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《ディエゴ・ベラスケス》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、スペインの生んだ17世紀の巨匠ベラスケスについて取り上げます。ベラスケスは国王フェリペ4世のお抱えの画家でありながら優秀な官僚でもあった為、残された絵画は120点程度と少なく その多くは宮廷に伝わったこともあり 日本で観られる機会は滅多に無いと言えます。しかし真に迫る作風(特に人物画)はマネやピカソ、フランシス・ベーコンなど後世の画家に大きな影響を与え、現代でも非常に高い評価を得ています。今日は実物の写真は無く、ポスターの写真のみとなりますが過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


ベラスケスはスペインのセビリアに生まれました。以前の展示では平民出身と言ってましたが、没落貴族という説もあるようです。多才で絵画の才能にも秀でていたため11歳の頃から地元の有力画家だったフランシスコ・パチェーコに弟子入りし、18歳(1617年)には独立してその翌年には師の娘と結婚しています。

ディエゴ・ベラスケス 「東方三博士の礼拝」の一部のポスター
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こちらは20歳(1619年)の頃に描いたイエス・キリスト誕生時の東方三博士の礼拝をテーマにした作品です。明暗が非常に強くてベラスケスの他の作品と比べると作風がちょっと違うように見え、この頃に流行していたテネブリズムという明暗のコントラストを強調した様式を用いていると思われます。画中の跪いている博士はベラスケス自身の自画像と考えられているようで、キリストは自分の娘、マリアは妻をモデルにしているようです。キリストは光っていて気品もあるけど、割と普通の子のようにも見えるのはそのせいかも知れません。ベラスケスっぽくはないけど面白い作品です。

ベラスケスの時代の絵画の花形と言えばやはり宗教画で、宗教改革の頃に対抗宗教改革の一環として分かりやすく信仰心を掻き立てるような宗教画が求められました。初期にはこうした宗教画や、「ボデゴン」という現代では静物画を意味するスペイン独特の風俗画が描かれたようです。そして24歳の時(1623年)にマドリードへ旅行した際に国王のフェリペ4世から肖像画の依頼を受け、それが気に入られて宮廷画家となりました。

ディエゴ・ベラスケス 「狩猟服姿のフェリペ 4世」の一部のポスター
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こちらは1632~34年頃の作品で、猟銃を持って猟犬を従えるフェリペ4世の立ち姿を描いています。ちょび髭をはやしていて、顎が長いのはハプスブルク家の人々の特徴かな。 割と質素な服を着ているのですが、これは当時 財政難だったこともあって質素倹約を求められていたのが背景にあるようです。また、こうした狩猟の絵は軍事的資質を示す目的もあるようで、ただの肖像にも様々な意味が込められているようです。私には威厳があるというよりは洒落た人物に見えます。

宮廷における美術は王や国の権力を示す意味もあり、フェリペ4世は40年で3000点以上の絵画を収集したコレクターでもありました。

ディエゴ・ベラスケス 「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」の一部のポスター
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こちらは1635年頃の作品で、描かれているのは小さな王子が馬に乗った姿です。割と背景も描き込まれていて、空気遠近法で霞む山なども観られます。全体的に粗いタッチの描写も観られ、離れてみると情感があるという印象派の先鞭とも言える部分もあります。それにしても可愛く凛々しい王子様で、6歳の頃に両親の希望で描かれました。 しかし、その後17歳の頃に若くして亡くなってしまったのだとか。

ベラスケスは画家だけでなく官僚としても活躍した人物だったのですが、相当な野心家だったそうです。平民出身だったもののどんどん出世して、サンディエゴ騎士団の団長(平民出身ではなれないはずの地位)にもなったそうです。

ディエゴ・ベラスケス 「フアン・マルティネス・モンタニェースの肖像」の一部のポスター
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こちらは1635年頃の作品で、ヘラを使って彫刻を造る黒衣の男性(彫刻家モンタニェース)を描いています。彫刻はベラスケスも仕えたフェリペ4世の像らしく、彫刻家はこちらをチラッと振り返って手を止めているように思います。まるで自分が画家自身の視点にいるような感覚を覚えて、彫刻家・画家・鑑賞者の関係性が面白く感じられるかな。それにしてもベラスケスの黒の使い方は流石で、黒衣でも光沢があるように見える絶妙な表現です。

モデル、画家、鑑賞者の関係が絡み合う構図は代表作の「ラス・メニーナス」の原型とも受け取れるようです。たまに画家自身が出てくるのがメタ的で面白い特徴かな。

ディエゴ・ベラスケス 「マルス」の一部のポスター
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こちらは1638年頃に描かれた作品です。この兜からこの男性は戦いの神マルスを示しているようですが、それにしては疲れてぼんやりしているように見えます。これは戦争の神が暇をしている平和な世の中を意味しているようで、ベラスケスがフェリペ4世を讃えているのかもしれません。 割と粗いタッチで描かれているのですが、離れて観るとしっかり描き込まれているように見えるのは、後の印象派を先取りしたかのような表現となっています。このタッチもベラスケスの特徴ですね。

キリスト教においてギリシア・ローマの神は異教の神なので、主題にするのは稀だったそうです。 また、こうした異教の神は大抵は裸体であるのも猥褻とされていたようですが、当時の王侯貴族は邸宅に秘密の部屋という立ち入り禁止の空間にそうした作品を集めて愛好していたのだとか。展覧会ではギリシャ神話を主題にした作品を割とよく観るように思うのでちょっと意外ですね。

ディエゴ・ベラスケス 「メニッポス」の一部のポスター
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こちらは1638年頃の作品で、この人物は古代の風刺的な哲学者です。元奴隷で金貸しで財を成したものの、騙し取られたという波乱万丈の人生だったそうで、ちょっと笑っているのもあって皮肉屋っぽい雰囲気もあるかな。古代の人物であるものの格好自体は当時のスペインの服のように観え、この絵でも黒衣の表現が見事です。ちらっと顔だけこっちを向いているのはさきほどのの彫刻家の作品と似た構図にも思えます。

ベラスケスは同時代のルーベンスとも親交があったようです。自らをティツィアーノやルーベンスの後継者として位置づけていたようで、やはり野心家だったんでしょうね。

ディエゴ・ベラスケス 「青いドレスの王女マルガリータ・テレサ」の一部のポスター
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こちらは1659年の作品で、王女マルガリータ・テレサが9歳の頃の作品です。許嫁のレオポルド1世に贈るためにベラスケスに描かせた3枚のうちの1枚で、ベラスケスはこの子の肖像を何度となく描いていて、あちこちの展覧会で観ているので親戚の子供か?というくらい成長過程を知っていますw 大きく膨らんだドレスは離れて観ると緻密に見えますが、実際に近くでじっくり観ると意外と大胆な筆致で表現されています。つぶらな瞳をしていて何とも可愛らしい子ですね。マルガリータはこの後15歳で結婚し、夫とも仲が良かったのですが21歳の若さで亡くなってしまいました。

1555年に皇帝の地位を退いたカール5世は、弟のフェルディナントに神聖ローマ皇帝の位とオーストリアの支配権を譲り、一方で長男のフェリペにはスペイン王位を継承しました。これによってハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系に分裂し、17世紀にスペイン系が消滅するまで分立が進みました。お互いに対抗意識を持ちつつも密接な関係を保っていたようで、両者の間で縁組も行われています。そして近況を知らせたり婚約者の姿を相手に示すために肖像画が利用され、ベラスケスもこうした作品を残しています。

ディエゴ・ベラスケス 「白衣の王女マルガリータ・テレサ」の一部のポスター
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こちら(左側)は1656年頃の作品で、先程の3年前の6歳の頃のマルガリータです。大体このポーズでキリッとした表情で描かれている気がしますw 流石にまだ幼い感じがするけど気品があるのは流石です。 

ディエゴ・ベラスケス 「皇太子フェリペ・プロスペロ」の一部のポスター
マルガリータの作品の右側に写っているのが1659年に描かれたマルガリータの弟の肖像です。女の子のようにも見えますが王子様で、病弱だったらしくお守りなどを身につけていました。しかしその甲斐もなくこの絵の2年後に死んでしまったのだとか。そのせいか可愛らしいけどどこか頼りなく影がある感じです。近親交配が進んだのが病弱の原因と考えられるのだとか。

先程の6歳のマルガリータが描かれた年に一番の代表作である「ラス・メニーナス」が描かれました。王女マルガリータを中心に女官や矮人(道化師などと共に宮廷に仕えた発達障害の人)を配し、絵の中にベラスケス自身も描かれた群像で、鏡の中にはフェリペ4世夫妻もいると言われています。鑑賞者の立ち位置が鏡の正面なので、国王の視点となっているように思えるのも面白い仕掛けだったりします。

最後におまけで現在活躍中の人気作家 森村泰昌 氏によるベラスケスの「ラス・メニーナス」になりきる作品。
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この人物たちは全員 森村泰昌 氏が変装していますw サムネイルで観ると実物に見えるクオリティの高さが流石 森村泰昌 氏。 ちなみにベラスケスは1659年に貴族に列せられ、その際にサンティアゴ騎士団の紋章である胸の赤い十字を描き足したそうです。
 参考記事:森村泰昌展 ベラスケス頌:侍女たちは夜に甦る (資生堂ギャラリー)


ということで、今日は1枚も実物の写真がありませんでしたがそれだけ貴重な画家と言えます。点数が少ないのに影響力が強いというのが その偉大さの表れかもしれません。数年おきにスペイン関連の展示で観る機会がある(特にマルガリータの肖像)ので、来た時は欠かさずチェックしておきたい画家です。


 参考記事:
  プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光 感想前編(国立西洋美術館)
  プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光 感想後編(国立西洋美術館)


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《岩佐又兵衛》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、戦国末期から江戸初期に活躍した岩佐又兵衛について取り上げます。岩佐又兵衛は通称で、本名は勝以(かつもち)で現在の伊丹に戦国武将 荒木村重の子として生まれ、主君である織田信長に反旗を翻したことから一族は滅亡の危機を迎えますが奇跡的に生き残りました。その後、母の姓を名乗って京都で活動し、豊臣の滅亡後に現在の福井に移住して20年ほど過ごした後に江戸に移っています。その画風は1つの流派に属さず、大和絵と漢画を融合した画風で人物画に本領を発揮しました。題材は幅広く、古典から風俗まで描いて浮世絵の祖とされることもあり後世に影響を与えています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

先述の通り、岩佐又兵衛は摂津伊丹城主荒木村重の子として誕生し戦乱に巻き込まれたものの、まだ赤ん坊だったので一族虐殺を生き延びることができました。土佐派や狩野派に学んだとされますが詳細はよく分かっておらず、牧谿や梁楷といった南宋時代の中国の水墨の画家なども研究していたと考えられています。画業初期の京都時代には代表作で国宝の「洛中洛外図屏風 舟木本」などが描かれています。(京都時代の写真は見つからず…)

岩佐又兵衛 「老子出関図」「雲龍図」
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こちらは元は六曲一双の屏風に龍虎と人物が12図貼りこまれていたようですが、明治時代に分割され今は掛け軸となっています。ぬっとした龍と、ちょっととぼけた顔の牛が可愛いw 墨の濃淡を自在に操って緩急のある表現も見事です。

この作品は大阪夏の陣で豊臣が滅びた後(40歳頃)に移り住んだ福井で制作されたもので、福井の豪商の金屋家に伝わった「金谷屏風」の一部です。2図ほど行方不明になっていて全部観ることはできませんが、東博や山種美術館、出光美術館などでそのシリーズを観ることができます。

岩佐又兵衛 「官女観菊図」のポスター
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こちらも「金谷屏風」の一部で、牛車の中で御簾を上げる侍女と足元の菊を見る2人の宮廷女官が描かれています。源氏物語の六条御息所を描いたものらしく白黒なので静かな印象を受けますが、実物をよく見ると3人の女性の唇はうっすらと赤くなっていて艶やかさがあります。トリミングされたような構図が面白い作品となっています。

大和絵を得意とした岩佐又兵衛ですが、こうした水墨も得意だったようです。割と画風が幅広く、観られる機会も少ないので中々馴染みにくい画家ですw

岩佐又兵衛 「伊勢物語 鳥の子図」
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こちらも「金谷屏風」の一部で、右隻第6扇というセンターを務めた作品ですw 伊勢物語の第50段「鳥の子」で、女が男に恨みの和歌を返すシーンを描いているらしく、結構怖い顔しているように観えます。岩佐又兵衛の人物は顔に特徴があって、顎が長くて頬がぷっくりしてますw そのため「豊頬長頤」と呼ばれるようで、この作品はそれがよく出ていますね。

岩佐又兵衛 「羅浮仙図」
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こちらも「金谷屏風」の一部で、隋の時代の羅浮山を舞台にした伝説を描いています。この女性は梅の精(仙女)で、羅浮仙と呼ばれています。色鮮やかで清く爽やかな感じを受けるかな。それにしても金谷屏風は日本の文学や中国の仙人など題材が幅広くて、どういう基準なんだろうか?と未だに疑問です。

ちなみに金谷屏風は福井県立美術館で数日間(2017年8月26日~28日)だけ現存10図が夢の再開を果たすという奇跡の機会がありました。私は行けませんでしたが伝説の展覧会です。

岩佐又兵衛 「本性坊怪力図」
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こちらは『太平記』に出てくる南北朝時代の大和の般若寺の僧の本性房を描いた作品。崖の上でデカい岩を投げ落とそうとしているのが本性房で、笠置山の後醍醐天皇を六波羅探題の軍が攻めた時に大石を敵中に投じて退散させたという逸話を描いているそうです。大和絵のようでもあり岩などは漢画のようでもある独特の画風となっていて、臨場感ある構成も面白い。

こんなコミカルな雰囲気の作品もありますが、岩佐又兵衛は血みどろでスプラッターな作品も結構あります。首を跳ね飛ばされたり斬られて血が吹き出したり…w 割とそっちのほうが有名な作品が多いので、おどろおどろしい画家のイメージを持っている方もいるかも。

伝 岩佐又兵衛 「故事人物図屏風」
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こちらは本人の作品かはっきりしない作品。故事の出典もはっきりせず謡曲の「蟻通」や「住吉詣」、源氏物語の「桐壷」などが有力な説のようです。人々はそれほど顎が長くないけど生き生きとした雰囲気は岩佐又兵衛っぽさを感じるかな。

岩佐又兵衛は福井で20年ほど活躍し評判となり、1637年頃に幕府(秀忠?)の招きで江戸に出ています。3代将軍の家光の娘の千代姫の婚礼調度品の制作を命じられ、それが終わってからも川越の仙波東照宮の拝殿に奉納する「三十六歌仙図額」を制作するなど江戸でも20年ほど活躍したようです。

岩佐又兵衛 「風俗図」
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こちらは団扇に描かれた当時の風俗を描いたもので、晩年の作 もしくは工房作と考えられているようです。生き生きとして人情味が感じられて 浮世絵の始祖とされる理由も分かるかな。

こちも風俗図
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ごろ寝した母親に集まる子供や煙管を吸う男など、のんびりした雰囲気です。戦乱の時代って感じじゃないので世の中が落ち着いた頃でしょうか。穏やかな光景です。

先述の「三十六歌仙図額」の裏に「寛永十七年六月七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」という銘があり、明治時代にそれが発見され「勝以」と岩佐又兵衛が同一人物であるのが確かとなりました。結構、謎が多い画家です。

岩佐又兵衛の作品の写真は少なかったので、ここからはオマケとなります。

岩佐勝重 「猿猴芦雁図」
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こちらは岩佐又兵衛の息子による2幅対の作品。右幅の構図と左幅の雁の首の曲線が呼応するように思えます。猿がゆるキャラみたいで可愛いw

歌川国芳 「浮世又平名画奇特」
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こちらは江戸後期の浮世絵師の歌川国芳による岩佐又兵衛の伝説を描いた作品。浮世絵の祖・又平(岩佐又兵衛)が描く絵の中から人や妖怪たちが出てきた様子が描かれています。岩佐又兵衛へのリスペクトを感じますが、その一方で鷹匠の袖に将軍の家定を表す文字があったり藤娘が大奥を表すと評判になったそうで、国芳は版元と共に過料に処せられています。反骨精神ぶりは国芳らしいかなw

歌舞伎の演目「傾城反魂香」の主人公に浮世又兵衛という人物がいて、岩佐又兵衛がモデルとされています。江戸時代を通して有名な画家だったことが分かりますね。


ということで、幅広い作風と題材で一言で言い表すのは難しい画家となっています。その特徴の掴めなさがいまいち一般受けしていない気もしますが、国宝や重要文化財が多く美術好きの中にはファンの多い画家です。最近は奇想の画家として評価が高まってるので、福井の展示のように東京でもまとめて紹介して欲しいものです。


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《レンブラント・ファン・レイン》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、17世紀オランダの黄金時代に活躍した巨匠レンブラント・ファン・レインについて取り上げます。レンブラントはバロック絵画の代表の1人であり、明暗表現で非常に評価が高く「光の魔術師」と呼ばれることもあります。宗教画も描いていますが肖像画や風景画など当時のオランダの様子を伝える作品が多くあり、自画像は50点近く残したとされています。一方、生前から名声を得ていたものの 50歳で破産し、それ以降は貧しい生活を送りました。そんなレンブラントについて過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

レンブラントは1606年の生まれで父はオランダのライデンの製粉業だったようです。ファン・レインは日本語でいうと「ライン川の」という意味で、父親がライン川沿いの風車で製粉を行っていました。14歳で飛び級でライデン大学に入学し法律家の道を目指したものの、すぐに画家への転向を志し、ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフという画家に弟子入りして学んでいます。さらに18歳からは当時のオランダで最高の歴史画家とされたピーテル・ラストマンに弟子入りし、アムステルダムで学びました。19歳でライデンに戻るとアトリエを構えて画業を開始し、すぐにエッチングにも取り組み それによって名前が広まっていきました。

レンブラント・ファン・レイン 「音楽を奏でる人々」の壁紙
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こちらは最初期から1年程度の1626年の頃の作品。楽譜を広げて座り手を挙げて歌っている女性や、後ろで竪琴を弾く人、じっと聴いている女性、左でバスガンバという大きなチェロのような楽器を弾いている人などが描かれた油彩画です。強い光が当たっているようで、ドレスや本に質感・立体感があります。後の作風とはだいぶ違って観えるものの この頃から明暗を意識し始めたようで、貴重な作品です。

レンブラントはピーテル・ラストマンのところでカラヴァッジョやデューラーについて多くを学んでいたようです。カラヴァッジョも明暗が劇的な画家なので、その影響は大きそうですね。

レンブラント・ファン・レイン 「アトリエの画家」の壁紙
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こちらも初期の1628年頃(22歳頃)の作品。この絵は、ガランとした部屋の中、手前に大きなイーゼルとそこに掛けられた絵、その前のちょっと離れたところに立って絵を観ている画家(レンブラント本人?)が描かれています。窓から入る光で部屋の中に陰影がつき、遠近感や立体感、質感などを感じます。これは画家が絵の構想を練っているところらしく、自らの絵画理念を視覚化した初期の傑作とされます。どんな絵が描かれているんでしょうか…。

1630年に父親が亡くなると、レンブラントはアムステルダムへと進出しました。

レンブラント・ファン・レイン 「Portrait de l'artiste en costume oriental(東洋風の衣装をまとう自画像)」
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こちらは1631~33年頃(25歳頃)の油彩の自画像で、足元の犬は狩猟に使われたプードルのようです。レンブラントには光が当たり、その周りの闇のグラデーションが見事で、服の光沢や犬の毛並みなどの質感もさすがです。レンブラントは自信のありそうな顔をしていて、若いはずなのに威厳も感じます。

この頃のオランダは黄金時代を迎え海運で栄えていました。その交易は遥か遠い日本にまで及んでいて、プロテスタントの国だったので開かれたばかりの江戸幕府との交易を独占しています。経済的に発展していたので市民階級の生活水準も高く、肖像画などを発注する余裕のある商人もいて芸術も花開きました。それまでの絵画は教会の宗教画が中心でしたが、オランダではプロテスタントの市民が芸術庇護したので、肖像画、静物画、風景画、風俗画など新しいジャンルが発展したのも特徴となっています。

レンブラント・ファン・レイン 「Portrait de l'artiste à la toque et à la chaîne d'or(縁なし帽をかぶり、金の鎖をつけた自画像)」
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こちらは1633年の自画像。こちらを観る顔はすこし険しくて27歳とは思えないほど威厳があります。金の鎖が黒に映えて質感豊かに表現されているのも上流階級のような雰囲気です。この年には裕福な妻と結婚していて、この妻のおかげで富裕層とのコネクションもできて順風満帆といった時代となっています。イケイケで無敵だった様子が表れてるんでしょうねw

この前の年には「テュルプ博士の解剖学講義」を手掛けています。集団肖像で解剖の講義という全く新しいモチーフという点でも画期的な作品です。

レンブラント・ファン・レイン 「石の手摺りにもたれる自画像」
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こちらは1639年の作品です。まだ未完成なのか、人物の右の方は描き足している途中みたいな感じがします。(背景も真っ白だし) 意図したものか分かりませんが、背景が白いのが緻密に描かれた自画像の存在感をかえって強めているように思えます。歳を重ねて一層に厳格そうな顔つきも印象的です。このポーズは当時アムステルダムにあったティツィアーノの「詩人アリオストの肖像」を手本にしたと考えられているそうで、翌年には同じようなポーズでラファエロの作品を意識した油彩画も残しています。巨匠に学び追いつき追い越せという気概の表れなんでしょうね。

この年にレンブラントは豪邸を手に入れ、大きな工房を設けました。この頃が人生の絶頂期かも。

レンブラント・ファン・レイン 「Rembrandt à la toque sur fond d'architecture」
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こちらは1640年の自画像。だいぶ髪が伸びましたねw やや目つきが穏やかになっているように思えます。背景の建物の柔らかい陰影と緻密さが面白い。

この年には代表作となる「夜警」の発注を火縄銃手組合から受けて、1642年に完成させています。「夜警」は美術家には高く評価されましたが発注者たちには不評でした。というのも、登場人物の配置や大きさがまちまちでお金を出したのに目立ってない人が不満に思ったからですw むしろ擬人が一番目立ってたりするので怒る気も分かるけど、不朽の名作として名高い作品です。

レンブラント・ファン・レイン(弟子?) 「La Saint Famille,dite parfois Le Ménage du menisier」
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こちらは1640年に描かれた聖家族をテーマにした作品。弟子の作品かもしれないってことで、ちょっと画風が異なる気がします。赤みがやや強めで雰囲気が柔らかいような…。ちなみにレンブラントは以前は1000点以上の作品が残されたと考えられていましたが、真贋を再評価する為に組織された「レンブラント・リサーチ・プロジェクト」によって現在は真作は349点とされています。弟子だったり工房だったりでだいぶ減ってしまいました。

栄華を極めたレンブラントですが、「夜警」が完成した1642年に妻が亡くなると人生が暗転します。画家としてよりも美術商の仕事に力を入れた結果、売買のトラブルや借金を作り、さらに召使いと恋仲になったことで亡き妻の実家と険悪になってしまい金銭的に苦境へと追い込まれていきます。絵画の仕事も遅延や注文主の要望よりも自分の芸術を優先することが敬遠されたという説もあり、徐々に減っていきました。

レンブラント・ファン・レイン 「Abraham Francen」
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こちらは1647年の版画作品で、友人のアブラハム・フランセンをモデルにした肖像です。白黒写真じゃないか?ってくらい緻密な陰影表現で、絵そのものに衰えは感じませんね。この人は苦境の中でもレンブラントの友達であり続けた人物のようです。

レンブラントは版画作品を多く残しています。版画は修正を何度も繰り返したそうで、同じ作品でも「ステート」と呼ばれるバージョンの違いがあります。さらに、レンブラントは紙にもこだわり、インド紙、中国紙、淡い色の紙など様々な版画用紙を用いて版画を刷っていたようで、中でも最も重要だったのが和紙でした。和紙は白い西洋紙と異なり薄いクリーム色(象牙色)をしていて陰影表現を緻密に表現でき、原版も痛みが少ないなど様々な利点があったようです。(和紙刷り版画の開始はこの作品と同じ1647年でした。) しかし50歳辺りになると銅板画はほとんど作らなくなったそうで、視力や体力の衰えが原因のようです。

レンブラント・ファン・レイン 「Le Christ se révélant aux pèlerins d'Emmaüs」
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こちらは1648年の作品で、日本語では「エマオの晩餐」でしょうか。復活したキリストがエマオの町で弟子と食事をするシーンが描かれています。キリストは柔らかい後光がさして一際目を引きます。やや疲れて虚ろな顔つきに観えるのは復活したばかりだからかな? 弟子たちは慄いているようにも観えます。後ろの召使いが運んでいるのは羊だそうで、犠牲の象徴だったりと読み解こうとすると色々見つかるようです。

レンブラントはキアロスクーロと呼ばれる劇的な明暗の対比を使っていましたが、レンブラントの深い明暗と絵画性は同時代の著述家に「とても変わった技法」と呼ばれたそうです。明暗表現は彼の生涯のテーマであったものの、1650年代は別の可能性も探っていたのではないかと考えられるようで、あえて線描を強調した作品もあるようです。

レンブラント・ファン・レイン 「Bethsabee au bain tenant la lettre de David(ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴)」
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こちらは1654年の作品で、人妻のバテシバに横恋慕したダビデ王が旦那のウリヤ将軍を戦場の最前線に追いやるという物語のワンシーンです。手に手紙を持ち、足元にいるのは年老いた侍女です。ダビデはいないけど、この組み合わせでバテシバの物語と分かるらしく、その官能性が遺憾なく表現されているように思います。実際、これを最高傑作と考える人もいるくらいで、非常に素晴らしい傑作です。

1652年に英蘭戦争が勃発してオランダ経済が不況に陥ると債権者たちの態度も厳しくなり1656年(50歳)でレンブラントは破産して無一文になりました。それでもレンブラントの絵画が駄目になったわけではなく、かえって純粋に絵画に向き合い評価の高い作品を残しています。晩年まで名声はあるものの暮らしは貧しい状態が続き、1669年に亡くなりました。(晩年の作品の写真は見つからず…)


ということで、明暗の見事な作風で 人生も明暗が分かれた…と言いたくなるような画家です。最後まで画風を進化させ絵に関しては凄かったので、もっと画家に専念してたら…と思うとちょっと惜しい気がします。レンブラントを観るときはそんな悲哀を考えながら観ると深みが出るかもしれませんね。



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《雪舟等楊》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、15世紀から16世紀初頭にかけて活躍し日本画に絶大な影響を与えた雪舟等楊について取り上げます。雪舟の現存作品は少なく真作と断定できるものは僅かですが、6点が国宝に指定されていてその重要性を物語っています。狩野元信を始め、狩野派の一門は雪舟を半ば神格化していたし、長谷川等伯などは自らを雪舟五代と名乗るなど 雪舟を学んだ画家は枚挙に暇がありません。同時代にイタリアではルネサンスを迎えていましたが、日本でも同レベルの天才がいたというのが面白い所です。そんな雪舟について今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

まず雪舟の画業についてですが、よく分かっていない点や諸説あるようなので、有力な説を辿っていこうと思います。雪舟は今の岡山に生まれ、幼くして寺に入って10歳には京都の相国寺に移っています。そこで禅を学びつつ周文に師事して画を学びました。30代半ばになると大内氏の庇護を受け京都から周防(山口)に移り、45歳の時に楚石梵琦(元時代の禅僧)の墨跡「雪舟二大字」を手に入れて、そこに書かれた「雪舟」へと改号しました。(それまでは拙宗を名乗っていました。別人とする説もありますが改名とするのが有力な説です) そして48歳の応仁元年(1467年 応仁の乱の年)には遣明使に従って明に渡って水墨画を学んでいます。日本では周文、如拙(周文の師)、明では当時の李在、長有声など浙派に学び、同時代の呂紀、南宋時代の大家である馬遠、夏珪、玉澗なども研究していたようです。

伝雪舟等楊 「梅下寿老図」
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こちらは年代不明で本人の作かも分かりません。私が観ると別人の作品に思えますが…w 鹿を連れているのが寿老人の特徴で、長寿の神様とされています。うねるように松竹梅の枝が描かれ独特のリズムが面白い。ちなみに明治時代にこの作品を学んだ橋本雅邦が同様の構図で寿老人を描いています。

雪舟の作品は制作年が分かるものが少ないので順不同になっているかもしれません。専門家でも雪舟の真作を調べるのは大変なことらしいので、素人にはお手上げですねw

伝 雪舟等楊「墨梅図」
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もう1つ年代不明で真作か分からない作品。素早い筆致で勢いを感じさせる枝となっているけど、これも何となく違うような気がします。

雪舟は半ば伝説化していて、小僧の頃にお仕置きで柱に縛り付けられた際、涙を足の親指につけて鼠を描いたという話があります。あまりに真に迫っていて住職が本物と見間違った… なんて真偽の分からない伝説が『本朝画史』に残されているほどです。

雪舟等楊 「四季山水図(春)」 「四季山水図 (夏)」
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右が春で左が夏です。これは雪舟が中国滞在中に描いた作品で、画風・構図・題材・材質などにおいて中国的傾向が強いとされています。各幅に「日本禅人等楊」の款と「等楊」の白文方印、「光沢王府珍玩之章」という鑑蔵印があるそうで、わざわざ「日本」と書いている点や「光沢王」が明の王族に与えられる称号の1つであることが明時代に描いたという根拠になっているようです。この頃の中国では浙派風のスタイルが流行っていたそうで、岩の描き方にその特徴が観られるようです。

雪舟等楊 「四季山水図(秋)」
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こちらも「四季山水図」(冬は写真がありませんでした) いずれも似た画風ですが私の中の雪舟っぽさをあまり感じません。その辺が中国的な要素が強いとされている点なのかも。それでも水墨のみで岩の硬さや沸き立つ雲の湿気を感じさせるのは流石ですね。

ちなみに浙派は粗い筆遣いで山々を険しく描くスタイルだったようで大胆かつダイナミックな雰囲気があるようです。これら3点にはその傾向があるというのも頷けます。

雪舟等楊 「秋冬山水図」
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こちらは2幅対の水墨画で、右が秋、左が冬の光景となっていて、いずれも岩場の向こうに楼閣が見える光景となっています。南宋の夏珪の水墨山水画に学んで描いたもので、結構太めのカクカクした輪郭を用いています。幾重にも連なり、遠景、中景、近景といった感じで奥行きを感じさせるかな。遠くのほうは薄っすら描いていたり繊細さも持ち合わせているように思います。

同じもののポスター。こっちのほうが見やすいかもw
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冬景の中央あたりに上に伸びる線がありますが、これはオーバーハングする断崖を表す輪郭となっています。この線で凄い緊張感が生まれているように思えますね。私の中で雪舟というとこの作風が真っ先に思い浮かびます。

若い頃から高い評価を受けていた雪舟ですが、国宝に指定されている6点全てが60代以降に描かれています。50代まで中国に行ったりしていたので、すべてが結実したのが晩年だったのかな。

雪舟等楊 「破墨山水図」
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こちらは1495年(76歳)に描かれたことが分かっています。以前観た展示では南宋時代の玉澗の作品と共に並んでいて、玉澗の潑墨山水に倣ったのがよく分かるようになっていました。背景の山は柔らかい墨の濃淡で描かれ、遠近感も感じられます。一方、手前の岩?は粗く描かれていて墨も黒々した感じです。大胆さと繊細さが同居したような感じが自由闊達な感じで好みです。上に書かれた賛には中国で李在と長有声に画法を学んだことなどを自叙伝風に書いているのだとか。

雪舟等楊 「慧可断臂図」のポスター
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こちらは1496年(77歳)の代表作。描かれているのは禅宗の祖である達磨と、弟子入りを願って断られた慧可という僧です。慧可は自分の腕を切り落として決意のほどを示し、弟子入りが認められたシーンを描いています。2人の間の緊張感が凄い。特に達磨の存在感が圧巻です。

雪舟等楊 「天橋立図」のポスター
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こちらは1501~1506年頃の晩年の作品(下の絵です) 日本三景の1つである天橋立を東側から描いていて、描かれている智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍から、制作されたのが1501年~1506年の間と考えられているようです。現地の実景を観て描いたようで、かなり細密な描写となっています。亡くなる直前にこのエネルギーとは。ちょっと空から観たような光景となっているのも面白い作品です。

ちなみに雪舟は没年もはっきりしていないようで、1502年説と1506年説が有力です。「天橋立図」は本当に晩年ですね


ということで、雪舟は不明な点も多いですが日本画の世界で特に重要な存在となっています。実際に中国で学んだというのも大きく、長らく模範とされました。国宝の作品は観られる機会も度々あると思いますので、是非覚えておきたい画家です。


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《ラファエロ・サンティ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、ルネサンス期の3大巨匠の1人ラファエロ・サンティ(ラファエロ・サンツィオ)について取り上げます。ラファエロは大きく分けて出身地のウルビーノ時代(1500年~1504年頃)、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ・ブオナローティに影響を受けたフィレンツェ時代(1504年~1508年頃)、教皇に仕えたローマ時代(1508年~1520年)となっていて、特にヴァチカンに多くの作品が残されています。生前から評価が高く、『画家・彫刻家・建築家列伝』を書いた後世の画家ヴァザーリも「ラファエロという人物には、優しさ、勤勉さ、美しさ、謙虚さ、品の良さを通して魂のあらゆる美点が光が輝いている」と評しました。その評価が頷けるような優美で気品ある作風となっていて、後世のアカデミー教育で画家の模範とされ数限りない画家たちに影響を与えました。今日もそんなラファエロについて過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


ラファエロは1483年にウルビーノの画家で詩人のジョヴァンニ・サンティの子として産まれました。父の工房は繁盛していたようですが、8歳の時に母を亡くし、11歳の時には父も亡くしています。ラファエロの画家としての基礎は父の工房の画家に学んだという説が有力のようですが、諸説あり実際のところはよく分かっていません。画家としてのラファエロの名が初めて現れるのは1500年12月10日に制作された祭壇画で、トレンティーノの聖ニコラウス教会の「父なる神、聖母マリア」「天使」を制作した時のようです。これには父の作品に観られるのと同じ技法が用いられている一方、ペルジーノ(ヴァザーリの著書ではラファエロの師匠とされている)からの影響も色濃く観られるようで、ペルジーノからの影響はその後一層顕著になっていくそうです。また、ラファエロはピントリッキオらに協力して働き腕を磨いていったそうで、ラファエロは急速に成長を遂げ、より大きな舞台を夢見るようになっていきました。

ラファエロ・サンティ 「自画像」のポスター
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こちらは1504~1506年頃の作品で、ウルビーノの時代の後のフィレンツェ時代となります。故郷に帰った際 家族かウルビーノ公爵の為に描いたと考えられる自画像で、優しげな顔立ちで知的な雰囲気がありますね。見た目通り慎ましく穏やかな性格で、一様に皆に褒め称えられる人物だったそうです。

残念ながらウルビーノ時代の作品の写真は見つからず…。ラファエロの父はウルビーノ公に仕えた宮廷画家で、フランドル絵画とイタリア絵画を調和させたた画風で 教養高く文才にも恵まれていたそうです。この父のコネクションはラファエロにも非常に有利に働きました。また、初期のラファエロはペルジーノを正確に模写していて、現在でもどちらの作品か意見の別れるものもあるほどだそうです。

ラファエロ・サンティ 「大公の聖母」のポスター
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こちらはラファエロがフィレンツェへやって来た翌年の1505年(22歳頃)の作品です。マリアは慈悲溢れる表情をしていて、キリストは柔らかい肉体表現で描かれしっかりと母につかまってますね。陰影も柔らかく緻密で、これぞラファエロといった気品ある作風です。背景が黒一色になっているのは後世に塗りつぶされたためらしく、元々は窓が描かれていたことが調査で分かっています。 タイトルの大公とは後世のトスカーナ大公フェルディナンド3世(ハプスブルク家に連なる家系の人物 1769~1824年)のことで、18世紀にナポレオンから逃れる際に亡命先に持っていくほどこの絵を大切にしていたそうで、いつも寝室に飾っていたことから名付けられたそうです。その頃に傷んでしまったのかも…。

ラファエロは1504年にウルビーノの宮廷の実力者にフィレンツェ共和国の行政長官宛の紹介状を書いてもらい、フィレンツェに進出を果たしました。この頃のフィレンツェではレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ・ブオナローティが政庁舎の壁画の注文を受けて下絵を制作していて、ラファエロは2人の芸術から大きな刺激を受けています。レオナルド・ダ・ヴィンチからは動き溢れる構図と陰影法、モナリザに観られる肖像画の優雅なポーズなどを学び、ミケランジェロからは男性裸体像の動きや短縮法、姿勢のヴァリエーションを学んで自分の作品に応用しています。ラファエロはこの2人以外にも過去の芸術家や同時代のフラ・バルトロメオらの作品にも積極的学んだようですが、むやみに学ぶのではなく、自らの目的に合うものを選び、変容させることも厭わなかったようです。ラファエロのフィレンツェ時代は主に上流貴族の注文による肖像画と聖母子像を多く制作し、ウルビーノやペルージャにも足を運んで その地にも作品が残されています。

ラファエロ・サンティ 「一角獣を抱く貴婦人」のポスター
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こちらは1505年~1506年頃の作品です。これを初めて観た時にレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザに構図が似てるなと思いました。(ピラミッド型の人物図はダ・ヴィンチの影響のようなのであながち間違いじゃないとは思います) そして、もう一つ気になるのが小脇に抱えた一角獣です。この絵は婚礼の際に注文されて作られ、一角獣は貞淑と純潔の証ですが、やけに小さくないか?w 仮にも馬ならもっと大きいのでは? と思いますが、実はこの一角獣は元々 犬を描こうとしていたのを一角獣に変更したのではないかと考えられています。 また、この絵の修復前は一角獣は車輪に置き換わり、女性は肩にマントを羽織って、聖カタリナとして描き換えられていたこともあるようです。(車輪はカタリナを表す持ち物) 修復の際にX線で調べてみて、一角獣の存在が分かったそうで、何故上から描かれていたのかはわかりませんが、ミステリアスな運命を辿った作品です。

ラファエロはフィレンツェにいながらキリスト教世界の中心都市ローマで働く機会を伺っていたらしく、1508年についにその機会を得ました。当時の教皇ユリウス2世は居室の装飾のため当代を代表する画家をローマに呼び寄せたそうで、その中にラファエロも加えられました。当初はチームの一員として従事していたようですが、やがて頭角を現し全体の装飾を任されることになり、他にもシスティーナ礼拝堂に飾るタピスリー制作など大きなプロジェクトをいくつも行うようになっていきました。そして大規模な工房を構え、幾つもの制作を同時に行うようになると共に、マルカントニオ・ライモンディ等の版画家を使って自らの素描を版画化していきます。その後、教皇ユリウス2世の跡を継いだレオ10世もラファエロを重用して居室の装飾を続行させたそうで、ラファエロは1514年にはサン・ピエトロ寺院の造営主任になり、一方では古代遺跡の保護などにも携わっていたそうです。また、ヴァチカンでは多くの人文主義者と交流し、ラファエロほど貴族や学者と交流した画家はそれまでいなかったほどだったようです。

模写:下村観山 原画:ラファエロ・サンティ「小椅子の聖母」(左側)
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こちらは1513年~1514年頃の作品を明治時代の日本画家の下村観山が模写したものです。ローマ時代の作品ではあるものの「トンド」と呼ばれるフィレンツェで流行った円形画となっていて、フィレンツェ出身のレオ10世の注文ではないかという説もあります。理想的な雰囲気の母子像で、割と人間っぽさがあって親子の愛情が強く感じられますね。色彩はティツィアーノからの影響も指摘されているようですが、ちょっと模写だとそこまで分からないかなw

ラファエロはローマで様々な芸術家と出会っていて、中でもミケランジェロは最大の存在だったようですが、次いでヴェネツィア出身のセバスティアーノ・ルチアーニも重要な存在だったようです。ラファエロは彼を通じてヴェネツィア派の色彩や風景表現を取り入れていて、逆にセバスティアーノ・ルチアーニもラファエロからの影響を受けています。

ラファエロ・サンティ 「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」
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こちらは1514~1515年頃の作品で、モデルは友人であり 外交官で人道主義者である人物です。割と地味な色使いですが、暗いという感じではなく柔らかい温かみを感じます。手を組んでやや斜めに構える構図はやはりモナ・リザへのリスペクトでしょうか。等身大なので間近で観るとかなり存在感があって親しみも感じられる作品です。

ラファエロの工房は才能ある若い画家が集まっていたそうで、ラファエロは熱心に指導しました。弟子は成長して後にイタリアを代表する画家として活躍するものも現れ、特にジュリオ・ロマーノはマントヴァの宮廷画家を務めるほどの活躍をしたそうです。ラファエロの死後も弟子たちは師の方法を引き継いで工房を運営していき、その延長線上には17世紀のルーベンスの工房などもあります。

ラファエロ・サンティ 「友人のいる自画像」
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こちらは1518~1520年頃の晩年の作品です。この後ろの人物はラファエロ本人と考えられるようで、2人は仲が良さそうな感じを受けます。手前の人物は誰かわからないようですが、一番弟子とも言えるジュリオ・ロマーノとの説が近年注目されているようです。穏やかな中に少しだけ動きを感じますね。

ラファエロは1520年の誕生日に37歳の若さで熱病によって夭折してしまいました。ラファエロはサン・ピエトロ大聖堂の建設責任者でしたが亡くなってしまったので最終的にはミケランジェロが設計することになりました。

版刻:ウーゴ・ダ・カルピ 原画:ラファエロ・サンティ 「ダヴィデとゴリアテ」
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こちらは年代不明(恐らくローマ時代)の原画を版画化したものです。ダヴィデが投石機でゴリアテの額に石を当て、気絶したところで首を斬るシーンが描かれています。周りの人々も含めてドラマチックな印象を受けるので、ここまで観てきた作品とはだいぶ印象が異なるかな。元々はラファエロの版画を作っていたライモンディが線刻した複製版画があったのですが、これはさらにそれを「キアロスクーロ(明暗)」という技法で翻案したものです。「キアロスクーロ」は16世紀初めにドイツで生まれた技法で、線を表す板(ラインブロック)と色面を表す板(トーンブロック)を使って刷られています。その名の通り明暗が強めで遠近感や立体感がよく表れているように思えます。技法のおかげで一層ドラマチックに感じられるのかも。

こうした版画は古代ギリシャやローマの古典を参考にしていて、18世紀の新古典主義の時代には手本となって後の世にも影響を与えました。

版刻:マルカントニオ・ライモンディ 原画:ラファエロ・サンティ? 「『美徳』より 賢明」
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こちらも年代不明で、ラファエロが原画ではないかと考えられている作品です。理想的な均整の取れた裸婦像で、腕の辺りに若干の硬さがあるようにも思えますが、優美な肉体をしています。

ラファエロのローマ時代の仕事は普通の人々の目に触れない所のものだったので、準備素描をライモンディ達版画家に渡して銅版画を作らせ、弟子に刷らせていたそうです。ラファエロはいち早く版画の潜在能力に気づいて、自らの作品を版画にして弟子の育成にも活用しました。これによってラファエロの作品はヨーロッパ中に知られることとなり、版画に基づく陶器なども盛んに作られました。


ということで、実は20年ほどしか作品が残っていないラファエロですが、その仕事はどれも重要で歴史的な影響度で言えばラファエロが崇敬したレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ・ブオナローティをも凌ぐ存在ではないかと思います。日本で観られる機会は稀ですが、数年おきくらいで来日することがあるので、その際は見逃したくない画家ですね。
 参考記事:
  ラファエロ 感想前編(国立西洋美術館)
  ラファエロ 感想後編(国立西洋美術館)
  


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《藤田喬平》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1950年代から2000年代初頭にかけて活躍したガラス作家の藤田喬平 氏について取り上げます。藤田喬平 氏は1921年に生まれ 元々は彫金を学んでいて、1944年に東京美術学校工芸科彫金部を卒業し1946年の第1回日展で入賞しています。しかし1947年にガラスの会社に入りガラス工芸へと転向したようで、1957年にはガラス作品の初個展も行っています。1960年代半ばにはガラスが冷えて固まる瞬間を留めた「流動シリーズ」などを手掛け、さらに1973年の52歳の時に琳派に触発された最初の「飾筥シリーズ」の「菖蒲」などで一層に名を高めていきました。50代半ばの1975年にはデンマークの「世界のスタジオグラス展」に招待出品するなど日本を代表するガラス作家としての地位を得ていて、日本ガラス工芸協会会長も務めていたようです。1977年からはヴェネツィアのムラーノ島の工房で制作するようになり、現地の伝統技法を取り入れた作品なども作っていきました。今日はちょっと点数が少なめですが、過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

藤田喬平 「カンナ大鉢」
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こちらは1978年の作品。カンナというのはヴェネツィアン・グラスのガラス棒のことで、ねじったり編み込んだりして文様を作ります。この作品でも内側を観ると綺麗な縞模様になっているのが分かると思います。側面は和風な感じもするし、落ち着いた気品を感じるかな。

こうしたカンナ紋様を得意としたので「フジタのカンナ」と呼ばれたようです。ちなみに美術館で見かける藤田喬平 氏の作品は1990年代の飾筥シリーズが多く、1970年代以前の作品は中々見かけません。それ以前はドロドロに溶けたような感じで溶岩のような造形の「流動シリーズ」などの作風もあります。(確か移転した東京国立近代美術館の工芸館にもあったはずですが写真が見つからず)
 
藤田喬平 「ヴェニス賛歌」のポスター
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こちらは1983年の作品。タイトルから分かるようにヴェネツィアン・グラスの技法を使っていて器の側面には青・ピンク・緑の縦帯が規則正しく並び、レース紋様が細かく施されています。台座もくるっと丸まって植物的な感じなのも面白い。
 参考記事:あこがれのヴェネチアン・グラス ― 時を超え、海を越えて (サントリー美術館)

藤田喬平 氏は生前に「ガラスは正直だ。作る人の感性がそのままでてしまう」と語っていたようです。気品溢れる作品が多いのでそういう方だったのでしょうか。

藤田喬平 「飾筥 日輪」
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こちらは1993年の作品で、「飾筥シリーズ」の一品です。琳派を意識しつつ先進的な紋様で、蒔絵のような重厚で豪華な雰囲気があります。日輪の赤も目に鮮やかでアクセントになっていますね。これがガラス器とは思えないw

飾筥シリーズは藤田喬平 氏の代名詞的なシリーズで、1973年に初めて発表されました。それ以降も晩年まで作り続けたようで数多くの作品を目にすることができます。

藤田喬平 「飾筥 竹取物語」
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こちらは1994年の作品。タイトルが何とも似つかわしいw 複雑かつ華やかな紋様で色も軽やかに感じられます。生き生きとして楽しげな印象まで受けるかな。素晴らしい傑作です。

藤田喬平 氏の飾筥シリーズは海外でも評判で、海外記者からこれは何を入れる箱か?と尋ねられて、藤田喬平 氏は「夢を入れます」と答えたことから「ドリームボックス」と呼ばれるようになりました。この箱より豪華な夢って何でしょうねw

藤田喬平 「飾筥 紅白梅」
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こちらは1995年の作品。金・赤・黒・白・銀などを使って紅白梅を表しています。その題材だけでなく色彩感覚も琳派的で、日本の美意識も詰まっている箱ですね。

この作品の翌年に宮城県松島に藤田喬平美術館が開館しています。飾筥シリーズ以外にも色々あるらしいので一度足を運んでみたいものです。

藤田喬平 「飾筥 夜桜」
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こちらは1996年の作品。こちらも飾筥シリーズで、全体が絵画的な装飾となっています。ガラスに金箔などで装飾している訳ですが、ガラスでどうやってこんなに精巧な寸法ができるかというと、型にガラスを吹き込んで作っていたようです。それにしても繊細で恐ろしく高い技術があったのも見て取れますね。

藤田喬平 氏は「ガラスは世界中どこでも同じ。僕は最初からインターナショナルを目指していたんだ。」と語っていたようで、海外からの評価も高く80歳(2001年)になってもデンマークでも個展を開催していました。最晩年にはガラス作家初の文化勲章・文化功労者も受章し、2004年に亡くなりました。


ということで、華麗で緻密な作風となっています。名品が集まる東京国立近代美術館の工芸館が金沢に移転してしまったので今後は東京で観られる機会が減ってしまうのではないかと心配ですが、他の美術館でも目にすることがあるので、見かけたら是非じっくりと角度を変えて観てみることをおすすめします。
 参考記事:ガラス工芸の魅力 (千葉県立美術館)


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《ロイ・リキテンスタイン》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、アメリカのポップアートの代表の1人であるロイ・リキテンスタインについて取り上げます。ロイ・リキテンスタインは漫画など大衆文化を取り入れたクールでドライな作風で、その多くは白と黒の無彩色と、赤、青、黄の三原色だけで描かれていて(時折 茶と緑も使われる)、太い輪郭や印刷の網点など新聞に掲載された漫画の様式を用いています。1960年代に活躍し、展覧会で紹介されるのはほぼこの時期の作品です。今日はちょっと点数が少なめですが、過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

ロイ・リキテンスタインは1923年のニューヨーク生まれで、ユダヤ系の家に生まれました。1940年にはオハイオ州立大学美術学部に入ってファインアートを専攻しましたが、途中で兵役があり1949年に修士号を修めています。卒業後は講師となるなど割と手堅い経歴となっているようです。1951年に初個展を開いているものの1950年代はグラフィック・デザイナーや講師として活動していたようで、画家に転身してからも抽象表現主義の作風で後の画風とはだいぶ異なるようです(私はこの時代の作品を観たことがありません) 転機となったのは1960年代初頭で、1962年のレオ・キャステリ画廊での初個展で代名詞的なコミック風の画風の作品を発表し注目を浴びました。勿論 厳しい批判にも晒されましたが、同じ時期にアンディ・ウォーホルがシルクスクリーンを使った大量コピーの技法を確立するなど、大量生産・大量消費の時代に相応しいアメリカンポップアートとして認知されていきました。

ロイ・リキテンスタイン 「夢想(版画集『11人のポップ・アーティスト』第2巻より)」
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こちらは1965年のシルクスクリーンの作品。「THE MELODY HAUNTS MY REVERIE」と歌っているのはホーギー・カーマイケルが1927年に発表したジャズのスタンダード・ナンバー「スターダスト」の歌詞の一部で、1929年にミッチェル・パリッシュによって歌詞が付けられました。メロディーは私の夢想に取り付いている といった意味でしょうか。リキテンスタインは音楽も好きだったのでその敬意が感じられます。漫画のように吹き出しが付いているのもリキテンスタインの作品によく出てくる特徴かな。

アップにするとこんな感じ。
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この網点が最も分かりやすい特徴ではないかと思います。色は白・黒・赤・青・黄のみとなっていて、色彩としてはモンドリアンと共通するとされることもあります。印象派の筆触分割や新印象主義の点描の進化系と捉える解説も聞いたことがあるので、確かにそういった面もありそうです。

ロイ・リキテンスタイン 「泣く少女」
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こちらは1963年のオフセットリトグラフ作品。こちらも同じ手法で網点で表現されています。セリフが無いけどドラマ性を感じるかな。リキテンスタインの作品はコミック風なので、何かの話の一部のように思えてきますw

リキテンスタインは金髪の美女をよくモチーフにしています。他にヒーローものや戦車なども多いかな。

ロイ・リキテンスタイン 「鏡の中少女」
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こちらは1964年の作品。手鏡の中に笑顔の少女が映るというのは浮世絵にもある構図ですが、西洋絵画の「ヴァニタス(虚栄)」の寓意の伝統に連なっているようです。ちょっと怖い表情で自分に酔っているのかも。漫画の要素だけでなく古典に通じるものがあるのは しっかり美術を学んだ賜物でしょうね。

ちなみに、リキテンスタインと同じくレオ・キャステリ画廊と契約していたウォーホルもコミックをモチーフにした作品を制作していたようですが、リキテンスタインの個展を観てコミックモチーフから手を引いたのだとか。

ロイ・リキテンスタイン 「筆触」
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こちらは1965年のシルクスクリーンの作品。タイトルを観ても何のこっちゃ?女の子の髪の毛か?という感じですが、抽象表現主義にはブラッシュ・ストロークという筆の流れを強調する波状の表現方法があり、リキテンスタインも晩年に「ブラッシュ・ストローク」という彫刻作品を作っています。かつては抽象表現主義の画風だったのでそれと関連があるのではないか?とも思うんですが、実際のところは謎です。

ちなみにリキテンスタインはコミック風の画風以降も色々と試していたようですが、ほとんど観たことがありません。モネ展で観た「日本の橋のある睡蓮」が1992年の作品だったかな。日本で紹介されるのはほとんどが1960年代の作品となります。

ロイ・リキテンスタイン 「ピカソのある静物(版画集『ピカソ讃』より)」
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こちらは1973年のシルクスクリーン作品。先述のモネの睡蓮もそうですが、リキテンスタインは巨匠をオマージュした作品が多々あり これはピカソの作品を模しています。網点は黒だけで、他は輪郭と色面のみというこれまでの作品とは異なる作風に思えます。こうした時代の作品は日本では観る機会も少ないのであまり画風の変遷を辿れないのが残念


ということで、リキテンスタインは有名な割には紹介されるのはごく僅かな期間の作品が大半となっているように思います。実際にはもっと色々な画風があるようなので、いずれ時系列で観られる展覧会が開催されてほしいものです。ちなみに日本にあるコレクションで一番有名なのは東京都現代美術館の「ヘアリボンの少女」かな。



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《東山魁夷》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、戦後の国民的画家と呼ばれた東山魁夷について取り上げます。東山魁夷は風景画を中心に描いた画家で、絵自体は単純な構図が多いのですが、色彩感覚がしんみりした雰囲気で分かりやすい美しさがあると思います。特に緑や青をベースにした作品が多く、日本の美しい光景の中に画家自身の心象風景を描いたような作風となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

まず東山魁夷の生涯をごく簡単に説明すると、東山魁夷は1908年に横浜で生まれ、東京美術学校に入り そこで川合玉堂、松岡映丘、結城素明らの指導を受けて日本画を学びました。在学中には帝展に入選していて、東京美術学校を卒業した際に東山魁夷を名乗るようになりました。その後 ドイツに留学するものの父の病気で2年で帰国し、1940年には川崎小虎の娘と結婚しています。しかし、しばらくの間は絵も売れず、肉親が次々と亡くなったり戦争へ招集されるなど、不遇の時代を過ごしたようです。そして1950年の42歳の時、日展で「道」が話題となったのをきっかけに人気が出て、1956年には日本芸術院賞を受賞、1969年には文化勲章受賞など、まさに国民的画家と言える地位を築いていきました。

東山魁夷 「残照」
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こちらは評価が高まることになった1947年の作品。人生のどん底の時期に写生のために訪れた千葉県鹿野山の山頂からの風景を描いたもので、遠くの山が赤く染まる開けた視界の広々とした雰囲気となっていて、割と単純化された平坦な印象を受けます。東山魁夷はこの山頂からの光景を見つめていた時、自然が作り出す光景と自分の心の動きが重なる充実感を味わったそうで、この頃から風景画家となる決意をしたようです。まだ画風や色彩はそれほど印象的ではないですが、東山魁夷のターニングポイントとなった風景なのかもしれません。日展で特選を得て政府に買い上げられ、東山魁夷の名が広まりました。

戦前から官展に出品していた東山魁夷ですが、これが初の特選で 終戦前後に父・母・弟を亡くし 空襲で自宅も無くすなど この頃までどん底にいたようです。しかし死を覚悟した時に平凡な風景が生命に満ち溢れて輝き 何よりも美しく感じたそうで、それ以降 素直な眼と心で自然を見つめ、自分の心を重ねた風景画を描くようになっていきました。

東山魁夷 「道」
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こちらがブレイクのきっかけになった1950年の作品。青森のスケッチを元に心象風景として描いたもので、戦後5年という当時の日本の状況を考えると、これからどう生きていくのかを表すような象徴としての道、これから歩む道と言えそうです。ざらついたマチエールでややぼんやりとしてしんみりした雰囲気が漂っていますが、潔くまっすぐ伸びているのが気持ちの良い作品です。よーく観ると、途中で右に曲がって行ってますけどねw

この作品辺りから一気に画風が変わっているように思います。これ以降は晩年まで割と安定しているので、画風の面でも重要な時期だったのでしょうね。

東山魁夷 「秋風行画巻」
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こちらは1952年の作品。巻物で秋の山を描いていて、柔らかい色彩が流れるように美しい。自然そのものというよりは理想化されたような光景に思えます。

1956年には「光昏」で日本芸術院賞も受賞し、皇室の依頼を受けるなど一躍人気画家となっていました。

東山魁夷 「青響」
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こちらは1960年の作品で、福島の土湯峠に取材したものです。こちらも非常に単純化された光景で、緑が印象的な作品です。この落ち着いて心に染み入るような色彩が東山魁夷の特徴だと思います。青が響くというタイトルが似つかわしく、静けさの中に滝の音だけが聞こえてくるような情感漂う作品です。

1962年にドイツ時代からの憧れでもあった北欧へと旅立ちました。北欧での風景は東山魁夷の想像通りの光景だったようで、帰国後に連作を発表すると高い評価を得て、青が多用されたことから「青の画家」のイメージも生まれたようです。

東山魁夷 「映象」
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こちらは1962年の作品。木々は白く枯れて真っ暗な背景に浮かび上がるようで、神秘的な光景となっています。波1つ立たず、動物もいない静寂の世界でどこか内省的な心象風景のような雰囲気に思えます。寂しげで神秘的ですね。

東山魁夷は北欧に旅立つ前から作家の川端康成から急速に失われつつあった京都を描くように勧められたようです。また、帰国後に皇室に依頼された新宮殿の大壁画制作は日本的なものを前面に押し出す必要性があったので、日本古来の文化が集まる京都は避けて通れず、京都をテーマとした作品に取り掛かかりました。大壁画の完成した年には「京洛四季」展で連作が発表され、北欧シリーズとは全く異なる大和絵的な表現となりました。

東山魁夷 「京洛小景より<一力>(1月)」
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こちらは1971年の作品で、京都を描いた版画シリーズです。京都下京区の一力亭という店を描いているのですが、トリミングしたような構図で水平・垂直・直線の多い画面となっています。壁の色も美しく、京都の美意識を凝縮したような雰囲気ですね。

この作品の3年前の1968年には山種美術館の人気作「年暮る」も制作されています。京都を描いた作品の中でも特に名作となっています。

東山魁夷 「京洛小景より<桂離宮書院>(8月)」
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こちらも同じ版画集で、桂離宮の書院を描いています。ブルーノ・タウトも絶賛したシンプルかつ機能的な日本の美の粋が見て取れます。東山魁夷は建物の絵も素晴らしい。

東山魁夷 「京洛小景より<落柿舎>(10月)」
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こちらも同じ版画集。農家の壁も美しい色で描いています。箕笠の円が直線の多い画面にアクセントになっていて非常に面白い。木の影が手前の柿の木の存在を教えてくれるというのも洒脱です。
京都シリーズを公表した翌年に、東山魁夷はドイツ・オーストリアへと旅立ちました。ドイツ・オーストリアでもやはり古都を描いたようで現地の建物を描いた作品が中心となっています。

1971年には奈良の唐招提寺から受けた開山の鑑真和上の像を安置する御影堂の障壁画制作の依頼を受託し、10年の歳月をかけて1期、2期、残り と段階的に奉納していきました。この制作の為には日本中を取材して回った他、日中平和友好条約締結前に中国に3回訪問して取材してきたようです。

東山魁夷 「緑響く」のポスター
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こちらは1982年の作品で、信州の八ヶ岳にある御射鹿池がモチーフとなっています。この反射で画面を二分する構図はこれまでの作品にもありましたが、白い馬がいると色彩にアクセントがついて、視線がそこに集まるように感じます。この景色は実景を元に描いたものですが、もちろん実際に白い馬がいたわけではなく、この馬は平安を願う祈りの象徴として描かれています。白い馬がいるだけで神話的な雰囲気が漂います。

1972年に急に白い馬を描くようになったそうで、画家本人にとってもそれは突然の事だったようです。1972年に描いた18点全てに白い馬が描かれたということで、これまでの静かで誰もいない画面から 少し超現実的な雰囲気が加味されたように思えます。白馬を描くことは祈りであり、心が籠められていれば上手い下手はどうでもいいことだと考えるようになったようです。70歳を越えてからは写生に出ることも難しくなっていたようですが、それまでに観てきた風景やスケッチを元に日本でも外国でもない心の中の風景を描くようになっていきました。

残念ながら晩年の作品は写真がありませんでした。1999年の90歳まで生きたので割と最近まで活躍されていました。今でも人気が高い画家で展覧会も数年おきに開催されているように思います。東京国立近代美術館にも多くの代表作が収蔵されていますので、目にする機会も多く馴染みやすい画家です。


 参考記事:
  生誕110年 東山魁夷展 感想前編(国立新美術館)
  生誕110年 東山魁夷展 感想後編(国立新美術館)



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《ジャン・デュビュッフェ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、アンフォルメルの先駆者であり 反芸術・反文化・反教養主義を主張しアール・ブリュットを提唱したジャン・デュビュッフェ(ジャン=フィリップ=アルチュール・デュビュッフェ)を取り上げます。デュビュッフェは精神の障害を持つ人々の作品に興味を持ち、独創性に満ちた作品を「アール・ブリュット」(生の芸術)と名付けコレクションと展示を始めました。そしてそれは後にイギリスの著述家ロジャー・カーディナルによって「アウトサイダー・アート」と英訳され、現在でも使われている分類となっています。デュビュッフェ自身も子供の落書きのように観える画風から始まり、多くの変遷をしながら強烈な個性を見せてくれます。日本ではそれほど有名でもないように思えますが、本国のフランスでは美術館でよく目にする画家です。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

ジャン・デュビュッフェは1901年にフランスのル・アーヴルに生まれ、地元の美術学校で学びましたが法律を学ぶためにパリに出ました。パリでは有名な画塾のアカデミー・ジュリアンに通いますがアカデミックな教育に満足できず翌年に退学しています。22歳の頃に兵役につき、その翌年からはブエノスアイレスで暖房器具の会社で働き、28歳の頃にはワイン会社を設立するなど しばらく画業とは関係のない生活をしていました。やがて仕事が成功すると余暇で絵を描いていたようで、再度の兵役などを経て1942年に会社の経営権を手放し再び絵画に専念するようになります。そして評論家のジャン・ポーランや画商のルネ・ドルーアンと出会い、1944年に初の個展が開催されました。

ジャン・デュビュッフェ 「Dhotel nuance d'abricot」
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こちらは1947年の作品で、まだ人の顔だと分かるくらい具象的な作風です。子供の絵のような要素が既にありますが、実際に子供や素人がこれを描こうとしても無理でしょうねw この純粋さが素朴なエネルギーとなっているように思えます。勿論、当時 理解を示したのは一部の前衛的な人たちだけでした。

デュビュッフェは1945年にアール・ブリュットを提唱しました。各地の精神病院を訪れて、患者たちの作品をコレクションしています。そして1947年には「生の芸術センター」という私設のギャラリーまで開いています。

ジャン・デュビュッフェ 「スカーフを巻くエディット・ボワソナス」
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こちらも1947年の作品。モデルは文筆家の友人で、女性というのは分かりますねw 既存の美術とは全く異なるものを目指していたのがよく表れています。グロテスクさと可笑しさが同居するような奇妙さが魅力です。

デュビュッフェは民俗などにも興味があり溶岩で作った像なども集めていました。そのせいかこの時期の作品は砂やアスファルトを混ぜていたらしく、茶色~灰色で独特の質感になっているように思えます。

ジャン・デュビュッフェ 「Le Metafizyx」
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こちらは1950年の作品。一気に抽象化が進んでいるように思えます。この抽象性と素材感が「アンフォルメル」と呼ばれる潮流の萌芽と見做されていて、実際に観ると迫りくるものがあります。真ん中にも顔があるので子供を抱いてるのかな?

ジャン・デュビュッフェ 「ご婦人のからだ(「ぼさぼさ髪」)」
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こちらも1950年の作品。裸婦っぽいけど、髪どころか全身がボサボサやないかw ご婦人と言うよりは山姥みたいな。引っかき傷のようなマチエールが非常に独創的です。

デュビュッフェはアフリカの原始美術や田舎の民衆芸術にも深い興味を示していました。呪術めいた雰囲気があるのはその影響かもしれません。

ジャン・デュビュッフェ 「土星の風景」
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こちらは1952年の作品。抽象画そのものですが、タイトルに納得w 色合いが土星を彷彿とさせます。 それにしてもこの風化したような画面はどうやって作っているのか想像もつきません。

デュビュッフェと一緒にアール・ブリュットの展覧会を企画していた評論家のミシェル・タピエは、1951年にジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングを招いて展覧会を開いています。まさに新しい時代の到来です。

ジャン・デュビュッフェ 「Récit du sol」
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こちらは1959年の作品。日本語にすると「土の物語」でしょうか。もはやモチーフらしきものが無く、シミのような質感そのものが主役となって画面を覆っています。絵が上手いとか下手とかそういう次元じゃないw 

この翌年の1960年にはパリ装飾芸術美術館でデュビュッフェ回顧展も行われています。

ジャン・デュビュッフェ 「Pierre de contention」
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こちらも1959年の作品。これもどこかの鉱山の岩を切り出したんじゃないか?っていうくらい抽象的ですw この頃は特に質感を主体にした作風になっていたのではないかと思います。

ジャン・デュビュッフェ 「暴動」
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こちらは1961年の作品。具象的になりましたが、心病める人たち特有の色のぶつかり合いを感じます。暴動なので怒りで声をあげているんでしょうけど、何かちょっと可愛いw 素朴さと狂気が戻ってきた感じがします。

ジャン・デュビュッフェ 「Legende de la rue」
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こちらは1963年の作品。日本語にすると「通りの伝説」かな? かなり抽象的ですが、中央あたりに男性の姿があり街角の様子なのかも。ぐにゃぐにゃした不定形の有機的な色面が使われるようになっています。

ジャン・デュビュッフェ 「Opera Bobeche」
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こちらも1963年の作品。また画風が変わっていて、自身で「ウルループ」と呼んでいたデュビュッフェの代表的な作風に思えます。不定形のぐにゃぐにゃの中に顔や動物らしきものがあってパズルのように組み合っています。色面でなく縞々で表現しているのも軽やかで、ちょっとポップな雰囲気。

デュビュッフェは絵画だけでなく彫刻作品も残しています。箱根の彫刻の森美術館で この絵のような作品を観たことがある方も多いのでは?

ジャン・デュビュッフェ 「Telephoniste 1」
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こちらは1964年の作品。タイトルは電話交換手のことだと思われます。人が何かを持ってるのは何となく分かるw 先程の画風と似てるけど、外枠が人の形になってる点が変わっているように思えます。私にはむしろピエロみたいに観えますw

ジャン・デュビュッフェ 「Brouette en surplomb 1」
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こちらも1964年の作品。タイトルは手押し車かな? 人が手押し車らしきものを押しているように観えます。こちらもこの時期独特のストライプ模様を組み合わせているけど、ぐにゃぐにゃ少なめで割と直線的ですっきりした感じ。

ジャン・デュビュッフェ 「Le train de pendules」
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こちらは1965年の作品。日本語では「時計の列車」の意味と思われます。これも縞々の組み合わせですが、またよく分からない形になってきたw 何処かの古代の壁画を思わせるような土着的なエネルギーを感じます。

ジャン・デュビュッフェ 「Donnee (H 46)」
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こちらは晩年の1984年の作品。私の写真には1965~1984の20年間の作品が見つからなかったのですが、また一気に画風が変わっています。アクションペインティングみたいな即興性が感じられるかな。最後まで画風が変わり続けていたんでしょうね。この翌年に亡くなりました。


ということで、画風もかなり変遷していますが どの時代でも強烈な個性があって印象深いものがあると思います。日本でもコレクションを見かけますが、個展を観たことがないので いずれ系統立った展示を観てみたいものです。


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《松本竣介》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、昭和に活躍した洋画家 松本竣介を取り上げます。松本竣介は36歳の若さで亡くなってしまいましたが、晩年まで画風が進化し続けた画家で、人物・建物・風景などをよく描きました。代表作の多くは寒色系の静かな色彩で、抑制された静謐な雰囲気となっています。今日もそんな松本竣介の作品を過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

まず簡単な略歴ですが、松本竣介(本名:佐藤俊介 結婚後に奥さんの松本姓に改めた。1944年には父の勧めで俊介から竣介に名前も改めました)は1912年に東京に生まれ、父の都合で2歳の頃に岩手の盛岡に移り少年時代を過ごしました。小学校の頃は成績優秀で首席で卒業したそうですが、旧制中学の入学式当日に突然病(脳脊髄膜炎)に倒れ、生死の淵をさまよった後に一命は取り留めたものの聴力を失ってしまいました。しかしその1年後には復学したそうで、その頃 東京にいた兄から油彩道具を送ってもらったことがきっかけで、絵に夢中になったようです。17歳になると兄のいる生地 東京に上京し、すぐに太平洋画会研究所選科に通い始め、制作や勉学に励み画との出会いを重ねていきました。

松本竣介 「山景(岩手山)」
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こちらは1928年(昭和3年)の17~18歳頃の作品。後の画風とは異なりますが、寂しげな雰囲気はこの頃から漂っています。松本竣介は中学時代から絵を学ぼうとする素朴で真摯な態度だったようで、竣介自身は「個性が出ていない。風景の模写に過ぎぬ」と自己評価するなど当時から早熟の才能を見せていたようです。若い頃の画風はセザンヌやマティス、印象派などを彷彿とすることもありますが、まだちょっと硬いところもありますね。

17歳で上京し、上京から6年経つ頃には既に太平洋画会研究所選科を離れ独自の道を歩み始めていたらしく、1935年に「建物」という作品が二科展で初入選しています。その際、「何よりも建物のたっているということが僕にとって最も大きな魅惑なのだ」と語っていたそうです。また、兄が創刊した雑誌『生命の藝術』の編集の手伝いをしながら文章や挿画を数多く手がけています。

松本竣介 「有楽町駅附近」
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こちらは1936年(昭和11年)の作品。これは松本竣介と言われないと分からないかも。強めの輪郭と規則正しい幾何学性が面白い構図です。この時期の作品の骨太の線にはルオーやモディリアーニの影響が観られます。また、風景画の構図には同様のアングルの写真も残っていることがあり、写真を絵画に応用していたと考えられています。二科展の入賞作品も建物だったし、松本竣介は盛岡時代から建物に興味が深かったようです。建物についてはこの先もずっとモチーフとして描かれていくことになります。

二科展入選の後、画家として本格的な活動をスタートさせた竣介は、1936年(入選の翌年)に松本禎子と結婚し、これを機に佐藤姓を松本姓に改め、下落合に新居を構えました。いわゆる池袋モンパルナスの一員です。そしてそのアトリエを「綜合工房」と名付け、夫婦協働によって月刊誌『雑記帳』を創刊しました。また、1937年の二科展には「郊外」という作品を出品し、青や緑の色面を基調とした新たな画風を打ち出しています。これは新居周辺の環境から啓発されたもので、当時 近隣にはモダンな洋風住宅が立ち並ぶ目白文化村というエリアがありました。
やがて妻と制作していた雑記帳が財政的な理由で第14号で終刊になると、竣介は絵画制作に専念するようになり、1938年の第25回二科展には「街」という作品を出品しました。これは風景画と人物画を融合させた「モンタージュ」と形容された作風で、前期を代表する画風となりました。

松本竣介 「郊外風景」
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こちらは1940年(昭和15年)の作品。先述の「郊外」に似た画風ですが、人もいないし一層に単純化が進んでいるように思えます。青緑がかった画面が松本竣介らしい色彩感覚に思えます。

竣介は1940年に東京の日動画廊で個展を開いたそうで、出品作は30点でわずか3日だったそうですが、この個展の頃から画風は変わっていったようです。

松本竣介 「黒い花」
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こちらは1940年(昭和15年)の作品。タイトルは黒い花ですが、全体的に青みがかっていて、人物や町が繊細な線描で表されています。戦時中ということもあってか寂しげな光景に見えますね。

竣介は戦争色の濃くなった1941年~1943年の二科展に、3回連続で自身が中央に立つ100号大の大作を発表したそうです。戦時統制で画材の調達も困難になるなど、美術を取り巻く状況も逼迫していたようですが、それらの作品からはその中でどう生き抜くべきか、覚悟のほどを受け取ることができるそうです。

松本竣介 「盛岡風景」
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こちらは1941年(昭和16年)の作品で、中学の同級生でもある親友の舟越保武と二人展を開いた時に10年ぶりに故郷の盛岡を訪れ、そのスケッチを元に描かれたようです。初夏の光景でも寒色系が多いのはいつも通りですが、どことなく郷愁を帯びた長閑さや温かみを感じます。背景のビルは測候所で、中学時代はこの建物の近くに住んでいたのだとか。

1941年には美術雑誌「みづゑ」で「芸術は時局のいかんにかかわらず、自律的普遍的な意味がある」と訴えました。これが反体制的と捉えられたのか、一時は当局にマークされていたようです。(とは言え松本竣介は特に反戦という訳でもなかったようです。)

松本竣介 「議事堂のある風景」
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こちらは1942年(昭和17年)の作品。右下あたりに大きくカーブしている道があり、その背景にはそびえるような国会議事堂が描かれています。左には煙突や建物、手前にはリアカーを引く人影も描かれていて、深く暗い青色で覆われているためか、寂寞とした印象を受けます。それにしても国会の周りがこんな状態だったんですね。

東京大空襲の後、竣介は家族を疎開させたようですが、自分自身は東京に残りました。20歳の頃に耳の障害を理由に兵役は免除されていたものの、多くの知人・友人が戦地へと送られていく中で、東京に留まることを自身の姿勢として選択していたそうです。その後、自宅の周辺だけは奇跡的に助かったものの、落合も焼け野原になり生活は困窮していったようですが、それでも絵を描いていたようで 空襲の焼け跡を描いた作品なども残されています。

松本竣介 「立てる像」のポスター
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こちらは1942年(昭和17年)の作品で、立っているのは画家自身です。背景の地平線がやけに低くく建物が小さいので、画家が巨人のように見えて、世田谷美術館にあるアンリ・ルソーの「フリュマンス・ビッシュの肖像」を思い起こすものがあります。腕をだらりとさせて遠くを見るような顔は、これからどうするのか考えているようにも観えます。背景は高田馬場の辺りらしく、当時の暗い世相と自身の内面を表しているのかもしれません。

今回ご紹介した作品はほとんど風景ですが、松本竣介は人物像もよく描いていました。女性像の方がよく観るように思いますが、竣介の描く女性像は奥さんを想起させるようです。(実際には奥さんがモデルとしてポーズをとったのは「画家の像」という作品の素描の時だけだったそうです。) 竣介の女性像は謎めいて無表情で、口を閉じて虚空を見つめている という特徴の作品が多いのだとか。

松本竣介 「Y市の橋」
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こちらは1944年(昭和19年)の作品で、「Y市の橋」とは横浜駅近くの新田間川にかかる月見橋のことです。竣介は横浜まで足を運んでスケッチしていて、とりわけこの橋を気に入っていたらしく様々な角度・時期に描かれた「Y市の橋」があります。この絵はその内の1枚で、くすんだ色彩とタッチが印象的です。複雑で幾何学的な構図が面白いけど、ちょっと廃墟のような雰囲気もあるかな。竣介は生活のために1944年ころから理研化学映画に入社して、東京大空襲の後には勤務地が大船に移り、落合から数時間かけて通っていました。しかしその間にも横浜も大空襲を受け、「Y市の橋」の辺りも被害が出たそうです。変わり果てた橋の様子をを描いた戦後の作品も残されています。

松本竣介は1943年に池袋モンパルナスの仲間と共に「新人画会」を結成しています。しかし翌年には美術報国会の展覧会以外は禁止されてしまい、展覧会を開けなくなって解散しています。

松本竣介 「鉄橋近く」
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最後にこちらは1944年(昭和19年)の作品。こちらは五反田周辺の光景で、寂しげで不穏というか超現実的な雰囲気すら感じられるかな。この絵も似た作品やスケッチが残されていてこの場所が気に入っていたと思われます。実際の光景だけど心象風景のように思える作品です。

戦後の1947年には近しい新人画会の画友と共に自由美術協会の再建に参入し、それを機に新たな主題と画法の作品を発表して周囲を驚かせました。それらは戦中に庭の土中に埋められていた赤褐色の絵の具を地色としたもので、大胆な黒の線描をもって人体を抽象的に描いていました。荒々しい筆致で性急に抽象化を推し進めた後、西欧の古典芸術への憧憬も模索し始めていたようです。しかし、その頃の竣介は持病の気管支喘息に加え結核にも蝕まれていて、さらに過労が重なり病臥してしまいます。そして新しい画風の端緒を見せ始めた36歳で病死してしまいました。

ということで、画風は変遷してもどこか哀愁漂う作品が多い画家です。今でも根強い人気があって数年おきくらいで展覧会が開かれているように思いますが、まだ観ぬ名作も多いので また大きな展覧会が行われてほしいものです。


 参考記事:
  生誕100年松本竣介展 感想前編(世田谷美術館)
  生誕100年松本竣介展 感想後編(世田谷美術館)
  



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