

ガラスは西アジアやエジプト、エーゲ海のミケーネなどでも作られるようになりました。艷やかで熱で加工しやすいのでラピスラズリやトルコ石などの輝石を目指して作られ、エジプトではファラオの身を飾る装身具や葬送品に使われました。

こちらは前14~13世紀頃のミュケナイの鋳造ビーズ。
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ミュケナイはギリシャのミケーネのこと。細かい文様の金の飾りと共にビーズが使われています。こちらも既に中を空洞にできるだけの技術と美しさに驚き。

ガラス器は紀元前16世紀半ばにメソポタミアやエジプトで王族のもとに作られ、権力者への捧げ物となったようです。また、酒は人の穢れを払い神への畏敬を表す場面と共にあり高貴な方たちの儀礼などにも使われるようになりました。

こちらは前4~3世紀頃の東地中海地域の「両耳付瓶と金製台」
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装身具だけでなく身の回りの品にもガラスが使われました。今はあまり透明感が無いように思えますが、装飾性が見事。

ちなみに古代のガラスはほとんどがこんな感じで風化しているようです。表面が白くなったり虹色に輝く皮膜のようになっているのを「銀化」と呼ぶそうで、長い間土の中にあると化学変化をおこしてこうした感じになるようです。しかし別の風合いが生まれるのでそれはそれで美しい。

前1世紀頃の東地中海地域の碗
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日本の茶器のような侘び寂びを感じるのは風化した為かも。こうしたガラス器は鋳型を使った製法で作られていたようです。

前1世紀頃の東地中海地域のリブ装飾碗
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この時代のガラス器が好みのツボかもw 色だけでなく周囲のひだの形も面白いのですが、この形は「熱垂下法」という特殊な成形が行われたようで、上下逆さにしたお椀状の型に、予め刻んだ模様(日章旗の太陽みたいな形)を乗せ、再び溶かして流れ落とすという方法で作ったそうです。 古代の人たちの知恵は凄い…。

こちらは前1世紀頃の東地中海地域のミルフィオリ(千華文)皿
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表面に無数に華の模様が付いた皿。こちらはミルフィオリガラスと呼ばれるもので、モザイクの切片を鋳型に敷き詰めて熔着しているようです。華やかな宴会で使われたのかな?

こちらは前1世紀頃のエジプトや東地中海の小さいガラス
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モザイクガラスやとんぼ玉、ペンダントなど。鳥の形や神々の頭など、ユーモラスな感じが面白い。

前1世紀~前50年頃頃になると、東地中海地域(恐らくシリア・パレスチナ地方?)で吹きガラスの技法が生まれ、これまでの鋳造ガラスやコアガラスと異なり格段に早く大量に生産できるようになりました。その為、ごく一部の人の贅沢品だったのが一般の人々の日用品へとなっていきました。また、ガラスの色の技術も発展し、徐々に透明になり紀元1世紀には窓ガラスも作られるようになったそうです。 こうした技術はローマ帝国全土に広まり、やがてササン朝ペルシアやイスラーム王朝に受け継がれ、シルクロードを経て中国や日本にももたらされることになります。

こちらは紀元1~2世紀頃の東地中海地域の吹きガラス。
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これまでのガラスと違って無色透明にかなり近づいています。消色剤としてアンチモンやマンガンを加え鉄分等の発色を抑え、温度を調節することでこうした透明度を実現しているのだとか。ローマの科学技術には毎度驚かされます。

日用品である水差し。
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紀元前後のローマの著述家によるとガラスの杯は銅貨1枚で買えるとのことなので、以前に比べて一気に値段が下がって日常に溶け込んでいったのが伝わります。

この他にもリュトンや首飾りなど様々な品が作られています。吹きガラスによって表現力も増して装飾に関してもさらに多様化したようです。

こちらは大英博物館所蔵の「ゴールドサンドイッチガラス碗」の再現模型
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オリジナルは前3~2世紀頃に作られたとされているようですが、非常に高い技術で作られていて海外では再現の研究も行われてこなかったそうです。金箔の装飾は日本の敷金と同じような技術のようで、そうした点などもあって2013年に日本の研究者によって再現されました。 現代でも簡単に再現できないほどの技術が2000年前にあったというのは驚異的です。

ガラスは安価な原料で出来ますが、洗練された器や装身具は交易品として好まれたそうで、ヨーロッパでは毛皮や琥珀、東南アジアではスパイス、中国では絹 など様々な品と交換されたようです。そうしてガラス製造も各地で行われるようになりましたが、同じ技法でも原材料の僅かな差や好みの違いでそれぞれの地域の特質が生まれたそうです。

こちらは7~8世紀頃のイランの「短形切子碗」
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透明度が高く薄手で、カットまで入っている碗。ここまで来ると現代にも通じるような出来栄えになっているように思えます。

安価になったはずが、高級な嗜好品としての側面もなくならないというのがガラスの特徴の1つかもしれませんね、

こちらは7~8世紀頃のシリア~エジプトの「羽状文小壺」
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マーブルのような模様が緻密で美しい小壷。

9~10世紀頃のシリアの腕輪
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イスラーム化する前は単色無文のシンプルなものが多かったようですが、9世紀頃からガラス棒をひねって様々な色を巻きつけるタイプが作られるようになったそうです。イスラームの人たちの好みに合ったのかな?

ちなみに有名なヴェネツィアン・グラスは982年の文献には既にガラス職人がいたことが記されているようです。(ヴェネツィアン・グラスについてはまた別の機会にでもご紹介しようと思います)


ということで、ガラスは現代に至るまでその美しさと実用性の両面で人々の生活に密接に関わってきました。高級な品がやがて安価になって大衆化するというのは人類の歴史のパターンではありますが、ガラスは芸術的な側面を維持しているのが面白いところです。今後もガラスに関する展示は沢山行われると思いますので、その歴史をざっくり知っておくと一層に楽しめると思います。


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《土偶》 テーマ別紹介

今日はテーマ別紹介で、土偶を取り上げます。土偶は定義の幅がありますが、狭義では縄文時代に作られた人や神を象ったと思われる土製の人形となります。日本各地でこれまでに発見された土偶の総数は、およそ18000点にのぼり、国宝に指定されたものも3点含まれています。最初期は恐らくBC7000年~BC4000年頃で、晩期はBC400年頃までとかなりの長期間に渡って作られました。また、形も様々でプリミティブな力強さを持つものや現代アートを思わせるような優美なものまで多彩な個性を見せてくれます。今日も過去の展示で撮った写真と共にご紹介しようと思います。

まず、土偶とは何か?という話ですが土偶の使われ方は完全に解明されているわけではないようで、いくつかの説があり
 ・安産/子孫繁栄の祈願
 ・自然界の動植物の繁殖/豊穣の祈願
 ・病気や怪我の治癒/身代わり
 ・祖先の姿。生と死の象徴
 ・死者の鎮魂と再生の祈願
 ・護符/呪物
といった目的が考えられているようです。茨城県利根町花輪台貝塚出土の「発生期の土偶」が最初期の土偶と考えられていて、時代はBC7000年~BC4000年頃のものです。初期は凝った作りでもなく先述の発生期の土偶はバイオリン型土偶とも呼ばるかなり小さくて何となく人の形っぽいものでした。また、初期の土偶は関東東部など一部の地域でしか作られていなかったそうです。

ここからは写真を使ってご紹介。撮影できなかったものはポスターの拡大なども使っていこうと思いますw

「土偶」 縄文時代(中期)・前3000~前2000年 山梨県笛吹市上黒駒出土
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猫顔でにゅっと長い腕を胸の前に出した土偶。その指は何故か3本しかありません。にゃんこ顔で可愛いですが、オカルト好きとしては宇宙人かも!?と思ってしまいますw

土偶はほぼ女性らしく、よく観ると乳房が出ているなど女性と分かる特徴を持っています。

「土偶 縄文の女神」 縄文時代(中期)・前3000~前2000年 山形県舟形町 西ノ前遺跡 (レプリカ)
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こちらは仰け反るような姿勢の土偶で、頭や手は流線型のようにデフォルメされ、足は太めになっています。非常に洗練されたフォルムで力強さもあるので、これを外国人に現代アートだと言って見せたら多分信じるんじゃないかなw よく観ると焼き焦げた部分もあったり、お腹が妊娠して膨らんでいる様子なども分かります。これは捨て場という所で見つかったそうで、捨て場は再生や復活を祈る場だったようです。こんな凄いデザインの作品が4000年以上前にあったとは本当に驚きです。

縄文時代前期(前4000~前3000年)になると、単純ではありますが顔や手の表現がみられる三角形に近い板状の土偶が出現し、定型化の道を辿りました。

「ハート形土偶」 縄文時代後期・前2000~前1000年 群馬県東吾妻町郷原出土
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こちらは非常にユニークなハート型をした土偶。これも完全に現代アートに見えますw 何故ハート型をしているのか説明を読んだことはありませんが、こうしたハート型の土偶はいくつかあるらしく、類似の土偶がいくつも並んでいるのを観たことがあります。縄文人の豊かな想像力を感じる作品です。

ハート形土偶以外にも「みみずく形」などパターン化された土偶を見かけることがあります。文化が伝播してたんでしょうかね…。

「土偶 合掌土偶」 縄文時代後期・前2000~前1000年 青森県八戸市 風張1遺跡
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こちらは体育座りで合掌するような姿勢の土偶で国宝です。このポーズは神に祈っているとかお産をしているとか様々な説があり、元々は体は赤く塗られていたようです。また、一部にアスファルトで修理した箇所もあるみたいなので、大事にしていたんじゃないかな。土偶はこのように完全な姿で残っていることは珍しく、儀式でわざと壊されていたのではないかという考えもあるくらいなので、こちらの作品は色々な意味で貴重な土偶です。

縄文中期(前3000~前2000)には、前期より引き継ぐ板状土偶が装飾性豊かな十字形土偶として発達する一方、関東・中部地方では立体的な全身立像が誕生するなど、地域性もみられるようになりました。

「土偶 中空土偶」 縄文時代後期・前2000~前1000年 北海道函館市 著保内野遺跡
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こちらは名前の通り中身が空洞となっている土偶で国宝です。薄手で側面には細かい紋様が施されているなど、中々繊細な技術を持っていたことが伺えます。形も整っていて、シンメトリーに近い造形となっています。足の間に孔があるのが気になりますが、これは空気を通して焼き上げるためのものではないかと考えられているようです。また黒漆が塗られていたようで、当時の技術の高さが伺えます。ここまでくると完全に芸術品ですね。

ちなみに土偶は広義では日本以外にも存在します。ヨーロッパや西アジアの新石器時代(前8300~前5000)では、土偶は農耕と密接な関係をもち、生産や豊穣を祈る地母神崇拝の像として発達しました。

「仮面土偶」 縄文時代後期・前2000~前1000年 長野県茅野市中ッ原遺跡出土
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かなりインパクトのある土偶です。逆三角形▽の顔を持つ土偶で、足は太く丸みを帯びて安定感があり、ガンダムのジオングが思い浮かびましたw 仮面はキツネのような顔にも見えるかな。よく観ると服のような文様と渦巻のような文様が多用されています。

縄文後期(前2000~前1000)には、各地で多彩な土偶が生まれました。個性豊かで晩期にかけて有名な土偶も多いかな。

「遮光器土偶」 縄文時代(晩期)前1000~前400年 青森県つがる市木造亀ヶ岡出土
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こちらは最も有名な土偶かもしれません。左足がかけていますが、蛙みたいで大きな遮光器をつけたような顔が独特です。 ちなみに、これを名づけた人が、イヌイット達が使う遮光器に似ていることから遮光器土偶と呼んだようですが、遺跡からは遮光器は見つかっていないので、遮光器ではないようです。 なんでこんなデザインにしたのか?は謎です。

ゲームの女神転生などの創作物でアラハバキ(荒覇吐)をこの土偶とそっくりに描くことが多いですが、これは偽の歴史書と判明した『東日流外三郡誌』で、「アラハバキは古来縄文時代に広く信仰された神であり、その時代の土器として発掘される遮光器土偶はアラハバキを模したものである」と書いてあったことに由来するようです。って、嘘だったんですねw

「縄文のビーナス」 縄文時代晩期・前1000~前400年 宮城県蔵王町鍛冶澤遺跡出土
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曲線の多いふくよかな女性を思わせる土偶で、その美しさから「縄文のビーナス」と呼ばれている国宝です。頭の上には渦巻き状の文様があり、これは髪を結っているのを表現しているようです。また、下半身はどっしりしてお腹が出ている様子は妊婦のようで安産祈願のために作ったのかな? その曲線と簡略化は近現代のアートのようですね。

先述の通り土偶はこれまで18000点程度見つかっているようですが、その中で国宝指定されている土偶はたった3点で、「中空土偶」「合掌土偶」「縄文のビーナス」が一堂に会したのは2009年の展示が初めてでした。

「土偶」 縄文時代晩期・前1000~前400年 
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これは縄文時代晩期の上境旭台貝塚(茨城県つくば市)で見つかった土偶。詳細は分かりませんが みみずく土偶と呼ばれる形に似ているように思います。これも宇宙人説を信じたくなるくらい人間離れして見えますw 

縄文晩期(前1000~前400年)には、抽象と具象を兼ね備えた土偶が東北地方を中心に展開され、芸術性に優れた中空の土偶も数多く誕生しました。

「土偶」 縄文時代晩期・前1000~前400年北海道室蘭市輪西町出土 
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こちらは何と北海道の室蘭から出てきた土偶。そう思うと深く刻まれた文様がちょっとアイヌっぽく観えてしまうw 装飾性が面白い逸品です。


ということで、未だに分からないことが多い土偶ですが、現代人の想像力を超えるような造形の品が多く、岡本太郎をはじめ多くのアーティストにも感銘を与えてきました。東京国立博物館の常設などで観られる他、各地の博物館などで目にする機会があると思いますので、是非その魅力を知っておきたい存在だと思います。

 参考記事:
  縄文―1万年の美の鼓動 感想前編(東京国立博物館 平成館) 
  縄文―1万年の美の鼓動 感想後編(東京国立博物館 平成館) 
  国宝 土偶展 (東京国立博物館 本館特別5室)
  国宝 (京都国立博物館)京都編


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《チョコレート》 テーマ別紹介

今日はテーマ別紹介で、チョコレートを取り上げます。チョコレートはカカオを原料とするお菓子ですが、その歴史は古く、B.C.2000年頃からカカオはマヤ地域で飲み物として飲用されはじめ、15世紀アステカでは流通通貨になるほど珍重されました。その後スペインによる南米征服によりヨーロッパへと伝わり、様々な発明を経て工業化されていきました。しかしカカオは非常にデリケートな植物でその栽培には多くの労力がかかる上、熱帯雨林の減少と密接に関係しています。貧困問題も引き起こしているなど、美味しいだけでは済まされない現実もあります。今日はそうしたチョコレートについて2013年の国立科学博物館のチョコレート展を振り返る形でご紹介しようと思います。
 参考記事:
  チョコレート展 感想前編(国立科学博物館)
  チョコレート展 感想後編(国立科学博物館)

チョコレートの原材料はカカオであるのは有名ですが、カカオはこの写真のように「幹生果」という幹に直接 実がなる変わった木です。学名は「デオブロマ(神様の食べ物)」です。
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1年間に何千もの花をつけますが、実を結ぶのはわずかなのだとか。また、寒さと乾燥に弱く、最低気温が16度を下回ったり 年間雨量が1000mm未満の土地ではよく育たないそうです。さらに直射日光にも弱いし、アーバスキュラー菌根菌という菌も必要だそうです。…そんな気難しくて貴重な植物の実をよく世界中の人が食べているものだと驚きました。 1990年代前半には天敵の菌によって引き起こされる天狗巣病がブラジルで猛威をふるい、世界2位だった生産量が1/4にまで落ち込み長く尾を引きました。めちゃくちゃデリケートな植物なんですね。

こちらはカカオの実(乾燥させて樹脂を塗ったもの)。
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年間6000もの花を咲かせるうち、実ができるのは1~2%、しかも花の命はわずか2日! 受粉には「ヌカカ」や「タマバエ」といった虫が体に花粉をくっつけて雌しべに運んでくれる必要があるので、こうした虫の存在も不可欠のようです。ちなみにヌカカは虫眼鏡でみてもよく分からないくらい小さい虫です。

こちらは様々な種類のカカオ。DNAを調べるとと10のグループに分けられ、そのルーツは南アメリカの北部とする説が有力となってきているようです。
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チョコレートのなめらかな口当たりは種子に含まれる脂肪のおかげらしいで、この脂肪が昔は中々厄介な面もあったようです(詳しくは後述) また、カカオにはテオブロミンという苦味の元の成分があり、この苦味のために動物は種子を食べないのでカカオが次の世代を残せました。

こちらはカカオを作る道具類。
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カカオは年に2回取れ、収穫が多く良質なカカオが取れる時期をメインクロップ、収穫が落ち小ぶりな時期をミッドクロップと呼びます。

収穫されたカカオは実を割り、果肉ごと取り出して1週間ほど発酵されます。この発酵の善し悪しがチョコレートの風味を決定するらしく、バナナの葉で包むような方法と木の箱に入れてバナナの葉で覆う方法があるようです。発酵してくるとアルコールに分解され、お酒のような良い香りになり さらにそのアルコールを栄養源とする酢酸菌が働きだすと、50度以上も熱を発することもあるのだとか。

発酵が終わると今度は輸出中にカビが生えないよう、1週間ほど乾燥させるのですが、天候が変りやすい熱帯地域では中々大変なようで、シートをかけたり機械で乾燥させることもあるそうです。しかし天日で乾燥させるのが一番です。

こうして生産されたカカオは買い付け業者によって等級をつけられ出荷されます。多くのカカオ農家の収入はカカオに依存しているため、病気や天候不順で打撃を受けやすく、品種改良を行ったり、ナッツやコショウなどを混植させて収入の安定化を図る取り組みも進められています。ちなみに世界で最もカカオを輸出している国はコートジボワールの1,079,273トン(※)で、ついでガーナ、インドネシアと続きます。一方、最も輸入しているのはオランダで、805,516トン(※)も輸入したようです。日本は47,818トンなので、オランダは桁違いに輸入していることが分かります。(というか意外と日本は少ない) また、日本は輸出世界一のコートジボワールからの輸入は少なくて、ほとんどガーナに依存しています。
 ※いずれも2010年/10月~2011年/9月の1年間

これはチョコレート工場を再現したような展示。ここからチョコレートの制作工程をご紹介。
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まずカカオが工場に着くと豆と異物をより分ける工程を行い、その次に「風選(ふうせん ウィノーイング)という風で実と皮を分ける工程となります。

そしてその次が「焙炒(ばいしょう ロースティング)」という工程で、これはその再現展示。
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これはカカオニブの5~6%の水分を120~160度の熱風で炒る作業で、1~2%に減らします。これによって殺菌も行っているようです。

この後、磨砕(まさい グライディング)という工程があり、ロールで脂肪分をすり潰します。これによってココアバターの中にカカオ粒子が分散しているようなドロドロの状態になります。

その次からココアとチョコレートの工程が2つに分かれるのですが、まずはココアの工程について。ココアはチョコレートと同じくカカオ豆から出来ているのですが、カカオマスは脂肪分が多すぎて飲みやすくないため、「バタープレス」という機械で「圧搾(プレッシング)」を行います。これによって円盤状のかたまりのココアケーキと脂肪のココアバターに分けられます。

これがココアケーキ。これをさらに粉砕し、冷却するとココアの粉末(ココアパウダー)になります。
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オランダのバンホーテンはカカオマスに炭酸カリウムなどのアルカリ塩を加えるとまろやかで飲みやすくなるのを発見し、ぞれは今でもココアを作る際に行われているようです。
このココアケーキはココアになりますが、先ほどご紹介した圧搾で出来たもう一方のココアバターはこの後のチョコレート製造の原料として使われます。

続いてはチョコレートの製造工程です。摩砕(グライディング)の工程の後、カカオマス、砂糖、ココア・バター、乳製品、バニラと共に混ぜ合わせる「混合(ミキシング)」という工程に入ります。チョコレートの種類や用途によって混ぜるものや豆のブレンドが変わるそうで、味に大きく影響する工程です。

混合された生地はまだざらつきがあるらしく、続いて「微粒化(リファイニング)」という滑らかにするための工程に進みます。ロールにかけると0.01~0.3ミリの大きさに調整できるようですが、この粒の大きさは国によって好みが異なるようで、日本では欧米よりも細かいものが好まれるそうです。

続いては「精錬(コンチング)」という香りと風味を出す工程です。微粒化されたチョコレートはまだバサバサしているのですが、この工程で粘り気が出てきます。練っているうちに熱も出てペースト状になり、そこにココアバターを加えて更に混ぜ合わせると滑らかなチョコレートになるそうです。このコンチングの温度と時間はメーカーによって異なるらしく、溶けた時に滑らかな口当たりになるために味において重要な工程です。

これはコンチングの機械。かなりトロトロになっています。当時、この機械の近くにいくとチョコレートの匂いがしましたw
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これはコンチングの工程が発明された当時のコンチェ(コンチングの機械)に近い動きをするとのことでした。

続いては「調温(テンパリング)」という工程です。温度を調整してココアバターを安定した結晶にするための工程で、これによってパリっとした食感や口どけ、指で触っても溶けなくなる 等の効果が出てきます。しかしココアバターは気まぐれな性質で、融点が異なる6種類もの結晶があるそうで、その中でも「Ⅴ型」という融点が33度の安定した結晶にする必要があります。

これはそのテンパリングを体験する機械。50度→25度→30度という3つのゾーンに分かれていて、中はちょっとずつ温度が違っていました。
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温度が3つに分かれているのは、Ⅴ型の結晶を作るためで、まず50度前後に加熱してすべての結晶を溶かし、続いて25~26度に冷却して融点が27度のⅣ型の結晶にします。そして最後に30~31度にあげてⅣ型より融点の高い(Ⅵ型よりは融点が低い)結晶を作ります。温度を上げて下げて上げるという複雑な温度調整で手間がかかりますw

チョコレートが出来ると、最後は型に入れる「充填」を行い「冷却」し、「型抜き」をして「検査・包装」されます。
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そしてようやく完成! ここまで一体どれだけの工程があったのか…。チョコレートってめちゃくちゃデリケートで手が掛かる食べ物なんですね。

ちなみにチョコレートが古くなると白く変色します。これは「ブルーム」という現象で、食べても害はないものの口当たりや風味は失われてしまいます。これにはいくつか原因があるのですが、一度溶けたのを冷やしすことで起きる「ファットブルーム」や、水滴がついてそこに砂糖が溶け 水分が蒸発して砂糖が残る「シュガーブルーム」などが挙げられます。
また、チョコレートの口どけの良さはココアバターの融点にあるようで、人肌くらいの35度になると完全に液体となるようです。これだけ人間の体温に近い温度で溶ける天然の脂質は他にないそうですが、パーム油やシアバターを代用脂として使うことも許可されているようです。この代用脂で融点を変え、日本では高温多湿の夏は高めの融点、低温乾燥の冬は低い融点に調整しているようです。と言われても全く気づきませんがw

こちらはチョコレートの種類について。上から順にビターチョコレート、ミルクチョコレート、ホワイトチョコレートです。
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ビターはカカオマスが40%以上で、乳製品がほとんど入っていないので苦味があるのが特徴です。恐らく一番よく食べられているのはミルクチョコレートで、これには乳製品が使われています。最後のホワイトチョコレートはカカオマスを使っていないのですが、砂糖や乳製品とともにココアバターが使われているのでれっきとしたチョコレートの仲間です。

最近ではカカオは健康に良いとされていて、フラボノイドという抗酸化能力が高いポリフェノールや、テオブロミンという高血圧予防剤・血管拡張剤・利尿剤にも使われる成分などが含まれています。活性酸素を消去したり悪玉コレステロールの酸化を抑制するので動脈硬化の予防や血圧降下が期待できるようです。また、ココアも脳の老化や脳卒中、認知症のような疾患に良い影響がある可能性があり、まさに神様の食べ物です。


続いてはチョコレートの歴史についてです。
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カカオはB.C.2000年頃からマヤ地域で飲み物として飲用されはじめ、200~600年頃に交易によって中南米に広まり、1400年頃にアステカ帝国でカカオの飲用が広がったようです。マヤではカカオを飲む際に唐辛子なども入れていたようです。…あまり美味しくはなさそうですw また、15世紀アステカではカカオは流通通貨としても使われたそうで、1粒でトマト1つ、20粒で雄の鶏1匹と引き換えにできたようです。大きさや硬さが便利だったから使われていたようですが、偽カカオが出回るほどだったのだとか。


そして1521年にスペインがアステカを征服すると、カカオはスペインに伝えられました。健康に良く、ヨーロッパの誰も知らなかった味が人々を夢中にさせ、スペインでは100年近く門外不出となったようです。しかしスペイン王フェリペ3世の王女アナがルイ13世に嫁ぐとフランスに伝わりヨーロッパ各国に伝わっていきます、するとカカオは不足するので、各国は支配下に置いた土地からもカカオが出荷させるようになり、ヨーロッパに広く供給されるようになりました。チョコレートのために何百万人もの労働力が必要で、カカオ作りはもっぱら先住民が奴隷として従事していたようです。
また、スペイン人がヨーロッパにカカオを伝えてまもなく、それに砂糖を加えることを思いついた人がいたそうです。地域によって様々な作り方があったようで、焙炒してバラやシナモン、アーモンドを加えるなど試行錯誤されたようです。

1600年代~1700年代のヨーロッパではコーヒーハウスやチョコレートハウスが軒を連ねました。
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これはロンドンのコーヒーハウスの様子で、政治問題を議論したり賭け事をする場となっていたようです。

当時のヨーロッパでチョコレートを飲む際に重視されたのは「泡」だったそうで、その泡を立てるためにこうした道具が用いられました。この棒はモリーニョという道具です。
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上のほうにあるのはチョコレートポットで、紅茶やコーヒーのポットと決定的に異なるのは、
 ・取っ手が必ず注ぎ口と直角になっている。
 ・蓋には開閉式の穴が開けられている(モリーニョを通してあわ立てるための穴)
となります。

こちらは各時代のチョコレートポットやチョコレートカップのコレクション。
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古いものからつい数年前のものまで、様々な時代や国の品々です。

こちらは18世紀後半のオーストリアのカップ。
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カップは「トレンブラーズタイプ(カップの底にくぼみがあるタイプ)」と「マンセリーナタイプ(カップを受ける部分に立ち襟がついているタイプ)」というのがあるようで、これは後者かな。

近代になるとチョコレートも工業化していきます。その過程で何人かのチョコレートに関する発明家が登場しました。

まずクンラート・バンホーテンというオランダの人物がココアとココアバターの発明をしました。それまでお湯に溶かしたカカオは脂肪のため油っぽく、美味しいものではなかったようですが、カカオ豆からできるカカオマスの脂分を減らし、粉末状にしたココアパウダーを発明することに成功しました。これによって後に固形チョコレートが可能となり、さらにアルカリ溶液を混ぜることでマイルドな香りとブラウンの色合いとなったそうです。

これがバンホーテンのココア缶。
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ここから味がよくなっていったんですね。

さらにその後スイスのフランソワ・ルイ・カイエによっていた板チョコレートが発売され、同じくスイスのダニエル・ピーターが粉末ミルク混ぜたミルクチョコレートを発明します。ダニエル・ピーターの発明にはアンリ・ネスレ(ネスレ社の始祖)の助けがあり、やがてダニエル・ピーターとフランソワ・ルイ・カイエの会社は合併され、ネスレミルクチョコレートを製造するようになりました。現在でもネスレからカイエブランドの板チョコは発売されているのだとか。

他にも口溶けをよくする精錬(コンチング)の設備を発明したスイスのルドルフ・リンツ(リンツ社の始祖)や、粘度を下げて流動性を良くすることに成功したヘルマン・ボールマンなどもいて、スイスはこれらの技術によって製造技術と売上で世界トップになっていきました。

一方、イギリスのチョコレート産業はフライ、キャドバリーといった実業家がスイスに学んで発展させ、アメリカではミルトンハーシーという人が世界最大のチョコレート工場を作りました。こうしてチョコレートは美味しさが増し工業化が進みました。

こちらは欧米のチョコレートのヴィンテージコレクション。20世紀前半に欧米で発売されたケースです。
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ちょっとレトロなデザインがなんとも良い感じ。他にもポスターなど時代を感じさせるものが並んでいます。

一方、日本のチョコレートはというと、1797年に長崎の遊女が「しょくらあと」を貰い受けたという記録があるそうで、これが日本で最初のチョコレートのようです。その後、明治時代に入ると1873年に岩倉具視たちがパリ郊外のチョコレート工場を視察し、1878年にはチョコレートの新聞記事や広告も続々と出てきたようです。大正時代には森永製菓や明治製菓がチョコレート工場を設備し大量生産を始めるのですが、1937年にカカオ豆に輸入制限令が発令され、1940年には薬用を除き輸入が停止したようです。戦後になると米軍放出のチョコレートや代用のグルチョコというものが出回り、1951年以降にはカカオ豆が輸入され始め、チョコレートの生産が発展していきました。バレンタインにチョコレートを贈る風習は日本のメーカーが仕掛けた戦略だったりしますw

これは1915年の芥川製菓という会社のチョコレートの型。
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欧米では鉄を使いますが、日本では入手困難だったので、木の彫刻に漆を塗っているそうです。

ここまで観てきた通り、チョコレートの原料はカカオですが、いまカカオの産地である熱帯雨林は失われつつあり、カカオの生産を拡大すれば森林の減少にも繋がりかねない事態です。また、カカオ農家の貧困の問題もあり、これに対して「世界カカオ財団」などは栽培や加工の指導を行ったり熱帯雨林の生態系保護に努めています。(最近はフェアトレードを謳うチョコも増えましたね)
チョコレートは昨今取り沙汰されるSDGsと密接な関係がありそうです。


ということで、美味しい反面で環境や貧富の格差といった難しい問題も垣間見えるのがチョコレートとなっています。甘いけど甘くない…。今後いつまでも食べられるか分かりませんね。



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《マンモス》 テーマ別紹介

今日はテーマ別紹介で、マンモスを取り上げます。マンモスは約400万年前からユーラシア大陸のみならず南北アメリカ大陸やアフリカ大陸に生息した象に似た生き物です。巨大な牙を持ち「マンモス団地」や「マンモス校」などのように巨大生物の代名詞的な使われ方をしますが、実際にはアフリカゾウより小さな生き物でした。その絶滅の原因は人間による乱獲や気候変動など諸説があり、約4000年前に絶滅したと考えられていますが、現在でも氷漬け状態でマンモスが見つかることがあり、ほぼ当時の姿を目にすることも可能となっています。今日はマンモスについて2019年の日本科学未来館の展示を振り返る形でご紹介しようと思います。
 参考記事:「マンモス展」-その『生命』は蘇るのか- (日本科学未来館)

まずこちらはケナガマンモスの全身骨格。かなり立派な牙を持っています。30~40歳の雄の骨格で、2~3頭の骨を組み合わせています。
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しかし実際に近くで見ると思ったより大きくはありません。 マンモス=デカイというイメージがありますが、アフリカゾウよりは小さい(体高は285cm)生き物です。

マンモスは4000年前に絶滅したと考えられていて、象とは違う系統の生き物です。500万年前頃に象と分岐して進化し、寒さに適応して体毛に覆われた姿だったようです。

こちらはコロンビアマンモス。
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一口にマンモスと行っても色々種類があり、ステップに住んでいたムカシマンモスという種などもいます。

かつて日本にも北海道あたりにもマンモスが住んでいたそうです。

こちらは再びケナガマンモスの頭骨と下顎骨。
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マンモスの歯は生涯5回生え変わり、歯を観ると年が分かります。また、200kg以上の草を毎日食べたそうで寿命は60~70年なのだとか。

マンモスの名前の由来はサモエード語で「マー(地中の)」「モス(動物)」とのことで、かつては骨から想像し、巨大なネズミか巨大なモグラではないかと考えられていました。

こちらはケナガマンモスの牙(左切歯)4.5m
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マンモスはこの牙で雄同士の喧嘩や敵への威嚇で使ったとも考えられているようです。100kgもある非常に重い牙です。

こちらはケナガマンモスの歯(上顎左第3大臼歯) この歯で堅い草をすりつぶして食べていたようです。
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1日16時間以上かけて食事していたそうで、イネ科のスゲなどを食べていたようです。

こちらはユカギルマンモスの頭部の冷凍標本1/1サイズのレプリカ。
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2005年の愛・地球博でも展示されたもののレプリカです。現在でも氷漬けの状態でマンモスが見つかることがあります。

近年の地球温暖化でロシア極東のサハ共和国の永久凍土から次々と見つかっています。

こちらは1977年に発見された「ディーマ」と呼ばれる4万年前のケナガマンモスで、非常に貴重な仔マンモスの完全体の冷凍標本です。
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ちょっとミイラ化しているようにも見えますが、毛もついているしこれだけ完全な形で残っているのに驚きます。生後6~11ヶ月くらいらしく、泥の池ハマって死んだと考えられるようです。4万年も腐らずに残っているなんて本当に奇跡ですね。

こちらは同じくサハ共和国で見つかった動物の骨を使った道具類
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人類はグループでマンモスを狩っていたそうで、火を使って崖に追い込んで仕留めたりしていたようです。大人のマンモスはステップで最強の生き物でしたが、人間によって狩られまくって絶滅の原因の1つとも考えられています。狩られたマンモスは食用だけでなく、牙で武器や道具、骨や皮でテントも作っていたのだとか。

ちなみにマンモスの肉は筋肉質で固くて美味しくなかったと考えられるそうで、ウマやバイソンの方が好まれたのだとか。はじめ人間ギャートルズのマンモス肉はめっちゃ美味そうだったのに…w

こちらは32700年前のケナガマンモスの鼻 
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鼻先が綺麗なハート型をしています。ひだの構造になっているので寒い時は内側に鼻を丸めてしまって体温を下げないようにしていたと考えられるそうです。それにしてもこれだけ綺麗に残っているのは衝撃的です。

マンモスの絶滅の原因は乱獲だけでなく気候変動で温暖湿潤になったことや、寒冷に適応しすぎた「特殊化」して気候変動に適応できなかったことも考えられるようです。本当の理由はまだ確定していないようですが恐らく複合的なもののようで、多分 気候が一番の原因でしょうね…。

こちらは実物のマンモスの毛。
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この展示の時、実際に毛を触ることができました。2種類あって長い方は外敵から身を護るもので、結構硬いです。短めのほうは体を温める為のものでモシャモシャしていました。

こうした実物のマンモスの多くはサハ共和国から発掘されます。

特にバタガイカ・クレーターという所で発掘され、永久凍土が崩落してできた場所となっています。
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半端なく広くて100mくらいの断崖絶壁になっています。永久凍土を調べることで当時の植生や気温なども分かるそうですが、中にはメタンガスも大量に含まれているので溶けると更なる温暖化が懸念されるようです。

こちらが冷凍マンモスのいる洞窟
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マンモスがどんどん出てくるマンモスの墓場だそうです。しかし何故こんなにも腐らず、他の動物に食べられずに残っているんでしょうね… みんなドロ池にハマったとも思えないし、水害かなんかでしょうか。

マンモス以外にも氷河期の動物が見つかることがあります。

こちらは2018年に見つかったばかりの4万1000年ほど前の仔馬の冷凍標本。 生後2週間~1ヶ月程度の仔馬だそうです。
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寝ているようで可愛い…w 注目は目の周りの毛で、寒冷化に対応していたのが伺えるようです。この仔馬からは液体状態の血液と尿まで採取できたとのことなので、今後の研究も期待できそうです。

ちなみに仔馬の上にあるのはケナガマンモスも皮膚です。

こちらは9300年前のユカギルバイソン。こちらもかつての姿をそのまま残しています。
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注目は顔で、有毒な草を食べたのが死因と考えられるので苦しそうな表情をしているようです。死ぬ時は何が原因でも苦しいでしょうけどね。

他にも子犬や雷鳥の丸ごと氷漬けになった姿などもサハ共和国で見つかっています。冷凍標本は永久凍土から掘り出すとすぐに溶けるので、真冬に運ばれるそうです。冷凍状態なので細胞やDNAを解析することも可能で、冷凍マンモスからマンモスを復活させるプロジェクトまであります。2019年3月11日に近畿大学が2万8000年前のマンモスの細胞核が再び生命活動の兆候を見せたというニュースを発信し、多くの研究者や人々を驚かせました。

こちらは近畿大学が発表したマンモスの細胞核
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細胞レベルでは生命活動の再現に成功したようで、これだけでも十分にすごいことです。近縁種のアジアゾウなどを使ってクローン羊「ドリー」の技術での復活を考えたようですが、アジアゾウも絶滅危惧種なのでそうも行かないし、成功した後の影響も考えながら慎重に研究しているようです。

本当にマンモスを復活させることが出来そうな雰囲気ですが、そこまでの道のりはかなり険しい道となります。倫理的にはどうなんでしょうね…


ということで、太古のロマンを感じさせるだけでなく復活できるかも??という現代科学の挑戦も感じさせる動物となっています。今後も研究は続いて行くと思いますので、それ次第でまた認識が変わって行くかもしれませんね。



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