Archive | 2020年12月
今日は作者別紹介で、明治・大正・昭和にかけて活躍した日本画家の鏑木清方を取り上げます。鏑木清方は美人画で西の上村松園と並び賞られた画家で、その多くは人物画で文学にも通じ、泉鏡花や樋口一葉にまつわる作品も残しています。大正末期頃から大作ではなく卓上で楽しめる「卓上芸術」を提唱するようになり、掛け軸、画巻、画帖などを制作していきました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
鏑木清方は1878年に東京の神田で、戯作者であり「やまと新聞」を創刊した條野採菊(伝平)の三男の健一として生まれました。はじめは文筆家を目指していたそうですが、父や周りの勧めで13歳で歌川派の水野年方に入門し挿絵画家となりました。(ちなみに水野年方は月岡芳年の弟子です。さらに月岡芳年は歌川国芳の弟子。) 入門の2年後には師から「清方」の画号を貰い、17歳から父の「やまと新聞」で挿絵も描いています。23歳(1901年)の頃には青年風俗画家の集まりである烏合会を結成して展覧会に出品していたようで、当時(1901年)に知り合った泉鏡花の作品や芝居、伝説などに取材し、美術と文学が結びついた制作を追求していくことになります。1902年の日本絵画協会第13回絵画共進会では「孤児院」という作品で当時最高の銅牌を受賞、1909年(明治42年)からは文展で入選を重ね、大正前期には花形作家となっていきました。
鏑木清方 「墨田河舟遊」

こちらは1914年(大正3年)の六曲一双の屏風。文展の出品作で、江戸時代後期の隅田川の舟遊びの様子が描かれています。清方は後に卓上芸術を唱えるだけあって、これだけ大きな屏風はそれほど多くはないと思います。
こちらは右隻のアップ

人形舞の宴が行われていて、御簾越しに見える女性の顔の表現に驚きます。色も明るく清らかで、雅な風情が漂っていますね。屋根に乗っかってる人たちは舟を漕いでいるのかな?w
こちらは左隻のアップ

他にもいくつかの舟の姿があり、みんな涼しげな装いをしています。一種の理想郷のような気品と懐かしさを感じるのが清方の作風と言えると思います。
「西の松園、東の清方」と並び称された2人ですが、上村松園の理想美とは異なり、清方は物語に登場するような「朝露の消えもしさうな脆さ」があると言われ、女性のしなやかさを表現したようです。挿絵画家としてスタートした経験が生きているのかも知れませんね。
鏑木清方 「黒髪」

こちらは1917年の作品で、第11回文展で特選第一席となった四曲一双の屏風。金の裏箔を使った大和絵の手法で川辺が表現され、柔らかく幻想的な雰囲気が漂います。髪を洗う女性たちには気品が感じられ、立っている女性からは特に凛とした印象を受けます。
この前年の1916年に松岡映丘らと金鈴社を結成し、大和絵の研究に取り組んでいました。清方の作風はこの頃には大枠では定まっていますが、微妙な変化を見せていて琳派の影響を感じさせる作品なんかもあり、酒井抱一の肖像なども残しています。
鏑木清方 「遊女」

こちらは1918年の二曲一隻の屏風で、火鉢にもたれかかっている遊女が描かれています。これは深い親交のあった泉鏡花の小説『通夜物語』の遊女 丁山を題材としていて、。火鉢にもたれかかってやや気だるく色っぽい雰囲気が流石です。着物も非常に美しく白い花(梅?)の模様が足元に向けて広がっている構図も面白い。
鏑木清方は泉鏡花と深い親交があり、挿絵などを手掛けた他 こちらの絵のように泉鏡花の小説から着想を得た妖艶な美女も描いていました。また、鏑木清方は樋口一葉の大ファンだったそうで、実際には一葉に会ったことはないようですが、写真や自分の妹の肖像を元に一葉をテーマにした作品も描いています。
鏑木清方 「春のななくさ」

こちらは1918年の作品。籠に春の七草を入れているようですが 正月明けの時期なので寒そうなポーズに見えます。何気ない日常をテーマにしていて、市井の風俗に興味を示してた事が伺えますね。
清方は弟子の育成にも優れ、清方門下の画塾での研究成果を世に問うために「郷土会」が組織され1915年から1931年まで16回に渡って展示会が開催されています。浮世絵商の渡邊庄三郎は郷土会の場で伊東深水の絵を目にとめ、それがきっかけで深水の最初の木版画「対鏡」が渡邊庄三郎の版元で刊行されました。鏑木清方も弟子たちに渡邊庄三郎の新版画運動への参加を薦めたようで、興味を持った川瀬巴水を筆頭に、他の弟子たちも新版画を取り組んでいきました。
鏑木清方 「晩涼」

こちらは1920年の作品。余白に余韻を持たせることが多い清方にしては背景まできっちり描いていて、ちょっと松岡映丘のような大和絵風に思えます。夕涼みしながら遠くを望む女性の姿から旅情を感じるかな。清方はこの頃に風景画を模索し始めていて これもその一環だと思いますが、清方は「人のいない風景画は死んでいるようだ」と言って、風景画でも人が主役に見えるように描いていたようです。
大正中期以降になり奇抜な色使いや大画面で訴える「会場芸術」が盛んになると悩みも生じたようですが、清方はその風潮に対して 一人手に取り 卓上に広げて楽しむことができる「卓上芸術」を提唱しました。心静かに細やかな筆さばきや情感を味わうことに主観が置かれ、画巻や画帖にそうした考えを反映した作品を残しています。
鏑木清方 「朝涼」のポスター(右側)

こちらは1925年の作品で、緑の草原を背景に横向きで歩く着物の女性です。髪は三つ編みで、左手で髪を触りながら歩いているようです。足元には蓮の花も見られ、頭の上には薄く白い月が浮かんでいます。朝の散歩かな? 淡い色合いから爽やかで清廉な朝の空気感が伝わってきます。髪を触っている娘も愛らしく、どこか神秘的な雰囲気があるようにも思えます。これは金沢八景の別荘付近で歩く自分の娘を描いたそうで、大正半ばから風景画を模索していた清方がこの作品を描くことで「全く自分を取り戻した」と感じてスランプを脱することができたのだとか
1923年に関東大震災が起こると、失われた明治中期の下町の風情を追想するような作品を制作するようになりライフワークとなっていきました。1927年には幻の作品と言われた「築地明石町」も描かれています。
参考記事:鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開 (東京国立近代美術館)
鏑木清方 「三遊亭円朝像」

こちらは1930年の作品で重要文化財に指定されています。美人画が多い清方なので壮年の落語家というのは珍しいように思えますが、三遊亭円朝は父の友人であり、清方が画家になる際に後押ししてくれた恩人となります。18歳の時には野洲への取材旅行に同行し寝食を共にしていて、それ以降も敬意を持って接していたようです。この絵でも厳格そうでありながら普段の生活を感じさせるような肖像となっていて、その気持ちを表しているように思えます。清方の中でも傑作と名高い作品です。
1929年には帝国美術院の会員に選出されました。もうこの頃には押しも押されもせぬ日本画の重鎮と言った所でしょうね。
鏑木清方 「明治風俗十二ヶ月 盆燈籠(7月)」
鏑木清方 「明治風俗十二ヶ月 氷店(8月)」

こちらは1935年の作品で、12幅対の掛け軸で、明治の頃を懐古し1幅ごとに1~12月まで各月の風物を交えた美人が描かれています。特に夏は涼しげなモチーフと共に清涼感があります。のんびりしていて郷愁も誘われます。
こちらは7月のアップ

女性の着物も非常に洒落ていて、気品を感じますね。
鏑木清方 「明治風俗十二ヶ月 (平土間 十一月)」
鏑木清方 「明治風俗十二ヶ月 (夜の雪 十二月)」

こちらも12幅のうちの11月と12月。12月はやはり寒そうな感じですが、11月は暖色系で温かみがあるかな。人力車とガス燈が描かれているなど、時代を感じさせるモチーフも清方らしさだと思います。
12ヶ月の内訳は、かるた(一月)、梅やしき(二月)、けいこ(三月)、花見(四月)、菖蒲湯(五月)、金魚屋(六月)、盆燈籠(七月)、氷店(八月)、二百十日(九月)、長夜(十月)、平土間(十一月)、夜の雪(十二月)となっていて、階層や身分の異なる女性たちが季節と共に古き良き時代を感じさせます。髪を整えたりする身振りに気品が感じられ、いずれも華やいだ雰囲気となっています。12幅揃うと壮観な光景です。
鏑木清方 「初冬の花」

こちらは1935年の作品で、モデルは小菊という芸者です。赤と薄紫のストライプの着物姿でキセルを盆に入れれいるのかな? 伏目がちで所作が伝わってくるような奥ゆかしい雰囲気です。この女性とは泉鏡花を囲む会で知り合ったそうで、泉鏡花の小説にも出てきそうな感じかも…w
鏑木清方 「四季美人図 雪しぐれ」

こちらは1935年に建てられた目黒雅叙園の百段階段にある「清方の間」にある装飾画の1枚。茶室風の部屋には清方が描いた四季草花や美人画が扇面の形に描かれていて、華やいだ雰囲気となっています。扇面というと俵屋宗達などの琳派を思い起こすかな。扇形の画面を効果的に使った構図が面白く感じられます。
鏑木清方 「光風霽月帖 澣衣」

こちらは1936年の作品で、和田英作、冨田溪仙、菊池契月、川合玉堂、横山大観、安田靫彦、前田青邨、小林古径、橋本関雪といった日本画の大御所たちと共に描かれた画帖のうちの1枚です。清方ならではの美人が主題で、澣衣(かんい)というのは着物を洗うことを指すようですが、こんな優美な洗濯は観たことがないw 透き通るような衣も涼しげで好みです。
鏑木清方 「鰯」

こちらは1937年の作品で、やはり明治の頃を回想して描いたものです。清方によると佃島から京橋界隈に鰯を売りに来た少年を描いたそうで、当時の様子がつぶさに伝わってきます。理想化されているとは思うけど、昔のことを今見てきたかのように描ける観察眼も凄いものですね。
鏑木清方 「初東風」

こちらは1942年の作品で「初東風」というのは新年になって初めて吹く東風のことです。空を見上げる美人が描かれ、背景に凧が上がっているので恐らく凧を観ているのかな。ちょっと口を開けて感嘆しているように見えるのが生き生きしています。艶やかな着物や簪も流石ですね。
1944年には帝室技芸員にも任命されています。また、戦後は文化功労者にもなっています。
木村伊兵衛 「鏑木清方」

最後にこちらは1939年の清方を撮った写真。清方の顔は伊東深水などが肖像を描いているので割と馴染みがあるけど、制作の場面だけあって緊張感が伝わってきます。
この後、日本は戦争に突入して戦争中は美人画を描くことを禁止されたわけですが、清方は戦後に鎌倉に拠点を移して活動を続けました。1972年(93歳)まで生き、晩年まで人々や風俗への慈しみ・懐古を表現し、自らの境地を「市民の風懐(ふうかい)にあそぶ」と称したようです。
ということで、江戸時代や明治時代の市井の様子を描いた画家で、今でも絶大な人気となっています。2022年に東京国立近代美術館で大回顧展が開かれるとのことでしたがコロナでどうなるか気になる所です。私も特に好きな画家の1人です。
参考記事:
清方/Kiyokata ノスタルジア (サントリー美術館)
上村松園と鏑木清方展 (平塚市美術館)
鏑木清方は1878年に東京の神田で、戯作者であり「やまと新聞」を創刊した條野採菊(伝平)の三男の健一として生まれました。はじめは文筆家を目指していたそうですが、父や周りの勧めで13歳で歌川派の水野年方に入門し挿絵画家となりました。(ちなみに水野年方は月岡芳年の弟子です。さらに月岡芳年は歌川国芳の弟子。) 入門の2年後には師から「清方」の画号を貰い、17歳から父の「やまと新聞」で挿絵も描いています。23歳(1901年)の頃には青年風俗画家の集まりである烏合会を結成して展覧会に出品していたようで、当時(1901年)に知り合った泉鏡花の作品や芝居、伝説などに取材し、美術と文学が結びついた制作を追求していくことになります。1902年の日本絵画協会第13回絵画共進会では「孤児院」という作品で当時最高の銅牌を受賞、1909年(明治42年)からは文展で入選を重ね、大正前期には花形作家となっていきました。
鏑木清方 「墨田河舟遊」

こちらは1914年(大正3年)の六曲一双の屏風。文展の出品作で、江戸時代後期の隅田川の舟遊びの様子が描かれています。清方は後に卓上芸術を唱えるだけあって、これだけ大きな屏風はそれほど多くはないと思います。
こちらは右隻のアップ

人形舞の宴が行われていて、御簾越しに見える女性の顔の表現に驚きます。色も明るく清らかで、雅な風情が漂っていますね。屋根に乗っかってる人たちは舟を漕いでいるのかな?w
こちらは左隻のアップ

他にもいくつかの舟の姿があり、みんな涼しげな装いをしています。一種の理想郷のような気品と懐かしさを感じるのが清方の作風と言えると思います。
「西の松園、東の清方」と並び称された2人ですが、上村松園の理想美とは異なり、清方は物語に登場するような「朝露の消えもしさうな脆さ」があると言われ、女性のしなやかさを表現したようです。挿絵画家としてスタートした経験が生きているのかも知れませんね。
鏑木清方 「黒髪」

こちらは1917年の作品で、第11回文展で特選第一席となった四曲一双の屏風。金の裏箔を使った大和絵の手法で川辺が表現され、柔らかく幻想的な雰囲気が漂います。髪を洗う女性たちには気品が感じられ、立っている女性からは特に凛とした印象を受けます。
この前年の1916年に松岡映丘らと金鈴社を結成し、大和絵の研究に取り組んでいました。清方の作風はこの頃には大枠では定まっていますが、微妙な変化を見せていて琳派の影響を感じさせる作品なんかもあり、酒井抱一の肖像なども残しています。
鏑木清方 「遊女」

こちらは1918年の二曲一隻の屏風で、火鉢にもたれかかっている遊女が描かれています。これは深い親交のあった泉鏡花の小説『通夜物語』の遊女 丁山を題材としていて、。火鉢にもたれかかってやや気だるく色っぽい雰囲気が流石です。着物も非常に美しく白い花(梅?)の模様が足元に向けて広がっている構図も面白い。
鏑木清方は泉鏡花と深い親交があり、挿絵などを手掛けた他 こちらの絵のように泉鏡花の小説から着想を得た妖艶な美女も描いていました。また、鏑木清方は樋口一葉の大ファンだったそうで、実際には一葉に会ったことはないようですが、写真や自分の妹の肖像を元に一葉をテーマにした作品も描いています。
鏑木清方 「春のななくさ」

こちらは1918年の作品。籠に春の七草を入れているようですが 正月明けの時期なので寒そうなポーズに見えます。何気ない日常をテーマにしていて、市井の風俗に興味を示してた事が伺えますね。
清方は弟子の育成にも優れ、清方門下の画塾での研究成果を世に問うために「郷土会」が組織され1915年から1931年まで16回に渡って展示会が開催されています。浮世絵商の渡邊庄三郎は郷土会の場で伊東深水の絵を目にとめ、それがきっかけで深水の最初の木版画「対鏡」が渡邊庄三郎の版元で刊行されました。鏑木清方も弟子たちに渡邊庄三郎の新版画運動への参加を薦めたようで、興味を持った川瀬巴水を筆頭に、他の弟子たちも新版画を取り組んでいきました。
鏑木清方 「晩涼」

こちらは1920年の作品。余白に余韻を持たせることが多い清方にしては背景まできっちり描いていて、ちょっと松岡映丘のような大和絵風に思えます。夕涼みしながら遠くを望む女性の姿から旅情を感じるかな。清方はこの頃に風景画を模索し始めていて これもその一環だと思いますが、清方は「人のいない風景画は死んでいるようだ」と言って、風景画でも人が主役に見えるように描いていたようです。
大正中期以降になり奇抜な色使いや大画面で訴える「会場芸術」が盛んになると悩みも生じたようですが、清方はその風潮に対して 一人手に取り 卓上に広げて楽しむことができる「卓上芸術」を提唱しました。心静かに細やかな筆さばきや情感を味わうことに主観が置かれ、画巻や画帖にそうした考えを反映した作品を残しています。
鏑木清方 「朝涼」のポスター(右側)

こちらは1925年の作品で、緑の草原を背景に横向きで歩く着物の女性です。髪は三つ編みで、左手で髪を触りながら歩いているようです。足元には蓮の花も見られ、頭の上には薄く白い月が浮かんでいます。朝の散歩かな? 淡い色合いから爽やかで清廉な朝の空気感が伝わってきます。髪を触っている娘も愛らしく、どこか神秘的な雰囲気があるようにも思えます。これは金沢八景の別荘付近で歩く自分の娘を描いたそうで、大正半ばから風景画を模索していた清方がこの作品を描くことで「全く自分を取り戻した」と感じてスランプを脱することができたのだとか
1923年に関東大震災が起こると、失われた明治中期の下町の風情を追想するような作品を制作するようになりライフワークとなっていきました。1927年には幻の作品と言われた「築地明石町」も描かれています。
参考記事:鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開 (東京国立近代美術館)
鏑木清方 「三遊亭円朝像」

こちらは1930年の作品で重要文化財に指定されています。美人画が多い清方なので壮年の落語家というのは珍しいように思えますが、三遊亭円朝は父の友人であり、清方が画家になる際に後押ししてくれた恩人となります。18歳の時には野洲への取材旅行に同行し寝食を共にしていて、それ以降も敬意を持って接していたようです。この絵でも厳格そうでありながら普段の生活を感じさせるような肖像となっていて、その気持ちを表しているように思えます。清方の中でも傑作と名高い作品です。
1929年には帝国美術院の会員に選出されました。もうこの頃には押しも押されもせぬ日本画の重鎮と言った所でしょうね。
鏑木清方 「明治風俗十二ヶ月 盆燈籠(7月)」
鏑木清方 「明治風俗十二ヶ月 氷店(8月)」


こちらは1935年の作品で、12幅対の掛け軸で、明治の頃を懐古し1幅ごとに1~12月まで各月の風物を交えた美人が描かれています。特に夏は涼しげなモチーフと共に清涼感があります。のんびりしていて郷愁も誘われます。
こちらは7月のアップ

女性の着物も非常に洒落ていて、気品を感じますね。
鏑木清方 「明治風俗十二ヶ月 (平土間 十一月)」
鏑木清方 「明治風俗十二ヶ月 (夜の雪 十二月)」


こちらも12幅のうちの11月と12月。12月はやはり寒そうな感じですが、11月は暖色系で温かみがあるかな。人力車とガス燈が描かれているなど、時代を感じさせるモチーフも清方らしさだと思います。
12ヶ月の内訳は、かるた(一月)、梅やしき(二月)、けいこ(三月)、花見(四月)、菖蒲湯(五月)、金魚屋(六月)、盆燈籠(七月)、氷店(八月)、二百十日(九月)、長夜(十月)、平土間(十一月)、夜の雪(十二月)となっていて、階層や身分の異なる女性たちが季節と共に古き良き時代を感じさせます。髪を整えたりする身振りに気品が感じられ、いずれも華やいだ雰囲気となっています。12幅揃うと壮観な光景です。
鏑木清方 「初冬の花」

こちらは1935年の作品で、モデルは小菊という芸者です。赤と薄紫のストライプの着物姿でキセルを盆に入れれいるのかな? 伏目がちで所作が伝わってくるような奥ゆかしい雰囲気です。この女性とは泉鏡花を囲む会で知り合ったそうで、泉鏡花の小説にも出てきそうな感じかも…w
鏑木清方 「四季美人図 雪しぐれ」

こちらは1935年に建てられた目黒雅叙園の百段階段にある「清方の間」にある装飾画の1枚。茶室風の部屋には清方が描いた四季草花や美人画が扇面の形に描かれていて、華やいだ雰囲気となっています。扇面というと俵屋宗達などの琳派を思い起こすかな。扇形の画面を効果的に使った構図が面白く感じられます。
鏑木清方 「光風霽月帖 澣衣」

こちらは1936年の作品で、和田英作、冨田溪仙、菊池契月、川合玉堂、横山大観、安田靫彦、前田青邨、小林古径、橋本関雪といった日本画の大御所たちと共に描かれた画帖のうちの1枚です。清方ならではの美人が主題で、澣衣(かんい)というのは着物を洗うことを指すようですが、こんな優美な洗濯は観たことがないw 透き通るような衣も涼しげで好みです。
鏑木清方 「鰯」

こちらは1937年の作品で、やはり明治の頃を回想して描いたものです。清方によると佃島から京橋界隈に鰯を売りに来た少年を描いたそうで、当時の様子がつぶさに伝わってきます。理想化されているとは思うけど、昔のことを今見てきたかのように描ける観察眼も凄いものですね。
鏑木清方 「初東風」

こちらは1942年の作品で「初東風」というのは新年になって初めて吹く東風のことです。空を見上げる美人が描かれ、背景に凧が上がっているので恐らく凧を観ているのかな。ちょっと口を開けて感嘆しているように見えるのが生き生きしています。艶やかな着物や簪も流石ですね。
1944年には帝室技芸員にも任命されています。また、戦後は文化功労者にもなっています。
木村伊兵衛 「鏑木清方」

最後にこちらは1939年の清方を撮った写真。清方の顔は伊東深水などが肖像を描いているので割と馴染みがあるけど、制作の場面だけあって緊張感が伝わってきます。
この後、日本は戦争に突入して戦争中は美人画を描くことを禁止されたわけですが、清方は戦後に鎌倉に拠点を移して活動を続けました。1972年(93歳)まで生き、晩年まで人々や風俗への慈しみ・懐古を表現し、自らの境地を「市民の風懐(ふうかい)にあそぶ」と称したようです。
ということで、江戸時代や明治時代の市井の様子を描いた画家で、今でも絶大な人気となっています。2022年に東京国立近代美術館で大回顧展が開かれるとのことでしたがコロナでどうなるか気になる所です。私も特に好きな画家の1人です。
参考記事:
清方/Kiyokata ノスタルジア (サントリー美術館)
上村松園と鏑木清方展 (平塚市美術館)
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更新情報や美術関連の小ネタをtwitterで呟いています。
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今日は作者別紹介で、独自の分厚いマチエールの画風で宗教画やサーカスの人々を描いたジョルジュ・ルオーを取り上げます。ルオーはマティスと共にモローに学び、フォーヴィスムの活動にも参加していました。しかしその後は唯一無二の作風へと進化し、晩年にはまるで彫刻作品のように起伏に富んだ画面の作品を残しています。その多くは貧しい人々や聖書の物語を題材としていて、色彩は次第に明るくなっていきました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
ジョルジュ・ルオーは1871年にパリの貧しい家庭に生まれ、14歳からステンドグラス職人の下で徒弟奉公となり、1890年の19歳の時に画家となる決心をしてパリの国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学しました。エコール・デ・ボザールではギュスターヴ・モローの指導を受けていて、学校では古典主義的風景画の描き方を指導していたそうです。そのため初期はレンブラント、プッサン、クロード・ロランへの傾倒を見せ、概念形成した作品だけでなく実写したものまであったようです。高い才能を持ちレンブラントの再来とまで称されていたようですが、1898年に敬愛するモローの死と共に学校を去りました。そしてその後はアカデミックから遠ざかり、自身の絵画世界に邁進していくことになります。
ジョルジュ・ルオー 「人物のいる風景」のポスター

こちらは1897年の作品で、まだモローに師事していた頃に制作された大きめのパステル画です。三日月が浮かぶ夕暮れ時で、右手前にはうっそうとした木々、左下には水辺で水浴している裸体の人物(ニンフ)が5人描かれています。柔らかくぼんやりとモヤが立ち込めるような幻想的な光景で、背景の空の薄っすらとした光の表現が見事です。レオナルド風との指摘もありますが、コローのような雰囲気もあるかな。ルオーはキリストやピエロ、版画などを描いていたイメージがあるので、後のルオーの画風とは違った印象を受け、風景画も珍しく感じます。しかし、実際にはルオーは初期から晩年まで風景を絶えず描いていたそうで、生まれ育ったパリ郊外や父親の故郷のブルターニュ、一時期家族と暮らしたヴェルサイユなどを描いた作品が多いようです。
モローの生徒にはアンリ・マティスもいて、ルオーもマティスなどのフォーヴィスムの作家と共に1905年のサロン・ドートンヌ展にしています。そのためルオーはフォーヴィスムに分類されています。モローは個性を尊重する人だったので優秀な前衛画家が生まれました。 ルオーは在学中から1900年初頭は古典的な絵画技法で描いていて、技術の高さは抜きにでていたようです。また、以前観た展示では学生時代からの最初期を金、1920年代までを青、1910~20年代の銅版・石版を黒というように色使いを分類していて、各時代を象徴するような色と言えるようです。
ジョルジュ・ルオー 「Lutteur」

こちらは1906~10年頃の作品で、日本語にすると「レスラー」です。黒く太い輪郭や強い色彩、ややざらついたマチエールなど既に唯一無二の独自性が感じられます。(もっと後の時代の画風のようにも思えます) 頭を抱えて苦悩するような表情も印象的で、悲哀を感じさせます。
ルオーはローマ賞に落選した後、学校を退学してアカデミックな描き方から独自の表現を模索するようになりました。観たものをそのまま描くのではなく、自分に取り込んでから自分の経験や内面を交えて表現するようになり、貧民など人間の苦悩を描いた「悲劇性」と「自然の美」という2つの特徴があるようです。貧しい家庭で育ったので、それが根底にあるのかもしれませんね。
ジョルジュ・ルオー 「L'Accusé」

こちらは1907年の作品で日本語にすると「被告」となります。この頃、セーヌ県検事局の司法官に誘われて公判に出席するようになり、こうした法廷を描いた作品をいくつか残していてこれもその1枚です。ちょっと戯画的というか皮肉っぽいニュアンスを含む描写となっていて、みんな悪そうw 濃いめの色彩やマチエールで重厚な印象を受けます。
1908年に画家のアンリ・ル・シダネルの妹のマルトと結婚しています。シダネルもルオー夫妻もヴェルサイユに住んでいたようですが、お互いに特に交流した記録はないようです。画風は全然違うとは言え、ちょっとは付き合い有っても良いだろうにw
ジョルジュ・ルオー 「『ユビュおやじの再生』 マリココ」

こちらは1918年の作品で『ユビュおやじの再生』からの1枚。「ユビュおやじ」とは、元はフランスのアルフレッド・ジャリが創作した不条理な劇『ユビュ王』の主人公です。この劇は当時のフランスで大いに流行ったようで、その作品に即発された画商のアンブロワーズ・ヴォラールがユビュの使用権を買い上げ、フランスの植民地を舞台とした『ユビュおやじの再生』という著書を書きます。そして、その挿絵をルオーに依頼したのが、一連の作品のきっかけになりました。挿絵の依頼は1917年で、1918~19年頃には22点の挿絵を完成させたものの、1928年に再加筆や修正が行われ1932年になって『ユビュおやじの再生』が出版されています。ここに描かれているのはコンゴののバテケ族の王の姿で、簡略化されているけれども描かれた人の個性を感じ力強い雰囲気があるように思います。当時、「ルオーの描く黒人ほど黒人らしい黒人は見たことが無い」と評されたのだとか。
ルオーは1917年にアンブロワーズ・ヴォラールと専属契約を結ぶと、当時 社交場となっていた華やかなサーカスに通うようになりました(ヴォラールはサーカスのボックス席を所有していて、画家たちに提供していた) そしてルオーはそのスペクタクルから「色・形・ハーモニー」という自身の芸術の重要な要素を発見し、1920年以降の作品では「色・形・ハーモニー」がより一層強調されるようになりました。
ジョルジュ・ルオー 「郊外のキリスト」

こちらは1920~24年頃の作品。夜の街の中でキリストと2人の子供らしき姿があり、静かな雰囲気となっています。聖書のどの場面か分かりませんが、しんみりと心に染み入るような光景です。青い空に白く輝く月が清廉な印象となっていますね。
前述の通りルオーはヴォラールと契約していますが後に裁判を起こしています。というのも、ルオーは自分の納得しない作品は世に出さず焼却しようと考えていたのですが、ヴォラールは未発表の作品も画商のものだと言ってそれを許しませんでした。結果としてルオーが勝訴し、戦後に300点近くの作品が焼却されたのだとか。今残ってるルオー作品は自身が満足した作品ってことですね。
ジョルジュ・ルオー 「L'apprenti ouvrir」

こちらは1925年の作品で、日本語ではL'apprentiは見習い、ouvrirは開く という意味のようです(繋げると意味わかりませんがw) ぼんやりした顔をしていて青い背景と相まって憂鬱そうな雰囲気となっています。前述の通りこの時代は青が多く使われたようで、それが一種の心理描写になっているようにも思えます。
この時期に青が多用された理由はルオーの海への憧れや、中世のステンドグラスへの傾倒にあるのではないかと考えられるそうで、ルオーが14歳の時に父の故郷ブルターニュで観た海への強い衝撃や、ステンドグラス職人に弟子入りした際、古いステンドグラスから受けた深い感銘などが根底にあるようです。
ジョルジュ・ルオー 「ピエロ」

こちらは1925年の作品。目を閉じたピエロは瞑想しているように静かでまるで聖人のような佇まいに思えます。ルオー作品の色彩の濃さはそのまま絵の重厚さに繋がっていますね。
画風や画題は全く異なりますが、こうした作品からは先生のギュスターヴ・モロー達の象徴主義に通じるものを感じます。ちなみにルオーは1903年に開館したギュスターヴ・モロー美術館の初代館長も務めていました。(まだ売れてなかった頃です) 終生変わることなく師への敬愛は篤かったようです。
ジョルジュ・ルオー 「ミセレーレ」

こちらは1948年の出版のですが、41歳の1912年から15年を費やして作った版画集「ミセレーレ」のシリーズ。こちらは父の死がきっかけとなり第一次世界大戦の際に構想が深まった銅版画のシリーズで、ミセレーレは「神よ、われを憐れみたまえ」という意味で、慈悲と戦争をテーマにしています。1927年には58点がほぼ完成していたものの1948年になって出版され、ルオーのライフワーク的な作品と言えそうです。白黒でも油彩と変わらない濃密な描写となっていて、非常に太い輪郭が特徴となっています。
ルオーは1910年代までは正確なデッサンでしたが、やがて独特のデフォルメによって長く伸びる腕や丸みを持たせた腹などを描くようになりました。また、画面上に額のような縁飾りがついているのが多いのも特徴となっています。
ジョルジュ・ルオー 「キリスト」のポスター

こちらは1937~38年頃の作品で、横を向いてうつむいているキリストが描かれています。これは『ミセレーレ』の第2作目を油彩画にしたもので、白黒だったものを色彩で表現しています。周りは薄い青で、背景には港町のようなところに塔が立っている様子が描かれています。キリストは深く瞑想しているような感じで、頭の上には赤い雲がぽわ~んと浮かび、まるでキリストの意識が飛んでいるように思えます。この雲を観ていたら萬鉄五郎の自画像を思い出すので、影響を与えているんでしょうね。
1930年以降は宗教的題材とサーカスがメインとなっていてます。
ジョルジュ・ルオー 「道化師」

こちらは1937~38年頃の作品。厚塗りで太い輪郭を使っているのに落ち着いた色が多いせいか全体的に寂しげな雰囲気が漂っています。華やかな舞台の裏側を観たようなリアリティがあり、一種の同情が込められているようにも思えます。
ルオーは幼少期からサーカスの世界に心奪われていたようで、道化師の姿がルオーの作品に初めて登場したのは1902年という極めて早い時期だそうです。それ以来ルオーは絶えずサーカスを描き続けたそうで、サーカスに通い、機会があれば移動サーカスも見て回ったようです。しかし、ルオーが描いたのは華やかなスペクタクルではなく、場末の貧民街に生きる人々の勇気・忍従・孤独・悲哀などでした。
ジョルジュ・ルオー 「聖顔」

こちらは1939年の作品で、大きな目を開いたキリストの顔を描いています。輪郭の黒の強さで一際キリストの顔に目が行き、特に眼に力を感じます。また、キリストの周りには幾重にも枠が囲うような構図となっていて、荘厳な雰囲気もあるように思えました。
聖顔の主題は1904年頃に登場し、1930年代に確固とした図像を確立して最晩年まで描かれ、モチーフは聖女ヴェロニカの聖顔布やトリノの聖骸布の顔写真に影響を受けました。ルオーはトリノの聖骸布の論文を描いた生物学者と知り合いだったそうで、大きな関心を持っていたようです。(実際の聖骸布の写真を観ると、確かにルオーの聖顔の顔に似た輪郭となっています。) また、1930年以降のルオーの人物像は類型化していき、群像から離れ単独~3人程度の像が多く、典型的な顔は
・アーモンド型に長く引き伸ばされた顔
・長く細い鼻
・鼻をつなぐゆるやかなアーチ状の眉
・小さい口
・大きく見開いた両目、もしくは伏目
といった点が挙げられます。真正面を向く顔は やがて軽く頷くようになり、これは人間性を強調する効果を出すためとなっています。
ジョルジュ・ルオー 「Veronique,vers」

こちらは1945年の作品で、日本語にすると聖ヴェロニカとなります。ゴルゴダの丘に登るキリストの汗をぬぐった聖女で、布にキリストの聖顔が写るという奇跡が起きました。この聖ヴェロニカは面長の顔に大きな目で歯を出して微笑むような表情をしています。色白で可憐な雰囲気かな。マチエールも比較的スッキリしていて、美しい顔ですね。
ルオーは「色、形、ハーモニー、祝福された三位一体よ 観えない目をあけ 聞こえない耳に喜びを与えよ」と語っていたそうで、色・形・調和は画家にとっての原点であり、一生かけて習得すべきものだと言っていたそうです。
ジョルジュ・ルオー 「Homo homini Lupus」

こちらは1944~48年の作品で、ホモ・ホミニ・ループスはラテン語のことわざで、「人は別の人に対する狼である」という意味になります。縛り首にされた人の姿を描いていて、タイトルはそれを批判しているものと考えられます。だらりと吊り下がった姿が何とも無残。ちょうど戦時中~戦後の頃なので世相にも関係しているかも知れませんね。
ルオーは絵画や版画だけでなく、装飾も手掛けていました。
ジョルジュ・ルオー 「飾りの花」「飾りの花」

こちらはいずれも1947年の作品で、2つを比べるとよく似ています。元々ルオーはステンドグラス職人の元で働いていたので、絵画もステンドグラスのような太い輪郭があるのはそのせいなのかも。生命力と力強さを感じる筆致です。
↑この左側の作品をステンドグラスにした作品が下記となります
ジョルジュ・ルオー 「盛り花I」

こちらは1949年の作品。かなりの再現度で、ルオーのルーツが強く感じられます。強い色彩で荘厳かつ華麗な印象を受けます。
山梨県の長坂にある清春芸術村にもこれと同じステンドグラスがあります。また、↓の十字架もルオーの死後に娘のイザベルによって清春芸術村のルオーに捧げた礼拝堂に寄贈されたものです。
参考記事:清春芸術村の写真 後編 (山梨 北杜編)
ジョルジュ・ルオー 「キリスト十字架像(ルオーにより着彩)」

こちらは17世紀バロック様式の十字架で、この像を気に入ってルオーが入手して像に着色して毎日祈りを捧げていたものです。敬虔なカトリック教徒だった証ですね。
ルオーはカトリック教会の総本山であるヴァチカンと繋がりがあり、生前にはルオー自身が教皇に作品を寄贈し、没後は家族らが作品をヴァチカンに献納しています。そのため、ヴァチカンは今でも貴重なルオーコレクションを持っています。
ジョルジュ・ルオー 「リュリュ(道化の顔)」

こちらは1952年の作品。サーカスの人物を描くのはこれまでもありましたが、オレンジが多めとなっていてやや明るい雰囲気が出ています。とは言え表情は硬い真顔なので楽しげって訳ではないかな。以前と比べて色彩に変化が感じられます。
ルオーの晩年の道化師は、愛と犠牲を体現するキリスト的な人物像と一体化していったそうで、後年になるにつれ色彩は輝きを増し、最後は光のなかに融解していくような感じになっていきます。特に1950年以降はオレンジや黄色など一層鮮やかな暖色系が登場し、色彩の交響曲と言われる一連の生命の賛歌へと到達しました。ルオーは晩年までテーマを変えることなく道化や踊り子を描き続けたそうで、やがて主題として特別な意味を持つ彼らの表現は顔だけに集約し、そのほとんどが正面向きに描かれるようになりました。
ジョルジュ・ルオー 「マドレーヌ」のポスター

これは1956年の作品で、マグダラのマリアを思わせるマドレーヌという名前の人気女道化師が描かれています。縁を白い四角で囲むような感じで、その中に黄色、オレンジ、緑などを使って顔が描かれています。その表情は微笑んでいて、明るい印象を受けますね。なお、この絵は一見するとキャンバスに描かれているように見えて、実は麻布を裏打ちした紙に描かれています。裏面には娘のイザベラのサインと印も入っていて「アトリエ作品」と呼ばれる1枚です。
ルオーは80歳を過ぎても探求を続け、最晩年まで加筆をし続けた「アトリエ作品」と呼ばれる作品郡があります。これはルオーの死後にアトリエに残された作品の総称で、裏にはアトリエ印と次女イザベルのサインが入っています。
ここからは年代不明の作品なので、前後していると思われます。
ジョルジュ・ルオー 題名失念

すみません、題名も撮り忘れて分かりませんが恐らく道化を描いたものだと思います。疲れたような表情で寂しげな雰囲気です。ここまで観てきたルオーの特徴がよく出ているのではないかと思います。
ジョルジュ・ルオー 「Jeune Pierrot」

こちらも年代不明で、日本語にすると若いピエロです。正面向きで青っぽく、静かに瞑想しているかのように見えます。ルオーの描く道化師は何処か哲学者のような雰囲気の憂いが感じられ、愚かしさといったものは余りないように思えます。
ジョルジュ・ルオー タイトル失念

こちらも題名を撮り忘れましたが恐らく聖書の中の風景を描いたものだと思います。丸い月が浮かび2人の人影が街へと向かっているのはヨセフとマリアかも知れません。静けさが漂い神秘的な雰囲気です。
1930年代(60歳頃)以降、ルオーの風景画は実在する風景と関連性が希薄になり、宗教的な風景に変わっていきました。そうした聖書から選んだ場面は「降誕」「エジプトへの逃避」「子供たちを我もとに来させよ」「マルタとマリアの家のキリスト」の4つが多いようです
ジョルジュ・ルオー 「Paysage biblique」

最期にこちらも年代不明で、日本語にすると「聖書の風景」です。かなり抽象化が進んで何のシーンだか判別しづらいですが、明るい色合いとなっていて晩年の作風ではないかと思います。一種の理想郷のような神聖さが感じられますね。
ルオーは若い頃からセザンヌを崇拝し、絵というのは一種の建築であって、すべての構成要素が互いに関連しているものであると学びました。ルオーの風景画では地平線(水平線)と、樹木や塔の垂直線を基礎として、その前景に人物や物が明快に配置されていて、それによって緊密な統一感が生まれています。
ということで、近代絵画の中でも特に個性的な画家となっています。写真でご紹介したものの、ルオーは厚塗りが彫刻みたいになっている作品もあるので実際に観ないと真価が分からないと思います。関東ではパナソニック汐留美術館や出光美術館、国立西洋美術館などに常設作品があり、特にパナソニック汐留美術館は定期的にルオーの展示を行います。一度は実物を観て頂きたい画家です。
参考記事:
ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ (パナソニック 汐留ミュージアム)
パリ・ルオー財団特別企画展 I LOVE CIRCUS (パナソニック 汐留ミュージアム)
ジョルジュ・ルオー 名画の謎 展 (パナソニック 汐留ミュージアム)
ルオーと風景 (パナソニック電工 汐留ミュージアム)
ユビュ 知られざるルオーの素顔 (パナソニック電工 汐留ミュージアム)
ジョルジュ・ルオーは1871年にパリの貧しい家庭に生まれ、14歳からステンドグラス職人の下で徒弟奉公となり、1890年の19歳の時に画家となる決心をしてパリの国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学しました。エコール・デ・ボザールではギュスターヴ・モローの指導を受けていて、学校では古典主義的風景画の描き方を指導していたそうです。そのため初期はレンブラント、プッサン、クロード・ロランへの傾倒を見せ、概念形成した作品だけでなく実写したものまであったようです。高い才能を持ちレンブラントの再来とまで称されていたようですが、1898年に敬愛するモローの死と共に学校を去りました。そしてその後はアカデミックから遠ざかり、自身の絵画世界に邁進していくことになります。
ジョルジュ・ルオー 「人物のいる風景」のポスター

こちらは1897年の作品で、まだモローに師事していた頃に制作された大きめのパステル画です。三日月が浮かぶ夕暮れ時で、右手前にはうっそうとした木々、左下には水辺で水浴している裸体の人物(ニンフ)が5人描かれています。柔らかくぼんやりとモヤが立ち込めるような幻想的な光景で、背景の空の薄っすらとした光の表現が見事です。レオナルド風との指摘もありますが、コローのような雰囲気もあるかな。ルオーはキリストやピエロ、版画などを描いていたイメージがあるので、後のルオーの画風とは違った印象を受け、風景画も珍しく感じます。しかし、実際にはルオーは初期から晩年まで風景を絶えず描いていたそうで、生まれ育ったパリ郊外や父親の故郷のブルターニュ、一時期家族と暮らしたヴェルサイユなどを描いた作品が多いようです。
モローの生徒にはアンリ・マティスもいて、ルオーもマティスなどのフォーヴィスムの作家と共に1905年のサロン・ドートンヌ展にしています。そのためルオーはフォーヴィスムに分類されています。モローは個性を尊重する人だったので優秀な前衛画家が生まれました。 ルオーは在学中から1900年初頭は古典的な絵画技法で描いていて、技術の高さは抜きにでていたようです。また、以前観た展示では学生時代からの最初期を金、1920年代までを青、1910~20年代の銅版・石版を黒というように色使いを分類していて、各時代を象徴するような色と言えるようです。
ジョルジュ・ルオー 「Lutteur」

こちらは1906~10年頃の作品で、日本語にすると「レスラー」です。黒く太い輪郭や強い色彩、ややざらついたマチエールなど既に唯一無二の独自性が感じられます。(もっと後の時代の画風のようにも思えます) 頭を抱えて苦悩するような表情も印象的で、悲哀を感じさせます。
ルオーはローマ賞に落選した後、学校を退学してアカデミックな描き方から独自の表現を模索するようになりました。観たものをそのまま描くのではなく、自分に取り込んでから自分の経験や内面を交えて表現するようになり、貧民など人間の苦悩を描いた「悲劇性」と「自然の美」という2つの特徴があるようです。貧しい家庭で育ったので、それが根底にあるのかもしれませんね。
ジョルジュ・ルオー 「L'Accusé」

こちらは1907年の作品で日本語にすると「被告」となります。この頃、セーヌ県検事局の司法官に誘われて公判に出席するようになり、こうした法廷を描いた作品をいくつか残していてこれもその1枚です。ちょっと戯画的というか皮肉っぽいニュアンスを含む描写となっていて、みんな悪そうw 濃いめの色彩やマチエールで重厚な印象を受けます。
1908年に画家のアンリ・ル・シダネルの妹のマルトと結婚しています。シダネルもルオー夫妻もヴェルサイユに住んでいたようですが、お互いに特に交流した記録はないようです。画風は全然違うとは言え、ちょっとは付き合い有っても良いだろうにw
ジョルジュ・ルオー 「『ユビュおやじの再生』 マリココ」

こちらは1918年の作品で『ユビュおやじの再生』からの1枚。「ユビュおやじ」とは、元はフランスのアルフレッド・ジャリが創作した不条理な劇『ユビュ王』の主人公です。この劇は当時のフランスで大いに流行ったようで、その作品に即発された画商のアンブロワーズ・ヴォラールがユビュの使用権を買い上げ、フランスの植民地を舞台とした『ユビュおやじの再生』という著書を書きます。そして、その挿絵をルオーに依頼したのが、一連の作品のきっかけになりました。挿絵の依頼は1917年で、1918~19年頃には22点の挿絵を完成させたものの、1928年に再加筆や修正が行われ1932年になって『ユビュおやじの再生』が出版されています。ここに描かれているのはコンゴののバテケ族の王の姿で、簡略化されているけれども描かれた人の個性を感じ力強い雰囲気があるように思います。当時、「ルオーの描く黒人ほど黒人らしい黒人は見たことが無い」と評されたのだとか。
ルオーは1917年にアンブロワーズ・ヴォラールと専属契約を結ぶと、当時 社交場となっていた華やかなサーカスに通うようになりました(ヴォラールはサーカスのボックス席を所有していて、画家たちに提供していた) そしてルオーはそのスペクタクルから「色・形・ハーモニー」という自身の芸術の重要な要素を発見し、1920年以降の作品では「色・形・ハーモニー」がより一層強調されるようになりました。
ジョルジュ・ルオー 「郊外のキリスト」

こちらは1920~24年頃の作品。夜の街の中でキリストと2人の子供らしき姿があり、静かな雰囲気となっています。聖書のどの場面か分かりませんが、しんみりと心に染み入るような光景です。青い空に白く輝く月が清廉な印象となっていますね。
前述の通りルオーはヴォラールと契約していますが後に裁判を起こしています。というのも、ルオーは自分の納得しない作品は世に出さず焼却しようと考えていたのですが、ヴォラールは未発表の作品も画商のものだと言ってそれを許しませんでした。結果としてルオーが勝訴し、戦後に300点近くの作品が焼却されたのだとか。今残ってるルオー作品は自身が満足した作品ってことですね。
ジョルジュ・ルオー 「L'apprenti ouvrir」

こちらは1925年の作品で、日本語ではL'apprentiは見習い、ouvrirは開く という意味のようです(繋げると意味わかりませんがw) ぼんやりした顔をしていて青い背景と相まって憂鬱そうな雰囲気となっています。前述の通りこの時代は青が多く使われたようで、それが一種の心理描写になっているようにも思えます。
この時期に青が多用された理由はルオーの海への憧れや、中世のステンドグラスへの傾倒にあるのではないかと考えられるそうで、ルオーが14歳の時に父の故郷ブルターニュで観た海への強い衝撃や、ステンドグラス職人に弟子入りした際、古いステンドグラスから受けた深い感銘などが根底にあるようです。
ジョルジュ・ルオー 「ピエロ」

こちらは1925年の作品。目を閉じたピエロは瞑想しているように静かでまるで聖人のような佇まいに思えます。ルオー作品の色彩の濃さはそのまま絵の重厚さに繋がっていますね。
画風や画題は全く異なりますが、こうした作品からは先生のギュスターヴ・モロー達の象徴主義に通じるものを感じます。ちなみにルオーは1903年に開館したギュスターヴ・モロー美術館の初代館長も務めていました。(まだ売れてなかった頃です) 終生変わることなく師への敬愛は篤かったようです。
ジョルジュ・ルオー 「ミセレーレ」

こちらは1948年の出版のですが、41歳の1912年から15年を費やして作った版画集「ミセレーレ」のシリーズ。こちらは父の死がきっかけとなり第一次世界大戦の際に構想が深まった銅版画のシリーズで、ミセレーレは「神よ、われを憐れみたまえ」という意味で、慈悲と戦争をテーマにしています。1927年には58点がほぼ完成していたものの1948年になって出版され、ルオーのライフワーク的な作品と言えそうです。白黒でも油彩と変わらない濃密な描写となっていて、非常に太い輪郭が特徴となっています。
ルオーは1910年代までは正確なデッサンでしたが、やがて独特のデフォルメによって長く伸びる腕や丸みを持たせた腹などを描くようになりました。また、画面上に額のような縁飾りがついているのが多いのも特徴となっています。
ジョルジュ・ルオー 「キリスト」のポスター

こちらは1937~38年頃の作品で、横を向いてうつむいているキリストが描かれています。これは『ミセレーレ』の第2作目を油彩画にしたもので、白黒だったものを色彩で表現しています。周りは薄い青で、背景には港町のようなところに塔が立っている様子が描かれています。キリストは深く瞑想しているような感じで、頭の上には赤い雲がぽわ~んと浮かび、まるでキリストの意識が飛んでいるように思えます。この雲を観ていたら萬鉄五郎の自画像を思い出すので、影響を与えているんでしょうね。
1930年以降は宗教的題材とサーカスがメインとなっていてます。
ジョルジュ・ルオー 「道化師」

こちらは1937~38年頃の作品。厚塗りで太い輪郭を使っているのに落ち着いた色が多いせいか全体的に寂しげな雰囲気が漂っています。華やかな舞台の裏側を観たようなリアリティがあり、一種の同情が込められているようにも思えます。
ルオーは幼少期からサーカスの世界に心奪われていたようで、道化師の姿がルオーの作品に初めて登場したのは1902年という極めて早い時期だそうです。それ以来ルオーは絶えずサーカスを描き続けたそうで、サーカスに通い、機会があれば移動サーカスも見て回ったようです。しかし、ルオーが描いたのは華やかなスペクタクルではなく、場末の貧民街に生きる人々の勇気・忍従・孤独・悲哀などでした。
ジョルジュ・ルオー 「聖顔」

こちらは1939年の作品で、大きな目を開いたキリストの顔を描いています。輪郭の黒の強さで一際キリストの顔に目が行き、特に眼に力を感じます。また、キリストの周りには幾重にも枠が囲うような構図となっていて、荘厳な雰囲気もあるように思えました。
聖顔の主題は1904年頃に登場し、1930年代に確固とした図像を確立して最晩年まで描かれ、モチーフは聖女ヴェロニカの聖顔布やトリノの聖骸布の顔写真に影響を受けました。ルオーはトリノの聖骸布の論文を描いた生物学者と知り合いだったそうで、大きな関心を持っていたようです。(実際の聖骸布の写真を観ると、確かにルオーの聖顔の顔に似た輪郭となっています。) また、1930年以降のルオーの人物像は類型化していき、群像から離れ単独~3人程度の像が多く、典型的な顔は
・アーモンド型に長く引き伸ばされた顔
・長く細い鼻
・鼻をつなぐゆるやかなアーチ状の眉
・小さい口
・大きく見開いた両目、もしくは伏目
といった点が挙げられます。真正面を向く顔は やがて軽く頷くようになり、これは人間性を強調する効果を出すためとなっています。
ジョルジュ・ルオー 「Veronique,vers」

こちらは1945年の作品で、日本語にすると聖ヴェロニカとなります。ゴルゴダの丘に登るキリストの汗をぬぐった聖女で、布にキリストの聖顔が写るという奇跡が起きました。この聖ヴェロニカは面長の顔に大きな目で歯を出して微笑むような表情をしています。色白で可憐な雰囲気かな。マチエールも比較的スッキリしていて、美しい顔ですね。
ルオーは「色、形、ハーモニー、祝福された三位一体よ 観えない目をあけ 聞こえない耳に喜びを与えよ」と語っていたそうで、色・形・調和は画家にとっての原点であり、一生かけて習得すべきものだと言っていたそうです。
ジョルジュ・ルオー 「Homo homini Lupus」

こちらは1944~48年の作品で、ホモ・ホミニ・ループスはラテン語のことわざで、「人は別の人に対する狼である」という意味になります。縛り首にされた人の姿を描いていて、タイトルはそれを批判しているものと考えられます。だらりと吊り下がった姿が何とも無残。ちょうど戦時中~戦後の頃なので世相にも関係しているかも知れませんね。
ルオーは絵画や版画だけでなく、装飾も手掛けていました。
ジョルジュ・ルオー 「飾りの花」「飾りの花」


こちらはいずれも1947年の作品で、2つを比べるとよく似ています。元々ルオーはステンドグラス職人の元で働いていたので、絵画もステンドグラスのような太い輪郭があるのはそのせいなのかも。生命力と力強さを感じる筆致です。
↑この左側の作品をステンドグラスにした作品が下記となります
ジョルジュ・ルオー 「盛り花I」

こちらは1949年の作品。かなりの再現度で、ルオーのルーツが強く感じられます。強い色彩で荘厳かつ華麗な印象を受けます。
山梨県の長坂にある清春芸術村にもこれと同じステンドグラスがあります。また、↓の十字架もルオーの死後に娘のイザベルによって清春芸術村のルオーに捧げた礼拝堂に寄贈されたものです。
参考記事:清春芸術村の写真 後編 (山梨 北杜編)
ジョルジュ・ルオー 「キリスト十字架像(ルオーにより着彩)」

こちらは17世紀バロック様式の十字架で、この像を気に入ってルオーが入手して像に着色して毎日祈りを捧げていたものです。敬虔なカトリック教徒だった証ですね。
ルオーはカトリック教会の総本山であるヴァチカンと繋がりがあり、生前にはルオー自身が教皇に作品を寄贈し、没後は家族らが作品をヴァチカンに献納しています。そのため、ヴァチカンは今でも貴重なルオーコレクションを持っています。
ジョルジュ・ルオー 「リュリュ(道化の顔)」

こちらは1952年の作品。サーカスの人物を描くのはこれまでもありましたが、オレンジが多めとなっていてやや明るい雰囲気が出ています。とは言え表情は硬い真顔なので楽しげって訳ではないかな。以前と比べて色彩に変化が感じられます。
ルオーの晩年の道化師は、愛と犠牲を体現するキリスト的な人物像と一体化していったそうで、後年になるにつれ色彩は輝きを増し、最後は光のなかに融解していくような感じになっていきます。特に1950年以降はオレンジや黄色など一層鮮やかな暖色系が登場し、色彩の交響曲と言われる一連の生命の賛歌へと到達しました。ルオーは晩年までテーマを変えることなく道化や踊り子を描き続けたそうで、やがて主題として特別な意味を持つ彼らの表現は顔だけに集約し、そのほとんどが正面向きに描かれるようになりました。
ジョルジュ・ルオー 「マドレーヌ」のポスター

これは1956年の作品で、マグダラのマリアを思わせるマドレーヌという名前の人気女道化師が描かれています。縁を白い四角で囲むような感じで、その中に黄色、オレンジ、緑などを使って顔が描かれています。その表情は微笑んでいて、明るい印象を受けますね。なお、この絵は一見するとキャンバスに描かれているように見えて、実は麻布を裏打ちした紙に描かれています。裏面には娘のイザベラのサインと印も入っていて「アトリエ作品」と呼ばれる1枚です。
ルオーは80歳を過ぎても探求を続け、最晩年まで加筆をし続けた「アトリエ作品」と呼ばれる作品郡があります。これはルオーの死後にアトリエに残された作品の総称で、裏にはアトリエ印と次女イザベルのサインが入っています。
ここからは年代不明の作品なので、前後していると思われます。
ジョルジュ・ルオー 題名失念

すみません、題名も撮り忘れて分かりませんが恐らく道化を描いたものだと思います。疲れたような表情で寂しげな雰囲気です。ここまで観てきたルオーの特徴がよく出ているのではないかと思います。
ジョルジュ・ルオー 「Jeune Pierrot」

こちらも年代不明で、日本語にすると若いピエロです。正面向きで青っぽく、静かに瞑想しているかのように見えます。ルオーの描く道化師は何処か哲学者のような雰囲気の憂いが感じられ、愚かしさといったものは余りないように思えます。
ジョルジュ・ルオー タイトル失念

こちらも題名を撮り忘れましたが恐らく聖書の中の風景を描いたものだと思います。丸い月が浮かび2人の人影が街へと向かっているのはヨセフとマリアかも知れません。静けさが漂い神秘的な雰囲気です。
1930年代(60歳頃)以降、ルオーの風景画は実在する風景と関連性が希薄になり、宗教的な風景に変わっていきました。そうした聖書から選んだ場面は「降誕」「エジプトへの逃避」「子供たちを我もとに来させよ」「マルタとマリアの家のキリスト」の4つが多いようです
ジョルジュ・ルオー 「Paysage biblique」

最期にこちらも年代不明で、日本語にすると「聖書の風景」です。かなり抽象化が進んで何のシーンだか判別しづらいですが、明るい色合いとなっていて晩年の作風ではないかと思います。一種の理想郷のような神聖さが感じられますね。
ルオーは若い頃からセザンヌを崇拝し、絵というのは一種の建築であって、すべての構成要素が互いに関連しているものであると学びました。ルオーの風景画では地平線(水平線)と、樹木や塔の垂直線を基礎として、その前景に人物や物が明快に配置されていて、それによって緊密な統一感が生まれています。
ということで、近代絵画の中でも特に個性的な画家となっています。写真でご紹介したものの、ルオーは厚塗りが彫刻みたいになっている作品もあるので実際に観ないと真価が分からないと思います。関東ではパナソニック汐留美術館や出光美術館、国立西洋美術館などに常設作品があり、特にパナソニック汐留美術館は定期的にルオーの展示を行います。一度は実物を観て頂きたい画家です。
参考記事:
ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ (パナソニック 汐留ミュージアム)
パリ・ルオー財団特別企画展 I LOVE CIRCUS (パナソニック 汐留ミュージアム)
ジョルジュ・ルオー 名画の謎 展 (パナソニック 汐留ミュージアム)
ルオーと風景 (パナソニック電工 汐留ミュージアム)
ユビュ 知られざるルオーの素顔 (パナソニック電工 汐留ミュージアム)
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更新情報や美術関連の小ネタをtwitterで呟いています。
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今日は作者別紹介で、日本よりも海外での評価が高い画家 吉田博を取り上げます。吉田博は明治時代から昭和に活躍した画家で、油彩よりも版画が知られています。日本では白馬会と対立していたこともあってかそれほど有名ではありませんが、欧米では名高く 戦後にマッカーサーが日本に来た際、真っ先に「吉田博はどこにいる?」と尋ねたという伝説まであります。風景画が多く、木版では原画から彫り、摺りまですべて自らが監修を行うという徹底ぶりで高い品質の作品を生み出しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
吉田博は元々は上田博として久留米に生まれ、子供の頃から絵が好きだったこともあり九州の洋画家の草分けとされる吉田嘉三郎に見込まれて24歳で養子に入りました。吉田嘉三郎は博に跡を継がせるために京都の田村宗立の弟子入りを命じ、博はそこで修行していました。しかし京都で写生旅行に来ていた三宅克己と出会うとその水彩画に魅せられ、更なる研鑽を積むために東京に出て不同舎の小山正太郎に学ぶようになりました。
吉田博 「養沢 西の橋」

こちらは不同舎の時代の1896年に描かれた水彩作品。淡く瑞々しい色彩で川辺の光景を描いていて、橋の上で牛を追う姿が郷愁を誘います。叙情性があり、古き良き日本の原風景を軽やかに表現していますね。不同舎では結構色々な所に遠征していたようで、これは奥多摩の養沢ですが、日光などで描かれた作品も多く残されています。
不同舎で力をつけた吉田博は弟弟子の小杉未醒らの心を捉える「吉田流」とも言える境地まで達していたようですが、その頃の中央画壇は黒田清輝ら白馬会が要職を占め、その一派が国費で留学している状態で、吉田博はそれに憤慨していたようです。折しも義父が亡くなり義理の家族も含めて6人を養う身となっていたこともあって 絵を売って生活をしていたのですが、横浜でアメリカ人に特によく売れたことから不同舎の後輩の中川八郎と共にアメリカ経由の渡欧を決意したようです。(その背景には三宅が絵を売りながら渡米したことも影響したようです) そして言葉もわからないまま1899年に現地に行った所、作品を持ち込んだデトロイト美術館の館長の激賞を受けて急遽2人展を開くことになり、1000ドルを超える大金を得ることができました。その後、この大金を元にボストンに移り、さらにイギリス、フランス、ドイツ、スイス、イタリアを巡って2年ほどで帰国しました。帰国後の1902年に、吉田博は白馬会に押されて停滞気味だった明治美術会を「太平洋画会」と名を改め、若手を中心とした組織にして やがて白馬会に対抗していくことになります。そして更に2年後(1903年)には今度は義理の妹と共に再度アメリカに渡り兄妹展を開催すると、これまた大好評で大金を得ることができました。そしてまたイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、イタリア、スペイン、モロッコ、再びスペイン、イタリア、エジプトなど3年近くかけて外遊したようです。
吉田博 「パリ風景」

こちらは1905年の油彩作品で、妹と外遊に出た頃のものと思われます。パリの公園で休む人々が穏やかな雰囲気です。タッチが粗めで印象派のような画風にも思えるかな。影響を受けているかは分かりませんが、こうしたのんびりとした感じは吉田博の風景画の特徴でもあると思います。
この外遊の際にプラド美術館で描いたヴェラスケスの模写と、ヴェニスで描いた風景画は夏目漱石の『三四郎』の話の中でも紹介されていて、ヴェラスケスの模写はあまり出来が良くないというセリフもあるようですw(実際、それほど似てる模写ではないです)
吉田ふじを 「旗日の府中」

こちらは共に外遊した義理の妹の1902~03年頃の作品です。兄の絵にも負けない高いデッサン力で旗が並ぶ日の様子を描いています。大きな木が立ち並んでいるから神社のあたりかな? 写実的で叙情性のある画風は兄に通じるものを感じます。
吉田博の再帰国後、白馬会と太平洋画会の対立は再び深まり、博覧会の審査員の大半が白馬会で占められたことに抗議して賞の返還をするなどの事件もあったようです(この辺の事情が吉田博があまり紹介されない一因だったのかも) その後の文展では公平に審査員が分配されると吉田博は3等を受賞するなど活躍し、さらに若くして文展の審査員を務めるなど洋画界の頂へと登りつめて行きました。
吉田博 「池畔の桜」

こちらは1920年の油彩作品。水辺に咲く桜を大胆な筆致で描いている一方、色は控えめで静かな印象を受けるかな。油彩は水彩と雰囲気が違った作風に思えます。
1920年に吉田博の転機となる仕事が舞い込み、それから木版画の世界へと進んでいくことになります。それは明治神宮完成の木版画の依頼で、版元は渡邊庄三郎(伊東深水や川瀬巴水の版元として有名)でした。しかしこの仕事では7点の原画を提供するだけだったようです。その後、関東大震災が起きた際に被災した太平洋画会の仲間を救おうと再びボストンに絵を売りに行ったところ、売上は芳しくなく既に日本人画家という物珍しさは失われていましたが、アメリカでは日本の木版画に人気が出ていることが分かりました。当時は低俗な浮世絵でももてはやされていたようですが、吉田博はそういったものどころか伊東深水や川瀬巴水にも飽き足らずに自分が新しい木版画の世界を開拓する気持ちで挑み始めました(この時既に自身の木版も高い評価を得ていたようです。)
吉田博 「米国シリーズ グランドキャニオン」

こちらは1925年のシリーズ作品の1枚で、グランドキャニオンを描いた版画です。油彩を版画化したもので、吉田博はこの景観について「赤黄色の山の層は遠くなるに従つて次第に色が霞んで褪せて見える(中略)夕日を浴びてゐる側は黄色く明るいが、影になつてゐる部分は沈んだコバルト色で、その色彩の対照は筆舌に尽くせない妙趣を帯びている」と語っていたようです。やや平面的な感じですが明るい色彩となっていて、その感動が込められているように思います。
吉田博はこの頃の西洋画の動向には全然興味がなかったようで、写実的で緻密な独自の画風を貫いていたようです。たまにちょっと印象派のような大胆さやナビ派のような装飾的で平面的な感じの作品があったりもしますが、意図して描いたのかは分かりません。
吉田博 「欧州シリーズ ルガノ町」

こちらは1925年の作品で欧州シリーズ11点の中の1点。スイスの湖に面した街の風景で、吉田博はこの街を訪れた際の印象として、空が真っ青で山近く湖水が静かであることに感動したこと、その辺りに見られる赤い屋根の家が湖面に映る情景に見入ったことなどを書き残しています。ここでは空は描かれていませんが、家々の赤~オレンジ色の連なりがリズミカルに感じられます。こういう風景を観ると、西洋画の動向に興味ないと言っても、割とセザンヌやキュビスムに影響されたんじゃないの?って思ってしまいますが…w
この少し前に作られた国民美術協会の会頭が黒田清輝になると吉田博は脱退し、恐らくそれが原因で文展の審査員からも外されました。また、外遊を計画したものの第一次世界大戦が始まりそれどころではなかった時期に、逆にそれが転機となり国内の山々を描くことに熱中しはじめ、実際に山に登っては山を描くというスタイルになっていきました。
吉田博 「日本アルプス十二題の内 剣山の朝」

こちらは1926年の作品で、吉田博を代表する連作の中の1枚です。微妙な濃淡で朝日が山を照らす様子が描かれ、清々しい雰囲気です。手前にはテントも描かれていて実際にこの場所で描いたことを伺わせます。 吉田博は毎年夏になると2ヶ月ほど日本アルプスを訪れていたようで、「登山と画とは、今まで私の生活から切離すことのできなものとなつてゐる。画は私の本業であるが、その画題として、山のさまざまな風景ほど、私の心を惹きつけるものはない。味はへば味はふほど、山の風景には深い美が潜められてゐる。(中略)山は、登ればそれでよいといふものではない。登つて、そこに無限の美を甘受するのが、登山の最後の喜びではないだらうか」と語っています。それほど山を深く愛していたこともあってか「山の画家」とも呼ばれることもあります。
吉田博の木版の特徴は原画から彫り、摺りまですべて自らが監修を行っていたことで、自身が猛勉強するだけでなく職人たちの指導も行っていたようです。また、同じ版木の色を変えることで朝昼晩というように表現する「別摺」という技法を生み出し、それも高く評価されました。かなりの大型作品も手掛け、紙と版木の反り返る率の違いに苦労したというエピソードもあるので、本当に熱心に版画に取り組んでいたのが分かります。
吉田博 「瀬戸内海集 帆船 朝・午後・夕」

こちらは1926年の版画作品で、まずは3点セットでご紹介。これが「別摺」で、同じ場面を色を変えてそれぞれの情感を出しています。
吉田博 「瀬戸内海集 帆船 朝」

朝は太陽が強く輝き全体的に明るい一方、逆光となって船は暗くなっています。まるで水彩画のような繊細さで、かつて水彩の感性がフル活用されていますね。
吉田博 「瀬戸内海集 帆船 午後」

こちらは午後の光景。凪なのか波は無く非常に静かな雰囲気です。水面に帆が反射しているのも叙情的に思えます。
吉田博 「瀬戸内海集 帆船 夕」

こちらは夕暮れの光景。朝に似ていますが朝よりもグラデーションが穏やかで、空と海が一体化したような光景となっています。左上の帆船が他の2枚よりだいぶ濃いのも違いかな。
版画の仕事が安定してくると、夏は旅して写生を行い秋から春に木版を造るようになっていたようです。また、1924年から秋の帝展の審査にも復帰し、毎年山をテーマにした大作を出品するのが恒例となりました。その後、1930年になると息子を連れてインドと経由地のアジア各国に旅行に行ったそうで、この旅はヒマラヤへの憧れと世界不況によってアメリカでの売上が見込めないことが背景にあったようですが、今までとは異なる雰囲気の画題を残しています。さらに60歳を超えてからは山登りを止めたものの、1936年には朝鮮半島・中国を訪れています。(1937年から日中戦争が勃発しているので、当時の政情とも関係があったのかもしれません。)
吉田博 「インドと東南アジア フワテプールシクリ」

こちらは1931年の作品で、長男の遠志と共に訪れたインドで観た光景を版画にしたものです。装飾的な窓から透ける光景が見事で、異国情緒が豊かに表現されています。遠志は後に「インド旅行は父の外国旅行のなかで、一番題材の多い旅であったから、最も数多くの版画ができたのである」と語っていて、インドで多数の作品を制作していたようです。幻想的な画風がインドの雰囲気とよくマッチしていて特に好きな作品です。
戦時中は従軍画家として戦地で取材をしていたようで、急降下する戦闘機から観る光景などを描いています。しかし取材旅行や木版画の仕事はできなくなったようで、官展への出品もこの頃は行っていません。また、戦争末期の頃は製鉄所や造船所といった軍需産業の工場を描き、特に溶けた金属が赤く光っている絵が気に入ったらしく数点 制作しています。終戦の際は疎開先にいたのですが、終戦後はアメリカでの知名度から進駐軍からの引き合いも多かったようで、戦災を免れた自宅はさながらサロンのようになっていたそうです。そこにはマッカーサー夫人なども来ていたようで、マッカーサーが日本に来た時に真っ先に「吉田博はどこにいる?」と言ったという伝説まであります(本当かは分かりませんがw)しかし終戦後わずか5年程度で亡くなってしまい、念願だった木版の世界百景を叶えることはできず不同舎時代のような日本らしい風景の木版が最後で、油彩では山からの眺めを描いた作品で絶筆となりました。
ということで、情感溢れる風景画を多く残した画家です。最近では人気が上がってきていて、2017年の損保ジャパン日本興亜美術館の展示や、2020年に各地での巡回展、そして2021年1月~3月には東京都美術館で個展が開催されます。美術初心者にも分かりやすい普遍的な美しさがあるので、さらなるブレイクもあるかも?? 今のうちに知っておくと展覧会を一層に楽しめるのではないかと思います。
参考記事:生誕140年 吉田博展 山と水の風景 (東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館)
吉田博は元々は上田博として久留米に生まれ、子供の頃から絵が好きだったこともあり九州の洋画家の草分けとされる吉田嘉三郎に見込まれて24歳で養子に入りました。吉田嘉三郎は博に跡を継がせるために京都の田村宗立の弟子入りを命じ、博はそこで修行していました。しかし京都で写生旅行に来ていた三宅克己と出会うとその水彩画に魅せられ、更なる研鑽を積むために東京に出て不同舎の小山正太郎に学ぶようになりました。
吉田博 「養沢 西の橋」

こちらは不同舎の時代の1896年に描かれた水彩作品。淡く瑞々しい色彩で川辺の光景を描いていて、橋の上で牛を追う姿が郷愁を誘います。叙情性があり、古き良き日本の原風景を軽やかに表現していますね。不同舎では結構色々な所に遠征していたようで、これは奥多摩の養沢ですが、日光などで描かれた作品も多く残されています。
不同舎で力をつけた吉田博は弟弟子の小杉未醒らの心を捉える「吉田流」とも言える境地まで達していたようですが、その頃の中央画壇は黒田清輝ら白馬会が要職を占め、その一派が国費で留学している状態で、吉田博はそれに憤慨していたようです。折しも義父が亡くなり義理の家族も含めて6人を養う身となっていたこともあって 絵を売って生活をしていたのですが、横浜でアメリカ人に特によく売れたことから不同舎の後輩の中川八郎と共にアメリカ経由の渡欧を決意したようです。(その背景には三宅が絵を売りながら渡米したことも影響したようです) そして言葉もわからないまま1899年に現地に行った所、作品を持ち込んだデトロイト美術館の館長の激賞を受けて急遽2人展を開くことになり、1000ドルを超える大金を得ることができました。その後、この大金を元にボストンに移り、さらにイギリス、フランス、ドイツ、スイス、イタリアを巡って2年ほどで帰国しました。帰国後の1902年に、吉田博は白馬会に押されて停滞気味だった明治美術会を「太平洋画会」と名を改め、若手を中心とした組織にして やがて白馬会に対抗していくことになります。そして更に2年後(1903年)には今度は義理の妹と共に再度アメリカに渡り兄妹展を開催すると、これまた大好評で大金を得ることができました。そしてまたイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、イタリア、スペイン、モロッコ、再びスペイン、イタリア、エジプトなど3年近くかけて外遊したようです。
吉田博 「パリ風景」

こちらは1905年の油彩作品で、妹と外遊に出た頃のものと思われます。パリの公園で休む人々が穏やかな雰囲気です。タッチが粗めで印象派のような画風にも思えるかな。影響を受けているかは分かりませんが、こうしたのんびりとした感じは吉田博の風景画の特徴でもあると思います。
この外遊の際にプラド美術館で描いたヴェラスケスの模写と、ヴェニスで描いた風景画は夏目漱石の『三四郎』の話の中でも紹介されていて、ヴェラスケスの模写はあまり出来が良くないというセリフもあるようですw(実際、それほど似てる模写ではないです)
吉田ふじを 「旗日の府中」

こちらは共に外遊した義理の妹の1902~03年頃の作品です。兄の絵にも負けない高いデッサン力で旗が並ぶ日の様子を描いています。大きな木が立ち並んでいるから神社のあたりかな? 写実的で叙情性のある画風は兄に通じるものを感じます。
吉田博の再帰国後、白馬会と太平洋画会の対立は再び深まり、博覧会の審査員の大半が白馬会で占められたことに抗議して賞の返還をするなどの事件もあったようです(この辺の事情が吉田博があまり紹介されない一因だったのかも) その後の文展では公平に審査員が分配されると吉田博は3等を受賞するなど活躍し、さらに若くして文展の審査員を務めるなど洋画界の頂へと登りつめて行きました。
吉田博 「池畔の桜」

こちらは1920年の油彩作品。水辺に咲く桜を大胆な筆致で描いている一方、色は控えめで静かな印象を受けるかな。油彩は水彩と雰囲気が違った作風に思えます。
1920年に吉田博の転機となる仕事が舞い込み、それから木版画の世界へと進んでいくことになります。それは明治神宮完成の木版画の依頼で、版元は渡邊庄三郎(伊東深水や川瀬巴水の版元として有名)でした。しかしこの仕事では7点の原画を提供するだけだったようです。その後、関東大震災が起きた際に被災した太平洋画会の仲間を救おうと再びボストンに絵を売りに行ったところ、売上は芳しくなく既に日本人画家という物珍しさは失われていましたが、アメリカでは日本の木版画に人気が出ていることが分かりました。当時は低俗な浮世絵でももてはやされていたようですが、吉田博はそういったものどころか伊東深水や川瀬巴水にも飽き足らずに自分が新しい木版画の世界を開拓する気持ちで挑み始めました(この時既に自身の木版も高い評価を得ていたようです。)
吉田博 「米国シリーズ グランドキャニオン」

こちらは1925年のシリーズ作品の1枚で、グランドキャニオンを描いた版画です。油彩を版画化したもので、吉田博はこの景観について「赤黄色の山の層は遠くなるに従つて次第に色が霞んで褪せて見える(中略)夕日を浴びてゐる側は黄色く明るいが、影になつてゐる部分は沈んだコバルト色で、その色彩の対照は筆舌に尽くせない妙趣を帯びている」と語っていたようです。やや平面的な感じですが明るい色彩となっていて、その感動が込められているように思います。
吉田博はこの頃の西洋画の動向には全然興味がなかったようで、写実的で緻密な独自の画風を貫いていたようです。たまにちょっと印象派のような大胆さやナビ派のような装飾的で平面的な感じの作品があったりもしますが、意図して描いたのかは分かりません。
吉田博 「欧州シリーズ ルガノ町」

こちらは1925年の作品で欧州シリーズ11点の中の1点。スイスの湖に面した街の風景で、吉田博はこの街を訪れた際の印象として、空が真っ青で山近く湖水が静かであることに感動したこと、その辺りに見られる赤い屋根の家が湖面に映る情景に見入ったことなどを書き残しています。ここでは空は描かれていませんが、家々の赤~オレンジ色の連なりがリズミカルに感じられます。こういう風景を観ると、西洋画の動向に興味ないと言っても、割とセザンヌやキュビスムに影響されたんじゃないの?って思ってしまいますが…w
この少し前に作られた国民美術協会の会頭が黒田清輝になると吉田博は脱退し、恐らくそれが原因で文展の審査員からも外されました。また、外遊を計画したものの第一次世界大戦が始まりそれどころではなかった時期に、逆にそれが転機となり国内の山々を描くことに熱中しはじめ、実際に山に登っては山を描くというスタイルになっていきました。
吉田博 「日本アルプス十二題の内 剣山の朝」

こちらは1926年の作品で、吉田博を代表する連作の中の1枚です。微妙な濃淡で朝日が山を照らす様子が描かれ、清々しい雰囲気です。手前にはテントも描かれていて実際にこの場所で描いたことを伺わせます。 吉田博は毎年夏になると2ヶ月ほど日本アルプスを訪れていたようで、「登山と画とは、今まで私の生活から切離すことのできなものとなつてゐる。画は私の本業であるが、その画題として、山のさまざまな風景ほど、私の心を惹きつけるものはない。味はへば味はふほど、山の風景には深い美が潜められてゐる。(中略)山は、登ればそれでよいといふものではない。登つて、そこに無限の美を甘受するのが、登山の最後の喜びではないだらうか」と語っています。それほど山を深く愛していたこともあってか「山の画家」とも呼ばれることもあります。
吉田博の木版の特徴は原画から彫り、摺りまですべて自らが監修を行っていたことで、自身が猛勉強するだけでなく職人たちの指導も行っていたようです。また、同じ版木の色を変えることで朝昼晩というように表現する「別摺」という技法を生み出し、それも高く評価されました。かなりの大型作品も手掛け、紙と版木の反り返る率の違いに苦労したというエピソードもあるので、本当に熱心に版画に取り組んでいたのが分かります。
吉田博 「瀬戸内海集 帆船 朝・午後・夕」

こちらは1926年の版画作品で、まずは3点セットでご紹介。これが「別摺」で、同じ場面を色を変えてそれぞれの情感を出しています。
吉田博 「瀬戸内海集 帆船 朝」

朝は太陽が強く輝き全体的に明るい一方、逆光となって船は暗くなっています。まるで水彩画のような繊細さで、かつて水彩の感性がフル活用されていますね。
吉田博 「瀬戸内海集 帆船 午後」

こちらは午後の光景。凪なのか波は無く非常に静かな雰囲気です。水面に帆が反射しているのも叙情的に思えます。
吉田博 「瀬戸内海集 帆船 夕」

こちらは夕暮れの光景。朝に似ていますが朝よりもグラデーションが穏やかで、空と海が一体化したような光景となっています。左上の帆船が他の2枚よりだいぶ濃いのも違いかな。
版画の仕事が安定してくると、夏は旅して写生を行い秋から春に木版を造るようになっていたようです。また、1924年から秋の帝展の審査にも復帰し、毎年山をテーマにした大作を出品するのが恒例となりました。その後、1930年になると息子を連れてインドと経由地のアジア各国に旅行に行ったそうで、この旅はヒマラヤへの憧れと世界不況によってアメリカでの売上が見込めないことが背景にあったようですが、今までとは異なる雰囲気の画題を残しています。さらに60歳を超えてからは山登りを止めたものの、1936年には朝鮮半島・中国を訪れています。(1937年から日中戦争が勃発しているので、当時の政情とも関係があったのかもしれません。)
吉田博 「インドと東南アジア フワテプールシクリ」

こちらは1931年の作品で、長男の遠志と共に訪れたインドで観た光景を版画にしたものです。装飾的な窓から透ける光景が見事で、異国情緒が豊かに表現されています。遠志は後に「インド旅行は父の外国旅行のなかで、一番題材の多い旅であったから、最も数多くの版画ができたのである」と語っていて、インドで多数の作品を制作していたようです。幻想的な画風がインドの雰囲気とよくマッチしていて特に好きな作品です。
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