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2020年の振り返り

今年も残す所あと2日となりましたので、毎年恒例の年間の展覧会の振り返りで終わりにしようと思います。と言ってもコロナの影響で今年は2月からほとんど展示を観ていないので、対象は1~2月と10月に観た展示のみとなります。その為、今回は規模を縮小してベスト5にしようと思います。

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参考記事:
 2019年の振り返り
 2018年の振り返り
 2017年の振り返り
 2016年はブログ休止中
 2015年はブログ休止中
 2014年の振り返り
 2013年の振り返り
 2012年の振り返り
 2011年の振り返り
 2010年の振り返り
 2009年の振り返り

今年もカウントダウン形式で行きます。傾向としては
 ・個展が好きで、テーマ展は相対的に順位が下がる
 ・過去に似た展示を観たことがあるものも順位は下がる
 ・観てしばらく経ってからもすぐに思い出せるものは順位を上げて評価を変えている
と言った感じです。

5位:ハマスホイとデンマーク絵画 (東京都美術館)
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タイトルの割にハマスホイの作品が少なかったのでちょっと肩透かしでしたが、周辺画家の作品を観ることでハマスホイも一連の流れを受けた作風であることが理解できたのが良かったです。以前のハマスホイ展に比べるとインパクトが薄めだったのでこの辺で。

4位:白髪一雄 (東京オペラシティアートギャラリー)
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知っているようであまり知らなかった白髪一雄の作品を一気に観ることができる充実の内容でした。難解な作風なので解説やキャプションが欲しかった所ですが、ダイナミックな作品ばかりで間近で観ると圧倒されました。作風の変遷も知ることができて満足度高めです。

3位:永遠のソール・ライター (Bunkamura ザ・ミュージアム)
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2017年のbunkamuraでの展示は年間ベストとして挙げたソール・ライターの展示が再び開催とあって、昨年からかなり楽しみにしていました。コロナで途中で開催中止になったりアンコール開催されたりと多難な展覧会となりましたが、内容は素晴らしく写真のみならず絵画作品まであって充実していました。2017年から間もないということもあって以前ほどの衝撃は感じなかったものの、まだまだ作品を観たいアーティストです。

2位:もうひとつの江戸絵画 大津絵 (東京ステーションギャラリー)
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今まで断片的に見てきた大津絵を系統立てて紹介する展示は無かったので、非常に斬新で面白く感じました。大津絵は近代の日本画において大きな存在なので、こうした機会で観られたのは今後の絵画鑑賞においても大きな財産になりそうです。これはコロナ禍の真っ只中に足を運びましたが、観ておいて本当に良かったです。

1位:ロンドン・ナショナル・ギャラリー展 (国立西洋美術館)
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これは多くの人が1位に挙げるんじゃないでしょうか。西洋絵画の歴史そのものといった品揃えで今年一番の豪華な展示だったのは間違いないと思います。こんな機会はもう無いんじゃないか?ってくらいの貴重な内容した。コロナ禍で開催延期や時間指定制といった措置が取られたのも思い出深いものになりました。とにかく観られただけでも感謝です。


ということで、今年は例年に比べて圧倒的に母数が少なく見逃した展示ばかりではありますが、絶対に見逃したくない1~2位は何とか観ることができました。本当はもっと行きたい展示がたくさんあったけど、我慢の1年だったなあと…。コロナのワクチンもできたようなので、来年は事態が好転することを祈ります。


おまけ:
今年、私は仕事はリモートで週末もどこにも出かけずに ずっと家で過ごしていました。その為、かつてないほどテレビもよく観ていた訳ですが、私が毎週観ていた美術・教養系の番組をいくつかご紹介。有名なものばかりですがw

美術系:
 日曜美術館(NHK)
 昔からある美術番組の王道って感じの番組

 ぶらぶら美術・博物館(BS日テレ)
 山田五郎 氏の独特の解説が面白い。日曜美術館より参考になるかも。

 新美の巨人たち(テレビ東京)
 新になってからお笑い芸人や芸能人のトンチンカンなコメントが増えてつまらなくなったけど、取り上げる題材が面白い

 百年名家(BS朝日)
 かなり専門的に古い建物を紹介する番組。MCの八嶋智人 氏も詳しいので深い話が聞ける

 建物遺産(BS朝日)
 めちゃくちゃ短い番組だけど、知らない古い建物の存在をチェックできるので便利。見逃しがちw

教養系:
 美の壺(NHK)
 題材によるけど知らない世界が多いので面白い。伝統工芸だけでなく料理とかもあったり。

 世界遺産(TBS)
 歴史遺産は世界史に、自然遺産は地形の成り立ちに詳しくなれる。地形を観ただけで成り立ちが予想できるようになりますw

 ダーウィンが来た!(NHK)
 動物の生態の不思議が非常に面白い。

 サイエンスZERO(NHK)
 最新の科学を時事ネタを交えて紹介するので分かりやすい。

 地球ドラマチック(NHK)
 海外のドキュメンタリーで、動物もの、街の歴史などだけでなく空港の裏側みたいなのまであって面白い

 世界ふしぎ発見!(TBSテレビ)
 コロナで取材に行けないのか最近は日本ばかりにw 裏のアド街も観てるので録画して、スタジオ部分は観るだけ無駄なので基本的にスキップしますw
 
他に猫の番組、鉄道番組、歴史検証もの、街ブラ、オカルト番組なんかもかなり観てますが割愛。日曜日に集中しているので録画しないと全部見るのは大変です。 来年もお家時間が長そうなので、参考にしてみてください。


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《フェルナン・レジェ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、キュビスムから独自の進化を遂げたフェルナン・レジェを取り上げます。レジェは画家になる前は製図工だったこともあり、機械やパイプを思わせるモチーフがよく出てきますが、1930年代には有機的なフォルムの作風となるなど作風は次々に変遷していきました。しかしキュビスムに色彩を取り入れるという点では一貫していて、晩年まで色鮮やかな作品を残しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

フェルナン・レジェは1881年にフランスのノルマンディー地方の農家の息子として生まれました。1900年にパリに出て若い頃は製図工の仕事をしながらアカデミー・ジュリアンに通って絵を学び当時は印象派風の作品を描いていたようです。しかし1907年のサロン・ドートンヌでのセザンヌの回顧展に感銘を受けたようで、セザンヌの「自然を円錐、円筒、球として捉える」という言葉から生まれたキュビスムへと関心を移していきました。1908年からはモディリアーニやシャガールなどのエコール・ド・パリの面々が集まっていた「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」と呼ばれるアトリエに住んで、多くの画家と知り合い ピカソの画商であったカーンワイラーに認められて1912年にはカーンワイラーの画廊で個展も開いています。また、この年は画家ジャック・ヴィヨンを中心に結成された前衛グループ「セクシオン・ドール」(黄金分割。ピュトー派とも呼ばれる)に参加し、キュビスムの新しい方向性を模索していきます。しかし1914~1917年には第一次世界大戦に従軍していたようです。

残念ながら第一次世界大戦より前の作品の写真はなかったので戦後からのご紹介となります。

フェルナン・レジェ 「Contrastes de formes」
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こちらは第一次世界大戦が終わった1918年の作品で、日本語にすると「形のコントラスト」と言った感じです。円錐や四角が散りばめられているのはキュビスム的だと思いますが、ピカソやブラックと違って奥行きというか立体感があって色も鮮やかに感じられます。

セクシオン・ドールはキュビスムが抑制された色で表現されていたことに対して色彩を取り戻す方向性だったようで、レジェには独特の明るい色が感じられます。

フェルナン・レジェ 「Le pont du remorqueur」
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こちらは1920年の作品で、日本語にすると「曳船の橋」となります。人や船、機械らしきものが多面的に表現されていて、それぞれが色面になっているのがレジェらしいキュビスムに思えます。配置や形態のリズムも心地よい作品ですね。

この年にレジェは建築家でピュリスムの画家であるル・コルビュジエと出会い、影響を与えています。確かにお互いに似た画風です。
 参考記事:
  《ル・コルビュジエ》  作者別紹介
  ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代 感想後編(国立西洋美術館)

フェルナン・レジェ 「Femme au miroir」
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こちらも1920年の作品で、日本語にすると「鏡の中の女性」となります。確かに鏡らしきものに映る女性の顔がありますねw 周りは工場のような無機質な印象で、白黒が多いので一層に中央辺りに目が行きます。これはレジェと言われないとちょっと気づけ無いかもw

第一次大戦以後のレジェの芸術は、相対立する存在を一つの画面の中で調和させることだったそうで、その緊張的調和の方法を「コントラスト」と呼んだそうです。レジェのコントラストの理念は造形的目的から宇宙的範疇にまで拡大していったそうで、レジェの夢見た理想世界は近代機械化文明と素朴な人間生活の調和でした。知識人たちが高度に機能化して行く近代世界での人間性の将来を憂慮する中で、レジェはそうした世界で逞しく生きる人間の可能性を期待した殆ど唯一の画家なのだとか。
 引用元:国立西洋美術館

フェルナン・レジェ 「L'homme à la pipe」
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こちらも1920年の作品で日本語にすると「パイプを持つ男」となります。縞々のような模様が窓のように見え、階段の手すりのようなものがあったりして近未来的な建物の中のように思えます。犬の姿もあるしちょっとシュールな感じすらあるかなw 色彩はレジェにしては落ち着いているように思えます。

レジェはこの頃から絵画だけでなく舞台美術にも取り組んでいます。レジェは生涯で絵画以外に、舞台装置、挿絵、陶器、ステンドグラスなど、多様な分野で創作活動を行っていました。

フェルナン・レジェ 「La Rose et le Compas」
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こちらは1925年の作品で、日本語にすると「薔薇とコンパス」です。左右に薔薇とコンパスがあり、真ん中の赤いのと合わせて分断された3つのモチーフが繋がったような構成となっています。詳細は不明だけど元々は製図をやっていたので、真ん中のも製図に使うものなのかな? 具象的だけどキュビスム的なところもあって面白い構図です。

1913年にアポリネールは、「彼(レジェ)は人類が古代から持ち続けてきた本能とわが民族の本能に反発して、自分が生きている現代文明の本能に、喜んで専念した最初の画家である」と評したそうです。戦時中は大砲や兵器の形に魅せられたってくらいなので、人工的な造形や機械が好きだったのかも。

フェルナン・レジェ 「花と女」
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こちらは1926年の作品。横向きの女性と花があり、真ん中には幾何学模様を組み合わせたものがあります。これは何だか分かりませんが、顔と花は割と具象的ですね。こちらでも3分割されたような構成となっていて、先程の作品との共通点があるように思えます。

こうした明快な色彩は第一次世界大戦やアメリカの滞在で得たもののようです。

フェルナン・レジェ 「Le Pot rouge」
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こちらは1926年の作品で、日本語にすると「赤いポット」です。ポットには見えないけど、花や容器のようなものは分かるかな。以前に比べて色面ではなく陰影がついて柔らかい雰囲気となっていて、形も丸みを帯びて有機的に見えますね。機械のようでもあるけど何だか可愛らしい雰囲気です。

第一次世界大戦の兵役中にチャップリンの映画を観たそうで、それもレジェに影響を与えたようです。1936年のチャップリンの映画『モダン・タイムス』なんかは労働者が機械に振り回される様子を皮肉っぽく描いてるので、その後のレジェとは方向性が逆に思えるんですけどね。

フェルナン・レジェ 「Composition à la main et aux chapeaux」
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こちらは1927年の作品で、日本語にすると「手と帽子の構図」となります。人の顔、帽子、トランプ、機械、浮き輪のようなもの?などが単純化され色面で表現されています。白・赤・青・黄といった色が鮮やかに感じられ、脈絡が分からない物がシュールにすら思えます。この横顔はさっきの「花と女」に通じるものがありますね。

フェルナン・レジェ 「Composition aux trois figures」
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こちらは1932年の作品で、日本語にすると「三つ折りの構図」といった感じでしょうか…? めちゃくちゃ雰囲気が変わって幾何学的な感じではなく、有機的でピカソの新古典主義の時代を思わせる人物像が描かれています。色も背景のほうが強くて今までとは明らかに画風が違いますね。素朴で力強い印象を受けます。

フェルナン・レジェ 「Composition aux deux perroquets」
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こちらは1935~39年頃の作品で、日本語にすると「2羽のオウムとの構図」となります。先程の画風を色彩豊かに発展させたような感じで、やはり手足の太い様式となっています。タイトルのオウムも確かにいますねw 有機的で迫ってくるような生命力が感じられます。

レジェは1940年から第二次世界大戦の戦火を避けてアメリカで活動しています。戦後、1945年にフランスへと帰国しています。

フェルナン・レジェ 「赤い鶏と青い空」
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こちらは1953年の作品です。さらに画風が変わって、具象的な風景をキュビスム風にしたように思えます。それにしても色が爽やかで、これまでの原色の組み合わせとは違った鮮やかさを感じます。

1950年頃から南仏のニースの近くにあるビオットという陶器の有名な産地で陶器製作に携わるようになりました。今ではその地にフェルナン・レジェ美術館があります。

フェルナン・レジェ 「サンバ」
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こちらは1953年の作品です。こちらはかなり単純化されてデザイン的な画風に見えます。工業的なモチーフはレジェっぽいけど、これがレジェとは思えないくらいの進化ぶりです。

この前年の1952年に71歳で弟子の女性と再婚しましたが、1955年に亡くなりました。


ということで、キュビスムから独自の進化を遂げた画家となっています。日本では国立西洋美術館で観る機会があるものの、個展は観たことがありません。有名な割に調べても謎な部分も結構あったので、本格的な回顧展が日本でも開催されることを期待したいところです。


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《古賀春江》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、日本のシュルレアリスムの先駆けとなった古賀春江を取り上げます。古賀春江は女性みたいな名前ですが男性で、僧籍に入った際の通称となります。初期は水彩画を中心に活動していたものの、画壇で認められるために油彩に取り組み、キュビスムやアンドレ・ロート、パウル・クレーなどに影響を受けた作風へと変遷し、晩年にシュルレアリスムを意識した作風になりました。北原白秋の詩をこよなく愛し、自身の作風もどこか牧歌的で温かみのあるものとなっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


古賀春江は1895年に久留米のお寺の子の「亀雄」(よしお)として生まれ、子供の頃から絵が好きだったようです。中学時代から地元の洋画家に絵を学び、1912(17歳)の時に画家を志して上京し、本格的に洋画を学びはじめます。文学への関心も高かった古賀は、画家で詩人の竹久夢二や詩人北原白秋にも強く惹かれていたようです。その後、精神が不安定となり帰郷し、僧籍に入って「良昌」を名乗り、通称が「春江」となりました。1915年に再び上京し、翌年に結婚して1918年頃から本格的に画業に専念していきます。

古賀春江 「考える女」
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こちらは1919年の作品で、モデルは奥さんではありません。しゃがんでじっとこちらを伺う感じで、内省的な雰囲気に見えます。色彩は淡めだけど落ち着いているかな。古賀春江は精神的に繊細で、友人が自殺したのにショックを受けて自分も自殺未遂をしています。モデルはそんな頃に恋した女性ではないか?という説もあるようです。ちなみに古賀春江は恋多き男で、姉さん女房だった奥さんは苦労したようですw

初期は水彩に力を入れていて、太平洋画会展では水彩作品で入選しています。また、1919年には二科展で初入選していますが20代前半はなかなか認められず、二科展入選を目指しては落胆する時期もあったようです。そんな頃に美術雑誌『みづゑ』に「水絵の象徴性に就て」というタイトルで寄稿し「水彩は長篇小説ではなくて詩歌だ。その心算(つもり)でみて欲しい。水彩はその稟性(ひんせい)により、自由にして柔らかに而(しこう)して淋しいセンチメンタルな情調の象徴詩だ。そのつもりで見て欲しい。」と寄稿したのだとか。

古賀春江 「母子」
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こちらは1922年の作品。いきなり作風が変わってキュビスム風の絵となっています。色も重く、萬鐵五郎を彷彿とするかな。タイトルの通りの母子像ですがちょっと不穏に思えてしまうw

水彩に力を入れていた古賀春江ですが、中央画壇で認められ画家として成功するには、油彩画への取組みが欠かせないということを自覚したのか、その後、古賀は油彩画に本格的に乗り出すこととなりました。
そして、1921年に自分の子供の死産に着想を得た「埋葬」が翌年の二科賞を受賞し、中央画壇の仲間入りを果たしました。1922年には若手作家によって結成された前衛グループ「アクション」にも参加し、キュビスムに学んだ造形を追究していたようなので、その頃の作品なのかも。

古賀春江 「海女」
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こちらは1923年の作品。こちらは地元に帰った時に鐘崎海岸(海女の発祥の地と言われる)や福岡の奈多海岸で観た海水浴や海辺を題材にしたシリーズの1枚で、水彩で描かれています。キュビスム風の画風は先程と同じですが、色彩は透明感のある軽やかな雰囲気となっています。動きのあるポーズで爽やかなですね。

水彩については、亡くなるまで日本水彩画会展への出品を続けるなど生涯に渡って重要なものだったようです。一方、この頃に発表された文章には「油絵具と水彩絵具それぞれの特性を見極めて生かすべきである」と書いていたそうで、水彩のみを重視するのではなく、より広い視野にたって表現方法を模索する姿勢が見られるようになったそうです。

古賀春江 「女」
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こちらは1924年の作品でアクション展に出品されたもの。これもキュビスム的な雰囲気がありつつ 手が大きくてピカソの新古典主義の時代のような量感があるかな。独特のデフォルメぶりが面白い。

この頃はアンドレ・ロートからも強く影響を受けていたようで、ロート風の作品が残されています。

古賀春江 「ダリアなど」「ダリアなど」
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こちらは1925年の作品で、水彩となっています。大胆なデフォルメとくっきりした輪郭で、キュビスムとフォーヴが混じったような作風に思えます。

古賀春江は北原白秋に憧れていて、白秋の歌集『桐の花』に依りながら寄稿文において油彩画を長篇小説、水彩画を詩歌にたとえ、「三千枚の長篇なら傑作だが十七字の句では弱いと誰が言ひ得る。だから、そういふ意味に於てなら水彩は弱くていゝのだ。弱いのが寧ろその稟性(ひんせい)だ。」と自身の美学を展開したそうです。
瞬時に感性を輝かせて表現することを重要だと考え、一瞬にして観る者の心を捕らえる力を宿さないものは絵として完全ではないと考えた古賀春江にとって、しっくりくるのは水彩だったようです。
 引用元:https://www.artizon.museum/special-features/artists_words/index05.html

古賀春江 「月花」
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こちらは1926年の作品。また画風が一変して、パウル・クレーからの影響が見て取れます。温かみがあって童話の中の世界のように思えるかな。幻想的な方向性としては確実にシュルレアリスムの方向に近づいているようにも思えます。

1926年頃から、写生に基づく表現から空想的な要素を濃くした世界へと画風を転換させていきました。パウル・クレーからの影響がみられる「夢のようなとりとめのない」独自の幻想性あふれる作品を展開し、詩作も増えたそうです。古賀春江は晩年に後にノーベル賞文学賞を受賞する川端康成と親交を結んでいて、死を看取られています。川端康成は古賀春江の絵について「古賀氏の絵に向ふと、私は先ずなにかしら遠いあこがれと、ほのぼのとむなしい拡がりを感じるのである。虚無を超えた肯定である。従つて、これはをさなごことに通ふ、童話じみた絵が多い。単なる童話ではない。をさな心の驚きの鮮麗な夢である。甚だ仏法的である」と言っていたそうで、この絵の特徴がよく表れた言葉ですね。

古賀春江 「海」
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こちらは1929年の代表作。ようやくシュルレアリスムの作風にたどり着きましたw 海をモチーフにして具象的ではあるものの、コラージュしたような構成となっていて工場や潜水艦?は断面図のようになっています。単純化にはキュビスムっぽさもあるかな。どこか海への憧れを感じさせるような光景に思えます。

この「海」で画風を一転させ、雑誌の図版や絵葉書など既成のイメージを引用する作品が作られるようになりました。ヨーロッパのシュルレアリスムを取り入れつつ独自の超現実主義理論を打ち立てて、絵画にも詩にも新しい表現を求めて行きました。

古賀春江 「素朴な月夜」
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こちらも1929年の作品(こっちのほうが先かも)。こちらは先程のクレーっぽさやキュビスム、シュルレアリスムなどを折衷したような画風となっていて、背景にはデ・キリコの形而上絵画のような光景も広がっています。コラージュ的でありながら整合性も感じられ、シュールというよりは郷愁を誘うような優しい雰囲気に思えます。これはこれで素晴らしい画風ですね。

この絵と同じ「素朴な月夜」というタイトルの詩も残っているそうです。そこでは、絵画に描かれたモチーフのほとんどが姿を消し、水の底をさまよい歩く「私」は、いつの間にか、イルカの口のなか、その大きく膨れた腹のなかへと、入っていってしまうのだとか。

古賀春江 「白い貝殻」
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こちらは1932年の作品。空中なのか水中なのかマネキンのような人がポーズを取っているのが幻想的な雰囲気です。マネキンっぽいのはデ・キリコからの影響を受けているようですが、デ・キリコのような不安を覚える感じではなく 夢の中のような朧気な雰囲気に思えます

この絵は東郷青児と似た感じがありますが、2人は1928年に知り合っていて、先程の「海」はその翌年に描かれています。その後も付き合いは続き、東郷青児は「古賀君は理智の機構を好み、冷ややかな哲学の後を追いながら、終生牧歌的な詩情を離れることが出来なかった。 そこに古賀の面白さがある。その矛盾から、死の間際に鮮かに転換した。」と評したそうです。その言葉とおり、古賀春江はシュルレアリスム風になってわずか4年程度(1933年)で亡くなりました。

古賀春江 「ブルドッグ」
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こちらは制作年代不明の作品。写実的なので割と初期の作風じゃないかな?? 手を畳んで寝る様子が可愛らしく、子犬のように見えますね。

古賀春江は15歳の時に野球のボールが当たって右目を失明しています。また、生涯に渡って病気がちで人間嫌いでした(でも女好きw)

古賀春江 「縁側の女」
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こちらも制作年代不明の作品。キュビスムとややクレーっぽさがある時期じゃないかな。背景が暗めで白装束なのでちょっと幽霊的に見えるw 詳細は分かりませんが、これも印象に残る作品です。


ということで、実はシュルレアリスム以前に様々な作風で描いていた画家となります。むしろシュルレアリスムになったのは1929年からで1933年に亡くなっているので時期はかなり短いと言えます。しかしその影響力は強く、日本のシュルレアリスムの先駆けとして今でも知られています。たまに個展も開かれることがありますので、そうした機会があれば改めて観ておきたい画家です。



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《アレクサンドル・ロトチェンコ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、ロシア構成主義のアレクサンドル・ロトチェンコ(アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ロトチェンコ)を取り上げます。ロシア構成主義はピカソのキュビスムやマレーヴィチのシュプレマティスムに影響を受け、ロシア・アヴァンギャルドの一角として前衛的な作品を残しました。中でもロトチェンコは奥さんとなるワルワーラ・ステパーノワと共に学生時代から活動を共にし、絵画だけでなく写真、舞台美術、装飾デザイン、建築など様々なジャンルを手掛けました。ソ連共産党のプロパガンダポスターにも傑作が多かったものの、やがてソ連はロシア・アヴァンギャルドを認めなくなりロシア構成主義も衰退しました。(それでも一部の作家は海外に逃れ、抽象絵画に影響を与えています。)今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。 ※今日は代表作は少なめで、写真作品が中心です。

アレクサンドル・ロトチェンコは1891年にサンクトペテルブルクに生まれ、1909年に父親が亡くなった為にカザンへと移り住みました。その頃からアートに興味を持ったようで1910年にカザン美術学校に入学し、1914年には後に奥さんとなるワルワーラ・ステパーノワ(この人も絵やデザインを手掛けた芸術家です)と出会っています。卒業後はロシア構成主義の中心人物であるウラジミール・タトリンに師事し、ピカソのキュビスムやマレーヴィチのシュプレマティスムに影響を受けた作品を作りました。

アレクサンドル・ロトチェンコ 「非具象彫刻」
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こちらは1918年(1994年再制作)のまるで工業製品の部品のような彫刻作品。ややレトロさも感じますが、直線を組み合わせた構成の美しさがあります。この多面的で幾何学的な所がキュビスムっぽさを感じさせ、さらに単純化している点にシュプレマティスムっぽさを感じます。

1919年にはステパーノワと共にカンディンスキーの家で暮らしたり、1920年には美術館部局内で暮らし芸術文化研究所に勤めるなど、学生時代からずっと2人で一緒に活動をしていたようです。1921年からはロシア構成主義のメンバーとなりました。

アレクサンドル・ロトチェンコ 「レンギス(国立出版社レニングラード支部) あらゆる知についての書籍」 国立出版社レニングラード支部の広告ポスター」のポスター
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こちらは1924年の作品で、口に手を当てて何かを叫んで知る女性の円形の写真と、そこから出てくる台詞のような文字を三角で囲んだデザインになっています。シンプルな形を使いつつも強いメッセージを飛ばしているように見えます。まるで漫画の吹き出しみたいなw 三角の頂点が女性の口になっているのも面白いですね。

この頃からこうしたプロパガンダポスターの制作をしていました。今回は写真が無かったのが残念ですが、ロトチェンコの真骨頂は絵画よりもグラフィックデザインではないかと思います。数多くのポスターを手掛けていて、パンや植物油、おしゃぶり、ロシア航空産業開発会社の株購入にポスターなんてものまであります。

アレクサンドル・ロトチェンコ 「バルコニー(『ミヤスニツカヤの建物』シリーズより)」
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こちらは1925年の作品。生活の中にある幾何学的なモチーフを見つけて撮るという視点にロシア構成主義らしさがあるかな。実景なんだけど、抽象絵画に通じるものがあると言うか。

ロトチェンコの絵は最初、中世的なものや東洋的なものを主題としていたようですが、未来派などの影響で具象から抽象絵画へ向かっていきました。また、当初は色彩に関心を払っていたようですが、やがて色彩を拒否する作風へと変わっていきます。しかし絵画は1920年代初め頃までで、それ以降はプロパガンダポスターなどを主に手掛けています。

アレクサンドル・ロトチェンコ 「非常階段」
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こちらは1925年の作品で、避難梯子に捕まっている人を真下から見上げるように撮っています。その視点のせいか、最初に観た時には線路にでもしがみついているのかと思いましたw 建物や、梯子、梯子の支えなど幾何学的要素が多いのも流石です。

ロトチェンコは人間とは違った視線で写すことのできるカメラに可能性を感じていたようで、ちょっと変わった視点から撮っているのが特徴の1つです。

アレクサンドル・ロトチェンコ 「デモの見物人」
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こちらは1928年の作品。幾何学的に並んだ人を上から見ている人をさらに上から撮る構図となっています。この見下ろす構図というのも1つの特徴かな。単純ながらも日常が非日常に見える光景を切り取るセンスが凄い。

奥さんのワルワーラ・ステパーノワは初期にはイタリアの未来派から影響を受け、やがてプリミティブ(原始・素朴美術)に傾倒していきました。夫婦でだいぶ作風が違うのが面白い。

アレクサンドル・ロトチェンコ 「グラスとライト」
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こちらは1928年の作品で、具象を組み合わせて抽象的な写真を撮ったもの。ロシア・アヴァンギャルドを写真にしたような簡潔さで、構図の妙を感じます。

1923年~28年まで左翼芸術雑誌『レフ』のデザインと挿絵を制作していたようです。バリバリの共産主義者ですね。

アレクサンドル・ロトチェンコ 「階段」
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こちらは1929年の作品。階段の明暗が強く、縞模様のようになっていてデ・キリコの形而上絵画のようなシュールさすら感じます。これも簡単なようで非凡な視点ですよね。

1920年代にはバウハウスで教員を務めたこともありました。バウハウスのミニマルな美意識はロシア構成主義と共通する部分も大きいように思います。

アレクサンドル・ロトチェンコ 「歯車」
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こちらは1929年の作品。何の機械か分かりませんが、無数の歯車が組み合っていて奇妙なリズムを感じます。反復してるのかモンタージュなのか?ってくらい無限に続くように思えるw

ロトチェンコが写真に惹かれたのはダダイストのフォトモンタージュに傾倒したのがきっかけだったようです。ロトチェンコもフォトモンタージュを手掛けたのだとか。

アレクサンドル・ロトチェンコ 「ダイバー」
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こちらは1934年の作品。飛び込む一瞬の反り返る姿が何とも美しい。やや斜めになった構図も躍動感に溢れていて、まさに傑作です。

ロトチェンコは建築物のデザインも行っています。ただ、見るからに実現不可能そうなデザインだったりします。(ビルの上に展望台のある塔が建ち、それにジグザグの鉄筋らしきものが絡み付いているように見えるデザインとか。)

アレクサンドル・ロトチェンコ 「アスリート」
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こちらは1934年の作品。これも整然と並ぶ様子にロトチェンコらしい美意識が感じられます。影も綺麗に一列になって遠近感が強調されているように見えますね。

この年あたりからソ連共産党は「社会主義リアリズム」のみを認めるようになり、ロシア・アヴァンギャルドは弾圧の対象となってしまいました。スターリンは小難しい前衛美術が嫌いでしたからね…。

アレクサンドル・ロトチェンコ 「'ディナモ'スポーツ・クラブ」
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こちらは1935年の作品。これも高い位置から観た整列集合で、途中で曲がっているので人の流れも感じられます。特殊な技法を使わずにこれだけ面白い写真を撮っているのが一層に凄さを感じる所です。

これ以降は再び絵画作品を残したようですが、残念ながら写真はありませんでした。戦後の1956年に65歳で亡くなっています。


ということで、ほとんどが写真作品のご紹介になってしまいましたが実際にはかなり幅広く活動した芸術家となっています。日本では絵画やデザインは観る機会が少ないものの、グラフィックと写真に関しては写美、東近美、横浜美術館などで観る機会があります。最近はロシア・アヴァンギャルドに関する展示も少ないけど、そうした展示では必ず名前が挙がる人物です。
 参考記事:ロトチェンコ+ステパーノワーロシア構成主義のまなざし (東京都庭園美術館)


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《速水御舟》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、大正から昭和初期にかけて活躍した速水御舟を取り上げます。速水御舟は1914年の第1回再興院展に弱冠二十歳で出品し、第4回展では早くも院友に推挙されるなど若くして才能を認められました。40年の短い生涯を通じて1つの様式に囚われず、常に新たな画風を突き詰めては壊すということを繰り返し、「梯子の頂きに上る勇気は尊い。さらにそこから降りてきて再び上り返す勇気を持つものはさらに尊い」という言葉を残しています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


速水御舟は1894年に質屋を営む蒔田良三郎と いと の次男として浅草に生まれ、本名は蒔田栄一という名前です。後に祖母の速水キクの養子になったことで速水姓になり、御舟というのは俵屋宗達の「源氏物語澪標関屋図屏風」の舟から取った後の時代の画号です。幼い頃から絵が好きで、14歳で著名な歴史画家だった松本楓湖に入門、10代の頃には屋外の写生や粉本(絵手本)模写を行い、模写を通じて中国画、琳派、土佐派、狩野派、円山四条派、浮世絵など、数多くの流派を幅広く学びました。また、この画塾で今村紫紅と出会い、紫紅の参加する紅児会に入りました。しかし紅児会が解散すると、今村紫紅が中心に結成された赤曜会で行動を共にしたようで、今村紫紅の「僕は壊すから君たちは建設してくれたまえ」という言葉は速水御舟を大いに刺激したようです。
 参考記事:《今村紫紅》 作者別紹介

速水御舟 「萌芽」
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こちらは1912年の作品で、尼僧がシダや辛夷(こぶし)、泰山木などに囲まれた神秘的な作品。背景と尼僧の色合いの強さのバランスがそう思わせるのかな? 淡く線描を抑えて表現で、写実的でありながら装飾性もあるように思えます。18歳でこの才能はヤバいw

この2年後の1914年に「御舟」へと改号し、第1回再興院展に「近村(紙すき場)」を出品して日本美術院院友となっています。また、1914~1916年にかけての画風が極端な縦長の画面にリズム感のある筆触で、鮮やかな色調となっていて、今村紫紅の南画風の画風から影響を受けています。しかし今村紫紅は1916年に亡くなってしまいました。

速水御舟 「風景素描(林丘寺塀外の道・雲母坂)」
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こちらは1918年の作品。雲母坂は京都の修学院離宮から比叡山の山頂に至る古道のことで、ここではコンテを使って描いています。日本画家がコンテってのは珍しいように思えますが、今村紫紅も印象派などの洋画も研究していたのでその影響かも知れません。鬱蒼とした雰囲気を感じますね。

この1年前の1917年には第4回再興院展に「洛外六題」を出品し、横山大観や下村観山の激賞を受けて日本美術院同人となりました。

速水御舟 「浅春」
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こちらも1918年の作品。下の方に木を見上げながら杯を持っている人とかいるからお花見なのかな? のんびりとして春の訪れを感じさせます。全体的に南画っぽい画風でリズムがあるのは前述の特徴がまだ残っているのかも。

この翌年の1919年に浅草の市電の線路に下駄を挟んでしまい、轢かれて左足を切断する大怪我を追っています。それ以降は義足となったわけですが、画業の意欲には全く影響が無かったのだとか。

速水御舟 「京の舞妓」
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こちらは1920年の作品。一気に画風が変わって写実的になっていて、特に顔が不気味なほどリアルw それでも着物なんかは装飾的で琳派っぽい優美さがあるかな。この絵が発表された時、その細密さが賛否両論となって、横山大観は「悪写実」と酷評して院展から速水御舟を除名しようと主張したのだとか。(とは言え、横山大観は速水御舟を高く評価していて、後に亡くなった際には日本の損失とまで言ってます) まあ私もこの方向性はちょっと好みじゃないですw

速水御舟はこの「京の舞妓」以降、徹底した写実に向かっていき日本画の絵の具で油彩画的な質感表現に迫ろうとしました。この頃は洋画家の岸田劉生と中国の宋代院体画(写実・精密な特徴を持つ)についてよく話していたらしく、こうした細密画を描いていたようです。その結果、厳密な自然観察に基づき精緻に描く宋代院体花鳥画を意識した境地に辿りつきました。
 参考記事:《岸田劉生》 作者別紹介

速水御舟 「門(名主の家)」
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こちらは1924年の作品。写実的でありながら柔らかい雰囲気があって これはかなり好みw 幾何学的な形が多いのもモダンな印象を受けます。

友人の小茂田青樹は速水御舟と同様に院体画に関心を寄せていたらしく、速水御舟に対して君の絵は理想化しすぎると批判し、「桜の爛漫とした趣のみを描くが、実際はもっと汚くて垢がある」と言って真を見つめる姿勢を問いただしたそうです。速水御舟はその言葉を後々まで大切に受け止めていたらしく、小茂田青樹も御舟にとって重要な存在だったことが伺えるエピソードです。

速水御舟 「ひよこ」
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こちらは1924年の作品。ふわふわしていてちょっとトボけた顔をしているのが面白い。口にミミズのようなものを咥えているのも生き生きしていて単なる写実を越えているように思えます。

1921年には友人であり援助者でもあった資産家の吉田幸三郎の妹と結婚しています。

速水御舟 「麦」
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こちらは1925年の作品。縦長の画面の麦畑の中、鳥が身を隠しているのがわかります。画面の上半分が空白だったり リズミカルな配置になっていて構図に面白さを感じます。

ちなみに1923年の関東大震災で、初期の作品の多くが失われてしまったようです。しかし逞しいことに震災直後の街の様子を描いた作品なども残っています。

速水御舟 「炎舞」のポスター
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こちらは1925年の速水御舟の代表作です。炎の周りを蛾が舞っている様子を描いたもので、炎はまるで仏画や不動明王の光背の炎を思わせる装飾性があり、螺旋を描くように舞い上がっています。一方、蛾はみんな正面向きで舞っていて神秘的な光景です。この頃、速水御舟は軽井沢に3ヶ月間滞在し 毎晩 焚き火をして群がる蛾を観察していたそうです。西洋画のルドンにも蝶を描いた幻想的な作品がありますが、この作品はそれに勝るとも劣らない象徴姓を感じる大傑作だと思います。日本の伝統も組み込んでいるし、観れば観るほど素晴らしい作品です。

速水御舟の現存作品は600点ほどだそうで、この代表作を含めて約120点が山種美術館の所蔵品となっています。

速水御舟 「写生図巻 [蛾・蝶・蜂・蝉 etc.]」
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こちらは1925年の作品。「炎舞」に通じる蛾や蝶が描かれていて、非常に精密な描写となっています。

図巻の続き
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色鮮やかで、丹念に観察しているのも伺えます。

蝶だけでなく他の昆虫も描かれています。
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トンボの羽が透ける感じなどもよく表現されていて見事です。

この翌年の1926年の第1回聖徳太子奉讃美術展覧会には「昆虫二題 葉蔭魔手・粧蛾舞戯」を出品しています。先程の「炎舞」と合わせてこうした写生が活かされているんでしょうね。

速水御舟 「写生図巻 [鰈・沙魚・鱚 etc]」
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こちらも1925年の作品。魚の写生となっていて、これはハゼの部分です。様々な動きを表現していて軽やかな印象を受けます。

速水御舟 「写生図巻 [寒鳩寒雀]」
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こちらは1927年の作品。ここでは鳩と雀を写生しています。こちらも本質を捉えて細密な描写ですね。

こうして細密な写生に傾倒していた訳ですが、この頃がピークでその後は細密描写から離れ、琳派の装飾構成へ志向を強めていきました。速水御舟は生涯を通じて琳派を意識していたようで、先述の通り画号の由来にもしているほどです。

速水御舟 「京の家」
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こちらは1927年の作品。一気に単純化していて、色面を使った表現となっています。赤の壁と黄色の壁が対比的だけど、淡い色のせいか ぶつかるような激しさは感じませんね。

速水御舟 「奈良の家」
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こちらも1927年の作品。こちらは白い壁が映えるかな。幾何学的な構図となっていてキュビスムのような西洋美術的なものを感じます。

速水御舟は「構成は事実を土台とすべきである。事実を度外視したすべての構成は無力に近い」と語っていたようで、これまで同様に観察による事実はもとになっているものの、細密描写でなく大胆な色面による構成を意図してモティーフは平面的な形態に単純化されていきました。

速水御舟 「翠苔緑芝」
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こちらは1928年で4曲1双の金地の屏風となっています。右隻は金地にビワ、ツツジ、緑の苔などが描かれ、苔の上に猫が転がっています。左隻は芝の上で寝転ぶウザギとアジサイが描かれていて、どちらも琳派のような装飾的な雰囲気があります。この作品は御舟にとっても自信作だったようで、屈指の名作じゃないかと思います。

注目はこの紫陽花の花で、ひび割れの表現に工夫があります。
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ひび割れを作るために胡粉を焼いたりしています。そのおかげで紫陽花の雰囲気がよく出ているように思います。

こちらは紫陽花の近くのウサギのアップ
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金地・緑に白が映えます。赤目もアクセントになっているように思えますね。

こちらは黒猫のアップ。
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視線の先には何があるのかな? 毛並みのふわっとした感じが可愛い。この絵には下図も残されていて、右隻には白猫と黒猫と朝顔が描かれているなど本図までに推敲したことが伺えます。

この2年後の1930年にはローマ日本美術展覧会の為に横山大観らと共にイタリアに2ヶ月以上滞在し、さらにギリシャ、フランス、スペイン、イギリス、ドイツ、エジプトなどを10ヶ月間かけて歴訪しました。特にエル・グレコに興味を持っていたようで、スペインでエル・グレコの絵を見るのが大きな目的の1つだったようです。そして帰国すると日本画家のデッサン力不足を痛感し、モデルを使った裸婦デッサンを頻繁に行ったり、人体解剖の講義を聞きに行って人物画に意欲的に取り込んでいきます。1931年以降は毎回 人物画を出品していました。

速水御舟 「夜梅」
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こちらは1930年の作品。暗闇に白い花が浮かび上がるような表現で、神秘的な雰囲気となっています。また写実的な要素もありつつ初春の情感溢れる光景ですね。

速水御舟は渡欧で人物画に挑戦する一方で花鳥画の佳作も制作していました。しかし、自分の絵に批判的だったようで、「世間が褒めてくれる絵を描くのは簡単だけども、これからは売れない絵を描くから覚悟しておいてくれ」と言う言葉を奥さんに語っています。

速水御舟 「暁に開く花」
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こちらは晩年の1934年の作品。朝顔が描かれていて、やはり写実的でありつつ画題的にも琳派っぽい要素も感じます。地を這うように描かれているのがちょっと気になる…。

晩年は紙と絵の具の性質に対する心構えの必要性を重視していたようです。安田靫彦には「白芙蓉」という作品について「この曲線はまたと引けない天来の線」とまで賞賛され、写生を越えた新たな境地を示しました。また、親友の小山大月と共に伊豆に隠棲して制作に没頭する計画を建てていたようですが、1935年に40歳の若さで急逝して叶いませんでした。

ということで、1つの画風を極めてはまた崩して新しい画風に挑んでいたのが速水御舟の大きな特徴と言えそうです。その為、時期によってだいぶ異なる印象を受けますが、いずれも高いクオリティで人気の画家となっています。先述の通り山種美術館が多くの傑作を所有していて、定期的に展示も行いますので機会があったら是非観て欲しい画家です。

 参考記事:
  生誕125年記念 速水御舟 (山種美術館)
  再興院展100年記念 速水御舟-日本美術院の精鋭たち-(山種美術館)
  速水御舟展 -日本画への挑戦- (山種美術館)


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《ジョルジョ・デ・キリコ》 作者別紹介

今日は写真多めの作者別紹介で、シュルレアリスムに大きな影響を与えたジョルジョ・デ・キリコを取り上げます。ジョルジョ・デ・キリコは「形而上絵画」と呼んだ具象的でありつつ辻褄が合わない不思議な画風で、詩人のアポリネールやアンドレ・ブルトンに高く評価されました。そして1920年代からのシュルレアリスムの先駆けとなったわけですが、デ・キリコの全盛期は第一次世界大戦の終戦直後の1919年頃までで、それ以降は古典へと回帰します。この回帰はシュルレアリストから批判され、さらに過去の自分の作品を模写して年代を書き換えるという行動をとり、贋作騒動なども起こしています(自分の作品なのに…) 晩年は自己模倣的な形而上絵画を制作し、過去の自分の評価を超えることができず苦悩しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


ジョルジュ・デ・キリコは1888年にイタリア人の両親のもとギリシャで生まれ、12歳の時にアテネで美術を学び、18歳頃にドイツに移って青年期はミュンヘンの美術学校で過ごしました。ドイツではニーチェなどのドイツ哲学、アーノルド・ベックリンなどの画家の影響を受けています。1909~11年頃(21~23歳)にイタリアを訪れてトリノで建築物の「形而上学」に関心を深め、その前後に初期の形而上絵画を制作しています。1911年にパリに出ると、写実的でありながら現実離れした神秘的雰囲気の作品を発表し、1913年にアポリネールやピカソら洗濯船のメンバーに注目されました。アポリネールを通じてポール・ギヨームと契約し、この頃から第一次世界大戦終戦頃まで「形而上絵画」の全盛期となります。

ジョルジョ・デ・キリコ 「ギョーム・アポリネールの予兆的肖像」
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こちらは1914年の作品。サングラスをした石膏像(ギリシャ神話のオルフェウス)、浮かんでいる柱のようなもの、背景には人影が描かれています。この作品はシュルレアリスムの名付け親である詩人のアポリネールに贈られたそうで、画面奥の影はアポリネールで、その頭に半円が描かれているのですが、後にアポリネールが頭を負傷し、この絵がそれを予言していたとされました。デ・キリコ独特の形而上絵画らしい現実感を超えた作品です。

「形而上絵画」というのはこの後の1917年にカルロ・カッラと出会った際に生まれた言葉で、誇張された遠近感や強い明暗などによって具象的でありながら非現実感のある画風となります。象徴主義に惹かれていたデ・キリコは、目に見えない本質を「形而上」とし、形而上派はイタリアの過去の絵画を再評価し、その彩色技術・遠近法・明暗法・主題や図像を現代的な感覚で再制作しています。不自然な取り合わせなども特徴で、アンドレ・ブルトンらシュルレアリストに大きな影響を与えました。しかしその後デ・キリコは形而上絵画から離れて古典的な画風を描くようになり、ブルトンたちからは否定的な評価を受けます。それで憤慨したのか、1940年代頃から過去の作品の模写を始めていきました。

残念ながら全盛期の作品はこれしか写真を持っていませんでした…。ここから先はあまり評価の高くない古典回帰、自己模倣、再作成などの作品となります。それでも往年の雰囲気が感じられるものもあるので、私は結構好きです(ここから先はすべてパリ市立近代美術館のコレクションです) 点数も多いのでここからは簡単な感想となります。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Isa et George」
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こちらは年代不明ですが恐らく1940年前後の作品。Isaはデ・キリコの奥さんのイサベラのことで、夫婦の肖像です。先程の1910年代とだいぶ画風が違うのが一目瞭然だと思います。やけにテカってるというか…w

デ・キリコは自画像をよく残しています。一時期はシュルレアリストに歓迎されたものの、この頃には既に評価されていなかったようで形而上絵画の時代ばかり評価されることに怒っていました。それを否定してお金にしようということで自己模倣したのでは?という説もあります。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Idillio antico」
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こちらは1970年の作品ですが1942年の模写かな? タイトルは日本では「古代的な純愛の詩」で、イタリアを思わせる建物や無関係な品々が置かれていますね。極端な遠近感や明暗が強く、形而上絵画の特徴となっています。観ていて不思議でちょっと不安を感じますね。

形而上絵画の仲間の中には弟のアルベルト・サヴィニオもいました。サヴィニオはバレエ音楽の作曲家としてのペンネームで本名はアンドレア・デ・キリコという名前です。絵も描いていて、オルフェウスと妻のエウリュディケが描かれた作品を観たことがあります。独特のざらついたマチエールで古代神話を自分自身と重ねて表す手法を使っていました。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Natura morta nel paesaggio campestre」
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こちらは1943年の作品ですが、verと入っているので本当の制作年代は不明です。日本語にすると「田園風景の中の静物」で、古典回帰の傾向が観られます。非難されるほど悪い絵とは思いませんが、この画風は受けが良くありませんでした。ちょっと濃ゆいと言うか…w 風景の中に静物ってのもシュールさがあるように思えます。

デ・キリコは実際の製作年よりだいぶ前の年代をサインすることがあり、自己模倣もしたので制作年代がよく分からない作品が結構あります。しかも自分の作品を贋作と言ったりして支離滅裂な所があります(漫画ギャラリーフェイクでもネタになってましたw)

ジョルジョ・デ・キリコ 「Composizione metafisica con testa di Giove」
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こちらは1970年の作品ですが、1947年の模写かな。日本語タイトルは「ユピテルの頭部のある形而上的構図」ということで、形而上絵画の模作です。ユピテルやサンダル、背景にある赤い塔もよく出てくるモチーフで、神話的な雰囲気があります。こうした作風はシュルレアリスムと共通していて、デルヴォーなどはデ・キリコに大きく影響を受けているように思えます。

この路線で頑張れば良かったのに、否定した挙げ句に戻って来たのは葛藤の果てなんでしょうね。

ジョルジョ・デ・キリコ 「吟遊詩人」
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こちらは1948年の作品。ブリヂストン美術館で見慣れているので、これが形而上絵画の典型のように思えるw マネキンや単純化された建物、だだっ広い背景などデ・キリコの特徴がよく出ています。

今回は見つかりませんが、こうした風景に汽車などが描かれることもあります。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Cavallo e zebra」
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こちらは1948年の作品で日本語だと「馬とシマウマ」です。神話風の風景を背景にしているのはちょっとシュールだったりするけど、あまり馬が上手くないw この頃はまだチャレンジしている感じはするかな。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Due cavalli con sfondo marino」
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こちらは年代不明ですが、先程の作品とよく似ています。タイトルは「海岸の2頭の馬」で、3頭おるやん!ってツッコミたくなるw 白黒が反転したような馬は神秘的な感じで、背景と共に超現実感はありますね。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Autoritratto」
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こちらは1949年の自画像。かなり濃密に描かれていて、古典の写実を思わせます。この頃は「ネオ・バロックの時代」と呼んでいて、バロック絵画からの影響を受けているようです。温故知新で新しいものを作ろうと考えていたのでしょうか…。この頃には抽象絵画などもある時代なので、評価されなかったのも致し方ない感じはします。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Interno metafisica con paesaggio, villa con fontana」
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こちらは1955年の作品で、日本語にすると「噴水と邸宅の風景のある形而上的室内」となります。再び形而上絵画を描くようになり、画中画も含めて不思議な奥行きとなっています。幾何学的なのはちょっとキュビスムを思わせるかも。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Notre Dame」
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こちらは1962年の作品で、パリのノートルダム寺院を描いています。これも濃密でやや重苦しく生々しい雰囲気がするかな。私はこの画風も結構好きですが。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Mobile nella valle」
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こちらは1966年の作品で、日本語にすると「谷間の移動」かな。唐突に置かれる家具やサンダル、神殿の柱など奇妙な取り合わせが面白い。なんだかんだで最初にこういう絵を描いた功績は大きいですよね。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Interno metafisico con biscotti」
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こちらは1968年の作品で、日本語タイトルは「ビスケットのある形而上的室内」です。確かにビスケットが貼り付けられ、沢山の定規なども組み合わされています。背景の消失点がちぐはぐだったりするのも形而上絵画の特徴の1つかな。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Riposo del gladiatore」
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こちらは1968年~69年頃の作品で、日本語にすると「グラディエーターの休息」です。モチーフや構成は形而上絵画っぽいけど、手前の人の描写は古典回帰の傾向が感じられます。折衷したような様式も面白いと思うんですけどね。

デ・キリコに影響を受けたシュルレアリスムは人体とその変容に関心があったそうで、シュルレアリスムにも実在人物をモデルにした肖像画はあるものの、彫像に近いオブジェ感を漂わせていて、デ・キリコのマヌカン(人体模型)のような個性を持たない人物像が出発点となりました。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Ritorno d'Ebdomeros」
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こちらは1969年の作品ですがversがついているので元々の制作年代は不明です。日本語にすると「エブドメロスの帰還」で、エブドメロスというのはデ・キリコが書いた小説です。何だか夢の中の世界のようで、後発のシュルレアリスムの絵画のように思えます。神殿のような雰囲気もあり、ちょっと怖いような不思議な世界ですね。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Cavallo impennato」
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こちらは1970年の作品で、日本語にすると「舞い上がる馬」です。馬は何度も出てくるモチーフですが、競馬好きの私から観るとちょっと不自然に見えますw 足と体のバランスが妙というか…。躍動感は感じられますね。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Le maschere」
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こちらも1970年の作品で、日本語にすると「仮面」です。マネキンのような人物も頻出のモチーフで、やや不気味ながら何かの物語性を感じさせます。シュルレアリストのマグリットも人物に見立てたマケットをよく描いていて、デ・キリコからの影響が伺えますね。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Offerta a Giove」
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こちらは1971年の作品で、日本語タイトルは「ユピテルへの奉納」です。山の上にいるのがユピテルで、マネキンがマネキンの子を差し出しているように見えます。いずれもよく出てくるモチーフで、物語のいち場面のような構成となっています。マネキンの無機質さと神話っぽさのミスマッチが怖くて面白い

ジョルジョ・デ・キリコ 「Guerrieri di Maratona」
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こちらも1971年の作品で、日本語タイトルは「マラトンの戦士たち」です。兜をかぶった戦士と建物やドアが混ざりあったような奇妙な姿で、ちょっとキュビスム的な多面性もあるように思えます。海も頻出のモチーフですね

ジョルジョ・デ・キリコ 「Tiempo del sole」
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こちらは1971年の作品で、日本語タイトルは「太陽の寺院」です。手前に太陽が反転したような影があり、コンセントみたいなものもあります。まるで照明のような感じで、地平線で対になってるのが面白い。

この頃、この太陽がお気に入りだったようで、先程の「ユピテルへの奉納」でも似たようなものが描かれています。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Piazza d'italia con sole spento」
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こちらも1971年の作品で、日本語タイトルは「燃えつきた太陽のあるイタリア広場、神秘的な広場」です。さっきの作品とそっくりw 同じアイディアや同じ作品を何枚も量産したので、有り難みが薄くなってしまっているようにも思えます。

自己模倣やコピーを繰り返すのはアンディ・ウォーホルに通じる…と考える人もいるようです。しかし意味の希釈化や大量消費と結びつけて定義付けした訳じゃないので、そうした評価はかなり好意的な捉え方じゃないかな。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Bagni misteriosi, arrivo dalla passeggiata」
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こちらは1971年の作品で、日本語タイトルは「神秘的な水浴場、散策からの到着」です。これも先程の「Ritorno d'Ebdomeros(エブドメロスの帰還)」とそっくりなのがわかると思います。建物の下だったのが外に出た感じw

ジョルジョ・デ・キリコ 「Il ritorno di Ulisse」
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こちらは1973年の作品で、日本語タイトルは「オデュッセウスの帰還」です。部屋の中に膿が広がりオデュッセウスが舟に乗るという不思議な光景で、シュルレアリスムそのものに思えます。窓の外にも海が広がり奥行きも妙なのが逆に印象的です。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Antigone consolatrice」
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こちらは1973年の作品で、日本語タイトルは「慰めのアンティゴネ」です。アンティゴネはオイディプス王の娘で 悲劇の物語の名前でもありますが、ここではマネキンとなっています。青空を背景に建物より大きく描かれていて、超然とした雰囲気を感じます。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Bagni misteriosi con anatra」
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こちらは1973年の作品で、日本語タイトルは「鴨のいる神秘的な水浴場」となります。ちょっと不思議だけど、こういう露天風呂ありそうw どこか宇宙船のような感じもありますね。

ジョルジョ・デ・キリコ 「La mano di Giove e le nove Muse」
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こちらは1975年の作品で、日本語タイトルは「ユピテルの手と9人のミューズたち」となります。ミューズはユピテルとムネモシュネーの間に生まれた9柱の美の女神たちのことで、美術館のミュージアムは彼女たちに由来します。空に出し抜けに現れる巨大な手の威圧感が凄いw 神話をモチーフにしつつシュールな絵となっているのは流石です。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Testa di animale misterioso」
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こちらは1975年の作品で、日本語タイトルは「神秘的な動物の頭部」となります。迷宮に住むミノタウロスがモチーフと思われ、顔と体が迷宮でできています。ミノタウロスはシュルレアリストやピカソが好んだ主題で、野蛮性や変身、無意識などを表しています。ダブルイメージになっていて街にも牛にも見えますね。

ここからは制作年代が不明の作品となります。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Natura morta con pomodoretti rossi」
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こちらは恐らくネオ・バロックの頃の作品で、日本語タイトルは「赤いトマトのある風景」です。濃い赤が目を引き、ツヤツヤして異様な存在感があります。形而上絵画とは明らかに方向性が違いますね。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Nudo Seduto con drappo rosa e giallo」
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こちらも恐らくネオ・バロックの頃で、日本語タイトルは「赤と黄色の布をつけた座る裸婦」です。これは落ち着いた色彩で魅力的な女性像となっています。背景が海なのは形而上絵画の時代と同じというのが面白い。古典回帰はルーベンスなどに影響を受けたと言われていますが、あまりそれは感じないかな。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Testa di cavallo bianco」
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こちらも恐らくネオ・バロックの頃で、日本語タイトルは「白馬の頭部」となります。とにかく濃い!w 濃密過ぎてちょっと不穏に感じられるくらいです。この頃は馬をよく描いていますが、これが最も気合が入った作品に思えます。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Piazza d'italia con statua」
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こちらは恐らく形而上絵画に戻った頃の作品で、日本語タイトルは「彫像のあるイタリア広場」となります。割と初期の雰囲気があり、様々な要素をそぎ落として平面的にした結果、夢の中のような光景となっているように思えます。赤い塔や彫像もよく出てきますね。

デ・キリコは絵画だけでなく立体作品も作っていました。いずれも年代不明となります。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Il consolatore」
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こちらは形而上絵画に出てくるマネキンを彫刻にしたような作品。神話風の衣装を着ていて、先程の「Antigone consolatrice(慰めのアンティゴネ)」によく似ています。立体になると遠近感の破綻などはないけど、マネキン自体にシュールさを感じます。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Manichini coloniali」
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こちらの日本語タイトルは「植民地のマネキン」となります。これも先程の作品と似てるかな。異国風の服を着ているのが植民地ってことでしょうか。

ジョルジョ・デ・キリコ 「Il Minotauro pentito」
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こちらの日本語タイトルは「後悔するミノタウロス」となります。神殿を背景に佇むミノタウロスですが、意外とスリムで知的な雰囲気かもw


ということで、今日は質より量となった感じではありますがデ・キリコの迷走ぶりも分かるのではないかと思います。知名度の割には個展は10年単位に1度くらいとなっていて、日本で観る機会は稀です。しかしシュルレアリスムに影響を与えたのは紛れもない実績なので、シュルレアリスム好きの方は知っておきたい画家だと思います




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《佐伯祐三》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、日本におけるフォーヴィスムの画家の佐伯祐三を取り上げます。佐伯祐三は当初は穏健な画風でしたが、ヴラマンクに「アカデミック」と酷評されたことで自信を失い、自身の画風を模索していきました。病弱で東京美術学校卒業から僅か5年程度の活動で亡くなったものの、現在の独立展に繋がる「1930年協会」の設立やフォーヴィスムの受容など大きな功績を残しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


佐伯祐三は1898年に大阪の光徳寺というお寺の次男といて生まれました。子供の頃は野球や水泳、ヴァイオリンなどに興味を持っていたようですが1915年の17歳頃から油彩を描くようになり、赤松麟作の洋画塾で学びました。父からは医者になることを期待されていたものの、画家を志望するようになり1917年に上京して川端画学校で藤島武二の指導を受け、その秋には岡田三郎助の本郷洋画研究所に学んでいます。さらに1918年(20歳)で東京美術学校 西洋画科予備科に入学し、やがて本科に進級して長原孝太郎にデッサンを学びました。

佐伯祐三 「自画像」
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こちらは1915年の作品で、油彩を描き始めたばかりの17歳の頃に描かれたものです。全体的にひび割れてしまってるので分かりづらいけど、茶色を貴重としてこちらをチラッと観る構図となっています。後の画風とはかなり異なりますが最初期の作品として貴重ですね。ちなみに東京美術学校を卒業する際(1923年)にも自画像を残していて、赤茶色の髪に口髭をたくわえチラッとこちらを見るという今の時代の感覚でも結構なイケメンの姿となっています。その自画像でも後の佐伯の画風とだいぶ違っていてちょっとルノワール風な穏やかな雰囲気になっています。いずれにせよ この頃はまだ自信家のような雰囲気があるんですけどね…。

在学中の1921年に結婚し、現在の新宿区中落合に住みました。1920年代の目白・落合一体は東京郊外として整備が進められ、モダンな邸宅の並ぶ目白文化村やアビラ村と名付けられた住宅街がありました。この辺には満谷国四郎、金山平三といったヨーロッパ帰りの画家や音楽家も集まっていたようです。
そして1923年に東京美術学校を卒業すると、その年の11月には妻子を連れてパリへと旅立ち、1924年3月にはパリ郊外のクラマールに住み始めました。

佐伯祐三 「門と広告」
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こちらは1925年の作品。非常に重厚感のある門が独特のマチエールで描かれ、広告の文字が勢いを感じさせます。佐伯は広告をよくモチーフにしていて、この作品にはその特徴がよく出ているように思えます。
温厚な雰囲気の作風だったのがパリで激変してこうした どっしりとした色彩へと変化しています。

作風が変化したのは1924年に画家仲間の里見勝蔵と共にパリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズに住むフォーヴィスムの巨匠のモーリス・ド・ヴラマンクを訪ねたことが原因で、持参した自信作の「裸婦」を見せたところ「アカデミック!」と批判され、個性のない つまらない絵という酷評を受けました。ヴラマンクは大柄な人物で、罵倒される佐伯は相当怖かったと思われます。そのショックで「立てる自画像」では自分の顔の部分をパレットナイフで削り取るなど、相当に自信を喪失したようです。そして芸術家として己の向かう道を模索するようになりました。

佐伯祐三 「アントレ ド リュード シャトー」
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こちらは1925年の作品で、パリに到着した当時に住んでいた一角を描いた作品です。セザンヌやヴラマンクに学んだ画面構成・形態把握となっているようで、壁の質感などはユトリロからの影響もあるようです。しかし色彩の重厚さは独自のものに思えるかな。ここでも看板の文字などが佐伯っぽさを感じさせます。

ヴラマンクにフルボッコにされて凹んでいた佐伯ですが、その翌日には同じオーヴェルのゴッホ終焉の地を巡っていてガシェ医師の家も訪れています。繊細なのかタフなのかよく分からないエピソードではありますが、ゴッホやフォーヴィスムを吸収することで強い色彩と粗削りな筆致を得て行きました。9月にはサロン・ドートンヌに入選しています。

佐伯祐三 「パリ雪渓」
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こちらも1925年の作品。寂しげで雪が土混じりになっているのが大胆な筆致で表現されています。曇天でやや歪んだような手前の建物が閉塞感を出しているように思えます。こうした雪景色はヴラマンクも得意とした画題だけど、人や建物の表現にはユトリロに通じるものがあるかな。

1925年には兄もフランスに来て佐伯祐三と会っています。その際、病弱な祐三を心配した母の意向を伝えて帰国を促し、1926年の1月に帰国することになりました。帰国の際にイタリア各地も訪れています。

佐伯祐三 「滞船」
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こちらは1926年の作品で、帰国後に故郷 大阪の安治川や尻無川へ出かけて滞船を描いた連作の1枚です。やや重苦しいほどの色ですが素早い筆致で描かれ、船体の白い線が目を引きます。嵐でも来そうな予感ですね。1926年には下落合などゆかりの地でも制作していました。

この1926年に東京府美術館で行われた第13回二科展で佐伯の滞欧時の作品19点が特別陳列され、当時の日本の画壇を震撼させ興奮を巻き起こしました。また、その4ヶ月前には1920年代前半をパリで過ごした画家、木下孝則、小島善太郎、里見勝蔵、前田寛治と共に5人で「1930年協会」を設立しています。1926年に結成なのに1930年協会なの?とツッコミを入れたくなりますが、これはバルビゾン派のコロー、Tルソー、ミレーらが結成した「1830年派」に由来し、1930年には立派な新運動を完成させようという意気込みが込められていた名前です。最初の展覧会では5名の169点が展示され、留学の成果の発表というニュアンスが強めだったようですが評判となり、賛同した新たなメンバーも増えて すぐに大きな団体となりました。その後は弱体化や再生、分裂などを経て現在でも「独立展」として続いています。
 参考記事:昭和の洋画を切り拓いた若き情熱1930年協会から独立へ (八王子市夢美術館)

佐伯祐三 「リュクサンブール公園」の看板
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こちらは1927年の作品で再渡仏した際のものです。背の高い木々が並び青空も見えて爽やかな光景です。人々も行き交っていて活気を感じます。再びのパリに心踊らせていたんじゃないか?と思えるくらい明るい雰囲気ですね。

この1927年の7月に日本を出発し、8月末に再びパリに到着しています。10月からはモンパルナスにアトリエを設けています。

佐伯祐三 「ガス灯と広告」
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こちらは1927年の作品。佐伯の代名詞的な広告が並び、雑多さと流麗さの両面が感じられます。壁の質感は特に見事で、うらぶれたパリの街角の雰囲気が伝わってきます。佐伯の作品でも特に好きな1枚です。

モンパルナスのアトリエには荻須高徳や山口長男なども訪ねてきています。特に荻須高徳は佐伯と似た画風で、やはりヴラマンクやユトリロに影響を受けて街並みを描いた作品を多く残しています。

佐伯祐三 「テラスの広告」
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こちらも1927年の作品。アトリエの近くの、ポール・ロワイヤル通り周辺のカフェを描いていて赤や緑の看板が目に鮮やかです。椅子・衝立の曲線や文字が勢いを感じさせ、誰もいないのに生き生きとした雰囲気となっています。この作品は1929年の第4回一九三〇年協会展の特別陳列に出品されたそうで、佐伯の代表作と言えそうです。

この年の第20回サロン・ドートンヌに「広告のある家」と「カフェ・レストラン」が入選しています。また、ポール・ロワイヤル通りの「カフェ・レストラン」の連作などを手掛けました。

佐伯祐三 「モランの寺」
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こちらは最晩年の1928年の作品。恐らく荻須高徳、山口長男、横手貞美、大橋了介と共にヴィリエ=シュル=モランに写生旅行に行った時に見た寺院を描いたものだと思われます。やや歪んでいるものの、くすんだ色彩とどっしりとした風格が感じられ、質感も豊かです。寂しげながらも力強いようにも見えます。佐伯の作品は良い絵ばかりですね。

2月に写生旅行に行った後の3月に雨天で風邪をひき、持病の結核の病状が悪化していきました。6月には自殺未遂を起こして精神病院に入院し、8月に30歳の若さで衰弱死しました。


ということで、特に街角を描いた作品が魅力的です。個展はしばらく見てない(2008年のそごう美術館の展示を覚えてるくらいかな?)けど、私は特に好きな画家の1人なので、観られる機会があったら是非じっくりと観て頂きたい画家です。


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《ヴァシリー・カンディンスキー》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、ロシア出身で抽象絵画の創始者の1人とされるヴァシリー・カンディンスキー (ワシリー・カンディンスキー)を取り上げます。カンディンスキーはモネの「積み藁」を観て抽象絵画に通じる理論を見出し、前衛芸術集団の「青騎士」を結成して色鮮やかな画風でそれを実践しました。一時期はソ連に帰り教育などに携わっていましたが、1920年代にはドイツのバウハウスで教職に就きながら幾何学的かつ音楽的な抽象画を制作していきました。晩年はナチスの「退廃芸術」迫害によって不遇を囲ったものの、現在では名誉を回復し絵画史における重要な画家となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


カンディンスキーは1866年に生まれ、故郷のオデッサの美術大学に進んだものの、1886年から1892年までモスクワ大学で法律と経済を学んでタルトゥ大学で教授職に就いていました。しかし美術の道を再び目指し、職を捨てて1896年にモスクワからドイツのミュンヘンに出ていきました。その頃のミュンヘンではフランツ・フォン・レンバッハが絶大な影響力を持っていて、それに対抗したのが「ミュンヘン分離派」です。カンディンスキーはそのメンバーのフランツ・フォン・シュトゥックに師事して絵を学んで行きます。しかしアカデミックな修行に飽き足らず、仲間と共に「ファーランクス」という芸術家集団を結成しました。ファーランクスは美術学校も設立し、カンディンスキーはそこで絵を教えていました。その生徒の中には、後の妻になるガブリエーレ・ミュンターも入学してきて、次第に緊密な関係となっていったようです。しかし、カンディンスキーはその時点で既婚者で、宗教上 離婚できないという状況でした。そんな追い詰められたカンディンスキーがとった行動はミュンターと一緒に長い旅に出ることでした。(要するに不倫の逃避行ですねw) オランダ、チュニジア、イタリア、フランス、ドイツと巡り、各地で制作していたようです。

ヴァシリー・カンディンスキー 「商人たちの到着」の複製コピー
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こちらは1905年の作品。まだこの頃は具象的な絵を描いていますが既に簡略化や点描・色面のような表現となっています。一方で素朴な雰囲気も感じられるかな。この頃にはカンディンスキーは絵は単に美しい風景や人物を描くものとは別のものではないかと考えていたようで、どちらかというと色彩に対する考えを表現するためにこうした風景を選んだようです。色彩について本人は「黒にくらべれば、他のどんな色も、最も弱い響きしかもっていない色でさえも、ずっと強く、はるかに明確な響きをもっている」と言って下地に黒を使ったのだとか。

この頃カンディンスキーはテンペラやグアッシュで作品を制作し、様々な大きさの色の斑点で描かれた「彩色ドローイング」と呼ばれる作品を残しています。また、カンディンスキーとミュンターは長い旅行の後、ミュンヘンから70kmくらいのところにある湖畔の町「ムルナウ」を見つけ、そこを旧知のヤウレンスキーとマリアンネ・フォン・ヴェレフキン(この2人もカップル)に教えました。その後、夏に4人でそこに滞在したことでカンディンスキーの作風は大きく変わっていきます。(ペインティングナイフから絵筆に持ち替え、強い構築性が出ました) そして、1909年になると「ミュンヘン新芸術家協会」を結成し、カンディンスキーが会長となります。この団体は内的必然性に基づく真の芸術的綜合を提示したそうですが、最初の展覧会では酷評を受けたようです。しかし、その展示を観にきたフランツ・マルクは大きな感銘を受け、1911年に協会に加入し、後の青騎士結成への下地となっていきました。

ヴァシリー・カンディンスキー 「印象Ⅲ(コンサート)」の看板
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こちらは1911年の作品。カンディンスキーは1911年の元日にマルクと出会い、その翌日に行ったアーノルド・シェーンベルクのコンサートに感銘を受けてこの作品を生み出しました。黄色を背景に多くの人々の頭が描かれ、中央には黒い台形をしたグランドピアノが置かれています。白いのは柱らしく、一応実景が元になっているようです。この黄色は音楽そのもののようで、人々を包み込んでいるように見えます。シェーンベルクのその時の曲を聴いたことがありますが、結構激しくてこの絵の持つパワーに合っているように思えました。

1911年頃、カンディンスキーはますます抽象化の道を進んでいき、それを好ましくないと考えた新芸術家協会の穏健派は、作品の大きさが合わないという口実でカンディンスキーの「コンポジションⅤ」という作品の展覧会出品を拒否しました。それに怒ったカンディンスキーはフランツ・マルクとミュンターと共に協会を脱会して、12/18の協会の展覧会に合わせて「第1回青騎士展」を開催しました。これにマッケやアーノルド・シェーンベルクが加わり、翌年には青騎士年間を発行し第2回青騎士展を実施、そこにはヤウレンスキーやパウル・クレー、ピカソ、マレーヴィチといった面々も名を連ね、規模も拡大していきました。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Impressin V」
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こちらは1911年の作品で、日本語にすると「印象V」となります。人らしき姿があるのでちょっと具象性はあるように思えますが、タイトルからして抽象的で、色の響き合いが主なテーマになっているように思えます。赤、黄色、青といった原色が目に鮮やかです。

カンディンスキーは自分の絵画を3つの段階に考えていたようで、
 ・印象 :外から受けたもの
 ・即興 :無意識から出たもの
 ・コンポジション :2つを練り上げたもの
となります。「印象」や「コンポジション」といったタイトルが多いのもそのせいかな。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Mit dem schwarzen Bogen」
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こちらは1912年の作品で日本語にすると「黒い弓を使って」となります。確かにちょっと弓っぽいようにも見えるけど、先程と同じく色彩に重点が置かれているように思えます。描かれているものも記号のようになっていて、後の画風に繋がっていくのが伺えます。

最初の頃の絵とだいぶ変わってきたのが一目瞭然ですが、1909年がカンディンスキーの変革の時期で、実景に基づかない抽象性の高い作品を描き出しました。青騎士の時代はさらにそれが進んでいるように見えますね。1911年に『抽象芸術論―芸術における精神的なもの』を出版すると抽象芸術の考えは大きな反響を呼び、世界的にカンディンスキーへの評価が高まっていきました。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Bild mit rotem Fleck」
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こちらは1914年の作品で、日本語にすると「赤い斑点のある写真」となります。抽象的で何を描いているのか分からないのは同じですが、前に作品に比べるとかなり緻密で、流れのようなものを感じます。放出するようなエネルギーがあると言うか。色彩自体はこの頃の他の作品と共通していますね。

精力的な活動を始めた青騎士ですが、1914年になると第一次世界大戦が始まり、メンバーは離散し幕を閉じてしまいました。そしてカンディンスキーは1918年から1921年までソビエト連邦となったロシアに戻り、美術・芸術の教育などに関わる仕事に就きました。そのためこの時期は作品がほとんどありません。レーニンからは前衛美術は「革命的」と受け入れられていたようですが、スターリンは軽視していたようでスターリンの書記長就任の直前にカンディンスキーは再びドイツへと移りました。

ヴァシリー・カンディンスキー 左:「『小さな世界』: IV」 右:「『小さな世界』: VI」
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こちらは1922年の作品。「小さな世界」というシリーズの1枚で3つの異なる版画技法を使い分けて作られています。以前に比べると直線や球といった明快な形態となっていて、色も滲む感じから色面を使ったものになっています。版画なので油彩とはニュアンスが違うかもしれませんが、また画風が変わったように見えますね。

カンディンスキーは美術工芸学校として1919年にワイマールに設立された「バウハウス」で1922年から教官を務めています。ちなみにバウハウスはミース・ファン・デル・ローエやパウル・クレーなど多くの前衛的な芸術家・建築家・工芸家が教職に就き、そこで学んだマルセル・ブロイヤーなども後に教官となっているなど、今となっては伝説の学校です。

ヴァシリー・カンディンスキー 「デリエール・ル・ミロワール 第60-61号(1953年10月刊)《「白の上に II」のための習作》」
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こちらも1922年(1953年10月刊)の作品。意味は分かりませんが、抽象とも具象とも言えないものが踊るように響きあっているのが非常に心地良い。

1920年代には幾何学的なモチーフが中心となっていて、むしろ記号みたいなものが並びます。また、カンディンスキーは音楽のようなリズム感を絵で表現した画家としても知られていて、楽譜のようなモチーフも出てくるようになります。

ヴァシリー・カンディンスキー 「支え無し」
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こちらは1923年の作品で色と形が音楽的なハーモニーを奏でる1枚。これも何が描かれているか分かりませんが、リズム感があって一目でカンディンスキーと分かる特徴があるのが面白いです。

カンディンスキーはこうした色と形で作者の精神性を表現し、鑑賞者の感情を動かすことができるという理論を築きました。その辺も音楽的な印象を受ける一員かもしれませんね。

ヴァシリー・カンディンスキー 「自らが輝く」
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こちらは1924年の作品。軽やかな色彩と形態が見事で、流れるような曲線が心地よく感じられます。幾重にも半透明の形態が重なるのはちょっとキュビスム的にも思えるかな。

バウハウスは当時のドイツの右翼から攻撃を受け、1925年にワイマールからデッサウへと移転しています。ナチスはバウハウスを目の敵にしてた(というか前衛芸術全般を敵視してた)ので、1933年には閉鎖に追い込まれていくことになります。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Gelb-Rot-Blau」
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こちらは1925年の作品で、日本語にすると「黄・赤・青」です。確かにその3色が使われているかなw これも意味は分かりませんが、私は星や人の顔を想像しました。カンディンスキーの作品には宇宙や原子を思わせるような不思議さも感じます。

カンディンスキーはこの翌年の1926年に『点と線から面へ』を著しています。点と線の響き合いを重視した考え方が書かれているようで、これもカンディンスキーの理論を知る上で重要な著書となっています。

ヴァシリー・カンディンスキー 「網の中の赤」
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こちらは1927年の作品で、幾何学模様のような抽象絵画。これって網なの?という感じですが、これまでと違って規則正しさがあるように思えます。一方で躍動感も健在で、両面が同居しているように思えます。色の組み合わせも楽しい作品ですね。

カンディンスキーは若い頃にモネの「積み藁」を観て、何が描いてあるか理解できないけど色彩が美しいと感じたそうで それが抽象絵画の考え方へと発展していきました。我々がカンディンスキーを観て感じることは かつてカンディンスキーがモネに対して感じたことと同じなのかもw

ヴァシリー・カンディンスキー 「Auf Spitzen」
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こちらは1928年の作品で、日本語にすると「点々に乗って」といった感じでしょうか。確かに台の点に乗ってるようにも見えるかな。最初に観た時、遊園地かデパートのアドバルーンみたい…と思ったものですw この頃は幾何学的なモチーフが多く、背景は淡い色が交じるのが特徴のように思えます。

1933年にバウハウスが閉鎖されると、カンディンスキーはパリに移りました。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Composition IX」
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こちらは1936年の作品で、コンポジション(構成)IXというタイトルです。今までの作品の中で最もポップな印象を受けるのはカラフルな縞模様と有機的な形態の躍動のせいかな。この頃の世相はかなり暗く 戦争へと向かっていった時期ですが、そう感じさせない明るさがあるように思えます。

この頃は直線的なモチーフよりも有機的なデザインが多くなっています。微生物を思わせるようなフォルムですね。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Trente」
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こちらは1937年の作品で、日本語にすると「30」です。縦5×横6の30マスになっているのがタイトルの意味だと思いますが、白黒の市松模様のような中に反転したモチーフが描かれるというスタイリッシュなデザインセンスが溢れています。一種の象形文字のようであり微生物のようでもあるw 1つ1つも面白いけど30面揃った心地よさが見事ですね。私はこの絵が好きで、ポンピドゥー・センターの展示でTシャツを買って今でも着ていますw

この頃になると、以前とは色彩も変わっているのがわかります。滲みのような表現からくっきりとした色面のような表現が増えています。

ヴァシリー・カンディンスキー 「全体」
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こちらは1940年の作品。いくつかのブロックに分かれているのは先程の作品と似た発想ですが、ここでは色彩も用いています。以前よりも色は落ち着いていて、ぶつかり合うような激しさではなく調和を感じるかな。リズミカルなのは相変わらずで、滑らかな印象を受けます。

ナチス時代のドイツではヒトラーが古典的な作風の画家であったこともあり前衛芸術は「退廃芸術」と呼ばれ美術館から排除され安値で叩き売られたり処分されました。(その芸術音痴ぶりがヒトラーが画家として成功しなかった理由に思える訳ですが…) カンディンスキーも作品の展示を禁止され、退廃的芸術家を見なされ不遇の晩年を過ごしています。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Blue de ciel」
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こちらは1940年の作品で、日本語にすると「青空」です。背景が淡く爽やかで、空で謎の生物たちが踊っているような感じに見えるかなw 以前のような直線はなく、柔和な印象を受けます。モチーフの重なりも無いし、また画風が変わっているようにも見えますね。

1941年にフランスはドイツに占領されましたが、カンディンスキーは亡命せずにパリ近郊に留まっています。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Un Conglomérat」
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こちらは1943年の作品で、「コングロマリット」というタイトルです。タイトルの通り様々な会社や工場を思わせる形態が並び、再び直線が多い画面となっています。長い棒は煙突みたいに見えるし、全体的には都市のようにも見える。やや重めの色合いで閉塞感があるようにも思えました。

カンディンスキーは不遇のまま第二次世界大戦中の1944年に亡くなりました。しかしドイツが敗れ戦争が終わると、カンディンスキーの名誉は回復し、今では抽象絵画の創始者の1人として非常に高い評価になっています。

ということで、抽象絵画を語る上で避けては通れない重要な画家となっています。観ても何だか分からない… でも心地良い。難しいことを考えずにそういう見方で良いんだと思います。個展は滅多にありませんが、各地の美術館や大型展で観る機会もあると思うので知っておくと一層に楽しめると思います。

 参考記事:
  カンディンスキーと青騎士展 (三菱一号館美術館)
  表現への情熱 カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち (パナソニック 汐留ミュージアム)


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《梅原龍三郎》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、明治から昭和にかけて活躍した洋画家の梅原龍三郎を取り上げます。梅原龍三郎はルノワールに師事したため当初はルノワール風の作風でしたが、帰国すると琳派や南画を取り入れ一層に大胆な画風となっていきました。また、北京を訪れたことで彼の地に魅了され中国をテーマにした多くの代表作を残しています。そして同門だった安井曾太郎と共に画壇の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」とまで称されました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


梅原龍三郎は1888年の京都の生まれで、実家は絹物屋で幼い頃から図案や染色、刺繍、絵師たちの仕事などを観て育ちました。15歳の頃に絵を描き始め、最初は伊藤快彦の画塾に入ったものの すぐにフランス帰りの浅井忠の聖護院洋画研究所に学ぶようになり、そこにはライバルと言える安井曽太郎もいて共に学んでいます。父親は絵は出入りの業者と同等と考えて反対していましたが、1908年には梅原龍三郎はパリ留学しその費用は父親が出しています。パリではアカデミー・ジュリアンに通い、やがてルノワールに教えを受けるようになり5年間ほど学びました。留学中にはルノワールに関して雑誌『白樺』に寄稿していたようで、1913年の帰国後も白樺派との付き合いは続いていきます。
 参考記事:
  《浅井忠》 作者別紹介
  《安井曾太郎》  作者別紹介

梅原龍三郎 「自画像」
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こちらは留学中の1911年の自画像。やや斜めに構えていて自信ありそうな顔してますね。どちらかというとセザンヌなどを彷彿とするかな。後の作風に比べるとやや落ち着いた色彩に思えます。

前述の通り父親は反対していたものの30代半ばまで仕送りを貰ったり留学費用を出して貰ったりと、実家のバックアップは画業に欠かせなかったと言えそうです。実家では琳派風のデザインに囲まれていたそうだし恵まれた環境です。ちなみに浅井忠の聖護院洋画研究所で切磋琢磨した安井曾太郎の実家も木綿問屋で、2人は生まれも似ています。 構成や色を練る理知的な絵の安井と、絢爛豪華で個性的な梅原、両者の違いは生家で触れた織物の違いとも関係があるのかも?? 後に2人は同じタイミングで文化勲章を受章しています。

梅原龍三郎 「ナルシス」
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こちらは1913年の作品。ナルシスの神話をテーマにしているけど周りは現代的に見えます。神話のように足元のタライに映る自分を観ているのかな? 唐突な裸体を観るものの戸惑いが狙いではないか?という見解もあるようです。ここではオレンジがかった体となっていて、一気に色が明るくなりました。背景の渦巻くような青は師のルノワールと似た雰囲気になっていると思います。

梅原龍三郎はルノワールに色彩感覚を天性のものと言われたそうです。この絵を描いた年に帰国し、白樺社の主催で個展を開催しています。

梅原龍三郎 「黄金の首飾り」
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こちらは1913年の作品。裸婦をテーマにした点や色彩などにルノワールっぽい感じもしますが、梅原龍三郎の独特の強い色使いを感じます。梅原龍三郎は色彩についてはフォーヴィスムのような面もあるもあるように思えます。

この翌年には『白樺』の愛読者だった艶子(洋画家の亀岡崇の妹)と結婚しています。また、1915年には御殿山に自らが設計したアトリエを建て、移住しました。

梅原龍三郎 「静物」
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こちらは1916年の作品で、大胆な色使いが目を引く静物。緑と赤が引き立てあって一層に鮮やかに感じます。形態の単純化も面白くて、見ごたえのある静物です。

1920年には御殿山のアトリエを売り、再度フランスへと向かいました。恩師のルノワールが前年に亡くなった為で、その際にナポリなども訪れています。しかし1年で帰国し、再び日本で活動しました。

梅原龍三郎 「裸婦図」
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こちらは1921年の作品。やはり赤と緑の対比が目に鮮やかな裸婦で、単純化が進んでいるように思えます。赤い輪郭線が引き締まった印象で、先程の「黄金の首飾り」に比べて大胆さが増しているのが分かると思います。

1922年に画業に専念することを決め、1925年には国画創作協会に参加、1935年には帝国美術院の会員となっています。絵はよく売れたようで、名声も上がっていきました。

梅原龍三郎 「桜島(青)」
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こちらは1935年の作品。強い色彩と共にどっしりとした風格漂う桜島が描かれ、セザンヌや南画のような要素も感じます。ナポリでヴェスヴィオ山と桜島は似ていると聞いて以来、桜島に関心を持ったそうで、1934年~40年まで毎年のように訪れました。「東に面する桜島は朝青く夕は燃えるように赤い」と述べていたそうで、ここでは青く描かれているので朝でしょうね。手前の幾何学的な家々と共に形態のリズムも面白い作品です。

梅原龍三郎は画家だけでなく蒐集家としても優れた資質があり、ルノワールから贈られた絵画を始め、マティス、ルオー、ボナール、ドガ、ピカソなどの作品も蒐集していました。その一部は国立西洋美術館などに寄贈されていて、常設展で観ることができます。

梅原龍三郎 「城山」
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こちらは1937年の作品。緑が目に鮮やかで、下の方の家の形態はちょっとキュビスム的ですらあるかなw 全体的には落ち着いた雰囲気もあって、先程の桜島とも違った画風に思えます。

1939年に満州国美術展の審査に招かれて満州を訪れました。その帰りに北京を訪れてその景観に感動し、1ヶ月半ほど滞在しています。それ以降も毎年のように訪れ、戦争が激化するまで北京で多くの代表作が生まれました。

梅原龍三郎 「長安街」
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こちらは1940年の作品で、北京のホテルから眺めた光景となっています。やや単純化されていて、オレンジの壁や建物、緑が生い茂り色彩豊かに感じます。見下ろす光景も広々していて正に絶景ですね。

後に梅原龍三郎は「北京での生活は、ホテルの窓から、紫禁城と長安街が目の前に見えて、朝方の景色が美しいので、早くから明るくなるのを待って、外を写し、そして昼は、北京の料理を食べて、午後は姑娘を呼んで、写生して、夕方になると、骨董屋を歩いたり、夜は芝居を観たり、非常に、充実した生活で、私のこれまでの人生の中でも一番張りのある時であったと思っている」と語っていたのだとか。
 引用元:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/42547?page=2

梅原龍三郎 「薔薇図」
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こちらは1940年の作品。かなり単純化が進んでいて のびのびとした印象を受けます。時期は分かりませんが梅原龍三郎は師の浅井忠と同じように大津絵なども研究していたようなので、ちょっとそうした要素もあるように見えます。プリミティブな表現になった分、生命力が感じられますね。

梅原龍三郎は絵も売れて裕福だったこともあり、かなりのグルメだったようで、特に中華料理とフランス料理が好きだったようです。美味しい中華料理の為には中国まで行ったというのだから、中国への傾倒ぶりが伺えますねw

梅原龍三郎 「北京秋天」
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こちらは1942年の作品。秋の空が大きく広がり、高い位置から見渡す景色と共に爽やかな印象となっています。空の色は大胆さと繊細さが同居するかのようで、まさに代表作と言える1枚です。

こちらの絵は1972年の吉井画廊での「梅原龍三郎北京作品展」で展示された際、盗まれています(「姑娘」などと共に4点盗まれた) 展覧会を見に来た画家が不審者の似顔絵を描いたために犯人は捕まったものの「北京秋天」は行方不明のままでした。見つかったのは盗難から7年後で、第三者に渡っていたことから買い戻されて現在に至ります。盗まれた際、梅原龍三郎は画商の穴埋めのために自分の絵を提供し、資金まで貸したのだとか。度量の大きさが伝わるエピソードです。

梅原龍三郎 「姑娘(クーニャン)」
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こちらは1942年の作品で、姑娘というのは中国語で若い未婚女性を指します。梅原龍三郎にしては淡い色合いに思えますが、瑞々しい雰囲気の女性が可憐で好みです。単純化しても目鼻立ちはキリっとしているのが良いですね。

1944年には帝室技芸員となり、東京美術学校の教授にもなりました。教授職は戦後の1952年まで務めていたようです。

梅原龍三郎 「噴煙」
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こちらは1950~53年頃のデトランプ(テンペラみたいな)で描かれた作品。若い時より画面にパワーが漲ってるのが面白いw 南画風な緩さもありつつ色彩の強さは流石で、自由闊達な雰囲気となっています。自然の雄大さがよく感じられます。

1952年には渡欧してヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務めています。同じ年に文化勲章も受章し、安井曾太郎と共に洋画界の巨匠として頂点に立っていました。

梅原龍三郎 「牡丹図(李朝壺)」
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こちらは1975年の作品。やはり大胆かつ華麗な雰囲気となっていて、筆の勢いも感じさせます。梅原龍三郎はこうした壺を集めていて、飾るのではなく実際に生活で使っていたのだとか。

この後も精力的に活動し、1986年に97歳で亡くなりました。

こちらはおまけで梅原龍三郎のアトリエ
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元々は新宿区市谷にあったもので、今は白樺派にゆかりのある清春芸術村に移築されています。

清春芸術村のサポーター会員なら中に入れるようですが、私は会員ではないので窓の外から撮影しています。
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設計は吉田五十八で、部屋は24畳だそうで結構広いです。壁の色が梅原龍三郎っぽい色かもw

古いテーブルなどもありました。
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一度は中に入ってみたい…。


ということで、性格がそのまま天衣無縫な画風になったような画家です。たまに個展や安井曾太郎との2人展なども行われ、東京国立近代美術館の常設などで観る機会もあると思います。長きに渡り日本の洋画壇をリードした人なので、美術ファンなら知っておきたい存在だと思います。


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《アンドレ・ケルテス》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、ハンガリー出身の写真家アンドレ・ケルテス(ケルテース・アンドル)を取り上げます。アンドレ・ケルテスはブタペストを拠点に活動していましたが、第一次世界大戦の後にパリで活躍したので、「写真のエコール・ド・パリ」という文脈で紹介されたこともあります。その後はニューヨークに渡り活動し、生涯に渡り日常の中から洒脱でウィットに富んだ作品を残しました。経歴を調べてもあまり分からないので今日はほとんど写真の羅列になりますが、今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

アンドレ・ケルテスは1894年にハンガリーのブタペストでユダヤ人 中流階級の家に生まれました。家族からはビジネスの道に進むことを期待され、1912年(18歳)で初めてカメラを購入するまで商科大学で学んでいます。当初はブタペストの風景などを撮っていました。

アンドレ・ケルテス 「アコーディオン奏き、エスツェルゴム」
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こちらは1916年の作品。エスツェルゴムはブタペストから40kmほど離れた街で、恐らく街角のアコーディオン弾きじゃないかな。やや哀愁と緊張感があって当時の様子が伝わってきます。アンドレ・ケルテスは後に「私はただ歩き回って、被写体を様々な角度から観察し、写真の要素が私の目を喜ばせる構図になるまで自分の目で見ているだけだ」と語っていたようです。

アンドレ・ケルテスはこの頃に勃発した第一次世界大戦中にオーストリア・ハンガリー軍として従軍しています。従軍中も撮影をしていたのだとか。

アンドレ・ケルテス 「辻音楽師、アボニー」
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こちらは戦後1921年の作品。街でバイオリンを弾く男性がこちらをチラッと観ている様子が撮られ、手前の子供は裸足となっています。道は土だし、ちょっと貧しそうな感じに見えます。ハンガリーは敗戦直後なのでちょっとその空気感もあるのかも。とは言え、悲惨さとかよりは奥へと連なる塀や轍などの構図のほうが面白い。アンドレ・ケルテスは誰を撮っても政治的・社会的な偏見を捨てて、被写体への共感を大切にしていたそうです。

1925年には『Erdekes Ujsay』誌の表紙を飾りました。また、同じ年にパリに移り、フリーランスとして『Vu』、『Le Matin』、『Frankfurter Illustrierte』、『Die』など多くのヨーロッパの雑誌で活躍しています。

アンドレ・ケルテス 「ピート・モンドリアン」
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こちらは1926年の作品で、有名画家のモンドリアンを撮ったポートレート。ちょっと気難しそうな顔していますねw 背景の四角が組み合った幾何学的な構図がモンドリアンの絵の特徴と同じように感じるのは偶然なのか意図的なのか気になりますw 

1920年代半ばには、モンドリアンやセルゲイ・エイゼンシュテイン(ロシア映画『戦艦ポチョムキン』の監督)、多くのダダイストたちと出会っていて、中でもモンドリアンを撮った写真は代表作の1つとなっています。

アンドレ・ケルテス 「モンドリアンのパイプとメガネ、パリ」
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こちらも1926年のモンドリアンを撮った写真の1枚。円・曲線・直線で構成された構図が心地よく、ちょっとキュビスム的な発想に思えます。構図の妙というのもアンドレ・ケルテスの魅力の1つです。

1928年に初めて35ミリカメラのライカを購入し、パリの街中を撮った写真は革新的で写真界に大きな影響を与えました。20世紀を代表する写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンやロバート・キャパ(ハンガリー生まれ)など、錚々たる面々が1920年代後半から1930年代初頭にかけてのアンドレ・ケルテスを師と仰いでいます。

アンドレ・ケルテス 「割れた板ガラス、1929年、パリ」
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こちらは1929年の作品。ガラスが割れているのが目を引き、面白い効果となっています。これ、額縁が割れていると勘違いしないかなと毎回思ってしまいますw 

アンドレ・ケルテスは人物、風景、静物、加工した写真など様々な作品を残しています。晩年の1970年代後半から80年代にはカラー作品もあるようです。

アンドレ・ケルテス 「四ツ辻、1930年、ブロワ」
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こちらは1930年の作品。四ツ辻を見下ろす構図が幾何学的で、同時代のロトチェンコなどと共通するものを感じるかな。陽の光の明暗なども感じられて好みの作品です。

アンドレ・ケルテスは「誰もが見ることができますが、彼らは必ずしも見ることはできません... 私は状況を見て、それが正しいことを知っている。」と言っていたそうです。確かにこんな構図を見つけることが出来る人間は滅多にいないでしょうね。

アンドレ・ケルテス 「ディストーション No.40、パリ」
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こちらは1933年の作品。裸婦像ですが、タイトル通りひどく歪んでいます。どうしてこんなに引き伸ばしたのか分かりませんが強烈なインパクトがありますね。この作品以外にもぐにゃぐにゃに引き伸ばした裸婦のシリーズを制作していて、歪んだヌードは1930年代の代表的な作風となっています。

この頃からフランスでもユダヤ系に対する迫害が高まり、アンドレ・ケルテスは1936年に渡米しています。アメリカでは『ハーパーズバザー』『ハウス&ガーデン』などの大衆誌でフリーランスとして活躍し、、1962年までコンデナスト(『VOGUE』などのマスコミ)と契約して働きました。1964年にニューヨーク近代美術館で個展が開催されると広く知られるようになり、ケルテスはアメリカで最も尊敬される写真家の一人となりました。

アンドレ・ケルテス 「1972年1月1日、マルティニックにて」
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こちらは1972年の作品。ぼんやりと人影が写り、バルコニーからの風景は空と海の単純な構図となっています。日常の光景なのにちょっとシュールさと抽象絵画のような要素があって、独自の感性の鋭さは健在ですね。

1968年には来日しています。浮世絵のような構図があるし、何らかの影響は受けているんじゃないかな。1960年代から1970年代にかけての作品も現代写真家たちにも影響を与えていて、この頃の作風は動きやジェスチャーに対するフォトジャーナリスティックな関心と、抽象的な形に対する形式主義的な関心を組み合わせたもので歴史的な意義を持っているそうです。


ということで、先駆的で面白い視点を持った写真家となっています。影響を与えた写真家にビッグネームが連なる点からも重要な人物です。個展は観たことがありませんが、恵比寿の東京都写真美術館や横浜美術館にコレクションがあり、折々で観られる機会もあると思います。この名前を見たら是非じっくりと観てみることをオススメします。

蛇足:アンドレ・ケルテスの写真集を手に入れる為に神保町の古書街を巡って、在庫問い合わせしたりしてようやく池袋で見つけた想い出があります。もっと有名になって写真集を出して欲しいw



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