Archive | 2020年10月
今日は作者別紹介で、近代彫刻の父と呼ばれ後世に絶大な影響を与えたオーギュスト・ロダンを取り上げます。ロダンは若い頃は美術学校の受験に3度も失敗し 装飾の仕事をするなど苦しい時期を過ごしましたが、30代後半から本格的に活動を開始するとその圧倒的なリアリティと大胆さで一気に名声を確立しました。1880年からはライフワークとも言える「地獄の門」の制作を行い、その派生作品として「考える人」や「接吻」など数多くの傑作を生んでいます。交流関係も広く、同時代や後世の芸術家に大きな影響を与えました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
ロダンは1840年にパリに生まれ、10歳頃から絵に感心を持ち帝国素描学校に入っています。しかし国立高等美術学校受験には3回受験したものの不合格で、結局 は専門教育を受けずに独学で彫刻を学んでいくことになります。そして、精神を病んで修道院に入った姉が病気で亡くなると、ロダンも修道士の見習いとなろうとしましたが、司教に修道士は不向きなので美術を続けるように諭され、動物彫刻家のカリエ=べルーズに弟子入りしました。20代半ばになると家庭を持ったものの普仏戦争の影響で生活が苦しくなり、ベルギーに仕事を求めて単身赴任し装飾職人として働きました。(この時代も独学していたようです) やがてお金蓄えてイタリアに旅行に行き、そこで観たミケランジェロやドナテッロに感激し、多大な影響を受けて彫刻家としての活動を開始しました。
※ロダンの作品はブロンズの複製が多いので、原型が作られた年代に沿ってご紹介していこうと思います。
オーギュスト・ロダン 「青銅時代」

こちらは1877年(原型)の37歳頃の作品。イタリア旅行から帰ってすぐに作られたもので、腰をひねる様子は古代からの伝統的なポーズです。私には苦悩の表情とポーズのように見えるのでが、1877年のブリュッセルの「芸術サークル」展では「敗北者」と題されたそうです。さらにその後、神々の世界である黄金と白銀の時代を経て人類がこの世に初めて生まれ出た「青銅時代」と名付け普遍的な意味を持たせたのだとか。悩んでいるのではなく歩き出した感じってことですね。
この作品は実物大でリアルだったので実際の人間から型を取ったのではないかと疑われたそうです。そこでロダンは疑いを払拭するために2年後に大きめのサイズの作品を作ってその表現力が実力によるものと示し、驚きと共に名声が広まりました。デビューは遅かったですが、デビューしてすぐに名が売れるとは流石です。
オーギュスト・ロダン 「説教する洗礼者ヨハネ」

こちらは1880年(原型)の作品で、洗礼者ヨハネを表しています。筋肉ムキムキで手足が非常に長く見え、威厳に満ちていて話しけてくるような雰囲気です。これはイタリアの農夫がモデルで、腕の位置などは解剖学的には正確ではなく 歩く姿であるものの両足が地に付いているのですが、ロダンは「真実を語るのは芸術家であり、偽るのは写真である。何故なら現実に時間が止まることは決してないからだ」と語っていたようです。ロダンの作品に迫力があるのは、こうした考えがあったからかもしれませんね。
この年に国立美術館のためのモニュメントの依頼を受け、それが代表作の「地獄の門」となって行きます。しかし構想に非常に時間がかかっているので、後ほど関連作と共にまとめてご紹介しようと思います。
オーギュスト・ロダン 「アンリ・ロシュフォールの胸像」

こちらは1884年の作品で、モデルは政治家でジャーナリストでもあった人物で、ロダンとも交流もありました。髪型やおでこが大きく胸の辺りが荒々しい感じで、厳格そうな雰囲気があります。この作品は一度発表された後に手直しされていて、こちらは手直し後のバージョンです。手直し前より前頭部が強調されて知的な表情となっているのだとか。
ロダンはこの頃に弟子の女性彫刻家カミーユ・クローデルと恋仲になり 奥さんとの修羅場も迎えています。奥さんは病気に倒れますが、結局はロダンは奥さんの元に戻りました。一方、カミーユ・クローデルはショックで精神を壊し、精神病院で生涯を過ごしています。人としてどうなんだ?って気はしますが、このカミーユ・クローデルとの恋によって女性や愛をテーマにした作品も多く作られました。
オーギュスト・ロダン 「ヴィクトル・ユゴー」

こちらは1885年の作品で、「レ・ミゼラブル(ああ無情)」などで有名な小説家の胸像です。ユゴーはロダンより前にも胸像のモデルとなったことがあり、長時間のポーズを嫌い制作に際しては特別にポーズを取らないことを条件にOKしたそうです。そのためバルコニーの外から観察していたそうで、ちょっと気難しそうな顔に見えるのも納得かなw そんな苦労して作ったのにユゴーの家族にはあまり評価されなかったのだとか。
この作品を含め、ロダンは著名人の肖像彫刻を数多く制作しています。特に名声の確立した晩年の1900年代は依頼が多かったそうで、後ほどいくつかご紹介します。この作品は比較的早めの著名人像と言えそうです。
オーギュスト・ロダン 「カレーの市民」

こちらは1884~88年頃の作品で、ロダンの初の記念碑彫刻です。フランス北部のドーバー海峡に面するカレーの街で百年戦争の頃にイギリスの攻撃から街を守った6人の英雄を主題としています。依頼したカレー市は英雄の1人を際立たせたかったようですが、6人全員が等しい高さで しかも悩んでいるような感じで英雄とは程遠い出来栄えとなっています。当時の市当局はこれを理解できずに拒否し、台座などでも発注者と意見が合わずに設置に12年もかかったそうです。しかし私はロダンの作品の中でもこれは特に好きで、それぞれの個性や人間としての苦悩が表れているように思います。
この頃、モネと2人でロダン展を開催しています。ロダンはこの時、新作だった「カレーの市民」をモネの主要作品の前に置いたそうで、そのことについてモネと怒鳴り合いの喧嘩になったそうです。それでもその後も2人の親交は続いていきました。
ここからちょっと時代を巻き戻して「地獄の門」の関連作を観ていきます。
オーギュスト・ロダン「地獄の門のマケット(第三構想)」

こちらは1881~82年頃の構想段階のマケット。割と完成形の雰囲気に似ていますがまだ考える人もいないし細部はだいぶ違うかな。既に蠢くような感じは出てます。
1880年に政府から装飾美術館の為の入口の門扉を依頼された際、ロダンはすぐに愛読していた『神曲』をテーマにすることを決意したようです。それ以前の1876年にも『神曲』に取材した「ウゴリーノと息子たち」を作っていたので、相当に傾倒していたことが伺えます。
オーギュスト・ロダン「復讐の女神エリニュスの一人」

こちらはロダンが1年間に渡ってダンテの「神曲 地獄篇」を元に想像した地獄のデッサンを集めた「アルバム・フナイユ」の中の1枚。殺戮や嫉妬といったヤバいものを司る復讐の女神たちの1人で、地獄行きになっています。ぎょろっとした目と表情が異様な迫力で怖いw かなりインパクトがあって、素描の腕前も見事です。
このアルバム・フナイユは142点のデッサンを版画化したもので、支援者の美術愛好家モーリス・フナイユの名を取ってこの名前となっていて、ロダン自身が制作に深く関わった為、高い評価を得ています。とは言え、このデッサンは現実から離れ過ぎた為に一旦放棄して、自然に基づいてデッサンをやり直したそうで、「地獄の門」の完成作には出てこないモチーフもあります。
オーギュスト・ロダン「空中の悪魔」

こちらもアルバム・フナイユからの1枚。悪魔とのことですが、クロールしてる人に見えるw 地獄の門には使われてなさそうに見えるけど、この自由で躍動感があるのは面白い。
当初、「地獄の門」はフィレンツェ洗礼堂のギベルティの「天国の門」にならった構成にしようと考えていたそうで、左右の扉がそれぞれ縦に4つのパネルに区切られ、全体で8面の浮彫によって「地獄篇」の情景を表現して、中央に巨像を置く構成だったようです。しかし主題も構成も渾沌としたものへと変貌していき、先程のマケットのようになっていきました。
オーギュスト・ロダン 「永遠の青春」

こちらは1881~84年頃の作品で、当初は「地獄の門」に組み込まれる予定でした。男女の劇的な愛のシーンを表現していて、のけぞり手を伸ばす姿勢は躍動感があり、動きを感じさせます。恐らく絶望とかけ離れているので組み込まれなかったんじゃないかな。『神曲』のパオロとフランチェスカなどの「愛」のテーマのヴァリエーションの1つです。
この作品は1882年に制作したトルソを下敷きに作っていて、ロダンは既成の彫刻を組み合わせて構成することがあります。(地獄の門の関連作がその最たるものですね)
オーギュスト・ロダン 「接吻」

こちらは1882~87年頃の作品で、ダンテの『神曲』に登場するパオロとフランチェスカの悲恋をモチーフにしています。男女共に肉感的で男性の手が結構大きく見えるかな。
横から見ると熱いキスをする様子がよく分かります。

フランチェスカと夫の弟パオロとの悲恋のシーンで、これも当初は地獄の門の一部として構想されました。しかし真実の愛の悦びの作品なので地獄の門にはそぐわないと考えて独立した像となったようです。大理石とは思えないほどに生き生きとした肉体で、理想的な美しさの男女となっています。ロダンの作品の中でも特に名作ではないかと思います。
オーギュスト・ロダン 「考える人」

こちらは1881~82年頃の作品で、ロダンの作品で最も有名だと思われます。(右は拡大版) 元々は地獄の門の上に配置されているものの派生作品で、『神曲』「地獄篇」の作者であるダンテを表すものでしたが、後に「詩人」となり、さらに普遍的な「考える人」へとタイトルが変わっていきました。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画の「預言者エレミア」やカルポーの「ウゴリーノ」から影響を受けていて、カルポーの作品とポーズはかなり類似しているようです。元ネタがあるとしても、このポーズは地獄を観て苦悩する様子を見事に表しているように思えます。悩みの象徴のような像ですね。
「考える人」について、ロダンは「扉の前でダンテが岩の上に腰を下ろし、詩想に耽っている。彼の背後には、ウゴリーノ、フランチェスカ、パオロなど『神曲』のすべての人物たち。この計画は実現されなかった。全体から切り離された痩身の苦悶するダンテの姿は、意味がなかった。私は最初のインスピレーションに従って別の思索する人物を考えた。裸の男で岩の上に坐り、両足を引き寄せ拳を歯にあてて、彼は夢想している。実り豊かな思索が彼の頭脳の中でゆっくりと確かなものになってゆく。彼はもはや夢想家ではない。彼は創造者である」と語っていたそうです。
オーギュスト・ロダン 「私は美しい」

こちらは1885年頃の作品で、「地獄の門」に登場する「墜ちる男」と「うずくまる女」を組み合わせています。「うずくまる女」の単体もよく観ますが、こうして組み合わさると完全に違う作品に見えるのが不思議。元々は関係ない像を再構成して別の作品にするという手法もロダンの特徴と言えます。ちなみにこの作品は最初「誘拐」と呼ばれ、「肉慾の愛」とも呼ばれたのだとか。確かにそう見えるけどw 今のタイトルは台座に刻み込まれたボードレールの『悪の華』の「私は美しい……」で始まる詩句に由来するようです。
オーギュスト・ロダン 「ネレイスたち」

こちらは1887年以前の作品で、「地獄の門」の左扉中央にも登場する海の精たちです。歌声で船人を誘惑して難破させる伝説で知られ、美しくも恐ろしい者たちとなっています。ここでは悲痛に叫ぶような顔つきに見えるかな。
1888年には美術館の建設計画が白紙に戻っていて、「地獄の門」の制作の中止を命じられています。しかしロダンはこれを断ってお金を払って自分のものとして制作を続けました。
オーギュスト・ロダン 「オルフェウスとマイナスたち」

こちらは1889年以前の作品で、これも「地獄の門」に登場しているようです。ギリシャ神話の竪琴の名人のオルフェウスと、それを八つ裂きにしたバッカスの巫女たちを表していて、下の方に埋まっているのがオルフェウスの顔かな。下の女性は何とも官能的な雰囲気な一方、浮遊している女性たちはアクロバティックな群像で、ロダン以外にこんな大胆な作品は無いのではw
そしてこれらを集めたのが「地獄の門」です。
オーギュスト・ロダン 「地獄の門」

こちらは1880~90年頃/1917年の作品で、結局は未完成となりました。まさにロダンの作品の集大成! 考える人も中央上部に座っています。ちょっと写真では分からないくらい色々な像があるので、国立西洋美術館に行った時に各作品と比べてみると面白いと思います。
ここからは再び年代順に戻ります。
オーギュスト・ロダン 「クロード・ロラン」

こちらは1889年の作品。著名な画家の像ですが、クロード・ロランは17世紀の画家なのでとっくに死んでいるはずです。それでも身を捻って躍動感ある感じで表現しているのは流石ですね。
オーギュスト・ロダン 「バルザック(最終習作)」

こちらは1897年の作品で、現在のパリのラスパイユ大通りに立つ小説家バルザックの像の習作となっています。何だか塊のままのような印象を受けますが、初めて公開されたとき、「ジャガイモの袋をかぶせた」ようだと嘲笑されたそうで注文主からも受け取りを拒否されてしまったようです。カレーの市民もそうでしたが、注文主は理想像を求めてくるけどロダンはそういうものは作らないで己の芸術を貫きます。ロダンは失望し「どうしてあの部屋着がいけないのか?これは深夜、心のうちの幻影を追いかけながら自分の部屋を狂おしく行きつ戻りつする文豪の着ていたものではないというのか?」と言って、よそ行きの服装ではなく制作の時の姿を追い求めていたようです。確かに製作時は綺麗な服は着ませんねw
オーギュスト・ロダン 「瞑想」

こちらは1900年以後の作品。身を捻って俯く姿で、瞑想というよりは苦悩しているように見えるかな。こうした大胆なポーズは一見してロダンと分かる特徴ですね。
ロダンは1902年頃にグスタフ・クリムトと出会っています。ウィーン分離派はロダンを会員に迎え、重要作家として紹介していたようです。クリムトの絵画においても人物画の様々なポーズや主題に影響を与えていて、ロダンはクリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」を称賛しています。
オーギュスト・ロダン 「花子の頭部」

こちらは1907年頃の作品で、いかにも日本人っぽい顔をしている日本人女性の頭部像です。このモデルは太田ひさという女優で、巡業していたマルセイユの劇場でロダンの目にとまったそうです。若干怖い顔をしているのは演じた役に応じたためのようです。ロダンは花子の表情に魅せられ何度もモデルにしていて、様々な素材と手法による花子の肖像が50点余り残されています。特に芝居の「死」の場面で花子が見せた表情に大変興味をそそられ、「死の首」と呼んでその制作に没頭したのだとか。
日本では1910年に雑誌『白樺』でロダン特集が組まれて本格的に紹介されました。その際、本人とやり取りして浮世絵とロダン作品3点を交換したそうで、日本に初めて来たロダン作品とされています。
オーギュスト・ロダン 「オルフェウス」

こちらは1908年の作品で、先程も出てきたオルフェウスを題材にしています。この作品では仰け反るようなポーズで全身で絶望を表していて、妻が死んだ悲しみにくれているようです。オルフェウスは妻を蘇らせる為に冥界へと向かい、復活を許されるものの 冥界を出るまで振り返ってはならないという禁忌を犯して失敗するという話です。この作品の石膏での原型制作は1892年頃で、その時は肩の上にミューズを載せていたようですが、ブロンズ作品ではそれが省かれているのだとか。ロダンの特徴がよく出た作品だと思います。
その後も制作を続け1917年に亡くなりました。晩年は大規模な仕事はあまり行わなかったものの 多作ぶりは変わらなかったようです。
ということで、誰もが知るロダンですが彫刻はブロンズなどで複製できるため、日本でも国立西洋美術館などでその代表作を観ることができます。その圧倒的な存在感で特に人気の彫刻家で、目にする機会も多いと思いますので、詳しく知ると一層に楽しめるのではないでしょうか。
参考記事:
手の痕跡 国立西洋美術館所蔵作品を中心としたロダンとブールデルの彫刻と素描 (国立西洋美術館)
《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』 (国立西洋美術館 版画素描展示室)
ロダンは1840年にパリに生まれ、10歳頃から絵に感心を持ち帝国素描学校に入っています。しかし国立高等美術学校受験には3回受験したものの不合格で、結局 は専門教育を受けずに独学で彫刻を学んでいくことになります。そして、精神を病んで修道院に入った姉が病気で亡くなると、ロダンも修道士の見習いとなろうとしましたが、司教に修道士は不向きなので美術を続けるように諭され、動物彫刻家のカリエ=べルーズに弟子入りしました。20代半ばになると家庭を持ったものの普仏戦争の影響で生活が苦しくなり、ベルギーに仕事を求めて単身赴任し装飾職人として働きました。(この時代も独学していたようです) やがてお金蓄えてイタリアに旅行に行き、そこで観たミケランジェロやドナテッロに感激し、多大な影響を受けて彫刻家としての活動を開始しました。
※ロダンの作品はブロンズの複製が多いので、原型が作られた年代に沿ってご紹介していこうと思います。
オーギュスト・ロダン 「青銅時代」

こちらは1877年(原型)の37歳頃の作品。イタリア旅行から帰ってすぐに作られたもので、腰をひねる様子は古代からの伝統的なポーズです。私には苦悩の表情とポーズのように見えるのでが、1877年のブリュッセルの「芸術サークル」展では「敗北者」と題されたそうです。さらにその後、神々の世界である黄金と白銀の時代を経て人類がこの世に初めて生まれ出た「青銅時代」と名付け普遍的な意味を持たせたのだとか。悩んでいるのではなく歩き出した感じってことですね。
この作品は実物大でリアルだったので実際の人間から型を取ったのではないかと疑われたそうです。そこでロダンは疑いを払拭するために2年後に大きめのサイズの作品を作ってその表現力が実力によるものと示し、驚きと共に名声が広まりました。デビューは遅かったですが、デビューしてすぐに名が売れるとは流石です。
オーギュスト・ロダン 「説教する洗礼者ヨハネ」


こちらは1880年(原型)の作品で、洗礼者ヨハネを表しています。筋肉ムキムキで手足が非常に長く見え、威厳に満ちていて話しけてくるような雰囲気です。これはイタリアの農夫がモデルで、腕の位置などは解剖学的には正確ではなく 歩く姿であるものの両足が地に付いているのですが、ロダンは「真実を語るのは芸術家であり、偽るのは写真である。何故なら現実に時間が止まることは決してないからだ」と語っていたようです。ロダンの作品に迫力があるのは、こうした考えがあったからかもしれませんね。
この年に国立美術館のためのモニュメントの依頼を受け、それが代表作の「地獄の門」となって行きます。しかし構想に非常に時間がかかっているので、後ほど関連作と共にまとめてご紹介しようと思います。
オーギュスト・ロダン 「アンリ・ロシュフォールの胸像」

こちらは1884年の作品で、モデルは政治家でジャーナリストでもあった人物で、ロダンとも交流もありました。髪型やおでこが大きく胸の辺りが荒々しい感じで、厳格そうな雰囲気があります。この作品は一度発表された後に手直しされていて、こちらは手直し後のバージョンです。手直し前より前頭部が強調されて知的な表情となっているのだとか。
ロダンはこの頃に弟子の女性彫刻家カミーユ・クローデルと恋仲になり 奥さんとの修羅場も迎えています。奥さんは病気に倒れますが、結局はロダンは奥さんの元に戻りました。一方、カミーユ・クローデルはショックで精神を壊し、精神病院で生涯を過ごしています。人としてどうなんだ?って気はしますが、このカミーユ・クローデルとの恋によって女性や愛をテーマにした作品も多く作られました。
オーギュスト・ロダン 「ヴィクトル・ユゴー」

こちらは1885年の作品で、「レ・ミゼラブル(ああ無情)」などで有名な小説家の胸像です。ユゴーはロダンより前にも胸像のモデルとなったことがあり、長時間のポーズを嫌い制作に際しては特別にポーズを取らないことを条件にOKしたそうです。そのためバルコニーの外から観察していたそうで、ちょっと気難しそうな顔に見えるのも納得かなw そんな苦労して作ったのにユゴーの家族にはあまり評価されなかったのだとか。
この作品を含め、ロダンは著名人の肖像彫刻を数多く制作しています。特に名声の確立した晩年の1900年代は依頼が多かったそうで、後ほどいくつかご紹介します。この作品は比較的早めの著名人像と言えそうです。
オーギュスト・ロダン 「カレーの市民」

こちらは1884~88年頃の作品で、ロダンの初の記念碑彫刻です。フランス北部のドーバー海峡に面するカレーの街で百年戦争の頃にイギリスの攻撃から街を守った6人の英雄を主題としています。依頼したカレー市は英雄の1人を際立たせたかったようですが、6人全員が等しい高さで しかも悩んでいるような感じで英雄とは程遠い出来栄えとなっています。当時の市当局はこれを理解できずに拒否し、台座などでも発注者と意見が合わずに設置に12年もかかったそうです。しかし私はロダンの作品の中でもこれは特に好きで、それぞれの個性や人間としての苦悩が表れているように思います。
この頃、モネと2人でロダン展を開催しています。ロダンはこの時、新作だった「カレーの市民」をモネの主要作品の前に置いたそうで、そのことについてモネと怒鳴り合いの喧嘩になったそうです。それでもその後も2人の親交は続いていきました。
ここからちょっと時代を巻き戻して「地獄の門」の関連作を観ていきます。
オーギュスト・ロダン「地獄の門のマケット(第三構想)」

こちらは1881~82年頃の構想段階のマケット。割と完成形の雰囲気に似ていますがまだ考える人もいないし細部はだいぶ違うかな。既に蠢くような感じは出てます。
1880年に政府から装飾美術館の為の入口の門扉を依頼された際、ロダンはすぐに愛読していた『神曲』をテーマにすることを決意したようです。それ以前の1876年にも『神曲』に取材した「ウゴリーノと息子たち」を作っていたので、相当に傾倒していたことが伺えます。
オーギュスト・ロダン「復讐の女神エリニュスの一人」

こちらはロダンが1年間に渡ってダンテの「神曲 地獄篇」を元に想像した地獄のデッサンを集めた「アルバム・フナイユ」の中の1枚。殺戮や嫉妬といったヤバいものを司る復讐の女神たちの1人で、地獄行きになっています。ぎょろっとした目と表情が異様な迫力で怖いw かなりインパクトがあって、素描の腕前も見事です。
このアルバム・フナイユは142点のデッサンを版画化したもので、支援者の美術愛好家モーリス・フナイユの名を取ってこの名前となっていて、ロダン自身が制作に深く関わった為、高い評価を得ています。とは言え、このデッサンは現実から離れ過ぎた為に一旦放棄して、自然に基づいてデッサンをやり直したそうで、「地獄の門」の完成作には出てこないモチーフもあります。
オーギュスト・ロダン「空中の悪魔」

こちらもアルバム・フナイユからの1枚。悪魔とのことですが、クロールしてる人に見えるw 地獄の門には使われてなさそうに見えるけど、この自由で躍動感があるのは面白い。
当初、「地獄の門」はフィレンツェ洗礼堂のギベルティの「天国の門」にならった構成にしようと考えていたそうで、左右の扉がそれぞれ縦に4つのパネルに区切られ、全体で8面の浮彫によって「地獄篇」の情景を表現して、中央に巨像を置く構成だったようです。しかし主題も構成も渾沌としたものへと変貌していき、先程のマケットのようになっていきました。
オーギュスト・ロダン 「永遠の青春」

こちらは1881~84年頃の作品で、当初は「地獄の門」に組み込まれる予定でした。男女の劇的な愛のシーンを表現していて、のけぞり手を伸ばす姿勢は躍動感があり、動きを感じさせます。恐らく絶望とかけ離れているので組み込まれなかったんじゃないかな。『神曲』のパオロとフランチェスカなどの「愛」のテーマのヴァリエーションの1つです。
この作品は1882年に制作したトルソを下敷きに作っていて、ロダンは既成の彫刻を組み合わせて構成することがあります。(地獄の門の関連作がその最たるものですね)
オーギュスト・ロダン 「接吻」

こちらは1882~87年頃の作品で、ダンテの『神曲』に登場するパオロとフランチェスカの悲恋をモチーフにしています。男女共に肉感的で男性の手が結構大きく見えるかな。
横から見ると熱いキスをする様子がよく分かります。


フランチェスカと夫の弟パオロとの悲恋のシーンで、これも当初は地獄の門の一部として構想されました。しかし真実の愛の悦びの作品なので地獄の門にはそぐわないと考えて独立した像となったようです。大理石とは思えないほどに生き生きとした肉体で、理想的な美しさの男女となっています。ロダンの作品の中でも特に名作ではないかと思います。
オーギュスト・ロダン 「考える人」


こちらは1881~82年頃の作品で、ロダンの作品で最も有名だと思われます。(右は拡大版) 元々は地獄の門の上に配置されているものの派生作品で、『神曲』「地獄篇」の作者であるダンテを表すものでしたが、後に「詩人」となり、さらに普遍的な「考える人」へとタイトルが変わっていきました。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画の「預言者エレミア」やカルポーの「ウゴリーノ」から影響を受けていて、カルポーの作品とポーズはかなり類似しているようです。元ネタがあるとしても、このポーズは地獄を観て苦悩する様子を見事に表しているように思えます。悩みの象徴のような像ですね。
「考える人」について、ロダンは「扉の前でダンテが岩の上に腰を下ろし、詩想に耽っている。彼の背後には、ウゴリーノ、フランチェスカ、パオロなど『神曲』のすべての人物たち。この計画は実現されなかった。全体から切り離された痩身の苦悶するダンテの姿は、意味がなかった。私は最初のインスピレーションに従って別の思索する人物を考えた。裸の男で岩の上に坐り、両足を引き寄せ拳を歯にあてて、彼は夢想している。実り豊かな思索が彼の頭脳の中でゆっくりと確かなものになってゆく。彼はもはや夢想家ではない。彼は創造者である」と語っていたそうです。
オーギュスト・ロダン 「私は美しい」

こちらは1885年頃の作品で、「地獄の門」に登場する「墜ちる男」と「うずくまる女」を組み合わせています。「うずくまる女」の単体もよく観ますが、こうして組み合わさると完全に違う作品に見えるのが不思議。元々は関係ない像を再構成して別の作品にするという手法もロダンの特徴と言えます。ちなみにこの作品は最初「誘拐」と呼ばれ、「肉慾の愛」とも呼ばれたのだとか。確かにそう見えるけどw 今のタイトルは台座に刻み込まれたボードレールの『悪の華』の「私は美しい……」で始まる詩句に由来するようです。
オーギュスト・ロダン 「ネレイスたち」

こちらは1887年以前の作品で、「地獄の門」の左扉中央にも登場する海の精たちです。歌声で船人を誘惑して難破させる伝説で知られ、美しくも恐ろしい者たちとなっています。ここでは悲痛に叫ぶような顔つきに見えるかな。
1888年には美術館の建設計画が白紙に戻っていて、「地獄の門」の制作の中止を命じられています。しかしロダンはこれを断ってお金を払って自分のものとして制作を続けました。
オーギュスト・ロダン 「オルフェウスとマイナスたち」

こちらは1889年以前の作品で、これも「地獄の門」に登場しているようです。ギリシャ神話の竪琴の名人のオルフェウスと、それを八つ裂きにしたバッカスの巫女たちを表していて、下の方に埋まっているのがオルフェウスの顔かな。下の女性は何とも官能的な雰囲気な一方、浮遊している女性たちはアクロバティックな群像で、ロダン以外にこんな大胆な作品は無いのではw
そしてこれらを集めたのが「地獄の門」です。
オーギュスト・ロダン 「地獄の門」

こちらは1880~90年頃/1917年の作品で、結局は未完成となりました。まさにロダンの作品の集大成! 考える人も中央上部に座っています。ちょっと写真では分からないくらい色々な像があるので、国立西洋美術館に行った時に各作品と比べてみると面白いと思います。
ここからは再び年代順に戻ります。
オーギュスト・ロダン 「クロード・ロラン」

こちらは1889年の作品。著名な画家の像ですが、クロード・ロランは17世紀の画家なのでとっくに死んでいるはずです。それでも身を捻って躍動感ある感じで表現しているのは流石ですね。
オーギュスト・ロダン 「バルザック(最終習作)」

こちらは1897年の作品で、現在のパリのラスパイユ大通りに立つ小説家バルザックの像の習作となっています。何だか塊のままのような印象を受けますが、初めて公開されたとき、「ジャガイモの袋をかぶせた」ようだと嘲笑されたそうで注文主からも受け取りを拒否されてしまったようです。カレーの市民もそうでしたが、注文主は理想像を求めてくるけどロダンはそういうものは作らないで己の芸術を貫きます。ロダンは失望し「どうしてあの部屋着がいけないのか?これは深夜、心のうちの幻影を追いかけながら自分の部屋を狂おしく行きつ戻りつする文豪の着ていたものではないというのか?」と言って、よそ行きの服装ではなく制作の時の姿を追い求めていたようです。確かに製作時は綺麗な服は着ませんねw
オーギュスト・ロダン 「瞑想」

こちらは1900年以後の作品。身を捻って俯く姿で、瞑想というよりは苦悩しているように見えるかな。こうした大胆なポーズは一見してロダンと分かる特徴ですね。
ロダンは1902年頃にグスタフ・クリムトと出会っています。ウィーン分離派はロダンを会員に迎え、重要作家として紹介していたようです。クリムトの絵画においても人物画の様々なポーズや主題に影響を与えていて、ロダンはクリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」を称賛しています。
オーギュスト・ロダン 「花子の頭部」

こちらは1907年頃の作品で、いかにも日本人っぽい顔をしている日本人女性の頭部像です。このモデルは太田ひさという女優で、巡業していたマルセイユの劇場でロダンの目にとまったそうです。若干怖い顔をしているのは演じた役に応じたためのようです。ロダンは花子の表情に魅せられ何度もモデルにしていて、様々な素材と手法による花子の肖像が50点余り残されています。特に芝居の「死」の場面で花子が見せた表情に大変興味をそそられ、「死の首」と呼んでその制作に没頭したのだとか。
日本では1910年に雑誌『白樺』でロダン特集が組まれて本格的に紹介されました。その際、本人とやり取りして浮世絵とロダン作品3点を交換したそうで、日本に初めて来たロダン作品とされています。
オーギュスト・ロダン 「オルフェウス」

こちらは1908年の作品で、先程も出てきたオルフェウスを題材にしています。この作品では仰け反るようなポーズで全身で絶望を表していて、妻が死んだ悲しみにくれているようです。オルフェウスは妻を蘇らせる為に冥界へと向かい、復活を許されるものの 冥界を出るまで振り返ってはならないという禁忌を犯して失敗するという話です。この作品の石膏での原型制作は1892年頃で、その時は肩の上にミューズを載せていたようですが、ブロンズ作品ではそれが省かれているのだとか。ロダンの特徴がよく出た作品だと思います。
その後も制作を続け1917年に亡くなりました。晩年は大規模な仕事はあまり行わなかったものの 多作ぶりは変わらなかったようです。
ということで、誰もが知るロダンですが彫刻はブロンズなどで複製できるため、日本でも国立西洋美術館などでその代表作を観ることができます。その圧倒的な存在感で特に人気の彫刻家で、目にする機会も多いと思いますので、詳しく知ると一層に楽しめるのではないでしょうか。
参考記事:
手の痕跡 国立西洋美術館所蔵作品を中心としたロダンとブールデルの彫刻と素描 (国立西洋美術館)
《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』 (国立西洋美術館 版画素描展示室)
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今日は作者別紹介で、明治時代に活躍し日本美術院で日本画の近代化に寄与した菱田春草を取り上げます。岡倉天心の元で仲間だった横山大観は「自分よりも菱田春草のほうがずっと上手い」と言っていたほどで、一時期は横山大観と共に「朦朧体」と揶揄された画風の作風を残しています。その後、インドや欧米を訪れてからは西洋の技法や琳派を取り入れた画風へと進化し、文展での最高賞の栄誉に浴しましたが、腎臓と眼を患うようになり36歳の若さで亡くなってしまいました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
菱田春草は1874年に旧飯田藩士の家に生まれ、1890年に東京美術学校に入学しました。1つ上の学年は東京美術学校の初年度で、横山大観と下村観山がいて、菱田春草も彼らと同様に校長の岡倉天心に強い影響を受けています。東京美術学校では橋本雅邦に学び、1895年に卒業してからは古画模写事業などに携わりました。
参考記事:《橋本雅邦》 作者別紹介
菱田春草 「微笑(みしょう)」

こちらは1897年の作品で、釈迦が華をひねってみせた時に弟子の大迦葉(だいかしょう)だけがその意味を理解し、微笑して応じた「拈華微笑」の「以心伝心」の逸話をテーマにしています。全体的に古画のような雰囲気が漂っているのは模写で培った技術の賜物かな? この頃は線描で輪郭を描いているのがよく分かります。
菱田春草 「梨に双鳩」

こちらは1898年の作品で、花咲く梨の上で仲睦まじく寄り添う鳩が描かれています。葉っぱも伸びやかで枝には滲みを活かした表現なども観られるかな。輪郭を使ったすっきりとした画風となっていて穏やかな雰囲気です。
橋本雅邦の記事でも書きましたが、この年に東京美術学校の内部でとんでもない内紛が起きます。岡倉天心が対抗勢力によって排斥されて辞職し、それに憤慨した橋本雅邦や横山大観、下村観山、菱田春草ら34名の教授陣も抗議して辞職してしまいました。(その内の12名は引き止めに成功し留任しています) そして東京美術学校を去った半年後、岡倉天心が中心となり一緒に辞職した仲間と共に「日本美術院」(院展)が創立されました。
菱田春草 「林和靖」

こちらは1900~01年頃の作品。林和靖は中国の北宋時代の詩人で、西湖の畔の孤山に住んで官務めしなかった文人でもあります。恐らくこれは西湖で、全体的に霧がかっていて山の表現に輪郭がある部分とぼやけている部分があるように見えます。ぼんやりしているのが詩情を増しているように思えますね。
菱田春草は横山大観らと共にこの頃から後に「朦朧体」と揶揄される無線描法を試すようになっていきました。この頃の洋画界の外光派に影響されたもので、空気や光を表現しようとしています(かつての印象派が試みたことを日本画で行っている感じです) 当時はこれが大いに批判され、色調の暗さが幽霊のようだとも言われるほどでした。
菱田春草 「王昭君」

こちらは1902年の作品で、元帝の時代に後宮から匈奴の王へ女性を差し出すシーンが描かれています。肖像画で一番醜い女性を選んだつもりが、絵師に賄賂を送らなかった王昭君という美しい女性が選ばれてしまったという話で、本人よりも周りの方が悲嘆にくれてるようにも見えるかな。横から観た構図が面白く、それぞれの心情も比較できるように思えます。この絵でも朦朧体の試みがあり、背景はぼやけて幻想的になり、服装や髪の表現も柔らかく感じられます。
この翌年の1903年に横山大観と共にインドに渡り、翌年の1904年には欧米を巡遊して作品展を開催しています。この際に発色の良い西洋絵具を持ち帰って帰っていて、従来の朦朧体の色彩の暗さの弱点を克服しようと試みて 没線彩画描法を考案していくことになります。
菱田春草 「田家の烟」

こちらは1906年の作品。モノクロの世界で恐らく五浦の光景じゃないかな。霧が漂うような濃淡によって奥行きも感じられます。静かで牧歌的な印象を受けます。
日本美術院は「朦朧体」の悪評によって次第に経営が悪化しこの1906年に茨城県の五浦へと本拠地を移しました。当時は都落ちと報じられたそうで、「朦朧体の没落」とも嘲笑されたようです。
参考記事:五浦六角堂再建記念 五浦と岡倉天心の遺産展 (日本橋タカシマヤ)
菱田春草 「瀑布」

こちらは1907年の作品で、主題も画風も朦朧体そのものといった感じかな。輪郭はなくもうもうと水煙が上がる様子が伝わってきます。この湿気を表現するというのは線描ではできない芸当ですね。
この頃から菱田春草は網膜炎と腎臓炎を併発し視力が衰えて行きました。
菱田春草 「賢首菩薩」

こちらも1907年の作品で、第1回文展への出品作です。この絵では一見すると輪郭があるように見えますが実は点描による彩色となっていて、色調で遠近感や立体感を出すという革新的なものとなっています。斬新すぎて理解されず落選しかけたそうですが、岡倉天心や横山大観の強い主張で入選し二等賞第三席を得ています。全体的に色が鮮やかに感じられ、朦朧体の色の弱さを克服して進化した画風となっています。
菱田春草 「水辺初夏(鷺)」

こちらは1908年の作品。雄大な景色の中、左下の辺りに2羽の鷺の姿があり、ちょこんとした感じが可愛らしい。ここでも線描というよりは色で表現されている感じかな。
この年の6月に病気の治療のため五浦から東京へ戻り代々木に住んでいます。ちなみに菱田春草が住んでいた頃の少し後に、岡田三郎助らを中心に代々木は一種の芸術家村のようになっていきました。
参考記事:渋谷ユートピア1900-1945 (松濤美術館)
菱田春草 「落葉」の複製

こちらは1909年~1910年の代表作の巧藝画(複製)で、本画は第3回文展で二等賞第一席(最高賞)を受賞し 現在は重要文化財となって永青文庫が所蔵しています。代々木のクヌギ林を主題としていて色の濃淡や配置などで奥行きや空気感を出しています。写実性もありつつ枯れ葉の表現はちょっと琳派風なところもあるし、今までの画風を一層に昇華させた感じがあります。実物の前に立つと秋の林に入ったような風情が感じられる傑作です。これを1週間から10日くらいで描いたというのだから驚き。
ちなみに落ち葉を主題にした作品は5点ありますが、六曲一双の屏風で完成しているのはこれと福井県立美術館所蔵の2点のみとなっています。
菱田春草 「雀に鴉」

こちらは1910年の作品。枯れ木に止まる雀と鴉が何とも寂しげな雰囲気に見えます。特に鴉の後ろ姿が凛々しくも哀愁漂っているように感じるのは晩年が近いからでしょうか…。
菱田春草の晩年はこうした花鳥画や動物を描いた作品が多めです。
菱田春草 「柿に鳥」のポスター

こちらは1910年の作品(四角い枠の辺りまでが絵の部分です)柿の木の枝にとまるカラスは下を見つめていて 視線の先には丸々とした柿の実があります。木や柿はやや薄めの色合いとなっているのですが、カラスは真っ黒なので一際目を引くかな。目がまんまるで憎めない顔してますw 周りの葉っぱや木は にじみを活かした表現を使うなど、琳派風なところもあり 秋の風情が感じられます。
この頃にはかなり視力が衰えていたようです。せっかく新しい境地が評価されてきた頃だったので惜しいばかりです。
菱田春草 「梅に雀」

こちらは1911年の作品で、掛け軸としては菱田春草の最後となります。やや動きの少ない感じもあるものの、それでも春を感じさせる優しい雰囲気に見えます。こんな穏やかな絵なのに もう絵筆もとれなかったくらい状態だったのだとか。
この後、36歳の若さで亡くなってしまいました。絶筆はなくなる1ヶ月前に親戚に贈った菊の扇だったようです。
ということで、日本画の新たな境地を生み出し これからという所で亡くなってしまいました。残した絵だけでも十分にその実力が分かると思いますが、もう少し長く生きて欲しかったですね。十数年くらいの作品しかないものの、その短期間で進化していく様子を観ることが出来るので、美術館で目にしたらじっくりと観てみると面白いと思います。
追記:
この記事を書いた時点で、永青文庫にて「落葉」が展示されています。人気作の「黒き猫」もあります。
参考リンク:財団設立70周年記念 永青文庫名品展 ―没後50年“美術の殿様” 細川護立コレクション―
前期:2020年09月12日(土)~10月11日(日)
後期:2020年10月13日(火)~11月08日(日)
菱田春草は1874年に旧飯田藩士の家に生まれ、1890年に東京美術学校に入学しました。1つ上の学年は東京美術学校の初年度で、横山大観と下村観山がいて、菱田春草も彼らと同様に校長の岡倉天心に強い影響を受けています。東京美術学校では橋本雅邦に学び、1895年に卒業してからは古画模写事業などに携わりました。
参考記事:《橋本雅邦》 作者別紹介
菱田春草 「微笑(みしょう)」

こちらは1897年の作品で、釈迦が華をひねってみせた時に弟子の大迦葉(だいかしょう)だけがその意味を理解し、微笑して応じた「拈華微笑」の「以心伝心」の逸話をテーマにしています。全体的に古画のような雰囲気が漂っているのは模写で培った技術の賜物かな? この頃は線描で輪郭を描いているのがよく分かります。
菱田春草 「梨に双鳩」

こちらは1898年の作品で、花咲く梨の上で仲睦まじく寄り添う鳩が描かれています。葉っぱも伸びやかで枝には滲みを活かした表現なども観られるかな。輪郭を使ったすっきりとした画風となっていて穏やかな雰囲気です。
橋本雅邦の記事でも書きましたが、この年に東京美術学校の内部でとんでもない内紛が起きます。岡倉天心が対抗勢力によって排斥されて辞職し、それに憤慨した橋本雅邦や横山大観、下村観山、菱田春草ら34名の教授陣も抗議して辞職してしまいました。(その内の12名は引き止めに成功し留任しています) そして東京美術学校を去った半年後、岡倉天心が中心となり一緒に辞職した仲間と共に「日本美術院」(院展)が創立されました。
菱田春草 「林和靖」

こちらは1900~01年頃の作品。林和靖は中国の北宋時代の詩人で、西湖の畔の孤山に住んで官務めしなかった文人でもあります。恐らくこれは西湖で、全体的に霧がかっていて山の表現に輪郭がある部分とぼやけている部分があるように見えます。ぼんやりしているのが詩情を増しているように思えますね。
菱田春草は横山大観らと共にこの頃から後に「朦朧体」と揶揄される無線描法を試すようになっていきました。この頃の洋画界の外光派に影響されたもので、空気や光を表現しようとしています(かつての印象派が試みたことを日本画で行っている感じです) 当時はこれが大いに批判され、色調の暗さが幽霊のようだとも言われるほどでした。
菱田春草 「王昭君」

こちらは1902年の作品で、元帝の時代に後宮から匈奴の王へ女性を差し出すシーンが描かれています。肖像画で一番醜い女性を選んだつもりが、絵師に賄賂を送らなかった王昭君という美しい女性が選ばれてしまったという話で、本人よりも周りの方が悲嘆にくれてるようにも見えるかな。横から観た構図が面白く、それぞれの心情も比較できるように思えます。この絵でも朦朧体の試みがあり、背景はぼやけて幻想的になり、服装や髪の表現も柔らかく感じられます。
この翌年の1903年に横山大観と共にインドに渡り、翌年の1904年には欧米を巡遊して作品展を開催しています。この際に発色の良い西洋絵具を持ち帰って帰っていて、従来の朦朧体の色彩の暗さの弱点を克服しようと試みて 没線彩画描法を考案していくことになります。
菱田春草 「田家の烟」

こちらは1906年の作品。モノクロの世界で恐らく五浦の光景じゃないかな。霧が漂うような濃淡によって奥行きも感じられます。静かで牧歌的な印象を受けます。
日本美術院は「朦朧体」の悪評によって次第に経営が悪化しこの1906年に茨城県の五浦へと本拠地を移しました。当時は都落ちと報じられたそうで、「朦朧体の没落」とも嘲笑されたようです。
参考記事:五浦六角堂再建記念 五浦と岡倉天心の遺産展 (日本橋タカシマヤ)
菱田春草 「瀑布」

こちらは1907年の作品で、主題も画風も朦朧体そのものといった感じかな。輪郭はなくもうもうと水煙が上がる様子が伝わってきます。この湿気を表現するというのは線描ではできない芸当ですね。
この頃から菱田春草は網膜炎と腎臓炎を併発し視力が衰えて行きました。
菱田春草 「賢首菩薩」

こちらも1907年の作品で、第1回文展への出品作です。この絵では一見すると輪郭があるように見えますが実は点描による彩色となっていて、色調で遠近感や立体感を出すという革新的なものとなっています。斬新すぎて理解されず落選しかけたそうですが、岡倉天心や横山大観の強い主張で入選し二等賞第三席を得ています。全体的に色が鮮やかに感じられ、朦朧体の色の弱さを克服して進化した画風となっています。
菱田春草 「水辺初夏(鷺)」

こちらは1908年の作品。雄大な景色の中、左下の辺りに2羽の鷺の姿があり、ちょこんとした感じが可愛らしい。ここでも線描というよりは色で表現されている感じかな。
この年の6月に病気の治療のため五浦から東京へ戻り代々木に住んでいます。ちなみに菱田春草が住んでいた頃の少し後に、岡田三郎助らを中心に代々木は一種の芸術家村のようになっていきました。
参考記事:渋谷ユートピア1900-1945 (松濤美術館)
菱田春草 「落葉」の複製

こちらは1909年~1910年の代表作の巧藝画(複製)で、本画は第3回文展で二等賞第一席(最高賞)を受賞し 現在は重要文化財となって永青文庫が所蔵しています。代々木のクヌギ林を主題としていて色の濃淡や配置などで奥行きや空気感を出しています。写実性もありつつ枯れ葉の表現はちょっと琳派風なところもあるし、今までの画風を一層に昇華させた感じがあります。実物の前に立つと秋の林に入ったような風情が感じられる傑作です。これを1週間から10日くらいで描いたというのだから驚き。
ちなみに落ち葉を主題にした作品は5点ありますが、六曲一双の屏風で完成しているのはこれと福井県立美術館所蔵の2点のみとなっています。
菱田春草 「雀に鴉」

こちらは1910年の作品。枯れ木に止まる雀と鴉が何とも寂しげな雰囲気に見えます。特に鴉の後ろ姿が凛々しくも哀愁漂っているように感じるのは晩年が近いからでしょうか…。
菱田春草の晩年はこうした花鳥画や動物を描いた作品が多めです。
菱田春草 「柿に鳥」のポスター

こちらは1910年の作品(四角い枠の辺りまでが絵の部分です)柿の木の枝にとまるカラスは下を見つめていて 視線の先には丸々とした柿の実があります。木や柿はやや薄めの色合いとなっているのですが、カラスは真っ黒なので一際目を引くかな。目がまんまるで憎めない顔してますw 周りの葉っぱや木は にじみを活かした表現を使うなど、琳派風なところもあり 秋の風情が感じられます。
この頃にはかなり視力が衰えていたようです。せっかく新しい境地が評価されてきた頃だったので惜しいばかりです。
菱田春草 「梅に雀」

こちらは1911年の作品で、掛け軸としては菱田春草の最後となります。やや動きの少ない感じもあるものの、それでも春を感じさせる優しい雰囲気に見えます。こんな穏やかな絵なのに もう絵筆もとれなかったくらい状態だったのだとか。
この後、36歳の若さで亡くなってしまいました。絶筆はなくなる1ヶ月前に親戚に贈った菊の扇だったようです。
ということで、日本画の新たな境地を生み出し これからという所で亡くなってしまいました。残した絵だけでも十分にその実力が分かると思いますが、もう少し長く生きて欲しかったですね。十数年くらいの作品しかないものの、その短期間で進化していく様子を観ることが出来るので、美術館で目にしたらじっくりと観てみると面白いと思います。
追記:
この記事を書いた時点で、永青文庫にて「落葉」が展示されています。人気作の「黒き猫」もあります。
参考リンク:財団設立70周年記念 永青文庫名品展 ―没後50年“美術の殿様” 細川護立コレクション―
前期:2020年09月12日(土)~10月11日(日)
後期:2020年10月13日(火)~11月08日(日)
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今日は写真多めです。前回ご紹介した国立西洋美術館の常設を観た際に、版画室で内藤コレクション展Ⅲ「写本彩飾の精華 天に捧ぐ歌、神の理」という展示を観てきました。この展示は撮影可能となっていましたので、写真を使ってご紹介していこうと思います。

【展覧名】
内藤コレクション展Ⅲ「写本彩飾の精華 天に捧ぐ歌、神の理」
【公式サイト】
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2020manuscript2.html
【会場】国立西洋美術館
【最寄】上野駅
【会期】2020年9月8日(火)~10月18日(日)
※営業時間・休館日・地図・巡回などは公式サイトでご確認下さい。
【鑑賞所要時間(私のペースです)】
0時間30分程度
【混み具合・混雑状況】
混雑_1_2_3_④_5_快適
【作品充実度】
不足_1_2_3_④_5_充実
【理解しやすさ】
難解_1_②_3_4_5_明解
【総合満足度】
不満_1_2_③_4_5_満足
【感想】
それほど混んでおらず快適に鑑賞することができました。
さて、この展示は2016年に内藤裕史 氏が寄贈した中世の聖書などの写本のコレクションを紹介するもので、昨年末から今年頭にかけて開催された同様の趣向の展示の第3弾となっています。(第2弾は観に行けませんでした) 今回は聖歌集に由来するリーフが中心となっていましたので、気に入った作品の写真をいくつかご紹介していこうと思います。
参考記事:内藤コレクション展「ゴシック写本の小宇宙――文字に棲まう絵、言葉を超えてゆく絵」 (国立西洋美術館)
「聖務日課聖歌集零葉:イニシアルQの内部に[書物と剣を手にした聖パウロ]」 イタリア、ピサ 1330~40年頃

こちらは聖パウロの祝日(6月30日)に歌う聖歌の記譜の一葉。剣を持っているのは斬首されたためで、険しい表情となっています。一方、赤や青は聖人によく使わえる色ですが、鮮やかでデザイン的には楽しげな雰囲気に見えますねw
序盤には内藤コレクションについての解説もありました。ルオーを観て芸術に関心を持った話など以前ご紹介した内容となります。これだけのものを1人で集めたとは驚きです。
「聖務日課聖歌集由来のビフォリウム:イニシアルAの内部に[神殿奉献]」 イタリア、ローマ 1285~1300年頃

こちらはAの形の中に聖母子らしき姿があり、エルサレムの神殿にイエスを捧げに行く神殿奉献のシーンとなっています。ここでもSやAの文字がリズミカルに書かれていて枠は天使でしょうか。軽やかで音楽に相応しい感じですね。
「典礼用詩篇集零葉:イニシアルBの内部に[プサルテリウムを奏でるダヴィデ王と祝福する神]」 イタリア、フィレンツェ 1380年頃

こちらは公的な礼拝で使用された詩篇集由来の一葉だそうで、Bの上段は祝福のポーズの神、下段はダヴィデがプサルテリウムという古代の弦楽器を奏でている姿で描かれています。これも草花や鳥が流れるような紋様となっていて彩りも非常に美しい。ルネサンス以前にこうした躍動感あるデザインがあったんですね。
「司教用定式書零葉:イニシアルBの内部に[聖母子像を祝福する司教]」 イタリア、ウンブリア地方 1480~90年頃

こちらはアヴィニョンに教皇庁があった頃に高位聖職者の為に作られた写本と考えられている一葉。解説によると、アヴィニョン教皇庁では写本制作の需要が高まり、アヴィニョン派と呼ばれる一流派が生まれたそうで、この作品にはパリ派とイタリアからの影響を受けた折衷的な様式が表れているようです。聖母子や司教の線画的な表現、赤・青・バラ色を基調とし金地を使うのがパリ派、SとAのイニシアルを縁取る赤色の線状装飾や余白装飾、字体などはイタリアの様式とのこと。素人には全くわかりませんが、数多く観ていくと分かるのかな??
「ミサ聖歌集零葉:イニシアルGの内部に[諸聖人]」 イタリア、パヴィア 1480~85年頃

こちらは諸聖人の祝日(11月1日)のミサで歌われる入祭唱の冒頭の記譜。金の四角の中のGの字に多くの聖人が集まっていて、厳かさと華やかさが感じられます。
「ミサ典書零葉:[ミサをあげる司祭]を内部に描くふたつのイニシアルA」 イタリア、ウンブリア地方 1300~10年頃

こちらはミサで朗読するテキストや聖歌を収めたミサ典書からの一葉。ミサをあげる司教の姿だけでなく、所々にある文字の装飾も面白い模様で目を引きます。何か意味がある紋章なのかな? 金色の文字のフォントも美しいですね。
「聖務日課聖歌集零葉:イニシアルAの内部に[キリスト復活]」 南ネーデルラント、トゥルネー 1330~40年頃

こちらは復活祭の聖務日課の為の聖歌を記した一葉。復活祭だけあってキリストが棺から足を出していて、周りは見張りの兵士のようです。下にある絵では天使が空になった布を持ち上げて墓参りの女性たちに見せています。割と素朴な感じで色も控えめに見えるかな。しかし、こちらはかつて英国の美術批評家のジョン・ラスキンが持っていたほどの品のようです。ラスキンに影響を受けたラファエル前派やアーツ・アンド・クラフツも確実に中世美術の影響を受けているので、そう考えると価値ある一葉ですね。
「聖務日課聖歌集零葉:イニシアルQの内部に[福音書記者聖ヨハネ]」 南ネーデルラント、おそらくトゥルネー 15世紀初頭

こちらは毒杯を祝福する福音書記者聖ヨハネを描いた作品。毒を祝福で無毒化したという伝承を元にしているそうで、ちょうど2本の指で祝福のポーズをしています。こうした小さい絵1つ1つに物語が込められているのは宗教美術ならではですね。
「聖歌集零葉:イニシアルRの内部に[羊飼いへのお告げ]」 スペイン、おそらくサンタ・マリア・デ・グアダルーベ修道院(エストレマドゥーラ地方) 1450~75年

こちらは修道院の合唱隊の為の聖歌集からの一葉。金が多く使われ、びっしりと紋様で埋まった枠がこれまでのものとちょっと違って見えるかな。豪華で密度の高い雰囲気に思えました。
「ウェールズのヨハンネス著『説教術書』零葉:装飾イニシアルDおよびE」 アラゴン連合王国、カタルーニャ地方(バルセロナ?) 1400年頃

こちらはバルセロナ付近で作られたと思われる一葉。先程のと年代が近いのにえらく雰囲気が違っていて面白いw こちらは流麗な印象を受けました。
「ガブリエル・デ・ケーロの貴族身分証明書」 グラナダ王立高等法院発行 カスティーリャ王国、グラナダ 1540年

こちらは貴族の身分を証明するもので、ドラゴンはスペイン王カルロス1世のDon CarlosのDを表しているそうです。これだけ豪華なのに貴族の身分証明書としてはかなり地味なのだとか。爵位のない貴族に使われたようですが、証明しないと分からない程度の貴族なんていたのだろうか…。
「カスティーリャ女王フアナ1世の印章」

こちらは先程の証明書とセットで並んでいました。カルロス1世の母親のもので、杖を持った人物が鉛に彫られています。女王の印章って、こっちの方が凄いコレクションなのでは?w
「『グラティアヌス教令集』零葉:司教に訴え出る巡礼者」 フランス、トゥールーズ 1320年

こちらは婚姻に関する法的案件が書かれている一葉。巡礼の途中で死んだと思われた夫が生還した場合、妻の再婚は取り消されるべきかという内容らしく、跪いて懇願しているのが行方不明だった夫です。しかし右の方で抱き合うような現夫婦の様子を観ると、女性の心が離れているというのも伺えます。こんな人間模様まで写本に描いてあるとは驚きましたw
「『クレメンス集』(およびヨハンネス・アンドレアエによる注釈)零葉:装飾イニシアルDおよびR」 フランス南西部、おそらくトゥールーズ 1330年~50年頃

こちらは注釈付きの写本。面白いのが文字の配置が「中」の字のようになっているところで、右隣にも杯のような形になっている文字があります。このデザインセンスの自由さにも感心させられました。
ということで、今回も知られざる写本の世界を垣間見られたように思います。中身を知るにはキリスト教の深い理解が必要だとは思いますが、装飾の美しさやデザイン性などは一目で分かる面白さがあったと思います。
ちなみにこの展示をもって国立西洋美術館は2022年春まで設備整理のため休館に入ります。この前リニューアルしたばかりなのにまたかよ!?とも思うけど、コロナでしばらくは苦慮しそうだし丁度良いタイミングかもしれませんね。

【展覧名】
内藤コレクション展Ⅲ「写本彩飾の精華 天に捧ぐ歌、神の理」
【公式サイト】
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2020manuscript2.html
【会場】国立西洋美術館
【最寄】上野駅
【会期】2020年9月8日(火)~10月18日(日)
※営業時間・休館日・地図・巡回などは公式サイトでご確認下さい。
【鑑賞所要時間(私のペースです)】
0時間30分程度
【混み具合・混雑状況】
混雑_1_2_3_④_5_快適
【作品充実度】
不足_1_2_3_④_5_充実
【理解しやすさ】
難解_1_②_3_4_5_明解
【総合満足度】
不満_1_2_③_4_5_満足
【感想】
それほど混んでおらず快適に鑑賞することができました。
さて、この展示は2016年に内藤裕史 氏が寄贈した中世の聖書などの写本のコレクションを紹介するもので、昨年末から今年頭にかけて開催された同様の趣向の展示の第3弾となっています。(第2弾は観に行けませんでした) 今回は聖歌集に由来するリーフが中心となっていましたので、気に入った作品の写真をいくつかご紹介していこうと思います。
参考記事:内藤コレクション展「ゴシック写本の小宇宙――文字に棲まう絵、言葉を超えてゆく絵」 (国立西洋美術館)
「聖務日課聖歌集零葉:イニシアルQの内部に[書物と剣を手にした聖パウロ]」 イタリア、ピサ 1330~40年頃

こちらは聖パウロの祝日(6月30日)に歌う聖歌の記譜の一葉。剣を持っているのは斬首されたためで、険しい表情となっています。一方、赤や青は聖人によく使わえる色ですが、鮮やかでデザイン的には楽しげな雰囲気に見えますねw
序盤には内藤コレクションについての解説もありました。ルオーを観て芸術に関心を持った話など以前ご紹介した内容となります。これだけのものを1人で集めたとは驚きです。
「聖務日課聖歌集由来のビフォリウム:イニシアルAの内部に[神殿奉献]」 イタリア、ローマ 1285~1300年頃

こちらはAの形の中に聖母子らしき姿があり、エルサレムの神殿にイエスを捧げに行く神殿奉献のシーンとなっています。ここでもSやAの文字がリズミカルに書かれていて枠は天使でしょうか。軽やかで音楽に相応しい感じですね。
「典礼用詩篇集零葉:イニシアルBの内部に[プサルテリウムを奏でるダヴィデ王と祝福する神]」 イタリア、フィレンツェ 1380年頃

こちらは公的な礼拝で使用された詩篇集由来の一葉だそうで、Bの上段は祝福のポーズの神、下段はダヴィデがプサルテリウムという古代の弦楽器を奏でている姿で描かれています。これも草花や鳥が流れるような紋様となっていて彩りも非常に美しい。ルネサンス以前にこうした躍動感あるデザインがあったんですね。
「司教用定式書零葉:イニシアルBの内部に[聖母子像を祝福する司教]」 イタリア、ウンブリア地方 1480~90年頃

こちらはアヴィニョンに教皇庁があった頃に高位聖職者の為に作られた写本と考えられている一葉。解説によると、アヴィニョン教皇庁では写本制作の需要が高まり、アヴィニョン派と呼ばれる一流派が生まれたそうで、この作品にはパリ派とイタリアからの影響を受けた折衷的な様式が表れているようです。聖母子や司教の線画的な表現、赤・青・バラ色を基調とし金地を使うのがパリ派、SとAのイニシアルを縁取る赤色の線状装飾や余白装飾、字体などはイタリアの様式とのこと。素人には全くわかりませんが、数多く観ていくと分かるのかな??
「ミサ聖歌集零葉:イニシアルGの内部に[諸聖人]」 イタリア、パヴィア 1480~85年頃

こちらは諸聖人の祝日(11月1日)のミサで歌われる入祭唱の冒頭の記譜。金の四角の中のGの字に多くの聖人が集まっていて、厳かさと華やかさが感じられます。
「ミサ典書零葉:[ミサをあげる司祭]を内部に描くふたつのイニシアルA」 イタリア、ウンブリア地方 1300~10年頃

こちらはミサで朗読するテキストや聖歌を収めたミサ典書からの一葉。ミサをあげる司教の姿だけでなく、所々にある文字の装飾も面白い模様で目を引きます。何か意味がある紋章なのかな? 金色の文字のフォントも美しいですね。
「聖務日課聖歌集零葉:イニシアルAの内部に[キリスト復活]」 南ネーデルラント、トゥルネー 1330~40年頃

こちらは復活祭の聖務日課の為の聖歌を記した一葉。復活祭だけあってキリストが棺から足を出していて、周りは見張りの兵士のようです。下にある絵では天使が空になった布を持ち上げて墓参りの女性たちに見せています。割と素朴な感じで色も控えめに見えるかな。しかし、こちらはかつて英国の美術批評家のジョン・ラスキンが持っていたほどの品のようです。ラスキンに影響を受けたラファエル前派やアーツ・アンド・クラフツも確実に中世美術の影響を受けているので、そう考えると価値ある一葉ですね。
「聖務日課聖歌集零葉:イニシアルQの内部に[福音書記者聖ヨハネ]」 南ネーデルラント、おそらくトゥルネー 15世紀初頭

こちらは毒杯を祝福する福音書記者聖ヨハネを描いた作品。毒を祝福で無毒化したという伝承を元にしているそうで、ちょうど2本の指で祝福のポーズをしています。こうした小さい絵1つ1つに物語が込められているのは宗教美術ならではですね。
「聖歌集零葉:イニシアルRの内部に[羊飼いへのお告げ]」 スペイン、おそらくサンタ・マリア・デ・グアダルーベ修道院(エストレマドゥーラ地方) 1450~75年

こちらは修道院の合唱隊の為の聖歌集からの一葉。金が多く使われ、びっしりと紋様で埋まった枠がこれまでのものとちょっと違って見えるかな。豪華で密度の高い雰囲気に思えました。
「ウェールズのヨハンネス著『説教術書』零葉:装飾イニシアルDおよびE」 アラゴン連合王国、カタルーニャ地方(バルセロナ?) 1400年頃

こちらはバルセロナ付近で作られたと思われる一葉。先程のと年代が近いのにえらく雰囲気が違っていて面白いw こちらは流麗な印象を受けました。
「ガブリエル・デ・ケーロの貴族身分証明書」 グラナダ王立高等法院発行 カスティーリャ王国、グラナダ 1540年

こちらは貴族の身分を証明するもので、ドラゴンはスペイン王カルロス1世のDon CarlosのDを表しているそうです。これだけ豪華なのに貴族の身分証明書としてはかなり地味なのだとか。爵位のない貴族に使われたようですが、証明しないと分からない程度の貴族なんていたのだろうか…。
「カスティーリャ女王フアナ1世の印章」

こちらは先程の証明書とセットで並んでいました。カルロス1世の母親のもので、杖を持った人物が鉛に彫られています。女王の印章って、こっちの方が凄いコレクションなのでは?w
「『グラティアヌス教令集』零葉:司教に訴え出る巡礼者」 フランス、トゥールーズ 1320年

こちらは婚姻に関する法的案件が書かれている一葉。巡礼の途中で死んだと思われた夫が生還した場合、妻の再婚は取り消されるべきかという内容らしく、跪いて懇願しているのが行方不明だった夫です。しかし右の方で抱き合うような現夫婦の様子を観ると、女性の心が離れているというのも伺えます。こんな人間模様まで写本に描いてあるとは驚きましたw
「『クレメンス集』(およびヨハンネス・アンドレアエによる注釈)零葉:装飾イニシアルDおよびR」 フランス南西部、おそらくトゥールーズ 1330年~50年頃

こちらは注釈付きの写本。面白いのが文字の配置が「中」の字のようになっているところで、右隣にも杯のような形になっている文字があります。このデザインセンスの自由さにも感心させられました。
ということで、今回も知られざる写本の世界を垣間見られたように思います。中身を知るにはキリスト教の深い理解が必要だとは思いますが、装飾の美しさやデザイン性などは一目で分かる面白さがあったと思います。
ちなみにこの展示をもって国立西洋美術館は2022年春まで設備整理のため休館に入ります。この前リニューアルしたばかりなのにまたかよ!?とも思うけど、コロナでしばらくは苦慮しそうだし丁度良いタイミングかもしれませんね。
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今日は前回に引き続き国立西洋美術館の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」についてです。前編は4章までご紹介しましたが、後編では残りの5~7章以降についてご紹介して参ります。まずは概要のおさらいです。
→ 前編はこちら

【展覧名】
ロンドン・ナショナル・ギャラリー展
【公式サイト】
https://artexhibition.jp/london2020/
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2020london_gallery.html
【会場】国立西洋美術館
【最寄】上野駅
【会期】2020年6月18日(木)~10月18日(日)
※営業時間・休館日・地図・巡回などは公式サイトでご確認下さい。
【鑑賞所要時間(私のペースです)】
2時間00分程度
【混み具合・混雑状況】
混雑_1_2_③_4_5_快適
【作品充実度】
不足_1_2_3_4_⑤_充実
【理解しやすさ】
難解_1_2_3_④_5_明解
【総合満足度】
不満_1_2_3_4_⑤_満足
【感想】
後半も混んでいて、特にゴッホの「ひまわり」の周辺は混んでいました。後編も引き続き各章ごとに気に入った作品と共にご紹介していこうと思います。
<5章 スペイン絵画の発見>
5章はスペイン絵画のコーナーで、17世紀~19世紀序盤くらいまでの画家の作品が並んでいました。
34 エル・グレコ(本名ドメニコス・テオトコプーロス) 「神殿から商人を追い払うキリスト」 ★こちらで観られます
こちらは聖書の物語の1つで、神殿で商売していた者たちにキリストが激怒して追い出すシーンが描かれています。身を捻って鞭を振るうキリストや手を挙げて逃げ惑う商人たちに動きを感じる一方、右側の老人たちはキリストを見て何やら話しているようです。左右で動と静になっている謎解きのヒントは背景のレリーフにあり、左には失楽園、右にはイサクの犠牲の場面が描かれています。つまり左側は罪を犯して楽園から追い出される者たち、右側は神の恩寵を受ける者たちってことですね。全体的に引き伸ばしや青みがかった色使いなど エル・グレコならではの個性もあって、非常に見応えのある作品でした。
35 ディエゴ・ベラスケス 「マルタとマリアの家のキリスト」 ★こちらで観られます
こちらは厨房で女性が何かを容器の中ですり潰す様子と、その後ろで老婆が奥の窓枠の向こうを指し示していて、そこにはキリストがマルタとマリアに教えを説いている場面が広がっています。これは「ボデゴン」と呼ばれる厨房など食べ物のある室内の様子を描く主題と聖書の場面が一体となっているもので、この作品を描いた頃のベラスケスはボデゴンを得意としていました。一方、マルタとマリアの話は、2人の家にキリストが訪れた際にマルタはその接待のための支度に追われる反面、マリアはキリストの話を聞いてばかりいるのでマルタが咎めた所、キリストは「マリアは良い方を選んだ」と言った逸話です。つまりキリストの話を聞くことが何よりも重要だという話なわけですが、この絵ではマルタの勤勉さを倣えと言わんばかりに老婆が指差しているように見えます。働いている女性はこちらを向いて煩そうな顔をしていてちょっと同情w 見る人によって解釈は変わりそうですが、ベラスケス初期の特徴がよく表れているように思いました。
参考記事:《ディエゴ・ベラスケス》 作者別紹介
39 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 「幼い洗礼者聖ヨハネと子羊」 ★こちらで観られます
こちらは幼い子供が荒野の中で子羊を抱きかかえている様子が描かれた作品で、足元に葦の十字架が転がっていることからキリストに洗礼を施した洗礼者ヨハネの幼い頃の姿であることが分かります。キリストと洗礼者ヨハネは親戚で、お互いの子供の姿を描いた聖家族の主題でよく見かけますが、ここではヨハネのみとなっていてこの時代にヨハネをソロで描いた作品が人気を博していたようです。また、洗礼者ヨハネが羊を抱く左手の指で天を指しているのはキリストの降臨を示し、子羊は犠牲となるキリストの象徴となっています。周りが荒野になっているのも彼が荒野で修行していることを示すなど、信者にはすぐに連想されるモチーフと言えそうです。絵としても明暗が強くドラマチックで、ヨハネの聡明そうな笑顔が何とも可愛い。一方の子羊は毛並みがフワフワしているけど凛々しい表情なので、可愛いというよりは威厳を感じました。
ムリーリョはもう1点の「窓枠に身を乗り出した農民の少年」という作品も面白い絵でした。ニヤッと笑う少年の表情が生き生きしています。
33 フランシスコ・デ・ゴヤ 「ウェリントン公爵」 ★こちらで観られます
こちらは黒っぽい背景に斜め向きの男性の肖像で、赤っぽい服に無数の勲章が付けられています。この人物はワーテルローの戦いでナポレオンを打ち負かした英雄で、長嶋一茂に似てる気がしますw こちらを見ているものの、目に力はなく虚ろな表情に見えて とてもナポレオンに勝つような覇気が感じられません。戦いに疲れ切った感じなのかな?? 普通は理想化して描きそうなものですが、容赦なくリアルを追求しようとする辺りにゴヤっぽさを感じました。
参考記事:《フランシスコ・デ・ゴヤ》 作者別紹介
<6章 風景画とピクチャレスク>
続いては風景画のコーナーで「ピクチャレスク」と呼ばれる絵になる風景を求めた作品が並んでいました。現代風に言うとインスタ映えみたいなニュアンスの風景画です。
42 クロード・ロラン(本名クロード・ジュレ) 「海港」 ★こちらで観られます
こちらは港の様子を描いた作品で、朝日か夕日か分かりませんが水平線の向こうに太陽が輝き水面に光が反射しています。周りに建物や人々が描かれているけど、恐らく実景ではなく様々なものを組み合わせた空想の光景だと思われます。この光り輝く港はクロード・ロランの代名詞的な画題で、一目でロランと分かりますw ドラマティックで雄大な雰囲気となっていました。
45 ヤーコプ・ファン・ロイスダール 「城の廃墟と教会のある風景」 ★こちらで観られます
こちらはフェルメールと同時代に活躍した17世紀オランダの画家ロイスダールの作品で、田園地帯の中にある城の廃墟と教会が見えています。地平線が低めに描かれ、広々とした光景となっていて空の雲がうねるような迫力です。手前では羊飼いが休んでいて長閑な雰囲気もあるかな。写実的でありながら詩情ある風景で、当時のオランダの様子が伝わってくるようでした。
49 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 「ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス」 ★こちらで観られます
こちらはホメロスの『オデュッセイア』を題材にした作品で、巨人ポリュフェモスに一度は捕まって洞窟に閉じ込められたオデュッセウスと仲間たちが脱走し、船で逃げていく場面が描かれています。船のマストの上辺りに巨人の姿があって、ちょっと巨大過ぎるだろ!?と驚いてしまいますw 右下にある太陽からは放射線状に光が放たれ、全体的に輝くような色彩となっているので、先程のロランからの影響が見て取れます。やや粗めに見えるタッチや光を捉える表現などは印象派の先駆け的な雰囲気も感じられました。
<7章 イギリスにおけるフランス近代美術受容>
最後はフランス絵画のコーナーです。新古典主義やバルビゾン派から印象派、ポスト印象派などの作品が並んでいました。
50 ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「アンジェリカを救うルッジェーロ」 ★こちらで観られます
こちらは新古典主義の巨匠アングルによる作品。ルドヴィーコ・アリオストの「狂えるオルランド」の1シーンを絵画化したもので、ヒッポグリフに乗ったルッジェーロが鎖に繋がれたアンジェリカを助けにきています。って、この絵はルーヴル美術館の所蔵じゃないの?と思ったら、ヴァリアントのようで ルーヴル美術館の作品は横長ですがこちらはやや縦長になって両脇がトリミングされたような感じです。アンジェリカは滑らかな肌で官能的ではありますが、首から肩の辺りが不自然で解剖学的にはおかしなことになっています。これは女性美を最大限にするための表現で、アングルはこうした作品を数多く残しています。イギリスの美術館がこれだけ見事なアングルの作品を持っていることに驚きました。
参考記事:《ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル》 作者別紹介
55 ピエール=オーギュスト・ルノワール 「劇場にて(初めてのお出かけ)」 ★こちらで観られます
こちらは桟敷席から劇場を観る少女の横顔を描いた作品で、タイトルから察するに初めて劇場に来た上流階級の娘だと思われます。少女の横顔にはあどけなさと緊張感もあって初々しい感じです。昨年のコートールド美術館展にも「桟敷席」という劇場の観客たちを描いた作品がありましたが、この作品でも舞台よりも観客を題材にしているのが面白いところです。背景には他のお客さんも群像として描かれていて当時の劇場の賑わいを感じさせました。ちなみにこの作品は1876年~77年頃なので、第1回印象派展から2年後(第3回頃)で、代表作の「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を描いた頃となります。群像に凝ってたのかな??
参考記事:《ピエール=オーギュスト・ルノワール》 作者別紹介
この辺にはピサロの印象派らしい頃の作品やドガの踊り子を描いた作品、ファンタン・ラトゥールの花の作品などもありました。モネも太鼓橋と睡蓮を描いた作品があったので、少数でも各画家の代表的な作風が観られる品揃えとなっています。
60 ポール・セザンヌ 「プロヴァンスの丘」 ★こちらで観られます
こちらはセザンヌの故郷のプロヴァンス地方の風景を描いた作品です。観るものを円筒・球・円錐として捉えるという理論を持っていたセザンヌですが、ここでも後のピカソのキュビスムに繋がるような幾何学的な要素が感じられる風景となっています。色彩も緑とオレンジがかった色が対比的で一層にリズムを感じます。この作品もセザンヌらしい題材・技法が観られて好みでした。
参考記事:セザンヌゆかりの地めぐり 【南仏編 エクス】
58 フィンセント・ファン・ゴッホ 「ひまわり」 ★こちらで観られます
こちらはゴッホ作品で特に有名な「ひまわり」の1点で、連作7点の中でも最高傑作とされる作品です。明るい黄色を背景に花瓶に入ったひまわりが描かれ、花びらは厚塗りされて生命力がほとばしるような雰囲気です。まだ蕾だったり花を落としているのもあるのは人生の縮図のようでもあり ゴッホの出身地であるオランダのヴァニタスの伝統からの影響なのかもしれません。花瓶にはヴィンセントのサインがあり、ひまわりでサインが残されているのは7点の中で2点しかありません。これはアルルで共同生活したゴーギャンの部屋を飾るに相応しい作品であると考えた為で、ゴーギャンもこの絵を絶賛したようです。間近で観るとマチエールと相まって迫りくるものがあるので、これは実際に観られて本当に良かったです。それにしても黄色地に黄色って発想が天才すぎますよねw
近くにはゴーギャンが描いた花の絵もありました。
その後には「ひまわり」に関するパネルがあり、7点の写真が並んでいました。この展示の作品は4点目で、1~3点目は青や緑がかった背景となっています。(2点目は戦時中に芦屋で消失) 3点目と4点目がゴーギャンの部屋に相応しいとサインされたもので、ひまわりは常に太陽を向くので伝統的に忠誠の意味があったようでゴーギャンへの忠誠の意味もあったようです。SOMPO美術館のひまわりは5点目で、4点目の自己模作です。写真を見比べるとオリジナルより若干 背景が黄緑がかっているように見えるかな。7点目のひまわりもそっくりです。写真とは言え、こうして比較して観られるコーナーは参考になりました。
最後にロンドン・ナショナル・ギャラリーの歴史がありました。1824年に開館していて、1897年にはイギリス美術専門の別館ができています(別館は今では独立してテート・ギャラリーになっています。)
ということで、後半も有名画家の名作が目白押しでした。西洋絵画の歴史そのものといった品揃えで今年一番の豪華な展示だったのは間違いないと思います。コロナ禍で翻弄されましたが、それだけに一層に思い出深いものとなりました。
→ 前編はこちら

【展覧名】
ロンドン・ナショナル・ギャラリー展
【公式サイト】
https://artexhibition.jp/london2020/
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2020london_gallery.html
【会場】国立西洋美術館
【最寄】上野駅
【会期】2020年6月18日(木)~10月18日(日)
※営業時間・休館日・地図・巡回などは公式サイトでご確認下さい。
【鑑賞所要時間(私のペースです)】
2時間00分程度
【混み具合・混雑状況】
混雑_1_2_③_4_5_快適
【作品充実度】
不足_1_2_3_4_⑤_充実
【理解しやすさ】
難解_1_2_3_④_5_明解
【総合満足度】
不満_1_2_3_4_⑤_満足
【感想】
後半も混んでいて、特にゴッホの「ひまわり」の周辺は混んでいました。後編も引き続き各章ごとに気に入った作品と共にご紹介していこうと思います。
<5章 スペイン絵画の発見>
5章はスペイン絵画のコーナーで、17世紀~19世紀序盤くらいまでの画家の作品が並んでいました。
34 エル・グレコ(本名ドメニコス・テオトコプーロス) 「神殿から商人を追い払うキリスト」 ★こちらで観られます
こちらは聖書の物語の1つで、神殿で商売していた者たちにキリストが激怒して追い出すシーンが描かれています。身を捻って鞭を振るうキリストや手を挙げて逃げ惑う商人たちに動きを感じる一方、右側の老人たちはキリストを見て何やら話しているようです。左右で動と静になっている謎解きのヒントは背景のレリーフにあり、左には失楽園、右にはイサクの犠牲の場面が描かれています。つまり左側は罪を犯して楽園から追い出される者たち、右側は神の恩寵を受ける者たちってことですね。全体的に引き伸ばしや青みがかった色使いなど エル・グレコならではの個性もあって、非常に見応えのある作品でした。
35 ディエゴ・ベラスケス 「マルタとマリアの家のキリスト」 ★こちらで観られます
こちらは厨房で女性が何かを容器の中ですり潰す様子と、その後ろで老婆が奥の窓枠の向こうを指し示していて、そこにはキリストがマルタとマリアに教えを説いている場面が広がっています。これは「ボデゴン」と呼ばれる厨房など食べ物のある室内の様子を描く主題と聖書の場面が一体となっているもので、この作品を描いた頃のベラスケスはボデゴンを得意としていました。一方、マルタとマリアの話は、2人の家にキリストが訪れた際にマルタはその接待のための支度に追われる反面、マリアはキリストの話を聞いてばかりいるのでマルタが咎めた所、キリストは「マリアは良い方を選んだ」と言った逸話です。つまりキリストの話を聞くことが何よりも重要だという話なわけですが、この絵ではマルタの勤勉さを倣えと言わんばかりに老婆が指差しているように見えます。働いている女性はこちらを向いて煩そうな顔をしていてちょっと同情w 見る人によって解釈は変わりそうですが、ベラスケス初期の特徴がよく表れているように思いました。
参考記事:《ディエゴ・ベラスケス》 作者別紹介
39 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 「幼い洗礼者聖ヨハネと子羊」 ★こちらで観られます
こちらは幼い子供が荒野の中で子羊を抱きかかえている様子が描かれた作品で、足元に葦の十字架が転がっていることからキリストに洗礼を施した洗礼者ヨハネの幼い頃の姿であることが分かります。キリストと洗礼者ヨハネは親戚で、お互いの子供の姿を描いた聖家族の主題でよく見かけますが、ここではヨハネのみとなっていてこの時代にヨハネをソロで描いた作品が人気を博していたようです。また、洗礼者ヨハネが羊を抱く左手の指で天を指しているのはキリストの降臨を示し、子羊は犠牲となるキリストの象徴となっています。周りが荒野になっているのも彼が荒野で修行していることを示すなど、信者にはすぐに連想されるモチーフと言えそうです。絵としても明暗が強くドラマチックで、ヨハネの聡明そうな笑顔が何とも可愛い。一方の子羊は毛並みがフワフワしているけど凛々しい表情なので、可愛いというよりは威厳を感じました。
ムリーリョはもう1点の「窓枠に身を乗り出した農民の少年」という作品も面白い絵でした。ニヤッと笑う少年の表情が生き生きしています。
33 フランシスコ・デ・ゴヤ 「ウェリントン公爵」 ★こちらで観られます
こちらは黒っぽい背景に斜め向きの男性の肖像で、赤っぽい服に無数の勲章が付けられています。この人物はワーテルローの戦いでナポレオンを打ち負かした英雄で、長嶋一茂に似てる気がしますw こちらを見ているものの、目に力はなく虚ろな表情に見えて とてもナポレオンに勝つような覇気が感じられません。戦いに疲れ切った感じなのかな?? 普通は理想化して描きそうなものですが、容赦なくリアルを追求しようとする辺りにゴヤっぽさを感じました。
参考記事:《フランシスコ・デ・ゴヤ》 作者別紹介
<6章 風景画とピクチャレスク>
続いては風景画のコーナーで「ピクチャレスク」と呼ばれる絵になる風景を求めた作品が並んでいました。現代風に言うとインスタ映えみたいなニュアンスの風景画です。
42 クロード・ロラン(本名クロード・ジュレ) 「海港」 ★こちらで観られます
こちらは港の様子を描いた作品で、朝日か夕日か分かりませんが水平線の向こうに太陽が輝き水面に光が反射しています。周りに建物や人々が描かれているけど、恐らく実景ではなく様々なものを組み合わせた空想の光景だと思われます。この光り輝く港はクロード・ロランの代名詞的な画題で、一目でロランと分かりますw ドラマティックで雄大な雰囲気となっていました。
45 ヤーコプ・ファン・ロイスダール 「城の廃墟と教会のある風景」 ★こちらで観られます
こちらはフェルメールと同時代に活躍した17世紀オランダの画家ロイスダールの作品で、田園地帯の中にある城の廃墟と教会が見えています。地平線が低めに描かれ、広々とした光景となっていて空の雲がうねるような迫力です。手前では羊飼いが休んでいて長閑な雰囲気もあるかな。写実的でありながら詩情ある風景で、当時のオランダの様子が伝わってくるようでした。
49 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 「ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス」 ★こちらで観られます
こちらはホメロスの『オデュッセイア』を題材にした作品で、巨人ポリュフェモスに一度は捕まって洞窟に閉じ込められたオデュッセウスと仲間たちが脱走し、船で逃げていく場面が描かれています。船のマストの上辺りに巨人の姿があって、ちょっと巨大過ぎるだろ!?と驚いてしまいますw 右下にある太陽からは放射線状に光が放たれ、全体的に輝くような色彩となっているので、先程のロランからの影響が見て取れます。やや粗めに見えるタッチや光を捉える表現などは印象派の先駆け的な雰囲気も感じられました。
<7章 イギリスにおけるフランス近代美術受容>
最後はフランス絵画のコーナーです。新古典主義やバルビゾン派から印象派、ポスト印象派などの作品が並んでいました。
50 ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 「アンジェリカを救うルッジェーロ」 ★こちらで観られます
こちらは新古典主義の巨匠アングルによる作品。ルドヴィーコ・アリオストの「狂えるオルランド」の1シーンを絵画化したもので、ヒッポグリフに乗ったルッジェーロが鎖に繋がれたアンジェリカを助けにきています。って、この絵はルーヴル美術館の所蔵じゃないの?と思ったら、ヴァリアントのようで ルーヴル美術館の作品は横長ですがこちらはやや縦長になって両脇がトリミングされたような感じです。アンジェリカは滑らかな肌で官能的ではありますが、首から肩の辺りが不自然で解剖学的にはおかしなことになっています。これは女性美を最大限にするための表現で、アングルはこうした作品を数多く残しています。イギリスの美術館がこれだけ見事なアングルの作品を持っていることに驚きました。
参考記事:《ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル》 作者別紹介
55 ピエール=オーギュスト・ルノワール 「劇場にて(初めてのお出かけ)」 ★こちらで観られます
こちらは桟敷席から劇場を観る少女の横顔を描いた作品で、タイトルから察するに初めて劇場に来た上流階級の娘だと思われます。少女の横顔にはあどけなさと緊張感もあって初々しい感じです。昨年のコートールド美術館展にも「桟敷席」という劇場の観客たちを描いた作品がありましたが、この作品でも舞台よりも観客を題材にしているのが面白いところです。背景には他のお客さんも群像として描かれていて当時の劇場の賑わいを感じさせました。ちなみにこの作品は1876年~77年頃なので、第1回印象派展から2年後(第3回頃)で、代表作の「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を描いた頃となります。群像に凝ってたのかな??
参考記事:《ピエール=オーギュスト・ルノワール》 作者別紹介
この辺にはピサロの印象派らしい頃の作品やドガの踊り子を描いた作品、ファンタン・ラトゥールの花の作品などもありました。モネも太鼓橋と睡蓮を描いた作品があったので、少数でも各画家の代表的な作風が観られる品揃えとなっています。
60 ポール・セザンヌ 「プロヴァンスの丘」 ★こちらで観られます
こちらはセザンヌの故郷のプロヴァンス地方の風景を描いた作品です。観るものを円筒・球・円錐として捉えるという理論を持っていたセザンヌですが、ここでも後のピカソのキュビスムに繋がるような幾何学的な要素が感じられる風景となっています。色彩も緑とオレンジがかった色が対比的で一層にリズムを感じます。この作品もセザンヌらしい題材・技法が観られて好みでした。
参考記事:セザンヌゆかりの地めぐり 【南仏編 エクス】
58 フィンセント・ファン・ゴッホ 「ひまわり」 ★こちらで観られます
こちらはゴッホ作品で特に有名な「ひまわり」の1点で、連作7点の中でも最高傑作とされる作品です。明るい黄色を背景に花瓶に入ったひまわりが描かれ、花びらは厚塗りされて生命力がほとばしるような雰囲気です。まだ蕾だったり花を落としているのもあるのは人生の縮図のようでもあり ゴッホの出身地であるオランダのヴァニタスの伝統からの影響なのかもしれません。花瓶にはヴィンセントのサインがあり、ひまわりでサインが残されているのは7点の中で2点しかありません。これはアルルで共同生活したゴーギャンの部屋を飾るに相応しい作品であると考えた為で、ゴーギャンもこの絵を絶賛したようです。間近で観るとマチエールと相まって迫りくるものがあるので、これは実際に観られて本当に良かったです。それにしても黄色地に黄色って発想が天才すぎますよねw
近くにはゴーギャンが描いた花の絵もありました。
その後には「ひまわり」に関するパネルがあり、7点の写真が並んでいました。この展示の作品は4点目で、1~3点目は青や緑がかった背景となっています。(2点目は戦時中に芦屋で消失) 3点目と4点目がゴーギャンの部屋に相応しいとサインされたもので、ひまわりは常に太陽を向くので伝統的に忠誠の意味があったようでゴーギャンへの忠誠の意味もあったようです。SOMPO美術館のひまわりは5点目で、4点目の自己模作です。写真を見比べるとオリジナルより若干 背景が黄緑がかっているように見えるかな。7点目のひまわりもそっくりです。写真とは言え、こうして比較して観られるコーナーは参考になりました。
最後にロンドン・ナショナル・ギャラリーの歴史がありました。1824年に開館していて、1897年にはイギリス美術専門の別館ができています(別館は今では独立してテート・ギャラリーになっています。)
ということで、後半も有名画家の名作が目白押しでした。西洋絵画の歴史そのものといった品揃えで今年一番の豪華な展示だったのは間違いないと思います。コロナ禍で翻弄されましたが、それだけに一層に思い出深いものとなりました。
記事が参考になったらブログランキングをポチポチっとお願いします(><) これがモチベーションの源です。


更新情報や美術関連の小ネタをtwitterで呟いています。
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前回ご紹介した常設を観る前に国立西洋美術館の特別展「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」を観てきました。この展示は既に終了していますが、見どころが多く大阪にも巡回するので前編・後編に分けてご紹介していこうと思います。


【展覧名】
ロンドン・ナショナル・ギャラリー展
【公式サイト】
https://artexhibition.jp/london2020/
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2020london_gallery.html
【会場】国立西洋美術館
【最寄】上野駅
【会期】2020年6月18日(木)~10月18日(日)
※営業時間・休館日・地図・巡回などは公式サイトでご確認下さい。
【鑑賞所要時間(私のペースです)】
2時間00分程度
【混み具合・混雑状況】
混雑_1_2_③_4_5_快適
【作品充実度】
不足_1_2_3_4_⑤_充実
【理解しやすさ】
難解_1_2_3_④_5_明解
【総合満足度】
不満_1_2_3_4_⑤_満足
【感想】
10日くらい前に事前予約をしたのですが、残っていたのは平日の昼と夜間開催の夜のみと言った感じでした。大阪でも同様になると思いますので、もし足を運ぼうと考えている方は早めに予約することをオススメします。ちなみに時間区切りの予約制でも入場待ちが10分くらいあって、中に入っても結構混んでいました。場所によっては人だかりが出来ていて、割と三密なのではという危惧が…。
さて、この展示はイギリスのロンドンにあるロンドン・ナショナル・ギャラリーのコレクションが約60点観られるもので、同館が海外にこれだけ大規模に貸し出すのは200年の歴史で初めてのことだそうです。すべてが日本初公開で今後もこんな機会があるのか?って感じなので非常に楽しみにしていたのですが、コロナによって開催延期でどうなるかという時期もありました。ようやく開催されてからも世の中の感染状況があまり芳しい状況でなかったので行くのが会期末になってしまいました。しかし行った甲斐のある名画ばかりで61点全てが傑作という奇跡のような内容でした。7章構成となっていましたので、各章ごとに気に入った作品と共にご紹介していこうと思います。(章の概要はメモしなかったので割愛します)
<1章 イタリア・ルネサンス絵画の収集>
まずはイタリア・ルネサンス期の作品のコーナーです。非常に有名な絵画が並び、早くも貴重な機会となっていました。
2 カルロ・クリヴェッリ 「聖エミディウスを伴う受胎告知」 ★こちらで観られます
こちらは建物の中にいるマリアに空から光線が差し込み、受胎告知するという場面を描いた作品です。光を発する天の雲がUFOっぽいのでUFOのTV番組とかでよく出てきますw 光は謎の小窓を通って手を交差するマリアに当たり、書見台で本を読んでいたり整然とした室内の描写となっています。これはマリアの純血や敬虔さを象徴するものを考えられるようで、マリアは恭しく静かな表情をしています。しかし普通は受胎告知というとガブリエルが告知する場面な訳ですが、この絵ではガブリエルは窓の外にいて 聖エミディウスというこの絵を依頼したアスコリ・ピチェーノの街の聖人を伴っているなど、ちょっと変わった構成となっています。聖エミディウスはこの街の模型を持っていて、これはローマ教皇から自治権を獲得したことを示しているようで、その奥のアーチ状の橋の上で手紙を読む人はその書状を読んでいると思われるのだとか。他にも孔雀がユノを表すなど様々なメタファーが込められているようで、様々な読み解きができそうです(左上の物陰に隠れた子供とかどんな意味があるのか知りたいw) それにしてもこの絵を観て最初に出た感想は思ってたよりデカい!でしたw 高さ207cm 幅146.7cmで見上げるような感じです。 細部まで緻密な上にこの大きさなのでかなり迫力がありました。やはり直接観ないとわからないことがありますね。
4 サンドロ・ボッティチェッリ 「聖ゼノビウス伝より初期の四場面」 ★こちらで観られます
こちらはフィレンツェ出身の聖ゼノビウスの物語を描いた4枚セットのうちの1枚で、この作品の中にも4つの場面が描かれています。左から順に4コマ漫画みたいな感じとなっていて、左から順に キリスト教に改宗するので結婚できないと許嫁に告げるシーン、洗礼を受けるシーン、母親が洗礼を受けるシーン、教皇に跪き司教を拝命するシーンとなっています。4つの時系列が違和感なく繋がっているのは日本の絵巻物と通じるものを感じるかな。500年前の作品とは思えないほど色鮮やかで優美な印象を受けます。出てくる人々も生き生きしていてボッティチェリらしさを感じました。
この近くにはミケランジェロの師匠のドメニコ・ギルランダイオの作品などもありました。
5 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 「ノリ・メ・タンゲレ」 ★こちらで観られます
こちらは聖書の復活したキリストとマグダラのマリアの話を絵画化したもので、白い衣と杖のようなものを持った復活後のキリストと、その足元で跪いて触れようとしているマグダラのマリアが描かれています。「ノリ・メ・タンゲレ」はラテン語で「我に触れるな」という意味で、マグダラのマリアがキリストの遺骸が無くなったので庭師らしき男に探すのを手伝って貰おうとしたところ、この言葉を言われてこの庭師が復活したキリストであると悟るというシーンです。繊細で気品ある描写と色合いとなっていて、見上げるマグダラのマリアの顔には驚きの様子が伺えます。全体的に色は明るめで特に2人は目を引くような明るさとなっていました。これはかなりの傑作だと思います。
8 ヤコポ・ティントレット(本名ヤコポ・ロブスティ) 「天の川の起源」 ★こちらで観られます
こちらはユピテル(ゼウス)がアルクメネとの間の子のヘラクレスに、本来の妻であるユノ(ヘラ)が寝ている隙にユノの乳を飲ませようとしている様子を描いた作品です。アルクメネは人間なのでヘラクレスは半人半神な訳ですが、ユノの乳を飲めば神になれます。しかしヘラクレスが強く吸ったのでユノが起きてしまい、空に吹き上げたミルクが天の川になったというストーリーです。ここでは乳房から星が舞い上がっていて、ちょうどユノが起きたところのようです。登場人物の動きが誇張気味なくらいダイナミックなポーズとなっていて、明るい色彩と共に見栄えがします。この作品も結構大きいのですが、元々はもっと大きな絵だったと考えられるようで下の方などちょっとカットされたような感じもするかな。とは言え、この状態としても絵として面白く、空飛ぶ人物たちが渦巻くような構図となっているので中心のヘラクレスが非常に目を引きました。
<2章 オランダ絵画の黄金時代>
続いては17世紀オランダ絵画のコーナーです。
9 レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 「34歳の自画像」 ★こちらで観られます
こちらはレンブラントの自画像で、黒い服に黒い帽子をかぶり、やや斜めになった姿勢でこちらを観ている姿で描かれています。肘を手前の柱に置くポーズはティツィアーノやラファエロに倣ったもので、つまり自分はそうした巨匠と匹敵する存在であると自認していたようです。やや神経質そうな表情にも思えましたが、顔の細部から服の質感に至るまで恐ろしく精密で真に迫るものがあり、その自己評価も納得です。明暗の表現にレンブラントらしさを感じます。レンブラントの34歳は人生の絶頂期で、この少し後に人生が暗転してしまいます。まさにレンブラントの頂点と言った作品かもしれませんね。
参考記事:《レンブラント・ファン・レイン》 作者別紹介
13 ヨハネス・フェルメール 「ヴァージナルの前に座る若い女性」 ★こちらで観られます
こちらは寡作の画家フェルメールの晩年近くの作品で、普段ならこれをメインに展覧会が組まれてると思いますw オルガンのようなヴァージナルという楽器に向かう女性が ふとこちらを見ているような場面で、周りには弦を挟み込んだヴィオラ・ダ・ガンバがあり、背景にはフェルメールの義母が所持していたと考えられているディルク・ファン・バビューレンの「取り持ち女」らしき絵が飾ってあります。この辺の物には意味が込められていそうですが、読み解くのは難しいですw 絵の中で特に目を引くのはやはり女性で、こちらを気遣っている表情でしょうか。鍵盤に手をおいているので演奏のタイミングを伺っているのかも?? また、着ている豪華な衣装も目を引き、反射してツヤが出ています。豊かな質感に見えるので感心しますが、近寄ってみると意外と大胆な筆致となっていて一層に驚かされます。観れば観るほど発見があるのは名画の特徴ですね。なお、ロンドン・ナショナル・ギャラリーにはフェルメールの「ヴァージナルの前に立つ女」という作品もあるので、対になっているのではないかという説もあります。
<3章 ヴァン・ダイクとイギリス肖像画>
続いてはフランドル出身でルーベンスの工房で学び、イギリスに渡ってイングランド国王チャールズ1世の宮廷画家として活躍したヴァン・ダイクに関するコーナーです。ヴァン・ダイクの描く肖像画は当時のイギリス貴族の間で絶対的な人気を誇り、イギリスの画家たちにも大きな影響を与え、イギリス肖像画の確立に貢献しました。
17 アンソニー・ヴァン・ダイク 「レディ・エリザベス・シンベビーとアンドーヴァー子爵夫人ドロシー」 ★こちらで観られます
こちらは貴族の姉妹を描いた作品で、右に新婦の妹、左に未婚の姉の姿があり、下の方には翼の生えた子供(プットー)が花束を妹に渡しています。やけに色白でちょっとぎこちないポーズで目線も合ってないので、正直なところ虚ろな印象を受けるかなw しかしこのポーズや衣装にも貞節や純血といった意味があるようで2人が目立つようにプットーは陰影が強くなっているなど様々な技巧が施されているようです。解説によると、実際の姿から理想化もしているようで絵とのギャップに驚かれたという人もいたのだとかw 肖像を盛るのは今も昔も変わらずですかねw
22 トマス・ゲインズバラ 「シドンズ夫人」 ★こちらで観られます
こちらはヴァン・ダイクの150年ほど後の作品で、大きな黒い帽子を被る横向きの貴婦人が描かれた肖像です。知的な雰囲気の美人で、顔は写真のように精緻ですが服などは割と大胆な筆致となっています。ポーズや色彩のバランスも良くて かなり好み。モデルが美人だから2割増しくらい良く見えますw この女性は舞台女優でもあり、得意だったのはシェイクスピアの『マクベス』のマクベス夫人で、この役は夫を殺害し、夢遊病となって 手を洗い、いくら洗っても血の汚れが取れないと言うシーンが有名です。あまりにハマり役で有名だったので、この女優が生地を買いに言った時に、「これは洗えるのかしら」と呟いたら店の主人が凍りついたというエピソードまであったのだとか。この絵ではそんな怖い感じはしないですが、文句なしの傑作です。
<4章 グランド・ツアー>
続いてはイギリス貴族の子弟たちが今で言う卒業旅行でイタリアを訪れて見聞を広める「グランド・ツアー」についてのコーナーです。このグランド・ツアーで訪れた地の絵をお土産として持ち帰るのが流行り、イタリアの風景画が多くイギリスにもたらされました。
27 カナレット(本名ジョヴァンニ・アントニオ・カナル) 「ヴェネツィア:大運河のレガッタ」 ★こちらで観られます
こちらはヴェネチアの年中行事であるレガッタレースの様子を描いた作品です。中央には傾いたレガッタの姿があり、これが競技者かな。周りにも無数の小舟が浮かび、両岸の建物も含めて数え切れないほどの人たちが見物しています。空も明るくヴェネチアの華やかさが凝縮されたような雰囲気で、祭りの熱気が伝わってきます。一点透視図法で緻密に描かれ実景そのものに見えますが、実際には奥に描かれたリアルト橋はこの場所からは見えないようで、ヴェネチアらしさを強調しているのかもしれません。これは確かにヴェネチアの思い出として持ち帰りたくなる気持ちも分かります。それにしても縦117.2cmx横186.7cmと結構大きいので運ぶのは大変だったのではw
カナレットはイギリスに渡って描いた作品もありました。
30 ジョヴァンニ・パオロ・パニーニ 「人物のいるローマの廃墟」 ★こちらで観られます
こちらは前回の常設の記事でもご紹介したパニーニの作品で、現実と空想が融合した風景画「カプリッチョ」となっています。この画家はローマの画家アカデミーの総裁にもなっているほどの人物で、グランド・ツアーの貴族たちにも人気だったようです。ピラミッドはローマに実在するガイウス・ケスティウスのピラミッドで、それ以外は空想の品々のようです。空想ではあるけどローマっぽさを集めたような絵で、神話の時代を思わせました。
クロード=ジョゼフ・ヴェルネ 「ローマのテヴェレ川での競技」 ★こちらで観られます
こちらはフランスの画家ですがローマに長く滞在し、後に海景画で名を馳せました。ここではローマの川の競技の様子が描かれ、先程のカナレットの作品に通じるものを感じます。たくさんの見物人たちの身なりも良く、上流階級の社交場のような雰囲気もあるかな。風景も理想化されたような美しさで、特に雲の表現が見事でした。
参考記事:《クロード=ジョセフ・ヴェルネ》 作者別紹介
ということで、本来であれば展覧会の主役級ばかりが並ぶ凄い内容となっていました。今年は何としてもこの展示だけは見たいと思っていたので非常に満足です。後半にも驚く作品が沢山ありましたので、次回は残りの5~7章をご紹介予定です。
→ 後編はこちら



【展覧名】
ロンドン・ナショナル・ギャラリー展
【公式サイト】
https://artexhibition.jp/london2020/
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2020london_gallery.html
【会場】国立西洋美術館
【最寄】上野駅
【会期】2020年6月18日(木)~10月18日(日)
※営業時間・休館日・地図・巡回などは公式サイトでご確認下さい。
【鑑賞所要時間(私のペースです)】
2時間00分程度
【混み具合・混雑状況】
混雑_1_2_③_4_5_快適
【作品充実度】
不足_1_2_3_4_⑤_充実
【理解しやすさ】
難解_1_2_3_④_5_明解
【総合満足度】
不満_1_2_3_4_⑤_満足
【感想】
10日くらい前に事前予約をしたのですが、残っていたのは平日の昼と夜間開催の夜のみと言った感じでした。大阪でも同様になると思いますので、もし足を運ぼうと考えている方は早めに予約することをオススメします。ちなみに時間区切りの予約制でも入場待ちが10分くらいあって、中に入っても結構混んでいました。場所によっては人だかりが出来ていて、割と三密なのではという危惧が…。
さて、この展示はイギリスのロンドンにあるロンドン・ナショナル・ギャラリーのコレクションが約60点観られるもので、同館が海外にこれだけ大規模に貸し出すのは200年の歴史で初めてのことだそうです。すべてが日本初公開で今後もこんな機会があるのか?って感じなので非常に楽しみにしていたのですが、コロナによって開催延期でどうなるかという時期もありました。ようやく開催されてからも世の中の感染状況があまり芳しい状況でなかったので行くのが会期末になってしまいました。しかし行った甲斐のある名画ばかりで61点全てが傑作という奇跡のような内容でした。7章構成となっていましたので、各章ごとに気に入った作品と共にご紹介していこうと思います。(章の概要はメモしなかったので割愛します)
<1章 イタリア・ルネサンス絵画の収集>
まずはイタリア・ルネサンス期の作品のコーナーです。非常に有名な絵画が並び、早くも貴重な機会となっていました。
2 カルロ・クリヴェッリ 「聖エミディウスを伴う受胎告知」 ★こちらで観られます
こちらは建物の中にいるマリアに空から光線が差し込み、受胎告知するという場面を描いた作品です。光を発する天の雲がUFOっぽいのでUFOのTV番組とかでよく出てきますw 光は謎の小窓を通って手を交差するマリアに当たり、書見台で本を読んでいたり整然とした室内の描写となっています。これはマリアの純血や敬虔さを象徴するものを考えられるようで、マリアは恭しく静かな表情をしています。しかし普通は受胎告知というとガブリエルが告知する場面な訳ですが、この絵ではガブリエルは窓の外にいて 聖エミディウスというこの絵を依頼したアスコリ・ピチェーノの街の聖人を伴っているなど、ちょっと変わった構成となっています。聖エミディウスはこの街の模型を持っていて、これはローマ教皇から自治権を獲得したことを示しているようで、その奥のアーチ状の橋の上で手紙を読む人はその書状を読んでいると思われるのだとか。他にも孔雀がユノを表すなど様々なメタファーが込められているようで、様々な読み解きができそうです(左上の物陰に隠れた子供とかどんな意味があるのか知りたいw) それにしてもこの絵を観て最初に出た感想は思ってたよりデカい!でしたw 高さ207cm 幅146.7cmで見上げるような感じです。 細部まで緻密な上にこの大きさなのでかなり迫力がありました。やはり直接観ないとわからないことがありますね。
4 サンドロ・ボッティチェッリ 「聖ゼノビウス伝より初期の四場面」 ★こちらで観られます
こちらはフィレンツェ出身の聖ゼノビウスの物語を描いた4枚セットのうちの1枚で、この作品の中にも4つの場面が描かれています。左から順に4コマ漫画みたいな感じとなっていて、左から順に キリスト教に改宗するので結婚できないと許嫁に告げるシーン、洗礼を受けるシーン、母親が洗礼を受けるシーン、教皇に跪き司教を拝命するシーンとなっています。4つの時系列が違和感なく繋がっているのは日本の絵巻物と通じるものを感じるかな。500年前の作品とは思えないほど色鮮やかで優美な印象を受けます。出てくる人々も生き生きしていてボッティチェリらしさを感じました。
この近くにはミケランジェロの師匠のドメニコ・ギルランダイオの作品などもありました。
5 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 「ノリ・メ・タンゲレ」 ★こちらで観られます
こちらは聖書の復活したキリストとマグダラのマリアの話を絵画化したもので、白い衣と杖のようなものを持った復活後のキリストと、その足元で跪いて触れようとしているマグダラのマリアが描かれています。「ノリ・メ・タンゲレ」はラテン語で「我に触れるな」という意味で、マグダラのマリアがキリストの遺骸が無くなったので庭師らしき男に探すのを手伝って貰おうとしたところ、この言葉を言われてこの庭師が復活したキリストであると悟るというシーンです。繊細で気品ある描写と色合いとなっていて、見上げるマグダラのマリアの顔には驚きの様子が伺えます。全体的に色は明るめで特に2人は目を引くような明るさとなっていました。これはかなりの傑作だと思います。
8 ヤコポ・ティントレット(本名ヤコポ・ロブスティ) 「天の川の起源」 ★こちらで観られます
こちらはユピテル(ゼウス)がアルクメネとの間の子のヘラクレスに、本来の妻であるユノ(ヘラ)が寝ている隙にユノの乳を飲ませようとしている様子を描いた作品です。アルクメネは人間なのでヘラクレスは半人半神な訳ですが、ユノの乳を飲めば神になれます。しかしヘラクレスが強く吸ったのでユノが起きてしまい、空に吹き上げたミルクが天の川になったというストーリーです。ここでは乳房から星が舞い上がっていて、ちょうどユノが起きたところのようです。登場人物の動きが誇張気味なくらいダイナミックなポーズとなっていて、明るい色彩と共に見栄えがします。この作品も結構大きいのですが、元々はもっと大きな絵だったと考えられるようで下の方などちょっとカットされたような感じもするかな。とは言え、この状態としても絵として面白く、空飛ぶ人物たちが渦巻くような構図となっているので中心のヘラクレスが非常に目を引きました。
<2章 オランダ絵画の黄金時代>
続いては17世紀オランダ絵画のコーナーです。
9 レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 「34歳の自画像」 ★こちらで観られます
こちらはレンブラントの自画像で、黒い服に黒い帽子をかぶり、やや斜めになった姿勢でこちらを観ている姿で描かれています。肘を手前の柱に置くポーズはティツィアーノやラファエロに倣ったもので、つまり自分はそうした巨匠と匹敵する存在であると自認していたようです。やや神経質そうな表情にも思えましたが、顔の細部から服の質感に至るまで恐ろしく精密で真に迫るものがあり、その自己評価も納得です。明暗の表現にレンブラントらしさを感じます。レンブラントの34歳は人生の絶頂期で、この少し後に人生が暗転してしまいます。まさにレンブラントの頂点と言った作品かもしれませんね。
参考記事:《レンブラント・ファン・レイン》 作者別紹介
13 ヨハネス・フェルメール 「ヴァージナルの前に座る若い女性」 ★こちらで観られます
こちらは寡作の画家フェルメールの晩年近くの作品で、普段ならこれをメインに展覧会が組まれてると思いますw オルガンのようなヴァージナルという楽器に向かう女性が ふとこちらを見ているような場面で、周りには弦を挟み込んだヴィオラ・ダ・ガンバがあり、背景にはフェルメールの義母が所持していたと考えられているディルク・ファン・バビューレンの「取り持ち女」らしき絵が飾ってあります。この辺の物には意味が込められていそうですが、読み解くのは難しいですw 絵の中で特に目を引くのはやはり女性で、こちらを気遣っている表情でしょうか。鍵盤に手をおいているので演奏のタイミングを伺っているのかも?? また、着ている豪華な衣装も目を引き、反射してツヤが出ています。豊かな質感に見えるので感心しますが、近寄ってみると意外と大胆な筆致となっていて一層に驚かされます。観れば観るほど発見があるのは名画の特徴ですね。なお、ロンドン・ナショナル・ギャラリーにはフェルメールの「ヴァージナルの前に立つ女」という作品もあるので、対になっているのではないかという説もあります。
<3章 ヴァン・ダイクとイギリス肖像画>
続いてはフランドル出身でルーベンスの工房で学び、イギリスに渡ってイングランド国王チャールズ1世の宮廷画家として活躍したヴァン・ダイクに関するコーナーです。ヴァン・ダイクの描く肖像画は当時のイギリス貴族の間で絶対的な人気を誇り、イギリスの画家たちにも大きな影響を与え、イギリス肖像画の確立に貢献しました。
17 アンソニー・ヴァン・ダイク 「レディ・エリザベス・シンベビーとアンドーヴァー子爵夫人ドロシー」 ★こちらで観られます
こちらは貴族の姉妹を描いた作品で、右に新婦の妹、左に未婚の姉の姿があり、下の方には翼の生えた子供(プットー)が花束を妹に渡しています。やけに色白でちょっとぎこちないポーズで目線も合ってないので、正直なところ虚ろな印象を受けるかなw しかしこのポーズや衣装にも貞節や純血といった意味があるようで2人が目立つようにプットーは陰影が強くなっているなど様々な技巧が施されているようです。解説によると、実際の姿から理想化もしているようで絵とのギャップに驚かれたという人もいたのだとかw 肖像を盛るのは今も昔も変わらずですかねw
22 トマス・ゲインズバラ 「シドンズ夫人」 ★こちらで観られます
こちらはヴァン・ダイクの150年ほど後の作品で、大きな黒い帽子を被る横向きの貴婦人が描かれた肖像です。知的な雰囲気の美人で、顔は写真のように精緻ですが服などは割と大胆な筆致となっています。ポーズや色彩のバランスも良くて かなり好み。モデルが美人だから2割増しくらい良く見えますw この女性は舞台女優でもあり、得意だったのはシェイクスピアの『マクベス』のマクベス夫人で、この役は夫を殺害し、夢遊病となって 手を洗い、いくら洗っても血の汚れが取れないと言うシーンが有名です。あまりにハマり役で有名だったので、この女優が生地を買いに言った時に、「これは洗えるのかしら」と呟いたら店の主人が凍りついたというエピソードまであったのだとか。この絵ではそんな怖い感じはしないですが、文句なしの傑作です。
<4章 グランド・ツアー>
続いてはイギリス貴族の子弟たちが今で言う卒業旅行でイタリアを訪れて見聞を広める「グランド・ツアー」についてのコーナーです。このグランド・ツアーで訪れた地の絵をお土産として持ち帰るのが流行り、イタリアの風景画が多くイギリスにもたらされました。
27 カナレット(本名ジョヴァンニ・アントニオ・カナル) 「ヴェネツィア:大運河のレガッタ」 ★こちらで観られます
こちらはヴェネチアの年中行事であるレガッタレースの様子を描いた作品です。中央には傾いたレガッタの姿があり、これが競技者かな。周りにも無数の小舟が浮かび、両岸の建物も含めて数え切れないほどの人たちが見物しています。空も明るくヴェネチアの華やかさが凝縮されたような雰囲気で、祭りの熱気が伝わってきます。一点透視図法で緻密に描かれ実景そのものに見えますが、実際には奥に描かれたリアルト橋はこの場所からは見えないようで、ヴェネチアらしさを強調しているのかもしれません。これは確かにヴェネチアの思い出として持ち帰りたくなる気持ちも分かります。それにしても縦117.2cmx横186.7cmと結構大きいので運ぶのは大変だったのではw
カナレットはイギリスに渡って描いた作品もありました。
30 ジョヴァンニ・パオロ・パニーニ 「人物のいるローマの廃墟」 ★こちらで観られます
こちらは前回の常設の記事でもご紹介したパニーニの作品で、現実と空想が融合した風景画「カプリッチョ」となっています。この画家はローマの画家アカデミーの総裁にもなっているほどの人物で、グランド・ツアーの貴族たちにも人気だったようです。ピラミッドはローマに実在するガイウス・ケスティウスのピラミッドで、それ以外は空想の品々のようです。空想ではあるけどローマっぽさを集めたような絵で、神話の時代を思わせました。
クロード=ジョゼフ・ヴェルネ 「ローマのテヴェレ川での競技」 ★こちらで観られます
こちらはフランスの画家ですがローマに長く滞在し、後に海景画で名を馳せました。ここではローマの川の競技の様子が描かれ、先程のカナレットの作品に通じるものを感じます。たくさんの見物人たちの身なりも良く、上流階級の社交場のような雰囲気もあるかな。風景も理想化されたような美しさで、特に雲の表現が見事でした。
参考記事:《クロード=ジョセフ・ヴェルネ》 作者別紹介
ということで、本来であれば展覧会の主役級ばかりが並ぶ凄い内容となっていました。今年は何としてもこの展示だけは見たいと思っていたので非常に満足です。後半にも驚く作品が沢山ありましたので、次回は残りの5~7章をご紹介予定です。
→ 後編はこちら
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前回ご紹介した展示を観た後、国立西洋美術館に移動して特別展と常設を観てきました。先に常設からご紹介しておこうと思います。今回も最近増えたコレクションはいくつかしか見当たらなかったのですが、今までご紹介していない作品と共に撮影してきたので、写真を使ってご紹介していこうと思います。
公式サイト:
http://collection.nmwa.go.jp/artizeweb/search_5_area.do
※常設展はフラッシュ禁止などのルールを守れば撮影可能です。(中には撮ってはいけない作品もあります。)
掲載等に問題があったらすぐに削除しますのでお知らせください。
参考記事
国立西洋美術館の案内 (常設 2019年10月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2018年10月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2018年03月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2017年11月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2011年10月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2011年07月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2010年10月 絵画編)
国立西洋美術館の案内 (常設 2010年10月 彫刻編)
国立西洋美術館の案内 (常設 2010年06月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2010年02月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2010年01月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2009年10月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2009年04月)
ペデロ・デ・オレンテ 「聖母被昇天」

こちらは2018年度に購入された、聖母マリアが天国へと昇天していく様子を描いた作品。天使に支えられるマリアと、下で空になった墓を覗いて驚く12使徒の姿があり、割と大胆なタッチと青みがかった色彩が独特に思えます。解説によると作者は17世紀にヴェネチアで学んだスペイン人画家で、トレドに戻ってからこちらを描いたそうです。色彩にはエル・グレコの影響があり、マリアの肉体の量感や使徒たちの無骨な風貌に当時勃興しつつあった自然主義絵画に対する強い関心が表れているとのことです。確かに既視感があると思ったらエル・グレコっぽさがありますね。
フランシスコ・デ・スルバラン 「聖ドミニクス」

こちらは2019年度に購入された、ドミニコ会修道院の創設者である13世紀の聖ドミニクスを描いた肖像です。足元にいるのは犬で、松明をくわえているらしく背後に人の形の影があるのはその為のようです。作者は「修道僧の画家」とも呼ばれた17世紀スペインの代表的な画家で、黒地に黒服で影まで分かるという所に腕前を感じます。スペイン絵画は黒の使い方に長けてる画家が多い気がするなあ。
ダフィット・テニールス(父) 「ウルカヌスの鍛冶場を訪れたヴィーナス」

こちらは1638年頃の作品で、(父)と付いているのは、同名でフランドル絵画の画家である息子の方が有名だからかな? ここでは鍛冶の神ウルカヌスが妻のヴィーナスに頼まれて息子のアエネアスのために武具を鋳造する場面が描かれているそうです。割と柔らかい感じの仕上げだけど明暗は強く、特にウルカヌスが槌を振り上げる姿に目が行きました。
ジャン=バティスト・パテル 「野営(兵士の休息)」

こちらはロココの画家の作品で、作者はロココの巨匠アントワーヌ・ヴァトーの数少ない弟子です。師は貴族が屋外で楽しむ様子を描いた「雅宴画」を創始し このパテルはその後継者となったようで、この絵はそうした主題ではないものの兵士が休息する様子をのんびりと描いています。人々の様子も生き生きしていていますね。
ジョヴァンニ・パオロ・パニーニ 「古代建築と彫刻のカプリッチョ」

こちらは古代建築と彫刻を描いた作品で、現実と空想が融合した風景画「カプリッチョ」となっています。この画家は当時人気でローマの画家アカデミーの総裁にもなっているほどの人物で、同じくカプリッチョを得意としたユベール・ロベールはこのパニーニに薫陶を受けて大きな影響を受けています。この絵でも様々な古代の遺物を組み合わせていて、一際目立つヘラクレス像に身振りしているのは哲学者のディオゲネスらしく、像相手に物乞いして兵士に冷やかされている場面なのだとか。当時の教養人はこれを観て元ネタの組み合わせを楽しんでいたのかもしれませんね。
参考記事:《ユベール・ロベール》 作者別紹介
ウィリアム・アドルフ・ブーグロー 「武器の返却を懇願するクピド」「クピドの懲罰」

こちらはフランスの新古典主義の流れを汲むブーグローの作品で、今回が初めての展示となります。左はクピドが弓矢を取られた様子で、右はお仕置きされている様子となっていて、何とも可愛らしい画題となっています。ちょっと詳細は分かりませんでしたが、形は違うものの題材や作風から対になっている(もしくはシリーズ?)に思えますね。肌の透き通るような表現が流石です。
フランク・ブラングィン 「松方幸次郎の肖像」

こちらは国立西洋美術館のコレクションの基礎を築いた松方幸次郎の肖像で、描いたのはそのコレクションの蒐集に協力した画家です。割と粗目のタッチですが貫禄ある姿となっていて、以前の展示の解説によるとカンバスの裏側に「1時間で描く」と書いてあるそうです。リラックスしていて2人の親密な様子も伺えますね。
参考記事:
松方コレクション展 感想前編(国立西洋美術館)
フランク・ブラングィン展 (国立西洋美術館)
ケル=グザヴィエ・ルーセル 「小道の聖母マリア」

こちらはナビ派の画家ルーセルの初期作品で2018年に購入されたようです。ドニやゴーガンに影響を受けている様子が見て取れるものの独特の神秘性があって好み。静かで気品ある立ち姿が 右寄りに配置されている構図も面白いです。この絵は裏面も観ることが出来て、風景と人物?らしきものを描いている様子も伺えました。
トマス・ストザード 「黄金時代」

こちらは2017年度購入ですが旧松方コレクション。この画家は挿絵画家として活躍する一方で、シェイクスピアなどを題材とした作品を残したそうです。この作品ではオウィディウスの『変身物語』をしていて、楽園の生活が次第に乱され やがて欲深い争いの時代へ変遷していく内容となっています。一見すると穏やかな光景の中に左下で鍛冶をしているのはそうした時代を予見させるのだとか。全体的にぼんやりしていて夢想的な雰囲気に思えました。
ダンテ・ガブリエル・ロセッティ 「夜明けの目覚め」

こちらも新収蔵品だけど旧松方コレクション。解説がないので定かではないですが、この顔は見覚えがあるので恋い焦がれたウイリアム・モリスの奥さんではないかと推測しました。ちょっとぼんやりと考えこんでいるような表情がミステリアスな魅力に思えます。
アンリ=ジャン=ギヨーム・マルタン 「ラバスティードの聖堂」

こちらは新印象主義の画家の作品で、細かい点描によって描かれています。晩年の作らしく、後期になるほど色彩がフォーヴィスムのように明るくなっていったようです。木々や屋根の連なりがリズミカルで、花や緑が春の温かみを感じさせました。
ということで、いくつか初めて観るものもありました。国立西洋美術館は来週の2020年10月19日(月)から2022年の春まで休館に入ってしまいますが、いずれまた再会できる機会もあると思います。今年はコロナで臨時休館もあったし今回観られたのは結構レアな機会でした。
公式サイト:
http://collection.nmwa.go.jp/artizeweb/search_5_area.do
※常設展はフラッシュ禁止などのルールを守れば撮影可能です。(中には撮ってはいけない作品もあります。)
掲載等に問題があったらすぐに削除しますのでお知らせください。
参考記事
国立西洋美術館の案内 (常設 2019年10月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2018年10月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2018年03月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2017年11月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2011年10月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2011年07月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2010年10月 絵画編)
国立西洋美術館の案内 (常設 2010年10月 彫刻編)
国立西洋美術館の案内 (常設 2010年06月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2010年02月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2010年01月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2009年10月)
国立西洋美術館の案内 (常設 2009年04月)
ペデロ・デ・オレンテ 「聖母被昇天」

こちらは2018年度に購入された、聖母マリアが天国へと昇天していく様子を描いた作品。天使に支えられるマリアと、下で空になった墓を覗いて驚く12使徒の姿があり、割と大胆なタッチと青みがかった色彩が独特に思えます。解説によると作者は17世紀にヴェネチアで学んだスペイン人画家で、トレドに戻ってからこちらを描いたそうです。色彩にはエル・グレコの影響があり、マリアの肉体の量感や使徒たちの無骨な風貌に当時勃興しつつあった自然主義絵画に対する強い関心が表れているとのことです。確かに既視感があると思ったらエル・グレコっぽさがありますね。
フランシスコ・デ・スルバラン 「聖ドミニクス」

こちらは2019年度に購入された、ドミニコ会修道院の創設者である13世紀の聖ドミニクスを描いた肖像です。足元にいるのは犬で、松明をくわえているらしく背後に人の形の影があるのはその為のようです。作者は「修道僧の画家」とも呼ばれた17世紀スペインの代表的な画家で、黒地に黒服で影まで分かるという所に腕前を感じます。スペイン絵画は黒の使い方に長けてる画家が多い気がするなあ。
ダフィット・テニールス(父) 「ウルカヌスの鍛冶場を訪れたヴィーナス」

こちらは1638年頃の作品で、(父)と付いているのは、同名でフランドル絵画の画家である息子の方が有名だからかな? ここでは鍛冶の神ウルカヌスが妻のヴィーナスに頼まれて息子のアエネアスのために武具を鋳造する場面が描かれているそうです。割と柔らかい感じの仕上げだけど明暗は強く、特にウルカヌスが槌を振り上げる姿に目が行きました。
ジャン=バティスト・パテル 「野営(兵士の休息)」

こちらはロココの画家の作品で、作者はロココの巨匠アントワーヌ・ヴァトーの数少ない弟子です。師は貴族が屋外で楽しむ様子を描いた「雅宴画」を創始し このパテルはその後継者となったようで、この絵はそうした主題ではないものの兵士が休息する様子をのんびりと描いています。人々の様子も生き生きしていていますね。
ジョヴァンニ・パオロ・パニーニ 「古代建築と彫刻のカプリッチョ」

こちらは古代建築と彫刻を描いた作品で、現実と空想が融合した風景画「カプリッチョ」となっています。この画家は当時人気でローマの画家アカデミーの総裁にもなっているほどの人物で、同じくカプリッチョを得意としたユベール・ロベールはこのパニーニに薫陶を受けて大きな影響を受けています。この絵でも様々な古代の遺物を組み合わせていて、一際目立つヘラクレス像に身振りしているのは哲学者のディオゲネスらしく、像相手に物乞いして兵士に冷やかされている場面なのだとか。当時の教養人はこれを観て元ネタの組み合わせを楽しんでいたのかもしれませんね。
参考記事:《ユベール・ロベール》 作者別紹介
ウィリアム・アドルフ・ブーグロー 「武器の返却を懇願するクピド」「クピドの懲罰」

こちらはフランスの新古典主義の流れを汲むブーグローの作品で、今回が初めての展示となります。左はクピドが弓矢を取られた様子で、右はお仕置きされている様子となっていて、何とも可愛らしい画題となっています。ちょっと詳細は分かりませんでしたが、形は違うものの題材や作風から対になっている(もしくはシリーズ?)に思えますね。肌の透き通るような表現が流石です。
フランク・ブラングィン 「松方幸次郎の肖像」

こちらは国立西洋美術館のコレクションの基礎を築いた松方幸次郎の肖像で、描いたのはそのコレクションの蒐集に協力した画家です。割と粗目のタッチですが貫禄ある姿となっていて、以前の展示の解説によるとカンバスの裏側に「1時間で描く」と書いてあるそうです。リラックスしていて2人の親密な様子も伺えますね。
参考記事:
松方コレクション展 感想前編(国立西洋美術館)
フランク・ブラングィン展 (国立西洋美術館)
ケル=グザヴィエ・ルーセル 「小道の聖母マリア」


こちらはナビ派の画家ルーセルの初期作品で2018年に購入されたようです。ドニやゴーガンに影響を受けている様子が見て取れるものの独特の神秘性があって好み。静かで気品ある立ち姿が 右寄りに配置されている構図も面白いです。この絵は裏面も観ることが出来て、風景と人物?らしきものを描いている様子も伺えました。
トマス・ストザード 「黄金時代」

こちらは2017年度購入ですが旧松方コレクション。この画家は挿絵画家として活躍する一方で、シェイクスピアなどを題材とした作品を残したそうです。この作品ではオウィディウスの『変身物語』をしていて、楽園の生活が次第に乱され やがて欲深い争いの時代へ変遷していく内容となっています。一見すると穏やかな光景の中に左下で鍛冶をしているのはそうした時代を予見させるのだとか。全体的にぼんやりしていて夢想的な雰囲気に思えました。
ダンテ・ガブリエル・ロセッティ 「夜明けの目覚め」

こちらも新収蔵品だけど旧松方コレクション。解説がないので定かではないですが、この顔は見覚えがあるので恋い焦がれたウイリアム・モリスの奥さんではないかと推測しました。ちょっとぼんやりと考えこんでいるような表情がミステリアスな魅力に思えます。
アンリ=ジャン=ギヨーム・マルタン 「ラバスティードの聖堂」

こちらは新印象主義の画家の作品で、細かい点描によって描かれています。晩年の作らしく、後期になるほど色彩がフォーヴィスムのように明るくなっていったようです。木々や屋根の連なりがリズミカルで、花や緑が春の温かみを感じさせました。
ということで、いくつか初めて観るものもありました。国立西洋美術館は来週の2020年10月19日(月)から2022年の春まで休館に入ってしまいますが、いずれまた再会できる機会もあると思います。今年はコロナで臨時休館もあったし今回観られたのは結構レアな機会でした。
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今日は久々に展覧会の記事で、今週の水曜日にお休みを取って東京ステーションギャラリーで「もうひとつの江戸絵画 大津絵」を観てきました。

【展覧名】
もうひとつの江戸絵画 大津絵
【公式サイト】
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202008_otsue.html
【会場】東京ステーションギャラリー
【最寄】東京駅
【会期】2020年9月19日(土)~11月8日(日)
※営業時間・休館日・地図・巡回などは公式サイトでご確認下さい。
【鑑賞所要時間(私のペースです)】
1時間00分程度
【混み具合・混雑状況】
混雑_1_2_③_4_5_快適
【作品充実度】
不足_1_2_3_④_5_充実
【理解しやすさ】
難解_1_2_3_④_5_明解
【総合満足度】
不満_1_2_3_4_⑤_満足
【感想】
この展示はローソンチケットでの事前予約制で、14時~15時の入場回のチケットを当日に買うことができました。簡単に取れたし平日だからそんなに混んでいないだろうと思ったら、結構お客さんが多くて場所によっては人だかりができていました。予約制は入場開始時間直後が混むので、少し間を開けたつもりだったんだけど…w
さて、この展示は江戸時代初期から東海道の大津周辺で量産された「大津絵」をテーマにしています。大津絵はお土産品の絵画で、最初は仏画だったものがより売れる絵となっていきました。当時は人気だったようですが護符などの実用品として扱われた為 現存作品は少なくなっています。江戸時代が終わると急速に失われていったものの、明治以降に多くの文化人を惹き付け 名だたる目利きたちが集めた品がこの展覧会に集まっています。大津絵がこれだけまとまって紹介される機会は滅多になく、私も非常に楽しみにしていました。展示は4章構成となっていましたので各章ごとの様子を書いていこうと思います。
<1.受容のはじまり ~秘蔵された大津絵~>
まずは大津絵がコレクションされるようになった頃のコーナーです。大津絵はいずれも作者不明の為、今回の展示ではかつて誰が所有していたか というコレクターごとの構成となっていて、この章では明治時代に蒐集を始めた洋画家の浅井忠や文人画の富岡鉄斎などの旧蔵品が並んでいました。
1-1 「瓢箪鯰」 ★こちらで観られます
こちらは富岡鉄斎から柳宗悦へと渡った品で、巨大な鯰の頭の上に瓢箪を押し付ける猿が描かれています。これは有名な禅問答を絵にしたもので、禅画ではよく観る主題です。しかしその表現が激ユルで、漫画というか戯画というかw キャラクターのような可愛さと可笑しさがあって親しみやすい画風です。また、左上には杯と共に教訓を含んだ「道歌」があり「無喜成功 是猿智慧 辛労只中 以湮押滑」と書かれているようです。見た目はゆるいけど教訓があるのは禅画に通じるものがあるかも??
この先、同じタイトル同じ構図の作品が何回も出てきます。先に3章にあった大津絵の特徴のまとめを書くと、
・江戸時代に大津宿近辺で売られた旅人相手のお土産物
・作者不詳
・旅の安全を祈る仏画からスタートし、次第に人気のある売れる絵になった。
・教訓を込めた歌「道歌」が添えられ江戸末期には護符となる
・画題をまとめると
聖:仏画、吉祥、庶民の神々
邪:鬼、雷
美男/美女/英雄:藤娘、鷹匠、為朝、源頼光
動物:猿、猫、馬、鯰、象、虎
などがあり、江戸末期には「大津絵十種」と呼ばれる画題に集約される
・和紙に木版やステンシルで単純な模様を作り、あとは手書き
・泥絵具と呼ばれる比較的安い絵具が使われている
・時代が下ると縦長の枠2枚を繋げたものから1枚へと簡略化された
・江戸時代が終わると急速に廃れた
・国内だけでなくピカソやジョアン・ミロも所有した
とのことです。
1-2 「大黒天」
こちらも富岡鉄斎の旧蔵品です。頭巾をかぶり 打ち出の小槌を持って大きな袋を担ぎ、米俵の上に立つ大黒天が描かれていて顔は黒くなっています。しかしその表情は印刷がズレたかのように目が顔からはみ出しているのが何とも言えない味わいです。まわりには流れるような文字で道歌が書かれていて、確かにこれは護符っぽい印象も受けました。
1-4 「雷と太鼓」
こちらは黒雲の中の赤鬼のような雷公が 地上に向かって錨のようなものを投げて落とした太鼓を拾おうとしている様子を描いたものです。怖いはずの雷がここでは滑稽な様子となっていて、懸命に手繰り寄せるのがちょっと可愛いw この画題は人気だったようで、後の大津絵十種にも残ったようです。この後にも同様の作品があります。
1-11 「猫と鼠」 ★こちらで観られます
こちらは鼠が自分と同じくらいの杯で酒を飲んでいる様子を描いたもので、隣で猫がそれを楽しそうに勧めています。傍から観ると魂胆ミエミエって感じでしょうか。酔わされた鼠の運命や如何に。 こうした動物の擬人化の主題も大津絵の特徴じゃないかな。この先の展示では猫と鼠が逆転していて猫が酒を飲んでいる作品もありました。
1-15 「提灯釣鐘」 ★こちらで観られます
こちらは洋画家の浅井忠が晩年の京都時代に蒐集した品で、擬人化された猿が肩に天秤を吊り下げ、足元には釣り鐘が置かれています。口をへの字に曲げた顔つきがトボけた感じに見えてちょっとイラッとくるw これは釣り鐘と提灯という釣り合わないものを天秤にかける滑稽さを描いているんじゃないかな。簡潔な線ですらっと描かれた体つきとか、下手なようで結構上手い画家が描いたのではないかと思えました。
この辺には浅井忠がコレクションした品が並んでいました。懐月堂派の浮世絵のような「太夫」などはお土産品とは思えないほどの出来栄えです。浅井忠は晩年の図案作成に大津絵も取り入れたりしています。
参考記事:《浅井忠》 作者別紹介
1-21 「鬼の行水」 ★こちらで観られます
こちらは小説家の渡辺霞亭の旧蔵品で、今回のポスターにもなっているオレンジ色の鬼です。大津絵の魅力を凝縮したような、緩さと滑稽さと軽妙洒脱な雰囲気となっていて、表情も憎めないw 慎重にお湯に入ろうとする瞬間の様子が見事に表されているように思えました。これは確かに名作です。
この辺は渡辺霞亭や同時期のコレクターの旧蔵品が並んでいました。「相撲」など躍動感溢れる作品もあります。
<2.大津絵ブーム到来 ~芸術家のコレクション~>
続いては大津絵がブームになった時代のコーナーです。大正期に入ると大津絵はコレクターズアイテムとして認知されたようで、多くのコレクターが台頭して競うように集めました。1912年(明治45年)には「吾八」で大津絵展が開かれ、吾八のオーナーの山内神斧はコレクターでもあり仲介者としての役割も果たしました。この時期のコレクターの中には浅井忠に師事した洋画家の梅原龍三郎などもいたようです。
2-1 「鬼の念仏」 ★こちらで観られます
こちらは山内神斧の旧蔵品で、鬼が僧の格好をして歩く姿が描かれています。大きな牙に真っ赤な肌、足の爪は獣のように尖っていて、荒々しい雰囲気です。タッチや簡略化の仕方にも勢いがあって存在感のある絵となっています。鬼と念仏は真逆な存在だと思うんだけど、それを1つにしてしまうのが面白い所ですね。この主題も頻出となっています。(同じ章の山村耕花の旧蔵品も良かった)
ちなみに山内神斧は日本画家でもあります。そのせいか旧蔵品は面白い作品ばかりです。
吉川観方 編集 「大津絵」
こちらは日本画家の吉川観方が自ら所有した26図の大津絵を編集して作った画集です。26枚ズラりと並び、ここまで出てきた主題や藤娘や鷹匠など定番となった主題もあって正に大津絵の縮図とも言えるような画集となっています。解説はないものの画風に割と統一感もあって、大津絵に相当に精通していた様子が伺えました。
2-14 「座頭」
これは山村耕花の旧蔵品で、やはり頻出の画題です。三味線を背負った盲目の坊主が歩いている所、犬がふんどしを噛んで引っ張っている様子が描かれています。パッと観ただけではちょっと意味不明w 解説によると、目の不自由な座頭は幕府によって保護され、特権的に金貸しを許されていたそうで庶民から敬遠される存在だったようです。それで犬にふんどしを引っ張られて困惑する様子が人気になったのだとか。ちょっと意地悪な感じはしますが、シュールな印象を受けましたw
この辺で下の階へと続きます。
2-22 「傘さす女」 ★こちらで観られます
こちらは梅原龍三郎の旧蔵品で、これも頻出画題の1つです。着物の女性が傘を持って立つ姿が描かれ、簡略化されていて中々の曲線美を感じます。顔はヘタウマにも思えるけど味わいがあって、これを観た岸田劉生は「これだけの味のあるものは一寸世界的に稀であらう」と言ったのだとか。巨匠たちにそこまで愛されるとは凄いことです。
<3.民画としての確立 ~柳宗悦が提唱した民藝と大津絵~>
続いては民藝運動の中心人物である柳宗悦に関する品々のコーナーです。柳宗悦が大津絵を集めたのは他のコレクターに比べると遅めでしたが、先述の浅井忠や富岡鉄斎の旧蔵品などの逸品に焦点を当てて集めていったようです。また、江戸時代の文献などを調べて成り立ちや画題を整理し『初期大津絵』にまとめ、「民画」として位置づけました。ここにはそうした時代のコレクターの品が並んでいました。
3-2 「阿弥陀三尊来迎図」
こちらは阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が描かれた仏画で、阿弥陀如来の光背が画面に放射状に凄い勢いで広がっています。絵はちょっとヘタウマだけど割と真面目な雰囲気かな。他の大津絵よりもサイズが大きめで、柳宗悦は現存する大津絵の中でも最古のものの1つと考えていたようです。大津絵のルーツ的な作品なので一際貴重な逸品ではないかと思います。
この辺には仏画が並んでいました。聞いたことがない神仏もいたかな。
3-7 「達磨大師」
こちらは達磨大師の肖像を描いたもので、顔は細めの輪郭、体は大胆な墨の流れで描かれています。ギョロッとした目をしたやや漫画チックな顔つきですが、少ない線で特徴をよく捉えていて作者の描写力の高さが伺えます。現存する大津絵の中で達磨の主題はこれだけらしく、これも貴重な品となっています。
3-10 「鬼の三味線」
こちらは赤鬼が三味線を引いている様子を描いたもの。目は黄色くギョロッとしていて、大きな牙や角が生えています。しかし恐ろしいというよりは親しみを感じて、ギタリストみたいでかっこいいw なぜ鬼と三味線の組み合わせか分かりませんが中々ロックな絵でした。
この辺は「鬼の念仏」や「藤娘」など何度も出てきた主題の作品も並んでいます。作者によって味わいが変わるのも見どころかな。そういった意味では大津絵はスタンダード・ナンバーを即興でアレンジするジャズみたいなものかもw
3-11 「薙刀弁慶」
こちらは左手に刀を持ち、背中に様々な武器を背負った弁慶を描いた作品。左のほうを向いて右手で様子を伺うようなポーズをしています。その顔は青みがかっていて、何だかタコみたいな顔つき…w デフォルメ具合や絵としての収まりが良くて愛嬌もたっぷりでした。
3-22 「大黒外法の相撲」
こちらは山口財閥の当主 山口吉郎兵衛の旧蔵品で、大黒と外法(異教の者)と相撲をしている様子が描かれています。お互いに首に腕を巻きつけたり足を絡めたり、スープレックスでもしそうな体勢になっていて緊張感ある姿です。なのに顔はやけにニヤけているような…w そのせいでハシゴ酒しようと肩組んでいる酔っぱらいのようにも見えるw 何だか妙な味わいが癖になりそうな作品でした。
3-31 「頼光」
こちらは民藝運動を支えた医師の内田六郎から洋画家の小絲源太郎へと伝わった品で、酒呑童子を退治した源頼光が描かれています。源頼光は刀を持ち赤く厳しい表情をしているのですが、その兜に噛み付いている頭だけの酒呑童子の顔の方に目が行きます。源頼光の頭の3倍くらいはある大きな頭で、ギョロ目が中々のインパクトです。描写は粗めだけど迫力がありました。
3-44 「鬼の念仏(看板)」
こちらは北大路魯山人の旧蔵品で、先程もご紹介した主題です。ここでは板に描かれていて、木目も見えています。それが一層に素朴で力強い雰囲気となっていて面白い効果となっていました。元は大津絵を売っていた店の看板と考えられるのだとか。
他にも木に描かれた作品がありました。
<4.昭和戦後期の展開 ~知られざる大津絵コレクター~>
最後は昭和の戦後のコレクターについてのコーナーです。戦災で多くの名品が失われ、大津絵コレクターも亡くなってしまったためコレクションの大半は散逸し、一部は海外へと渡って欧米の博物館やピカソら芸術家にも渡って行きました。一方、柳宗悦が設立した日本民藝館は戦災を免れ、戦後最大のコレクター米浪庄弌からの寄贈などもあって国内最大のコレクションとなりました。また、洋画家の小絲源太郎は山内神斧や山村耕花と交流があり、戦後に彼らの旧蔵品や富岡鉄斎、梅原龍三郎(先述の「傘さす女」)などの名品を入手していたようです。しかし生前はそのコレクションはほとんど知られていなかったようで、この展覧会で初公開となる品も多いのだとか。ここにはそうした戦後のコレクターの作品が並んでいました。
4-16 「十三仏」
こちらは染色家の芹沢けい介のコレクションで、中央上部に大日如来、その下に3列×4段で12の諸仏菩薩明王が描かれています。と言ってもみんな顔は同じで、右下の不動明王だけ火炎の光背があって判別できます。仏達は同じ版木を使っているので同じ顔のようで、これは仏事の際に掛ける用途なのだとか。意図的なのか分かりませんが、同じ顔でも微妙に印刷がズレたような揺らぎがあるのが独特の味わいでした。
4-23 「天狗と象」
こちらは吉川観方から米浪庄弌に渡った品で、上部に天狗、下に象がいて 象の鼻が天狗の鼻に絡みついて引っ張り合いをしているようです。どちらも鼻の長いもの同士ってことだと思いますが、中々にナンセンスでシュールですw こういう肩肘張らない可笑しみが大津絵の魅力ですね。
ということで、愉快な絵ばかりで8ヶ月ぶりに美術館に足を運んだ甲斐がありました。貴重な機会でもあるので図録も買って大満足です。未だにコロナ禍の真っ只中なので外出をオススメする訳にはいきませんが、公式サイトには書留を使った図録の販売の案内もあるので、気になる方はチェックしてみてください。


【展覧名】
もうひとつの江戸絵画 大津絵
【公式サイト】
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202008_otsue.html
【会場】東京ステーションギャラリー
【最寄】東京駅
【会期】2020年9月19日(土)~11月8日(日)
※営業時間・休館日・地図・巡回などは公式サイトでご確認下さい。
【鑑賞所要時間(私のペースです)】
1時間00分程度
【混み具合・混雑状況】
混雑_1_2_③_4_5_快適
【作品充実度】
不足_1_2_3_④_5_充実
【理解しやすさ】
難解_1_2_3_④_5_明解
【総合満足度】
不満_1_2_3_4_⑤_満足
【感想】
この展示はローソンチケットでの事前予約制で、14時~15時の入場回のチケットを当日に買うことができました。簡単に取れたし平日だからそんなに混んでいないだろうと思ったら、結構お客さんが多くて場所によっては人だかりができていました。予約制は入場開始時間直後が混むので、少し間を開けたつもりだったんだけど…w
さて、この展示は江戸時代初期から東海道の大津周辺で量産された「大津絵」をテーマにしています。大津絵はお土産品の絵画で、最初は仏画だったものがより売れる絵となっていきました。当時は人気だったようですが護符などの実用品として扱われた為 現存作品は少なくなっています。江戸時代が終わると急速に失われていったものの、明治以降に多くの文化人を惹き付け 名だたる目利きたちが集めた品がこの展覧会に集まっています。大津絵がこれだけまとまって紹介される機会は滅多になく、私も非常に楽しみにしていました。展示は4章構成となっていましたので各章ごとの様子を書いていこうと思います。
<1.受容のはじまり ~秘蔵された大津絵~>
まずは大津絵がコレクションされるようになった頃のコーナーです。大津絵はいずれも作者不明の為、今回の展示ではかつて誰が所有していたか というコレクターごとの構成となっていて、この章では明治時代に蒐集を始めた洋画家の浅井忠や文人画の富岡鉄斎などの旧蔵品が並んでいました。
1-1 「瓢箪鯰」 ★こちらで観られます
こちらは富岡鉄斎から柳宗悦へと渡った品で、巨大な鯰の頭の上に瓢箪を押し付ける猿が描かれています。これは有名な禅問答を絵にしたもので、禅画ではよく観る主題です。しかしその表現が激ユルで、漫画というか戯画というかw キャラクターのような可愛さと可笑しさがあって親しみやすい画風です。また、左上には杯と共に教訓を含んだ「道歌」があり「無喜成功 是猿智慧 辛労只中 以湮押滑」と書かれているようです。見た目はゆるいけど教訓があるのは禅画に通じるものがあるかも??
この先、同じタイトル同じ構図の作品が何回も出てきます。先に3章にあった大津絵の特徴のまとめを書くと、
・江戸時代に大津宿近辺で売られた旅人相手のお土産物
・作者不詳
・旅の安全を祈る仏画からスタートし、次第に人気のある売れる絵になった。
・教訓を込めた歌「道歌」が添えられ江戸末期には護符となる
・画題をまとめると
聖:仏画、吉祥、庶民の神々
邪:鬼、雷
美男/美女/英雄:藤娘、鷹匠、為朝、源頼光
動物:猿、猫、馬、鯰、象、虎
などがあり、江戸末期には「大津絵十種」と呼ばれる画題に集約される
・和紙に木版やステンシルで単純な模様を作り、あとは手書き
・泥絵具と呼ばれる比較的安い絵具が使われている
・時代が下ると縦長の枠2枚を繋げたものから1枚へと簡略化された
・江戸時代が終わると急速に廃れた
・国内だけでなくピカソやジョアン・ミロも所有した
とのことです。
1-2 「大黒天」
こちらも富岡鉄斎の旧蔵品です。頭巾をかぶり 打ち出の小槌を持って大きな袋を担ぎ、米俵の上に立つ大黒天が描かれていて顔は黒くなっています。しかしその表情は印刷がズレたかのように目が顔からはみ出しているのが何とも言えない味わいです。まわりには流れるような文字で道歌が書かれていて、確かにこれは護符っぽい印象も受けました。
1-4 「雷と太鼓」
こちらは黒雲の中の赤鬼のような雷公が 地上に向かって錨のようなものを投げて落とした太鼓を拾おうとしている様子を描いたものです。怖いはずの雷がここでは滑稽な様子となっていて、懸命に手繰り寄せるのがちょっと可愛いw この画題は人気だったようで、後の大津絵十種にも残ったようです。この後にも同様の作品があります。
1-11 「猫と鼠」 ★こちらで観られます
こちらは鼠が自分と同じくらいの杯で酒を飲んでいる様子を描いたもので、隣で猫がそれを楽しそうに勧めています。傍から観ると魂胆ミエミエって感じでしょうか。酔わされた鼠の運命や如何に。 こうした動物の擬人化の主題も大津絵の特徴じゃないかな。この先の展示では猫と鼠が逆転していて猫が酒を飲んでいる作品もありました。
1-15 「提灯釣鐘」 ★こちらで観られます
こちらは洋画家の浅井忠が晩年の京都時代に蒐集した品で、擬人化された猿が肩に天秤を吊り下げ、足元には釣り鐘が置かれています。口をへの字に曲げた顔つきがトボけた感じに見えてちょっとイラッとくるw これは釣り鐘と提灯という釣り合わないものを天秤にかける滑稽さを描いているんじゃないかな。簡潔な線ですらっと描かれた体つきとか、下手なようで結構上手い画家が描いたのではないかと思えました。
この辺には浅井忠がコレクションした品が並んでいました。懐月堂派の浮世絵のような「太夫」などはお土産品とは思えないほどの出来栄えです。浅井忠は晩年の図案作成に大津絵も取り入れたりしています。
参考記事:《浅井忠》 作者別紹介
1-21 「鬼の行水」 ★こちらで観られます
こちらは小説家の渡辺霞亭の旧蔵品で、今回のポスターにもなっているオレンジ色の鬼です。大津絵の魅力を凝縮したような、緩さと滑稽さと軽妙洒脱な雰囲気となっていて、表情も憎めないw 慎重にお湯に入ろうとする瞬間の様子が見事に表されているように思えました。これは確かに名作です。
この辺は渡辺霞亭や同時期のコレクターの旧蔵品が並んでいました。「相撲」など躍動感溢れる作品もあります。
<2.大津絵ブーム到来 ~芸術家のコレクション~>
続いては大津絵がブームになった時代のコーナーです。大正期に入ると大津絵はコレクターズアイテムとして認知されたようで、多くのコレクターが台頭して競うように集めました。1912年(明治45年)には「吾八」で大津絵展が開かれ、吾八のオーナーの山内神斧はコレクターでもあり仲介者としての役割も果たしました。この時期のコレクターの中には浅井忠に師事した洋画家の梅原龍三郎などもいたようです。
2-1 「鬼の念仏」 ★こちらで観られます
こちらは山内神斧の旧蔵品で、鬼が僧の格好をして歩く姿が描かれています。大きな牙に真っ赤な肌、足の爪は獣のように尖っていて、荒々しい雰囲気です。タッチや簡略化の仕方にも勢いがあって存在感のある絵となっています。鬼と念仏は真逆な存在だと思うんだけど、それを1つにしてしまうのが面白い所ですね。この主題も頻出となっています。(同じ章の山村耕花の旧蔵品も良かった)
ちなみに山内神斧は日本画家でもあります。そのせいか旧蔵品は面白い作品ばかりです。
吉川観方 編集 「大津絵」
こちらは日本画家の吉川観方が自ら所有した26図の大津絵を編集して作った画集です。26枚ズラりと並び、ここまで出てきた主題や藤娘や鷹匠など定番となった主題もあって正に大津絵の縮図とも言えるような画集となっています。解説はないものの画風に割と統一感もあって、大津絵に相当に精通していた様子が伺えました。
2-14 「座頭」
これは山村耕花の旧蔵品で、やはり頻出の画題です。三味線を背負った盲目の坊主が歩いている所、犬がふんどしを噛んで引っ張っている様子が描かれています。パッと観ただけではちょっと意味不明w 解説によると、目の不自由な座頭は幕府によって保護され、特権的に金貸しを許されていたそうで庶民から敬遠される存在だったようです。それで犬にふんどしを引っ張られて困惑する様子が人気になったのだとか。ちょっと意地悪な感じはしますが、シュールな印象を受けましたw
この辺で下の階へと続きます。
2-22 「傘さす女」 ★こちらで観られます
こちらは梅原龍三郎の旧蔵品で、これも頻出画題の1つです。着物の女性が傘を持って立つ姿が描かれ、簡略化されていて中々の曲線美を感じます。顔はヘタウマにも思えるけど味わいがあって、これを観た岸田劉生は「これだけの味のあるものは一寸世界的に稀であらう」と言ったのだとか。巨匠たちにそこまで愛されるとは凄いことです。
<3.民画としての確立 ~柳宗悦が提唱した民藝と大津絵~>
続いては民藝運動の中心人物である柳宗悦に関する品々のコーナーです。柳宗悦が大津絵を集めたのは他のコレクターに比べると遅めでしたが、先述の浅井忠や富岡鉄斎の旧蔵品などの逸品に焦点を当てて集めていったようです。また、江戸時代の文献などを調べて成り立ちや画題を整理し『初期大津絵』にまとめ、「民画」として位置づけました。ここにはそうした時代のコレクターの品が並んでいました。
3-2 「阿弥陀三尊来迎図」
こちらは阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が描かれた仏画で、阿弥陀如来の光背が画面に放射状に凄い勢いで広がっています。絵はちょっとヘタウマだけど割と真面目な雰囲気かな。他の大津絵よりもサイズが大きめで、柳宗悦は現存する大津絵の中でも最古のものの1つと考えていたようです。大津絵のルーツ的な作品なので一際貴重な逸品ではないかと思います。
この辺には仏画が並んでいました。聞いたことがない神仏もいたかな。
3-7 「達磨大師」
こちらは達磨大師の肖像を描いたもので、顔は細めの輪郭、体は大胆な墨の流れで描かれています。ギョロッとした目をしたやや漫画チックな顔つきですが、少ない線で特徴をよく捉えていて作者の描写力の高さが伺えます。現存する大津絵の中で達磨の主題はこれだけらしく、これも貴重な品となっています。
3-10 「鬼の三味線」
こちらは赤鬼が三味線を引いている様子を描いたもの。目は黄色くギョロッとしていて、大きな牙や角が生えています。しかし恐ろしいというよりは親しみを感じて、ギタリストみたいでかっこいいw なぜ鬼と三味線の組み合わせか分かりませんが中々ロックな絵でした。
この辺は「鬼の念仏」や「藤娘」など何度も出てきた主題の作品も並んでいます。作者によって味わいが変わるのも見どころかな。そういった意味では大津絵はスタンダード・ナンバーを即興でアレンジするジャズみたいなものかもw
3-11 「薙刀弁慶」
こちらは左手に刀を持ち、背中に様々な武器を背負った弁慶を描いた作品。左のほうを向いて右手で様子を伺うようなポーズをしています。その顔は青みがかっていて、何だかタコみたいな顔つき…w デフォルメ具合や絵としての収まりが良くて愛嬌もたっぷりでした。
3-22 「大黒外法の相撲」
こちらは山口財閥の当主 山口吉郎兵衛の旧蔵品で、大黒と外法(異教の者)と相撲をしている様子が描かれています。お互いに首に腕を巻きつけたり足を絡めたり、スープレックスでもしそうな体勢になっていて緊張感ある姿です。なのに顔はやけにニヤけているような…w そのせいでハシゴ酒しようと肩組んでいる酔っぱらいのようにも見えるw 何だか妙な味わいが癖になりそうな作品でした。
3-31 「頼光」
こちらは民藝運動を支えた医師の内田六郎から洋画家の小絲源太郎へと伝わった品で、酒呑童子を退治した源頼光が描かれています。源頼光は刀を持ち赤く厳しい表情をしているのですが、その兜に噛み付いている頭だけの酒呑童子の顔の方に目が行きます。源頼光の頭の3倍くらいはある大きな頭で、ギョロ目が中々のインパクトです。描写は粗めだけど迫力がありました。
3-44 「鬼の念仏(看板)」
こちらは北大路魯山人の旧蔵品で、先程もご紹介した主題です。ここでは板に描かれていて、木目も見えています。それが一層に素朴で力強い雰囲気となっていて面白い効果となっていました。元は大津絵を売っていた店の看板と考えられるのだとか。
他にも木に描かれた作品がありました。
<4.昭和戦後期の展開 ~知られざる大津絵コレクター~>
最後は昭和の戦後のコレクターについてのコーナーです。戦災で多くの名品が失われ、大津絵コレクターも亡くなってしまったためコレクションの大半は散逸し、一部は海外へと渡って欧米の博物館やピカソら芸術家にも渡って行きました。一方、柳宗悦が設立した日本民藝館は戦災を免れ、戦後最大のコレクター米浪庄弌からの寄贈などもあって国内最大のコレクションとなりました。また、洋画家の小絲源太郎は山内神斧や山村耕花と交流があり、戦後に彼らの旧蔵品や富岡鉄斎、梅原龍三郎(先述の「傘さす女」)などの名品を入手していたようです。しかし生前はそのコレクションはほとんど知られていなかったようで、この展覧会で初公開となる品も多いのだとか。ここにはそうした戦後のコレクターの作品が並んでいました。
4-16 「十三仏」
こちらは染色家の芹沢けい介のコレクションで、中央上部に大日如来、その下に3列×4段で12の諸仏菩薩明王が描かれています。と言ってもみんな顔は同じで、右下の不動明王だけ火炎の光背があって判別できます。仏達は同じ版木を使っているので同じ顔のようで、これは仏事の際に掛ける用途なのだとか。意図的なのか分かりませんが、同じ顔でも微妙に印刷がズレたような揺らぎがあるのが独特の味わいでした。
4-23 「天狗と象」
こちらは吉川観方から米浪庄弌に渡った品で、上部に天狗、下に象がいて 象の鼻が天狗の鼻に絡みついて引っ張り合いをしているようです。どちらも鼻の長いもの同士ってことだと思いますが、中々にナンセンスでシュールですw こういう肩肘張らない可笑しみが大津絵の魅力ですね。
ということで、愉快な絵ばかりで8ヶ月ぶりに美術館に足を運んだ甲斐がありました。貴重な機会でもあるので図録も買って大満足です。未だにコロナ禍の真っ只中なので外出をオススメする訳にはいきませんが、公式サイトには書留を使った図録の販売の案内もあるので、気になる方はチェックしてみてください。
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今日は作者別紹介で、つとに有名なポスト印象派の画家ポール・ゴーギャン(ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン/ゴーガン)を取り上げます。ゴーギャンは印象派として画業をスタートし、ポン=タヴェンで後のナビ派となる画家たちに大きな影響を与え、アルルではゴッホとの共同生活を行ったことが知られています。また、未開の地への憧れからタヒチに2度渡り、プリミティブな描写と強い色彩の作品を残しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
ゴーギャンは1848年にパリで生まれ、幼くしてペルーに移住し4年ほどリマで過ごしています。7歳の時にフランスに戻り地元の学校やカトリック系の寄宿学校で学んでいました。学校を出てからは商船で働き世界を旅したり 海軍で兵役を務め、23歳の時から株式仲買人として11年間働いています。この仕事は成功してこの頃は裕福だったようで、25歳(1873年頃)の頃から余暇に絵を描き始めて印象派の集まる画廊を訪れて作品購入などもしていました。そしてカミーユ・ピサロと知り合い絵の手ほどきも受けています。1876年にはサロンで入選も果たし、一方で第4回印象派展から最後の第8回まで参加するなど絵画にのめり込んで行きました。1882年にパリの株式市場が大暴落するとゴーギャンは絵に専念することを考え始め、ピサロやセザンヌと一時期活動を共にしています。しかし生活は上手くいかず 奥さんが実家のコペンハーゲンに帰ってしまうと、それを追ってゴーギャンもコペンハーゲンに行っています。コペンハーゲンでは職に就いて働いたものの言葉が分からず失敗し、奥さんに食わせて貰う状態となりました。そして家族を残し(息子を1人だけ連れて)再びパリへと戻り、コペンハーゲンの奥さんからの支援を受けながら画家として本格的に取り組むことになりました。
残念ながら1885年以前の作品の写真は見つかりませんでした。パリに戻る37歳頃から晩年までご紹介していきます。
ポール・ゴーギャン 「水浴の女たち」

こちらはパリに戻る1885年の作品。薄い緑の海で手を取り合う4人の女性の絵で、のんびりした雰囲気です。まだ印象派っぽい作風ですが自然と純朴な水浴が主題となっていて、既に脱文明的なニュアンスを感じるかな。
パリに戻っても生活が苦しいのは相変わらずで、病気がちな息子もいる中で様々な仕事も行っていたようです。客観的に考えれば画業に専念どころじゃない状況かも。それもあって、翌年の1886年には生活費が安いブルターニュ地方のポン=タヴェンに滞在して活動しました。
ポール・ゴーギャン 「白いテーブルクロス」

こちらは1886年の作品で、ポン=タヴェンで滞在した下宿屋の夫人に贈られたものです。明るく爽やかな色彩で、壁の筆致なども含めて印象派っぽさが強めの画風です。ちょっと変わった形の水差しはブルターニュ地方の伝統的なものなのだとか。
この年にエドガー・ドガや、総合主義の共同提唱者となるエミール・ベルナール、シャルル=ラヴァルなどと出会っています。ドガから裸婦の主題の影響を受けたり、ポン=タヴェン派へと発展する画家仲間との出会いのあった非常に重要な年と言えそうです。
ポール・ゴーギャン 「馬の頭部のある静物」

こちらも1886年の作品。ちょっと点描のようなゴーギャンのイメージとは異なる画風に思えるかな(ゴーギャンは点描の新印象主義は嫌いで、それが元でこの絵の少し前にピサロと仲違いしています) 描かれているものは中国風の人形や団扇など東洋趣味の品々で、当時の印象派や後のナビ派と同様に関心が深かったことが伺えます。
1886年の5月には最後となる第8回印象派展も開催されています。ゴーギャンも19点の絵画と1点の木のレリーフを出展していますが、殆どはコペンハーゲンより前の頃の作品だったようです。ちなみに印象派展に初参加した第4回には絵画ではなく彫刻で参加していました。
ポール・ゴーギャン 「マルティニック島の情景」

こちらは1887年の作品。扇形に鉛筆や水彩などで描かれていて、ジャポニスムの影響を受けた扇形となっています。水彩やパステルを使っているのに以前よりも色が対比的で強く感じられます。うねる木々や足を組む女性など全体的に生き生きとした雰囲気が増しているようにも思えるかな。
この年、シャルル=ラヴァルと共にパナマやカリブ海のマルティニック島に滞在しています。パナマ滞在中に破産して本国に戻ることになったようですが、マルティニック島で半年ほど過ごし 現地の様子を描きました。
こちらはセットの作品。

タヒチ以前にもこうした原初的な風景に憧れていたのがよく分かります。と言うか初めて観た時はタヒチの絵かと思ってしまったw 頭に物を乗っけている子はインドっぽい仕草に思えますが、この島にはインド系移民の村もあったようです。この島を訪れた後、インド的なモチーフも登場していくのだとか。
こうしたマルティニック島での作品はパリに持ち帰られ、画商のテオを通してゴッホも観ています。感銘を受けたゴッホはゴーギャンと親しくなり、画家たちの共同生活の夢を描くようになりました。
ポール・ゴーギャン 「ブルターニュ風景」

こちらは1888年の作品で、2回目のポン=タヴェン滞在時期の頃だと思われます。この時期のゴーギャンらしさを感じるけどまだ印象派風な感じです。抑えめだけど対比的な色使いとなっていますね。
この1888年にポール・セリュジエがポール・ゴーギャンに教えを受けて描いた「タリスマン(護符)」を仲間に見せたのをきっかけに「ナビ派」が結成されています。アカデミーの正確な描写と全く異なるゴーギャンの理論に衝撃を受け、セリュジエは教えを受けたその翌日にはパリへと戻り仲間に伝えたというのだから その興奮ぶりが伺えるエピソードです。それにしてもタリスマンのほうがこの絵より抽象化が進んでいるのは何故なんだろうかw
ポール・ゴーギャン 「ポン=タヴェン付近の風景」

こちらも1888年の作品でポン=タヴェン付近を描いています。誰もいない寂しい光景で、荒涼とした印象を受けます。空はどんよりして色も沈みがちですね。
この1888年にはエミール・ベルナールと共に総合主義を成立させたり、年末の9週間はゴッホとの共同生活を行っています。ゴッホがバルビゾン村のような共同生活を画家たちに呼びかけ、それに応じた唯一の画家がゴーギャンだった訳ですが、理想に共感したというよりはゴッホの弟のテオの支援金が目当てでした。自然を描きたいゴッホと 象徴的な世界を描きたいゴーギャンではお互いの目指す芸術には隔たりがあり、強烈な個性も相まって長くは持ちませんでしたがお互いに影響を受けた作品を残しています。(ゴーギャンの神秘主義への傾倒を取り込み、ゴーギャン風に厚塗りしない表現で描いたゴッホの作品が残っています) しかし有名なゴッホの耳切り事件によって2人は決裂し、ゴッホは精神病院へ送られゴーギャンはアルルを去りました。その後2人は再会することはなかったものの、手紙のやり取りは続いていたようです。なお、貴重なアルル時代のゴーギャンの作品にはSOMPO美術館の「アリスカンの並木路、アルル」などがあります。
ポール・ゴーギャン 「乾草」

こちらは1889年の作品。森の中で作業する人と、猫の姿がポツンとして目を引きます。静かで哀愁漂う光景かな。
この1889年にはパリ万国博覧会で最初の象徴主義展が開催されています。翌年の1890年にはルドンやマラルメなどの象徴主義の画家たちと交友を重ねていたようです。
ポール・ゴーギャン 「海辺に立つブルターニュの少女たち」

こちらは1889年の作品で、製作年から察するに3回目のポン=タヴェン滞在の頃に描かれたものだと思います。先程の絵から一気に画風が代わっていて、平坦で様式化された表現は日本の浮世絵からの影響も指摘されます。着ているのはこの地方独特の民族衣装で、ゴーギャンがブルターニュを好んだのは こうした古代ケルトの文化を残す文化に惹かれていた為です。色は一層明るく強くなっていて、プリミティブな雰囲気が漂います。
この頃からゴーギャンは平坦な色面に強い輪郭線を持った「クロワゾニスム」という手法をよく使うようになっています。これは中世の七宝焼き(クロワゾネ)の装飾技法から名付けられたもので、観るものに強い印象を与えます。形態と色彩の両面が等しい役割を持つ「綜合主義」の1つの表れです。
ポール・ゴーギャン 「異国のエヴァ」

これは1890または1894年の水彩で、一見するとタヒチの様子のように見えますが、タヒチに行く前にパリ万博で観た異国の品を観たのを元に描いていると考えられているようです。森の中に立つ裸婦とリンゴの木に絡む蛇の存在がアダムの妻のエヴァ(イヴ)を思わせます。やや素朴な画風に見え、原始を求めたゴーギャンの指向性が感じられますね。このエヴァの要望は母の写真を基に描いたのだとか。
この頃からゴーギャンは未開の地を求めてタヒチへの旅行を思い描くようになっていました。その下地には幼少期のペルーでの生活などもあったようで、文明社会から離れたいという思いがありました。
ポール・ゴーギャン 「画家スレヴィンスキーの肖像」

こちらは1891年の作品で、タヒチに行く直前と思われます。人物やテーブルにはクロワゾニスムの黒い輪郭線と色面のような表現が使われていているけど、花には使われていません。そのせいか花束が明るく見えて手前に浮いてくるような印象を受けます。花束の後ろの白いものは何だろう…w 絵でも飾っているんでしょうか?? 立体感がないので並列に見えるw
この年にはエミール・ベルナールと喧嘩分かれし、旅の資金が出来たのでタヒチへと旅立ちました。
ポール・ゴーギャン 「タヒチの女たち」のポスター

こちらは1891年の作品で、最初のタヒチ時代の代表作です。砂浜で座る2人の女性が描かれ、左は片手をついて足を伸ばす赤と白のパレオ(スカートみたいな民族衣装)の女性で、目をつぶって波の音でも聞いていそうな感じです。右はピンク色のワンピースの女性で、手で何かを編みながらチラっと右の方をみています。左の女性の曲線と、右の女性の丸みが響き合っていて、背景の水平線が効果的な構図となっています。色の鮮やかさと素朴な雰囲気が生命感を感じさせる傑作です。
ゴッホはこのタヒチへの渡航で多くの傑作を残しています。タヒチ=文明化していない楽園と思ってきたものの、この時代でも文明化の波は着ていたようです。しかし、現地の風習や伝承に興味を持ち 失われつつある独特の文化に触れて作品に取り入れ、明らかに作品に力強さとダイナミックさが増した時期だと思います。
ちなみにタヒチでは13歳の少女を現地妻(ゴーギャンは42歳!)としていたりします。そんな感じでタヒチを離れる意志は無かったと思われますが、滞在費用が尽きて心臓病の病状が出たので2年後の1893年にフランスに帰国しました。
ポール・ゴーギャン 「パレットを持つ自画像」の映像

こちらは1893年の作品。帰国した後か分かりませんが、この頃の自分の姿を描いていて中世の画家か聖人か?という雰囲気を湛えています。(実際には気難しい人物ですが…w) この絵を観る限り穏やかな眼差しと厳格さが同居しているように感じます。
この頃は貧乏でカツカツの生活だったようです。パリに戻ってから発表したタヒチ作品の評価は低かったようで、ゴーギャンは版画で魅力を伝えようと考え版画製作に取り組みました。それがこのノアノアの一連の作品です。
ポール・ゴーギャン 「ノア・ノア(かぐわしい)」

こちらは1893~94年頃の作品で、ノアノアっていうのはタヒチで「かぐわしい」という意味です。手前に人や獣(犬?)の姿、奥にも人の姿がありタヒチでの暮らしぶりを伝えているようです。線描もかなり簡略化されていて、素朴で力強い表現に思えます。ちなみにゴーギャンの作品には犬がよく出てきますが、犬はゴーギャン本人を表しているようです。
この版画シリーズには3つの種類があって以下のようになります。
【自刷り】 自分で刷った1点もの。あえてぼやけた感じに仕上がっている。
【ルイ・ロワ版】 黄色や赤が鮮やかな刷り
【ポーラ版】 モノクロで彫り目がくっきり現れる刷り。細部まで分かりやすい
ポール・ゴーギャン 「ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)」

こちらもノア・ノアのシリーズの1枚。こちらは黄色や赤が鮮やかなのでルイ・ロワ版かな? 南国らしい花や木を描いていると共に、旧約聖書の失楽園をテーマにしていて、女性の顔のすぐ左には赤い羽の生えたトカゲ?がいます。これは蛇で、女性はエヴァを表しているようです。ゴーギャンのタヒチ観が伺えますね。色鮮やかで版画でも見栄えのする作品です。
1894年にポール・デュラン=リュエルの画廊で開催した個展では40点中11点が売れ、高値がついたようです。一方でアンブロワーズ・ヴォラールの画廊でも展示されていて、2度目のタヒチ渡航後もゴーギャンの作品を取り扱っています。この時期にはアンドレ・マルティが企画し、著名な画家や版画家から新人に至るまで幅広い人々を起用した「レスタンプ・オリジナル」という版画集にも作品を提供するなど、意外と名が売れていたようなエピソードもあります。しかし妻とは金銭を巡って争っていたり、エミール・ベルナールに批判記事を書かれたりしていて、再び逃げるように1895年にタヒチを目指しました。
ポール・ゴーギャン 「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへいくのか」の映像

こちらは2度目のタヒチ渡航時の1897年の作品で、ゴーギャンの集大成とも言える代表作です。今まで使ってきたモチーフやポーズを駆使し、右側から左側に向かって誕生から死、再生までを描いています。
この絵を観て真っ先に目に付くのが林檎をもぎ取っている人と青い女神像です。もぎ取ってる人は生命感があるので、これが命の象徴なのかな? 逆にボーっと浮き上がるような青色の女神は死を連想しますが、実は再生の神のようです。1枚の中にゴーギャンのすべてを注ぎ込み、生死という根源的なテーマを扱ったこの作品は、文句無く最高傑作だと思います。139cm×374cmという作品の大きさからも圧倒的なオーラが漂っています。
この2度目のタヒチ渡航を最後にフランスに戻ることはありませんでした。タヒチ滞在時に娘の死の知らせが舞い込み、絶望したゴーギャンは自殺すらも考えたようです。そしてその遺言としてこの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描きました。
ポール・ゴーギャン 「テ・アトゥア(神々)」

1899年の作品。現地での神の様子が描かれ、神秘的かつ原初的な雰囲気となっています。
タヒチでは徐々に絵の売上も上がり、生活は安定していったようです。大きなアトリエを持ち現地での政治的な地位も高まっていきました。そして資金にも余裕が出来た為、より未開を目指してパペーテからマルキーズ諸島へと移っていきました。
ポール・ゴーギャン 「Paysage」

こちらは1901年の作品で、日本語にすると「風景」です。詳細が無いのでパペーテかマルキーズ諸島か分かりませんが、青や緑の多い爽やかな色彩で現地の空気感が伝わってきます。一方で2人の人物の後ろ姿が何とも象徴的で寂しげに思えるかな。
この頃はマルキーズ諸島も西欧化が進んでいたようで、教会やミッションスクールなどの在り方について教会とぶつかっています。最晩年には原地民を擁護して現地の教会や官憲と対立し 裁判で禁固三ヶ月の判決を受けていますが、持病が悪化し1903年に亡くなりました。
ということで波乱万丈の人生となっています。経歴や言動を観ると人格は褒められたものではないですが、その芸術は後世まで大きな影響を与え今でも人気の画家となっています。各地の美術館や大型展で観る機会も多いので、詳しく知っておくと鑑賞の際に深い見方が出来ると思います。
参考記事:
ゴーギャン展2009 (東京国立近代美術館)
映画「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」(ややネタバレあり)
ゴーギャンは1848年にパリで生まれ、幼くしてペルーに移住し4年ほどリマで過ごしています。7歳の時にフランスに戻り地元の学校やカトリック系の寄宿学校で学んでいました。学校を出てからは商船で働き世界を旅したり 海軍で兵役を務め、23歳の時から株式仲買人として11年間働いています。この仕事は成功してこの頃は裕福だったようで、25歳(1873年頃)の頃から余暇に絵を描き始めて印象派の集まる画廊を訪れて作品購入などもしていました。そしてカミーユ・ピサロと知り合い絵の手ほどきも受けています。1876年にはサロンで入選も果たし、一方で第4回印象派展から最後の第8回まで参加するなど絵画にのめり込んで行きました。1882年にパリの株式市場が大暴落するとゴーギャンは絵に専念することを考え始め、ピサロやセザンヌと一時期活動を共にしています。しかし生活は上手くいかず 奥さんが実家のコペンハーゲンに帰ってしまうと、それを追ってゴーギャンもコペンハーゲンに行っています。コペンハーゲンでは職に就いて働いたものの言葉が分からず失敗し、奥さんに食わせて貰う状態となりました。そして家族を残し(息子を1人だけ連れて)再びパリへと戻り、コペンハーゲンの奥さんからの支援を受けながら画家として本格的に取り組むことになりました。
残念ながら1885年以前の作品の写真は見つかりませんでした。パリに戻る37歳頃から晩年までご紹介していきます。
ポール・ゴーギャン 「水浴の女たち」

こちらはパリに戻る1885年の作品。薄い緑の海で手を取り合う4人の女性の絵で、のんびりした雰囲気です。まだ印象派っぽい作風ですが自然と純朴な水浴が主題となっていて、既に脱文明的なニュアンスを感じるかな。
パリに戻っても生活が苦しいのは相変わらずで、病気がちな息子もいる中で様々な仕事も行っていたようです。客観的に考えれば画業に専念どころじゃない状況かも。それもあって、翌年の1886年には生活費が安いブルターニュ地方のポン=タヴェンに滞在して活動しました。
ポール・ゴーギャン 「白いテーブルクロス」

こちらは1886年の作品で、ポン=タヴェンで滞在した下宿屋の夫人に贈られたものです。明るく爽やかな色彩で、壁の筆致なども含めて印象派っぽさが強めの画風です。ちょっと変わった形の水差しはブルターニュ地方の伝統的なものなのだとか。
この年にエドガー・ドガや、総合主義の共同提唱者となるエミール・ベルナール、シャルル=ラヴァルなどと出会っています。ドガから裸婦の主題の影響を受けたり、ポン=タヴェン派へと発展する画家仲間との出会いのあった非常に重要な年と言えそうです。
ポール・ゴーギャン 「馬の頭部のある静物」

こちらも1886年の作品。ちょっと点描のようなゴーギャンのイメージとは異なる画風に思えるかな(ゴーギャンは点描の新印象主義は嫌いで、それが元でこの絵の少し前にピサロと仲違いしています) 描かれているものは中国風の人形や団扇など東洋趣味の品々で、当時の印象派や後のナビ派と同様に関心が深かったことが伺えます。
1886年の5月には最後となる第8回印象派展も開催されています。ゴーギャンも19点の絵画と1点の木のレリーフを出展していますが、殆どはコペンハーゲンより前の頃の作品だったようです。ちなみに印象派展に初参加した第4回には絵画ではなく彫刻で参加していました。
ポール・ゴーギャン 「マルティニック島の情景」

こちらは1887年の作品。扇形に鉛筆や水彩などで描かれていて、ジャポニスムの影響を受けた扇形となっています。水彩やパステルを使っているのに以前よりも色が対比的で強く感じられます。うねる木々や足を組む女性など全体的に生き生きとした雰囲気が増しているようにも思えるかな。
この年、シャルル=ラヴァルと共にパナマやカリブ海のマルティニック島に滞在しています。パナマ滞在中に破産して本国に戻ることになったようですが、マルティニック島で半年ほど過ごし 現地の様子を描きました。
こちらはセットの作品。

タヒチ以前にもこうした原初的な風景に憧れていたのがよく分かります。と言うか初めて観た時はタヒチの絵かと思ってしまったw 頭に物を乗っけている子はインドっぽい仕草に思えますが、この島にはインド系移民の村もあったようです。この島を訪れた後、インド的なモチーフも登場していくのだとか。
こうしたマルティニック島での作品はパリに持ち帰られ、画商のテオを通してゴッホも観ています。感銘を受けたゴッホはゴーギャンと親しくなり、画家たちの共同生活の夢を描くようになりました。
ポール・ゴーギャン 「ブルターニュ風景」

こちらは1888年の作品で、2回目のポン=タヴェン滞在時期の頃だと思われます。この時期のゴーギャンらしさを感じるけどまだ印象派風な感じです。抑えめだけど対比的な色使いとなっていますね。
この1888年にポール・セリュジエがポール・ゴーギャンに教えを受けて描いた「タリスマン(護符)」を仲間に見せたのをきっかけに「ナビ派」が結成されています。アカデミーの正確な描写と全く異なるゴーギャンの理論に衝撃を受け、セリュジエは教えを受けたその翌日にはパリへと戻り仲間に伝えたというのだから その興奮ぶりが伺えるエピソードです。それにしてもタリスマンのほうがこの絵より抽象化が進んでいるのは何故なんだろうかw
ポール・ゴーギャン 「ポン=タヴェン付近の風景」

こちらも1888年の作品でポン=タヴェン付近を描いています。誰もいない寂しい光景で、荒涼とした印象を受けます。空はどんよりして色も沈みがちですね。
この1888年にはエミール・ベルナールと共に総合主義を成立させたり、年末の9週間はゴッホとの共同生活を行っています。ゴッホがバルビゾン村のような共同生活を画家たちに呼びかけ、それに応じた唯一の画家がゴーギャンだった訳ですが、理想に共感したというよりはゴッホの弟のテオの支援金が目当てでした。自然を描きたいゴッホと 象徴的な世界を描きたいゴーギャンではお互いの目指す芸術には隔たりがあり、強烈な個性も相まって長くは持ちませんでしたがお互いに影響を受けた作品を残しています。(ゴーギャンの神秘主義への傾倒を取り込み、ゴーギャン風に厚塗りしない表現で描いたゴッホの作品が残っています) しかし有名なゴッホの耳切り事件によって2人は決裂し、ゴッホは精神病院へ送られゴーギャンはアルルを去りました。その後2人は再会することはなかったものの、手紙のやり取りは続いていたようです。なお、貴重なアルル時代のゴーギャンの作品にはSOMPO美術館の「アリスカンの並木路、アルル」などがあります。
ポール・ゴーギャン 「乾草」

こちらは1889年の作品。森の中で作業する人と、猫の姿がポツンとして目を引きます。静かで哀愁漂う光景かな。
この1889年にはパリ万国博覧会で最初の象徴主義展が開催されています。翌年の1890年にはルドンやマラルメなどの象徴主義の画家たちと交友を重ねていたようです。
ポール・ゴーギャン 「海辺に立つブルターニュの少女たち」

こちらは1889年の作品で、製作年から察するに3回目のポン=タヴェン滞在の頃に描かれたものだと思います。先程の絵から一気に画風が代わっていて、平坦で様式化された表現は日本の浮世絵からの影響も指摘されます。着ているのはこの地方独特の民族衣装で、ゴーギャンがブルターニュを好んだのは こうした古代ケルトの文化を残す文化に惹かれていた為です。色は一層明るく強くなっていて、プリミティブな雰囲気が漂います。
この頃からゴーギャンは平坦な色面に強い輪郭線を持った「クロワゾニスム」という手法をよく使うようになっています。これは中世の七宝焼き(クロワゾネ)の装飾技法から名付けられたもので、観るものに強い印象を与えます。形態と色彩の両面が等しい役割を持つ「綜合主義」の1つの表れです。
ポール・ゴーギャン 「異国のエヴァ」

これは1890または1894年の水彩で、一見するとタヒチの様子のように見えますが、タヒチに行く前にパリ万博で観た異国の品を観たのを元に描いていると考えられているようです。森の中に立つ裸婦とリンゴの木に絡む蛇の存在がアダムの妻のエヴァ(イヴ)を思わせます。やや素朴な画風に見え、原始を求めたゴーギャンの指向性が感じられますね。このエヴァの要望は母の写真を基に描いたのだとか。
この頃からゴーギャンは未開の地を求めてタヒチへの旅行を思い描くようになっていました。その下地には幼少期のペルーでの生活などもあったようで、文明社会から離れたいという思いがありました。
ポール・ゴーギャン 「画家スレヴィンスキーの肖像」

こちらは1891年の作品で、タヒチに行く直前と思われます。人物やテーブルにはクロワゾニスムの黒い輪郭線と色面のような表現が使われていているけど、花には使われていません。そのせいか花束が明るく見えて手前に浮いてくるような印象を受けます。花束の後ろの白いものは何だろう…w 絵でも飾っているんでしょうか?? 立体感がないので並列に見えるw
この年にはエミール・ベルナールと喧嘩分かれし、旅の資金が出来たのでタヒチへと旅立ちました。
ポール・ゴーギャン 「タヒチの女たち」のポスター

こちらは1891年の作品で、最初のタヒチ時代の代表作です。砂浜で座る2人の女性が描かれ、左は片手をついて足を伸ばす赤と白のパレオ(スカートみたいな民族衣装)の女性で、目をつぶって波の音でも聞いていそうな感じです。右はピンク色のワンピースの女性で、手で何かを編みながらチラっと右の方をみています。左の女性の曲線と、右の女性の丸みが響き合っていて、背景の水平線が効果的な構図となっています。色の鮮やかさと素朴な雰囲気が生命感を感じさせる傑作です。
ゴッホはこのタヒチへの渡航で多くの傑作を残しています。タヒチ=文明化していない楽園と思ってきたものの、この時代でも文明化の波は着ていたようです。しかし、現地の風習や伝承に興味を持ち 失われつつある独特の文化に触れて作品に取り入れ、明らかに作品に力強さとダイナミックさが増した時期だと思います。
ちなみにタヒチでは13歳の少女を現地妻(ゴーギャンは42歳!)としていたりします。そんな感じでタヒチを離れる意志は無かったと思われますが、滞在費用が尽きて心臓病の病状が出たので2年後の1893年にフランスに帰国しました。
ポール・ゴーギャン 「パレットを持つ自画像」の映像

こちらは1893年の作品。帰国した後か分かりませんが、この頃の自分の姿を描いていて中世の画家か聖人か?という雰囲気を湛えています。(実際には気難しい人物ですが…w) この絵を観る限り穏やかな眼差しと厳格さが同居しているように感じます。
この頃は貧乏でカツカツの生活だったようです。パリに戻ってから発表したタヒチ作品の評価は低かったようで、ゴーギャンは版画で魅力を伝えようと考え版画製作に取り組みました。それがこのノアノアの一連の作品です。
ポール・ゴーギャン 「ノア・ノア(かぐわしい)」

こちらは1893~94年頃の作品で、ノアノアっていうのはタヒチで「かぐわしい」という意味です。手前に人や獣(犬?)の姿、奥にも人の姿がありタヒチでの暮らしぶりを伝えているようです。線描もかなり簡略化されていて、素朴で力強い表現に思えます。ちなみにゴーギャンの作品には犬がよく出てきますが、犬はゴーギャン本人を表しているようです。
この版画シリーズには3つの種類があって以下のようになります。
【自刷り】 自分で刷った1点もの。あえてぼやけた感じに仕上がっている。
【ルイ・ロワ版】 黄色や赤が鮮やかな刷り
【ポーラ版】 モノクロで彫り目がくっきり現れる刷り。細部まで分かりやすい
ポール・ゴーギャン 「ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)」

こちらもノア・ノアのシリーズの1枚。こちらは黄色や赤が鮮やかなのでルイ・ロワ版かな? 南国らしい花や木を描いていると共に、旧約聖書の失楽園をテーマにしていて、女性の顔のすぐ左には赤い羽の生えたトカゲ?がいます。これは蛇で、女性はエヴァを表しているようです。ゴーギャンのタヒチ観が伺えますね。色鮮やかで版画でも見栄えのする作品です。
1894年にポール・デュラン=リュエルの画廊で開催した個展では40点中11点が売れ、高値がついたようです。一方でアンブロワーズ・ヴォラールの画廊でも展示されていて、2度目のタヒチ渡航後もゴーギャンの作品を取り扱っています。この時期にはアンドレ・マルティが企画し、著名な画家や版画家から新人に至るまで幅広い人々を起用した「レスタンプ・オリジナル」という版画集にも作品を提供するなど、意外と名が売れていたようなエピソードもあります。しかし妻とは金銭を巡って争っていたり、エミール・ベルナールに批判記事を書かれたりしていて、再び逃げるように1895年にタヒチを目指しました。
ポール・ゴーギャン 「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへいくのか」の映像

こちらは2度目のタヒチ渡航時の1897年の作品で、ゴーギャンの集大成とも言える代表作です。今まで使ってきたモチーフやポーズを駆使し、右側から左側に向かって誕生から死、再生までを描いています。
この絵を観て真っ先に目に付くのが林檎をもぎ取っている人と青い女神像です。もぎ取ってる人は生命感があるので、これが命の象徴なのかな? 逆にボーっと浮き上がるような青色の女神は死を連想しますが、実は再生の神のようです。1枚の中にゴーギャンのすべてを注ぎ込み、生死という根源的なテーマを扱ったこの作品は、文句無く最高傑作だと思います。139cm×374cmという作品の大きさからも圧倒的なオーラが漂っています。
この2度目のタヒチ渡航を最後にフランスに戻ることはありませんでした。タヒチ滞在時に娘の死の知らせが舞い込み、絶望したゴーギャンは自殺すらも考えたようです。そしてその遺言としてこの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描きました。
ポール・ゴーギャン 「テ・アトゥア(神々)」

1899年の作品。現地での神の様子が描かれ、神秘的かつ原初的な雰囲気となっています。
タヒチでは徐々に絵の売上も上がり、生活は安定していったようです。大きなアトリエを持ち現地での政治的な地位も高まっていきました。そして資金にも余裕が出来た為、より未開を目指してパペーテからマルキーズ諸島へと移っていきました。
ポール・ゴーギャン 「Paysage」

こちらは1901年の作品で、日本語にすると「風景」です。詳細が無いのでパペーテかマルキーズ諸島か分かりませんが、青や緑の多い爽やかな色彩で現地の空気感が伝わってきます。一方で2人の人物の後ろ姿が何とも象徴的で寂しげに思えるかな。
この頃はマルキーズ諸島も西欧化が進んでいたようで、教会やミッションスクールなどの在り方について教会とぶつかっています。最晩年には原地民を擁護して現地の教会や官憲と対立し 裁判で禁固三ヶ月の判決を受けていますが、持病が悪化し1903年に亡くなりました。
ということで波乱万丈の人生となっています。経歴や言動を観ると人格は褒められたものではないですが、その芸術は後世まで大きな影響を与え今でも人気の画家となっています。各地の美術館や大型展で観る機会も多いので、詳しく知っておくと鑑賞の際に深い見方が出来ると思います。
参考記事:
ゴーギャン展2009 (東京国立近代美術館)
映画「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」(ややネタバレあり)
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今日は作者別紹介で、明治時代から大正初期にかけて海外に名を轟かせた超絶技巧の陶芸家 初代 宮川香山(みやがわ こうざん)をについて取り上げます。宮川香山は始めは父のあとを継いで京都で活動していましたが、輸出向けの陶磁器を作る為に横浜に移り「高浮彫」と呼ばれる立体的な動物彫刻を貼り付けた陶器を考案し、主に海外で評価されました。しかし限界を感じ、中国風の釉薬を用いた作風へと一変させ 新たな魅力で再び評価を高めます。そうした功績により帝室技芸員に任命され 名実ともに明治の日本陶芸界の第一人者となりました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
宮川香山は京都で陶芸を生業としていた眞葛長造の四男(虎之助)として1842年に生まれました。父は野々村仁清の写しなどの茶器制作を得意としていたようで、後に真葛ヶ原(京都市東山区の辺り)で窯を設けたので安井宮から「眞葛焼」の称を、華頂宮からは「香山」の号を与えられています。そしてその父から製陶を学んだ虎之助は父や兄が亡くなると若くして家業を継ぎ、当初は茶道具などを制作していたようですが、初代香山の名を名乗って父の得意とした色絵陶器や磁器などを制作していきます。1868年(明治元年)に岡山藩の家老で茶人の伊木忠澄に請われ備前虫明で制作の指導などを行った後、薩摩藩御用達の梅田半之助の勧めにより輸出向けの陶磁器を製造するため1870年(明治3年)に横浜に移住し、1871年から本格的に横浜で制作を始めましました。
宮川香山は年代の分からない作品が多いので順不同でざっくりとタイプ別にご紹介していきます。
初代宮川香山 「高浮彫牡丹ニ眠猫覚醒大香炉」

こちらは明治前期の作品。蓋の上に猫が乗っている壺で、側面も凹凸があって立体的な感じとなっています。この立体的な表現は「高浮彫(たかうきぼり)」と呼ばれる新しい技法で、宮川香山の代名詞的な作風です。
猫のアップ

寝ていたのが起きたのかな? 驚いているのか威嚇するような表情で凄いポーズw 爪や歯、鼻の穴などの細部まで精巧で驚きます。毛色は日光の眠り猫のようで、明治維新で目を覚ましたようだと言われたのだとか。
こうした品は海外への輸出用で、「高浮彫」が生まれた背景には当時盛んに輸出されていた薩摩焼の金襴手などには多くの金が使用されていたので、高額になることや貴重な金が海外に流出してしまうという問題点を防ぐ目的もあったようです。金を使わなくなった分、一層高い技術が必要になった感はありますねw
初代宮川香山 「高浮彫桜ニ群鳩大花瓶」

こちらも明治前期頃の高浮彫の作品。壺の側面のリアルな鳩がくっついている大胆な壺となっていて、絵と装飾が一体化しています。
こちらは横から見た様子。

羽の1枚1枚まで彩色されて、表情も豊かです。明治時代に帝室技芸員になった人の超絶技巧は本当に半端じゃない!w
こうした品は宮川香山が横浜で開いた窯の名前が「真葛窯」だったので「真葛焼」や「横浜焼」とも呼ばれます。海外では宮川香山は「Makuzu Kozan」と呼ばれることもあるのだとか。
初代宮川香山 「高浮彫大鷲雀捕獲花瓶」

こちらも明治前期頃の高浮彫の作品。ポーズはやや誇張気味に思えますが、迫力ある造形となって見栄えがします。
香山はこうした写実的な表現のために、庭で鷹や熊まで飼っていたのだとか。明治のアーティストは限度を知らないですw
初代宮川香山 「褐釉蟹貼付台付鉢」

こちらは1881年(明治14年)に作られたことが確実に分かっている作品で、同年の第2回内国勧業博覧会への出品作です。実物大でまるで本物の蟹が張り付いているのではないかというくらい真に迫るものがありますね。写真に写っていないもう1匹の蟹もいるので、実際に観る機会があったら探してみてください。
この5年前の1876年(明治9年 35歳)に、フィラデルフィア万国博覧会に高浮彫の作品を出品したところ、絶賛されて真葛焼と宮川香山の名が世界に広まりました。元々輸出向けであったこともあり、日本国内にある高浮彫の作品は、多くが海外から里帰りした貴重なものとなっています。
初代宮川香山 「黄釉銹絵梅樹図大瓶 [大日本香山製]染付銘 」

こちらも1892年(明治25年)に作られたことが分かっている作品で、シカゴ・コロンブス世界博覧会への出品作です。やや黄色みがかった地に白梅が清廉な印象の逸品で形も気品があります。しかし高浮彫ではなく作風が激変しているのが分かると思います。宮川香山は明治10年代半ば頃から釉薬と釉下彩の研究に取り組み、中国清朝の磁器にならった青華、釉裏紅、青磁、窯変、結晶釉など様々な作品を作るようになり、眞葛焼の主力製品を陶器から磁器に切り替えていったそうです。
こうした作風の変化には高浮彫の生産に時間と手間がかかることが挙げられるようです。生産効率が悪く、方向性の違う作風を模索したものと思われます。眞葛窯の経営は養子の半之助(2代宮川香山)に継がせ、自身はさらに古陶磁や釉薬の研究開発に打ち込んだのだとか。
初代宮川香山 「緑花紅花瓶」

こちらは明治中期の作品。深い緑が落ち着いていて、釉薬の研究も見事に成功していたことが伺えます。形もすらりとしていて気品が感じられますね。
こうした新たな作品も、パリ万国博覧会やシカゴ・コロンブス万国博覧会など国内外の博覧会でまたも高い評価を獲得しました。この新しい作風を得た真葛焼はその後も盛んに輸出されていったようです。
初代宮川香山 「釉裏紅赤雲龍文花瓶」

こちらも明治中期の作品。高級感ある色合いと爪を広げた雲龍の模様が見事な花瓶で、細部まで表現されていて緊張感があります。釉薬でも高い技術を駆使しています。
こうした功績が認められ、1896年(明治29年)に陶芸界で2人目の帝室技芸員に任命されました。まさに明治を代表する陶芸家です。
初代宮川香山 「染付龍濤文有蓋壺」

こちらは明治~大正時代頃の作品。一見すると中国風ですが、個性的な形をしています。高浮彫とハイブリッドな感じもするけど詳細は不明。
宮川香山の作品は輸出向けだったこともあって国内でのコレクションは少なかったのですが、戦後に田邊哲人 氏という買い戻すコレクターの努力によって日本でも観る機会ができました。3000点も集めて研究を進め、美術館に寄贈するなど本当に素晴らしいコレクターです。
初代宮川香山 「釉下彩白盛鶏図大花瓶」

こちらは明治中期~後期頃の作品。白地に白で鶏の毛並みが優美に表現されています。滑らかな色付けも見事で、絵画としても素晴らしい出来です。今度は絵に凝ってる感じが…w
初代宮川香山 「色絵金彩鴛鴦置物」

こちらは年代不明(明治~大正頃)の作品。小型の置物で、可愛らしい鴛鴦が仲睦まじく表現されています。高浮彫にくっつけてる鳥によく似てるかな。
初代宮川香山 「留蝉蓮葉水盤」

こちらも年代不明(明治~大正頃)の作品。まるで蓮の葉に蝉がとまっているようなリアリティがありますね。宮川香山は大型作品が有名ですが、こうした小物も作っていたようです。
初代宮川香山 「兎文鉢」

こちらも年代不明(明治~大正頃)の作品。薄い緑の中に赤い目と長い耳の兎の姿が表されています。これは単純化が面白く、兎によって一層に釉薬の美しさが引き立っているように思えます。
初代宮川香山 「染付菖蒲文花瓶」

こちらも年代不明(明治~大正頃)の作品。側面に菖蒲を描いていて、割とデフォルメされた感じの図柄かな。染付で濃淡のみとなっていて、叙情的な印象を受けます。これまで見てきたリアルな描写の作風とはまた違った感じに思えます。
初代宮川香山 「菖蒲文花瓶」

こちらも年代不明(明治~大正頃)の作品。こちらは白・青・紫の3色の花を咲かせていて、単純化されているものの花の筋まで描かれています。菖蒲はよくモチーフにしていたようですね。
初代宮川香山 「色入菖蒲図花瓶」

こちらも年代不明で菖蒲を描いた花瓶。ここでは釉薬で描いたとは思えないほど繊細な表現になっていて、色の濃淡が特に目を引きます。これはこれで作るのが大変そうに思えるんですが…w
最後にこちらは酒盃や香合などの小物。初代・二代・工房の作品が混じっています。

小さく可憐で美意識が詰まったような作品です。宮川香山は派手なイメージがあるけどこうした可愛いものも好み。
こうして大きな功績を残した宮川香山は1916年(大正5年)に亡くなりましたが、眞葛焼は二代、三代と引き継がれ昭和まで続いていきます。しかし、1945年(昭和20年)の横浜大空襲により眞葛窯は壊滅的な被害を受けて閉鎖し、四代目香山による復興もむなしく歴史の幕は閉じられてしまいました。
ということで、明治期の超絶技巧を感じさせる陶芸家となっています。没後100年の2016年にはサントリー美術館で大々的な回顧展も開かれ、再び注目が集まった感じがします。東博や横浜美術館にも常設されているので、目にする機会があったら是非じっくりと360度ぐるっと観て、その造形の凄さを堪能してください。
宮川香山は京都で陶芸を生業としていた眞葛長造の四男(虎之助)として1842年に生まれました。父は野々村仁清の写しなどの茶器制作を得意としていたようで、後に真葛ヶ原(京都市東山区の辺り)で窯を設けたので安井宮から「眞葛焼」の称を、華頂宮からは「香山」の号を与えられています。そしてその父から製陶を学んだ虎之助は父や兄が亡くなると若くして家業を継ぎ、当初は茶道具などを制作していたようですが、初代香山の名を名乗って父の得意とした色絵陶器や磁器などを制作していきます。1868年(明治元年)に岡山藩の家老で茶人の伊木忠澄に請われ備前虫明で制作の指導などを行った後、薩摩藩御用達の梅田半之助の勧めにより輸出向けの陶磁器を製造するため1870年(明治3年)に横浜に移住し、1871年から本格的に横浜で制作を始めましました。
宮川香山は年代の分からない作品が多いので順不同でざっくりとタイプ別にご紹介していきます。
初代宮川香山 「高浮彫牡丹ニ眠猫覚醒大香炉」

こちらは明治前期の作品。蓋の上に猫が乗っている壺で、側面も凹凸があって立体的な感じとなっています。この立体的な表現は「高浮彫(たかうきぼり)」と呼ばれる新しい技法で、宮川香山の代名詞的な作風です。
猫のアップ

寝ていたのが起きたのかな? 驚いているのか威嚇するような表情で凄いポーズw 爪や歯、鼻の穴などの細部まで精巧で驚きます。毛色は日光の眠り猫のようで、明治維新で目を覚ましたようだと言われたのだとか。
こうした品は海外への輸出用で、「高浮彫」が生まれた背景には当時盛んに輸出されていた薩摩焼の金襴手などには多くの金が使用されていたので、高額になることや貴重な金が海外に流出してしまうという問題点を防ぐ目的もあったようです。金を使わなくなった分、一層高い技術が必要になった感はありますねw
初代宮川香山 「高浮彫桜ニ群鳩大花瓶」

こちらも明治前期頃の高浮彫の作品。壺の側面のリアルな鳩がくっついている大胆な壺となっていて、絵と装飾が一体化しています。
こちらは横から見た様子。

羽の1枚1枚まで彩色されて、表情も豊かです。明治時代に帝室技芸員になった人の超絶技巧は本当に半端じゃない!w
こうした品は宮川香山が横浜で開いた窯の名前が「真葛窯」だったので「真葛焼」や「横浜焼」とも呼ばれます。海外では宮川香山は「Makuzu Kozan」と呼ばれることもあるのだとか。
初代宮川香山 「高浮彫大鷲雀捕獲花瓶」

こちらも明治前期頃の高浮彫の作品。ポーズはやや誇張気味に思えますが、迫力ある造形となって見栄えがします。
香山はこうした写実的な表現のために、庭で鷹や熊まで飼っていたのだとか。明治のアーティストは限度を知らないですw
初代宮川香山 「褐釉蟹貼付台付鉢」

こちらは1881年(明治14年)に作られたことが確実に分かっている作品で、同年の第2回内国勧業博覧会への出品作です。実物大でまるで本物の蟹が張り付いているのではないかというくらい真に迫るものがありますね。写真に写っていないもう1匹の蟹もいるので、実際に観る機会があったら探してみてください。
この5年前の1876年(明治9年 35歳)に、フィラデルフィア万国博覧会に高浮彫の作品を出品したところ、絶賛されて真葛焼と宮川香山の名が世界に広まりました。元々輸出向けであったこともあり、日本国内にある高浮彫の作品は、多くが海外から里帰りした貴重なものとなっています。
初代宮川香山 「黄釉銹絵梅樹図大瓶 [大日本香山製]染付銘 」

こちらも1892年(明治25年)に作られたことが分かっている作品で、シカゴ・コロンブス世界博覧会への出品作です。やや黄色みがかった地に白梅が清廉な印象の逸品で形も気品があります。しかし高浮彫ではなく作風が激変しているのが分かると思います。宮川香山は明治10年代半ば頃から釉薬と釉下彩の研究に取り組み、中国清朝の磁器にならった青華、釉裏紅、青磁、窯変、結晶釉など様々な作品を作るようになり、眞葛焼の主力製品を陶器から磁器に切り替えていったそうです。
こうした作風の変化には高浮彫の生産に時間と手間がかかることが挙げられるようです。生産効率が悪く、方向性の違う作風を模索したものと思われます。眞葛窯の経営は養子の半之助(2代宮川香山)に継がせ、自身はさらに古陶磁や釉薬の研究開発に打ち込んだのだとか。
初代宮川香山 「緑花紅花瓶」

こちらは明治中期の作品。深い緑が落ち着いていて、釉薬の研究も見事に成功していたことが伺えます。形もすらりとしていて気品が感じられますね。
こうした新たな作品も、パリ万国博覧会やシカゴ・コロンブス万国博覧会など国内外の博覧会でまたも高い評価を獲得しました。この新しい作風を得た真葛焼はその後も盛んに輸出されていったようです。
初代宮川香山 「釉裏紅赤雲龍文花瓶」

こちらも明治中期の作品。高級感ある色合いと爪を広げた雲龍の模様が見事な花瓶で、細部まで表現されていて緊張感があります。釉薬でも高い技術を駆使しています。
こうした功績が認められ、1896年(明治29年)に陶芸界で2人目の帝室技芸員に任命されました。まさに明治を代表する陶芸家です。
初代宮川香山 「染付龍濤文有蓋壺」

こちらは明治~大正時代頃の作品。一見すると中国風ですが、個性的な形をしています。高浮彫とハイブリッドな感じもするけど詳細は不明。
宮川香山の作品は輸出向けだったこともあって国内でのコレクションは少なかったのですが、戦後に田邊哲人 氏という買い戻すコレクターの努力によって日本でも観る機会ができました。3000点も集めて研究を進め、美術館に寄贈するなど本当に素晴らしいコレクターです。
初代宮川香山 「釉下彩白盛鶏図大花瓶」

こちらは明治中期~後期頃の作品。白地に白で鶏の毛並みが優美に表現されています。滑らかな色付けも見事で、絵画としても素晴らしい出来です。今度は絵に凝ってる感じが…w
初代宮川香山 「色絵金彩鴛鴦置物」

こちらは年代不明(明治~大正頃)の作品。小型の置物で、可愛らしい鴛鴦が仲睦まじく表現されています。高浮彫にくっつけてる鳥によく似てるかな。
初代宮川香山 「留蝉蓮葉水盤」

こちらも年代不明(明治~大正頃)の作品。まるで蓮の葉に蝉がとまっているようなリアリティがありますね。宮川香山は大型作品が有名ですが、こうした小物も作っていたようです。
初代宮川香山 「兎文鉢」

こちらも年代不明(明治~大正頃)の作品。薄い緑の中に赤い目と長い耳の兎の姿が表されています。これは単純化が面白く、兎によって一層に釉薬の美しさが引き立っているように思えます。
初代宮川香山 「染付菖蒲文花瓶」

こちらも年代不明(明治~大正頃)の作品。側面に菖蒲を描いていて、割とデフォルメされた感じの図柄かな。染付で濃淡のみとなっていて、叙情的な印象を受けます。これまで見てきたリアルな描写の作風とはまた違った感じに思えます。
初代宮川香山 「菖蒲文花瓶」

こちらも年代不明(明治~大正頃)の作品。こちらは白・青・紫の3色の花を咲かせていて、単純化されているものの花の筋まで描かれています。菖蒲はよくモチーフにしていたようですね。
初代宮川香山 「色入菖蒲図花瓶」

こちらも年代不明で菖蒲を描いた花瓶。ここでは釉薬で描いたとは思えないほど繊細な表現になっていて、色の濃淡が特に目を引きます。これはこれで作るのが大変そうに思えるんですが…w
最後にこちらは酒盃や香合などの小物。初代・二代・工房の作品が混じっています。

小さく可憐で美意識が詰まったような作品です。宮川香山は派手なイメージがあるけどこうした可愛いものも好み。
こうして大きな功績を残した宮川香山は1916年(大正5年)に亡くなりましたが、眞葛焼は二代、三代と引き継がれ昭和まで続いていきます。しかし、1945年(昭和20年)の横浜大空襲により眞葛窯は壊滅的な被害を受けて閉鎖し、四代目香山による復興もむなしく歴史の幕は閉じられてしまいました。
ということで、明治期の超絶技巧を感じさせる陶芸家となっています。没後100年の2016年にはサントリー美術館で大々的な回顧展も開かれ、再び注目が集まった感じがします。東博や横浜美術館にも常設されているので、目にする機会があったら是非じっくりと360度ぐるっと観て、その造形の凄さを堪能してください。
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今日は作者別紹介で、一貫して印象派の画風を貫いたイギリス人画家アルフレッド・シスレーについて取り上げます。シスレーはグレールの画塾でモネやルノワールと出会い、印象派のメンバーとして活躍しました。900点近くの作品のほとんどが風景画で 晩年まで画風を変えることなかった為、アンリ・マティスがカミーユ・ピサロに「典型的な印象派の画家は誰か?」と尋ねたところ「シスレーだ」と答えたという逸話が有名です。今日は2017年にエクス・アン・プロヴァンスのコーモン芸術センターで撮ってきた写真(の未紹介作品)を中心にご紹介していこうと思います。
アルフレッド・シスレーは1839年にパリで生まれましたが国籍はイギリス人で、父親は裕福な貿易商でした。1857年の18歳でロンドンに渡り叔父の元でビジネスを学んでいたものの美術に関心を持ち、学業を捨てて4年後にパリに戻ります。1862年からエコール・デ・ボザールへ通い、バジールの勧めでグレールのアトリエで学ぶようになり そこでモネやルノワールと出会いました。
アルフレッド・シスレー 「Vue de Montmartre depuis la Cité des Fleurs aux Batignolles」

こちらは1869年の作品で日本語にすると「シテデフルールからバティニョールまでのモンマルトルの眺め」といった所でしょうか。印象派の他のメンバーと同じように戸外で制作していて清々しい色彩となっています。しかし後の画風に比べると筆致が細かく思えるかな。
この作品の前年の1868年にはサロンで入選していますが、あまり芳しい評価ではなかったようです。また、絵も売れませんでしたが、裕福な家なので経済的に困窮していた訳でもなかったようです。
アルフレッド・シスレー 「Les péniches (Vue d'un port)」

こちらは1870年の作品で、日本語にすると「はしけ船(港の景色)」かな。この後も多く出てきますがシスレーは水辺の光景を特に多く描いた画家で、反射や波立つ様子を見事に描写しています。ここでは穏やかでちょっと寂しげな雰囲気に思えますね。
こんな平和そうな風景ですが、この1870年に普仏戦争が勃発すると、シスレーは敵兵によって家と財産を失い 翌年には実家が破産しています。これ以降は亡くなるまで苦しい生活となってしまったのだとか。普仏戦争ではバジールも戦死しているし散々な年です。
アルフレッド・シスレー 「La Grande Rue,Argenteuil」

こちらは1872年の作品で、日本語では「アルジャントゥイユの大通り」です。この絵はタッチが結構大胆になっていて印象派らしさが強まっているように思えます。人の描写とかかなり簡潔だけど生き生きとしていますね。
1871年にパリ・コミューンが起こると、シスレーは混乱を避けてヴォワザンやアルジャントゥイユ、ブージヴァル、ポール=マルリなどに移り住んでいます。アルジャントゥイユは同時期にモネも住んでいた場所で、シスレーやルノワールは頻繁にモネを訪れています。
アルフレッド・シスレー 「Pêcheurs étendant leurs filets」

こちらは1872年の作品で、日本語にすると「網を乾燥させる漁師」または「網を広げる漁師」です。穏やかな河岸が描かれ、青や緑の多い爽やかな画面です。こうした同時代の日常風景を描いているのも印象派の特徴1つと言えます。観ていて心落ち着く好みの作品です。
シスレーのルーツとして、イギリスのターナーやフランスのバルビゾン派(特にコロー)、写実主義のクールベなどが挙げられます。光や空気感の表現、同時代の現実世界を描く点などにそうした影響が感じられます。
アルフレッド・シスレー 「La Seine à Bougival」

こちらは1872年の作品で、日本語では「ブージヴァルのセーヌ川」です。シスレーはセーヌ川とロワン川が大好きで定番のモチーフとなっています。この頃には画風が完成した感じがして、これ以降も安定しています。似た絵が多い気もするけど、その一貫した所がシスレーの魅力でもあるかな。
ブージヴァルはパリ近郊の街で、後にルノワールが代表作の「ブージヴァルのダンス」を描いたことでも知られています。普仏戦争の時にシスレーが財産を失ったのもこの街だったりしますが、それ以降も多くの作品をこの地で描いています。
アルフレッド・シスレー 「La Seine à Bougival en hiver」

こちらは1872年の作品で、日本語では「冬のブージヴァルのセーヌ川」です。何しろ川をひたすら描いているので、こうして並ぶと四季折々の様子も楽しめます。雪と枯れ木が寒そうだけど、赤みが多いので不思議と全体的に温かみが感じられるのが面白い。
アルフレッド・シスレー 「L'Inondation à Port-Marly」

こちらも1872年の作品で、日本語にすると「ポール=マルリの洪水」です。この作品は7点の連作となっていて、洪水の後の街の様子が描かれています。モネも同じ年にアルジャントゥイユの洪水の絵を描いているけど、こんなのも題材にしてしまうのかって感じですねw 現代の日本だと不謹慎って怒られそう。普段とは違う光景でちょっとヴェネツィアみたいな。
連作というのも印象派ならではの手法です。光の移ろいを捉えようとしたことから時間や場所を変えて同じものを描いたもので、シスレーもモレの教会などで連作を残しています。(後ほど出てきます)
アルフレッド・シスレー 「Printemps à Bougival」

こちらは1873年の作品で、日本語だと「ブージヴァルの春」となります。青々とした空や白い花を咲かせる木々など春の明るさが清々しい雰囲気です。手前の子供たちも微笑ましくて幸せそうですね。
この年の1873年4月頃からピサロとモネを中心にグループ展の構想を進めていました。そしてピサロが草稿を作り、1874年に(印象派と言うのは後に名付けられた呼称)無審査の自由なグループ展を発足しました。
参考記事:《カミーユ・ピサロ》 作者別紹介
アルフレッド・シスレー 「Route de Louveciennes - effet de neige」

こちらは1874年の作品で、日本語だと「ルーヴェシエンヌの道(雪の効果)」かな?? シスレーはモネと同じく雪の表現が特に上手い画家で、ピンクや水色で雪に陰影を付けて陽光が反射したような感じを出しています。小さく描かれた2人の人物は雪の後の様子を見てるんでしょうか。
この1874年に第1回印象派展が開催されました。シスレーも他のメンバーと同じく酷評されていますが、他の仲間に比べるとそれほど叩かれてなかったようで、むしろスルー気味だったようです。ちなみにシスレーは全8回の印象派展のうち4回(第1回~第3回、第7回)参加しています。
アルフレッド・シスレー 「Sous le Pont de Hampton Court」

こちらは1874年の作品で、日本語では「ハンプトンコート橋の下」となります。これはロンドン近郊のテムズ川に架かる橋で、橋桁を主役にするという大胆な構図となっています。筆致は大胆なもののボートを漕ぐ人の姿や橋によって生まれる陰影などを瑞々しく表現していて見事です。印象派展で散々な評価だったのにもめげずにこんな名作を残しているとは素晴らしいですね。
この年、印象派展の後にオペラ歌手のジャン=バティスト・フォールの招きでイギリスに2~3ヶ月程度滞在しています。ロンドン滞在中にテムズ川周辺の風景を20点ほど描いていて、こちらもそのうちの1枚です。この頃が一番脂が乗ってた時期かも。
アルフレッド・シスレー 「L'Abreuvoir de Marly-le-Roi」

こちらは1875年の作品で、マルリー=ル=ロワの様子が描かれています。この絵では寒々しい雰囲気で空もどんよりした感じかな。叙情的な光景です。
この翌年に第2回印象派展、翌々年に第3回が行われます。印象派の仲間たちは徐々に袂を分かち 表現も変わっていきました。
アルフレッド・シスレー 「Jour de fête à Marly-le-Roi」

こちらも1875年の作品で、日本語にすると「マルリー=ル=ロワの祭日」です。フランスの国旗が掲げられ、祝日らしい雰囲気ですが傘をさしている人がいて路面も反射しているので雨なのかも。
アルフレッド・シスレー 「Bougival」

こちらは1876年の作品で、日本語にすると「ブージヴァル」です。これぞ印象派!といった光溢れる光景で、特に川と空の青が目を引きます。煙や雲で風の流れまで感じられ日差しも温かみがありますね。シスレーの中でもかなり好きな作品です。
印象派の特徴として、パレットで色を混ぜ合わせずにキャンバスの上に並べるという手法があります。色を対比的に置くのでこうした明るい画面を表現することが可能となっています。
アルフレッド・シスレー 「Pont de Sèvres」

こちらは1877年の作品で、日本語にすると「セーヴル橋」です。曇りがちな空と煙の絶妙な色の表現が見事。割と大胆な筆致だけど落ち着いて見えるのは色合いのせいかな。川に佇んでいる人は何をしているのか気になりますw
セーヴルはセーヴル焼きで知られるパリのすぐ近くの街です。この地でもいくつか作品を残しています。
アルフレッド・シスレー 「La Station de Sèvres」

こちらは1879年の作品で、日本語にすると「セーヴル駅」です。この絵は日差しが非常に強く感じられ、中央の影になっている建物が特に目を引きます。タイトルから察するにこれは駅なんでしょうね。その後ろに煙があるので機関車の存在を連想させます。当時の様子がよく伝わってくる傑作です。
印象派の特徴の1つに煙や水蒸気を描くというのがあります。形の無いものを表現するというのは新しい試みでした。
アルフレッド・シスレー 「Chantier à Saint-Mammès」

こちらは1880年の作品で、日本語にすると「サン=マメスの建築現場」です。手前に丸太のようなものや足場らしきものがあるので確かに作業場のようだけど、作業している人はいないようですw シスレーは街を描いても人は小さく描いて風景が主役ってのが多いように思います。
1880年代はこのサン=マメスの辺りのロワン川沿いを拠点に活動しました。この後はロワン川もよく出てきます
アルフレッド・シスレー 「Le Loing à Saint-Mammès」

こちらは1884年の作品で、日本語だと「サン=マメスのロワン川」かな?? 画風は変わっていませんが、地平線が低めになっているので一層に開放感があるように思います。対象物も小さめになっていて広々した感じ。
シスレーは風景を中心に様々な空を描いたので「空のシスレー」と言われることもあります。季節や時間帯によって変わる空は印象派らしい主題です。
アルフレッド・シスレー 「Chantier à saint-mammès」

こちらは1885年の作品。日本語だと「サン=マメスの建築現場」です。今度は船を作っているところで、何人か作業している様子が伺えます。青や緑の中の黄色い船体が特に目を引くかな。色鮮やかで晴れ晴れした空も心地良い作品です。
アルフレッド・シスレー 「Matinée de septembre」

こちらは1887年の作品で、日本語では「九月の朝」です。やや淡くまだ日が登って間もない時間帯の空気感が表されているように思います。1人で佇んでいる女性らしき姿が何だか詩的です。
この2年後の1889年にモレ=シュル=ロワンに移住しました。ここはセーヌ川とロワン川が合流する場所で、合流地点を描いた作品も残されています。この2つの川が大好きなのは間違いないw
アルフレッド・シスレー 「Moret-sur-Loing (La Porte de Bourgogne)」

こちらは1891年の作品で、日本語では「モレ=シュル=ロワン(ブルゴーニュの門)」です。川沿いの教会や建物が立ち並び、現在でもこの辺の光景はあまり変わっていないので観光地となっています。建物は水面にも反射していて非常に美しい光景です。
モレ=シュル=ロワンは終の棲家となりました。そのため晩年の作品はモレを描いたものが多くなります。
アルフレッド・シスレー 「À Saint-Mammès (confluence du Loing et du canal du Loing)」

こちらは1892年の作品。ちょっと日本語訳が難しいけどサン=マメスにて(ロワン河の合流地点)って感じでしょうか。手前に並木が大きく描かれているのが大胆で目を引きます。川に向かっている人は釣りでもしてるんでしょうか。長閑で穏やかな雰囲気で心休まります。
ちなみにこの並木道は船を引っ張る馬が歩く道で、日陰を作るために木が植えられています。のんびりした光景にも歴史ありって感じです。
アルフレッド・シスレー 「Église de Moret au soleil」

こちらは1893年の作品で、日本語にすると「太陽の中のモレの教会」です。こちらはモレのノートルダム教会で、シスレーはこの教会を連作で14枚描いています。この絵では側面に光が強くあたり、正面あたりは影になっているのがよく分かります。影を黒でなく青で表現しているのも印象派らしい表現かな。構図も正面からでなく斜めからというのが面白い。
アルフレッド・シスレー 「L'église de Moret (le soir) 」

こちらは1894年の作品で、日本語にすると「モレの教会(夕方)」です。さっきの絵と一緒だろ!と思ってしまいますが、陽の当たり方が違いますw 教会の下の方にはこちら側の建物の影が映っているようで、太陽の位置が違うのを感じます。単体で観るのも良い絵だけど、比べて観ると季節や時間帯によって移ろう様子を感じられるのも連作の魅力です。
この後、1897年にイギリスに婚姻届を出しに行っていますが、またすぐにフランスに戻っています。そして1899年にモレ=シュル=ロワンで亡くなりました。
ということで、シスレーは最も印象派らしいと言われたのも納得の画風となっています。日本でも人気の画家ですが何故か個展は開かれず、印象派展や海外の美術館展などで観る機会が多いと思います。国立西洋美術館を始め日本各地の大きな美術館にも所蔵されていて馴染みやすいので、是非覚えておきたい画家です。
参考記事:シスレー展 (コーモン芸術センター)【南仏編 エクス】
アルフレッド・シスレーは1839年にパリで生まれましたが国籍はイギリス人で、父親は裕福な貿易商でした。1857年の18歳でロンドンに渡り叔父の元でビジネスを学んでいたものの美術に関心を持ち、学業を捨てて4年後にパリに戻ります。1862年からエコール・デ・ボザールへ通い、バジールの勧めでグレールのアトリエで学ぶようになり そこでモネやルノワールと出会いました。
アルフレッド・シスレー 「Vue de Montmartre depuis la Cité des Fleurs aux Batignolles」

こちらは1869年の作品で日本語にすると「シテデフルールからバティニョールまでのモンマルトルの眺め」といった所でしょうか。印象派の他のメンバーと同じように戸外で制作していて清々しい色彩となっています。しかし後の画風に比べると筆致が細かく思えるかな。
この作品の前年の1868年にはサロンで入選していますが、あまり芳しい評価ではなかったようです。また、絵も売れませんでしたが、裕福な家なので経済的に困窮していた訳でもなかったようです。
アルフレッド・シスレー 「Les péniches (Vue d'un port)」

こちらは1870年の作品で、日本語にすると「はしけ船(港の景色)」かな。この後も多く出てきますがシスレーは水辺の光景を特に多く描いた画家で、反射や波立つ様子を見事に描写しています。ここでは穏やかでちょっと寂しげな雰囲気に思えますね。
こんな平和そうな風景ですが、この1870年に普仏戦争が勃発すると、シスレーは敵兵によって家と財産を失い 翌年には実家が破産しています。これ以降は亡くなるまで苦しい生活となってしまったのだとか。普仏戦争ではバジールも戦死しているし散々な年です。
アルフレッド・シスレー 「La Grande Rue,Argenteuil」

こちらは1872年の作品で、日本語では「アルジャントゥイユの大通り」です。この絵はタッチが結構大胆になっていて印象派らしさが強まっているように思えます。人の描写とかかなり簡潔だけど生き生きとしていますね。
1871年にパリ・コミューンが起こると、シスレーは混乱を避けてヴォワザンやアルジャントゥイユ、ブージヴァル、ポール=マルリなどに移り住んでいます。アルジャントゥイユは同時期にモネも住んでいた場所で、シスレーやルノワールは頻繁にモネを訪れています。
アルフレッド・シスレー 「Pêcheurs étendant leurs filets」

こちらは1872年の作品で、日本語にすると「網を乾燥させる漁師」または「網を広げる漁師」です。穏やかな河岸が描かれ、青や緑の多い爽やかな画面です。こうした同時代の日常風景を描いているのも印象派の特徴1つと言えます。観ていて心落ち着く好みの作品です。
シスレーのルーツとして、イギリスのターナーやフランスのバルビゾン派(特にコロー)、写実主義のクールベなどが挙げられます。光や空気感の表現、同時代の現実世界を描く点などにそうした影響が感じられます。
アルフレッド・シスレー 「La Seine à Bougival」

こちらは1872年の作品で、日本語では「ブージヴァルのセーヌ川」です。シスレーはセーヌ川とロワン川が大好きで定番のモチーフとなっています。この頃には画風が完成した感じがして、これ以降も安定しています。似た絵が多い気もするけど、その一貫した所がシスレーの魅力でもあるかな。
ブージヴァルはパリ近郊の街で、後にルノワールが代表作の「ブージヴァルのダンス」を描いたことでも知られています。普仏戦争の時にシスレーが財産を失ったのもこの街だったりしますが、それ以降も多くの作品をこの地で描いています。
アルフレッド・シスレー 「La Seine à Bougival en hiver」

こちらは1872年の作品で、日本語では「冬のブージヴァルのセーヌ川」です。何しろ川をひたすら描いているので、こうして並ぶと四季折々の様子も楽しめます。雪と枯れ木が寒そうだけど、赤みが多いので不思議と全体的に温かみが感じられるのが面白い。
アルフレッド・シスレー 「L'Inondation à Port-Marly」

こちらも1872年の作品で、日本語にすると「ポール=マルリの洪水」です。この作品は7点の連作となっていて、洪水の後の街の様子が描かれています。モネも同じ年にアルジャントゥイユの洪水の絵を描いているけど、こんなのも題材にしてしまうのかって感じですねw 現代の日本だと不謹慎って怒られそう。普段とは違う光景でちょっとヴェネツィアみたいな。
連作というのも印象派ならではの手法です。光の移ろいを捉えようとしたことから時間や場所を変えて同じものを描いたもので、シスレーもモレの教会などで連作を残しています。(後ほど出てきます)
アルフレッド・シスレー 「Printemps à Bougival」

こちらは1873年の作品で、日本語だと「ブージヴァルの春」となります。青々とした空や白い花を咲かせる木々など春の明るさが清々しい雰囲気です。手前の子供たちも微笑ましくて幸せそうですね。
この年の1873年4月頃からピサロとモネを中心にグループ展の構想を進めていました。そしてピサロが草稿を作り、1874年に(印象派と言うのは後に名付けられた呼称)無審査の自由なグループ展を発足しました。
参考記事:《カミーユ・ピサロ》 作者別紹介
アルフレッド・シスレー 「Route de Louveciennes - effet de neige」

こちらは1874年の作品で、日本語だと「ルーヴェシエンヌの道(雪の効果)」かな?? シスレーはモネと同じく雪の表現が特に上手い画家で、ピンクや水色で雪に陰影を付けて陽光が反射したような感じを出しています。小さく描かれた2人の人物は雪の後の様子を見てるんでしょうか。
この1874年に第1回印象派展が開催されました。シスレーも他のメンバーと同じく酷評されていますが、他の仲間に比べるとそれほど叩かれてなかったようで、むしろスルー気味だったようです。ちなみにシスレーは全8回の印象派展のうち4回(第1回~第3回、第7回)参加しています。
アルフレッド・シスレー 「Sous le Pont de Hampton Court」

こちらは1874年の作品で、日本語では「ハンプトンコート橋の下」となります。これはロンドン近郊のテムズ川に架かる橋で、橋桁を主役にするという大胆な構図となっています。筆致は大胆なもののボートを漕ぐ人の姿や橋によって生まれる陰影などを瑞々しく表現していて見事です。印象派展で散々な評価だったのにもめげずにこんな名作を残しているとは素晴らしいですね。
この年、印象派展の後にオペラ歌手のジャン=バティスト・フォールの招きでイギリスに2~3ヶ月程度滞在しています。ロンドン滞在中にテムズ川周辺の風景を20点ほど描いていて、こちらもそのうちの1枚です。この頃が一番脂が乗ってた時期かも。
アルフレッド・シスレー 「L'Abreuvoir de Marly-le-Roi」

こちらは1875年の作品で、マルリー=ル=ロワの様子が描かれています。この絵では寒々しい雰囲気で空もどんよりした感じかな。叙情的な光景です。
この翌年に第2回印象派展、翌々年に第3回が行われます。印象派の仲間たちは徐々に袂を分かち 表現も変わっていきました。
アルフレッド・シスレー 「Jour de fête à Marly-le-Roi」

こちらも1875年の作品で、日本語にすると「マルリー=ル=ロワの祭日」です。フランスの国旗が掲げられ、祝日らしい雰囲気ですが傘をさしている人がいて路面も反射しているので雨なのかも。
アルフレッド・シスレー 「Bougival」

こちらは1876年の作品で、日本語にすると「ブージヴァル」です。これぞ印象派!といった光溢れる光景で、特に川と空の青が目を引きます。煙や雲で風の流れまで感じられ日差しも温かみがありますね。シスレーの中でもかなり好きな作品です。
印象派の特徴として、パレットで色を混ぜ合わせずにキャンバスの上に並べるという手法があります。色を対比的に置くのでこうした明るい画面を表現することが可能となっています。
アルフレッド・シスレー 「Pont de Sèvres」

こちらは1877年の作品で、日本語にすると「セーヴル橋」です。曇りがちな空と煙の絶妙な色の表現が見事。割と大胆な筆致だけど落ち着いて見えるのは色合いのせいかな。川に佇んでいる人は何をしているのか気になりますw
セーヴルはセーヴル焼きで知られるパリのすぐ近くの街です。この地でもいくつか作品を残しています。
アルフレッド・シスレー 「La Station de Sèvres」

こちらは1879年の作品で、日本語にすると「セーヴル駅」です。この絵は日差しが非常に強く感じられ、中央の影になっている建物が特に目を引きます。タイトルから察するにこれは駅なんでしょうね。その後ろに煙があるので機関車の存在を連想させます。当時の様子がよく伝わってくる傑作です。
印象派の特徴の1つに煙や水蒸気を描くというのがあります。形の無いものを表現するというのは新しい試みでした。
アルフレッド・シスレー 「Chantier à Saint-Mammès」

こちらは1880年の作品で、日本語にすると「サン=マメスの建築現場」です。手前に丸太のようなものや足場らしきものがあるので確かに作業場のようだけど、作業している人はいないようですw シスレーは街を描いても人は小さく描いて風景が主役ってのが多いように思います。
1880年代はこのサン=マメスの辺りのロワン川沿いを拠点に活動しました。この後はロワン川もよく出てきます
アルフレッド・シスレー 「Le Loing à Saint-Mammès」

こちらは1884年の作品で、日本語だと「サン=マメスのロワン川」かな?? 画風は変わっていませんが、地平線が低めになっているので一層に開放感があるように思います。対象物も小さめになっていて広々した感じ。
シスレーは風景を中心に様々な空を描いたので「空のシスレー」と言われることもあります。季節や時間帯によって変わる空は印象派らしい主題です。
アルフレッド・シスレー 「Chantier à saint-mammès」

こちらは1885年の作品。日本語だと「サン=マメスの建築現場」です。今度は船を作っているところで、何人か作業している様子が伺えます。青や緑の中の黄色い船体が特に目を引くかな。色鮮やかで晴れ晴れした空も心地良い作品です。
アルフレッド・シスレー 「Matinée de septembre」

こちらは1887年の作品で、日本語では「九月の朝」です。やや淡くまだ日が登って間もない時間帯の空気感が表されているように思います。1人で佇んでいる女性らしき姿が何だか詩的です。
この2年後の1889年にモレ=シュル=ロワンに移住しました。ここはセーヌ川とロワン川が合流する場所で、合流地点を描いた作品も残されています。この2つの川が大好きなのは間違いないw
アルフレッド・シスレー 「Moret-sur-Loing (La Porte de Bourgogne)」

こちらは1891年の作品で、日本語では「モレ=シュル=ロワン(ブルゴーニュの門)」です。川沿いの教会や建物が立ち並び、現在でもこの辺の光景はあまり変わっていないので観光地となっています。建物は水面にも反射していて非常に美しい光景です。
モレ=シュル=ロワンは終の棲家となりました。そのため晩年の作品はモレを描いたものが多くなります。
アルフレッド・シスレー 「À Saint-Mammès (confluence du Loing et du canal du Loing)」

こちらは1892年の作品。ちょっと日本語訳が難しいけどサン=マメスにて(ロワン河の合流地点)って感じでしょうか。手前に並木が大きく描かれているのが大胆で目を引きます。川に向かっている人は釣りでもしてるんでしょうか。長閑で穏やかな雰囲気で心休まります。
ちなみにこの並木道は船を引っ張る馬が歩く道で、日陰を作るために木が植えられています。のんびりした光景にも歴史ありって感じです。
アルフレッド・シスレー 「Église de Moret au soleil」

こちらは1893年の作品で、日本語にすると「太陽の中のモレの教会」です。こちらはモレのノートルダム教会で、シスレーはこの教会を連作で14枚描いています。この絵では側面に光が強くあたり、正面あたりは影になっているのがよく分かります。影を黒でなく青で表現しているのも印象派らしい表現かな。構図も正面からでなく斜めからというのが面白い。
アルフレッド・シスレー 「L'église de Moret (le soir) 」

こちらは1894年の作品で、日本語にすると「モレの教会(夕方)」です。さっきの絵と一緒だろ!と思ってしまいますが、陽の当たり方が違いますw 教会の下の方にはこちら側の建物の影が映っているようで、太陽の位置が違うのを感じます。単体で観るのも良い絵だけど、比べて観ると季節や時間帯によって移ろう様子を感じられるのも連作の魅力です。
この後、1897年にイギリスに婚姻届を出しに行っていますが、またすぐにフランスに戻っています。そして1899年にモレ=シュル=ロワンで亡くなりました。
ということで、シスレーは最も印象派らしいと言われたのも納得の画風となっています。日本でも人気の画家ですが何故か個展は開かれず、印象派展や海外の美術館展などで観る機会が多いと思います。国立西洋美術館を始め日本各地の大きな美術館にも所蔵されていて馴染みやすいので、是非覚えておきたい画家です。
参考記事:シスレー展 (コーモン芸術センター)【南仏編 エクス】
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