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《カミーユ・ピサロ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、印象派のまとめ役で数多くの巨匠たちを導いたカミーユ・ピサロを取り上げます。ピサロは他の印象派のメンバーよりも年長者であり温厚な性格であったので曲者揃いの印象派の中にあって調停役を務めることができた画家で、全8回の印象派展の全てに参加した唯一のメンバーとなります。若い画家の面倒もよく見ていて、セザンヌやゴーギャンといった次世代の画家たちに技法を教えたり称賛を送り励まして 印象派以降の展開にも貢献しました。画家としても当初の印象派の手法だけでなく、若手のスーラの点描を学ぶなど柔軟な姿勢で積極的に新しい表現を追求しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


カミーユ・ピサロは1830年にカリブ海セント・トーマス島のユダヤ系ポルトガル人の金物屋に生まれ、12歳の時にパリの寄宿学校に入りました。一旦は故郷に戻り家業の手伝いをしていましたが、やがて画家を志すようになり25歳で再びパリに出ました。折しも1855年のパリ万国博覧会が開催されアングルとドラクロワが特別室で展示されていた頃ですが、ピサロはクールベの個展やバルビゾン派に注目したようです。そしてアカデミックな指導よりも自由に描くことができるアカデミー・シュイスに通い、そこでクロード・モネと出会いました。1859年にはサロンに入選するものの1863年には落選し、騒動が起きたマネの「草上の昼食」と同じ落選展にも出品しています。この頃からモネを通じてグレールの画塾のシスレーやルノワールといったメンバーとも知り合ったようです。その後もサロンで入選と落選を繰り返しながら苦しい生活を送っていました。1869年から普仏戦争が始まるとロンドンに疎開し、同じく疎開したモネと共にターナーなどを研究しています。1871年に帰国し、1872年からはポントワーズに引っ越してそこで田園風景などを描いていました。この地にはセザンヌも来ていて、ピサロはセザンヌに戸外制作と印象派の手法を教えています。ピサロの強い勧めでセザンヌは第1回印象派展にも参加できたので、後にピサロへの崇拝に近い気持ちを語っているほどです。

カミーユ・ピサロ 「冬景色」
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こちらは1873年の作品で、ポントワーズの冬景色が描かれています。曇天でちょっと荒涼とした冬の寂しさを感じるかな。平凡な風景だけどカーブした道や左下がりの丘などのおかげで面白い構図になっているように思えます。この作品の解説によると、ピサロの作品は他の印象派の画家たちよりも構築的な造形と堅牢なマティエールが見られるとのことで、確かに印象派としてはきっちりした感じもしますね。

ピサロやモネたちは1872~73年のサロンに応募せず、1873年4月頃からピサロとモネを中心にグループ展の構想を進めていました。そしてピサロが草稿を作り、1874年に(印象派と言うのは後に名付けられた呼称)無審査の自由なグループ展を発足しました。そして1874年4月15日~5月15日までパリで第1回印象派展となる絵画史上で非常に重要な展覧会が開催されました。

カミーユ・ピサロ 「Julie Possarro au jardin」
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これは1874年の作品で、妻のジュリーを描いた肖像画です。この時2人には既に5人の子供をもうけていました(夭折した子もいる)。また、この絵の少し前にはロンドンで知り合った画商のデュラン=リュエルが絵を買ってくれていたので生活は以前より安定していましたが、リュエルの資金難でまた絵が売れなくなっていました。そのせいか奥さんもちょっと渋い顔をしていて苦楽を共にしている感があるかなw 先程の作品に比べるとだいぶ筆致が大胆で、印象派らしい画風に思えます。ちなみにピサロの両親はユダヤ教徒で、奥さんはカトリックだったので両親の反対にあって第一子が生まれてから正式な結婚まで7~8年かかりました。本当に苦難の多い夫婦ですね。

有名な話ですが「印象派」というのは第1回印象派展に出品されたモネの「印象 日の出」を揶揄した呼び方で、批評家にはボロカスに批判されました。ピサロも同じく酷評を受けています。興行的にも失敗で当時は散々な結果でした。

カミーユ・ピサロ 「丸太作りの植木鉢と花」
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こちらは1876年の作品。ピサロの花を描いた作品は十数点しかないので貴重な1枚です。花好きだった奥さんが庭で育てた花を描いたと考えられているようで、印象派らしい瑞々しい雰囲気で描かれているように思えます。色合いも明るいし、もっと花の絵も描けば良かったのにw

この1876年に第2回印象派展が開かれていますが、これまた酷評されてしまいました。生活も苦しく家を差し押さえられそうになったほどだったようですが、印象派仲間で上流階級のカイユボットが支援してくれて何とか免れました。そして翌年の第3回から自ら印象派展を名乗るようになっています。徐々に理解を示す批評家も増えたものの相変わらず印象派の絵は売れず、第3回印象派展の後あたりからサロンへ出品しようとする画家が現れ、グループの不協和音が表面化していきました。(ドガはサロン応募は許さん派、ルノワールやセザンヌはサロンに応募する派って感じ) その結果、第4回・第5回は不参加のメンバーも出ました。肝心のモネも第5回は離脱しています。

カミーユ・ピサロ 「立ち話」
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こちらは1881年頃の作品。こちらもポントワーズの光景で、この作品は1882年の第7回印象派展に出品されています。農村の女性たちの何気ない日常と言った感じで心休まるものを感じます。解説によると左の女性の足元は描き直しの跡があるとのことで、確かに消した足がぼんやり見えるかな。これは左足を垣根に寄りかかる姿勢に変更したためのようです。それもあってか寛いでのんびりした雰囲気ですね。

この年に第6回印象派展が開催されました。第6~7回あたりはドガの一派とカイユボットたちが対立してピサロも調停役として奮闘しています。ドガが出るとカイユボットが出ない、カイユボットが出るとドガは出ないみたいなw ドガが印象派ではない写実主義の画家ジャン=フランソワ・ラファエリを高く評価し印象派展に連れてきたのが原因とされています。

カミーユ・ピサロ 「収穫」
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これもポントワーズの光景を描いた1882年の作品で、第7回印象派展に出品されています。農村で働く人を描いていて、かつて大きな影響を受けたバルビゾン派に通じるものを感じます。また、この作品の特徴は これまで脇役だった人物が大きく描かれている点です。人物には心理描写も導入されているようで、人それぞれのポーズでそれが伺えるかな。そして この絵には多くの習作が残っていてアトリエで入念に制作されたと考えられ、その点でも戸外で短時間で描かれた印象派の制作手法とは一線を画するものがあるようです。何だかんだでピサロも印象派に限界を感じていたのかも知れませんね。

ピサロは1884年にエラニーへと移り住み、晩年までそこに住みました。1885年には新印象主義のシニャックとスーラと出会い、彼らの点描に大きな影響を受け自らもその技法を取り入れて描くようになりました。

カミーユ・ピサロ 「エラニーの花咲く梨の木、朝」
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こちらは1886年の作品で、エラニー=シュル=エプトの風景が描かれています。一目でわかるようにこれまでと異なる点描技法を取り入れていて、これは前年に出会ったスーラからの影響です。結構緻密な点描で、補色関係を使っているので色が一層鮮やかに感じられるように思います。穏やかな陽光が降り注ぐような爽やかな雰囲気です。 しかし、点描法はアトリエで長時間制作しなければならないので、ピサロの制作法に合わずに一時的なものだったようです。1891年にはスーラも亡くなり、ピサロは印象派風の作風に回帰しています。

この1886年に最後となる第8回印象派展が開かれました。この回ではピサロが推す新印象主義の参加が争点となり、結局は別室で展示という形となっています。この展示で有名なスーラの「グランド・ジャット島」も発表され注目を浴びました。

カミーユ・ピサロ 「羊飼いの女」
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こちらは1887年のグワッシュの少し淡い色彩の作品。ここでは点描は使っていませんが、新印象主義の明るく純粋な色彩を追求していた時期なので全体的に光りに溢れた明るい画面となっています。のんびりとした風景で、一種の理想郷みたいな。バルビゾン派のような主題で、人物が主役になっているなど、ここまで見てきたピサロの特徴も出ているように思います。

1887年にはゴッホの弟のテオにも絵を売るようになっていました。1892年にはリュエルの画廊で個展を開くと作品の売れ行きも好調だったようで、その後も継続的にパリやニューヨークで個展を開いています。しかし目の病が悪化していき、1893年からはあまり外での制作は行わないようになっていきました。

カミーユ・ピサロ 「Le village de Knocke」
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こちらは1894年で、ベルギーのクノック村の光景が描かれています。ピサロはベルギーの20人展に招かれるようになっていて(1887年、89年、91年)、この年にはベルギーに旅行もしています。この頃には新印象主義の画風から離れていたようですが、割と点描っぽい画風に見えるかな。赤い屋根と緑が対比的で色が強く感じられる一方、人物は描かれずちょっと寂しい雰囲気に思えます。

この年には世話になったカイユボットが亡くなっています。その遺産として印象派のコレクションをフランス政府に寄贈することになりましたが、アカデミーの反対で2年もの間 論議となり1896年にようやく受け取られました。まだ印象派の地位も固まっていなかったのが伺えるエピソードです。

カミーユ・ピサロ 「ルーアンの波止場・夕陽」
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こちらは1896年で、フランス中部のルーアンの川岸の波止場が描かれています。煙を上げて夕日がぼんやり観えているなど、印象派らしい題材に思えるかな。点描っぽい所もあり新印象主義的な作風も残っているように思います。穏やかな光景で、郷愁を誘われますね。

この後もルーアンやブルゴーニュ地方、ノルマンディー地方などを旅して各地の風景画などを残しています。最晩年にはパリの部屋から描いたシリーズを制作しました。1893年から亡くなるまでの10年間で300点以上も制作しているというのだから驚きです。

カミーユ・ピサロ 「カルーゼル橋の午後」
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こちらは亡くなった1903年の作品。先述のように目の病で野外制作は困難だったので、室内からの眺望となっていて、パリのカルーゼル橋と向かいのルーブル宮が観えています。(今のオルセー美術館とルーブル美術館に挟まれた辺りです) この頃、この界隈のヴォルテール河岸シリーズを描いていて、その1枚となります。葉っぱのない木々がちょっと寂しげだけど、パリの詩情溢れる雰囲気がよく出ていますね。

1903年10月末にこれらのヴォルテール河岸のシリーズを仕上げ、11月13日に亡くなりました。本当に亡くなる直前の作品です。


ということで、ピサロは印象派の成り立ちと発展に不可欠な画家だったと言えます。印象派展にはほぼ毎回出てくるものの何故か個展が開かれることが少なく、関東では2008年に大丸美術館で観たのが最後かも?? 強烈な個性はそれほどありませんが、絵画史上でも重要な画家なので覚えておきたい画家の1人だと思います。


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《柴田是真》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、幕末から明治にかけて蒔絵師として、また絵師としても活躍した柴田是真(しばたぜしん)を取り上げます。柴田是真は文化4年(1807年)に江戸に生まれ、11歳の時から蒔絵の技を習得して 16歳からは円山四条派の絵画を学びました。特に蒔絵では従来は分業されていた下絵から蒔絵までの製作工程を自らの手で一貫して行い、洒脱でウィットに富んだデザインと漆芸技術を融合させることに成功し高い評価を得ました。さらに、蒔絵絵という絵画と蒔絵の技を併せ持った作品を作り絵画・工芸の枠を越えていくことになります。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

柴田是真は宮彫師の子として江戸で生まれ、11歳の頃に初代 古満寛哉の元で蒔絵を学び始めました。16歳からは四条派の鈴木南嶺に絵を学ぶようになり、2人の師匠の名前から1字づつ取って「令哉」の号を使っています。さらに24歳の時に四条派の本場の京都に行き、岡本豊彦に師事した他、絵だけでなく国学や歌なども各界の著名人に学びました。そして翌年に江戸に帰ると「是真」の号を使うようになりました。

柴田是真の作品は年代不明のものが多いので、順不同でご紹介していこうと思います。

柴田是真 「狗子」
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こちらは年代不明で、題材も画風も円山派の祖である円山応挙を彷彿とさせる作品。柴田是真は時に精密な絵や超絶技巧を見せる画家ですが、こうしたユルい作品も残しているのがちょっと意外w とは言え、円山四条派をルーツに持っているのがよく分かります。コロコロした犬が何とも可愛らしい

柴田是真は若い頃から絵が上手く、歌川国芳が柴田是真の絵に感動して弟子入りしたという逸話もあるそうです。国芳のほうが年上なのが面白い。国芳も絵に対する直向きさは流石ですね。

柴田是真 「瀑布」
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こちらは明治4年(1874年 67歳頃)の作品。水しぶきが烟るような湿気を感じさせる滝の絵で、白く見える部分は絹地の色を生かしています。この技法も円山応挙を思い起こすかな。少ない色数で情感豊かに表現していますね。

柴田是真の江戸時代の作品は残念ながら写真がありませんでした。34歳の頃に描いた王子稲荷神社のための「鬼女図額面」が出世作とされています。また、柴田是真は海外での評価が高く、先程の作品の1年前の1873年にはウィーン万国博覧会で蒔絵作品が受賞しています。

柴田是真 「砂張塗漆鉢」
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こちらは年代不明ですが明治時代の作品。砂張というのは銅と錫と鉛の合金のことで、この鉢も鈍い反射があり金属製のように見えます。しかし、実際は漆器で出来ている騙し漆器となっています。地味に観えて超絶技巧が使われているのが柴田是真らしさかもw 騙し漆器は他にも陶器、紫檀、木肌など様々な素材感を表現している作品なんかもあります。トリックアート的な要素も魅力です。

柴田是真はこうした漆芸の新技法を創始した他、元禄時代に考案されたものの伝承が途絶えていた青海波塗を復活させたことも大きな功績となっています。

柴田是真 「千種之間天井綴織下図」の看板
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こちらは晩年の1886年の作品で、本物は1m四方の絵です。いずれも円の中に草花が描かれていて、流水や枝などを含めてデフォルメされていて優美な印象となっています。デフォルメされているのに写実的なところもあって、色の鮮やかさと共に生き生きとしているのも特徴です。こちらは明治21年に竣工した明治宮殿の「千種の間」の格天井の装飾画の下絵として作られ、全部で112枚あるようです。1つ1つ異なる花を様々なデフォルメしているのが驚きで、どれも格調高いのが素晴らしい作品です。

この4年後の1890年に現在で言う所の人間国宝に当たる帝室技芸員に任命され、日本漆工会の設立にも携わりました。しかしその翌年の1891年に亡くなっています。

柴田是真 「雪中の鷲」
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こちらは年代不明ですが明治時代の作品。狐?を狙っている鷲が、身を捻って下を見つめています。狐は慌てて逃げているのかな。緊張感がありつつちょっとユーモラスな感じもします。

柴田是真は様々な題材をモチーフにしていますが、故事や人物よりも花鳥が多いように思います。高い技術を持ちつつ洒脱な感性があり、風流だったり可笑しみが含まれていたりします。

柴田是真 「四季花鳥」
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こちらも年代不明ですが明治時代の作品。絵師としてもこうした大作を残しています。

こちらは右隻
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華やかながら派手過ぎずに典雅な雰囲気となっています。

こちらは左隻
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舞い飛ぶ鳥や伸びやかな草花が軽やかな印象です。

左隻の一部をアップにするとこんな感じ。
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色合いやモチーフ的に酒井抱一の江戸琳派を思わせる部分もあるように思います。

柴田是真は絵画においてもトリックアート的な作品を多く残していて、描表装という掛け軸の絵の周りの部分まで自分で描く技法をよく用いていました。描表装はまるで掛け軸から絵が抜け出すような感じに見えるので観るものを驚かせてくれます。機知に富んだ人だったんでしょうね。

柴田是真 「漆絵画帖」
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こちらも年代不明ですが、柴田是真の真骨頂とも言える「漆絵」の技法で描かれた画帳です。漆絵はその名の通り色漆を使って描く絵で、普通の絵と異なり色艶が出る反面、5色くらいしか色を出せないかったり一方向にしか筆を運べない等 独特の制限があります。それをこれだけ普通の絵のように緻密に見せるのが柴田是真の超絶技巧の一端です。

こちらは一部のアップ
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カラフルに見えるけど実際の色数は少なめです。よく見ると微妙に濃淡を付けてグラデーションなどでそれをカバーしているようです。あまりに自然過ぎて普通の絵じゃないか?と思ってしまいますw 西洋の油絵のような表現を狙ったのではと考えられています。

ある時、柴田是真は漆絵は巻物には不向きである(巻いたら剥がれるから)と言われましたが、数日で巻いても大丈夫な漆絵を作成したのだとか。天才過ぎですねw


ということで、残念ながら漆器や漆絵の写真があまり見つかりませんでしたが、絵画と漆芸の二刀流でどちらも成功した人物です。数年に1度くらいの割合で個展が開かれたり、幕末~明治頃頃の工芸展に出品される機会もあるのでそうした機会に是非じっくりと見て頂きたい作家です。

 参考記事:
  ZESHIN 柴田是真の漆工・漆絵・絵画 (根津美術館)
  柴田是真の漆×絵 (三井記念美術館)


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《エドゥアール・マネ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、印象派の先駆け的存在である19世紀フランスの画家エドゥアール・マネ(エドゥワール・マネ)を取り上げます。マネはサロンでの成功を目指しつつ印象派に繋がる技法や題材を用いた画家で、「草上の昼食」や「オランピア」といった作品でスキャンダラスな画家として名前が広まりました。ベラスケスに影響を受け、特に黒の使い方にこだわりを感じさせる作品を多く残しています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


エドゥアール・マネは1832年にパリのブルジョワジーの家庭に生まれ、父は裁判官だったこともあり息子にも法律家になることを望んでいたようです。しかし母方の叔父の勧めもあり画家を志すようになり、若い頃からルーブル美術館などに通い17世紀スペインの絵画に魅了されていたようです。その後、海軍学校の受験に2度失敗すると父から画家になることを許され、1849年(18歳)にトマ・クチュールのアトリエに入門しました。この頃にオランダとイタリアを旅行し、16世紀のヴェネツィア派や17世紀オランダの画家フランス・ハルスなどにも関心があったようですが、特に強い関心があったのはやはりベラスケスなどのスペイン絵画でした。当時ベラスケスはあまり知られていなかったものの、マネはレアリスムと簡潔な筆捌きによる光と色彩の扱いに注目していたようで、後にスペインまで実際に絵を観にいったりもしているほど入れ込んでいたようです。1856年にトマ・クチュールの元を去って独立し、1859年からサロンにも出品を始めましたが現実的な主題だったこともあり当初は不評でした。

エドゥアール・マネ 「サラマンカの学生たち」
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こちらは1860年の作品で、スペインの逸話を描いています。実際にはマネの別荘の辺りの風景を描いているようで、緑の中で黒い服の人物が目を引きます。この黒の使い方やスペイン風な所にベラスケスの影響が感じられるかな。マネはベラスケスの作品を模写して効果的な黒の使い方を身につけていたようです。

マネは1860年代くらいまでは宗教画も描いていたようですが、ギュスターヴ・クールベの写実主義に影響を受けて、1859年のサロン出品作は「アブサンを飲む男」という同時代の酔っぱらいの絵を出品しました。勿論、題材としてサロンに相応しくないので落選していますw しかし審査員のドラクロワは評価していたのだとか。ドラクロワもサロンに叩かれながら新しい芸術を創り上げた画家だけに理解してくれたんでしょうね。

 参考記事:
  《ディエゴ・ベラスケス》 作者別紹介
  《ウジェーヌ・ドラクロワ》 作者別紹介
  《ギュスターヴ・クールベ》 作者別紹介

エドゥアール・マネ 「ローラ・ド・ヴァランス」のポスター
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こちらは1862年の作品で、舞台裏で出番を待つ女性の姿が描かれています。「ローラ・ド・ヴァランス」とはマドリード王立劇場付属バレエ団のプリマのローラ・メレアの通称だそうで、この年にパリで公演を行っています。衣装はその時の「セビリアの花」のもので、このポーズはゴヤが描いた「アルパ公爵夫人」と同じです。顔つきも割とスペインっぽい感じかな。舞台ではなく舞台裏という所が面白い点で、実際の絵の脇には客席も描かれています。女性のまとう白いベールや黒地に赤の花模様などの色彩の豊かさが目を引きますが、当時はこの色彩が明るすぎると批判を浴びたのだとか。
 参考記事:《フランシスコ・デ・ゴヤ》 作者別紹介

この1年前の1861年にサロンで2点の作品が初入選しています。いずれも黒を貴重としたベラスケスからの影響が感じられる作品となっています。ナポレオン3世がスペイン貴族の女性と婚姻したことでフランス国内でスペインブームが巻き起こっていたようで、スペインへの傾倒はその影響もあったと考えられます。また、マネは革新的で伝統的なサロンからはボコボコに批判されまくっていましたが、マネはあくまでも官展であるサロンにこだわり挑戦し続けました。独自で展覧会を作った印象派とは違う険しい道です。

エドゥアール・マネ 「街の歌い手」の一部のポスター
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こちらも1862年の作品で、実際の絵には全身が描かれています。モデルはヴィクトリーヌ・ムーランという女性で元々はトマ・クチュールのモデルをしていました。マネの作品ではこの作品が最初で、その後「草上の昼食」と「オランピア」のモデルも務めています。うらぶれた酒場から出てくる「ながし」の女性として描かれ、ギターを持ち脇にさくらんぼの包みを抱えて右手でさくらんぼを口に運んでいます。目に力があり生き生きとしていて、当時の庶民の生活が伝わってくようです。

詩人ボードレールの美学に共鳴したマネはロマン主義的な視線も持っていました。都市の様々な階層の人たちを描いていて1863年の落選者展やサロンではスキャンダラスな主題を扱う画家として世間に名前が広がりました。特に「水浴」から「草上の昼食」とタイトルを変えた作品は落選者展で展示すると大きな非難を浴びました。というのも同時代の人物に混じって裸婦が草むらで横たわる様子は娼婦を連想させ品性に欠けると考えられたようです。当時、裸婦は神話の題材としてしか許されていなかったので挑戦的な題材です。と言うか現代人から観てもかなり唐突な裸婦で驚きますw さらに同年に娼婦にヴイーナスのポーズをとらせた「オランピア」を発表すると、これも「草上の昼食」以上に非難されてしまい、一時的にイタリアに滞在したようです。しかし若い世代の画家たちはこれに刺激を受けていて、これらの作品は後に高い評価を受けています。

エドゥアール・マネ 「笛を吹く少年」の高精細コピー
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こちらは1866年の作品で、ベラスケスの肖像画に影響を受けて描かれました。これもサロンに出品していますが落選しています。黒、黄、赤の対比が印象的で、特にズボンの輪郭のような黒が見事に思えます。手元だけが動いて笛の音が聞こえてきそうな名画です。

この頃からエミール・ゾラや印象派の若い画家たちと交流を持つようになったようです。印象派と同じように戸外での作品を制作もしています(戸外で絵を描くのも当時は革新的なことです)

エドゥアール・マネ 「Le lapin」
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こちらも1866年の作品。ウサギが吊るされている様子となっていて一見するとフランドル絵画のような主題かな。離れて観ると精密に見えますが、結構大胆な筆致なのが流石です。

この2年後の1868年にマネは女性画家のベルト・モリゾと出会っています。2人は師弟関係となり恋仲も噂されましたが最終的にはモリゾは弟のウージェーヌ・マネと結婚しています。見た目も美しいモリゾはモデルとしても何度もマネの作品に登場することになります。

エドゥアール・マネ 「Portrait de Theodore Duret」
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こちらは1868年の作品。美術批評家のテオドール・デュレの肖像かな。暗い背景に黒の服とは驚きですね。ベラスケスに傾倒していただけあってマネは黒の使い方が見事です。

エドゥアール・マネ「エミール・ゾラ」のポスター
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こちらも1868年の作品。エミール・ゾラは「笛を吹く少年」が落選した時に援護してくれた小説家の友人で、印象派を支援する芸術論も著しています。背景の画中画はマネの「オランピア」、ベラスケス「バッカスの勝利」、歌川国明 (2代目)「大鳴門灘右エ門 (初代)」で、左に見切れている屏風は土佐派か琳派っぽいかな。当時に影響を受けていた芸術の傾向を感じさせますね。ゾラは知的な雰囲気で、やはり黒が締まった感じを引き立ててます。

1870年に普仏戦争が勃発するとマネは志願して戦場に出ています。この時、ドガも一緒に参加していて2人の仲の深さが伺えます。しかし後にドガがマネとピアノを弾いている奥さんを描いた所、マネが妻の顔の出来栄えが気に入らなかったため1/3ほど切り落としてしまうという事件がありました。(今でもその作品は破れたまま展示されます)マネとドガは非常に親密な交友関係があったのですが、こうした波乱もあったようですね。

エドゥアール・マネ 「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」のポスター
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こちらは1872年の作品で、モリゾ31歳の頃の肖像です。黒い帽子、黒いチョーカー?、黒い服と黒尽くしです。しかし、黒は艶やかで、これだけ黒が多いのに画面は明るく感じます。また、顔の左側に光が当たっている様子も伺え、むしろ黒や影はモリゾの表情を対比的に明るくしているような気がします。そしてこちらを見つめるモリゾの目は非常に魅力的ですね。マネの作品でも特に人気の高い名作です。

この1年前にはパリ・コミューンも起き、その凄惨な様子も描いています。とても同じ時期に描いたとは思えないほどモリゾの絵は平和に思えます。

エドゥアール・マネ 「オペラ座の仮装舞踏会」
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こちらは1873年の作品でかなり粗いタッチで描かれています。細部まで描いてないので習作だと思いますが、中央の2人は踊り子などの女性で周りの黒い服の男性は上流階級の人たちでしょうね。その意味する所は何となく察するかなw これだけ粗くても黒に黒が埋もれずにしっかりと人を判別できるのが凄い。かえって舞踏会の賑わいが伝わってきます。

マネは同時代の庶民の暮らしも描きましたが、生まれがブルジョワジーということもあってこうした上流階級の世界も描いているのが特徴となっています。

エドゥアール・マネ 「花の中の子供(ジャック・オシュデ)」
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こちらは1876年の作品。この子は印象派の画家たちの庇護者であった実業家の子供で、全体的に明るい色彩となっています。全体的に平面的になっているし一気に画風が変わった感じがします。この頃のマネは1860年代の作風を捨てて、モネに影響を受けて明るい色彩と筆触の効果を用いて、戸外の光の下での制作をしていたようです。装飾的な構成には日本の琳派の影響も指摘されるのだとか。

モネとは親しい関係で、アルジャントゥイユのモネの家にも度々訪れています。それでも印象派展には参加せず、あくまでも目指すはサロンです。

エドゥアール・マネ 「自画像」
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こちらは1878~1879年頃の作品で、この頃の画家自身を描いた自画像です。マネの自画像は2枚しかないらしく、貴重な作品となっています。凛と立つ姿に威厳を感じますね。背景がまた黒っぽくなっています。

こんな立派な立ち姿ですが、マネは梅毒で1880年頃から左脚の壊疽が進み、亡くなる1年前の1883年には足を切断しています。 この頃から療養のためにパリを離れていったようです。

エドゥアール・マネ 「ベンチにて」
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こちらも1879年の作品。モデルは若い女優で、当時最新の流行のファッションを身に着けています。パステルの淡さと筆致の素早さで瑞々しい印象を受けるかな。ちょっと憂いを帯びた横顔も知的です。

エドゥアール・マネ 「ブラン氏の肖像」
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こちらも1879年の作品。モデルのブラン氏とは療養中に知り合ったそうで、新興のブルジョワジーのようです。腰に手を当てて威厳を感じる一方で、緑の背景を含めて画面が明るく、印象派のような雰囲気も感じます。

エドゥアール・マネ 「カルメンに扮したエミリー・アンブルの肖像」のポスター
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こちらは1880年の作品。この女性は著名なオペラ歌手で、先程のブラン氏の友人でもあり やはり療養先で知り合っています。ここにきてスペイン的な雰囲気が復活したのかなw 筆致は粗目で印象派みたいな画風に思えます。実際、当時の批評家はマネを印象派の1人だと考えていたようです。

エドゥアール・マネ 「フォリー=ベルジェールのバー」のポスター
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こちらは1882年の晩年の傑作で、本物はかなり大きくて目を引きます。パリのミュージック・ホールのバーが描かれ、中央にバーメイドが立ち その背後には鏡に写ったバルコニー席や曲芸師の足などが見えています。ちょっと妙なのが鏡に映るバーメイドの後ろ姿とシルクハットの紳士で、実際にはこんな角度で反射しないだろうという位置になっています(そのせいで私は別の人物だと思ってましたw) しかしこの2人は何度も描き直してこの場所にしていることが科学分析で分かっているそうで、バーメイドの存在感を引き立たせる為ではないかと考えられているようです。他にも瓶の位置とかも違ったりしますが、手前と鏡の中では筆の精密さが違っているように見えます。鏡によってバーの賑わいを感じさせると共に、自在に配置することで面白い効果を生んでいるようです。ちなみにマネはこの絵の為に自宅のアトリエの一部にバーを作ってバーメイドにポーズを取らせたのだとか。その徹底ぶりがこの傑作に繋がったんでしょうね。

もうこの頃は足が満足に動かないのでかなり苦労して描いていたようです。

エドゥアール・マネ 「メリー・ローラン」
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こちらも1882年の作品で、女性の頭部を描いたパステルです。首から下はまだ描きかけのような感じかな。横向きで知的な印象を受け、パステルの淡い色合いの為かこれまでの作風ともちょっと違った感じに観えます。

エドゥアール・マネ 「裸婦」
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最後にこちらは年代不明の素描。裸婦はマネのスキャンダラスな題材でしたが、マネの題材の中では少ないように思います。高い描写力で入念に準備している様子が伺えますね。


ということで、同時代を描き印象派的な手法もありながら印象派であることを否定した画家となっています。その先進性は印象派の画家たちに直接的な影響を与え、今でも人気の画家となっています。美術初心者の方はまず最初に抑えておきたい画家の1人ではないかと思います。

 参考記事:
  マネとモダン・パリ (三菱一号館美術館)


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《月岡芳年》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師 月岡芳年を取り上げます。月岡芳年は歌川国芳に入門し、若い頃は師匠譲りのドラマチックな作品で人気を博しました。幕末から明治初期にかけて「血みどろ絵」と呼ばれる猟奇な作風を残し、芳年の代名詞のように語られることもありますが、これは芳年の作品のほんの一部であってその後も歴史画や風俗画を始め数多くのシリーズを手掛けました。月岡芳年の門弟には水野年方がいて、孫弟子の鏑木清方や曾孫弟子の伊東深水などにも繋がっていきました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


月岡芳年は1839年に江戸で生まれ、12歳で歌川国芳に入門しました。(同門には河鍋暁斎などもいます。)それからわずか3年後に「一魁斎芳年」の名前で「文治元年平家の一門亡海中落入る図」という作品を制作しています。駆け出しの絵師が3枚続の大判錦絵を手がけるのは異例中の異例だったそうで、親族から資金の提供があったのではないかと推測されるものの、すでに才能に満ち溢れていたのは確かだったようです。20歳を過ぎると役者絵や武者絵を継続して作るようになりますが、23歳の時に師匠の国芳が病死してしまいます。その為わずか10年の師弟関係となりましたが、国芳が芳年に与えた影響は大きいようです。27歳の時、「和漢百物語 小野川喜三郎」に初めて「月岡魁斎芳年」と月岡の号を署名したらしく、これは月岡雪斎という親戚の画姓を引き継いだものとされるようですが、一人立ちの決意も込められていたと考えられるようです。 1866年に兄弟子の落合芳幾と共に歌舞伎や講談の刃傷場面を描いた「英名二十八衆句」という作品を発表し、その後も過剰なまでに血を描写した「血みどろ絵」と呼ばれるの猟奇な作品を多く手がけています。そのインパクトから芳年というと血みどろのイメージで狂気の絵師とみなされることもあるようですが、このような表現は幕末の歌舞伎や講談で好まれた趣向だそうで、芳年はそれを過剰に演出したに過ぎないようです。また、この時期に空想の武者絵ではなく上野戦争で目の当たりにした戦闘のリアリズムを追求したのが要因のようです。しかし血みどろ絵の時期はほんの一時期で、それだけで月岡芳年を評価するのは妥当ではないと思われます。
その後、30歳の頃に明治の新しい時代になると、芳年だけでなく狩野派をはじめとするあらゆる絵師の基盤が揺らぎ、芳年は自らの方向性を模索する中、「一魁随筆」という武者絵を打ち出しました。しかし思ったような人気を得ることはできず、失意の中で明治5年(1872年)には神経衰弱という病に倒れ、それ以降生活は困窮していきました。

月岡芳年 「誠忠義心伝 礒合十郎左ェ門藤原正久」
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こちらは1868年の作品で、仮名手本忠臣蔵(実名ではなく名前を仮託して使っている忠臣蔵)を描いたシリーズです。畳を盾に矢を防いでいるものの出血多量で畳に血の手形が出来ています。この血みどろっぷりのインパクトが大きいので、芳年のイメージがリンクしてしまったのも頷けるかな。確かにリアリティを感じますね。この4年後に病気で倒れてしまいました。

月岡芳年は明治6年(1873年 35歳)にそれまで使っていた「一魁斎」の号に代わって新しく「大蘇」の号を用いるようになり、病から脱して意欲的に制作に携わるようになりました。明治8年(1875年)には郵便報知新聞で新聞錦絵の連載を開いて好評を博し、新聞小説の挿絵も手がけるなど新聞でも活躍しています。明治10年(1877年 39歳)の頃に勃発した西南戦争に取材するなど この時期は風俗・時事的な要素が濃くなると共に歴史画・神話画・徳川の時代を振り返るような作品も手がけています。この頃の画風は衣服の衣紋線や皺を強調して描いたり、人物の劇的な動きを与える芳年ならではの画風の確立が観られるようです。

月岡芳年 「義経紀五條橋之図」の一部の看板
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こちらは1881年の作品の一部で、実際の絵には弁慶と牛若丸が五條大橋で戦っている様子が描かれています。ひらひらと跳ぶこの義経に対し長刀で踏ん張るようなポーズの弁慶が対照的となっています。義経だけでも躍動感と緊張感がみなぎっていて迫力がありますね。

西南戦争が終わった後、40代となった芳年が精力的に取り組んだのは歴史画で、日本の神話から江戸時代に至るまでの揃いものを立て続けに発表しました。その基盤には師匠の武者絵があると考えられ、さらに時代考証を重んじた菊池容斎や、西洋の油絵の色彩、銅版の陰影などを加えたようです。また、この頃 天皇を中心とする明治政府にとって歴史画は国民を教化する有益なツールと認識され、芳年の絵も国民に歴史や修身を啓蒙する役割を担ったようです。

月岡芳年 「芳年武者旡類 源牛若丸 熊坂長範」のポスター
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こちらは明治16(1883年)の作品で、神話から戦国時代までの武者を描くシリーズの1枚です。武者震いと旡類(無類)を掛けたタイトルで、ここでは切り込む牛若と仰け反って長刀で受ける熊坂長範が描かれ、お互いに視線がぶつかり合っています。戦闘の迫力が伝わるポーズが見事で、まさに真剣勝負の瞬間ですね。

月岡芳年は明治15年(1882年)に絵入自由新聞社に挿絵絵師として月給100円の破格の待遇で迎えられ、人気の絶頂期となりました。その人気は非常に高く47歳の頃に出た「東京流行細見紀」では浮世絵師としてトップ名前が挙がるほどだったようです。画業においても40代半ばから亡くなるまでの10年の間に代表作・ヒット作を連発していて、いずれも明と暗、静と動を巧みに操ったドラマチックな画面構成となっています。こうした作品には浄瑠璃・歌舞伎・講談・落語・戯作・小説などが大きく関わっていたようです。

月岡芳年 「風俗三十二相 うるささう 寛政年間処女之風俗」
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こちらは私の大好きな1888年のシリーズものです。寝ている猫に覆いかぶさるように抱きついている華やかな着物の女性を描かれ、猫が可愛くて仕方がないといった感じの女性に対して、猫はやれやれといった感じなのが面白いw 猫の首輪と女性の襦袢はお揃いの柄になっているなど、猫好きの女性であることがよく伝わって来ます。

この時代、他の画家が新たな美術を模索する中、芳年は過ぎ去った江戸を懐かしむ庶民たちの感情に沿うように江戸へと回帰していったようです。

月岡芳年 「風俗三十二相 つめたさう(文化年間めかけの風俗)」
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こちらは腕まくりして手を洗う女性。派手な簪をしている妾で、タイトル通り水が冷たいんでしょうね。まるでその場を観ていたかのような心情表現が素晴らしい。

このシリーズは寛政から明治まで32枚揃いとなっています。「三十二相」とは元々は仏教用語で釈迦の姿の32の特徴を示すものですが、それに因んで女性の美しさを表す趣向となっています。歌川国貞なども当世三十二相」というシリーズを出しているので、そうしたものに影響されているかも知れません。

月岡芳年 「風俗三十二相 暗さう(明治年間妻君の風俗)」
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こちらは寝床の行灯に火を灯す女性が描かれ、ちょっと楽しげな表情をしています。緻密に描かれていて色っぽい雰囲気もありますね。

このシリーズでは各時代・各身分がタイトルに付けられていて、時代考証などもそれに合わしています。何気ない仕草や格好にもその時代を感じさせる工夫もあるようです。

月岡芳年 「風俗三十二相 かわゆらしさう(明治十年以来内室の風俗)」
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母子の仲睦まじい様子が描かれた1枚。このシリーズの中でも特に感情が表に出ているのではないかと思います。子供が可愛くて仕方ないという雰囲気が感じられ、子供もしっかり抱きついていますね。

この頃、「月百姿(つきのひゃくし)」という全100枚揃物のシリーズも手掛けています。(残念ながら写真が見つかりませんでした) 月と共に美人、役者、動物、武者、妖怪、伝説、歴史など様々なテーマが描かれていて正に月岡芳年の総決算とも言える代表作となっています。

月岡芳年 「雪月花の内・雪 尾上梅幸の岩倉の宗玄」
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こちらは晩年の1890年の作品で、歌舞伎の演目を描いた役者絵です。雪景色を背景に鋭い目つきと独特の髪型が何とも印象的。爪も長いしちょっと妖怪みたいに見えるけど、妖しい魅力がありますね。

月岡芳年 「芸妓図」
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最後にこちらは年代不明の肉筆画。非常にすらりとした印象を受け、画面外の左側にいる人と会話をしているような感じかな。肉筆においても艶っぽさは健在ですね。

晩年まで活躍した月岡芳年ですが、明治24年(1891年)に神経の病が再発し、54歳で亡くなってしまいました。晩年の作風が大好きなのでもうちょっと頑張って欲しかった…。

ということで、意外と写真が少なくて晩年に集中してしまいましたが、大好きな画家の1人です。数年に1度くらいの割合で個展も開催されるので、そうした機会には足を運んでいます。今後も開催されると思いますので、イチオシしたい画家です。

 参考記事:
  月岡芳年「月百姿」展 後期 (礫川浮世絵美術館)
  没後120年記念 月岡芳年 感想前編(太田記念美術館)
  没後120年記念 月岡芳年 感想後編(太田記念美術館)
  芳年-激動の時代を生きた鬼才浮世絵師 感想前編(練馬区立美術館)
  芳年-激動の時代を生きた鬼才浮世絵師 感想後編(練馬区立美術館)



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《ギュスターヴ・クールベ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、19世紀中盤頃に活躍した写実主義の画家ギュスターヴ・クールベを取り上げます。クールベの生きた時代は歴史画(宗教画)が最も権威があり、神話や聖人などを描くのが是とされていましたがクールベは「羽根の生えた天使なんて観たことが無い」と言って自然の風景や同時代の人物などを描き「レアリスム宣言」を行いました。また、歴史画にのみ許されていた大画面の作品に風景画を持ち込み、当時は存在しなかった個展を開催し、レズビアン達の裸体を描くなど様々な革新を起こし「反逆児」の異名で語られます。写実主義や同時代の事物を描くという姿勢は近代絵画の方向性として非常に重要で、後進の画家たちに決定的な影響を与えました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

クールベはスイス国境近い街で生まれ、神学校を出た後に父親の意向でソルボンヌ大学の法学部に入学していたそうです。絵画については新古典主義のダヴィッドの流れを組む画家フラジューロに師事していたというのが意外な所です。やがてパリに出て画家を目指し、アカデミーシュイスにも通い、ルーブル美術館で巨匠たちの古典を模写するようになったようです。

ギュスターヴ・クールベ 「Autoportrait au chien noir」
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こちらは1844年(25歳頃)の作品で、日本語にすると「黒い犬を連れた自画像」となります。1842年に描かれた後に1844年に修正され、同年のサロンで初入選しています。クールベのイメージのせいか、こちらを睥睨しているような表情に見えるかなw デビューとしてはかなり遅かったようですが自信家の雰囲気が出ているように思います。

クールベは1846年~47年頃にオランダやベルギーを旅行し、レンブラントやフランス・ハルスなども学んだようです。

ギュスターヴ・クールベ 「Les Amants dans la camagne, sentiments du jeune âge」
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こちらも1844年の作品で、日本語にすると「田舎の恋人、若かりし頃の気持ち」といった感じでしょうか。若い男女が寄り添っていて夢想的でロマンチックな雰囲気に思えます。この頃から現実的なものを描いていますが、若干後の時代の画風とは異なっているように思えます。

1849年にサロンに出品された「オルナンの食後」はドミニク・アングルやドラクロワに高い評価を得て、ドラクロワは「新人が出た、革命者が現れた」とまで絶賛しました。そのため、国家買い上げとなり それ以降のクールベ作品は無審査でサロンに出品できるようになったようです。

ギュスターヴ・クールベ 「Pompiers courant à un incendie」
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こちらは1851年の作品で、日本語にすると「火事に駆けつける消防士」となります。火事現場が目の前に広がるようなリアリティがあるけど、こんな場面を絵の題材にしているのはこれより前の時代にはあまり無いのでは?? 騒然とした中で割と無関係そうな男女がいたりするのも現実感ありますね。

この絵と同時期の1850~51年にサロンで「オルナンの埋葬」という大作を発表しますが、これはかなり批判されて問題作とされました。クールベの故郷オルナンでの葬儀の様子を描いたのですが、巨大なサイズのキャンバスは宗教画を描くのが一種のルールで それを破った上に 人物の身なりやポーズも現実的過ぎて絵画に相応しくないと考えられたようです。まあ当時主流の新古典主義のような神聖性も無ければロマン派のようなドラマチックな雰囲気も無いので、みすぼらしく観えたのかも知れません。しかし写実主義のスタイルを支持する人達もいて、新しい潮流となっていきました。ちなみに同時期に活躍した画家にバルビゾン派のミレーなどがいます。「種まく人」は「オルナンの埋葬」と同じ年の作品で、クールベと同様に社会の現実を描いています。

ギュスターヴ・クールベ 「Les Demoisellers des bords de la seine」
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こちらは1857年の作品で、日本語にすると「セーヌ河畔の若い娘たち」となります。昼寝しているようでこちらをチラっと観る仕草に色気を感じます。この2人は売春婦とされていて、ちょっと納得。同時代の女性の下着姿がけしからんと これも当時の批評家にはショックだったようです。

この2年前の1855年にパリ万国博覧会があり、アングルやドラクロワは華々しく特別室が設けられた訳ですが、クールベは「オルナンの埋葬」や「画家のアトリエ」などの出品を拒否されています。そこでクールベは板で作った個展会場を設けて自作を一般公開しました。入場者は少なく、観客の評判も芳しくなかったようですが、これが個展の発祥とされています。また、この個展の目録で「レアリスム宣言」を掲げ、「生きた芸術(アール・ヴィヴァン)を作りたい」とし、「芸術の世界は失望せり」と失意も漏らしています。こうして一見すると失敗に終わった個展ですが、マネを始めとした後進の画家たちを大いに刺激することになりました(サロンで拒否→自分で開催の流れはまんま印象派と同じですね)

ギュスターヴ・クールベ 「眠れる裸婦」
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こちらは1858年の作品。理想化されていない現実なのでしどけない雰囲気がw 裸婦が寝ている部屋を覗き見したような感じでしょうか。赤と緑の背景のせいか白いベッドと裸婦に存在感があるように思います。

この辺りから1860年代は特にエロティックで過激な作品が多いように思います。

ギュスターヴ・クールベ 「罠にかかった狐」
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こちらは1860年の作品。1860年代以降はこうした狩猟の光景を描いていて、次第に人気を博するようになっていきました。痛そうな狐のリアルな表情も見事ですが、パレットナイフを使って描いた雪の質感が大胆かつ緻密に感じられます。

クールベは動物・狩猟に関する作品も多く、国内でもよく目にする機会があります。クールベ自身の趣味が狩猟だったこともあり、臨場感が感じられます。

ギュスターヴ・クールベ 「Pierre-Joseph Proudhon et ses enfants en 1853」
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こちらは1865年の作品で、無政府主義の父とも呼ばれるピエール・ジョセフ・プルードンとその子供たちを描いています。やや悩ましげな感じがしますが、子どもたちは無邪気な感じ。実際にはこの人はナポレオンや国家を批判した罪で何度も投獄された後のようですが、割と穏やかな光景に思えるかな。親子の対比具合が面白い。

クールベ自身も政治的に左寄りで、晩年まで左翼活動にも従事しています。活動家からも一種のアイコンのようになっていたようで、絵画での反骨ぶりはそういう所から来ているのかも知れませんね。

ギュスターヴ・クールベ 「マドモアゼル・オーブ・ドゥ・ラ・オルド」
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こちらは1865年の作品。やや強い眼差しで端正な雰囲気で、古代風の髪型などと共に気品が感じられます。それでも理想化はしていない感じで、割とタッチは粗めかな。

クールベは「女神がお望みならまずそれを連れて来て欲しい」と言っていたようで、目に見えないものは描かないという主義でした。クールベの作風が詰まったような名言です。

ギュスターヴ・クールベ 「Le Sommeil」
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こちらは1866年の作品で、邦題は「眠り」「2人の友達同士」「怠惰と情欲」などと呼ばれるようです。レズビアンの裸婦を描いたもので、LGBTが活発に議論されるようになった昨今においても過激な題材に思えます。身をくねらせて密着する様子が何ともw

この他にも「世界の起源」という女性器を大写しにした作品などエロティックで挑戦的な絵をいくつか残しています。裸婦は美しく神聖に描いていた前時代とは真逆のアプローチで、スキャンダラスな過激さが特徴となっています。

ギュスターヴ・クールベ 「肌ぬぎの女」
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こちらは1867年の作品。もう過激さに慣れて この位なんてこと無く思えますねw 詳しいことは分かりませんがやつれた感じもして娼婦でしょうか。クールベの女性像は内面性も滲み出ているように思えます。

ギュスターヴ・クールベ 「La sieste pendant la saison des foins」
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こちらは1868年の作品で、日本語にすると「干し草の季節の昼寝」となります。のんびりした光景が広がり、色合いも爽やかです。クールベの風景画は当時の暮らしを感じさせるものが多いかも。

ギュスターヴ・クールベ 「もの思うジプシー女」
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こちらは1869年の作品。じっと物思いに耽っていて神秘性を感じます。女性の周りだけモヤッと白くなっているので非常に目を引きますね。

ギュスターヴ・クールベ 「波、夕暮れにうねる海」
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こちらも1869年の作品で、クールベがよく描いた波をモチーフにしています。エトルタの海の波で、力強く波濤の音まで聞こえそうなほどのリアリティです。クールベは葛飾北斎の「富岳三十六景」(1835年)の荒波の表現に強く揺さぶられたとも言われ、この絵でもその影響が伺えるようです。一方、近代絵画の父と呼ばれるセザンヌは、パレットナイフで厚塗りする技法をクールベから影響を受けたとされます。この波の絵1枚にも絵画の歴史が込められているんですね。

クールベは山育ちだったので、海は長い間 未知の世界だったようです。1860年代後半から海をテーマにした作品に本格的に取り掛かっています。1869年の夏に訪れたエトルタは英仏海峡に面したノルマンディーの小さな漁村で、エトルタの断崖は後にモネなども描いています。

ギュスターヴ・クールベ 「波」
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こちらは1870年の作品。さっきの作品とそっくりですが、似たような絵は結構あります。絵筆とペインティングナイフで質感を描き分けていて、波の崩れる一瞬を見事にあらわしています。空模様も臨場感あって実際に目の当たりにしているような感じですね。

クールベは1870年に起きたパリ・コミューンに参加し、ヴァンドーム広場の円柱破壊事件の責任を問われて逮捕されました。(本人は壊すのではなく移動を提案していたようです。参加も一時的だったので罪は比較的軽めでした) 1872年には出所したものの支払不能な円柱再建費用を請求されるのを避けて1873年にスイスに亡命しています。

ギュスターヴ・クールベ 「狩猟者のいる風景」
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これは1873年のスイス亡命直前に故郷オルナンを描いたもので、明るく豊かな自然の風景となっています。2頭の鹿とそれを狙うハンターの姿に緊張感がありますが、爽やかな印象のほうが強いかな。とても亡命するような状況で描かれたとは思えないくらい平和な光景です。

ギュスターヴ・クールベ 「馬小屋」
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最後に同じく1873年の作品。馬が草を食む様子が長閑です。クールベの自然や動物を描いた作品は普遍的なものを感じますね。

クールベは1877年に亡命先のスイスで亡くなりました。時代を切り開いた芸術家だっただけに批判も多く、まさに反逆児と言える生涯でした。


ということで、当時は軋轢が多く数多くの困難がありましたが、それ故に多くの革新を起こし今となっては非常に重要な画家となっています。国内でも観る機会が多い画家なので、その業績を詳しく知っておくと一層に楽しめると思います。


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《歌川広重》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、19世紀前半から中頃にかけて活躍した浮世絵師 歌川広重を取り上げます。歌川広重の本名は安藤重右衛門で、以前は安藤広重という表記もありましたが姓と画号の組み合わせとなるので最近は見かけなくなりました。歌川広重と言えば東海道五拾三次のシリーズが有名ですが、東海道五拾三次だけでも保永堂版、行書版、隷書版という図柄の異なるシリーズが3種類あり、東海道を題材とした揃い物を生涯に20種類以上制作したと言われます。また、木曽街道六拾九次や六十余州名所図会、名所江戸百景といった他のシリーズも合わせると作品数はかなりの数になります。東海道五十三次のシリーズ以降は当時から人気があり、海外にも陶器の梱包材などの形で輸出され ゴッホを始め西洋近代絵画にも大きな影響を与えました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

歌川広重は火消しの家に生まれ、12歳の頃には父の跡を継いで火消しになっています。しかし浮世絵師を目指し広重は14歳の頃に初代歌川豊国への入門を希望したものの、満員のため断られて その弟弟子にあたる歌川豊広に師事しました。初期は火消しを本業としながら浮世絵師としても活動し、美人画や役者絵、挿絵などを制作していたようですが、20年くらいの間あまり売れなかったようです。そして1831年頃に葛飾北斎が「冨嶽三十六景」のシリーズを発表すると、広重も同時期に「東都名所」と「本朝名所」を刊行しました。

歌川広重 「東都名所・金龍山雪景」
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こちらは1831~32年頃の作品で、広重が最初に出した風景画シリーズとなります。この頃の号は一幽斎廣重だったので、一幽斎描きとも呼ばれます。金龍山というのは浅草寺のことで、こんな雪なのに傘をさした人や参拝客で凄い賑わいで、静かな光景と対照的なのが面白い。一方、色はまだ地味な印象ですね。そのせいか、このシリーズはそれほど売れなかったようですw

1832年に養祖父の嫡子が元服したので火消しの職を譲り、絵師に専念するようになりました。号も一立齋に改めています。

歌川広重 「保永堂版 東海道五拾三次之内・日本橋 朝の景」
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こちらは1833年~34年頃に出版された最大のヒット作で出世作となるシリーズです。江戸から京都への街道の出発点となる日本橋の朝の様子が描かれ、橋を渡ってくる人や橋の袂で天秤を担ぐ人など、活気が伝わってきます。ちなみにこのシリーズは同じ絵でも摺りによって図像が異なってきます。例えばこの作品では上部に雲が描かれているのは、初期の摺りで、後の刷りでは省略されていきます。他にも様々な部分が変わるので、それで版が分かったりするようです。

東海道五拾三次のシリーズは1833年に版元の保永堂[ほえいどう](竹内孫八)と僊鶴堂 [せんかくどう](鶴屋喜右衛門)から共同出版され、後に保永堂単独の出版となりました。広重の代表作と言える大ヒット作となり、広重は生涯に20種類以上の東海道ものを制作したようです。1840年に丸屋清次郎の寿鶴堂[じゅかくどう]から出版された「東海道」もその中の1つで、画中の題が隷書体(れいしょたい)で書かれていることから隷書版東海道と呼ばれるそうです。(さらに行書版(江崎屋版・行書版・行書東海道)と呼ばれる東海道もあります)

歌川広重 「保永堂版 東海道五拾三次之内・亀山 雪晴」
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こちらも保永堂版で、三重県亀山あたりの山を大名行列が行進する様子が描かれています。輝くような白さが朝の清々しさを感じさせますね。空に使われているのはベロ藍じゃないかな。構図の面白さも広重の特徴となっています。

広重は雪や雨をよく題材にしていて、数あるシリーズの中で「東海道五拾三次 庄野・白雨」が最高傑作と呼ばれています。私はそれに劣らぬ人気の「東海道五拾三次 蒲原・夜之雪」が一番好きです。叙情性豊かな作品ばかりです。

歌川広重 「江都名所・両国橋納涼」
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こちらは1834年頃のシリーズ。画面を覆うような橋と橋桁が面白い構図を生み出しています。大勢で花火を見学しているのかな。夏の情緒も漂い季節を感じます。

冒頭に書いたように広重は東海道五十三次以外にも様々な風景シリーズを出しています。展覧会では東海道五十三次ばかり紹介されるので、今回はそれ以外の作品を多めにしてみました。

歌川広重 「木曽街道六拾九次之内 高宮」
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こちらは1835~1837年頃のシリーズ。広々とした遠近感で、山の青も鮮やかです。手前の2人が何やら背負っているのが気になりますが、中には名物の高宮布が入っているのでは?と考えられています。のんびりした平和な感じが微笑ましい。

歌川広重 「江戸近郊八景之内・飛鳥山暮雪」
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こちらは1838年頃の8枚揃えのシリーズのうちの1枚。見た目は代表作である東海道五十三次の「雪の蒲原」を思わせます。飛鳥山はお花見のイメージだけど、雪も風情がありますね。どこか寂しげな感じがとても好み。

歌川広重 「江戸名所三ツの眺・日本橋雪晴」
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こちらは1843年の作品。雪の後に晴れた清々しい雰囲気を感じます。俯瞰するような構図も開放感がありますね。

歌川広重 「薔薇に狗子」
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こちらは年代不明の作品。絵柄的にはもっと前の時代かもしれません。この作品は題材的にも円山応挙を彷彿とさせるコロコロした犬が描かれていて可愛らしい。広重は風景画だけでなく花鳥画も残していて、花鳥画では四条派の影響を受けたとされています。

広重は1848年~1854年頃に山形の天童藩からの依頼で肉筆画も描いていて、それらは天童広重と呼ばれていています。当時の天童藩は財政難で十年年賦という地方債のようなものを出していて、その満了期に近づくと広重の絵を渡して慰労と新たな10年の上納の契約をさせていたそうです。こうして描かれた広重の作品は円山応挙や松村景之ら四条派の描写を学んだ形跡が観られるとのことで、四条派は広重のルーツの1つと言えそうです。

歌川広重 「井の頭の池弁財天の社雪の景」
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こちらも年代不明の作品。井の頭公園にある弁財天の雪景色を描いていて、しんしんと雪が降り積もる情感溢れる光景です。手前の笠の人や足跡がとても良いアクセント。

歌川広重 「六十余州名所図会・越中 富山船橋」
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こちらは1853年~56年のシリーズ。構図や題材が面白く、その名の通り船で橋ができていてカーブを描いています。まるで空へと登っていくようでリズムを感じます。

六十余州名所図会は五畿七道の68ヶ国と江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69枚に、目録1枚を加えた全70枚からなる名所図会です。これも中々の名作揃い。

歌川広重 「六十余州名所図会・甲斐 さるはし」
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こちらも六十余州名所図会。甲斐の猿橋の様子を描いていて、渓流の上の橋を行く人々の姿も観られます。色鮮やかで絶景が目の前に広がるような傑作です。

葛飾北斎も1833~34年に諸國名橋奇覧という日本の様々な橋を描いたシリーズを描いています。歌川広重は葛飾北斎に対してライバル心を持ちつつ学んでいる部分もあったと思われます。ちなみに葛飾北斎も東海道五十三次を描いたシリーズがあるのですが、あまり知られてないかも。それぞれ得意分野が違って個性的ですね。

歌川広重 「東都名所年中行事 八月 向じま花屋敷秋の花ぞの」
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こちらは1855年頃の作品。秋の七草が咲く庭園と、それを眺める美人が描かれています。今の百花園かな?? 美人画はそれほど上手いとは思えませんが秋の風情が漂っています。

歌川広重 「有掛絵 奴姿の福助」
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こちらは1855年頃(?)の作品で、ちょっとキモ可愛い福助!w 福助は寛政年間(1789~1801年)に人形が売り出され、1804年頃に江戸で流行したそうです。何だか楽しそうな顔をしていて憎めません。デフォルメぶりが漫画みたいw

歌川広重 「名所江戸百景・鎧の渡し小網町」
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こちらは晩年の集大成とも言える1856~1858年のシリーズ。蔵がずら~~~っと並んで壮観な光景となっています。遠近感とリズム感があって面白い構図で、左に突き出た舳先みたいなのも大胆で驚かされます。

このシリーズの「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」はゴッホが模写したことでも有名です。構図や動きの斬新さは西洋でも驚かれたようです。

歌川広重 「名所江戸百景・浅草田甫 酉の町詣」
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こちらも猫好きの間では有名な作品かも。 外をじっと観ている猫の仕草が可愛らしく、何とも猫らしいw 空の色合いも清々しい傑作です。

歌川広重 「名所江戸百景・高輪うしまち」
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こちらは円と直線の幾何学的な構成が面白い作品。犬がワラジをほぐして遊ぶ様子も可愛いですね。歌川広重の作品には犬もよく出てきます。

歌川広重 「びくにはし雪中」
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こちらは亡くなった1858年に出版された作品で、襲名者で弟子の二代目広重による作品とされることもあります。(諸説あり) どちらか判明しづらいほど二代目も凄い腕だったんでしょうね。 タイトルの「びくに橋」は現在の有楽町付近にあった橋の名前で、画中の「山くじら」はイノシシの肉のことだそうです。その向かいの「十三里」というのはサツマイモ屋で、「栗より美味い」と「九里+四里」をかけて十三里としているのが面白いです。風情もあり洒落も効いている作品です。

歌川広重 「東都御殿山・真乳山図」
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こちらは年代不明の肉筆の掛け軸。寒さと清新な雰囲気を感じます。浮世絵と違って淡くてやや南画っぽさを感じます。

歌川広重 「御馬献上行列図」
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こちらも年代不明の肉筆。行列の様子。行列が大木の脇をぐるっと回ってくる動きを感じ、奥に富士が見えると言うのも面白い構成となっています。肉筆でも当時の風俗の様子を生き生きと描いているのは変わりませんね。

歌川広重 「富嶽図」
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最後にこちらも年代不明の肉筆。手前の茂みに隠れて舟の姿があり、雄大な富士山がそびえています。近景・中景・遠景の光景が並んでいるので奥行きと広々した雰囲気を感じます。こうした広重の風景画は日本人の心象風景のように思えます。


ということで、歌川広重は数多くの作品を残し、特に風景画において評価が高くなっています。特別展では東海道五十三次の保永堂版ばかりが紹介されますが、東博の常設などでそれ以外の魅力的な作品を観ることができます。よく目にする機会があるのでとても馴染みやすい画家だと思います。

 参考記事:
  浮世絵入門 -広重《東海道五十三次》一挙公開- (山種美術館)
  広重と北斎の東海道五十三次と浮世絵名品展 (うらわ美術館)
  殿様も犬も旅した 広重・東海道五拾三次-保永堂版・隷書版を中心に- (サントリー美術館)


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《ウジェーヌ・ドラクロワ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、19世紀前半から中頃にかけて活躍したロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワ(フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ)を取り上げます。ドラクロワが活躍した時代はダヴィッドやアングルといった新古典主義の系譜が画壇の中心でしたが、この頃から美術だけでなく音楽や文学においてもロマン主義(ロマン派)が台頭し、ドラクロワはその代表格とされます。ドラクロワの一番の特徴は同時代の歴史的な出来事を歴史画風に描いた点で、1822年にキオス島で起きた虐殺をテーマにした「キオス島の虐殺」や、1830年の七月革命を題材にした「民衆を導く自由の女神」などが代表作として挙げられます。また、1832年からはアルジェリアやモロッコを旅行し、異国情緒を取り入れた作品なども残しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

ウジェーヌ・ドラクロワは1798年にパリで外交官(実の父は有力な政治家という説が有力)の子として生まれ、17歳の頃から新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲランに師事しました。そのため初期はアカデミックな画風だったようでルーベンスやラファエロに影響を受けていたようです。しかし同門でロマン派の先駆者となるテオドール・ジェリコーの作品に触発されるようになり、1822年に『神曲』から着想を得た「ダンテの小舟」という作品でサロンにデビューしました。この作品はかなり批判されたようですが、新古典主義の先輩画家であるジャン・グロが強力に推薦してくれたようです。

ウジェーヌ・ドラクロワ 「Nu assis, dit Mademoiselle Rose(マドモアゼル・ローズ)」
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こちらはサロンデビュー間もない1824年頃の作品。イギリスのロマン派の画家リチャード・パークス・ボニントンと共にモデルに向かって描いていたようで、モデルは2人のために何度もポーズを変えていたそうです。もうこの頃から粗目の筆致に見えるかな。ちょっと不安そうな顔が内面性を感じさせます。

これを描いた年に代表作となる「キオス島の虐殺」をサロンに出品しました。これは1820年から始まったトルコ軍のギリシャ侵攻によって1万人の人々が虐殺された事件を描いたもので、怒りや悲しみを叩きつけたような作品となり、この頃ちょうど敬愛するジェリコーが落馬で亡くなっているので、その悲しみも背景にあったのかも知れません。ジャン・グロには「これは絵画の虐殺だ」と酷評されたものの、新しいロマン派の代表画家として評価する者もいて、作品は国に購入されました。(親類・縁者のコネが強いのも後押ししたようです)

ウジェーヌ・ドラクロワ 「民衆を導く自由の女神」
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こちらは一番有名な1830年の作品で、同年に起きたフランス7月革命を主題としています。実際の事件を描いているのでリアリティがありつつ、「自由」「平等」「博愛」の擬人化である女性(マリアンヌ)など比喩的な表現も使われています。後ろのシルクハットの人物はドラクロワ自身という説もあるようです。こういう劇的で感情を鼓舞するような場面や、激しいタッチで強い色彩を用いている点などが新古典主義とは大きな違いとなっていて、ドラクロワはロマン派の代表として名をあげました。

ちなみにロマン派はそれまでの伝統や合理主義などに対して感情表現や神秘性といったものを取り入れたのが特徴とも言えますが一概にそうでもない所もあり、定義が難しいところです。山田五郎 氏が言っていた「古典主義に対して何でも反抗したので統一性はない」というのが一番スッキリ来る定義かもしれませんw 

ウジェーヌ・ドラクロワ 「シビュラと黄金の小枝(女預言者と黄金の小枝)」
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これは1838年の作品で、1845年のサロンに出品されました。叙事詩『アエネイス』に基づいた話で、アポロの巫女の女預言者シビュラが冥界に向かうアエネイスに、冥界の女王プロセルピナへの供物として黄金の小枝を探すように言い、指さしてその場所を教えているシーンです。鑑賞している人がアエネイスになったような視線になっているのが面白い構図となっています。当時の書簡によると、ドラクロワ自身が「金の枝を手に入れた」という想いを込めてこの作品を描いたとされていて、真なる芸術の領域を達し超えたと感じていたとも考えられるようです。

この作品を描く前の1832年にアルジェリアやモロッコを旅行し、1830年代末は古代のモデルという問題に心を砕いていたようです。異国情緒や神秘性を感じる作品はこの頃から多いように思います。また、詩人のバイロンやシェイクスピアに着想を得た作品なども残しています。

ウジェーヌ・ドラクロワ 「聖母の教育」
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こちらは1852年の作品で、聖母マリアの母アンナがマリアに旧約聖書の読み方を教えている場面が描かれています。この作品はかなり穏やかな雰囲気で、犬もいてのんびりした光景です。劇的な代表作とはだいぶ違っていますが、ここでも筆致は粗目で色彩豊かなのが面白い所だと思います。ちなみにこの10年前にドラクロワは女流作家のジョルジュ・サンドの別荘に滞在し、使用人とその娘をモデルにこの絵と同様の主題で描いています。サンドの恋人は作曲家のショパンでドラクロワとも友人だったようです。ちょうどこの絵もショパンの曲のような穏やかな印象ですね。

1855年のパリ万博で、ドラクロワはアングルと共に特別室を与えられて36点の油彩画を出品しました(先程のシビュラもそのうちの1点です) 2人はライバル関係と言った所ですが、アングルとしては比較されるのも嫌だったようですw

ウジェーヌ・ドラクロワ 「墓に運ばれるキリスト」
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こちらは1859年の作品で洞窟のようなところで、3人の男性に持ち上げられて更に深い地下へと運ばれるキリストを描いた作品です。シャベルと共にたいまつを持った人の周りや、洞窟の入口付近からもれる光などによって、光によって人々に微妙な影が落ちています。この作品は尊敬していたレンブラントに影響を受けていると指摘され、深い宗教性と友人に先立たれたドラクロワの悲しみの内面性が表されているようです。題材自体に悲しみを感じますね。

ドラクロワは1857年にアカデミーの会員になりました。1830年以降にブルボン宮やリュクサンブール宮などの大規模な装飾事業を手掛けていたのにこの頃まで会員ではなかったのが意外です。

ウジェーヌ・ドラクロワ 「海からあがる馬」のレプリカ
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こちらは1860年の作品で、モロッコに行った際のスケッチと馬を組み合わせて描いています。ターバンを巻いていて異国情緒があるし、躍動感ある姿勢がドラクロワならではのドラマチックな感じです。筆致も素早く、この後の時代の近代絵画の到来を感じさせますね。

ドラクロワは体調を崩し1859年以後は引きこもりがちになっていきました。そして1863年に亡くなっています。

ウジェーヌ・ドラクロワ 「ケレスを讃えて」
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こちらは年代不明の作品で、これまではパリ市庁舎の天井画習作とされてきましたが、現在ではドラクロワの死後の1866年頃の天井画のために弟子のアンドリウが描いたのではないかとされています。私には判別はつきませんが、大勢の人間が様々なポーズを取っているのは往年のドラクロワを思わせるものがあるように思えます。

ドラクロワの弟子と言って良いか分かりませんが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌも短期間ですがドラクロワに師事しています。また、ドラクロワは死後も近代の画家たちに大きな影響を与えました。色彩表現の重視によってその後の印象派に繋がる流れができ、ゴッホもドラクロワの色彩理論を学んでいます。描写についても個人の感性を重視した作品を描いたのも近代的に思えます。さらに新印象主義のシニャックは1899年に「ウジェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで」を刊行し、分割主義を理論的に体系づけ、やがてこの本は広く読み継がれ抽象絵画の創設にも大きな役割を果たしています。そう考えるとドラクロワは近代絵画の始祖の1人とも言えそうです。

ということで、ドラクロワも革命的な画家だと思います。日本ではまとめて紹介される機会はほぼ無く、名品展や海外の大型美術館展などで数点観られるといった感じです。しかし絵画の歴史の流れを知る上でも重要だと思いますので、覚えておきたい画家です。



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《葛飾北斎》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、18世紀末から19世紀後半にかけて活躍した日本を代表する画家である葛飾北斎を取り上げます。葛飾北斎は46~50歳頃の画号にすぎず 画風も画号もコロコロ変え(30回もしくは50回の説あり)、ありとあらゆるものを描いたことで知られています。その影響力は絶大で、日本のみならずジャポニスムの一端として印象派やナビ派など西洋美術にも影響を及ぼしました。過去に撮った写真もかなりあるので、デビュー当時の勝川春朗時代、琳派の宗理時代、読本挿絵に力を入れた葛飾北斎・戴斗の時代、冨嶽三十六景など錦絵を手掛けた為一の時代、晩年の画狂老人卍の時代 といった感じで時代の変遷とともにご紹介していこうと思います。


まずはデビュー期です。後に葛飾北斎となる幼名:時太郎は1760年に江戸に生まれ、家は有名な赤穂浪士の討ち入りの際に吉良上野介を護って死んだ家臣の子孫とされています。6歳の頃から絵を描き始め12歳のときには貸本屋で働くようになり、14歳で版木彫りの仕事をするようになりました。そして19歳の頃に勝川春章に入門し、勝川春朗の号を授けられてデビューしました。その後15年ほど様々な題材を描いていましたが、1792年に師が没すると叢春朗(くさむらしゅんろう)を用いて画風も変化していきます。

葛飾北斎 「四代目岩井半四郎 かしく」のレプリカ
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こちらは1779年の初期の作品。勝川春章に入門して翌年の錦絵デビュー作の1枚とされています。勝川派は役者を似顔で描くことで人気を博した流派で、初期の北斎も丁寧に役者に似せて描いていた様子が伺えます。割と師匠の作風にも近いかな。

勝川派で学んでいた頃から他の流派からも積極的に学んでいて、それが破門の原因の1つになっています。また、勝川派にいた頃、兄弟子に絵の拙さについて からかわれて絵を破り捨てられたことがあったそうで、それに奮起したことで絵が上達したと後に語っています。(兄弟子との不仲も勝川派を離脱した一因のようです…。) 勝川派の中堅になっても生活は苦しかったようで、唐辛子や暦を売る副業で生活していたなんてエピソードもあります。


続いては主に「宗理」を名乗っていた時期です。勝川春章が亡くなると1794年に勝川派から離脱し、江戸琳派の棟梁となり「宗理」の名を受け継いで画風が一気に変わりました。この時期は浮世絵制作は減り、摺物へと軸足を移していて肉筆も多く手がけて様々な描法を用いているようです。特に瓜実顔の女性は「宗理風」と呼ばれるスタイルとしてこの時期を代表する画風となっています。

葛飾北斎 「新板浮絵忠臣蔵 第十一段目」
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こちらは1800~04年頃の仮名手本忠臣蔵の討ち入りの場面を描いた作品。由良之助らが高師直の屋敷に討ち入り戦っています。歌舞伎などで当時から人気があったようです。

1798年には宗理の画号を門人の宗二に譲り、琳派から独立して「北斎辰正」へと改号、さらに「画狂人北斎」へと次々に号を変えています。

葛飾北斎 「見立富士の巻狩」
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こちらは1803年に描かれた源頼朝の巻狩を七福神が行っているように見立てた作品。大黒天が新田四郎の役になってイノシシに乗って、打ち出の小槌で尻尾を切ろうとしていたり、何だか楽しげな雰囲気で縁起の良い作品となっています。富士山が枠からはみ出すような趣向も面白い。

宗理様式の作画は1805年ころまで続いたようで、この時期には西洋風の画風も取り込んだりしていました。

葛飾北斎 「賀奈川沖本杢之図」のレプリカ
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こちらは1804~07年頃の作品で、洋風の風景版画シリーズの1枚です。現在の横浜の本牧あたりの光景のようで、うねる大波を表しています。何だか有名な「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を想起させますね。このデフォルメぶりは琳派からの影響もあるのかも。遠近感は西洋からの影響と思われ、この時期には他にも同様に遠近法が使われたものや緻密で写実的な西洋風の作品などもあります。

1805年に葛飾北斎を名乗った頃は読本挿絵に注力して大きく貢献したようで、曲亭馬琴と共に『新編水滸画伝』や『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』などで読者を引きつけ、読本挿絵の第一人者と認識されました。 この時期は中国絵画の影響を受けて豪快で大胆な画風となっている一方、洋風の風景版画や肉筆画も多く手がけていたようで、晩年の北斎の基盤となった時代とも言えそうです。

著:六樹園飯盛 画:葛飾北斎 「飛騨匠物語」のレプリカ
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こちらは1809年の読本の挿絵。著者は国学者や狂歌師でもあった人物で、この読本の内容は飛騨の名工を中心に悲恋や奇異をテーマにしているようです。北斎は単なる挿絵でなく芸術に押し上げている訳ですが、プライドの高さからちょっと問題も起こしますw

この頃、葛飾北斎は曲亭馬琴(北斎と袂別後に南総里見八犬伝を書いた滝沢馬琴)とのコンビで人気を博していたのですが、曲亭馬琴の指示に従わない挿絵を描くことがしばしばあったようで、ある時 草履を咥えた人物を描くようにとの指示を鼻で笑って取り合わず、それが原因で絶交になったというエピソードがあります。 また、この頃の北斎は席画(宴会とかで即興で描く絵)でも有名だったらしく、将軍に招かれてパフォーマンスをしたようです。足の裏に朱を塗った鶏を紙の上に歩かせて、竜田川のモミジでござい と言ったのだとかw 相手が大作家であれ将軍であれ、誰に対しても臆することない人物だったんでしょうね。

続いては「戴斗」を名乗っていた時期です。1810年~1819年まで戴斗の号を用いていて、門人の増えた北斎はこの時期は読本から遠ざかり様々な絵手本を発表しています。特に『北斎漫画』は死後の明治時代まで15版も作られ、日本のみならず海外にも大きな影響を与えました。

葛飾北斎 「略画早指南」のレプリカ
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こちらは前編で1812年頃(後編は1814年頃)に出された絵手本です。前編では丸と直線で絵を描く方法を指南をしていて、まるでセザンヌやキュビスムを先取りしたような理論となっています。北斎の影響力は西洋にも絶大だったので、西洋の近代画家たちもこの本を観てたんじゃないかなあ。発想も天才的でユーモアがありますね。

こうした絵手本は自身の門下や私淑(直接の教えを受けていないが、敬意を持って学ぶこと)する者たちに自らの画風を広めようと考えて作ったようです。

葛飾北斎 「北斎漫画」
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こちらは初版は1814年ですが、死後も1878年(明治11年)の第15編まで出版されました。このページだけでも色々描かれていますが、初編から15編までで凡そ3900の図があると言われていて、各編ごとに特色もあります(特色は下記の記事を参照ください) 実に生き生きとしていて、こんなものまで描くの?ってものまで幅広く扱っているのが魅力です。
 参考記事:浦上コレクション 北斎漫画:驚異の眼、驚異の筆 (うらわ美術館)

葛飾北斎 「羅漢図」
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こちらは肉筆で「戴斗」の署名から北斎50代後半(1810年代後半)頃の作品とされています。掲げた鉢から煙のようなものが立ち上がり、雲か龍を思わせますね。上の方に赤い稲光らしきものが光っています。この作品によく似た図が北斎漫画の2編に「半諾迦尊者」として収録されているのだとか。

この時期にも数少ないものの版画や肉筆も手がけていたようです。


続いては北斎の中でも最も有名な作品が作られた為一(いいつ)の時期です。1820年(61歳)の頃から為一の号を使い始め、為一期は大きく前期と後期に分けられます。前期は1820年~30年頃で、狂歌摺物の連作などを手がけています。一方、後期は1830~34年という短い期間に「富嶽三十六景」や「諸国瀧廻り」といった代表作を制作しました。


葛飾北斎 「冨嶽三十六景・東都浅草本願寺」
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まずは1831~34年の代表作「冨嶽三十六景」 北斎は、こんな構図どうやったら思いつくんだろう?という天才的な作品が多いですが、これも何処からの視点なのか不思議です。富士と屋根の三角が呼応していて面白い。

それまで浮世絵には風景画が無かったのですが、冨嶽三十六景の大ヒットで浮世絵に風景画というジャンルが生まれたほどの影響力があったようです。

葛飾北斎 葛飾北斎 「冨嶽三十六景・武州玉川」
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非常に摺りと状態が良く、「ベロ藍」が美しい逸品。構図もリズムがあってこのシリーズでも好きな作品です。

ベロ藍というのは「ベルリンの藍」の略で、ベルリンの染色職人が作り出した青い人工顔料です。これは江戸時代でも輸入されていて、冨嶽三十六景はベロ藍を使っているので青が非常に綺麗に出ています。ちなみに日本で一番最初にベロ藍を使ったのは伊藤若冲の「動植綵絵」とされています。

葛飾北斎 「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」
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恐らく世界的には日本画で一番有名なのはこの作品だと思われます。パスポートや2024年からの新千円札に使われるらしいので、日本人で知らない人はいないと思います。それだけ語り尽くされた名作ですが、このリズム感や迫力は北斎の凄さが凝縮されていますね。

「神奈川沖浪裏」をオマージュした作品は数知れずあります。ちょっと面白いところでは音楽の印象派と呼ばれるドビュッシーの「海」の楽譜の表紙にも引用されました。絵画だけでなく音楽の世界にも影響を与えたとは恐るべし。
 参考記事:ドビュッシー 、音楽と美術ー印象派と象徴派のあいだで 感想後編(ブリヂストン美術館)

葛飾北斎 「冨嶽三十六景・駿州江尻」
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曲がりくねって奥に続く道や 強風で身をかがめる人々など臨場感溢れる作品。ちぎれ飛ぶ紙で風の強さまで伝わってきます。これも特に好きな1枚です。

北斎は単なる名所の風景のみならず、波や風など 形にするのが難しい自然現象を描くことを試行錯誤していたそうです。この作品はそれが非常に感じられますね。

葛飾北斎 「冨嶽三十六景・凱風快晴」
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こちらも赤富士の愛称で知られる代表作。神奈川沖浪裏と山下白雨と合わせて三大役物と呼ばれたりもします。凱風(南風)が吹き渡り うろこ雲が秋の到来を感じさせますね。

北斎に傾倒した19世紀後半のフランス画家アンリ・リヴィエールは「エッフェル塔三十六景」という連作版画を作っています。北斎の洒落の効いた構図なども上手く取り入れてリヴィエール自身の構図として昇華した傑作です。
 参考記事:北斎とリヴィエール 三十六景の競演 (ニューオータニ美術館)

葛飾北斎 「百物語・皿やしき」
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こちらは1831~32年頃に描かれた妖怪をテーマにしたシリーズ。恐ろしくも首が皿になっている辺りに機知を感じさせます。

このシリーズにはもっと恐ろしい「百物語 笑ひはんにや」などもあります。子供が観たらトラウマになるレベルw

葛飾北斎 「雪月花 隅田」
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こちらは1833年の雪月花を描いたシリーズのうちの雪で、隅田川沿いの景色となっています。人の姿はあるけど時が止まったような静寂の世界となっていますね。それにしてもこれは何処からの視点なのか気になります。

北斎は「三つわり法」という構図をよく用いました。これは西洋の「一点透視法」とも違った独自のもので、地を画面の1/3、空を2/3で表すことで安定感を出すようです。(この絵だと逆に地が2/3かなw)

葛飾北斎 「諸國名橋奇覧・飛越の堺つりはし」
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こちらは1833~34年頃の日本の橋を描いたシリーズで現存が確認されるのは11図となっています。冨嶽三十六景と同時期だけに構図の斬新さや色合い、テーマなど似た感じになっていると思います。版元も同じ西村屋与八(永寿堂)なので、クオリティの高いシリーズです。

最後は晩年についてです。1834年に富士図を題材として「富嶽百景」を出版し、この巻末で「画狂老人卍」の号を用いてさらなる画技の向上を表明しています。最晩年には版画から遠ざかり、肉筆画に力を注いだようで、風俗画はほとんど描かず動物・植物・宗教などを題材にしていました。

葛飾北斎 「朱描鍾馗図」のレプリカ
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こちらは1846年の作品。全体的に赤みがかった鍾馗で、陰影があるためか立体感が感じられます。特に顔は影が表情を作っている感じ。これを描いた当時、疱瘡が流行っていて赤いものが効くという俗信があったためこうした絵を描いたのだとか。87歳とは思えないほどエネルギッシュな作品です。

北斎はお金に困ると画号を弟子に売ったりしていました。また、生涯に93回の転居をしていて、掃除が面倒で引っ越しをしたこともあったそうですw 画家になった娘の葛飾応為(阿栄)の画号は北斎が「おーい」」と呼んでたから…なんて説もあるくらいで、色々と無頓着です。

葛飾北斎 「弘法大師修法図」のポスター
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最後にこちらは1844~47年頃の西新井大師に伝わる大型の絵馬です。これは弘法大師が西新井で流行の疫病を鎮めた逸話を元にしているようで、この鬼は病魔と思われます。コロナで揺れる今だからこそ知っておきたい作品です。

葛飾北斎は90歳で亡くなりました。亡くなる直前に「あと5年、天が命をくれたら本当の絵描きになることができるだろう」と言っていたそうで、最後まで飽くことなく画業を極めようとしていました。


ということで、誰もが知っている葛飾北斎ですが全容を知ろうとするとかなり大変ですw とにかく仕事の量が半端なく研究熱と行動力が凄い! このエネルギーが日本史上最高の画家になった理由でしょうね。展覧会も頻繁に行われますので、機会があったらチェックしてみてください。


 参考記事:
  浦上コレクション 北斎漫画:驚異の眼、驚異の筆 (うらわ美術館)
  北斎とジャポニスム―HOKUSAIが西洋に与えた衝撃 (国立西洋美術館)
  新・北斎展 HOKUSAI UPDATED 感想前編(森アーツセンターギャラリー)
  新・北斎展 HOKUSAI UPDATED 感想後編(森アーツセンターギャラリー)
  すみだ北斎美術館の案内 (常設 2017年12月)


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《フランシスコ・デ・ゴヤ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、18世紀末から19世紀始めにかけてスペインの首席宮廷画家として活躍したフランシスコ・デ・ゴヤ(フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス)について取り上げます。ゴヤは宮廷画家として肖像画や「裸のマハ」「着衣のマハ」といった傑作を産み スペイン最大の画家と謳われる一方、「我が子を食らうサトゥルヌス」のように狂気を感じさせる作品も残しています。また、版画を数多く制作していて、世相への皮肉や無知を揶揄する作品や、戦争を描いた残酷で悪夢的な作品なども存在します。時代はやがてナポレオンによるスペイン侵攻やスペイン独立戦争を迎え、ゴヤ自身もそれに巻き込まれ波乱の人生を送ることとなり、確実に作風に影響を及ぼしました。今日もそんなゴヤについて過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。(後半はグロい絵も出るのでご注意ください)

最初にゴヤの生涯を簡単に説明すると、ゴヤはスペインの寒村の鍍金師の家の生まれで、最初は地元で絵を学びました。17歳でマドリードへ出てアカデミーに2回落選しているなど若い頃はそんなに順風満帆というわけではなかったようですが、24歳で自力でローマに留学し、ルネサンス期の傑作に出会いフレスコ画などを学んだ後、25歳で帰国して王家のタピストリーの原画制作に携わり本格的な画業がスタートします。壁画なども手がけ、40代で宮廷画家に抜擢されると首席宮廷画家にまで登りつめ、画家としての絶頂を極めました。しかし、病気で聴覚を失い、その後ナポレオン率いるフランス軍がスペインに侵攻してきた頃など苦難も味わいます。78歳でフランスのボルドーに亡命するなど晩年まで波乱があったようですが、ゴヤはそうした状況でも82年の生涯を終えるまで学ぶ姿勢をみせていたようで、当時の世相を反映したような恐ろしい絵も残しています。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「[ロス・カプリーチョス] 1番 画家フランシスコ・ゴヤ・イ。ルシエンテス」
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こちらは1799年(53歳頃)の版画集の中の自画像。ゴヤは自信家で皮肉屋で啓蒙主義的な人物ではないかと思います。この顔を見てもちょっと斜に構えた知性を感じる気がします。

ゴヤは生涯に渡って自画像を描いていたそうで中には戯画的なものも残されています。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「ベラスケスの模写 バルタサール・カルロス王子」
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こちらは1778年の作品で、30代前半頃にスペイン王室コレクションにあったベラスケスの油彩を模写版画に起こしたものです。以前にご紹介したベラスケスの絵と比べるとかなり正確な模写に思えますが、単に模写しているだけでなく輪郭線で形態を写し取ることを避けて エッチングによる細かい破線を用いているなどの工夫があるようです。これはベラスケスの光の表現に興味を持ち、輝きや空気感をグラデーションで表現するのが目的だったのだとか。まだ宮廷画家になる前なのにこれだけの腕があったのは流石ですね。
 参考記事:《ディエゴ・ベラスケス》 作者別紹介

残念ながら20代のタペストリーの写真はありませんでした。20代後半は王宮のためにタピスリー原画を製作した頃で、ゴヤは首席宮廷画家のメングスと義理の兄の元で働いていました。メングスの意向でタピスリーには市民の日常生活を取り入れていたそうで、理想化された共存したイメージだったようです。それに対してゴヤは現実に即して庶民の側に描いていたのだとか。この辺のエピソードは後の版画と通じるものを感じます。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「ベラスケスの模写 メニッポ」
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こちらも1778年のベラスケスの模写版画。顔の印象が若干オリジナルと違っているようにも思えますが、黒衣で分かりづらい部分を丁寧に陰影をつけて表現しています。

ゴヤは後に「ベラスケスとレンブラントと自然」が自分の芸術の師であったと語っていたようです。ベラスケスは少し前のスペインの宮廷画家なので、残した作品を目にする機会も多かったのかも知れませんね。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「デル・カルピオ伯爵夫人、ラ・ソラナ侯爵夫人」
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こちらは既に宮廷画家として活躍していた1795年(50歳頃)の作品。モデルは貴族階級の戯曲作家の夫人で、亡くなる直前に描かれています。その為、やつれた雰囲気も感じますが、ピンクの花飾りや伝統的な衣装などを身にまとい可憐な印象を受けます。半透明のスカーフが軽やかな印象を受け、凛々しい顔つきをしているかな。ゴヤとこの夫人は親しかったらしく、死を覚悟していた夫人を尊厳の眼差しを持って描いていたのだとか。

ゴヤは1780年にアカデミー会員となり、各界の著名人を描いて最も優れた肖像画家と評されたそうです。この頃にはゴヤは独自の様式を築いていて、その形成までにはベラスケスだけでなくゲインズバラやレノルズからの影響もあったようですが 人間的な本質を捉えた肖像画によって頂点を極めていきました。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「着衣のマハ」のポスター
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こちらは1797~1803年頃のゴヤの代表作で、実物は等身大くらいで描かれています。ふわっとした透明感のある表現や、暗闇の中で浮かび上がるような感じが見事で、こちらをじっと見つめる意味深な目が魅力的です。この絵は数年前に描かれた「裸のマハ」という作品と同じ構図なのですが、何故2点作られたかについては諸説紛々です。マハとは下町の娘のことで、当時は一般女性の裸を描くのは禁止されていたため 元々はビーナス(神話の絵の裸はOK)とされていたようです。しかし、異端審問によってマハであると決めつけられ、ゴヤは上手く言い逃れたものの、1901年頃までアカデミーの小部屋の中に隠されてしまったというエピソードがあります。また、2つの作品のモデルは美女として名高い上に絶大な権力を持っていたアルバ公爵夫人ではないかとされています。アルバ公爵夫人はゴヤを寵愛したパトロンでもあり、確実なことは分かりませんが2人の仲を勘ぐる説も存在します。まあこれだけ親密な雰囲気の絵を見たらそうではないかと思うのも分かりますね。憶測が憶測を呼ぶ名画です。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「スペイン皇子フランシスコ・デ・パウラ・アントニオの肖像」のポスター
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こちらは1800年の作品で、まるで女の子のように可愛らしい子供時代の王子の肖像です。頭と上半身だけ細かく描かれ、それより下はまだ描かれていないので習作のような感じかな? 全体的に明るく楽しげな雰囲気です。

ちょっと年代が前後しますが、ゴヤは1799年に版画集『ロス・カプリーチョス』を作っています。この作品の構想は1796年~97年頃に描かれた「夢」というタイトルの26点の素描から始まったらしく、最初は版画集も夢という題にしようと考えていたそうです。冒頭でご紹介したこの版画集の自画像には「卑俗なる因習を放逐し、気まぐれによるこの作品によって真理の確かな証しを永遠にする」との目的が書いてあり、これはこの頃の啓蒙主義の考えと一致したようで、特に聖職者の堕落を痛烈に批判しています。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「[ロス・カプリーチョス] 5番 類は友を呼ぶ」
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こちらは1799年の版画集の5番で、下町女性のマハの格好の女性とフランス風にめかしこんだ男性が描かれていて、背後の2人の老婆は手にロザリオを持ち、女性を斡旋する取り持ち女を意味しているようです。つまり売春婦とその客を描いてるってことですね。悪しき本性は性別を問わずに誰でも同様に備わっているという考え方を表しているのだとか。

ちなみにロス・カプリーチョスは気まぐれという意味となります。全80点あるので結構なボリュームです

フランシスコ・デ・ゴヤ 「[ロス・カプリーチョス] 43番 理性の眠りは怪物を生む」
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こちらは1799年の版画集の43番で、理性を失う危険性を説いています。周りの動物たちはコウモリやミミズクなど夜行性で、悪徳の隠喩のようです。一方、寝ているのは芸術家でフクロウは筆記具を渡していることから理性を超越することで初めて想像力が自由に羽ばたく という眠りの世界に対するロマン主義的な憧憬も込められていると考えられるようです。いずれが正しいか分かりませんが、眠りは別の面を表すと考えていたのでしょうね。

ロス・カプリーチョスはこんな感じで風刺的な内容となっていて、あまりの過激さから僅か2日で販売中止になったようです。それも仕方ないくらい全方位を風刺していますw

フランシスコ・デ・ゴヤ 「[ロス・カプリーチョス] 53番 何て有難いお説教」
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こちらは1799年の版画集の53番で、フクロウを崇めるカリカチュア(戯画)的な表現となっています。まあタイトルからして皮肉たっぷりと言ったところでしょうか。聖職者の腐敗や偽善を批判すると同時に、嘘や迷信に簡単に騙される民衆の無知への批判も込められているようです。

ゴヤは宗教画についても生涯を通じて取り組んだようですが、啓蒙主義的立場から人間性豊かな表現で描いていたそうです。この作品も含め、批判的な雰囲気の作品が残されています。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「[ロス・カプリーチョス] 68番 美しき女教師」
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こちらは1799年の版画集の68番で、見習いの若い魔女がベテラン教師の魔女に従って箒にまたがり飛行法を学んでいる様子が描かれています。これは売春の隠喩であると解釈されるようで、女教師は取り持ち女、箒は男性、飛行は性行為を表し、空飛ぶフクロウは当時のスペインで売春婦を指す隠語だったのだとか。ちょっと色々と倒錯した感じで皮肉が効いてますねw

ゴヤは魔女を何度も描いていて関心があったようですが、その存在を信じているわけではなく非合理と悪徳の象徴として描いていたようです。また、フクロウなどの動物たちもよく出てきますが、動物も非理性的なものの象徴として古き因習に惑わされる人々を批判的に描いていると考えられています

1804年に帝政を樹立したフランスのナポレオンは、その野望によってスペインも戦争と混乱に巻き込みました。ゴヤは1808年に戦争で荒廃した故郷を訪れ、そこで目にしたものを版画集「戦争の惨禍」として着手します。(しかし、この版画集が日の目を見たのは死後のことだそうです)

フランシスコ・デ・ゴヤ 「[戦争の惨禍] 15番 もう助かる道はない」
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こちらは1810~20年頃の版画集の15番で、対仏独立戦争(1808~14年)の様子と思われます。タイトルからして希望が無いですが、暴力に対する絶望や無力感が伝わってくるようです。背景では同じように縛られた人達が銃殺され 手前では血を流して倒れている人もいて、地獄絵図の様相です。

ゴヤはスペインの市民の偉業を描くようにと召集されたようですが、故郷で見た光景の本質として英雄や具体的な戦いではなく、犠牲になった市民を描いたそうです。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「[戦争の惨禍] 30番 戦争の惨害」
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こちらは1810~20年頃の版画集の30番で、砲撃で崩れ落ちた瓦礫による犠牲者を表しています。戦争の痛ましさが目の前に広がるような残酷な光景ですね…。

ゴヤは自らの目と耳で見聞した経験に基づいて制作していますが、特定の事件の記録を意図したわけではないようです。また、フランス軍の蛮行を多数描いていますが、暴力への糾弾や愛国心の鼓舞を意図したわけではなく、いずれも敵味方問わず戦争が引き起こす非人間的な暴力のおぞましさ、不条理、人間の愚行などを暴くのが目的だったようです。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「[戦争の惨禍] 33番 何をなすべきか?」
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こちらは1810~20年頃の版画集の33番で、フランス軍によって裸の男性が剣で切り裂かれています。こういう残虐シーンを描くのが他の画家にはないゴヤの特徴の1つではないかと思います。また、ゴヤの版画の大きな特徴は油彩と比較して一個人としての芸術家が見たものを、より自由に より私的に表現した所にあるようです。

スペインでは独立戦争の後、フランスに加担した者は異端審問で取り締まられたそうです。ゴヤは英雄を描きたいといって首席宮廷画家の地位を保ったようですが、一方で当時の世相に批判的な作品を生んでいたようです。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「[闘牛技] 20番 マドリード闘牛場でファニート・アピニャーニが見せた敏捷さと大胆さ」
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こちらは1816年の版画集の20番目で、闘牛士の戦いの様子が描かれています。「闘牛技」は「戦争の惨禍」に続いて1816年に出された3番目の版画集で、名前から連想するような闘牛の華やかさや魅力ではなく、人間が理性に背いて他者を挑発して無意味な死の報いを受けるという、暴力と不条理をテーマにしています。この作品なんかは空中で静止するような場面で華麗な技術を感じますが、他の作品では事故の様子などもあり「戦争の惨禍」にも通じる表現となっています。それ故に闘牛好きには受け入れられなかったようで商業的には失敗したのだとか。

ゴヤは版画の他に40代終わりから晩年まで8冊の素描集を作りました。ゴヤにとっては素描は重要な位置にあったようですが、素描集には名前が無かったので、A~Hの名称が便宜的につけられています。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「[妄] 17番 忠誠」
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こちらは1816~19年の版画集の17番で、やはり世相を皮肉った内容となっています。直接的に教会を描いたわけではないですが、既存の制度や価値観への盲目的な従順に対する批判が込められているようです。この版画集「妄」は恐怖、愚行、男女などをテーマに描いているようですが、これまでの批判で社会の改良を促す姿勢は無くなり、人間の愚かさと不条理を救いがたいと提示しているかのような作品郡となっています。(一方で闇と対比された光の表現もあるので、かすかな希望を見ることもできるのではないかとも考えられています。) 私には救いがなく愚かさを感じる作品が多いように思え、ゴヤは人間が嫌いだったのでは?と疑ってしまいますw

この妄を完成させた1819年頃から1823年頃にかけて晩年の代表作「我が子を食らうサトゥルヌス」を描いています。マドリード郊外のゴヤの別荘の壁に直接描かれた「黒い絵」のシリーズの1枚で非常に狂気を感じさせる恐ろしい絵です。やはり当時の内乱や戦争の惨禍を寓意的に表現しているんでしょうね。
独立戦争後も首席宮廷画家だったゴヤですが、1824年に休職してマドリードを離れパリへ移りました。その後、ボルドーに居を構え、たまに一時帰国するくらいでボルドーに住んでいたようです。1826年に一時帰国して宮廷画家の辞職を認められ、1828年に亡命先のボルドーで亡くなりました。ちなみにゴヤが亡くなった12年後にボルドーでルドンが生まれています。ルドンはゴヤに影響を受けて夢想的かつ悪夢的な版画を残していて、ゴヤの生まれ変わりじゃないかと思ってみたりw

ということで、華麗な宮廷での絵画と陰鬱な絵画の両面が特徴となっています。ゴヤはドラクロワやマネなどにも影響を与え大きな足跡を残しました。日本で観る機会は少ないですが、美術史上で重要な人物ですので覚えておきたい画家だと思います。


 参考記事:
  プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影 感想前編(国立西洋美術館)
  プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影 感想後編(国立西洋美術館)



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《酒井抱一》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍し「江戸琳派」と呼ばれるようになった酒井抱一を取り上げます。酒井抱一は大名家の次男で、若い頃は狂歌や浮世絵を描いていましたが37歳で出家した頃から尾形光琳を私淑するようになり、光琳百図の編纂や百回忌の法要を行うなど尾形光琳の継承者として名を高めました。晩年にかけて洒脱な様式を確立し、工房の弟子たちによって江戸琳派の系譜を築いています(琳派という呼び方は後世のものです) 今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

酒井抱一は1761年に譜代大名の酒井雅楽頭家(さかいうたのかみ)の次男として生まれました。若くから俳諧や書画を嗜んでいたようで、20代には狂歌や浮世絵といった江戸市井の文化にも手を染めました。20代は「杜綾(とりょう)」「杜陵(とりょう」「屠龍(とりょう」といった俳号を通称として吉原を拠点に名を馳せたそうです。また、「尻焼猿人(しりやきのさるんど)」の狂号で洒落本、狂歌本でも活躍しました。天明期には歌川豊春に倣った浮世絵も手がけ、師弟関係は明らかにされていないものの、豊春に忠実な強い影響を受けたようです。こうした抱一の自由きままな創作活動はこの兄の存在があったようで、後に酒井家当主となる兄の宗雅は温かい目で抱一を見守っていたようです。しかし、宗雅は36歳で亡くなり、代わって甥の忠道が酒井家を継ぎました。兄に庇護されていた抱一は酒井家の居場所を失い、さらに寛政の改革で風紀が取り締まれるなど、悩み多き30代となったようです。そして、37歳の時に西本願寺から来ていた文如上人によって得度し出家しました。きっかけは不明ですがこの頃から尾形光琳の様式に目覚め、最初は苦労したものの やがて習得していきます。55歳の時には尾形光琳の百回忌の法要と展覧会を行い、自他ともに光琳の継承者として認められる存在となっていました。60歳の頃から抱一は洗練された花鳥画を描くようになったようで、従来の琳派様式とは一線を画した、後に「江戸琳派」と呼ばれる様式を確立していきます。抱一は68歳で亡くなりますが、その系譜は工房を支える弟子を中心に受け継がれて行きました。

酒井抱一の作品は制作年代が記載されていないものが多いので、順不同でご紹介してまいります。残念ながら琳派以前の作品の写真はありませんでした。

酒井抱一 「夏秋草図屏風」
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こちらは酒井抱一の代表作で、元々は尾形光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描かれていた作品です。酒井抱一は尾形光琳から100年程度後の時代の絵師ですが、私淑(直接教えを受けず模範にして自主学習すること)という形で琳派を継承しました。表面の風神雷神に呼応するように揺れる夏秋の草花が描かれ、背景も表の金地に対して酒井抱一ならではの銀地となっています。

こちらは右隻のアップ
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右隻は夏草が中心になっていて、ヒルガオやユリが描かれています。葉っぱや花が下向きなのは夕立に打たれている為で、表面の雷神に呼応して夕立が降っている様子を表しています。と言っても雨粒を描かない所が何とも洒落た演出です。金に対しての銀、天に対しての地、色々と対になっています。

左隻のアップ
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こちらは風神に呼応する隻で、秋草が中心となって風になびいている様子となっています。風神雷神図屏風は俵屋宗達がオリジナルで、それをリスペクトした尾形光琳が模したわけですが 酒井抱一はそうした先人たちの作品に敬意を払いつつオリジナルな作風を作ったのが凄い所です。尾形光琳の大傑作の裏に描くなんてよほどの自負がなければ出来ませんねw

ちなみに酒井抱一よりも前に尾形光琳に憧れて研究した中村芳中という京都生まれ・大坂暮らしの絵師がいました。中村芳中は「光琳画譜」という本を出したのですが、この中身は中村芳中の作品ばかりだったそうで、この絵師も自分が光琳の画風を受け継いでいるという自負があったようです。これによって光琳の名前は江戸に広まったものの、後に酒井抱一が本当の光琳の画業を伝えたいと考え「光琳百図」を出版するに至りました。

酒井抱一 「風神雷神図」のポスター
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こちらは「風神雷神図屏風」を2幅対の掛け軸にアレンジした作品。右幅には絵の下部に上を見上げるような風神、左幅には上部に下を見下ろすような雷神が描かれています。展示の仕方によっては互いに目を合わせるような感じにもなります。酒井抱一も俵屋宗達~尾形光琳の「風神雷神図屏風」を模した屏風を残していますが、そちらではお互いに視線を合わせていないので、同じ抱一の風神雷神でも趣向が色々違っているように思います。手本にした光琳の風神雷神図屏風と比べても題材以外はオリジナルな所が多く、右幅は上から下に向かう風、左幅は下から上に吹き上がる風が吹いているように感じられるのも面白い点です。
 参考記事:《尾形光琳》  作者別紹介

酒井抱一は他にも尾形光琳の「八ツ橋図屏風」なども模しています。お互いの作品を比較してみると似ている部分とオリジナル要素が分かったりしますが、展覧会で並ぶのは滅多にない機会です。

酒井抱一 「布引の滝、旭鶏、月兎」
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こちらは3幅対の作品。本体の並び方は左に月兎、中央に布引の滝、右に旭鶏という順となります。この時の展示では季節感を出す為にこの並びとなっていました。

せっかくなので3幅ともソロでご紹介

酒井抱一 「布引の滝」
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こちらは伊勢物語で在原業平が現在の新神戸駅の近くにある布引の滝を訪れた際の滝見の様子が描かれています。優美な王朝文化を感じさせるのは琳派の系譜ならではと言った感じかな。

酒井抱一は狩野派や円山派、南画、浮世絵なども学び、ちょっと変わったところでは鳥獣戯画の写しも描いていたほど幅広く学んでいました。余白を生かした感じとか狩野派っぽい所もあるように思います。

酒井抱一 「月兎」
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こちらは満月とススキが背景に描かれたウサギ。つまり秋の光景となっています。薄い色彩の中、赤い目がアクセントになっているのが面白い。酒井抱一と尾形光琳で違いを感じるのはこうした叙情性じゃないかと思います。尾形光琳を一言で表すならば「典雅」だとすると、酒井抱一は「洒脱」と評されます。

酒井抱一 「旭鶏」
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こちらは春草とつがいの鶏が描かれた作品。うっすらと旭も登っています。先程の月兎とは春秋で対、旭と月で対といった関係になっているので、この2幅を抜き出して対にしても様になりますね。

ちなみに20代の頃に共に活動していた山東京伝の狂歌本などの中に抱一の肖像が描かれていて、良家の才子だけあって優男だったようです。また、兄の宗雅(そうが)の書いた書本の中には栄八(抱一)について書かれたところも度々出てきます。

酒井抱一 「富士見業平図屏風」のポスター
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こちらも伊勢物語の在原業平をモチーフにした作品。黒い馬に乗る在原業平と、後ろを振り返る従者がかかれ、業平は少し上を見上げています。これはどうやら富士を見ているようですが、画面には富士はありません。その視線のおかげで画面外の外を想像させられますね。(むしろ従者は何を見ているのか気になるところですw)

伊勢物語は尾形光琳もよくモチーフにしていて、「燕子花図屏風」や「八橋図屏風」などは東下りのシーンを描いています。琳派で頻出の題材ですね。

酒井抱一 「紅白梅図屏風」のポスター
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こちらは六曲一双の銀屏風の一部で、右にはジグザグの幹の紅梅が描かれ、左には弧を描くような幹の白梅が描かれています。お互いが向き合って対になるような感じで、銀地のためか落ち着いた雰囲気でどこか神秘的な感じです。特に白梅は優美な印象を受けます。顔料付着の劣化具合などから元は裏絵だったのではないかと考えられているようです。

酒井抱一の美意識で面白いのが、銀をよく使う点です。金とは違った静寂を感じさせるのも特徴と言えると思います。

酒井抱一 「流水四季草花図屏風」
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こちらは金地の作品。弟子の鈴木其一ほどではないですが、色鮮やかで緻密な印象を受けます。この中に四季の花々が描かれていて、色や造形の配置がリズミカルに感じられます。

先述の通り酒井抱一は様々な画風を学んでいましたが、兄の宗雅も中国から伝わった南蘋派風の写実的な作品を描いたり、自分で打った脇差なども残っています。さらに抱一の父親が絵を描き母親が和歌を詠んだという作品や、叔父の絵(これも南蘋派風)も残っています。家族揃って相当に書画に長けていたのが凄い。(ちなみに南蘋派は伊藤若冲のルーツでもあります)

酒井抱一 「四季花木図屏風」のポスター
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こちらも四季の草花を描いた四曲の屏風で、右上に桜、下には百合や朝顔、杜若、ススキなど、様々な季節の草花が一堂に会した不思議な光景となっています。色自体は淡いように思えますが目に鮮やかで、雅な雰囲気です。いずれも生き生きとしているけど どこか静かで儚げにも思えるかな。

酒井抱一 「月波草花図」のポスター
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こちらは3幅対の掛け軸で、右から「野原蟷螂図」 「波上明月図」 「水草蜻蛉図」となっています。まず野原蟷螂図は桔梗とススキ、その上に乗ったカマキリが描かれています。秋の風情が出てるかな。 真ん中の 「波上明月図」には激しくうねる波と、その上に浮かぶ大きな月が描かれ、静と動が同居しているように思えます。「水草蜻蛉図」は杜若とその上に止まるトンボが描かれ、色合いと軽やかな葉っぱが優美な雰囲気です。1幅ずつでも素晴らしいと思いますが、3幅並んでいると壮観な作品です。

出家後の抱一は吉原を拠点に活動していたようで、遊女を身請けして内縁の妻としています。(小鸞女史) この妻との合作なども残っているので、才女だったんでしょうね。しかし出家したのに自由過ぎるw

酒井抱一 「白梅雪松小禽図」
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この写真だとわかりづらいですが、左の松には雀がとまっています。冬と春の光景が対となるように向き合っていて右は硬め、左は柔らかめの印象を受けます。特に梅は凛とした緊張感があって好みです。

ここまでご紹介した作品でも季節感を全面に出したものが多いのが分かると思います。酒井抱一は四季を詩情豊かに表現する天才ですね。

酒井抱一 「秋草鶉図」
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金地なのに何処か静けさを感じる作品。ススキの下で休む4羽の鶉と、飛んでいる1羽の鶉が描かれています。赤い花や楓が色鮮やかな一方、空にはアーモンド型の月が黒っぽく浮かんでいます。この月は銀が黒っぽく変色したのかと思ってしまいますが、そうではなく元々こういう色で描いていたようです。非常に目を引き、それが返って秋の情趣漂う雰囲気を出しているように思えます。

残念ながら写真が見つかりませんでしたが抱一は琳派の絵師の多くと同じく、多様な工芸意匠も手がけました。特に蒔絵師の羊遊斎との合作はブランドとして重宝されたようです。

酒井抱一 「四季花鳥図巻 (下巻)」
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こちらは四季の花鳥が並ぶ巻物で、右から左へと春夏秋冬が移ろう様子が描かれています。この単純化が優美で、色の使い方も可憐な雰囲気となっています。よく観ると葉っぱなどに滲みを使った「たらしこみ」の技法も見られます。(たらしこみは琳派でよく使われる表現方法です)

順番がバラバラかもしれませんが、各場面をご紹介。
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これは夏かな。丸っこく鮮やかな群青の朝顔は酒井抱一の特徴かも。

色彩は穏やかながらも鮮やかに見えるのが優美です。
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枝や蔓が流麗で、軽やかな印象を受けます。このセンスが随一ですね。

カマキリや花の雄蕊はかなり細かく描かれています。葉脈が金色なのも面白い。
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この図巻には昆虫もよく出てきますが、花鳥画に虫が描かれるようになったのは江戸時代後半からなのだとか。

鳥がキャラクターみたいな可愛さw
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木のたらしこみは控えめでしみじみとした味わいになっています。

最後は雪の積もる白梅と水仙
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清く純んだ白に緑が映えて、寒さよりも春に向かう生命感を感じます。

これで酒井抱一の写真は終わりです。意外と少なかったw ここからはオマケで弟子や江戸琳派の系譜の画家の作品です。有名な弟子に鈴木其一や酒井鶯蒲がいますが、ソロで改めてご紹介するかもしれないので他の弟子を取り上げます。

山田抱玉 「紅白梅図屏風」
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こちらはパッと見ると酒井抱一の作品かと思えますが弟子の作品です。やや緊張感が無いようにも思えるけど良い作品ですね。

忘れてしまいがちですが抱一は出家した身であり絵師の仕事の1つに仏画制作がありました。古い仏画の模写や谷文晁の作に共通する構図など周到な準備をして臨んでいたようです。また、1809年に移り住んだ下谷大塚の画室兼仏事を営む場は雨華庵(うげあん)と呼ばれ、後々の弟子に引き継がれていきました。

田中抱二 「梅鴛鴦若松春草図」
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こちらは晩年の弟子の田中抱二によるもの。たらしこみなどが使われているけどデフォルメが進んでいたり割と酒井抱一とは違った印象を受けます。

酒井道一 「夏草図屏風」
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こちらは酒井抱一の雨華庵の4代目であった酒井道一による酒井抱一の同名の作品の模写。先程の本物とそっくりでかなりの出来栄え

こんな感じで弟子たちが引き継いで行きましたが、雨華庵5世の唯一(酒井抱祝)で江戸琳派は途絶えたそうです。

ということで、酒井抱一は非常に洗練されたセンスの持ち主となっています。私は尾形光琳が日本画で最も好きですが それに劣らず酒井抱一も大好きです。 個展や琳派の展覧会もちょくちょく開かれるので、そうした機会は逃さないように通いたいと思います。

 参考記事:
  酒井抱一と江戸琳派の全貌 感想前編(千葉市美術館)
  酒井抱一と江戸琳派の全貌 感想後編(千葉市美術館)
  生誕250年 酒井抱一 -琳派の華- (畠山記念館)
  生誕250年 酒井抱一 -琳派の華- 2回目 (畠山記念館)
  琳派芸術 ―光悦・宗達から江戸琳派― 第1部 煌めく金の世界 (出光美術館)
  琳派芸術 ―光悦・宗達から江戸琳派― 第2部 転生する美の世界 (出光美術館)
  琳派芸術 ―光悦・宗達から江戸琳派― 第2部 転生する美の世界 2回目(出光美術館)
  琳派芸術II (出光美術館)



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このブログの写真を撮ってます。上は気合入れてる時のカメラ、下は普段使いのカメラです。
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