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《アメデオ・モディリアーニ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、エコール・ド・パリの1人として名高いイタリア人のアメデオ・モディリアーニ(モジリアニ)を取り上げます。モディリアーニはアフリカ彫刻に影響を受け、縦に引き伸ばされた画風で有名で、彫刻に専念していた時期もあったので彫刻家の視点を持った画家と言われることもあります。少年期に結核となり酒や薬物に溺れたのが災いして夭折していて、画業に専念してから亡くなるまでの僅か4~5年の間に代表作が集中しています。作品の大半は肖像・裸婦像で、一度観たら忘れられない個性的な画家です。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


アメデオ・モディリアーニは1884年にトスカーナ地方のリヴォルノで事業家のユダヤ系の家に生まれました。元々は裕福な一族だったようですが、モディリアーニが生まれた直後に不況で家は破産しています。幼い頃から絵の才能をみせ14歳からは美術学校で学んでいましたが、16歳の時に結核と診断され転地療養の為に母とイタリア各地を旅行しています。その際にイタリア美術を直接観る機会がありティノ・ディ・カマイーノの彫刻などに影響を受けていて、さらにイタリアの印象派とも呼ばれるマッキアイオーリ(マッキア派)などにも強い影響を受けました。
 参考記事:イタリアの印象派 マッキアイオーリ展 (東京都庭園美術館)
転地療養で1902年にフィレンツェの裸体画教室、1903年にヴェネツィアの美術学校で学び、この頃からボヘミアン的な暮らしをしていたようです。そして資金が無くなり1906年にパリに移り、アカデミー・コラロッシに入学しました。この際、モンマルトルに住み 近くにはピカソ達の洗濯船もあったことからモンマルトルの画家たちと交友関係を広げていきました。(この頃にはすっかりアルコール中毒・薬物中毒になっていたようです)

アメデオ・モディリアーニ 「若い男の顔」
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こちらは1908年の作品で、初期の水彩作品となります。首が長い肖像画となっていて、早くも画風の特徴が観られます。一方で表情は割と写実的で、まだ瞳も描かれているようです。

この前年にはセザンヌの回顧展を観て強い影響を受けたようです。アカデミスムに染まった自分に嫌悪したのか、これ以前のほとんどの初期作品は自分自身で破壊しているのだとか。

アメディオ モディリアーニ 「ポール・アレクサンドル博士の肖像」
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こちらは1909年の作品で、モデルは皮膚科の医師でありモディリアーニの作品を買って励ましていたパトロンとも言える人物です。こちらはまだ顔が細長くもないしアーモンド型の目でもない画風となって、精悍な印象を受けます。この医師は第一次世界大戦で出征してしまうまでモディリアーニを支え続けてくれたようで、同じ年に3点も肖像を描いています(この絵はヤマザキマザック美術館のですが、富士美術館によく似た作品があります。もう1点は個人蔵) 背景に飾ってあるのは前年に描いた「ユダヤ女」で、博士が購入してくれたものです。モディリアーニの1つ年上で当時26歳とは思えない堂々たる威厳を感じるのは精神的支えでもあった医師へのリスペクトの気持ちの表れかもしれませんね。

この1909年にモンパルナスのラ・リュッシュ(蜂の巣)へと移り住んでいます。また、アレクサンドル博士を通じてルーマニア出身の彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシと知り合いました。3人は当時大きなブームとなっていたプリミティブ美術や黒人芸術に共に大きな興味を持って語り合っていたようです。そして当初から彫刻家になりたいという気持ちのあったモディリアーニはブランクーシに彫刻を学び、1914年頃まで彫刻に没頭し20数点の彫刻作品を制作しています。モディリアーニの彫刻はアフリカ芸術に影響を受けた単純化されプリミティブなもので、それ以降の絵画の特徴に引き継がれていきます。(残念ながら彫刻作品の写真は撮ったことがありませんが、箱根彫刻の森美術館などにあります)

アメデオ・モディリアーニ 「新しき水先案内人ポール・ギヨームの肖像」
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こちらは1915年の作品で、モデルは画商のポール・ギヨームです。モディリアーニが4点描いたギヨームの肖像の1枚で、この絵のギヨームは23歳頃らしく、タバコを持って帽子にスーツ姿のダンディな姿で描かれています。まだ写実的な感じがありつつも簡略化された描写で、背景は赤っぽく ギヨームはやや見おろすような感じでこちらを観ているかな。非常に個性的かつ印象深い作品で、モディリアーニの作品の中でも特に好みです。左上にはギヨームの名前が書かれ、左下に書いてある文字は「新しき水先案内人」という意味で、右下には卍のようなマーク、右上には聖母マリアを暗示する海の星かダビデの星があるようです(この星は観てもよく分からず) ギヨームはアトリエを借りてモディリアーニを支援していたので、敬意を込めてそうした記号もくわえたんでしょうね。

1915年には彫刻から絵画へと戻ってきています。体調の悪化で体力が無くなったことや資金不足で材料にも困る状態だったのが原因で、1914年にギヨームと出会って絵画に回帰することを勧められています。ここから晩年の1919年(1920年1月に亡くなっている)にかけての僅か4年がモディリアーニの画業の重要な時期で、300点以上も絵画を制作しました。

アメデオ・モディリアーニ 「Antonia」
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こちらも1915年の作品です。首が長く青い目をしたアフリカ彫刻のような肖像画となっていて、ざらついた画面でモディリアーニの個性が遺憾なく発揮されているように思います。先述の通りモディリアーニはピカソらと交流があった訳ですが、キュビスムには参加しなかったものの影響を受けていて、この絵では特に鼻の形が正面からと横から見た形が合わさっているのが分かります。背景も幾何学的な構成になっていて、それを感じさせるかな。

モディリアーニはカフェで初めてギヨームに会った際、「君は絵を描くのか?」と聞かれ、同席した友人に「はい と言え」と囁かれて「少し描きます」と答えたそうです。するとギヨームは「カンバスを持って僕のところに来なさい」と言ったのだとか。実際はこの時期のモディリアーニは彫刻しか制作していなかったので、それを機に(再び)絵画を描くようになりました。ちなみにギヨームはアフリカ美術を扱って地位を得た人物なので、モディリアーニの芸術には欠かせない存在と言えます。

アメデオ・モディリアーニ 「Fille rousse」
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こちらも1915年の作品で、日本語にすると「赤毛の少女」です。この絵でもキュビスム的な特徴が出ていて、幾何学的な背景や様々な茶色っぽい色合いがその影響と考えられます。ちょっと首が斜めに伸びた感じだけど、背景も斜めになっているので相殺されて見えるのが面白い。一方、単純化されているものの目はくっきりして頬は赤みがかっているなど、モデルの雰囲気がよく伝わってきて青いアーモンド型の目の作風とは異なっているのも確認できます。同じ年でも色々模索して実験していたようですね。

この頃、第一次世界大戦が起こっていますがモディリアーニは病気のため兵役には就きませんでした。しかし友人のポール・アレクサンドルは召集され、2人は再び会うことはなかったようです。

アメデオ・モディリアーニ 「Femme au ruban de velours」
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こちらは日本語にすると「ベルベットのリボンを持つ女性」となります。1909年から1914年の彫刻の頭部と、同時期に行われたカリアティード(女性の立像)を写したもので1915年に描かれています。背景には2本の木があり、所々に白い部分(キャンバスの白さ)が露わになるような技法があり、ちょっとセザンヌを想起させるかな。こうしたタッチは1914年から1915年までの実験の一部なのだとか。

モディリアーニは1916年にポーランド人画商のレオポルド・ズボロフスキーと専属契約を結びました。絵をすべて引き取る代わりに画材などを提供されたようです。

アメデオ・モディリアーニ 「婦人像(C.D.夫人)」
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こちらは1916年頃の作品で、モデルは詳細不明です。この絵は黒い眼をしていて、細長の顔は気品に溢れた佇まいで、どことなく憂いを含んでいるような美人ですね。やや斜めになった構図も先程の作品と同様でモディリアーニの特徴となっています。モディリアーニの肖像画の中でも特に魅力的な1枚です。

今回ご紹介しているモディリアーニ作品はすべて肖像画ですが、晩年にも風景画を4点描いています。かなり貴重なので滅多に観る機会はないものの、セザンヌやキュビスムを感じる画風となっています。

アメデオ・モディリアーニ 「若い女の胸像(マーサ嬢)」
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こちらは1916~1917年頃の作品。この絵もモデルは不明ですが仮面を思わせる長い顔で青い目をしていて 顔はやや斜めにかかれています。背景が3つの色彩に分割されているのが面白く、女性の顔と服を合わせて5~6のブロックに分かれたような構成となっています。落ち着いた雰囲気も出ていて好みの作品です。

モディリアーニは生前は貧しい暮らしでしたが、多くの芸術家仲間がいました。キスリングとは親友で、スーティン、ユトリロ、藤田嗣治などとも交流がありました。藤田はモディリアーニと同じ画商と契約したそうで、それもあってモディリアーニとは仲が良かったようです。藤田は1918年頃から縦に引き伸ばしたような優美な女性像を描くようになり、南仏のカーニュで一緒に過ごしたモディリアーニの影響と言われています。

アメデオ・モディリアーニ 「ルニア・チェホフスカの肖像」
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こちらは1917年の作品で、モデルはポーランドの名家出身の女性で夫が第一次世界大戦に出征した後にモディリアーニのお気に入りのモデルとなったようです。一際首が長くて白いブラウスと肌の色が強く感じられるかな。それでも気品ある雰囲気となっていて、親密だったことが伺えます。

写真がありませんでしたが、モディリアーニは1916~1919年の間に多くのヌードを描いています。中でも1917年の「裸婦」はモディリアーニの個展の際にショーウィンドウに飾られた代表作ですが、当時はフランスでも一般女性の裸婦像への抵抗があったようで、公序良俗に反するとして警察に撤去を求められています。そのため、わずか数時間で個展が中止となってしまいました。

アメデオ・モディリアーニ 「若い奉公人」
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こちらは1918年の作品。モディリアーニはセザンヌに強い影響を受けていますが、この絵ではセザンヌが描いた酒飲みや喫煙者のポーズを再現しているようです。肘をついて物思いに耽るポーズは伝統的なメランコリーのポーズでもあるので、どこか物憂げで知的な雰囲気を受けるかな。輪郭線が使われて平面的なのはゴーギャンからの影響も考えられるのだとか。

1917年に藤田のモデルだったジャンヌ・エビュテルヌと出会いました。1918年には2人で転地療養でニースに移り、子供も生まれています。しかし生活は貧困状態で酒と薬物に溺れ、既に病状もかなり悪かったようです。

アメデオ・モディリアーニ 「若い農夫」
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こちらは1918年の作品。恐らく南仏で出会った農夫がモデルと思われ、モディリアーニ独特のスタイルだけど何処かリラックスしたような雰囲気に見えるかな。白黒の対比的な服装もよく見るので特徴の1つと言えるかも?

モディリアーニは体調を改善するために、1918年~19年にかけて南フランスのミディ地方に数ヶ月間滞在しました。この旅の費用は画商のレオポルド・ズボロフスキーが負担していて、この間に赤毛の若者、農民、見習い、労働者などの肖像画を制作しています。しかし、それぞれのモデルが同じ人物であるかは不明のようです。。


アメデオ・モディリアーニ 「Gaston Modot」
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こちらは1918年の作品で、日本語では「ガストン・モドの肖像」となります。この人は俳優だったようで実際の写真を観るとイケメンですが、この絵では生気が抜けたオッサンみたいに見えるw やや濃い目の肌の色をしていて首の太さと長さが特に目を引きます。斜めになった幾何学的な背景なども含めてモディリアーニらしさがよく出ていますね。

1918年には長女が誕生し、さらにジャンヌ・エビュテルヌは次の子を妊娠していますがジャンヌの親に反対されて結婚はしていませんでした。結核で貧困で薬物中毒… 反対されるのも無理はないですね。しかし1919年には結婚を誓約していたのだとか。

アメデオ・モディリアーニ 「Femme aux yeux bleus」
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こちらも1918年の作品で日本語にすると「青い目の女性」です。モディリアーニの肖像は大概が青い目じゃないかと思いますけどねw 胸に手を当てる仕草が古い時代の肖像画を思わせるかな。黒い服と肌の色の対比で非常に引き締まった印象を受けます。

晩年のモディリアーニはかなり無茶苦茶で、酒場に居合わせた人の肖像を描いて強引に売りつけて酒代をせびっていたようです。家に帰ってこないので身重のジャンヌが探し回ることもあったのだとか。

アメデオ・モディリアーニ 「La blouse rose」
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こちらは1919年の作品で日本語にすると「ピンクのブラウス」です。最晩年で目がまた黒に戻ったのがちょっと意外。背景もハッキリしていて、また以前の画風に戻っているようにも思えます。モデルは誰か分かりませんが、ちょっと困ったような顔をしてるのが印象的です。

この翌年の1920年の1月に35歳で結核で亡くなりました。その2日後には身重のジャンヌも悲観して投身自殺してしまい、長女だけが残されました。この長女は後に美術の世界に入りモディリアーニの研究も行っています。


ということで、独自の画風でどの流派にも属さず 便宜的にエコール・ド・パリの画家とされています。生前は全く売れなかったものの現在では ひと目見たら忘れない画風が人気で、各地の大型美術館のコレクションとして観ることができます。個展は久しくやっていませんが いずれまた機会があるんじゃないかな。美術ファンでない人にも有名だし今後話題になる展覧会も行われるのではないかと思います。


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《織田一磨》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、明治から昭和にかけて市井の様子を描いた石版画家の織田一磨(おだかずま)を取り上げます。織田一磨は北斎などの浮世絵を研究し『東京風景』や『大阪風景』といったシリーズで街の風景画をリトグラフで出版した人物で、同時代の光景を詩情豊かに表現しました。大正~昭和初期のモダンさを感じる作品もあれば江戸時代の名残を感じさせるような作品もあり、現代人から観ても洒脱さや郷愁を誘われるものがあると思います。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

織田一磨は1882年に東京で生まれ、12歳の頃に家族と共にに石版画工であった実兄の東禹がいる大阪に移り住みました。兄と金子政次郎から石版の技術を学び、21歳の頃には上京して各所の印刷工場で石版印刷や図案に関する仕事に就いています。(時期はわかりませんが、川村清雄に洋画も学んでいます)その傍らで巴会展や第1回文展に水彩画を出品していて、1907年には石井柏亭、森田恒友、山本鼎らが刊行した美術雑誌『方寸』の同人となって創作版画運動に身を投じました。同時に若い文学者や美術家が参集した「パンの会」にも参加して、やがて自画石版による版画家として自立することを決意して1916年~1919年にかけて『東京風景』『大阪風景』の連作を制作しました。

織田一磨 「東京風景より 駿河台」
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こちらは1916年の作品で、同時代のニコライ堂が描かれています。画面下の方は日本風の家屋が建ち並んでいますが、対比的なようでお互いに違和感がなくて美しい街並みです。傘を持って歩く人の様子など、当時の生活感もあって温かみを感じます。

この『東京風景』のシリーズは初期の代表作で20点連作となっています。幕末の面影を感じさせる一方でモダンな建物なども表れ、この時代の空気感まで伝わってきます。こうした作品は永井荷風の随筆『日和下駄』(1915年)で描写された世界を絵によって表わしたと言えるのだとか。

織田一磨 「東京風景より 上野廣小路」
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こちらも1916年の連作の1枚で関東大震災の前の上野の風景。情感溢れる描写のおかげかもしれませんが、かつてはこんなお洒落な街だったんですね。高い位置から見下ろす構図で広々とした光景となっています。

この後、1923年に関東大震災が起きて町並みが一変してしまった場所もあり、織田一磨は自ら「東京風景は記念的なもの」と述懐していたそうです。

織田一磨 「東京風景より 日本ばし」
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こちらも1916年の連作で、当時の日本橋を描いた作品。町並みはすっかり西洋化しているけど、舟は日本らしさがあるのが面白い。叙情的な雰囲気も好みです。ちょっと素描のような素朴さも感じますね。

私は織田一磨の作品は石版画しか観たことがありませんが、水彩も手掛けていたようで第1~2回文展に出品し、日本水彩画会審査員なども務めたようです。

織田一磨 「東京風景より 待乳山から隅田川」
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こちらも1916年の連作からで、待乳山は今の浅草の待乳山聖天(浅草公園の辺り)です。着物姿の女性たちが川を眺めていて、何とも穏やかな光景です。帆掛け船とかいてまだ江戸時代の名残もあるような。モノクロに感じる色彩も何だかノスタルジックに感じます。

この『東京風景』は江戸時代の浮世絵の研究の成果で、江戸名所絵の系譜に連なると言えます。震災前の大正ロマン溢れる良い時期の光景です。

織田一磨 「東京風景より 和田倉門」
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こちらも1916年の連作からで、東京駅から近い和田倉門のかつての姿を描いています。この後の関東大震災で大破しているので貴重な風景と言えるかな。大きく威厳がある一方で静けさのほうが強い印象です。門の中にある2つの人影も何とも叙情的で、ユベール・ロベールなどの絵に通じるものを感じます。

美術雑誌『方寸』の同人たちの創作版画運動は、自画・自刻・自摺りを主唱していたそうで、織田一磨は単なる画工ではない美術家としての強い意識を持っていたようです。また、「パンの会」は当時の耽美主義や浪涅主義の傾向が強かったようで画風を形成する上で重要な役割となっています。

織田一磨 「東京風景より 十二階」
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こちらも1916年の連作からで、かつて存在した浅草の凌雲閣を描いています。凌雲閣は1890年に完成したエレベーターまであった52mの建物ですが、関東大震災で半壊して わずか7年半で解体されてしまいました。手前には酒場らしき店の前で立ち話している様子なども描かれ、活気があったのが伺えます。織田一磨は震災直後に「今渡しが一枚の片々たる浮世絵版画を指して、鉄筋コンクリート建築よりも確実な永遠性を備えたものであると断言すれば、或は一笑にふし去られるかもしれない、然し今回の大震大火災の実跡に照らしてみると、此の断言は決して盲目の言ではないことがますます明瞭にされたのである」と語っていたようです。その言葉通り、こうして作品として現代の我々が在りし日の様子を観られると思うと一層に価値を感じますね。

この連作では、近代化の名の元に古い物が廃れ壊されていく中で江戸や明治の面影を感じさせる情景を求めて下町を中心に取材されたのだとか。浅草とか神田は今でもそうした香りのある街ですね。

織田一磨 「東京風景より 小舟町河岸」
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こちらも1916年の連作からで、小舟町は日本橋近くの一角(三越前駅と人形町駅の間くらい)です。建ち並ぶ蔵がリズミカルで、微妙に個性があって面白い。船着き場で作業している人の姿など、江戸時代がまだ残っている感じがしますね。

今回、写真が見つかりませんでしたが この後にかつて住んだ大阪を描いた『大阪風景』も20点の連作として制作しています。少年期を過ごしただけあり郷愁を感じさせる風景を求めていたようで、石版画特有の柔らかく微細な表現と相まってこれまた叙情的なシリーズとなっています。

織田一磨 「東京風景より 神楽坂」
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こちらもシリーズの1枚で1917年の作品。いくらか多色になって夜の賑わいを描いています。黄色い街頭や店から溢れる光に温かみがあって夜なのに楽しげな光景に見えます。天ぷらのお店や寿司屋?なんかがあって、今も昔もグルメの街なんですねw

1919年には大阪や京都の夜の光景を描いた『都会夜趣』という4点連作の作品も制作しています。明治時代の浮世絵師の小林清親の「光線画」にも似た表現となっているようで、その辺も研究していたのかも。

織田一磨 「東京風景より 木場風景」
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こちらもシリーズの1枚で1917年の作品。このシリーズで特に好きな作品で、雪の積もった街や水面に映る光が非常に美しく感じられます。傘の円や橋の曲線、家々の屋根のリズムなども心地よく構図も素晴らしい。白・黒・黄でこれほどまでに情感を出せるって凄いセンスです。

織田一磨は1918年に山本鼎らと日本創作版画協会を組織しています。

織田一磨 「新東京風景より 銀座(6月)」
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こちらは1925年のシリーズで、震災後の東京の風景を描いています。この絵では路面電車やビルなど近代化した都市を感じさせる光景となっていて、『東京風景』とは趣が変わったように思えます。ちょっと寂しい感じもするけど、人の営みも描かれているのは以前と同じかな。

この3年前の1922年に山陰を旅行して松江出身の版画家の平塚運一に誘われて松江に滞在しています。また、1924年からは版元の渡辺庄三郎の渡辺版画店から「新版画」を出していて、こちらは浮世絵と同じ伝統技法の木版画の作品となっています。

織田一磨 「新東京風景より 新橋演舞場(8月)」
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こちらも1925年のシリーズ。どういう光景かわかりませんが舞台の様子を描いているかな? 8月とあるけど雪の光景なのは芝居のセットでしょうか。ちょっと寂しい雰囲気でこれまでの作品とはまた違った印象を受けます。

織田一磨は1922年から25年にかけて東京を離れていたので直接に関東大震災を経験はしていません。東京に戻ってから復興していく東京の様子を描いています。

織田一磨 「新東京風景より 築地(11月)」
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こちらも1925年のシリーズ。11月とあるけど、築地でこんな大雪になるのかな?w 提灯が揺れて吹雪いているような印象を受けます。小さく傘を差している人の後ろ姿が何とも寂しい。

この1925年には松江の赤山に版画研究所を開設していて、「松江大橋雪夜」という石版作品も残しています。

織田一磨 「画集銀座 第一輯より 銀座松屋より歌舞伎座(遠望)」
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こちらは1928年(昭和3年)の6点連作の作品からで、かつての銀座松屋からの眺めです。こんなに近いか?ってくらい近くに歌舞伎座があるのが分かりますw 建設中の建物や多くの人が行き交う道などこの時代にも活気があったのが伺えますね。

この1928年には第9回帝展に「たそがれ」という石版作品を出品しています。

織田一磨 「画集銀座 第一輯より 酒場 フレーデルマウス」
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こちらも1928年のシリーズからで、酒場の中の光景を描いています。やや高い位置から見下ろすような視点で、上部にあるランプが目を引きます。座っている人たちがぼんやりと映される中、奥にいる人が特に明るくなっています。明暗の違いで酒場が幻想的に見えるのが面白い。モダンで洒落た印象ですね。

今回ご紹介した作品はほとんどが風景画ですが、織田一磨は人物像なども残しています。今回の出典はすべて東京国立近代美術館の常設で、東近美には無さそうなので私も観たことがない…w いつか観てみたいものです。

織田一磨 「画集銀座 第一輯より 酒場バッカス」
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こちらも同じシリーズで1929年の作品。さっきの酒場に比べて明るく、店内に赤い楓があるのがちょっと驚きw 手前の男女が会話している様子など当時の空気感まで伝わってきます。意外と健康的な感じですねw

この『画集銀座』は第二輯(第二集)もあり、いずれも夜の光景が主なテーマとなっています。夜の光景は石版画に適していたというのもあるようですが、織田一磨は都市の本質を夜の繁華街に見ていたようです。

織田一磨 「画集銀座 第一輯より 屋台店」
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こちらも同じシリーズで1929年の作品。支那蕎麦と書かれた屋台や天と書かれた屋台が軒を連ねた光景がノスタルジックな感じ。光の表現も巧みで、支那そばの店の中に人影があるのが分かります。画面に人はいないのに人の生活の余韻が感じられて好みの作品です。

この翌年の1930年には銅版・石版作家らと共に洋風版画協会を設立しています。

織田一磨 「画集銀座 第二輯より 夜更銀座」
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こちらは1929年の作品で、第二輯となります。全体的に縦に線が入って強い雨が降っているようです。淡い色彩なので冷たさは感じず幻想的な雰囲気が強まっているように思えます。

翌年の1930年には第11回帝展に「セメント工場」という石版作品を出品しました。

織田一磨 「画集銀座 第二輯より すきや河岸」
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こちらも第二輯の1929年の作品。打って変わって素描のような版画となっていて、モノクロで都市化した様子を描いています。やはり夜の光景のようで、ぼんやりとしているのが神秘的にすら思えました。

織田一磨は葛飾北斎の北斎漫画や画本など百冊以上のコレクションを集めていたようで、収集した絵本類は死後に東京国立文化財研究所に織田文庫として収蔵されました。

織田一磨 「画集新宿より ほていや六階から新宿三越遠望」
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こちらは1930年の作品で、新宿の様子を描いたシリーズの1枚です。ほてい屋は新宿三丁目にあった百貨店で、画面の中にある建設現場は1929年開店の三越のようです。東京の西側の新宿や渋谷は震災の被害が比較的少なく、20年代後半以降に東京の新たな中心地として急速に発展していきました。大通りだけ灯りがあって、これからという感じが出てますね。

1931年には吉祥寺に移ったようです。疎開の時期もありますが、終の棲家となっています。

織田一磨 「画集新宿より 新宿ステイション」
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こちらも1930年の新宿のシリーズの1枚。新宿駅の様子で多くの人の姿が描かれています。ちょっとどの辺りかわからないけど、この頃から活気が出てきていたのがよく分かって歴史の証人みたいな側面があるかも。

1931年には日本版画協会の設立にも参加しています。割と何とか協会に積極的に参加・設立していますね。

織田一磨 「画集新宿より 新宿カフエー街」
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こちらも1930年の新宿のシリーズの1枚で、カフェの並ぶ街を描いています。ここでは今の新宿と同様に活気に満ちた雰囲気と、夜のカフェの独特の洒落た雰囲気が出ているように見えます。色彩の使い方も効果的で、看板の装飾に時代を感じます。

1932年には日本橋の白木屋で開催された「第三回現代創作木版画展覧会」に山陰の光景を描いた木版画を出品しています。

織田一磨 「画集東京近郊八景より 玉の井雪景」
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こちらは1932年の作品で、永井荷風の小説『墨東綺譚』の舞台となった玉ノ井辺りを描いています。しんしんと降り積もる雪と家の明かりが何ともロマンチック。って、飲み屋街なんですけどねw 織田一磨の作品の中でも特に好きな1枚です。

戦時中から戦後にかけて富山に疎開し、その後も吉祥寺を拠点に制作をして1954年には個展なども開催して晩年まで活躍しましたが1956年に亡くなりました。


ということで、各時代の空気をつぶさに表現した画家となっています。知名度はそれほど高くないと思いますが、東京国立近代美術館の常設で特集展示されることがしばしばあり、目にする機会もあるかと思います。私もまだ観ぬシリーズ作品が多いので、今後も注視していきたい画家です。



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《ジョルジュ・ブラック》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、ピカソと共にキュビスムを生み出したジョルジュ・ブラックを取り上げます。ジョルジュ・ブラックの初期はフォーヴィスムやセザンヌに影響を受けた作風でしたが、ピカソと出会いセザンヌの「円筒、球、円錐で自然を表現したい」という考えを着想源として、事物を立体的かつ多面的に捉えるキュビスムを創始しました。さらに「パピエ・コレ」と呼ばれるコラージュで総合的キュビスムへと発展し、シュルレアリスムを始め近現代絵画全般に大きな影響を与えています。1914年の第一次世界大戦に出て一時的に失明して絵画から離れた時期もありますが、復帰して以降も新たな表現を追い求めていきました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


ジョルジュ・ブラックは1882年にアルジャントゥイユで生まれフランス北西部の港町ル・アーブルで育ちました。建築装飾の父を持ち子供の頃から絵を描くことに関心があったようです。15歳から地元ル・アーブルのエコール・デ・ボザールで学び、18歳でパリに出て装飾画家の為の修行をすると共に、夜間講座や画塾で素描と油彩を学んでいきました。その後、本格的に画家を志すようになるとフォービスム(野獣派)にも参加したのですが、セザンヌからの影響とピカソとの出会いによってキュビスム絵画を作っていくようになりました。

ジョルジュ・ブラック 「Grand Nu」
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こちらは1907~08年頃の作品で、日本語にすると大きなヌードとなります。全体的にセザンヌっぽい描写とフォーヴィスムっぽい色彩の強さが感じられるかな。既にキュビスムへと向かう前段階のような絵に思えます。初期の貴重な作品です。

この頃、セザンヌの回顧展があったようで、セザンヌから影響を受けています。一方でマティスからも影響を受けていて、先程の絵のように両方が感じられる作風だったようです。

ジョルジュ・ブラック 「Le viaduc à L'Estaque」
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こちらは1908年の作品で、日本語にすると「レスタックの高架橋」です。これもかなりセザンヌ風ですが、ここで注目なのは幾何学的なモチーフばかりになっている点で、かなりキュビスムに近づいている感じがします。自然を直線と円形で捕らえ始めたのが伺えますね。

この頃、詩人のアポリネールと共にピカソのアトリエに訪れて「アヴィニョンの娘たち」を観て衝撃を受けたそうです。ピカソもセザンヌから影響を受けていて、1909年から共同制作するようになりました。

ジョルジュ・ブラック 「小さなキュビスムのギター(テーブルの上のギター)」
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こちらは1909~10年の作品で、後に発見され(1954年)版画として出版されました。これは完全にキュビスムを作り始めた頃の時期で、線描でギターを多面的に描こうとしている様子が伺えます。

1908~1909年頃からキュビスムが始まったと言われています。ちなみに「キュビスム」の名付け親はマティスで、こうした作風を観て「キューブ」と評したのが始まりです。

ジョルジュ・ブラック 「Les usines du Rio-Tinto à l'Estaque」
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こちらは1910年の作品で、タイトルは「レスタックのリオ・ティント工場」という意味です。建物らしきものをかなりデフォルメして四角や三角で表現していて、キュビスムの特徴を示しています。この頃には色彩も落ち着いてざらついた感じとなっていて、景色と建物が混然一体となっているように見えますね。

共同制作していた頃のピカソとブラックの作品はよく似ているものがありますが、2人の傾向としてピカソは動的で動きの変化を多面的に表す一方、ブラックは静的で3次元を2次元で表現する為に複数の視点から観たような構成となっています。描く対象もピカソは人物が多いけどブラックは静物や風景が多いように思います。

ジョルジュ・ブラック 「女のトルソ」
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こちらは1910~11年の作品。ちょっと分かりづらいですが女性の上半身を分解して再構成するような構図となっています。言われてみるとそう見えるような見えないような…w とりあえず、これまでの既存の美術よりだいぶ抽象化が進んだ作風なのが一見して見て取れますねw

キュビスムの中でも1909年~11年頃までを「分析的キュビスム」と呼びます。この頃の特徴は小さな破片を組み合わすように描いていて、それまでの一点透視法や明暗表現を根本的に問い直そうとしました。ぼんやりしているのは周りの空間や物とお互いに浸透し合うような表現のためで、抑制された色彩も特徴となっています。

ジョルジュ・ブラック 「静物」
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こちらは1910~11年頃の作品。テーブルに瓶らしきものが置いてあるように見えるけど、実際は何だかちょっと分かりませんw しかし一見してすぐにブラックの作品だと分かる特徴が出ていて、落ち着きと形態のリズムの両面が感じられます。

ブラックは「手で触れることのできる空間」を追求していたそうで、多面的な視点によって触れることができるような存在感を出しているようです。そして1911年の夏以降、より均質な構成へと洗練されていきます。

ジョルジュ・ブラック 「円卓」
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こちらは1911年の作品。テーブルの上の物を描いているようで、先程の静物とよく似た印象を受けます。初めてブラックの作品を観た時に積み木みたいだと思ったものですが、縦横斜めの線と円形で構成されているのが面白いです。

この頃にはレジェやドローネーなどのキュビスムの追随者が出てサロンに出品していたようです。それによりキュビスムの名前も広がりましたが、良く評価する声もあれば批判もあったようで、斬新すぎて驚きで騒がれたといった感じのようです。

ジョルジュ・ブラック 「フォックス」
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こちらは1911年(1912年発行)の作品。右のあたりにFOXという文字の入っているのがタイトルの由来ですが、狐を描いたわけではなさそうに見えますw 多分、静物じゃないかな? 積み重なるような構図で、ちょっと建物のように見えたり。

この頃、こちらの作品のように画面に文字を入れることがあったようです。文字が入ると意味が分かるような気がしますが、逆に一層分からなくなったりしますねw

ジョルジュ・ブラック 「コンポジション(コップのある静物)」
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こちらは1912年(1950年発行)の作品。先程の作品と似ていて、線と引っかき傷のような明暗で描かれています。円筒形がいくつか見受けられるのがコップかな。これも一定のリズムで秩序が感じられます。

この頃からブラックの作品でよく観られるバイオリンなどもモチーフになるようになりました。また、絵の具に砂を混ぜて描いたり画面に木目模様を模写したり、画面を楕円にするなどの実験も行われています。

ジョルジュ・ブラック 「Souvenir du Havre」
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こちらは1912年の作品で、日本語にするとル・アーブルの思い出となります。故郷の光景を描いたと思われ、船や建物らしきものの中にLE HA VRE. の文字が散らされているのが分かります。これはストレートに文字で描いてあるものを示していますねw 

これまでの分析的キュビスムに対し、1912年頃から1914年頃までを「総合的キュビスム」と呼びます。様々な実験を経て新聞紙などの既成の素材を画面に張り合わせる「コラージュ」や「パピエ・コレ」と呼ばれる技法を確立し、これによって従来の物を別の意味に変えたり、繋ぎ合わせて新しい意味が生まれたりするようになりました。この技法は後にシュルレアリスムに非常に好まれ、大きな影響を与えています。また、レディ・メイドの先例ともされるので、現代に至るまで多大なインスピレーションの源となっています。

ジョルジュ・ブラック 「デリエール・ル・ミロワール 第138号(1963年5月刊)《パピエ・コレ》」
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こちらは1912~1914年頃の作品を1963年の美術誌で発行したものです。絵と新聞と板切れみたいなものを組み合わせた「パピエ・コレ」となっていて、絵と現実の境も曖昧になったような多面性を感じます。

ジョルジュ・ブラック 「デリエール・ル・ミロワール 第138号(1963年5月刊)《瓶(表紙)》」
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こちらも先程と同じ美術誌に載った1912~1914年頃(1963年発行)作品。切り抜きの形が瓶となっていて、元の素材から別の意味を与えられているように思います。組み合わせ方もキュビスムらしく、単なる絵の枠を越えているのも凄い発想です。

ジョルジュ・ブラック 「デリエール・ル・ミロワール 第138号(1963年5月刊)《たばこの箱》」
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こちらも先程と同じ美術誌に載った1912~1914年頃(1963年発行)作品。これも新聞紙を貼って箱にしているのかな。パイプやカップらしきものもあって洒落た雰囲気となっています。特にカップの色の組み合わせ方のセンスが素晴らしいですね。

ジョルジュ・ブラック 「L'homme a La guitare」
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こちらは1914年の作品で、日本語では「ギターを持つ男」となります。以前よりも輪郭が明確になっていて、木目や水玉などそれぞれの素材感が増しているのが分かります。組み合うというよりは重なっているように見えるかな。同じキュビスムでも様々な実験を繰り返していたんですね。

ブラックの最盛期は1909~1914年頃と言われています。というのも、1914年に始まった第一次世界大戦にブラックが出征することになりピカソとの共同制作が終わってしまいました。2人の支援者だったドイツ人の画商も国外へと逃れて援助は無くなってしまいます。

ジョルジュ・ブラック 「Nature morte à la pipe」
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こちらは1914年の作品で、日本語にすると「パイプのある静物」です。楕円形の画面に斑点のような面やざらついた面を組み合わせていて、下のほうにパイプが描かれているのが分かります。パピエ・コレのような雰囲気もあって、これまでの実験の成果を詰め込んだように思える作品です。

1915年にブラックは戦場で頭部に重傷を負い、一時的に失明してしまいました。長い療養を行い1916年中には絵画制作を再開しています。

ジョルジュ・ブラック 「Nature morte à la sonate」
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こちらは第一次世界大戦が終わった後の1921年の作品で、日本語にすると「ソナタのある静物」です。楽譜やギター、果物などが単純化されていて、これまでの細切れになったようなキュビスムから大きく画風が変わっています。かなり具象性が戻ってきていて、描いてあるのが何だか分かるw 世間的にはこの時代以前の作品が評価が高い訳ですが、私はこの頃の作風が特に好きですw

1921年は盟友のピカソは「新古典主義の時代」を迎えています。どっしりと量感のある人体像が多い訳ですが、この絵とか観てるとその影響も受けているのではないか?と思えます。

ジョルジュ・ブラック 「Fruits sur une nappe et compotier」
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こちらは1925年の作品で、日本語にすると「テーブルクロスの上のフルーツとコンポートディッシュ」となります。先程の絵よりも一層に具象性が増して、それぞれの質感まで表現されているように見えます。輪郭が太くどっしりとした印象ですね。

ジョルジュ・ブラック 「画架」
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こちらは1938年の作品。この時代になると単純化されているものの具象的で多面的というほどでもない感じになっています。代わりに色彩が豊かになっていて、明るい画面です。むしろ後発のシュルレアリスムのミロなどに似た画風に思えます。

1930~40年代頃はこうした黒や茶色を基調とした静物をよく描いていたようです。

ジョルジュ・ブラック 「Le billard」
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こちらは1944年の作品で、日本語にすると「ビリヤード」です。ビリヤード台が折れ曲がって上から観たような視点になっているのはかつてのキュビスムっぽさが感じられますが、今までで一番 写実的な印象を受けます。色はやや抑えめになったようで、また画風が変化しているようです。

ジョルジュ・ブラック 「葉、色、光」
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こちらは1953~54年の作品。今度は色面の組み合わせのような感じで、あまりキュビスムっぽさは感じません。しかし色の取り合わせが独創的で面白い。切り絵みたいな印象を受けます。

かつてライバルだったマティスも晩年は切り絵のように単純化した作品を残しています。ブラックの晩年の作品はその画風とよく似ていて、たまに見間違いますw

ジョルジュ・ブラック 「鳥」
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こちらは1956年の作品で、デフォルメが進んで一種の記号のような形態となっています。平面的な色面で構成されていて、装飾性も豊かです。線の柔らかみも優美な印象ですね。

この後、亡くなる年の1963年まで活動を続けました。最晩年には「メタモルフォーシス」という立体作品を手掛けていて、ブラックの原画を陶器やジュエリー、彫刻作品、装飾美術などに応用しました。画風としてはこちらの「鳥」に似た色面で表現するようなスタイルです。
 参考記事:ジョルジュ・ブラック展 絵画から立体への変容 ―メタモルフォーシス (パナソニック 汐留ミュージアム)

ということで、近現代の美術史を語る上で必ず名前が挙がる画家となっています。晩年はあまり紹介されない気がしますが、美術好きとしては知っておきたい重要人物です。



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《岸田劉生》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、大正時代を代表する洋画家の岸田劉生を取り上げます。岸田劉生は白馬会に黒田清輝に学びましたが作風はむしろ海外の画家の影響が色濃く、初期の作品はゴッホ、セザンヌ、フォーヴィスム等に傾倒していました。やがて写実を求めて北方ルネサンスのデューラーに影響を受け、「岸田の首狩り」と言われるほど多くの肖像画を残しています。さらに中国の宋元画や肉筆浮世絵の研究の結果、グロテスクさ・醜く卑しい姿の中に生命力、力強さ、神秘などの奥深さを見出し「デロリの美」「ぬるり」「卑近美」などと称される独特の画風を築きました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


岸田劉生は新聞記者や実業家であった岸田吟香を父とし、銀座界隈で育ちました。父の勧めで教会に通ってキリスト教の洗礼を受け、父親の死後には牧師を志しましたものの、独学で水彩画を制作する中で画家への道を歩みだしました。17歳で白馬会の葵橋洋画研究所で本格的に洋画を学びはじめ黒田清輝のもとで外光派の画風を学び、1910年には白馬会第13回展に出品し、第4回文展でも初入選するなど順調にスタートしています。しかし研究所のアカデミックな勉強に疑問を抱くようになり、1911年に雑誌『白樺』に紹介されたゴッホ、ゴーギャンら後期印象派の画家に衝撃を受け、それによって画風も変わり 自身で「第二の誕生」と呼ぶほどに影響を受けています。

岸田劉生 「街道(銀座風景)」
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こちらは1911年の作品で、岸田劉生の実家近くの銀座通りを描いたものと考えられています。粗めの筆致と明るめの色彩で、確かにゴッホやフォーヴの要素も感じられるかな。道が画面の下半分を締めているのが広々した印象となっています。ちなみに岸田劉生の実家は銀座2丁目で水目薬などを製造販売していたのだとか。

1911年12月に同じ研究所の木村荘八と懇意になり、お互いの家に行き来したり銀座や虎ノ門などで2人で絵を描いていたります。初期はこれだけ色彩を感じる絵を描いていますが、2人共 素描の大切さを説いていて、後に岸田劉生は雑誌『みずゑ』に寄せた素描に関する文書で「素描は骨子で色は素描に比べればむしろ客の感がある」と語っています。

岸田劉生 「イブを待つアダム」
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こちらは1912年の作品で、アダムが体育座りをしてじーーーっとイブを待っている様子を描いています。目は遠くを観るようで待ち疲れて飽きてそうに見えるw 人物像ではあるけど単純化されていて、後の細密で写実的な描写とは異なって見えます。岸田劉生は一時期は牧師を志していたので、こうしたキリスト教関連の題材も初期には多く残しています。

この1912年に銀座一丁目の日就社(今の読売新聞)の建物の3階で岸田劉生らが主催するヒュウザン会(のちにフュウザン会と改称)の旗揚げが行われました。フュウザンはフランス語で木炭のことで、メンバーには高村光太郎・萬鉄五郎・斎藤与里・清宮彬・木村荘八らがいて、ポスト印象派の影響が強い集まりでした。

岸田劉生 「自画像」
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こちらは1913年の自画像。だいぶ写実的になっていますがざらついたマチエールで面白い表現となっています。岸田劉生は「自分は寂しい微笑みを浮かべる」と述べていたそうで、この絵からもそうした雰囲気が出ているかな。同時に実直そうな感じも出ているように思えます。

岸田劉生は数多くの自画像を描いていて、以前 展覧会で比べて観られる機会がありましたが試行錯誤の跡がよく分かりました。ゴッホ風のものやセザンヌ風のもの、輪郭がぼやけた感じのものもあれば、写実的なものもあり画風の模索の様子が伺えます。作品に日付も書いてあるので、それを考慮しながら観るとまた興味深さも増しました。

岸田劉生 「B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)」
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こちらは1913年の作品で、バーナード・リーチは白樺派や民藝運動に関わりフュウザン会にも参加していた陶芸家です。恐らく椅子に座ってリラックスしている様子で、強い光によって明暗が生まれています。全体的にセザンヌっぽい雰囲気があるかな。優しげな目をしていて、2人の親しい間柄も感じられます。

この年にフュウザン会に観に来た小林蓁(しげる)と1913年7月に結婚し、代々木に移り住んでいます。

岸田劉生 「[天地創造]より 1.欲望」
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こちらは1914年の作品。他に[2.怒れるアダム]、[3.石を噛む人]という作品もあり3点連作となっています。バーナード・リーチの勧めで彼の仕事場で制作され、油彩とはかなり趣の異なる画風となっています。ウィリアム・ブレイクから影響を受けているようで、幻想的でありつつちょっと怖いw

1913年3月の第2回フュウザン会展の頃には岸田劉生の「近代的傾向…離れ」の準備が始まっていたようで、生きた人間を慕う心から「人間の顔」を描き始めました。第2回まででフュウザン会が解散した後は、デューラーやルネサンス絵画に強い関心を持って独自の写実表現へ向かいました。

岸田劉生 「南瓜を持てる女」
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こちらは1914年の作品で、娘の麗子を出産して3ヶ月頃の奥さんをモデルにしたと考えられています。ここでは胸を顕わにして南瓜を持ち、まるで豊穣の女神のような雰囲気で描かれているように思えます。上部にはアーチ状の枠があり、左手を半開きにして上に向けたポーズや顔からは、西洋画の聖人・聖女の絵も彷彿とさせます。全体的にルネサンス期の作品から影響を伺えますが、この年の個展に出品した際に石井柏亭から「全く同感できない」と酷評されたのだとか。割とこの頃までの岸田劉生のバックボーンが表れていると思うんですけどね。

岸田劉生はこの頃に奥さんをよくモデルに様々な絵を描いています。奥さんの蓁は学習院大学で教鞭をとる漢学者の父を持ち、鏑木清方に入門して日本画を学ぶなどの才女だったようで、だいたいは理知的な印象で描かれています。

岸田劉生 「椿君之肖像」
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こちらは1915年の作品で、自身も画家であり岸田劉生を慕い師事した椿貞雄がモデルの肖像です。濃密かつ細密な描写となっていて、デューラーからの影響を感じさせます。どっしりとしたリアリティがあって、顔のテカリまで表現されてるのが面白いw この椿貞雄もこうした画風の絵を描いているので、師弟の絆は強かったんでしょうね。

この岸田劉生はデューラーやファン・エイクなどの北方ルネサンスに惹かれてたようです。デューラーが自作に入れたモノグラムに似たエンブレムみたいなものを画中に入れることもあるので、相当に入れ込んでいたのが伺えます。

岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」
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こちらは1915年の作品で、数ある岸田劉生の作品の中でも傑作として名高い逸品です。11月に10日ほどかけて代々木付近の坂を描いていて、澄み切った青空が広がり強い日差しが感じられ、急な勾配の土には質感が溢れています。岸田劉生は「ぢかに自然の質量そのものにぶつかつてみたい要求が目覚め」と語っていて、丹念な写生の成果となっています。彼自身もこの作品を気に入っていたようで、「何故ならこの時はもうクラシツクの強い感化を一度通り、猶またそれに浴しつゝあるからだ。捕はれから段々と離れたが、得るべきものは得てゐた。切通しの写生はこの事を明かに語ると思ふ。その土や草は、どこ迄もしつかりと、ぢかに土そのものの美にふれてゐる。しかしどことなく、古典の感じを内容にも形式にも持つ。自分はこの画は、今日でも可なり好きである。一方その表現法がクラシツクの形式にまだ縛られてゐる処があるのを認めるけれど、あの道のはしの方の土の硬く強い感じと、そこからわり出して生へてゐる秋のくすんだ草の淋しい力とは或る処迄よく表現されてあると思ふ」と述べています。

この作品は翌年の1916年の「第二回 草土社展」に出品しています。草土社のメンバーは木村荘八・清宮彬・中川一政・椿貞雄・高須光治・河野通勢などで、草土社は1922年の第9回まで開催され岸田劉生は全ての回に出品しました。

岸田劉生 「『帝国文学』表紙絵」(左)、「The Earth 大地」(中)、「<人類の意志>のための下絵」(右)
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こちらは1916年の作品。太陽や土といった原初的なものを描いた3点で、何か哲学的なメッセージが込められていそうな感じがします。詳細は分かりませんが装丁の仕事もしていたんですね。

1916年に肺病と診断されると戸外での写生も禁止となり、室内で出来る静物画に挑戦することになったようです。また、愛娘の麗子を描くようになったのもこの頃です。

岸田劉生 「壺の上に林檎が載って在る」
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こちらは1916年の作品で、バーナード・リーチの作った丸みを帯びた縦長の壺と、その口の部分に緑の林檎が乗っている様子が描かれた静物画です。全体的に細密で写実的に描かれていますが、近くでよく観ると光の反射の部分は白が厚塗りされているなど意外と大胆な筆致です。蓋のように置かれた林檎がちょっとシュールで茶目っ気を感じさせて面白い構図です。

この頃の岸田劉生は肖像画を多く描いていたので、「岸田の首狩り」や「千人切り」などと言われましたw 身近な人が多く描かれています。

岸田劉生 「古屋君の肖像(草持てる男の肖像)」
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こちらは1916年の作品で、草を摘んで持つ隣に住んでいた医師の肖像です。顔のテカりや皺などまで表現していて、髭の剃り残しまで分かる感じw 細身で誠実そうな人物で、生き生きとした印象を受けます。リアルな描写はデューラーの影響で、野草を持っているポーズも、デューラーの作品に倣っているとされています。

1917年に結核の療養のために友人の武者小路実篤が住んでいた鵠沼(神奈川県の藤沢)に移り住みました。

岸田劉生 「麗子肖像(麗子五歳之像)」
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こちらは1918年の作品で、娘の麗子が5歳の頃の肖像です。この後多くの麗子像が描かれますが、これは初めてモデルになった油彩だそうで、手には花を摘み やや左方向に視線を向けています。つぶらな瞳やもしゃもしゃっとした髪など子供らしい純朴な雰囲気となっていて、可愛らしい肖像です。他の麗子像と比べても特に写実的で無垢な印象になっているように思います。

この麗子は大人になってから画家になっています。子供の頃の写真を観たことがありますが、端正な顔立ちの可愛い娘です。しかしこの後には妖怪のような姿の像もあり、岸田劉生いわく、娘の肖像は自分の絵と同じ道を歩んでいるのだとか。 その言葉通り、麗子像だけでも岸田劉生の変遷を辿れると思います。

岸田劉生 「川幡正光氏之肖像」
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こちらは1918年の作品。首刈りと呼ばれただけあって首から上だけの肖像で、かなり写実的です。眼の光や顔のテカリまで表現されていてリアルさがあり、この重厚な感じが独特で好みです。

この頃には岸田劉生は写実で名高かったようで、身内だけでなく多くの画家に影響を与えています。意外なところでは日本画家の速水御舟も岸田劉生から影響を受けていて、1920年代に写実的な作品を残しています。

岸田劉生 「麗子坐像」
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こちらは1919年の作品。先程の麗子像に比べると厳しい表情になっていて、子供とは思えないほど重厚な顔つきですw 細部まで緻密な描き方で、やはりデューラーあたりを思わせる表現となっています。黒地なのも重々しく感じるのかな。芸術の為とは言え子供ならもうちょっと可愛く描いてあげれば良いのにと毎回思いますw

麗子像は70点以上もあるのだとか。先程の「麗子肖像(麗子五歳之像)」によって写実を極めることで「内なる美」を「外界の形象に即した美」に昇華させることができたと確信したそうで、写実の道だけでなく短時間のさらりとした描写の「内なる美」の表現の為に、水彩と素描に取り組んでいくことになります。

岸田劉生 「麗子坐像」
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こちらは1920年の作品。水彩で描かれていて、これまでの艶のある写実とは違った味合いとなっているかな。背景は大きな筆跡となっているのもこれまでの作品とだいぶ違って見える要因だと思います。ちょっと右手が小さすぎる気もしますが、素早い筆致で対象の特徴を表現するような方向になっています。

1919~1921年にかけては特に麗子と近所の村娘のお松をモデルに肖像を多く手掛けています。その後2人が成長すると水彩画は減って日本画の制作が始まることになります。また、この頃の京都旅行での感動や日本画家の榊原紫峰が所有していた宋元の花鳥画への関心が作品にも反映されていった時期でもあります

岸田劉生 「村嬢於松(むらむすめおまつ)立像」
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これは1921年の水彩作品。麗子の友達のお松がモデルで、北方ルネサンスの影響から抜けて東洋美に向かう頃の作風となっています。やはり手足がやけに小さく描かれてデフォルメされている感じもするかな。素朴でちょこんとした雰囲気が可愛らしい。このお松がモデルの作品は油彩よりも水彩素描を好んで描いたいたようです。

この鵠沼の時代が岸田劉生の最盛期と言われます。椿貞雄や中川一政なども岸田劉生を慕って鵠沼に引っ越してきて、切磋琢磨していました。

岸田劉生 「麗子微笑」
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こちらは1921年の作品で、麗子が8歳の頃の姿です。まだデューラーの影響があるようですが、どこか寒山拾得みたいな妖しい雰囲気が出てきたようにも思えます。徐々に写実から写意へと変化していった過渡期の作品です。

岸田劉生は1922年6月に宋元画を購入したのを皮切りに、初期肉筆浮世絵なども含めて収入の大部分を買い物に使うという状況になったようです。そして西洋の美術に対する東洋の美術の優位性の論文を執筆し、「現実的で動的で露骨で作為的な西洋とは対照的に、神秘的で静的で無為の自然物的な東洋にこそ、美の深い境地がある」と説き、「初期肉筆浮世絵には、倫理的な美の露骨性を避けるために、正反対の矮小で醜くグロテスクな[卑近美]が現われ、宋元画には、民族的な個性として[偉大なる間ぬけさ]すなわち稚拙感や[写実の欠除]が現われる」と著しました。そしてこの時期は宋元画に学んだ静物を描いたり日本画の個展も開催しています。

岸田劉生 「壺の模様図案」
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こちらは1924年の作品。壺の模様の図案とのことですが、今までの写実とはだいぶ異なる印象で緩い画風となっています。子供の像は宋元画に出てきそうな感じで、この頃の東洋美術への関心がストレートに出ているように思えます。

1923年に関東大震災が起きると、鵠沼の自宅が倒壊してしまいました。そのため、京都に移住し草土社も自然解散となっています。

岸田劉生 「人蔘図」
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こちらは1926年の作品。絹本に描かれた日本画で、色は淡くデフォルメされて南画のような趣となっています。あれだけ濃密で写実的だった画風が真逆の淡くて緩い雰囲気になっているのが驚きですねw 

この頃、岸田劉生は洋画壇での活躍よりも むしろ日本画を制作していたようですが、友人の武者小路実篤は油彩画の制作に復帰させるべく、大調和美術展を開催したそうです。しかし茶屋遊びの放蕩で生活と制作に支障をきたしたので京都から鎌倉へと移住しました。

岸田劉生 「田村直臣(なおみ)七十歳記念之像」
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こちらは1927年の作品。モデルは明治・大正期を代表する日本人牧師で、かつて岸田劉生が洗礼を受けたのはこの人の教会でした。岸田劉生に絵を学ぶように勧めた人物の1人でもあるので恩人と言えます。油彩で描かれていますが、以前と比べると写実性よりも写意へと移っているように思えます。肩周りは妙に狭く、手の位置も変なので子供みたいにちょこんとした印象ですw

残念ながら良い写真がありませんでしたが、この頃の岸田劉生は「デロリの美」と呼んだ妖しい雰囲気の作品を残しています。デロリは粘着性、濃厚さ、泥臭さ、不気味さなどを表現した言葉で、岸田劉生が初期肉筆浮世絵を評して生みだした造語です。中国の絵によく出てくる寒山拾得のように描かれた麗子像や、妖艶さや不気味さのある「岡崎義郎氏之肖像」などにデロリの感性が伺えます。

岸田劉生 「五福祥集」「寒山拾得」
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こちらは1928年の作品。墨の濃淡でさらっと描きあげた感じで、もはや洋画家というよりは日本画家のようになってますw 写実を極めた画家がこういう緩い絵に向かっていったというのが面白いですね。

この翌年の1929年には依頼が多く自由な制作がままならなかったようですが、「今年は本当にいい年にしたい」と日記に書き、華やかな静物画や最後の麗子像を油彩で描きあげたそうです。そして南満州鉄道株式会社の招聘により満洲に渡り、そこでも旺盛な制作意欲を見せています。

岸田劉生 「満鉄総裁邸の庭」
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こちらは1929年の作品で、満鉄総裁の家の草木の生い茂る庭を描いています。遠くには青い水平線が見えていて、小高いところにあるのかな? 黄色い枯れ草と緑の木々などを軽やかな筆致で描いていて、筆跡も残っています。やや初期のポスト印象派風に戻った感じもありますが、また新しい表現になってきているように思え、色鮮やかで清々しい作品です。

こうして満州では「新しい余の道」を見つけたようですが、帰国直後に38歳で急逝しました。これまでも画風が変わり続けた岸田劉生が、また新たな進化を見せそうな所で人生が終わってしまったのが残念です

岸田劉生 「四季の花果図」
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最期にこちらは年代不明の作品。日本画なので1920年代後半のものではないかと思います。南画を思わせる画風となっていて、右から四季の野菜と果物が並んでいます。素朴で可愛らしい印象を受けますね。


ということで、写実時代が有名ではありますが晩年は東洋的な美術を目指した画風となっています。現代でも人気があり頻繁に個展も開かれるので目にする機会も多いと思います。その画風の変遷を知っておくと、一層に楽しめると思いますので覚えておきたい画家です。

 参考記事:
  没後90年記念 岸田劉生展 感想前編(東京ステーションギャラリー)
  没後90年記念 岸田劉生展 感想後編(東京ステーションギャラリー)
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《アンドレ・ドラン》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、フォーヴィスムの画家としてスタートし古典絵画へと回帰していったフランスの画家アンドレ・ドランを取り上げます。アンドレ・ドランは初期はマティスと共に行動していましたが、その後はピカソたちの洗濯船のメンバーと交流しキュビスム風の絵画も残しています。さらにイタリア旅行で古典への関心を深めて様々な古典を取り入れるなど、常に画風は変化していきました。 今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

アンドレ・ドランは1880年にパリ郊外で生まれ、当初は工学の勉強をしていましたが1895年から絵を描き始めました。1898年にアカデミー・カリエールに入学し、そこでマティスやマルケと出会いウジェーヌ・カリエールの元で学んでいます。1900年にはヴラマンクとも出会い、パリ郊外で一緒に屋外で絵を描くようになり共同のアトリエを設けました。兵役でしばらくの中断を挟んで1904年から制作を開始しています。

アンドレ・ドラン 「La seine au Pecq」
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こちらは1904年の作品で。ル・ペックという街のセーヌ川を描いていると思われます。強い色彩と単純化された作風となっていて、フォーヴィスムの画家の1人とされているのも頷けると思います。と言っても割と落ち着いた雰囲気で叙情性も感じるかな。

翌年の1905年にはドランはマティスとスペイン国境に近いコリウールに滞在し、一緒に制作しています。このコリウールで地中海の光を発見し、両画家の作風に大きな影響を与えました。

アンドレ・ドラン 「La Rivière」
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こちらは1904~05年の作品で、タイトルは「川」となります。先程の絵よりも赤や黄色が多く、緑も使われているので対比的に強い色彩となっています。筆致も素早くて木々がうねうねしていて動的な印象を受けます。かなり先進的な表現ですね。

1905年のサロン・ドートンヌにおいて批評家のルイ・ヴォークセルがマティスやドランの激しい色彩を観て「野獣(フォーヴ)の檻の中にいるようだ」と評したことからフォーヴィスムと呼ばれるようになりました。1905年末から1906年初めには、画商アンブロワーズ・ヴォラールの勧めでロンドンに滞在して、テムズ川沿いの風景を描いています。この頃は川辺の絵が多いかも。

アンドレ・ドラン 「Trois personnages assis dans l'herbe」
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こちらは1906年の作品で、タイトルを日本語にすると「草むらに座る3人の人物」といった感じです。単純化が一層に進んでいてナビ派に通じるものも感じます。色面の強さだけでなく黒くてゴツゴツした輪郭も力強さを感じます。野獣と呼ばれたのも納得の画風です。

こうしてフォーヴィスムの一員として活躍していましたが、ドランのフォーヴ時代は1904年から1906年頃までの約2年間と言われていて、それ以降はキュビスムを試したり、古典主義への関心から構成された絵画を目指すようになりました。

アンドレ・ドラン 「Pinède, cassis」
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こちらは1907年の作品で、タイトルは「松林、カシス」となります。まだフォーヴィスムっぽさが強いものの、単純化された形のリズムが感じられて、単なる風景画ではなく構成された画面になっていると思います。特に手前の青い木のカクカクした幹のインパクトが強いw 

この1907年にはパリのモンマルトルへと移り、ピカソやブラック達の「洗濯船」(バトー・ラヴォワール)のメンバーと交流するようになりました。そのため、この後しばらくの間はキュビスム風の作品が制作されています。

アンドレ・ドラン 「Baigneuses」
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こちらは1908年の作品で、「浴場」の意味です。むちゃくちゃ画風が変わってキュビスムっぽくなりピカソたちの影響が強く感じられます。色彩も一気に落ち着いた感じに仕上がっていて、新たな画風へとチャレンジしていたのが伺えます。

1908年には南仏のマルティーグ(マルセイユの近く)に滞在して、キュビスムより前の画風で風景画も描いていたようです。また、1909年には洗濯船のメンバーの詩人アポリネールの最初の詩集『腐ってゆく魔術師』の挿絵も手掛けています。ドランはそれ以降も挿絵を手掛けていたようで、ルネサンス期の文学者ラブレーの長編物語『パンタグリュエル』や18~19世紀のボーマルシェの『セヴィリアの理髪師』の挿絵などもあります。こうした挿絵は「単純化され、色面の境界(の白)で輪郭を現すトランプやタロットのような手法」となっていて油彩絵画とはまた違った趣となっています。

アンドレ・ドラン 「Nature morte à la table」
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こちらは1910年の作品。完全にキュビスムの画風になっていて、ドランの作品と言われなかったら分からなそうですw 幾何学的ではあるけど多面的ってほどではないかな。この頃は色彩よりも構成を重視していたのが伺えます。

こうしてキュビスムに傾倒していたドランですが、1911年頃からより伝統的なスタイルへと回帰していきました。

アンドレ・ドラン 「自画像」
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こちらは1913年の自画像。また画風が一気に変わって、写実的な感じになっています。顔のパーツなどはちょっとキュビスムが残っっているようにも思えるけど、古典に回帰したというのがよく分かりますね。色も控えめで繊細な表現となっています。

アンドレ・ドラン 「画帳のある静物」
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こちらは1914年の作品。古典に回帰しているとは言え、やはりキュビスムっぽい画風が残っているように思います。斜めになった画帳や本など直線的なモチーフと、水差しやカップの曲線のモチーフを上手く組み合わせています。この画帳は台形みたいになってるし、デフォルメの仕方も面白いw

1914年に第一次世界大戦が始まると、ドランは従軍して1919年まであまり絵画制作は行われなかったようです。そんな中、後に深い関係となる若き日のポール・ギヨームはパリのヴィリエ通りのギャラリーでドランの作品を発表していました。

アンドレ・ドラン 「Portrait de Paul Cuilaume」
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こちらは1919~20年頃の作品で、画商のポール・ギヨームの28歳頃の肖像となります。(ちょっと歪んだ感じに見えますが、こういう絵ですw) やや薄めの色彩な一方で筆致は粗めで、人物の周りは背景が明るくなっているので、オーラのような感じに思えます。ポール・ギヨームは元々は自動車修理工場に勤めていましたが、アフリカ彫刻の仲買人を始めたことで詩人のアポリネールと知り合い、やがて画廊を構えるようになりました。1920年代にはパリで最も重要な画商の1人となり、マティスやピカソの作品を扱い、モディリアーニやスーティンの才能を見出し、さらにアフリカやオセアニア美術の市場を開拓するなど美術界に多大な貢献をしています。モディリアーニなどもこの人の肖像が有名なのでこの顔は何度も観たことがありますが、実年齢は20代後半と若くて驚きます。若くして堂々たる威厳を感じさせますね。 ちなみにポール・ギヨームが集めたコレクションは1960年代にフランス政府によって購入され、現在のオランジュリー美術館の所蔵品となっています。そのため、オランジュリー美術館にはこの頃のドランの傑作が数多く収蔵されています。

1919年にはセルゲイ・ディアギレフが率いるバレエ・リュスの「風変わりな店」の美術と衣装を手掛けています。これが非常に好評だったこともあり、晩年の1953年までバレエやオペラの衣装・舞台装飾も手掛けました。

アンドレ・ドラン 「アルルカンとピエロ」
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こちらは1924年にギヨームから注文を受けて描いた大型作品で、ギターを弾くアルルカンと白いピエロが等身大くらいの大きさで描かれています。軽快に片足を上げて踊っていますが、顔は真顔でつまらなそうな顔をしてるかなw 背景が斜面になっていることもあって姿勢と共に動きも感じさせます。なお、このピエロはギヨームがモデルなのだとか。陽気なようで疲れた悲哀が感じられるけど、ギヨームは気に入ったようで自宅の壁に長らく飾ったようです。ドランとギヨームの信頼関係は亡くなるまで続きました。

ドランは1921年にイタリア旅行をしていて、一層に古典への傾倒を深めました。「アルルカンとピエロ」でもその傾向が分かると思いますが、写実性が増し、陰影や色彩も古典的な表現となっています。

アンドレ・ドラン 「台所のテーブル」
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こちらは1925年の作品で、台所の道具を描いた連作の最初の作品にあたります。テーブルにあるフライパンや皿、調理器具、布などが描かれ、濃い目の色彩と黒い輪郭によって力強い印象を受けます。明暗が強く光が当たっているように見え、静物なのに劇的な雰囲気もありますね。

ドランは1922年から1925年頃にかけてキッチン用品を描いた一連の静物画を描いています。先程の絵を観た人の注文が相次いで1927年から展示・複製され、人気を博してドランは売れっ子になりました。1930年代の美術評論家たちは、明暗のコントラストがカラヴァッジョと類似していると指摘していたらしいので、やはりイタリア旅行の成果だったのではないかと思われます。

アンドレ・ドラン 「Grand Nu couché」
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こちらは1926~1927年頃の作品で「横たわる裸婦」を描いています。海辺を背景にしていますが やや不自然な感じで、モデルと風景を組み合わせたような感じに見えます。暗めの背景に明るい裸婦が浮き上がるように描かれ、輪郭も強いので地味な色彩ながらも ちょっとフォーヴの頃を思わせるかな。

1920年代にドランはこうしたヌードを多く描いて、様々な技法を試していたようです。

アンドレ・ドラン 「Melon et fruits」
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こちらは1927年の作品で、日本語にすると「メロンとフルーツ」です。この絵は他の絵と比べると非常に柔らかい印象を受けるのですが、これは輪郭線を使わずに描いているためで、ややぼんやりとしているとも言えます。これはオランダの古典絵画の白い点を用いたためで、ドランはこの技法が物体に生命を与えると考えたようです。かなり繊細でこれも古典への傾倒を示す作品です。

1920年代にアンドレ・ドランはフランス絵画を代表する画家とされ、1928年にはカーネギー賞を受賞して国際的な名声を得ました。今でもフランスの美術館ではドランの絵を観る機会が多く、その評価の高さが伺えます。

アンドレ・ドラン 「胸を開いた婦人の半身像」
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こちらは1928~29年の作品で、半裸の女性像となっています。平坦なイメージのあるドランにしてはややざらついた仕上がりになっているように見えるかな。先程の裸婦と異なり装飾的な印象を受けます。

ドランは、裸婦においてはロココ期のフランソワ・ブーシェやオノレ・フラゴナールの女性ヌードや、ルノワールなどからもインスピレーションを得ていたようです。幅広く研究していたので画風もよく変わります。

アンドレ・ドラン 「Paysage de Provence」
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こちらは1930年の作品で、日本語だと「プロヴァンスの風景」となります。遠くの丘に家らしきものが見えますが、まるで荒れ地のような光景で手前にある木も枯れていて物悲しい印象を受けます。色も控えめで割と地味だけど、妙に心に残る作品です。

1930年にドランは南フランスのヴァール地方(マルセイユの辺り)で風景画のシリーズを制作しています。いくつかプロヴァンス付近の作品があるのはこの時期のものです。

アンドレ・ドラン 「プロヴァンス地方の村」
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こちらは1930年の作品。こちらは明暗が強くてプロヴァンスらしい日差しの強さを感じさせます。周りの建物は幾何学的でリズムを感じるけど、人っ子一人いないのでちょっとシュールな印象すら受けるかな。右上に鳥らしき姿がちょこんとあるのが可愛いw

この頃には海外でもドランの作品が展示されるようになり、高い評価を得ていました。

アンドレ・ドラン 「La Nièce du peintre」
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こちらは1931年の作品で、日本語にすると「画家の姪」です。後ろの足を上げてこちらをチラッと観る女の子が何とも可憐で、愛情を持って描かれているのが伝わってきます。よく見ると つま先立ちしているし、ポーズへのこだわりも感じられますね。

ドランはこの姪を溺愛していたようで、生後9ヶ月から100枚以上の絵を描いたようです。ちなみに1930年代にドランのアトリエにバルテュスがよく訪れてきたようで、ドランに影響を受けたようです。この絵もバルテュスが好きそうな題材ですねw

アンドレ・ドラン 「Arbres et village」
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こちらは1932年の作品で、日本語にすると「木と村」です。この年に滞在したプロヴァンスのエガリエール村の風景で、夏の暑さや空模様をつぶさに表現しています。特に空の色が深くて地面や木々の色との対比が美しく感じられます。

ドランはこの年、エガリエール村で数多くの風景画を描いています。別の角度や構図を変えて連作のような感じです。

アンドレ・ドラン 「La Route」
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こちらも1932年の作品で、日本語にすると「道」です。これも先程のエガリエール村で、一層に青が鮮やかで爽やかな印象を受けます。道にも影が強く落ちていて日差しの強さも感じるかな。南仏の気候が端的に表されたような作品ですね。美術史家のエリー・フォールはこうしたドランの絵画を1923年の著書で「風景の中の木は、その孤独を凝縮して捉えるために、ただそこにあるようにしか見えない。」と著したのだとか。

この2年後の1934年にはポール・ギヨームが亡くなっています。そしてドランの晩節は不名誉なものへとなっていきます。

アンドレ・ドラン 「エーヴ・キュリーの肖像」
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こちらは1934~39年の作品で、有名なキュリー夫人の娘でフランスの芸術家であるエーヴ・キュリーを描いた肖像です。何となくお母さんの面影もあるような。優しそうで気品ありますね。もうこの頃になるとフォーヴやキュビスムの要素はほとんどありません。

この1939年に第二次世界大戦が始まっています。ドランはフランス絵画の権威と見なされていたことがこの後仇になってしまいます。

アンドレ・ドラン 「オーの風景」
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こちらは1939年の作品。水平線が低めに取られ、開放感のある風景となっていますが暗雲が迫り不穏な雰囲気となっています。この絵の詳細は分かりませんが、時代背景を考えると当時の世相とリンクしているのではないかと勘ぐってしまいますね。

この翌年の1940年にフランスはドイツに占領され、傀儡のヴィシー政府となります。この時、ドランはドイツにフランス文化の権威として利用されるようになり、1941年にはフランスの芸術家グループとドイツを訪問しています。これが戦後にナチスへの協力者だったと見なされ、ドランの評判とキャリアを汚し 追放処分となってしまいました。

アンドレ・ドラン 「果物」
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最期にこちらは年代不明の静物。濃いめの色彩でフォーヴィスムっぽさも感じますが、ややキュビスム的なところもあって恐らく1920年代から30年代頃じゃないかなあ。滑らかで艶のある仕上がりで瑞々しい印象を受けます。

1953年に目を患い そのまま片目の視力を失い、1954年にガルシェの街で自動車事故で亡くなりました。


ということで、画風がよく変わる画家となっています。日本ではヤマザキマザック美術館などが多く所蔵しているけど、私はドランの個展は観たことがありません。本国のフランスの美術館では結構厚めに展示されたりしているので、日本でも今後更に評価されて行くんじゃないかと思います。


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《中村彝》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、明治末期から大正時代にかけて活躍した洋画家の中村彝(なかむらつね)を取り上げます。中村彝は軍人を目指していましたが結核で挫折し、幼い頃から好きだった絵の道を進みました。その後の人生も悲恋や病気によって苦難が続いたものの絵の評価は当時から高く、身を削るように打ち込んでいきました。わずか37年の人生(画業は15年くらい)で肖像画を始め多くの傑作を残しています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


中村彝は1887年に旧水戸藩士の家の5兄弟の末っ子として生まれ、その翌年には父が亡くなり10歳の頃には母を亡くしています。親代わりとなった長男の影響を受けて軍人になるため17歳で名古屋陸軍地方幼年学校を卒業し 東京の陸軍中央幼年学校に進学したものの その直後に肺結核の診断がくだされエリート軍人への道を失ってしまいました。失意の中、暖かな千葉の海岸地で転地療養を繰り返しているうちに幼い頃から好きだった絵を描くようになり、やがて画家の道を志すようになりました。19歳(1906年)で黒田清輝らの白馬会研究所に入り、その翌年の1907年には太平洋画会研究所に移り、それぞれで生涯の友となる中原悌二郎や鶴田吾郎などの仲間を得ています。そして1909年の第3回文展に「曇れる朝」「巌」を出品し初入選・褒状受賞を果たし画家としてスタートしました。

中村彝 「自画像」
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こちらは1909~1910年頃の自画像。しかめっ面のような独特の顔つきをしているかなw 中村彝はレンブラントに影響を受けたと言われていて、この絵も黒っぽい服の自画像という点でそれが感じられるように思います。黒だらけの格好なのに髪と帽子の境目が分かるとか、陰影が分かる辺りに技量の高さが感じられますね。
 参考記事:《レンブラント・ファン・レイン》 作者別紹介

中村彝は1907年にキリスト教の洗礼を受けているそうです。とは言え、特に宗教を画題にすることはなかったようで 大半は肖像画、風景画、静物画となっています。

中村彝 「海辺の村(白壁の家)」
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こちらは療養で訪れた千葉の布良海岸を描いた1910年の作品。ざらついたマチエールで、手前の陰影によって海が青々とした色彩に感じられます。当時の光景がありありと表現されているようです。この作品は第4回文展で3等賞となりました。

中村彝は1908年にパン屋で有名な新宿中村屋が開いたアトリエを訪れ、帰国したばかりの荻原守衛と中原悌二郎に会っています。この頃、中村屋は文化人が集まるサロンの役割を果たしていて、中村彝も1911年から主人の相馬夫妻の厚意で中村屋の裏の画室に住むようになりました。中村彝はアトリエでの制作に熱中するあまり 食事もろくにとらなかったそうで、それを心配して相馬夫妻は中村彝を食卓に招いて家族の一員のように扱ってくれたのだとか。(これが逆に悲劇の始まりだったりしますが…)

中村彝 「小女」のポスター
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こちらは1914年の作品で、第8回文展で3等賞を受賞しています。モデルは中村屋の相馬夫妻の長女の俊子で、手を組んでどこかをじっと見つめていて人懐こそうな印象を受けます。背景は色調を抑えた赤と青のチェック模様となっていて派手になりすぎずに絵全体を華やかにしている感じかな。親密な空気が漂い、幸せそうな肖像画です。

この絵は着衣ですが同時期には「少女裸像」など俊子をモデルに裸婦像も多数描いています。自分の芸術の為に裸婦モデルになってくれる俊子に惹かれ 2人は恋仲となっていく訳ですが、相馬夫妻は中村彝が結核の病人であることや、娘の裸体を文展に飾って人目に晒すことに抵抗があったようで、2人が接近するのを妨げるようになりました。そして1914年には激しい葛藤を持ったまま中村屋を離れ、伊豆大島へと旅立って行きました。

中村彝 「大島風景」
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こちらは1914~15年頃の作品。先程の布良海岸の風景画と違って、セザンヌへの傾倒ぶりがストレートに見て取れます。しかし手前の木々の描き方はかなり荒々しくて、強風でも吹いているかのような仕上がりになっています。大島滞在時の中村彝の特徴は大胆な筆触なようで、当時のメンタルが影響していたのかも知れませんね。

1915年には相馬夫妻に俊子との結婚を申し込みましたが反対されました。1916年に俊子と再会したものの、結局2人の恋は実ることはありませんでした。

中村彝 「田中館博士の肖像」
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こちらは1916年の作品で、下落合へとアトリ工を移して描かれこの年の第10回文展で特選第一席となっています。モデルの田中館(たなかだて)博士は航空工学の権威で、自宅でガウン姿で研究する姿となっています。「小女」のような華やかな肖像と違って落ち着いた色彩となっていて、穏やかで知的な雰囲気が強まっているように思います。中村彝の肖像画はモデルによってガラっと雰囲気が変わって見えるのが面白いです。

中村彝はこの後も転々としますが、最終的にこの下落合のアトリエが亡くなるまでの拠点となりました。画業は上手く行っていたものの傷心な上に病による喀血が続き、心配した友人が家政婦を頼んでいます。(この家政婦も晩年によくモデルになっていたようで、作品が残っています。) なお、この後の1920年代には目白・落合一体は東京郊外として整備が進められ、モダンな邸宅の並ぶ目白文化村やアビラ村と名付けられた住宅街となっていきました。現在では中村彝のアトリエは復元され、新宿区立中村彝アトリエ記念館として公開されています。
 参考リンク:新宿区立中村彝アトリエ記念館

中村彝 「静物」
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こちらは1917年の作品。これもセザンヌっぽい雰囲気があるかな。粗めの筆致が残っていて力強い印象を受けます。中央の黄色が特に目を引くので色彩の取り合わせも計算していそうですね。

1920年に今村繁三(「海辺の村」を買ってくれた銀行家)の家でルノワールを実際に観ることが出来たようです。院展でもルノワールを観る機会があり、大きな感銘を受けました。その為、この頃の中村彝の作品にはルノワールからの影響が見て取れます。

中村彝 「泉のほとり」
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こちらは1920年の作品。ルノワールに影響受けたってレベルじゃないw 模写じゃないか?ってくらいのルノワールへの傾倒ぶりです。実際、長らくルノワールの模写と言われてきたわけですが、最近の研究で中村彝の創作であることが明らかになってきたのだとか。裸婦の体型や色彩などかなり細かいところまで研究していた様子が伺えます。

この頃、かつて中村彝が住んでいた中村屋のアトリエにワシリー・エロシェンコというロシア人が住んでいました。ワシリー・エロシェンコは盲目の詩人で、エスペラント語の普及や詩集の発行をしていて、その活動を通じた仲間に連れられて中村屋のサロンを訪れ、相馬夫妻に気に入られて世話を受けるようになりました。そして目白駅で鶴田吾郎(中村彝の友人の画家)がたまたま見かけたエロシェンコにモデルになってほしいと声をかけ、エロシェンコは8日間に渡って中村彝のアトリエで2人の画家によって肖像画を描かれることになりました。

中村彝 「エロシェンコ氏の像」
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こちらは1920年の作品。全体的に黄色がかった画面で盲目のロシア青年を描いています。放浪の詩人に自己を投影させていたようで、瞑想的な雰囲気でどこか聖人のような厳かな印象すら受けます。この作品は取り憑かれたように描き続け、画家本人は8日目にもう1日描きたいと言っていたようですが。体力の限界を迎えていたのを察した鶴田吾郎が止めたようです。実際、その晩から中村彝は発熱と下痢に見舞われて再び病床についているので、まさに身を削るように描いた魂心の作と言えそうです。

1923年には第4回帝展審査員に任ぜられましたが、病のため立ち会うことができませんでした。翌年の1924年の帝展には作品を出品したものの年末に37歳で下落合のアトリエで亡くなりました。


ということで、病気や悲恋を乗り越えて傑作を残した画家となっています。ゆかりのある中村屋サロン美術館や茨城県立美術館で特集されることもあり、私の好きな「カルピスの包み紙のある静物」なども茨城県立美術館が所蔵しています。東京国立近代美術館にも「エロシェンコ氏の像」などの傑作が常設に展示されることがあるので、じっくりと観てみるとその魅力がよく分かるのではないかと思います。


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《ピエール=アルベール・マルケ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、フォーヴィスム(野獣派)のメンバーでありながら穏やかな画風のピエール=アルベール・マルケを取り上げます。マルケは修行時代にマティスに出会い、共に活動していたのでフォーヴィスムの一員とされますが、フォーヴ時代はそれほど長くなく、それ以降は灰色がかった中間色の柔らかな色調が特徴となっています。その作品の大半は風景画で、パリの市内や各地の港を特によく描きました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


マルケは1875年にフランスのボルドーの鉄道員の子として生まれました。内気で病弱だったようですが、絵を描くことが好きで 母はそんなマルケを連れて絵を学ばせる為にパリに出ます。(この時に実家の土地を売払っているので母はかなり大胆な人物です) パリの国立装飾学校に入学すると6つ上のアンリ・マティスと出会い、さらに国立美術学校に入学するとギュスターヴ・モローの元で学び、ルオーとも出会っています。モローは良い先生だったのですが、1898年に亡くなってしまい跡を継いだコルモンとは合わずにマルケはマティスと共に学校を去っています。そして1901年からマティスやカモワンらの仲間と共にアンデパンダン展に出品するようになり、1903年に仲間たちとサロン・ドートンヌを立ち上げ、1905年のサロン・ドートンヌにおいて批評家のルイ・ヴォークセルが彼らの激しい色彩を観て「野獣(フォーヴ)の檻の中にいるようだ」と評したことからフォーヴィスムと呼ばれるようになりました。

ピエール=アルベール・マルケ 「Quai des Grands-Augustins」
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こちらはフォーヴィスムと名付けられた1905年の作品で、タイトルはパリのポンヌフ橋近くのケ・デ・グラン=オーギュスタンとなります。粗めのタッチで雪の積もるセーヌ川の河畔を描いていますが、フォーヴというほど激しい色ではなく、むしろ灰色がかった穏やかな雰囲気です。マルケはマティスと親友で行動を共にしていたのでフォーヴィスムの一員と見なされていますが、実際にはこうした微妙な色調を用いる画家と言えます。

この頃、数年間だけフォービズムとして活動していましたが、それ以降は、「マルケの灰(グリ)」と呼ばれる、霧や煙などによる中間色の柔らかな色調が特徴となっていきます。この絵などにはその特徴が出ているかな。

ピエール=アルベール・マルケ 「パリ、ルーヴル河岸」
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こちらは1906年の作品。こちらもルーヴルの辺りのセーヌ川河畔の様子を高い位置から描いています。マルケの作品の多くは風景画で、子供の頃から風景画が好きだったようです。物静かな人物だったようで画風からもそれが伺えますね。なお、これは穏やかですが、一応この時代にはマティスのような明るい色彩の作品も残しています。

この頃には経済的な安定を得ることができたようです。1907年には母が亡くなってしまいますが、息子が成功したのを見届けることができました。1907年末にはマティスと共に街の風景シリーズを制作しています。

ピエール=アルベール・マルケ 「坐る裸婦」
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こちらは1912年の作品。マルケも1910年代には裸婦像をいくつか描いていて、これもその1枚です。くっきりした色使いでフォーヴっぽさもあり、ちょっと肌が硬そうな質感にも見えます。ベッドの色や模様など親友のマティスに通じるものもありそうですね。

1910年から1914年の間に売春宿でのヌードのシリーズを描いていて、レズビアンの恋人を描いた作品なんてものまであります。

ピエール=アルベール・マルケ 「Le port de Marseille」
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こちらは1916年の作品で、タイトルは「マルセイユの港」となります。淡く爽やかな海に船が浮かぶ光景はマルケの代名詞的な作風で、観ていて清々しい気分になります。

マルケの絵の人物は非常に簡略化されていて、まるで書道のように描かれていることから、日本の四条派に通じるものがあると指摘されています。また、親友のマティスは「北斎を見るとき、私はマルケを思い浮かべる。北斎の模倣という意味ではなく、彼との類似性を意味している」と語っていたのだとか。

ピエール=アルベール・マルケ 「ラ・ショームの家並み」
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こちらは1921年の作品でこれは結構フォーヴっぽい強めの色彩で筆致も大きいかな。ぺったりとした筆致はマルケらしさも感じるのが面白い。画風が安定しているようで並べてみると色々と変化しているのを感じます。

1907年頃から亡くなるまで、マルケはパリのアトリエとヨーロッパ各地、北アフリカなど様々な場所に旅行して作品を制作しました。遠くアルジェリアやチュニジア、アメリカ、ソ連なども旅行しています。1920年にアルジェに訪れた際に、後に妻となるマルセル・マルティネ(現地のガイドさんだった)と出会いました。それ以来ほぼ毎年アルジェを訪れています。

ピエール=アルベール・マルケ 「レ・サーブル・ドロンヌ」
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こちらは1921年の作品でフランスの大西洋に面した港を描いています。この海の透明感はマルケ独特のもので、フォーヴとは一線を画する色彩感覚となっています。やや高い位置からの眺めも特徴の1つで、マルケの画風のイメージはこの絵に詰まっているように思えます。(国立西洋美術館の所蔵なので一番身近に見ているってのもありますがw)

この2年後の1923年にマルセル・マルティネと結婚しました。47歳だったので晩婚ですね。

ピエール=アルベール・マルケ 「サン=ジャン=ド=リュズの港」
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こちらは1927年の作品で、フランス南西部の港町が描かれています。水面の筆致は大胆だけど、全体的に灰色がかって静かな印象を受けます。この頃になると一層に穏やかで内省的なものを感じさせるかな。簡略化されているものの、その場の光景が伝わってきて写実主義的な側面もあるように思います。

もうお気づきだと思いますが、マルケは風景の中でも特に港を好んで描きました。ボルドー近くの港町に生まれたことが理由と考えられています。

ピエール=アルベール・マルケ 「ブーローニュ=シュル=メール港の眺め」
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こちらは1930年の作品で、ベルギーとの国境に近い港町を描いています。この街の波止場近くに家を借りていたようで、恐らく窓から観た光景だと思われます。やはり高めの視点から一望する光景となっていて、霧や蒸気機関車の煙などを繊細に描き分けていて叙情的です。やや寂しくも見えるけど、静止した中で機関車だけが力強く動いているのも面白い。

マルケは名誉や金銭に関心が無かったようで、晩年にはフランス政府からの勲章授与を辞退しています。画風のように穏やかな人生だったのだとか。

ピエール=アルベール・マルケ 「Paysage à Vernet-les-Bains」
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こちらは1940年の水彩作品で、スペインとの国境が近いヴェルネ=レ=バンの風景を描いています。木や山を描いているせいかもしれませんが、水彩だと逆に筆致が細かいのが面白いw むしろ油彩のほうが水彩っぽくて、水彩のほうが油彩っぽいように思えます。

1940年から第二次大戦を避けて奥さんの故郷のアルジェリアで5年間暮らしていました。

ピエール=アルベール・マルケ 「税関前の艦船」
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こちらは1942~43年の作品。締めに相応しいマルケのイメージそのものといった画風です。港を描いていることもあって、直線・直角・水平などが多く使われているのですが硬さがなく緩やかなリズムに感じられるのがマルケの画風の優しさかな。戦時中とは思えないほどの穏やかな光景です。

1945年に戦争が終わりパリに戻りましたが、胆嚢を患い1947年に手術を受けるものの癌も見つかりその年の6月に亡くなりました。


ということで、野獣と呼ぶには穏やかな画風の画家となっています。個展が開かれる機会は稀ですが、フォーヴィスム関連の展示や海外の美術館展などの大型展示で観る機会も多いと思います。国内にも様々な美術館にコレクションされているので、是非知っておきたい画家です。



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《竹内栖鳳》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、明治から昭和にかけて京都画壇で大きな功績を残した竹内栖鳳(本名 恒吉)を取り上げます。竹内栖鳳は東の大観、西の栖鳳と並び称された画家で、円山派・四条派・狩野派といった様々な流派の筆遣いを1つの作品の中で表したため当初は「鵺派」と揶揄されました。しかし、半年のヨーロッパ遊学を経て西洋画を意識した画風となっていき、高い評価を得て画壇での地位を高めました。また、自身の画業の素晴らしさだけでなく後進を育て多大な影響を与えていて、画塾「竹杖会(ちくじょうかい)」の開催や 京都市美術工芸学校、京都市立絵画専門学校で教鞭を取り、その弟子・教え子には上村松園、小野竹喬、西村五雲、土田麦僊、福田平八郎、村上華岳など錚々たる面々が並びます。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


竹内栖鳳は京都の料亭の息子として生まれ、跡継ぎになることを期待されましたが次第に画家を目指すようになりました。そのきっかけは画家の客が即興で描いた杜若を観たことで、筆一本で自然を生き生きと表現できることに驚いたそうです。画家になることは家族に反対されましたが13歳で近所の土田英林(四条派の画家)に学んだ後、17歳の頃に幸野楳嶺に入門し、幸野楳嶺の厳格な指導のもと四条派の表現を学びました。幸野楳嶺は四条派の正当な後継者であり、四条派は円山派の写生に軽やかさを加えた画風で、まずはその師の手本を繰り返し模写することから始まったようです。当初は「棲鳳」という名前を幸野楳嶺から名付けられ、これは鳳凰にちなんだ名前のようで、後に字は変わりましたが発音は同じです。同門には川合玉堂などもいて切磋琢磨していたようです。また、竹内は師に付いて北越地方を回ったり古画を模写するなども行ったそうで、初期はそうした学習の成果を示すように伝統的な画題や伝統的な筆遣いで描かれています。

竹内栖鳳 「土筆に犬」
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こちらは明治時代(19世紀)の作品。所々にツクシが生えている春の光景かな。題材や画風から円山四条派の祖である応挙からの影響が強く感じられ、犬たちが生き生きと戯れています。古画に学んでいた様子が伺えますね。

栖鳳が最初に画を学んだのは円山四条派の画家(土田英林)で、円山四条派は円山応挙を祖とする円山派と、呉春を祖とする四条派から成っています。円山派は写生を重んじ写実的な画風である一方、四条派は写意(精神性)を重視していて それぞれ方向性が違っているのですが、双方を兼ね揃えた画家もいるので広い意味で区別なく円山四条派と総称されます。栖鳳の師(2番目の師)となった幸野楳嶺も双方を学んでいて、栖鳳にもそれが伝わっていったようです。幸野楳嶺に入門した翌年には早くも展覧会へ出品し受賞を重ね、次第にその名を轟かせていきます。1900年にはパリ万博見学および西洋美術視察の目的で渡欧を果たし、ヨーロッパ各地をめぐるチャンスを得て、帰国後には「棲鳳」から「栖鳳」に名を改め渡欧体験の成果を形にして行きました。

竹内栖鳳 「金獅」のポスター
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こちらは1901年の作品。従来の日本画の獅子というと唐獅子となっていましたが、この絵ではリアルなライオンが描かれています。フワフワした毛並みと緊張感ある面持ちが堂々たる威厳を感じさせ、単なる写生を越えたものになっているように思えます。

明治25年(1892年)に竹内栖鳳は京都美術工芸品展に「猫児負喧」という作品(現存せず)を出品し、円山派・四条派・狩野派といった様々な流派の筆遣いを1つの作品の中で遣いました。しかし、それは「鵺派」(色々な動物の部位を持つ妖怪)と非難されたそうで、当時の画壇には受け入れられなかったようです。また、この時期から西洋画を意識した作品が多くなったようで、海外の美術文献の講読会を開いたり、万国博覧会出品や製造販売の為に海外進出を推し進めていた美術染色業界に関わっていたようです。そして明治33年(1900年)にはパリ万国博覧会の視察で渡欧し、各地で多くの西洋美術に触れ、帰国すると早速ヨーロッパの風景を西洋絵画的な写実性を帯びた表現で描き注目を集めました。 しかし栖鳳が渡欧体験を通じて最も重視するようになったのは西洋の長所の実物に基づく写生に日本の伝統絵画が得意とする写意(対象の本質を描くこと)を融合させることにあったようです。

竹内栖鳳 「象図」右隻のポスター
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こちらは1904年の六曲一双の屏風の右隻。右隻は正面を向いた象で、画面からはみ出さんばかりに大きく描かれています。

竹内栖鳳 「象図」左隻のポスター
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こちらは左隻。左隻では横向きの象が背中に籠を載せ、そこに猿も乗っています。その象に驚いたのか猿の目線の先には2羽の鳥が逃げていく様子も描かれているのが面白い。象は右前足を上げて踏み出すような力強さがあり、表面が細かく描かれて写実的な感じです。実物の象を日本で見るのは難しい時代だったようですが、パリに行った際にスケッチしてきたらしく、それを元に写実的に描いているようです。また、猿の大きさと象の大きさを対比することで、その大きさを強調しているようで、これは応挙の弟子の芦雪が得意とした手法です。猿のふわふわした毛と象の体表のざらつきも対照的に見えるかな。

1907年に開設された文展では初回から審査員を務めつつ話題作を次々と発表し、帝展でも審査員となり京都画壇を代表する画家となっていきました。

竹内栖鳳 「雨霽(あまばれ)」
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こちらは1907年制作の六曲一双の水墨の屏風で、第1回文展に審査員として出品した作品です。左隻には6~7羽の鷺の群れが柳の下で休んでいて、口を開けたり振り返ったりそれぞれのんびりと過ごしているようです。一方、右隻には羽根を伸ばして飛び立つ鷺と柳の木が描かれています。文展の締め切り5~6日前あたりではこのまま出してもつまらない作品だと考え一旦は筆を置いたそうですが、右隻にうっすらとした柳の木を書き加えたことで奥行きと広がりが出て満足できる作品になったそうです。また、渡欧後はその影響の強い作品を作っていましたが、この作品では円山四条派に立ち返っています。 雨上がりの空気感や鷺の躍動感が伝わり、叙情性のある作品となっていますね。

竹内栖鳳はビロード友禅の原画なども残しています。この頃の京都は、陶芸・染色などの分野でいち早く新時代に相応しい技術を開発しようと積極的に外国人を招聘したり、伝習生をヨーロッパに派遣した他、万博などに参加して海外への販路を求め高い評価を得るなど旺盛な活動をしていたようです。その図案には多くの日本画家・洋画家が携わり、栖鳳もその1人として活躍していました。そしてこうした仕事を通じて栖鳳は西洋諸国に肩を並べる日本画を目指すという広い視野を獲得できたと考えられるようです。ちなみに20代の頃に意匠を描くために高島屋の画室に勤務したこともあるのだとか。

竹内栖鳳 「飼われたる猿と兎」
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こちらは1908年の作品。ふわふわした毛並みが見事で写実性と理想的な美しさの両面を感じます。単に可愛い絵に見えますが、従順ですべてを受け入れて食が満足な兎と、利口で飼われることに満足できずに飢える猿、どちらが幸せか?という意味が込められているようです。

竹内栖鳳は「蛙と蜻蛉」制作の際には栖鳳は10日間も蛙を見つめつづけ、オスとメスの区別がつくほどだったという逸話があります。そのため腰を痛めてしまったそうで、それほどまでに真剣に写生に取り組んでいたことがわかるエピソードです。

竹内栖鳳 「絵になる最初」のポスター
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こちらは1913年の作品。紫の着物を脱ぎかけている女性が、口の前に左手を出して顔を隠し恥ずかしがっている様子が描かれています。滑らかな肌で初々しい雰囲気の女性で、その仕草も可愛らしく見えます。また、着物は紫地に青や金銀泥で模様をつけ、華やかな雰囲気がありますね。この着物は当時人気が出たそうで、高島屋が「栖鳳絣(せいほうがすり)」として売りだしたそうです。実際に今でもこれとそっくりの栖鳳絣が残されています。

竹内栖鳳は美術学校の教諭として、多数の弟子を抱える画塾「竹杖会」の主として、また1907年から始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員として、画壇での地位を確立していきました。土田麦僊を始めとする弟子たちが頭角を現すようになると、1918年には彼らによって作られた国画創作協会の顧問にもなったようです。 栖鳳はそうした後進の活躍を見守る立場になっても新たな表現を意欲的に研究し続けたそうで、動物画では個々の性質を捉え一瞬の動きを表そうとし、風景画では伝統的な山水でも西洋的な遠近の表現でもない作品を生み出していきました。

竹内栖鳳 「班猫」のポスター
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こちらは1924年制作の座って振り返る姿の猫を描いた作品で、全体的にふわっとした毛並みをしています。じっとこちらを伺う目はエメラルドグリーンで、どことなく気品があり優美な雰囲気です。この猫は栖鳳が旅で立ち寄った沼津の八百屋の愛猫だったのですが、栖鳳は一目見た瞬間に徽宗皇帝(自らも絵を描いた北宋の皇帝)の猫図を想起し表現欲が湧いたそうです。そして栖鳳は自筆の画と引換に猫を譲り受け、京都に連れて帰って写生や撮影を繰り返し、この絵を完成させました。この猫の写真を観たことがありますが、確かに絵の猫と似ていました。実際は目は若干黄色っぽく毛並みは写真より絵の方がふわふわしていて、表情も一層賢そうに描かれています。世の中に猫の絵は数あれど、これは1つの頂点ではないかと思います。

1920年からは2度に渡って中国に滞在していて、この旅行は主題・色彩感覚ともに風景画の深化をもたらす結果になりました。栖鳳は狩野派も模写していてそのルーツは中国にあると考えていたようです。晩年には中国の揚州に似ていると言って潮来を描いた作品も多く残しています。さらに、この時期に短期間ながらも人物画を研究し、一瞬の仕草の中に心情を描き出しました。先程の「絵になる最初」などもそれが伺えますね。

竹内栖鳳 「蹴合」のポスター
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こちらは1926年の作品。2羽の軍鶏が向き合って戦っている様子が描かれたもので、足を出して相手を掴むように襲いかかっています。戦いの瞬間を捉えたような緊張感がありつつ、滲みを使った色とりどりの毛が華やかな雰囲気に思えます。

竹内栖鳳 「蹴合」のポスター
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こちらは1929年の作品。先程の絵によく似ていますが、ポーズが違っていてこちらのほうが緻密かな(実物はもっと細かいです) 足を前に出し爪で攻撃しようとしていて、羽をばたつかせるなど躍動的に表現されています。一瞬の動きをよく捉えていて、「動物を描かせてはその匂いまで描く」と言われた栖鳳のこだわりが感じられます。この作品にはよく似た下絵もあり、入念な準備の様子も伺えます。

昭和期に入ると、栖鳳はしばしば体調を崩していたようで、1931年(昭和6年)に療養のために湯河原へと赴きました。やがて回復した後は東本願寺の障壁画に挑むなど以前にも増して精力的に活動したようですが、湯河原が気に入ったらしく、京都と湯河原を行き来しながら制作を続けました。

竹内栖鳳 「禁城翠色」
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こちらは1931年の皇居のお堀を描いた作品。淡い色彩を背景に松だけが水墨のようでダイナミックに描かれています。滲みもあるし、繊細さと豪快さが同居した感じに見えます。竹内栖鳳は渡欧の際にコローの作品を観て感銘を受けたらしく、この絵にもコロー的な湿潤な空気感が感じられます。

この頃の栖鳳は洗練を増した筆致で対象を素早く的確に表現するようになっていたそうで、昔のように細密に写生するよりは、対象の動きと量感をスピード感のある線で大掴みに捉えたものが多いようです。

竹内栖鳳 「草相撲」
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こちらは1937年の作品。一見して「鳥獣戯画」の模写と思われます。ちょっと詳細は分かりませんが、躍動感と滑稽味があって楽しげな雰囲気ですね。

晩年も実験的な作品を生み出し続け、若いころと同じ主題に再度取り組むこともあったようですが、その表現は若いころとは違っていたようです。

竹内栖鳳 「海幸」
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こちらは最晩年の1942年の作品。ここでは写実的に丁寧に鯛を描いていて、美味しそうw 目の周りに青が入っているのが独特の色彩表現ではないでしょうか。この年に亡くなっているのに細部まで気迫を感じさせます。

栖鳳は明治後期から大正にかけては京都市美術工芸学校と京都市立絵画専門学校で教鞭をとり村上華岳をはじめ多くの学生を指導しました。竹内栖鳳の弟子は冒頭に書いたように大物画家が多くいます。

ということで、非常に気品あふれる作風で現在でも人気の画家となっています。京都で活躍した為か東京ではあまり常設で見かける機会はありませんが、山種美術館には「斑猫」があるので ちょくちょく特集が組まれます。日本画壇でも重要な人物なので是非詳しく知っておきたい画家です。

 参考記事:
  竹内栖鳳展 近代日本画の巨人 感想前編(東京国立近代美術館)
  竹内栖鳳展 近代日本画の巨人 感想後編(東京国立近代美術館)
  没後70年 竹内栖鳳 後期(山種美術館)
  没後70年 竹内栖鳳 後期(山種美術館)
  大観と栖鳳-東西の日本画(山種美術館)



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《ギュスターヴ=アドルフ・モッサ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、退廃的かつ悪夢的な画風で異彩を放つ象徴主義の画家ギュスターヴ=アドルフ・モッサを取り上げます。モッサは日本で観る機会はほとんどありませんが、2017年に大きな話題となった「怖い絵展」でも狂気をはらんだ作品が出品され、強烈なインパクトを残しました。経歴を調べてもあまり分からないので今日はほとんど絵の羅列になりますが、モッサの父が館長を務めたニース美術館で撮った写真をご紹介していこうと思います。

ほとんどwikiの受け売りですが、ギュスターヴ=アドルフ・モッサは1883年に南仏ニースで生まれ、父も画家でデッサン学校を経営し、ニース美術館の館長も務めていたようです。モッサはその父から手ほどきを受け、ギュスターヴ・モローら象徴主義の画家、ボードレールなどの作家、ラファエル前派、アール・ヌーヴォーなどに影響を受けました。1905~1918年頃に退廃的な画風で脚光を浴びたものの、第一次世界大戦に従軍して負傷してからは絵画から遠ざかったようです。(1971年まで生きています)

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Salomé, les mains coupées」
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こちらは1904年の作品。サロメを主題にしているので浮かんでいる生首は洗礼者ヨハネかな。幻影のようで首と手から落ちた血が寝具を染めているのが怖いw

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Judith et Holopherne」
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こちらも1904年の作品。ホロフェルネスの首を斬るユディトを題材としていて、敵将ホロフェルネスの首がおかしな方向に曲がって鮮血が吹き出しています。ユディトも美人のはずが恐ろしい表情をしていて幻想的な淡い色彩と合わないのが一層に不気味w それにしてもホロフェルネスの体つきはちょっと変な感じかな。腰がやけにくびれて足がひょろっとしてて女性みたいな。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「セイレーン」の看板
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こちらは1905年の作品で、「怖い絵展」にも出品されていました。セイレーンは美しい歌声で船を惑わせ難破させる怪物で、ここでは顔だけ人間で体は鳥になっています。何と言っても狂気をはらんだ眼が怖くて、口には血がついています。

ここまで観てもモッサは破滅を招く美女をテーマにした作品が結構あるようです。世紀末以降に流行ったファム・ファタル的な要素が感じられます。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Portrait psychologique de l’auteur」
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こちらは1905年の自画像。「作者の心理描写」という意味のタイトルとなっていて、血の手形みたいなのが禍々しいw 上目遣いでこちらを見る目や首に巻いた蛇などちょっと中二病のような不気味さがありますねw

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Encor Salomé」
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こちらは1905年の作品。サロメを主題にしていて、頭に載せているのは舞の褒美で貰った洗礼者ヨハネの首だと思われます。妖しい美しさで悪魔的な魅力を感じさせます。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Dalila s'amuse」
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こちらは1905年の作品で日本語にすると「デリラの楽しみ」となります。デリラは勇者サムソンの妻で、サムソンの無敵の力の根源が髪にあることを聞き出し髪を切った裏切り者です。中央あたりで拘束されて血を流してるのはサムソンと思われ、髪を剃られています。それを楽しげに見る派手な女がデリラかな。病的な白さで魔女のような雰囲気となっていて、やはり破滅を招く女ですね。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「David et Bethsabée」
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こちらは1906年の作品。ダビデとバテシバというタイトルなので、真ん中の女性はバテシバかな。この話は人妻のバテシバに横恋慕したダヴィデ王が夫を戦場に送り込んで死なせるというもので、背後に馬に乗った騎士の姿があるのが夫だと思われます。右にいるのがダヴィデ王だと思うけど、神の恩寵を受けたとは思えないほど邪悪な顔をしてるw この話のバテシバはむしろ被害者のはずが、ここでは冷徹で男を惑わすような存在となっているのが独特の解釈に思えます。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Pierrot s'en va」
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こちらは1906年の作品で日本語にすると「ピエロが出ていく」といった意味となります。ちょっとこれは何のシーンか分かりませんが、血の滴るナイフを持って虚ろな顔をするピエロが事件を起こしたように見えますね。背後の抱き合う男女と何か関係があるのかな。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「La femme aux squelettes」
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こちらは1906年の作品で日本語にすると「骸骨の女」となります。これも主題は不明ですが、背景に無数の骸骨がいて半透明の衣の中にナイフを握っているのが死を予感させます。黒髪の美人で、白い衣、赤い花といった華やかさが美醜の対比になっていて面白い。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Israél」
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こちらは1907年の作品で、日本語にするとイスラエルとなります。教会の模型のようなもの、手を合わせる人物像、トカゲ(竜?)のようなものに2人が杯を捧げていますがちょっと意味は分かりません。背景に廃墟みたいなものが描かれていたり、何かの象徴だとは思うんですが…。

この頃からファム・ファタル以外の主題の作品が目に付きました。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Salomon」
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こちらは1908年の作品で、ソロモン王を主題としています。本を広げて小人みたいなのがいるのはカバラが記された『ラジエルの書』とソロモン王が使役したと言われる天使や悪魔ではないかと思います。全体的に緻密で装飾的な画風で、ラファエル前派からの影響を感じさせます。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Le roi de Gazna」
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こちらは1912年の作品で、日本語にするとガズナの王(10世紀アフガニスタンのイスラム王朝)となります。矢に倒れた男性を介抱する女性、無数の屍を越えて立ち去る騎士の姿など 恐らくガズナに関する物語を絵画化していると思うけど詳細は分からず。不穏さは相変わらずですが、ここでの女性は悲しげな顔で死を悼んでいる雰囲気で、今まで観てきた悪女たちとは違った趣きに見えます。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Robert et Clara Schumann」
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こちらは1914年の作品で、作曲家のロベルト・シューマンと妻のクララ・シューマンを描いています。ここまでの悪夢のような作風と全く異なり、凛々しく気品溢れる雰囲気で描かれているのが特徴かな。仲睦まじい様子ですね。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「Le sourire de Reims」
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こちらは1918年の作品で、日本語にすると「ランスの笑顔」となります。ランスで生首の人物と言えば聖ニケーズでしょうか? 何かの霊験を表したものと思われますが、ギュスターヴ・モローの作品に似た雰囲気を感じます。以前の不気味さは鳴りを潜めて神秘性が強まっている作品です。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「L'évêque Nicaise」
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こちらは1918年の作品で日本語にするとニカイゼ司教です。詳細が分からない聖人ですが、自分の首を持って祝福のポーズをして、多くの人々が見上げて敬っている様子が描かれています。これも首なしというちょっと恐ろしいテーマではありますが、怖さよりも神秘性のほうが感じられて、先程の作品と同様にモローに近いものを感じます。

ギュスターヴ=アドルフ・モッサ 「La Pythonisse」
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こちらは年代不明の作品で、タイトルを調べるとアポロンの巫女を描いたものと思われます。これも詳細な物語は分かりませんが、イスラエルの王サウルが相談したのがパイソニーとされ、占い師のような存在のようです。ミステリアスな女性を中心とした群像となっていて何か話し合っているように見えますね。それほど不穏さは感じず、物語の一場面といった雰囲気です。

こちらはタイトル失念…
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これも不明ですが、着飾った女性と裸の人物が柱にくっついていて狂気じみたものを感じますw 背後の老女の表情など苦しげで、悪夢的な光景ですね。

ということで、一度観たら忘れられないような猟奇的な作品もあったりして、好き嫌いが分かれそうな画家です。日本ではあまり有名とは言えないけど、そのうちブレイクするかも?? ニース美術館にモッサのコーナーがあるので、南仏に行く機会があったらモッサを思い出してみてください。

 参考記事:
  ニース美術館 【南仏編 ニース】
  怖い絵展 (上野の森美術館)


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《藤島武二》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、明治末期から昭和にかけて活躍した日本の洋画界の重鎮の1人である藤島武二を取り上げます。藤島武二は女性像や海景画が特に有名で、渡欧時代に身につけた西洋の技法を使いつつ東洋的な美を追い求めた画家と言えます。初期は繊細さと装飾性を兼ね備えた浪漫主義的な作風、留学以降は大胆な筆致といったように時代によってコロコロと画風が変わっていき迷走していたような印象も受けますが、後半生は東洋的な美を感じさせるモチーフを多く手掛けました。また、長きに渡り東京美術学校の教師として勤め、多くの後進画家を育て大きな影響を与えています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

藤島武二は1867年に薩摩藩士の家に生まれ、最初に絵を学んだのは四条派の日本画家 平山東岳からでした。また、母方の先祖で狩野派の絵師 蓑田常僖などにも学んでいたようです。さらに2度めの上京の際には川端玉章に学ぶなど、最初期は日本画からスタートしています。しかし日本画の作品はほとんど残っておらず、24歳の時に洋画へと転向しています。洋画家になってからは曽山幸彦からデッサンを学び、中丸精十郎、松岡壽を経て モデルを重視した山本芳翠、白馬会と東京美術学校の西洋画科の中心人物である黒田清輝 といった数多くの画家に師事しました。1896年には東京美術学校で助教授を勤め、亡くなるまで同校で教壇につきました。

藤島武二 「天平の面影」
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こちらは1902年の比較的早い時期の代表作です。日本画を学んでいただけあって、題材も金地を背景にした表現も日本的な雰囲気が強めとなっています。初期の洋画作品を観ていると、山本芳翠の師である五姓田芳柳に近いものを感じることもあるかな。写実的で伝統的な西洋画を日本を題材に描いてる感じです。これは前年に奈良に旅行した際に心に留めたものを組み合わせたもので、ポーズは古代ギリシアのコントラポストを用いています。この東洋と西洋を組み合わせたような様式は「明治浪漫主義」と呼ばれたようです。女性は静かで儚い雰囲気があり、様々な理想美を体現しているように思えます。

曾山幸彦の画塾では岡田三郎助も洋画を学んでいました。2人共フランス帰りの黒田清輝と知遇を得て1896年に設立された東京美術学校の教員として就任しました。1897年に岡田が渡仏、1905年には藤島が渡仏し、その渡仏の時期の違いは作風の違いにも現れていきます。岡田が渡仏中に藤島は白馬会で前述の「明治浪漫主義」の作風を示すと共に、アール・ヌーヴォーを取り入れたデザインを本の装丁を手がけるなど渡仏前から活躍していました。

藤島武二 「自画像」
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こちらは1903年頃の自画像です。横向きでやや鋭い眼光が印象的な自画像で、これは藤島武二の30歳半ば頃(芸大の助教授の頃)の姿で、油彩の自画像ではこれが唯一の作品となっています。中々精悍な顔つきです。

この時期の装丁の仕事の写真が見つからなかったのですが、有名なところでは与謝野晶子の「みだれ髪」や与謝野鉄幹の「鉄幹子」などを手掛けています。…これらは私の好みではなくハッキリ言って藤島の装丁は微妙ですw 明らかにミュシャを意識した作品なんかもありますが、本家を知っているとどれもイマイチ垢抜けない印象になってしまうw

藤島武二 「婦人と朝顔」の看板
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こちらは1904年の作品で緑の葉っぱと紫の花をつける朝顔を背景にした女性の肖像です。やや左側に配置されていて、こちらをじっと見る顔は無表情ですが、何かを訴えかけているように思えます。1904年の白馬会第9回展に同じモデルを描いた「夢想」などを数点出していたそうで、これはその内の「朝」という作品と考えられているようです。アール・ヌーヴォーやラファエル前派からの影響があると共に、ルドンにも通じる象徴主義的な雰囲気が感じられます。

藤島は文部省から命じられて、1905年にフランスとイタリアに合わせて4年間留学してそこでまた新しい師を得て学んでいます。フランスではグランド・ショミエールという自由度の高い私塾に通った後、エコール・デ・ボザールに入学しフェルナン・コルモンに学びます(カバネルの弟子)。その後、コルモンからの紹介でイタリアではアカデミー・ド・フランスの学長で肖像画家として名高かかったエミール=オーギュスト・カロリュス=デュランに学んだようです。フランスではベル・エポック時代の雰囲気を味わい、イタリアではルネサンス期の研究をするなど非常に恵まれた環境のように思えますが、イタリアで盗難にあってフランス滞在時の作品はわずかしか残っていないのだとか…。(イタリアの頃のはそれなりに残ってるようです)

藤島武二 「チョチャラ」
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こちらは1908~09年の作品で、ローマ留学時代の作風を示しています。モデルは、ローマの南東のチョチャリア地方からローマへやって来る花売娘で独特のスカーフを巻いています。以前に比べると明暗が増しているように見えると共に、間近で見るとタッチが粗くなっていて、作風の変化を感じさせます。

この頃の作品には風景画も大胆なタッチで描かれたものがあり、以前のような滑らかで清廉な印象とはだいぶ違う作風になってきています。

藤島武二 「黒扇」
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こちらも1908~09年の作品でローマ留学時代の代表作となります。美人なので真っ先に端正な印象を受けますが、実際に近くで見るとかなり筆致が大胆です。顔も影に青が使われるなど印象派のような雰囲気に思えます。全体的にスペイン趣味なのも先人たちから学んだものかもしれません。解説によると、これだけの名画なのに晩年まで発表されずに画室の奥深くに鋲で留められていた状態だったそうです。何か特別な想い出が込められているのかな…。

留学から帰国すると、東京美術学校の教授となった藤島ですが文展では仲間たちに比べてパッとしなかったようです。そこで色々と意欲的に取り組みフレスコ画を思わせる作品なども作っています。この時期はフォーヴィスム(特にマティス)を思わせる作品などもあり、画風が一定しない模索期となります。

藤島武二 「うつつ」
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こちらは1913年の作品で、第7回文展に出品して3等賞を受けました。先程までの留学中の大胆な筆致から繊細なものへと変化していて、また雰囲気が変わったように思えます。気だるく耽美な感じで象徴主義の要素も復活しているような…。この頃から藤島武二の女性像は東洋的な理想美を追い求めていくことになります。

この1913年に朝鮮へ30日の出張を命ぜられると大きな転機となり、朝鮮の自然や民族衣装に惹かれ、感心を東洋に向けたそうです。そして、ルネサンス様式を借りながら東洋的典型美を創造していくことになります。

藤島武二 「匂い」
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こちらは1915年の作品で、チャイナドレスを着て香を楽しむ女性が描かれています。この絵では割と単純化されていて色も明るくなり華やかな印象を受けます。東洋への感心も明らかで、独自のバランスの取れた作風ではないかと思います。これだけの傑作なので、この路線でしばらく進めば良かったのではと思うのですが…。

実際のところ、この頃は様々な表現の女性像があり、唐三彩の絵みたいな画風もあればルネサンス期の模写もあったりとまだ模索している感じです。

藤島武二 「アルチショ」
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こちらは1917年の作品で、アルチショとは朝鮮アザミのことです。花は東洋的ですが、テーブルクロスや本などの明るく平面的な表現はマティスなどを彷彿とするかな。背景もかなり大胆なタッチになっていて、物の配置や色の取り合わせが見事です。右下にある黄色い本もクロスに映えてアクセントになってる感じ。

ここまで観て来ると藤島の画風とは何なのか?という疑問だらけになってきますが、朝鮮に行ったことでついに大傑作が生まれます。それが1924年の「東洋振り」で、中国風の服を着た女性が真横を向いた作品です。これの面白いところは「プロフィール」というルネサンス期に流行った横向きの人物像と、東洋然とした女性の組み合わせで、東洋と西洋が混じり合ったような感じに仕上がっています。

藤島武二 「女の横顔」
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こちらは1926~27年の作品で、この絵でも真横を向いた「プロフィール」の肖像となっています。耳にはイヤリングをつけているなど、華やかな印象を受ける一方で、澄まして静かな表情からは神秘的なものを感じます。背景にはゴツゴツした山が見えるのも不思議。このモデルは竹久夢二のモデルを務めていたお葉というあだ名の女性で、中国の服を着せています。東洋的なモチーフをルネサンス的に描いているのが特徴です。ちなみに藤島武二はこうした服を50着ほど持っていたのだとか。

1924年に黒田清輝が亡くなり、藤島・岡田は日本美術界の指導者の立場を担うことになりました。後進の指導に尽力し、表現や生き方に大きく影響を与えています。そして1928年には2人そろって皇太后より天皇即位を祝した絵の制作を依頼されます。藤島は旭日を題材にすると決め、意に適う場所を探しに日本各地や台湾、中国、モンゴルにも足を運んで、その末に描き上げた「旭日照六合」を奉納しています。これを描くのには9年を要しましたが、それによって風景画に新たな展開をもたらせました。

藤島武二 「浪(大洗)」
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こちらは1931年の作品で、押し寄せる浪を力強く描いています。やや紫がかっているのは日の出の時間帯なのかな? 単純化されているものの潮騒が聞こえてくるようなリアリティがあって自然の雄大さや爽やかさを感じますね。何処か懐かしい気分になる傑作です。

この頃、先述のように天皇への献上に相応しい神々しい雰囲気を求め、全国あちこちで日の出を観ては描くのを繰り返し、藤島の代名詞的な日の出の作品(特に海景)を数多く残しました。藤島武二の作品に海の絵が多いイメージはこの頃の仕事ぶりによるものです。

藤島武二 「麻姑献壽(まこけんじゅ)」
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こちらは1937年の作品。麻姑(まこ)は中国の仙女で 鳥の爪に似た長い爪を生やしていたとされ、孫の手の語源になったと言われています。ここでは仙果の桃と 孫の手のような棒で女性を麻姑に見立てていて恭しい雰囲気となっています。画風は何度も変わっていますが東洋と西洋の融合という点においては晩年まで一貫していたようですね。

この1937年に横山大観、竹内栖鳳、岡田三郎助と共に第一回文化勲章を受賞するなど大きな名誉を手に入れました。また、満州へ美術展の審査へ向かった際に砂漠の日の出の美しさに出会い、長年の念願だった御学問所に収める作品「旭日照六合」を完成させました。その後も新しい画風に挑戦してナビ派を思わせるような大胆な画風も残したものの1943年に亡くなりました。


ということで、結構な頻度で画風が変わる画家ではありますが不思議とひと目で藤島武二と分かる特徴があるように思います。個展や白馬会関連の展示で目にする機会もあり、大きな美術館の常設で出会うこともあると思いますので、是非知っておきたい画家の1人です。

 参考記事:
  藤島武二展 (練馬区立美術館)
  藤島武二・岡田三郎助展 ~女性美の競演~ (そごう美術館)


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