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《オディロン・ルドン》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、幻想的な絵画で知られるオディロン・ルドン(本名ベルトラン=ジャン・ルドン)を取り上げます。ルドンの実質的なデビューは39歳頃と遅く、当初は白黒の版画で陰鬱かつ不可思議なモチーフを描いていました。植物学者の友人から文学・音楽・科学など多くの人文学的な知識を身につけると、そのルーツを示すように多くの版画集を残しています。1890年代からは色彩の時代と移って行き、神話や象徴的なモチーフを描き、神秘性のある独自の画風を確立していきました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

オディロン・ルドンは1840年にフランスのボルドーで生まれました。アメリカで財をなした父とフランス系アメリカ人の母を持ち裕福な家庭だったようですが、病弱で生まれて間もなくボルドー近郊のペイル=ルバードという荘園屋敷(ルドン家のぶどう園があった)に送られ、親戚の老人に育てられました。11歳で学校教育を受けるためにボルドーに連れ戻され、15歳で最初の絵の師匠である地元の画家スタニスラス・ゴランの家に通って手ほどきを受けています。20代になると国立美術学校建築科を受験したものの失敗し、20代なかばにはパリで新古典主義の画家にジャン=レオン・ジェロームに師事しました。しかし、挫折してボルドーに戻り、ボルドーにいた放浪の版画家 ロドルフ・ブレスダンを通じて白黒の表現に可能性を見出したようです。1870年の普仏戦争の後、30代となったルドンはパリに家を借りて、冬はパリ 夏はペイル=ルバードで木炭画を作成しています。そして、1879年の『夢のなかで』のシリーズで実質的なデビューを果たしました。

オディロン・ルドン 「自画像」
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こちらは1875年の貴重な初期作品。描きかけだったのか下の方は塗り残しがあるものの 顔の部分はしっかり描かれていて、若干神経質っぽいけど強い目線を向けています。後の画風とはだいぶ異なる点においても珍しい作品です。

1878年頃にはアンリ・ファンタン=ラトゥールから転写法リトグラフを教わっていて、『夢のなかで』に活かしています。ルドンは長い修業の中で1864年にはカミーユ・コロー助言を受けたり、前述のブレスダンからエッチングの指導を受ける機会があったようで、その成果をリトグラフ、パステル、油彩、デトランプといった多彩な技法を使って表現しています。
 参考記事:《アンリ・ファンタン=ラトゥール》 作者別紹介

オディロン・ルドン 「蜘蛛」の看板
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こちらは1881年の作品でルドンの中でも特に有名かな。ニヤニヤした人の顔を持つ黒い蜘蛛が描かれ、毛むくじゃらでどことなく憎めない感じです。蜘蛛に対する不合理な恐怖を巡る心理学的関心を元に描いたそうで、不気味だけど可愛いやつですw この夢想的で妖しい雰囲気がルドンの持ち味ですね

ルドン初期の陰鬱な雰囲気は孤独な幼少期を過ごした作者の内面を映していると考えられます。また、1886年には長男が生まれたものの半年で亡くなってしまい、画風も一層に暗いものになっていきます。

オディロン・ルドン 「それから魚の体に人間の頭を持った奇妙なものが現れる(『聖アントワーヌの誘惑』第1集より)」
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こちらは1888年の版画集の中の1枚。「聖アントワーヌの誘惑」は古くから幻想的な題材として多くの画家に描かれていますが、ルドンは特に不思議で何処か心惹かれる者たちを描いています。細部はリアルさもあるのに組み合わせることで奇妙な雰囲気となっていて、モノクロなのが一層に神秘的な印象を深めているように思います。この頃のフランスでは深海調査が行われていたようで、ルドンも海に関心を向けていたのだとか。

ルドンはコローに「想像に富むイメージの隣に自然に直接取材した事物を置くように」と言われたらしく、生涯これを守ったようです。想像の事物がリアルに思えるのはこうした教えのおかげかも知れませんね。

オディロン・ルドン 「彼は青銅の壺を持ち上げる(『聖アントワーヌの誘惑』第1集より)」
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こちらも同じ版画集からで、何かの儀式のようなシーンを深い明暗で表現しています。この時代のルドンは白黒の使い方が見事で、ぼんやりと神秘性を出したり深い影で存在感を出したりしています。

ルドンには大きく分けて黒の時代と色彩の時代があるのですが、黒の時代でも油彩を描かなかったわけではなく、彩色された作品も残っています。それらは「作者のためのエチュード」(エチュード=習作)と呼んで大切に保管されていたようで、自然をモデルとした風景画小品などだったようです。20代にはバルビゾン派と自然主義風景画に関心を示していて、コローから毎年同じ木を描くように教えられたそうで、それ以降もルドンの作品には木などの自然物がよく描かれています。

オディロン・ルドン 「…そして空から舞い降りてきた一羽の大きな鳥が彼女の髪の頂きに襲いかかる…(『聖アントワーヌの誘惑』第1集より)」
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こちらも同じ版画集の1枚。タイトルの通りの内容ではありますが、動きを感じるというよりは静かで瞑想的な雰囲気に思えます。この俯き気味で目を閉じた表情はルドンの作品によく出てくるかな。神話や異教の物語の登場人物のようにも思えます。

1880~1890年代にはルドンの黒の幻想は前衛的な文学者や若い芸術家に歓迎されたそうです。ちょうどこの頃は物質主義的な時代から精神的なものを求める時代となりあったのが背景としてあるようです。一方、ルドンも兄が音楽の神童だったため兄からの影響を受けて音楽に関心があったようです。音楽家のエルネスト・ショーソンとピアノとヴァイオリンで共演したこともあるらしいので、結構な腕前だったのかも? また、1887~1888年にかけて作曲されたドビュッシーの「選ばれし乙女」に感激して、絵を贈っています。ドビュッシーも「音楽と同じくらい絵が好き」と述べていたそうで、ルドンとはお互いに交流しています。「選ばれし乙女」はドビュッシーの言葉によると「神秘的で少し異教的な雰囲気のあるささやかなオラトリオ(聖譚曲)」とのことなので、ルドンの感性と共通していたんでしょうね。

オディロン・ルドン 「至る所に瞳が燃えさかる(『聖アントワーヌの誘惑』第1集より)」
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こちらも同じ版画集の1枚。ルドンの白黒作品にはこうした目玉がよく出てきてインパクトがありますw 『夢のなかで』でも目玉が気球になっている作品があるのですが、モチーフに三角・球・円などが多用されるのはデューラーから学んだ造形と考えられます。それにしても唐突な感じで、シュルレアリスムの先駆け的な要素があると思います。

こうしたルドンの作風の根源にはアルマン・クラヴォーという植物学者の親友の存在があります。クラヴォーは大変な読書家で、ボードレールやエドガー・アラン・ポーなどの現代文学や、ヒンズーの詩、スピノザ哲学など多くの蔵書を持っていたようで、それらはルドンに影響を与えて行きました。また、ルドンがダーウィンの『種の起源』を知ったのもクラヴォーからで、後にこれらに関した作品も製作しています。クラヴォーは植物の素描を残していて、図鑑や理科の教科書にあるような正確さで種子や花を描いています。かなり精緻でルドンの作品に出てくるモチーフを想起させるので、クラヴォーはルドンの精神的な師匠と言える存在だったと言えそうです。それだけ多くの影響を与えたクラヴォーですが、1890年に首吊り自殺をしてしまい、その翌年にルドンは版画集を彼に捧げました。

オディロン・ルドン 「II そして彼方には星の偶像、神格化(リトグラフ集『夢想(わが友アルマン・クラヴォーの想い出に)』より)」
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こちらは1891年の作品で、クラヴォーに捧げた版画集となります。この神格化はクラヴォーの姿かな? 単純な肖像ではなく神話の中の人物のように表現しているのが見て取れます。この作品の中には聖顔布のキリストの顔をクラヴォーにしたものもあり、その敬愛ぶりが伝わるものとなっています。

ルドンは他にも自分のルーツを示すように版画集を描いていて、『ゴヤ頌』『夜』『悪の華』『起源』などがあります。ゴヤはスペインの画家ですが、晩年はルドンの生まれ故郷のボルドーで過ごしていて、幻想的で陰鬱な印象を受ける点においてルドンと共通するものを感じます、また、『夜』は師匠のブレスダンの肖像とされる素描を元にした作品で、この作品を作る前年にブレスダンが亡くなっているのでオマージュ的な意味もあります。『悪の華』はボードレールの詩集、『起源』は進化論を題材にしていて、『悪の華』や『種の起源』もクラヴォーの家で読んだものとなります。
 参考記事:《フランシスコ・デ・ゴヤ》 作者別紹介

オディロン・ルドン 「VI 日の光(リトグラフ集『夢想(わが友アルマン・クラヴォーの想い出に)』より)」
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こちらも同じ版画集の一枚。ガランとした室内が何とも寂しげな雰囲気に見えます。周りに真っ黒クロスケみたいなのが浮かんでいるのが気になりますが、恐らく微生物を模したもので クラヴォーから得た科学的知識を反映しているのだと思われます。それ以外は割と現実感あるモチーフばかりなのに幻想的に見えるのがルドンの凄さですね。

こうして大事な友人を失ってしまいましたが、一方では1889年に第二子が生まれていて、新しい希望のシンボルとなって作風が変わっていきます。ルドンは黒の作品が高く評価された頃には色彩の世界に脱皮しようとしていたらしく、木炭に材質が似たパステルに移行し、さらに油彩にも挑戦していきます。1898年にはペイル=ルバードの家が売却され、これはルドンの黒の時代の終了の象徴と言えるようです。その後の1900年代は肖像、花、神話など新しい分野にも作風を広げ名声を高めて行きました。

オディロン・ルドン 「眼をとじて」のポスター
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こちらは1900年以降の制作で、青を背景に眼を閉じている女性と、ケシの花?などが描かれた作品です。カラーになってまた違った幻想性が感じられます。ルドンは眼を閉じた女性をよく描いていますが、これは静けさと共にやや明るめな雰囲気があるように思えます。曲線や花はアールヌーボーとの関連が指摘されています。

ルドンの色彩の時代にはこうした花や蝶がよく描かれました。くすんだ色彩でシュールな夢の中にいるような雰囲気が出ているものが多く、花のモチーフや色の取り合わせだけなら華やかになりそうなのに、そうはならないのがルドンらしいところかなw また、色彩の時代には神話や宗教に関連する伝統的な主題を改めて取り上げたようです。そうした意味では伝統回帰とも言えますが、表現的な色彩と写実的絵画の奥行きを拒否した空間は20世紀のモダニズムの到来を告げているようです。

オディロン・ルドン 「ドムシー男爵の食堂装飾」の複製
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こちらは1901年の装飾作品。ドムシー男爵は1893年(ルドンが60歳の頃)にルドンと知己を得て作品を購入していき、やがて小品だけ描いていたルドンに父の城館の食堂装飾を依頼するようになりました。ドムシー男爵の食堂装飾は15点の壁画と「グランブーケ」が共に描かれ、これはその一部となります。装飾的でナビ派からの影響が感じられるかな。

こちらも壁画の一部。花が舞っているような部分です。
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この配置も絶妙で、実際に見ると花が流れていくような構成となっています。

こんな感じで、細長い壁画もあります。
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実際には窓なんかもあるので、そうした部分以外を埋めている感じかな。

こちらは人物っぽい姿もあります。上にあるのは太陽ではなく恐らくミモザ。
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ルドンは壁画制作にあたって南仏のルノワールを訪ねたそうで、そこで観たミモザに感動してミモザを壁画に描いたそうです。

オディロン・ルドン 「グラン・ブーケ」の複製
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こちらは1901年の作品で、先程のドムシー男爵の食堂装飾」とセットになった大型の絵画です。その名のとおり大きな作品で248.3cm×162.9cmもの大画面に青い花瓶に入った色とりどりの花が描かれています。オレンジ、黄色、緑など明るめの色で見栄えがしつつ、それでいてルドン独特の神秘的な雰囲気があり、非常に見事な傑作です。三菱一号館美術館で折々の機会で観ることが出来るので、是非実物を観て頂きたい作品です。

ルドンは1900~1911年頃に個人の収集家から装飾の依頼を受けることがあったようで、この作品以外にも屏風や椅子などのデザインも手掛けています。

オディロン・ルドン 「アポロンの二輪馬車」
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こちらは1907年の作品で、ドラクロワがルーヴル美術館の天井に描いたアポロンの馬車に触発されて描かれました。くすんだ感じの色彩や超現実的な光景がルドンならではの独特の世界となっていて、神話の主題によく合います。この馬車は荒々しいので太陽神アポロンだけが御することができ、4頭の馬と馬車は平和や自由の象徴となっているようです。これも夢の中の光景のようですね。

ルドンは1905年以降にこの「アポロンの馬車」の主題を油彩やパステルで繰り返し描いていて、似た構図のバリエーションが多く残されています。
 参考記事:《ウジェーヌ・ドラクロワ》 作者別紹介

オディロン・ルドン 「アポロンの戦車」のポスター
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こちらは1909年の作品で、先程と同じ主題となっています。天に向かって駆ける4頭の天馬と、その後ろに引かれる戦車に乗ったアポロンが描かれ、その下には岩山と合わせて すべて赤っぽい色合いの濃淡が付けられています。その繊細な色の違いが幻想的で、燃え立つような印象を受けます。この微妙な濃淡は版画時代の白黒の加減に似てるかも。

ルドンの奥さんは1909年にパリ郊外のビエーブルの土地と家を相続したそうで、そこがルドンの晩年の拠り所となりました。アトリエを設けて制作に励みここにあった作品なども制作していたようです。

オディロン・ルドン 「神秘の語らい」
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こちらは製作年不詳の作品。色彩の時代なのは確かで、淡くくすんだ仕上がりになっています。何の場面かハッキリしませんが、タイトルのような神話の中のような神秘性が感じられます。

ルドンはオルフェウスやスフィンクスなどの神話をテーマにした作品なども多く残しています。象徴主義の画家ギュスターヴ・モロー等もこれらテーマをよく描いていて、影響が指摘されています。

オディロン・ルドン 「二人の踊子」
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こちらは製作年不詳の作品。黄色と茶色の濃淡で巧みに表現していてルドン独特の色彩となっています。2人は踊り子とのことですが、何かの神話のワンシーンのようにも見えますね。

晩年の色彩のルドンは輝きに満ちていたように思われますが、第一次世界大戦によって再び暗雲が迫ったそうです。一人息子のアリが出征してしまい、ルドンは戦争のニュースを求めて外出した際に肺炎となり、1916年に76歳でパリの自宅で亡くなりました。


ということで、大きく分けて白黒の時代と色彩の時代があり どちらも魅力的な画風となっています。多くの先人の影響を受けながら、ひと目でルドンと分かる個性があり今でも人気の画家です。国内では岐阜県美術館のコレクションが有名で、都内でも三菱一号館美術館をはじめ数年おきに個展も開かれます。私も大好きな画家ですので、そうした機会は逃さず観ておきたい所です。


ルドン―秘密の花園 感想前編(三菱一号館美術館)
ルドン―秘密の花園 感想後編(三菱一号館美術館)
オディロン・ルドン ―夢の起源― 感想前編(損保ジャパン東郷青児美術館)
オディロン・ルドン ―夢の起源― 感想後編(損保ジャパン東郷青児美術館)
ルドンとその周辺-夢見る世紀末展 感想前編(三菱一号館美術館)
ルドンとその周辺-夢見る世紀末展 感想後編(三菱一号館美術館)


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《青木繁》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、明治末期の夭折の洋画家 青木繁を取り上げます。青木繁は28歳という若さで亡くなっていますが、同郷の親友だった坂本繁二郎らの顕彰によってその活動が広く伝わることになり、代表作の「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」は重要文化財に登録され、夏目漱石の『それから』に作品名と共に登場するなど今では伝説的な画家となっています。その画風は幻想的かつ象徴的で、神話を題材とした作品が多めとなっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

青木繁は1882年に旧久留米藩士の息子として生まれました。同じく洋画家となる坂本繁二郎とは小学校時代からの同級生で、無二の親友と言えます。中学の頃から仲間と文芸雑誌を作り、洋画家の森三美(坂本繁二郎も師事)から手ほどきを受けています。1899年には地元の学校を退校して上京し、小山正太郎(フォンタネージに師事した洋画家)の画塾 不同舎に入り、1900年には東京美術学校の西洋画科選科に入学しました。この当時の教師陣には黒田清輝や藤島武二もいました。
 参考記事:没後50年 坂本繁二郎展 感想前編(練馬区立美術館)

青木繁 「自画像」
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こちらは在学中の1903年の作品で、青木繁の20~21歳頃の自画像です。ちょっと反射で分かりづらくてすみません。こちらを観る横向きのポーズでオレンジの輪郭が粗い印象となっています。この翌年にも美大の卒業制作として描かれた自画像があり、もしかしたら下絵なのかも? 天才肌で気難しそうなイメージと、色合いのせいかどこか不穏なオーラがあるように見えますw

この1903年(東京美術学校の在学中)に黒田清輝らの白馬会が開催する白馬会第8回展に出品し「神話画稿」という作品で白馬賞を受賞しています。ちなみに、青木繁が画家を志すようになったのはアレクサンダー大王を崇拝していたからだそうで、この時代に軍人になっても到底にアレクサンダーの心事に到達できないと考え、芸術によって高潔で偉大で真実な者になれるという考えに至ったようです。

青木繁 「輪転」
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こちらも1903年の作品。実に象徴的で神秘的な雰囲気が漂い、女性たちの舞い踊る様子が何かの儀式のように思えます。青木繁にはこうした神話や宗教を思わせる作品が結構あるように思います。ロマン主義や象徴主義の要素を感じますね。

東京美術学校の同級生には熊谷守一などもいて、お互いに切磋琢磨していたようです。青木繁は教師であった黒田清輝に対しては尊敬と反発が相半ばの複雑な感情を持っていたそうです。全般的には作風はあまり似てないけど、たまに黒田っぽいなと感じる作品もあるかな。

青木繁 「運命」
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こちらは1904年の作品。3人の女性が海で玉らしきものを持っていて人魚か精霊のように見えます。全体的にぼんやりとしているし、ファム・ファタル的な魔性を感じるのはこの頃の世紀末美術の影響でしょうか。タイトルも何だか意味深ですね。

青木繁は東京美術学校卒業後の1904年の7月中旬に、画家仲間の坂本繁二郎、森田恒友、恋人の福田たね と一緒に4人で房州布良(千葉の館山付近)に1ヶ月半ほど滞在しました。
 参考記事:森田恒友展 自然と共に生きて行かう 感想前編(埼玉県立近代美術館)

青木繁 「海景(布良の海)」
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こちらは1904年の作品で、ゴツゴツした岩場に緑がかった海で日本の海っぽさを感じます(布良は房総半島の南端) 岩場の向こう側の激しい波と、岩場の手前穏やかさの対照的な表現が面白い。この頃、青木繁は点描による外光表現の模索や、モネ的な要素の作品も描いていたようで、波が複雑な色からは確かにモネからの影響を連想させます。海の力強さと、色合いの緻密さを感じる作品です。

この年からイギリスのラファエル前派からも影響を受けるようになりました。1904年は青木繁の充実の年となっています。

青木繁 「海の幸」
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こちらも1904年の制作で、おそらくこの画家で一番有名な作品です。裸の漁師が2列×5人並んで左へと歩いて行く様子を描いていて、先頭の人はサメのような大きな魚を担いでいます。画面中央あたりには銛に乗っけた魚の姿もあり、堂々たる凱旋の雰囲気があります。赤い輪郭線などで描かれているので、原初的な風景と相まって非常に力強い生命感を感じさせます。また、人々の顔は細かく描かれている人もいれば、まだ描かれていないような人もいて、未完成だったことが伺えます。この作品は結局、9月下旬に未完成のまま出品したそうですが、多くの人から高い評価を受けたのだとか。日本の洋画で重要文化財になったのはこの作品が初めてとなっています。

この旅に同行した福田たね とは不同舎で出会い、一目惚れだったようです。この翌年の1905年には子供も生まれていますが、最期まで入籍することはありませんでした。こうした向こう見ずな性格が災いしたのか、家族と衝突したり 画才はあっても商才は無く、ここから先は苦難の人生となります。

青木繁 「大穴牟知命」
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こちらは1905年の作品で、古事記のオオナムチノミコト(大国主命)の受難の物語を描いています。中央下部に裸で仰向けになって倒れる大国主命が描かれていて、これは焼き石に打たれたらしく苦しそうに少し弓なりに仰け反っています。その周りでは2人の白い衣の女性が介抱していて、1人はこちらをチラッとみていて、こちらに気がついたような感じです。神話だけど生々しい雰囲気です。

この頃の青木繁は国内外の神話や聖書を拠り所にしていて、特に日本の神話は発想の大きな源だったようです。この作品もそうですが、画風は以前よりもラファエル前派の影響を感じせるようになっています。

青木繁 「狂女」
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こちらは1906年の水彩作品。詳細が分かりませんが、叫ぶような顔つき狂気を感じさせて鬼気迫るものがあります。粗目の仕上げもそれを強めているようでちょっと怖いw

青木繁はこの頃に旧約聖書の挿絵なども手掛けています。天地創造、モーセ、ダビデ王などを描いていて、その中に「ヤエル、シセラを斬る」という挿絵もあります。先程の「狂女」の裏にはその下絵と思われるデッサンが描かれているようなので、何らかの関係があるかもしれませんね。

青木繁 「日本武尊」
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こちらは1906年の作品で、ヤマトタケルノミコトを描いています。どちらが日本武尊(ヤマトタケル)か分かりませんが、2人とも英雄然としています。この作品もラファエル前派のっぽさが感じられると同時に象徴主義的なものもあるように思います。日本の神話と西洋の画風が見事に融合しているのが見事。

この頃には息子を描いた作品や、福田たね との合作なども残しています。

青木繁 「わだつみのいろこの宮」
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こちらは1907年のもう1つの代表作。古事記の綿津見の宮物語を題材にした作品で、釣り針を取りに来た山幸彦と豊玉姫の出会いのシーンとなっています。(後に2人は結婚) 縦長の画面で、上部に腰掛けている山幸彦、下部に豊玉姫と侍女らしき女性が一緒に瓶を持っています。右の女性が豊玉姫かな? 山幸彦と見つめ合っていて、柔らかい雰囲気ながらも一種の緊張感と神秘性を感じます。また、山幸彦が下ろした腕と、2人の女性が三角形を描いている構図も面白い。この縦長の画面に3人の人を嵌めこむ構図はエドワード・バーン=ジョーンズなどのイギリス美術の影響なのだとか。この作品の為の下絵も残っていて入念に準備していたようですが、残念ながらこの作品は東京府勧業博覧会で3等賞という不本意な結果に終わったそうです。それに対して青木繁は雑誌で抗議しています。

冒頭に書いたように、夏目漱石は『それから』で青木繁を取り上げ、「わたつみのいろこの宮」という具体的な名前も挙げています。漱石は「芸術は自己の表現に始まって自己の表現で終わるものである」という名言を残していて、他人の評価に必要以上に左右されず、徹底して自己に向き合いその苦しみに耐えることを求めていたそうです。その為か、黒田清輝や和田英作ら画壇の重鎮には相当に手厳しく批評する一方で、青木繁や坂本繁二郎といった個性的な若手には好意的な批評をしていたようです。実際、この作品は今では名作として名高い訳ですから、漱石の審美眼にも驚かされます。

青木繁 「筑後風景」
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こちらは1908年の作品。青木繁は1907年に父の危篤の報を受けて九州の久留米に帰省したものの、父親が亡くなると家族と衝突して一人で九州各地を放浪してこうした絵を残しています。意外と写実的で明るい雰囲気となっていて、何だか一気に雰囲気が変わった感じがします。九州時代は精彩を欠いているとの評価ですが、ちょっと他の人の作品みたいに思えますw

この後、家庭の事情で再上京もかなわず画壇にも復帰出来ないままでした。九州各地を放浪していたのは友人・知人のネットワークを利用しようとしていたとの見方もあるようです。しかし、復帰の夢も果たせぬまま肺病が悪化して1911年に28歳で夭折してしまいました。…と、生前の評価だけなら忘れられた天才となってしまいそうな所ですが、青木繁が亡くなって1年後に親友の坂本繁二郎らによって遺作展が開催され、翌年には画集が発刊されています。1933年には郷里の久留米で青木繁特集が組まれ、河北倫明によって青木の評伝がまとめられました。これによって、我々一般人にも知られるようになったので、こうした名作が観られるのは坂本繁二郎のおかげと言えそうです。


ということで、幻想的で何処か妖しい魅力がある画風となっています。久留米にゆかりのあるアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)に所蔵品が多くあり、個展や特集を組まれることもあります。ちょうどこの記事を書いた時期にも青木繁の名前を冠した常設特集(「わだつみのいろこの宮」と「海の幸」も出品)をやっているようなので、気になる方はチェックしてみてください。
 参考リンク:石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 青木繁、坂本繁二郎、古賀春江とその時代 久留米をめぐる画家たち
 会期:2020年11月03日(火)~ 2021年1月24日(日)


 参考記事:
  没後100年 青木繁展ーよみがえる神話と芸術 (ブリヂストン美術館)


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《ジョサイア・コンドル》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、明治期にお雇い外国人として来日して日本近代建築の基礎を築いたイギリス人建築家ジョサイア・コンドル(ジョサイヤ・コンダー)を取り上げます。ジョサイア・コンドルは、工部大学校(現在の東京大学工学部)の教授として辰野金吾(東京駅を設計)、片山東熊(赤坂離宮を設計)、久留正道(国立国会図書館国際子ども図書館を設計)といった日本の近代建築の巨匠となる建築家を育成し、自身も鹿鳴館などを設計しました。教授を辞めた後もニコライ堂、三菱一号館など数多くの建物を手掛けていて、関東大震災や戦災、取り壊しなどで半分近くは失われていますが 現在でも都内に残っている建物があります。今日はそうしたジョサイア・コンドルの建物を過去に撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


ジョサイア・コンドルは1852年にロンドンの銀行員の家に生まれました。祖父は聖書関連の著述業、叔父は土木技師といった裕福な一家で親類には聖職者や芸術家などもいたようです。12歳の頃に父が亡くなってしまいましたが、奨学金を得て建築家を目指しサウスケンジントン美術学校とロンドン大学で建築学を学んでします。1873年には建築事務所に務めましたが2年後に辞めてデザイナーの元でステンドグラスも学びました。そしてその翌年の1876年にカントリーハウスの設計で英国王立建築家協会の設計競技で一等となり「ジョーン・ソーン賞」を受けています。一方この頃、日本はイギリス人の建築家を工部大学校の教授として探していて、経緯は不明なもののまだ24~25歳のコンドルが1877年から5年間の契約で日本に渡ることになりました。日本で教師として働き前述の辰野金吾らを育成する一方で、工部省に属して政府関係の諸施設の設計を受け持ち、1883年には自身が設計した鹿鳴館が竣工しています。契約終了で工部大学校の教授を退官してからは1888年に建築事務所を開設し、それ以降日本で数多くの設計を行いました。


こちらは1891年(明治24年)竣工のニコライ堂。
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日本ハリストス正教会の聖堂で、ハイル・シチュールポフとジョサイア・コンドルの設計によって建てられました。この聖堂は「ビザンティン建築」様式となっていて、当時日本初だったようです。イコンなども置かれ、正教会の文化となっています。

ジョサイア・コンドルは日本のことをよく知るために河鍋暁斎に弟子となり「暁英」の画号も貰っています。河鍋暁斎の晩年の自画伝「暁斎画談 外篇」ではジョサイア・コンドルと共に日光に旅行する様子が描かれるなど可愛がられていたようで、1889年の暁斎の臨終の際にも駆けつけるなど強い信頼関係があったようです。没後はコンドルによって河鍋暁斎の画業をまとめた研究所も出版され、海外で暁斎の名声が高まる大きなきっかけとなっています。

こちらは1894年(明治27年)竣工の三菱一号館を再現したもの。
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今は三菱一号館美術館として活躍していますが、元々は銀行や商社として使われていました。ジョサイア・コンドルの設計は多様な様式を取り入れているので建物によって結構違いますが、ここではクイーン・アン・スタイルという英国ビクトリア時代の建築様式のレンガ造りで華麗かつ荘厳な印象を受けます。ちなみにこの建物に使ったレンガの数は何と230万個! 

1939年くらいまで丸の内付近にこの一号館とよく似た雰囲気の建物が曾禰達蔵などの弟子たちによって数多く作られ、丸の内は「一丁倫敦」と呼ばれる地域になりました。東京駅も弟子の辰野金吾の設計ですしね。

こちらは再現の際に苦労したドーマー窓と呼ばれる窓
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写真だけを頼りに復元したようです。当時のジョサイア・コンドルの設計はこうした細かい所まで行き届いていたんでしょうね。

こちらは内部で、元は銀行営業室だった所です。
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大きな柱が目を引く作りで、この内装の雰囲気はジョサイア・コンドルの建築の特徴かも。今はカフェとして大人気となっています。

この後もジョサイア・コンドルは三菱財閥と深い関わりを持っていくつも建物を作っています。コンドルは日本で80件あまりの設計を行い、そのうち40件は富豪の住居や別荘となっています。ちなみにこの建物が竣工する1年前の1893年に日本人の くめ という女性と結婚しています。日本に骨を埋める覚悟が感じられますね。

こちらは1896年(明治29年)竣工の三菱財閥の3代目総帥 岩崎久弥の茅町本邸。現在の旧岩崎邸庭園です。
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全体的にはジャコビアン様式と呼ばれるイギリスのルネサンス建築の様式(ジェームズ1世の時代のもの1603~1625年頃)で、装飾性がありつつ落ち着いた雰囲気となっています。

横から見るとこんな感じ。
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ガラス張りの部分が多いので中に入っても結構明るかったりします。

裏に回ると柱が並ぶ大きなベランダがあります。
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これはコロニアル様式と呼ばれるイギリスの植民地でよく建てられた様式を組んでいて、アメリカっぽい雰囲気を感じるかな。ジョサイア・コンドルの建物でいくつか使われているので好んでいた様式なのかもしれません。

本館の隣に撞球室(ビリヤード場)があり、こちらもジョサイア・コンドルの設計です。
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こちらはスイスの山小屋風という趣向となっていて、雰囲気が全然違いますね。多くの様式を自在に組み込んでいる感じです。

こちらは岩崎邸の内観
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アーチの連続が優美な雰囲気となっています。天井にも装飾があって洒落ています。

こちらはほぼ同じ場所から後ろを振り返っています。奥に見えている階段で先程の撞球室へと地下で繋がっています。
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これだけ観ると外国の様式を日本に持ってきただけのように見えますが、実際には日本の金唐紙を使ったりイスラム風のデザインを取り入れるなど独自のアレンジも行われています。その傾向はこの後の建物にも観られます。

この後、ジョサイア・コンドルは岩崎弥之助の高輪邸も手掛けています。今は三菱開東閣となっていて一般には非公開の建物です。

こちらは1910年(明治43年)の岩崎家廟。今の静嘉堂文庫の庭園にあります。
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これは岩崎家のお墓で、教会のようで教会ではない独特の形をしています。西洋風と東洋風が合わさったような不思議な雰囲気で、ドーム状なのでニコライ堂に似ているようにも思えます。

1913年には三井家倶楽部(今の綱町三井倶楽部)も作っています。この時代の財閥系の建物の多くがジョサイア・コンドルによるものですねw

続いてこちらは1915年(大正4年)の島津家袖ヶ崎邸。現在は清泉女子大学の本館となっています。
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元々は島津公爵の邸宅で、ルネサンス様式を基調としています。

1906年に設計を依頼したのが1915年竣工なので結構時間がかかったようです。1917年には大正天皇・皇后も行幸され、名士を2000人も呼んで園遊会が開かれたのだとか。

こちらは庭に面した外観。柱が連なるバルコニーはちょっと岩崎邸と似た雰囲気です
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中央部分が円形にせり出しているのが特徴かな。1階は公式空間、2階がプライベート空間となっていたようです。

こちらは先程の庭から入ってすぐにある泉の間(元応接室)
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ここには大型の鏡があって、部屋を広く見せる効果があるようです。白壁に気品があり、天井や暖炉にバラの紋様が多用されていました。内装には黒田清輝が関わっているそうで、薩摩の生まれだけに島津公爵とは縁が深そうですね。

この隣は立派な聖堂がありますが、聖堂は撮影禁止でした。元々は食堂だったそうで、壁の横に配膳室に繋がる窓があります。この仕掛けは後の旧古河邸と同じかな。

こちらは1階ホールにある階段。光っている部分はステンドグラスで、明るすぎて真っ白に写ってしまったw
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階段は同じくジョサイア・コンドルが設計した鹿鳴館に似ていたそうです。岩崎邸にも似てるかな。手すりの下の柵まで彫刻が施されています。

ちなみにここは女子大の校舎として現役で使われているので、一般人が入る機会は春秋それぞれ数回の見学会に限られています。2020年はコロナで中止になってしまったし、見学のハードルが高い建物です。

最後に1917年(大正6年)の古河虎之助邸。今は旧古河庭園となっています。 
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外観はスコティッシュ・バロニアル様式で、周りを本小松石で覆った重厚な雰囲気となっています。

こちらは横から見た様子。
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中は撮影できませんでしたが、和室もあり真行草の格式に分かれていて、コンドルは日本の技法や作法を取り入れて設計していたのが分かります。和洋折衷ではなく和と洋をあえて原色のまま残した感じになっているのが、この建物の特徴です。

最後にステンドグラス。
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ステンドグラスを学んだこともあっただけに、ジョサイア・コンドルの建物ではよく見かけます。この古河邸は現存で一番最後の作品で、集大成といえる存在です。


他にも旧英国大使館別荘に関して相談を受けていたり、今は失われた建物も数多く設計していました。その功績は大きく、日本の近代建築物だけでなく建築家の育成においても祖と言える存在だと思います。ご紹介したように公開されている建物もあるので、カメラを持って建築巡りしてみるのも楽しいかと思います。


 参考記事:
  旧岩崎邸の写真 2010年10月
  旧岩崎邸の写真 その2
  旧岩崎邸の写真 その1
  旧古河庭園 外観の写真
  旧古河庭園 内部見学
  ニコライ堂と神田明神の写真
  三菱一号館竣工記念「一丁倫敦と丸の内スタイル展」 (三菱一号館美術館)
  静嘉堂文庫美術館の建物と庭園
  山のホテルと箱根神社の写真 (箱根編)
  旧英国大使館別荘 日光編
  ジョサイア・コンドル 「旧島津公爵邸」(2019年04月)
  河鍋暁斎 その手に描けぬものなし 感想後編(サントリー美術館)
  片山東熊 (迎賓館赤坂離宮)(外観の写真 2018年9月)



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《今村紫紅》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、明治末期から大正にかけて活躍した夭折の日本画家 今村紫紅を取り上げます。今村紫紅は俵屋宗達や南画に私淑し、西洋の印象派やゴーギャン等にも影響された画家で 従来の日本画を壊す新しい画風を模作し後進の画家に大きな影響を与えました。晩年には速水御舟などの後進画家に「一度つきつめたら壊さないと駄目。壊せば誰かが作ってくれる。僕は壊すから君たちは建設してくれたまえ」と話していて、今村紫紅の性格や志向をよく表す言葉となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


今村紫紅は1880年に横浜の輸出向け提灯商の三男の寿三郎として生まれました。1895年(15歳頃)から洋画家の山田馬介に水彩画を学び、1897年からは兄と共に日本画家の松本楓湖に師事し、翌年の1898年から今村紫紅と号しています。そして同年に日本美術協会展で「箙 (えびら) の梅」を初入選させ、順調なスタートとなっています。

今村紫紅 「絵巻物模写 伴大納言絵巻(其一)」
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こちらはデビュー間もない1899年頃の作品。国宝である12世紀の「伴大納言絵詞」を原画にして忠実な模写となっていて、早くも高い描写力を見せています。866年の応天門の放火事件(応天門の変)を題材にしていて、1巻では大臣が帝に対応を進言するまでの話で、ここでは検非違使が出勤する様子となっています。生き生きと動きのある雰囲気で、古画そのものといった出来栄えになっています。

こちらは続き
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人々が門を見上げたり逃げていく様子が描かれていて、混乱しているのが伝わってきます。彩色は簡略なものとなっているようです。

こちらは燃えているシーン。
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後に日本画に新しい息吹をもたらす今村紫紅ですが、こうした古画の中から色彩や様式化を学んでいたのではないかと思われます。

この2年後の1900年に生涯の友となる安田靫彦と出会い、紫紅会に入会しています。奇しくも今村紫紅と同じ名前だったので、1901年には安田靫彦、小林古径、前田青邨らと会の名前を変えて「紅児会」を結成しました。

安田靫彦 「紫紅の像」
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ちょっと寄り道でこちらは安田靫彦による今村紫紅の肖像。今村紫紅が亡くなった1916年に追悼の為に描かれた作品(35歳)で、非常にダンディな姿となっています。情熱的かつ冷静な人物で、豪放で後輩の面倒見も良い兄貴分だったらしく、1回り以上年下の速水御舟も今村紫紅に心酔していました。そのため、リーダー的な存在で同世代や後輩への影響力は大きかったようです。

紫紅の画号は「千紫万紅」(様々な美しい色のこと)から取った名前となっています。名は体を表すように、今村紫紅の作品は色鮮やかなものとなっていきます。

今村紫紅 「平親王」
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こちらは1907年の作品。今村紫紅は歴史画からスタートしたので歴史人物の肖像もよく描いています。平将門がモチーフですが、将門は「新皇」を名乗っていたため明治期には国家に対する反乱者として画題に取り上げられなくなった人物です。それを敢えて権威に対して反抗した英雄として描いているのが今村紫紅の絵に対する態度の現れかもしれませんね。立派な剣を持っている一方で表情は悩んでいるようにも思えます。

この年の春に、今村紫紅は茨城県の五浦にある日本美術院を訪れ、安田靫彦と共に岡倉天心の指導を受けています。その際、横山大観や菱田春草らの制作に取り組む姿勢に感銘を受けて奮起し、後に強烈な色彩で従来にない構図を用いて南画風の描法を示すことになります。ちなみにその時に菱田春草が描いていたのは先日ご紹介した「賢首菩薩」で、その点描技法に大いに啓発されたと後に語っています。
 参考記事:《菱田春草》 作者別紹介

今村紫紅 「時宗」
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こちらは1908年の作品。右の人物は鎌倉幕府の第8代執権の北条時宗で、左の人物は宋から招いた禅僧の無学祖元です。1281年の弘安の役の際に祖元の教えを請い、国難に立ち向かう覚悟を決めるところを描いているようで、お互いに緊張感ある面持ちに見えます。解説によると僧の衣の彩色や構図に菱田春草の「賢首菩薩」からの影響が観られるようで、点描を意識していたようです。

今村紫紅は岡倉天心に好きな古画を聞かれた際に俵屋宗達の名を挙げていました。俵屋宗達を私淑していて、それがきっかけで俵屋宗達が再評価されたという説もあります。

今村紫紅 「伊達政宗」
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こちらは1910年の作品で、伊達政宗が秀吉に一揆と内通している嫌疑で呼び出しを受けた際、黄金の十字架と死に装束を着て現れたエピソードを元にしています。ここでは落ち着き払った雰囲気かな。(この頃の政宗は熱心なキリスト教徒だったので磔刑の十字架を持ってきました) この後、花押に針の穴が無いから偽書状と言って逃れたけど、どうも怪しい…。政宗のパフォーマンスぶりがちょっとふてぶてしくも見えるけど、凛々しい姿です。

この頃から三渓園で有名な原三渓がパトロンになって原邸で古画の鑑賞会が開かれるようになりました。今村紫紅はそこで目にした富岡鉄斎の研究を行うようになり、南画へと傾倒していきます。

今村紫紅 「風神雷神」
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こちらは1911年の作品で、題材から分かるように俵屋宗達からの影響が伺えます。とは言え、かなり独創的で楽しげな雰囲気となっているかなw 琳派だけでなく ゆるい南画的な要素も出てきたように思います。

岡倉天心は南画をあまり評価していなかったそうが、それでもあえて今村紫紅は南画に取り組んでいきました。これはあらゆる画風を学習の素材とすべきと考えていた為で、進取の精神が伺えます。

今村紫紅 「鞠聖図」
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こちらも1911年で、平安後期の公卿で蹴鞠の名人だった藤原成通を描いたものです。猿が鞠を持って運んでいるのは『古今著聞集』などに残された逸話で、猿の姿の鞠の精霊が現れ藤原成通の偉業を讃えているシーンのようです。猿の姿が何とも可愛らしくて、それを観る藤原成通も興味深げな表情が面白いw この絵では色は淡く、藤原成通の洗練された雰囲気が伝わってくるようです。

この頃、日本にポスト印象派の作品が紹介されていて、今村紫紅はそれも自身の画風に取り込んで行きました。晩年はゴーギャンなどに近いものを感じます。
 参考記事:《ポール・ゴーギャン》 作者別紹介

今村紫紅 「柳に叭々鳥」
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こちらは1912年の作品。背景が金地になったこともあり今までより明るい印象を受けます。簡略化された表現などは南画の影響でしょうか。鮮やかなのに静かな雰囲気なのも面白い。色々な流派を研究した成果が出ている感じですね。

この頃、速水御舟が紅児会へと入会してきました。しかし1913年に解散し、その会員の多くは1914年に再興される日本美術院に参加していくことになります。

今村紫紅 「近江八景」
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こちらは第6回文展で二等賞を受賞した1912年の代表作です。琵琶湖の名勝を描く江戸時代以降の頻出の題材ですが、南画っぽさがありつつ明るい色彩で斬新な印象を受けます。この絵には西洋絵画からの影響も色濃く出ていて、まさに新しい日本画と言えそうです。

1913年には日本美術院の指導者であった岡倉天心が亡くなっています。岡倉天心の臨終に際し、横山大観・下村観山は共に日本美術院の再興を計画し、その翌年の1914年に横山大観、下村観山、木村武山、安田靫彦、今村紫紅、小杉未醒らと共に日本美術院を再興しました。

今村紫紅 「『印度旅行スケッチ帳』より」
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こちらは1914年のインド旅行でのスケッチ。簡素でゆるい素描となっているけど、現地の雰囲気が伝わってくるかな。緑とオレンジをあわせる色使いが西洋絵画のような印象を受けます。

この1914年に今村紫紅はゴーギャンのタヒチ時代のような新たな画境を目指し、バンコクやシンガポール、ラングーン、カルカッタなどを旅行しています。そしてその道中で描いたスケッチを元に代表作が作られることとなります(なお、この時に川端龍子も共にインドに行っていたようで、川端龍子も旅の途中で描いたスケッチなども残しています。)

今村紫紅 「熱国の巻(小下絵)」
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こちらも1914年で、代表作の下絵です。ここで言う熱国は具体的に何処と言うわけではないですが、椰子の木が連なり南国特有の雰囲気とリズムを生んでいるように思えます。

今村紫紅 「熱国之巻(暮之巻)」
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そしてこちらが1914年の代表作で、インド旅行から着想を得て架空の熱国を描いています。大きな川や赤~黄に染まる砂漠の色合いが強く、非常に明るい印象を受けます。大胆な点描が使われているのも特徴と言えそうです。

こちらは続き
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椰子の木、赤い屋根の家々などが描かれ、全体的に金砂子がまかれています。その光景は異国情緒がありつつ手法は日本的なところがあるのが面白いです。単純化された様式と相まって琳派、南画の要素もありつつ、ゴーギャンやセザンヌ的なものも感じるかな。しかしどれでもないようにも思えて、今まで学んだものが結実しているのが分かります。まさに今村紫紅の集大成と言える作品です。

この年に再興院とは別に今村紫紅を中心に赤曜会が結成されました。そこで今村紫紅は速水御舟などの後進画家に「一度つきつめたら壊さないと駄目。壊せば誰かが作ってくれる。僕は壊すから君たちは建設してくれたまえ」という言葉を残しています。壊すだけでなく新しい日本画を作っているように思えますけどねw

横山大観・下村観山・今村紫紅・小杉未醒(放菴) 「東海道五十三次絵巻 巻1」
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こちらは1915年の4人の合作で、4人で人力車や籠を使って東海道五十三次を旅した時に描いた絵巻です。今村紫紅の部分を抜粋すると、まずは品川が描かれています。 真横から建物を幾何学的に描いていて、遠くに見える海と共に水平の構図となっています。横長の画面を上手く使っているのが面白い。

これは五浦を引き払った頃に行った20日かけたスケッチ旅行だったらしく、当時の新聞記事などでも取り上げられたようです。

続いてこちらは神奈川。
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今村紫紅にとっては地元じゃないでしょうかw こちらも斜めの構図でちょっと階段状になっているのがリズムを感じます。南画っぽさが素朴な雰囲気を生んでますね。

こんな感じで旅もして絵もいよいよ充実してきた所ですが、この翌年に亡くなってしまいます。酒で肝臓を痛めていたようで脳溢血で亡くなったようです。

今村紫紅 「春さき」
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こちらは最晩年の1916年の作品。一層に簡素な南画風になっていて、長閑な印象を受けます。遠くに人の姿らしきものがあって一種の理想郷のような雰囲気かな。ピンクの花が暖かい春を感じさせますね。


ということで、古画や西洋絵画を取り込みつつ新しい表現を模作した画家となっています。傑作を連発しだした頃に亡くなってしまったのは惜しいとしか言いようがありません。個展は観たことがありませんが、日本美術院やその周辺の画家の展示で目にする機会は結構あると思いますので、名前を覚えておくとこの頃の日本画の革新ぶりに理解が深まるのではないかと思います。



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