Archive | 2021年01月
今日は作者別紹介で、1930年代から1950年代にかけて活躍した須田国太郎を取り上げます。須田国太郎は独学で絵を学んだものの京都帝国大学で美術史を専攻し、渡欧してスペインやヴェネツィア絵画を研究するなど学究肌の画家で、40歳という遅い画壇デビューでした。当時はフォービスムの安易な日本的な解釈が溢れていた頃で、その中にあって須田国太郎の重厚で本質を引き出す絵画は異彩を放つ存在でした。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
須田国太郎は1891年に京都市に生まれ、第三高等学校入学の頃から独学で油絵を描き始めました。京都帝国大学に入ると美学美術史を学び、大学院時代には関西美術院で素描も学んでいます。1918年に大学院を退学すると、その翌年に渡欧しスペインのマドリードを拠点としてスペイン美術やヴェネツィア派の絵画を研究しました。模写もしていたようで、西洋の伝統技法を研究して1923年の帰国まで各地を歴訪しています。画壇への登場は1932年の銀座の資生堂画廊での初個展で、40歳を過ぎての画壇デビューでした。
須田国太郎 「蔬菜」

こちらは1932年の作品。白と茶色っぽい画面で、いくつかの野菜らしきものが点在する感じで並んでいます。それぞれが何だか分からないくらいだけど、どっしりとした存在感があります。陰影も濃く、明部の表現がヴェネツィア派以来の伝統的画法に連なっていることの証と考えられるようです。私は近代のボナールに似たものを感じますけどねw
須田国太郎の絵画は目の前の光景の再現を必ずしも求めておらず、塗り重ねや削ぎ落としなど様々な方法で余分なもの、一時的なものを削ぎ落とし本質を引き出すために再構成して画面の骨格を形作っているそうです。確かにこの絵とかその解釈の通りに見えます。
須田国太郎 「法観寺塔婆」

こちらは1932年の作品で、京都の八坂の塔として知られる法観寺の五重の塔が描かれています。電信柱が立ち並ぶ中に白い屋根の塔が描かれ、垂直のリズム感があるように思えるかな。中央にそびえ立つ姿が堂々たる威厳です。全体的に茶色っぽいのも重厚な印象ですね。
須田国太郎は夏のにわか雨の後に黒ずんだ山に白く浮き出たこの塔を電車から観て印象に焼き付いたようです。その数日後に改めて訪れて飲食店の横のごみ溜の上に画架を置いて描いたのだとか。
須田国太郎 「スペイン山間」

こちらは1932年の作品。恐らく渡欧の際に観た光景を描いたものを思われます。茶色が多いのでまるで砂漠みたいな寂しい雰囲気かなw 岩山の大きさが際立って見え、力強く雄大な印象です。
須田国太郎の作風は 前景と後景、光と影など対極的な要素が相互の対比を高めつつ、鈍い暗色調の中で結びつくというのが特徴のようで、それによって存在の重みが出ているのだとか。
須田国太郎 「夏の朝」

こちらは1933年の作品。これまでの茶色っぽい画面から色彩が豊かになったように思えます。夏の朝の清々しい感じが出ているのではないでしょうか。重厚さは少し減ったけどこれも良い画風だと思います。
1932年の初個展が契機となり、この年には独立美術京都研究所の学術面の指導者として招かれ、翌年には独立美術協会の会員に迎えられました。
須田国太郎 「書斎」

こちらは1937年の作品。自分の書斎を描いたもので、一種の自画像的なニュアンスもあるようです。右上あたりにメガネの横顔みたいな影があるように見えるのは気の所為でしょうか?w 陰影の強い画面が劇的で、ちょっと乱雑な感じや多くの本があるインテリらしさが人柄を感じさせますね。
須田国太郎はルドンの二重肖像画を所蔵していたそうです。いつ どのように入手したかは不明のようで影響を受けたとは断定できない、ものの、目に見える世界の再現にとどまらない想像力を掻き立てる夢幻性や深い暗闇は両者を結びつけるものがあると考えられるようです。
須田国太郎 「歩む鷲」

こちらは1940年の作品で紀元二千六百年奉祝美術展の出品作です。大樹の下でじっと様子を伺うように歩いている鷲が描かれ、木々はうねるような動きのある描写となっています。タイトルとは裏腹にこの木々のほうに主眼が置かれたようで、先に木を描いて10日ほどで仕上げたそうです。植物のほうが動きがあって 動物のほうがじっとした感じってのが面白いですね。対比的な構成と言えそうです。
鷲は須田国太郎が好んだ主題だったようです。この絵の逞しい雰囲気はこの頃にすでに始まっていた第二次大戦などの時代背景も無関係ではなさそうです。
須田国太郎 「脱衣」

こちらは1948年の作品。裸体像は西洋の伝統的な画題ではありますが、どちらかというと苦悩しているような姿に見えます。戦前の作品より色が同化したような感じでちょっと陰鬱な印象を受けます。
戦後まもなく 作品から色彩が失われ 画面が暗くなるという問題に直面したそうで、黒色の新たな表現の可能性を探り色彩を取り戻すべく格闘していたようです。
須田国太郎 「犬」

こちらは1950年の作品。この犬はシベリア犬らしく、目が光ってるみたいに赤いw 背景と犬の大きさと距離感が妙な感じで巨大な犬に見えますね。背景は京都の西大家、犬は動物園で描いたそうで、実際の光景ではないようです。
こうした対照的な2つの要素を持ち込みコントラストを際立たせ、動きを生み観るものの感情を掻き立てながら作品を構成するのは須田国太郎の得意とする手法で、画家が敬愛したバロック美術から学んだ効果なのだとか。
須田国太郎 「窪八幡」

こちらは1955年の作品。空は雲に覆われ雨のようで、全体的に重厚な色彩となっています。そこに白地に朱色が使われ、浮かび上がるような鮮やかさを感じます。規則的な格子状の構成など結構カッチリした構図だけど、面白く感じられるのは雨の日の情感が出ているからかな。この建物自体からは威厳を感じさせますね。
1955年8月頃に山梨方面に1人で旅行し、古い建築を訪ね歩いたようです。この作品は雨降る中でスケッチした大井俣窪八幡神社に基づいて油彩画に再構成したもので、ちょうど大改修を終えたばかりの頃の姿を描いています。
須田国太郎 「鉱山」

こちらは1959年の作品。今までで一番色が軽やか!w 色が重くなりすぎていたのを脱却しようとしていたようなので、その成果でしょうか。手前に家々の影があり、山の大きさが感じられます。マチエールで山肌の質感が出ていますね。
1956年の第28回ヴェネツィア・ビエンナーレには「法観寺塔婆」などを出品しましたが、1957年頃から体調を崩していき1961年に70歳で亡くなっています。
ということで、独特な作風の画家となっています。今回ご紹介した作品はすべて東京国立近代美術館の所蔵で常設(特集など)で観たものですが、たまに他の美術館でもみかけることもあります。私もまだまだ知らないことの多い画家なので、今後も多くの作品を観てみたいものです。
須田国太郎は1891年に京都市に生まれ、第三高等学校入学の頃から独学で油絵を描き始めました。京都帝国大学に入ると美学美術史を学び、大学院時代には関西美術院で素描も学んでいます。1918年に大学院を退学すると、その翌年に渡欧しスペインのマドリードを拠点としてスペイン美術やヴェネツィア派の絵画を研究しました。模写もしていたようで、西洋の伝統技法を研究して1923年の帰国まで各地を歴訪しています。画壇への登場は1932年の銀座の資生堂画廊での初個展で、40歳を過ぎての画壇デビューでした。
須田国太郎 「蔬菜」

こちらは1932年の作品。白と茶色っぽい画面で、いくつかの野菜らしきものが点在する感じで並んでいます。それぞれが何だか分からないくらいだけど、どっしりとした存在感があります。陰影も濃く、明部の表現がヴェネツィア派以来の伝統的画法に連なっていることの証と考えられるようです。私は近代のボナールに似たものを感じますけどねw
須田国太郎の絵画は目の前の光景の再現を必ずしも求めておらず、塗り重ねや削ぎ落としなど様々な方法で余分なもの、一時的なものを削ぎ落とし本質を引き出すために再構成して画面の骨格を形作っているそうです。確かにこの絵とかその解釈の通りに見えます。
須田国太郎 「法観寺塔婆」

こちらは1932年の作品で、京都の八坂の塔として知られる法観寺の五重の塔が描かれています。電信柱が立ち並ぶ中に白い屋根の塔が描かれ、垂直のリズム感があるように思えるかな。中央にそびえ立つ姿が堂々たる威厳です。全体的に茶色っぽいのも重厚な印象ですね。
須田国太郎は夏のにわか雨の後に黒ずんだ山に白く浮き出たこの塔を電車から観て印象に焼き付いたようです。その数日後に改めて訪れて飲食店の横のごみ溜の上に画架を置いて描いたのだとか。
須田国太郎 「スペイン山間」

こちらは1932年の作品。恐らく渡欧の際に観た光景を描いたものを思われます。茶色が多いのでまるで砂漠みたいな寂しい雰囲気かなw 岩山の大きさが際立って見え、力強く雄大な印象です。
須田国太郎の作風は 前景と後景、光と影など対極的な要素が相互の対比を高めつつ、鈍い暗色調の中で結びつくというのが特徴のようで、それによって存在の重みが出ているのだとか。
須田国太郎 「夏の朝」

こちらは1933年の作品。これまでの茶色っぽい画面から色彩が豊かになったように思えます。夏の朝の清々しい感じが出ているのではないでしょうか。重厚さは少し減ったけどこれも良い画風だと思います。
1932年の初個展が契機となり、この年には独立美術京都研究所の学術面の指導者として招かれ、翌年には独立美術協会の会員に迎えられました。
須田国太郎 「書斎」

こちらは1937年の作品。自分の書斎を描いたもので、一種の自画像的なニュアンスもあるようです。右上あたりにメガネの横顔みたいな影があるように見えるのは気の所為でしょうか?w 陰影の強い画面が劇的で、ちょっと乱雑な感じや多くの本があるインテリらしさが人柄を感じさせますね。
須田国太郎はルドンの二重肖像画を所蔵していたそうです。いつ どのように入手したかは不明のようで影響を受けたとは断定できない、ものの、目に見える世界の再現にとどまらない想像力を掻き立てる夢幻性や深い暗闇は両者を結びつけるものがあると考えられるようです。
須田国太郎 「歩む鷲」

こちらは1940年の作品で紀元二千六百年奉祝美術展の出品作です。大樹の下でじっと様子を伺うように歩いている鷲が描かれ、木々はうねるような動きのある描写となっています。タイトルとは裏腹にこの木々のほうに主眼が置かれたようで、先に木を描いて10日ほどで仕上げたそうです。植物のほうが動きがあって 動物のほうがじっとした感じってのが面白いですね。対比的な構成と言えそうです。
鷲は須田国太郎が好んだ主題だったようです。この絵の逞しい雰囲気はこの頃にすでに始まっていた第二次大戦などの時代背景も無関係ではなさそうです。
須田国太郎 「脱衣」

こちらは1948年の作品。裸体像は西洋の伝統的な画題ではありますが、どちらかというと苦悩しているような姿に見えます。戦前の作品より色が同化したような感じでちょっと陰鬱な印象を受けます。
戦後まもなく 作品から色彩が失われ 画面が暗くなるという問題に直面したそうで、黒色の新たな表現の可能性を探り色彩を取り戻すべく格闘していたようです。
須田国太郎 「犬」

こちらは1950年の作品。この犬はシベリア犬らしく、目が光ってるみたいに赤いw 背景と犬の大きさと距離感が妙な感じで巨大な犬に見えますね。背景は京都の西大家、犬は動物園で描いたそうで、実際の光景ではないようです。
こうした対照的な2つの要素を持ち込みコントラストを際立たせ、動きを生み観るものの感情を掻き立てながら作品を構成するのは須田国太郎の得意とする手法で、画家が敬愛したバロック美術から学んだ効果なのだとか。
須田国太郎 「窪八幡」

こちらは1955年の作品。空は雲に覆われ雨のようで、全体的に重厚な色彩となっています。そこに白地に朱色が使われ、浮かび上がるような鮮やかさを感じます。規則的な格子状の構成など結構カッチリした構図だけど、面白く感じられるのは雨の日の情感が出ているからかな。この建物自体からは威厳を感じさせますね。
1955年8月頃に山梨方面に1人で旅行し、古い建築を訪ね歩いたようです。この作品は雨降る中でスケッチした大井俣窪八幡神社に基づいて油彩画に再構成したもので、ちょうど大改修を終えたばかりの頃の姿を描いています。
須田国太郎 「鉱山」

こちらは1959年の作品。今までで一番色が軽やか!w 色が重くなりすぎていたのを脱却しようとしていたようなので、その成果でしょうか。手前に家々の影があり、山の大きさが感じられます。マチエールで山肌の質感が出ていますね。
1956年の第28回ヴェネツィア・ビエンナーレには「法観寺塔婆」などを出品しましたが、1957年頃から体調を崩していき1961年に70歳で亡くなっています。
ということで、独特な作風の画家となっています。今回ご紹介した作品はすべて東京国立近代美術館の所蔵で常設(特集など)で観たものですが、たまに他の美術館でもみかけることもあります。私もまだまだ知らないことの多い画家なので、今後も多くの作品を観てみたいものです。
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今日は作者別紹介で、アンフォルメルの先駆者とされるドイツ人画家のヴォルスを取り上げます。ヴォルスは元々は写真家として名を挙げたものの、第二次大戦が始まると敵性外国人として収容所に送られています。その収容と戦時下の生活の中で水彩を手掛けるようになり、戦後は画商の勧めで油彩に取り組みました。抽象的で絵の具を垂らしたりスタンプして作ったマチエールは独創的で、同時代の新進気鋭の画家たちに大いに刺激を与えました。しかし評価が高まった矢先に38歳で亡くなってしまい、死後になってから発見・出版された作品も数多く存在します。 今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
ヴォルスの本名はアルフレート=オットー=ヴォルフガング・シュルツで、1913年にドイツの裕福な家庭に生まれました。父が教養人だったこともあり幼い頃から絵画、写真、音楽などに才能を示し独学で絵画を描くようになりました。16歳のときに最愛の父を亡くし、17歳で高校を退学処分となり(ユダヤ人の友人をかばったのが原因?)、1931年にドレスデンで女性写真家ゲンヤ・ヨナスの元で写真技術を身につけました。ドイツ時代には短期間ですがバウハウスに入ってパウル・クレーに教えも受けています。やがてナチスが台頭してくると1932年にパリに移り、まずは写真家として活動し始めます。1937年のパリ万国博覧会の「エレガンスと装飾館」の公式カメラマンを務めるなど成功を収め、この頃から「Wolfgang Shulze」の略で「Wols」を名乗るようになりました。
ヴォルス 「パリ」

こちらは1932~42年頃の作品。ちょっとどういう構図なのか分かりませんが、上の方は遠い街並み、下の方は近くの街頭が写っていて2つの世界が同時に目の前にあるようなシュールさを漂わせているように思えます。崖の上なんでしょうか?? ヴォルスの初期の写真はこうしたちょっとシュールな作風に思えます。
写真家としてヴォルスが最も活躍したのは1937年で、肖像写真で初めての個展も行っています。パリ時代にはマックス・エルンストやジョアン・ミロなどと知り合いになっていたようです。1937年頃にはシュルレアリストたちとのポートレートも撮影されています。
ヴォルス 「舗装石」

こちらは1932~42年頃の作品。何の変哲もない舗装路ですが、アンフォルメルの絵もこんな感じですよねw 画面を3分割してそれぞれの質感の違いが感じられるかな。
ヴォルスはタイトルや年記を残していなかったので、撮影年代の特定は困難なようです。撮影当時のプリントは際めて希少で、1970年代にグレティ夫人のもとでオリジナルフィルムから作成されたモダンプリントが没後に写真家としての再評価に繋がりました(今回ご紹介しているのはモダンプリントです)
ヴォルス 「無題」

こちらは1939年の作品。釘とテーブルだと思いますが、抽象そのものと言った雰囲気になっています。実際のものなのに抽象画のように思えるセンスが流石です。
この年に第二次世界大戦が勃発すると、ヴォルスは敵国人として収容所に収監されてしまいました。収容所を転々とする中でエルンストと一緒だったこともあったようです。そうした生活が約1年続いた後、フランス国籍を持つグレティ・ダビジャと結婚して収容所を逃れ 南仏のカシに移り住んで静かに制作を続けました。(グレティ・ダビジャはシュルレアリストの詩人ジャック・バロンの前妻で、1933年に出会っています。)
ヴォルス 「自写像(ヴォルス百面相)」

こちらは1940~41年頃の作品。このシリーズはたくさんあって、様々な顔で自分を写しています。どういう意図があったか分かりませんが、結構おちゃめな感じで写ってますねw 実際はかなり苦しい時期だったはずだけどユーモアを感じます。
収容所にいた頃からドローイングや水彩を本格的に手掛けるようになっていき「サーカス・ヴォルス」のアイディアを得ています。
こちらは1940年の「サーカス・ヴォルス」に関する記述

自らの半生を振り返り、「雑多なものをすべて取り込み、機能を役立てサーカスの一部にしてしまう」という発想を綴っています。これ以降のヴォルス作品を読み解く鍵になりそうなアイディアです。
1941年にはアメリカ渡航を志し、作品をアメリカに運んで貰ってヴィザも取得しましたが、南仏をドイツ軍が占領したためアメリカ渡航を断念し、デュールフィに逃れました。デュールフィ近辺で3度引っ越しを繰り返し、終戦直後の1945年12月にパリへと戻っていきました。一方、運んでもらった作品で1942年にはアメリカで個展も行われていました。
ヴォルス 「作品、または絵画」

こちらは戦後の1946年のグワッシュ作品。無数の線とシミのような色彩が抽象的ですが、不思議と静かな調和を感じて音楽的に思えます。やはりパウル・クレーに通じるものがあるんじゃないかな。
1945年の年末にパリ ヴァンドームのルネ・ドルゥーアンの画廊で個展が行われ、ドルゥーアンの勧めで1946年1月から本格的に油彩の制作をはじめました。(一番古い油彩は1932年とされますが、戦前の作品は10点程度しか確認されていません)
ヴォルス 「葵色と黄土色」

こちらは1946年頃のグワッシュ作品。有機的で、初めて観たときは心臓かと思いましたw ちょっとキモいような原始を感じるような。
1945年には個展のカタログとして自らが編集した『ちいさな黒い本』も刊行されています。ちなみにヴォルスはこの頃に版画も多く手掛けましたが版画集は作ることがありませんでした。死後に夫人がオリジナルの原版を使って版画集を3度刊行しています。
こちらは『ちいさな黒い本』の写し。

本当に小さな本ですが、ヴォルス自身が制作したものなので作品に関する考えが書かれているのかも?
ヴォルス 「退屈な氾濫」

こちらは1946年頃のグワッシュ作品。青や黄色の色彩が鮮やかで何となく花とか蝶を思わせるかな。ヴォルスは南仏時代に自然をよく観察していたようなので、そうしたイメージに近いのではないかと思います。
この頃、アントナン・アルトーやサルトルなどとも知り合っています。彼らは1947年に行われたヴォルスの個展を注目していました。
ヴォルス 「つる草の星」

こちらは1947年頃の作品。タイトルのせいか、毛の生えた木の根っこみたいに見えますw シュールさもありつつ具象とも言えない独特の作風ですね。
この年にリュクサンブール画廊の「イマジネール展」に出品し、「ヨーロッパの抒情的抽象」と評されました。また、この翌年のモンパルナス画廊の展覧会に、デ・クーニング、アーシル・ゴーキー、マチュー、ピカビア、ジャクソン・ポロック、アド・ラインハルト、マーク・ロスコ、マーク・トビーといった現代絵画の巨匠となる画家たちとともに参加しています。
ヴォルス 「構成 白い十字」

こちらは1947年の油彩作品。確かに白い十字架ですねw これは厚塗りされていたりザラついていたり、一見しただけではどうやって描いたのか分からないようなところもあります。抽象性や技法などに次の時代への序曲といった雰囲気を感じます。
油彩は亡くなるまでに約90点程度あるそうで、5年くらいしかないので結構なペースかも。1947年のドルゥーアン画廊の個展では油彩を40点ほど発表し高い評価を得ました。この個展は後にアンフォルメルの主要メンバーとなるジョルジュ・マチューも絶賛し、ジャン・フォートリエらと共にしばしばヴォルスを訪れたようです。この辺がアンフォルメルの先駆者とされる所以ですね。
ヴォルス 「植物」

こちらは1947年の作品。タイトルを観て どこがやねん!?と心の中でツッコミました。一応、茎と花っぽく見えなくもないけど、植物だったらかなり毒々しいようなw むしろ鳥の頭みたいに見えるw
ヴォルスの油彩は薄く地塗りを施した上に画布を傾けて絵の具を流したり、絵の具のチューブで直接スタンプする、厚く絵の具を盛り上げる、ドリッピング、画面への陰刻線、ひっかくなど様々な技法が使われています。こうした技法もアンフォルメルやアクションペインティングの先駆けになったように思えます。
ヴォルス 「閉路」

こちらは1948~49年の油彩作品。私がヴォルスの中で特に好きなのがこちらです。チューブから直接キャンバスに落としたりしているのでマチエールが力強く感じられます。タシスムなどに通じる質感があるように思います。
ヴォルスが開いたのは形象を描くのではなく、ヴォルスの生きる時間と絵画の時間が一体化する生の動感がそのまま造形となる新しい世界だったようです。よく分からないけど心地よいリズムだったり、キモかったり生き物のように見えるのはそういうことなのかな。
ヴォルス 「街の秘密」

こちらは1951年のグワッシュ。油彩とは作風が違って線が多いのが特徴かな。確かに街に見えるような形象の重なりとなっていて廃墟のようにも思えてきます。
ヴァルスは1945~49年に集中して版画制作を行いました。ジャン=ポール・サルトルやアントナン・アルトーら文学者たちの挿画として制作したようですが、内容とは必ずしも呼応していなかったようです。また、9点の詩集や小説にヴォルスの銅版画が寄せられたようです。
ヴォルス 「街の中心」

こちらは死後の1955年に出された銅版画。ヴォルスの銅版画は細く尖った針で金属表面を削って微細な描線を刻み込んでいて、ドライポイントの技法にあたります。線が炸裂したような画風で、ちょっとパウル・クレーに似たものを感じます。
こうして名声が上がりつつあったヴォルスですが、アルコール中毒だった上 腐った馬肉を食べて食中毒を起こし1951年に38歳の若さで亡くなりました。苦しい時代を耐えてようやくという時にそんな死に方なの?とちょっと不憫です。
ということで現代絵画において功績の大きな画家となっています。それほど知られていないと思いますが、川村記念美術館やアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)、横浜美術館などにコレクションがあり、たまに紹介される機会もあります。世代の架け橋のような存在なので、覚えておきたい画家です。
参考記事:
ヴォルス――路上から宇宙へ (DIC川村記念美術館)
アンフォルメルとは何か?-20世紀フランス絵画の挑戦 (ブリヂストン美術館)
ヴォルスの本名はアルフレート=オットー=ヴォルフガング・シュルツで、1913年にドイツの裕福な家庭に生まれました。父が教養人だったこともあり幼い頃から絵画、写真、音楽などに才能を示し独学で絵画を描くようになりました。16歳のときに最愛の父を亡くし、17歳で高校を退学処分となり(ユダヤ人の友人をかばったのが原因?)、1931年にドレスデンで女性写真家ゲンヤ・ヨナスの元で写真技術を身につけました。ドイツ時代には短期間ですがバウハウスに入ってパウル・クレーに教えも受けています。やがてナチスが台頭してくると1932年にパリに移り、まずは写真家として活動し始めます。1937年のパリ万国博覧会の「エレガンスと装飾館」の公式カメラマンを務めるなど成功を収め、この頃から「Wolfgang Shulze」の略で「Wols」を名乗るようになりました。
ヴォルス 「パリ」

こちらは1932~42年頃の作品。ちょっとどういう構図なのか分かりませんが、上の方は遠い街並み、下の方は近くの街頭が写っていて2つの世界が同時に目の前にあるようなシュールさを漂わせているように思えます。崖の上なんでしょうか?? ヴォルスの初期の写真はこうしたちょっとシュールな作風に思えます。
写真家としてヴォルスが最も活躍したのは1937年で、肖像写真で初めての個展も行っています。パリ時代にはマックス・エルンストやジョアン・ミロなどと知り合いになっていたようです。1937年頃にはシュルレアリストたちとのポートレートも撮影されています。
ヴォルス 「舗装石」

こちらは1932~42年頃の作品。何の変哲もない舗装路ですが、アンフォルメルの絵もこんな感じですよねw 画面を3分割してそれぞれの質感の違いが感じられるかな。
ヴォルスはタイトルや年記を残していなかったので、撮影年代の特定は困難なようです。撮影当時のプリントは際めて希少で、1970年代にグレティ夫人のもとでオリジナルフィルムから作成されたモダンプリントが没後に写真家としての再評価に繋がりました(今回ご紹介しているのはモダンプリントです)
ヴォルス 「無題」

こちらは1939年の作品。釘とテーブルだと思いますが、抽象そのものと言った雰囲気になっています。実際のものなのに抽象画のように思えるセンスが流石です。
この年に第二次世界大戦が勃発すると、ヴォルスは敵国人として収容所に収監されてしまいました。収容所を転々とする中でエルンストと一緒だったこともあったようです。そうした生活が約1年続いた後、フランス国籍を持つグレティ・ダビジャと結婚して収容所を逃れ 南仏のカシに移り住んで静かに制作を続けました。(グレティ・ダビジャはシュルレアリストの詩人ジャック・バロンの前妻で、1933年に出会っています。)
ヴォルス 「自写像(ヴォルス百面相)」

こちらは1940~41年頃の作品。このシリーズはたくさんあって、様々な顔で自分を写しています。どういう意図があったか分かりませんが、結構おちゃめな感じで写ってますねw 実際はかなり苦しい時期だったはずだけどユーモアを感じます。
収容所にいた頃からドローイングや水彩を本格的に手掛けるようになっていき「サーカス・ヴォルス」のアイディアを得ています。
こちらは1940年の「サーカス・ヴォルス」に関する記述

自らの半生を振り返り、「雑多なものをすべて取り込み、機能を役立てサーカスの一部にしてしまう」という発想を綴っています。これ以降のヴォルス作品を読み解く鍵になりそうなアイディアです。
1941年にはアメリカ渡航を志し、作品をアメリカに運んで貰ってヴィザも取得しましたが、南仏をドイツ軍が占領したためアメリカ渡航を断念し、デュールフィに逃れました。デュールフィ近辺で3度引っ越しを繰り返し、終戦直後の1945年12月にパリへと戻っていきました。一方、運んでもらった作品で1942年にはアメリカで個展も行われていました。
ヴォルス 「作品、または絵画」

こちらは戦後の1946年のグワッシュ作品。無数の線とシミのような色彩が抽象的ですが、不思議と静かな調和を感じて音楽的に思えます。やはりパウル・クレーに通じるものがあるんじゃないかな。
1945年の年末にパリ ヴァンドームのルネ・ドルゥーアンの画廊で個展が行われ、ドルゥーアンの勧めで1946年1月から本格的に油彩の制作をはじめました。(一番古い油彩は1932年とされますが、戦前の作品は10点程度しか確認されていません)
ヴォルス 「葵色と黄土色」

こちらは1946年頃のグワッシュ作品。有機的で、初めて観たときは心臓かと思いましたw ちょっとキモいような原始を感じるような。
1945年には個展のカタログとして自らが編集した『ちいさな黒い本』も刊行されています。ちなみにヴォルスはこの頃に版画も多く手掛けましたが版画集は作ることがありませんでした。死後に夫人がオリジナルの原版を使って版画集を3度刊行しています。
こちらは『ちいさな黒い本』の写し。

本当に小さな本ですが、ヴォルス自身が制作したものなので作品に関する考えが書かれているのかも?
ヴォルス 「退屈な氾濫」

こちらは1946年頃のグワッシュ作品。青や黄色の色彩が鮮やかで何となく花とか蝶を思わせるかな。ヴォルスは南仏時代に自然をよく観察していたようなので、そうしたイメージに近いのではないかと思います。
この頃、アントナン・アルトーやサルトルなどとも知り合っています。彼らは1947年に行われたヴォルスの個展を注目していました。
ヴォルス 「つる草の星」

こちらは1947年頃の作品。タイトルのせいか、毛の生えた木の根っこみたいに見えますw シュールさもありつつ具象とも言えない独特の作風ですね。
この年にリュクサンブール画廊の「イマジネール展」に出品し、「ヨーロッパの抒情的抽象」と評されました。また、この翌年のモンパルナス画廊の展覧会に、デ・クーニング、アーシル・ゴーキー、マチュー、ピカビア、ジャクソン・ポロック、アド・ラインハルト、マーク・ロスコ、マーク・トビーといった現代絵画の巨匠となる画家たちとともに参加しています。
ヴォルス 「構成 白い十字」

こちらは1947年の油彩作品。確かに白い十字架ですねw これは厚塗りされていたりザラついていたり、一見しただけではどうやって描いたのか分からないようなところもあります。抽象性や技法などに次の時代への序曲といった雰囲気を感じます。
油彩は亡くなるまでに約90点程度あるそうで、5年くらいしかないので結構なペースかも。1947年のドルゥーアン画廊の個展では油彩を40点ほど発表し高い評価を得ました。この個展は後にアンフォルメルの主要メンバーとなるジョルジュ・マチューも絶賛し、ジャン・フォートリエらと共にしばしばヴォルスを訪れたようです。この辺がアンフォルメルの先駆者とされる所以ですね。
ヴォルス 「植物」

こちらは1947年の作品。タイトルを観て どこがやねん!?と心の中でツッコミました。一応、茎と花っぽく見えなくもないけど、植物だったらかなり毒々しいようなw むしろ鳥の頭みたいに見えるw
ヴォルスの油彩は薄く地塗りを施した上に画布を傾けて絵の具を流したり、絵の具のチューブで直接スタンプする、厚く絵の具を盛り上げる、ドリッピング、画面への陰刻線、ひっかくなど様々な技法が使われています。こうした技法もアンフォルメルやアクションペインティングの先駆けになったように思えます。
ヴォルス 「閉路」

こちらは1948~49年の油彩作品。私がヴォルスの中で特に好きなのがこちらです。チューブから直接キャンバスに落としたりしているのでマチエールが力強く感じられます。タシスムなどに通じる質感があるように思います。
ヴォルスが開いたのは形象を描くのではなく、ヴォルスの生きる時間と絵画の時間が一体化する生の動感がそのまま造形となる新しい世界だったようです。よく分からないけど心地よいリズムだったり、キモかったり生き物のように見えるのはそういうことなのかな。
ヴォルス 「街の秘密」

こちらは1951年のグワッシュ。油彩とは作風が違って線が多いのが特徴かな。確かに街に見えるような形象の重なりとなっていて廃墟のようにも思えてきます。
ヴァルスは1945~49年に集中して版画制作を行いました。ジャン=ポール・サルトルやアントナン・アルトーら文学者たちの挿画として制作したようですが、内容とは必ずしも呼応していなかったようです。また、9点の詩集や小説にヴォルスの銅版画が寄せられたようです。
ヴォルス 「街の中心」

こちらは死後の1955年に出された銅版画。ヴォルスの銅版画は細く尖った針で金属表面を削って微細な描線を刻み込んでいて、ドライポイントの技法にあたります。線が炸裂したような画風で、ちょっとパウル・クレーに似たものを感じます。
こうして名声が上がりつつあったヴォルスですが、アルコール中毒だった上 腐った馬肉を食べて食中毒を起こし1951年に38歳の若さで亡くなりました。苦しい時代を耐えてようやくという時にそんな死に方なの?とちょっと不憫です。
ということで現代絵画において功績の大きな画家となっています。それほど知られていないと思いますが、川村記念美術館やアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)、横浜美術館などにコレクションがあり、たまに紹介される機会もあります。世代の架け橋のような存在なので、覚えておきたい画家です。
参考記事:
ヴォルス――路上から宇宙へ (DIC川村記念美術館)
アンフォルメルとは何か?-20世紀フランス絵画の挑戦 (ブリヂストン美術館)
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今日は作者別紹介で、1930年代から1940年代前半にかけて活躍した靉光(あいみつ)を取り上げます。靉光は当初はフォーヴ的な作風でしたが独自の画風を切り開き「異端の画家」と呼ばれます。やがてシュルレアリスムと宋元画を融合させたような作風へとたどり着きますが、第2次世界大戦の激化で世相と描きたい絵の間で苦悩しました。当時から将来が有望視されていたものの、徴兵に応招し、日本に帰ることができないまま38歳の若さで病死しています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
靉光の本名は石村日郎で1907年に広島県で生まれました。1923年(16歳)の時に大阪に出て絵を学び、その翌年に上京して太平洋画会研究所に学んでいます。。1924年頃から靉川光郎と名乗り、さらに略して靉光となっていきました。1930年代に池袋周辺にあった「池袋モンパルナス」と呼ばれるアトリエ村で生活し、その界隈の画家と交流もしています。そして二科会、一九三〇年協会、 独立美術協会などに出品していきました。
参考記事:東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村 (板橋区立美術館)
残念ながら初期の作品の写真はありませんでした。現存してはいるのですが、数が少ないので…(理由は後述) 若い頃はフォーヴィスム、特にルオーなどに影響を受けていました。幼少の頃から何でも上手く描けたようで、ロウやクレヨンを熱で溶かした作風を編み出したり 天才的な才能を持っていました。
靉光 「シシ」

こちらは1936年の作品。題名から察するにライオンが描かれているわけですが、よく観ないと分かりませんねw 絵の具を塗っては削ったり拭き取ったりを繰り返して描いたようで、重い色彩で岩にでも描いたような独特の質感となっています。目を閉じて静かに寝る姿が何処と無く瞑想しているようにも思えてきます。
この年の第6回独立美術展に「ライオン」という作品を発表し、この頃はライオンの連作を制作しています。近代化のうちに圧殺されてきた民衆的生活感情の顕れではないかという解釈もあうようです。
靉光 「馬」

こちらも1936年の作品。こちらは割と分かるけど、馬と言うよりは痩せこけた犬のように見えます。特にお腹の部分が凹み、地に頭が付きそうなほど項垂れている様子が弱っているような印象です。色合いもくすんでいて、寂しげな印象を受けます。
この頃住んでいた池袋はアトリエ付き住宅の長屋が建設され、安い家賃で入居することができた為に画家や画学生たちに人気を博したそうで、主にフォーヴィスムやシュルレアリスムに関心を持つ画家が集まりました。全盛期には日本全国のみならず海外や海外帰りの画家なども集っていたようです。
靉光 「眼のある風景」

こちらは1938年の作品。作風が一気に変わってシュルレアリスム的な作品となっています。眼が中央におかれ、そこだけリアルな描写で周りは抽象的な感じかな。ちょっとエルンストの鳥の眼を思わせ、観ていると ぎょっとするような眼力がありますw この作品は独立美術協会賞を受賞し、靉光のみならず日本のシュルレアリスムの記念碑的な作品と言えます。
この翌年の1939年には斎藤義重、福沢一郎ら約40名と前衛芸術家の団体「美術文化協会」の創立に参加しました。靉光は処世に不器用なところがあったようですが、先日ご紹介した長谷川利行と交流があったり、意外と画家仲間はいたのかも。
靉光 「花・変様」

こちらは1941年。うねり青々しい葉っぱが妖しい雰囲気を醸し出しています。今までの抽象的な感じから細密な描写になっているのは中国の宋元画からの影響で、シュルレアリスムと宋元画が合わさったような印象を受けます。描いてあるものはリアルなのに一層に夢想的な感じですね。やや不気味で死を連想させます。
第二次世界大戦が始まると「池袋モンパルナス」にも警察も出入りするようになり、共産主義と結びついて考えられていたシュルレアリスムは弾圧の対象にもなりました。描きたいものと時代の間で大いに苦悩していた一方、この頃に3度 旧満州国に出掛けていて個展も開いています。これは収入を得るためだったようですが、この旅で、写実性を強く意識した画風に挑戦して自信を深めました。
靉光 「蝶」

こちらは1942年の作品。妖しく幻想的な雰囲気の蝶。どこかルドンに通じるものを感じます。くすんだ色彩がシュールさを出しているようにも思えますね。
戦時下の1943年に、靉光は麻生三郎、松本竣介らと共に「新人画会」を結成し、展覧会を行いました。ここでは直接 戦争とは関係のない作品を発表し信念を貫いています。
靉光 「自画像」

こちらは1944年の作品。大陸旅行から帰って短い時間で描いたもので、シュルレアリスムの要素もなく普遍的な肖像へと回帰した作風となっています。遠くを観るような視線で険しい表情をしていて、どこか英雄の肖像のような威厳を感じさせます。なお、自画像はこの他に2点ほど見覚えがあります。いずれも似たポーズですが表現がそれぞれ異なっています。これらの自画像は出征の際に友人に託され展覧会に出品されました。
この年に徴兵され中国に渡りました。1945年に故郷の広島に原爆が投下されると、靉光の作品や資料の多くが焼失し、現存する作品の数は非常に少なくなってしまいました。そして終戦後も日本に帰ることができず、1946年に上海で38歳で病死しています。
ということで、「異端の画家」と呼ばれるのも分かるような個性となっています。2007年に東京国立近代美術館で個展が行われたものの、それ以降はまとまって観られる機会は無かったかな。その時は図録を買ってなかったのが痛恨の極みです。またそうした機会があったら観に行きたい画家です。
靉光の本名は石村日郎で1907年に広島県で生まれました。1923年(16歳)の時に大阪に出て絵を学び、その翌年に上京して太平洋画会研究所に学んでいます。。1924年頃から靉川光郎と名乗り、さらに略して靉光となっていきました。1930年代に池袋周辺にあった「池袋モンパルナス」と呼ばれるアトリエ村で生活し、その界隈の画家と交流もしています。そして二科会、一九三〇年協会、 独立美術協会などに出品していきました。
参考記事:東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村 (板橋区立美術館)
残念ながら初期の作品の写真はありませんでした。現存してはいるのですが、数が少ないので…(理由は後述) 若い頃はフォーヴィスム、特にルオーなどに影響を受けていました。幼少の頃から何でも上手く描けたようで、ロウやクレヨンを熱で溶かした作風を編み出したり 天才的な才能を持っていました。
靉光 「シシ」

こちらは1936年の作品。題名から察するにライオンが描かれているわけですが、よく観ないと分かりませんねw 絵の具を塗っては削ったり拭き取ったりを繰り返して描いたようで、重い色彩で岩にでも描いたような独特の質感となっています。目を閉じて静かに寝る姿が何処と無く瞑想しているようにも思えてきます。
この年の第6回独立美術展に「ライオン」という作品を発表し、この頃はライオンの連作を制作しています。近代化のうちに圧殺されてきた民衆的生活感情の顕れではないかという解釈もあうようです。
靉光 「馬」

こちらも1936年の作品。こちらは割と分かるけど、馬と言うよりは痩せこけた犬のように見えます。特にお腹の部分が凹み、地に頭が付きそうなほど項垂れている様子が弱っているような印象です。色合いもくすんでいて、寂しげな印象を受けます。
この頃住んでいた池袋はアトリエ付き住宅の長屋が建設され、安い家賃で入居することができた為に画家や画学生たちに人気を博したそうで、主にフォーヴィスムやシュルレアリスムに関心を持つ画家が集まりました。全盛期には日本全国のみならず海外や海外帰りの画家なども集っていたようです。
靉光 「眼のある風景」

こちらは1938年の作品。作風が一気に変わってシュルレアリスム的な作品となっています。眼が中央におかれ、そこだけリアルな描写で周りは抽象的な感じかな。ちょっとエルンストの鳥の眼を思わせ、観ていると ぎょっとするような眼力がありますw この作品は独立美術協会賞を受賞し、靉光のみならず日本のシュルレアリスムの記念碑的な作品と言えます。
この翌年の1939年には斎藤義重、福沢一郎ら約40名と前衛芸術家の団体「美術文化協会」の創立に参加しました。靉光は処世に不器用なところがあったようですが、先日ご紹介した長谷川利行と交流があったり、意外と画家仲間はいたのかも。
靉光 「花・変様」

こちらは1941年。うねり青々しい葉っぱが妖しい雰囲気を醸し出しています。今までの抽象的な感じから細密な描写になっているのは中国の宋元画からの影響で、シュルレアリスムと宋元画が合わさったような印象を受けます。描いてあるものはリアルなのに一層に夢想的な感じですね。やや不気味で死を連想させます。
第二次世界大戦が始まると「池袋モンパルナス」にも警察も出入りするようになり、共産主義と結びついて考えられていたシュルレアリスムは弾圧の対象にもなりました。描きたいものと時代の間で大いに苦悩していた一方、この頃に3度 旧満州国に出掛けていて個展も開いています。これは収入を得るためだったようですが、この旅で、写実性を強く意識した画風に挑戦して自信を深めました。
靉光 「蝶」

こちらは1942年の作品。妖しく幻想的な雰囲気の蝶。どこかルドンに通じるものを感じます。くすんだ色彩がシュールさを出しているようにも思えますね。
戦時下の1943年に、靉光は麻生三郎、松本竣介らと共に「新人画会」を結成し、展覧会を行いました。ここでは直接 戦争とは関係のない作品を発表し信念を貫いています。
靉光 「自画像」

こちらは1944年の作品。大陸旅行から帰って短い時間で描いたもので、シュルレアリスムの要素もなく普遍的な肖像へと回帰した作風となっています。遠くを観るような視線で険しい表情をしていて、どこか英雄の肖像のような威厳を感じさせます。なお、自画像はこの他に2点ほど見覚えがあります。いずれも似たポーズですが表現がそれぞれ異なっています。これらの自画像は出征の際に友人に託され展覧会に出品されました。
この年に徴兵され中国に渡りました。1945年に故郷の広島に原爆が投下されると、靉光の作品や資料の多くが焼失し、現存する作品の数は非常に少なくなってしまいました。そして終戦後も日本に帰ることができず、1946年に上海で38歳で病死しています。
ということで、「異端の画家」と呼ばれるのも分かるような個性となっています。2007年に東京国立近代美術館で個展が行われたものの、それ以降はまとまって観られる機会は無かったかな。その時は図録を買ってなかったのが痛恨の極みです。またそうした機会があったら観に行きたい画家です。
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今日は作者別紹介で、報道写真家でありながらアートの世界でも名高いロバート・キャパを取り上げます。ロバート・キャパという名前は元は架空の存在で、実際には2人の人物が共同制作していました。しかし1人は戦場で若くして亡くなり、もう1人は1954年に地雷でなくなるまで5つの戦場で報道写真を撮りました。一方、多くの文化人や芸術家と交流を持ち、彼らの日常を撮った写真も多く残し報道写真とは別の魅力もみせてくれます。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
ロバート・キャパの本名はアンドレ・フリードマンではありますが、もう1人ロバート・キャパと言える人物がいます(理由は後述)まずアンドレ・フリードマン(フリードマン・エンドレ)についてですが1913年にハンガリーのユダヤ系の家に生まれました。1931年の18歳の時に左翼運動に関わり逮捕され、釈放されるとベルリンに逃れ高等政治専門学校に学ぶ傍ら、写真通信社の暗室係として働いていました。その頃にはコペンハーゲンで演説するトロツキーを撮影して名を挙げています。1933年になるとナチスから逃れパリに移住し、ここで後に「マグナム」の創始メンバーとなるカルティエ=ブレッソン、シーモアらと出会っています。その頃は貧しく、同時期にパリに住んでいた日本人の川添浩史(イタリア料理屋キャンティの創始者)のアパルトマンに出入りしていたようで、その縁でパリ在住の日本人たちとも交流を持っていました(毎日新聞パリ支局長の城戸又一からはアルバイトを得ていたそうです) また、その少し前の1934年にはドイツから逃れてきたユダヤ人の女性写真家のゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ)と出会いました。このゲルダ・タローこそがもう1人のロバート・キャパで、やがて2人は恋仲になり1936年からロバート・キャパ名義で共同制作するようになりました。そのため、2人のどちらが制作したのか分からない作品もあります。なお「ゲルダ・タロー」もペンネームですが、これはアンドレ・フリードマンと親交があった岡本太郎に因んだとされています。
ロバート・キャパ 「前線へ赴く兵士との別れ、バルセロナ 1936年8月」

こちらは1936年の作品。仲睦まじいカップルの写真ですが、この後戦争に向かう劇的な場面となっています。この後2人はどうなったのか気になるところですね。ロバート・キャパの作品にはこうした歴史を象徴するようなものが多く、報道写真ながらも芸術性もある作風となっています。
ロバート・キャパ名義にしたのは当時のヨーロッパ情勢のためのようで、ユダヤ人である彼らが政治的狭量を乗り越え、「アメリカのすごい写真家」という架空の人物像を作ってアメリカ市場で売り込みやすいようにしたようです。
ロバート・キャパ 「ストライキ中のラファイエット百貨店ガードマン、パリ 1936年6月12日頃」

こちらは1936年の作品。壁にもたれて休んでいるように見えるけどストライキのようです。うつむいて難しい顔をしているのが心境を伺わせます。
この1936年の9月のスペイン内戦中に撮影した「崩れ落ちる兵士」で、ロバート・キャパは一躍有名写真家となりました。兵士が撃たれる瞬間を撮ったもので、驚くべきシーンではあるのですが あまりに劇的で後々までやらせ疑惑がありました。(現在では実際は兵士らのマスコミ向けの演習中に坂で滑った兵士を撮ったとされています)
ロバート・キャパ 「第一次世界大戦休戦記念日にパレードする退役軍人、パリ 1936年11月11日」

こちらも1936年の作品。退役軍人たちのパレードの様子で、特に中央の杖をついた人に目が行きます。負いても意志の強そうな雰囲気ですね。
ロバート・キャパはアンドレ・フリードマンとゲルダ・タローのどちらが撮ったか分からなかったものも、最近では研究が進んでカメラや構図などで違いが分かってきたようです。先述の「崩れ落ちる兵士」はゲルダ・タローが撮ったものと考えられるようになっています。
ロバート・キャパ 「空襲警報、ビルバオ、スペイン 1937年5月」

こちらは1937年の作品。みんな一様に空を見上げて不安げな面持ちで、当時の緊張感が伝わってきます。ロバート・キャパの作風の1つとして、何かを観ている人たちを撮るというのがあるように思います。
この1937年の7月にゲルダ・タローはスペイン内戦の取材中に事故に巻き込まれて亡くなりました。アンドレ・フリードマンの悲しみは深く、多くの人がその死を深く悼みゲルダ・タローは反ファシストの象徴とされました。彼女の墓碑はジャコメッティがデザインしています。(その後ナチスに破壊されたが再作成しています) そしてこれ以降もアンドレ・フリードマンはロバート・キャパの名義で活動を続けていきました。
ロバート・キャパ 「Dデイ、オマハ・ビーチ、ノルマンディー海岸、1944年6月6日」

こちらは1944年のノルマンディー上陸作戦の様子を撮った作品。海岸で匍匐前進する様子や海に浮かぶ舟などが写っていて、右に見えるのは砲火でしょうか…。まさに歴史が変わる戦場を撮った驚くべき写真です。
1939年にアメリカに移り1940年には永住権を得ています。1938年に日中戦争、1943年には北アフリカ戦線、イタリア戦線を取材し『ライフ』の特派写真家としてヨーロッパ戦線の重要な場面を記録していきました。このDデイシリーズはその中でも最高傑作とされています。
ロバート・キャパ 「Dデイ、オマハ・ビーチ、ノルマンディー海岸、1944年6月6日」

こちらも1944年の史上最大の作戦。まさに存亡をかけた決戦の写真で、ややブレてる感じが逆に緊迫感を出しているように思えます。兵士のこの表情も鬼気迫ります。
このDデイは元々は100枚以上あったようですが、現像の際に興奮しすぎた暗室助手の不手際で11枚しか残らなかったようです。人類史に残る貴重な作品をそんなことで失うとは何とも勿体ない。
ロバート・キャパ 「解放の日、パリ 1944年8月26日」

こちらも1944年の作品で、ナチスからの解放を祝うパリの様子。みんな歓喜の表情でイギリスやアメリカの旗も確認できます。道だけではなくバルコニーや屋根にまで人が溢れて凄い光景です。
これで戦争は終わった訳ではなく、ロバート・キャパはこの後も1945年の終戦まで各地の戦場を取材しています。
ロバート・キャパ 「解放の日、パリ 1944年8月26日」

こちらも同じく1944年の作品。群衆の喜びのエネルギーが凝縮されたような1枚で、これも激動の時代を伝えてくれますね。
終戦後の1946年にアメリカで市民権を得て、戦後はピカソなどの著名人を撮影しています。戦時の報道写真と異なる魅力のどこかユーモアを感じる作風となっています。
ロバート・キャパ 「パブロ・ピカソと息子クロード、ゴルフ=ジュアン、フランス 1948年8月」

こちらは1948年の作品。天才ピカソもこうしてみると子煩悩なお父さんって感じですねw 2人並んで仲睦まじい雰囲気が出ています。
1947年には著書『ちょっとピンぼけ』を出版しました。また、同じ年にアンリ・カルティエ=ブレッソン、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーらと国際写真家集団「マグナム」を結成しています。
ロバート・キャパ 「パブロ・ピカソとフランソワーズ・ジロー、ゴルフ=ジュアン、フランス 1948年10月」

こちらも1948年の作品。このフランソワーズ・ジローは画家でもあり、ピカソと2人の子(さっきのクロードもその1人)をもうけた愛人で、この5年後にピカソに愛想を尽かして出ていきました。ピカソを振った唯一の女性とされています。この頃は仲が良かったようで幸せそうですね。ピカソのおどけた感じも何だかユーモラス
先述のように日本とも縁があったため、1954年に来日して日本各地で写真を撮っています。その直後に第一次インドシナ戦争の取材のため北ベトナムに渡り、その地で地雷によって爆死を遂げました。しかしその名は優れた報道写真に贈られるロバート・キャパ賞として今でも失われることなく残っています。
ということで、本質は報道写真の写真家であるものの アートの分野でも非常に高い評価を得ています。今回ご紹介できなかった有名作も多数あり、今でも伝説的な存在です。横浜美術館にはロバート・キャパの実弟から寄付されたコレクションがあるので、見かけたらじっくりと味わってみて頂ければと思います。
参考記事:マグナムを創った写真家たち~キャパ、カルティエ=ブレッソン、ロジャー、シーモア~ FUJIFILM SQUARE(フジフイルム スクエア)
ロバート・キャパの本名はアンドレ・フリードマンではありますが、もう1人ロバート・キャパと言える人物がいます(理由は後述)まずアンドレ・フリードマン(フリードマン・エンドレ)についてですが1913年にハンガリーのユダヤ系の家に生まれました。1931年の18歳の時に左翼運動に関わり逮捕され、釈放されるとベルリンに逃れ高等政治専門学校に学ぶ傍ら、写真通信社の暗室係として働いていました。その頃にはコペンハーゲンで演説するトロツキーを撮影して名を挙げています。1933年になるとナチスから逃れパリに移住し、ここで後に「マグナム」の創始メンバーとなるカルティエ=ブレッソン、シーモアらと出会っています。その頃は貧しく、同時期にパリに住んでいた日本人の川添浩史(イタリア料理屋キャンティの創始者)のアパルトマンに出入りしていたようで、その縁でパリ在住の日本人たちとも交流を持っていました(毎日新聞パリ支局長の城戸又一からはアルバイトを得ていたそうです) また、その少し前の1934年にはドイツから逃れてきたユダヤ人の女性写真家のゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ)と出会いました。このゲルダ・タローこそがもう1人のロバート・キャパで、やがて2人は恋仲になり1936年からロバート・キャパ名義で共同制作するようになりました。そのため、2人のどちらが制作したのか分からない作品もあります。なお「ゲルダ・タロー」もペンネームですが、これはアンドレ・フリードマンと親交があった岡本太郎に因んだとされています。
ロバート・キャパ 「前線へ赴く兵士との別れ、バルセロナ 1936年8月」

こちらは1936年の作品。仲睦まじいカップルの写真ですが、この後戦争に向かう劇的な場面となっています。この後2人はどうなったのか気になるところですね。ロバート・キャパの作品にはこうした歴史を象徴するようなものが多く、報道写真ながらも芸術性もある作風となっています。
ロバート・キャパ名義にしたのは当時のヨーロッパ情勢のためのようで、ユダヤ人である彼らが政治的狭量を乗り越え、「アメリカのすごい写真家」という架空の人物像を作ってアメリカ市場で売り込みやすいようにしたようです。
ロバート・キャパ 「ストライキ中のラファイエット百貨店ガードマン、パリ 1936年6月12日頃」

こちらは1936年の作品。壁にもたれて休んでいるように見えるけどストライキのようです。うつむいて難しい顔をしているのが心境を伺わせます。
この1936年の9月のスペイン内戦中に撮影した「崩れ落ちる兵士」で、ロバート・キャパは一躍有名写真家となりました。兵士が撃たれる瞬間を撮ったもので、驚くべきシーンではあるのですが あまりに劇的で後々までやらせ疑惑がありました。(現在では実際は兵士らのマスコミ向けの演習中に坂で滑った兵士を撮ったとされています)
ロバート・キャパ 「第一次世界大戦休戦記念日にパレードする退役軍人、パリ 1936年11月11日」

こちらも1936年の作品。退役軍人たちのパレードの様子で、特に中央の杖をついた人に目が行きます。負いても意志の強そうな雰囲気ですね。
ロバート・キャパはアンドレ・フリードマンとゲルダ・タローのどちらが撮ったか分からなかったものも、最近では研究が進んでカメラや構図などで違いが分かってきたようです。先述の「崩れ落ちる兵士」はゲルダ・タローが撮ったものと考えられるようになっています。
ロバート・キャパ 「空襲警報、ビルバオ、スペイン 1937年5月」

こちらは1937年の作品。みんな一様に空を見上げて不安げな面持ちで、当時の緊張感が伝わってきます。ロバート・キャパの作風の1つとして、何かを観ている人たちを撮るというのがあるように思います。
この1937年の7月にゲルダ・タローはスペイン内戦の取材中に事故に巻き込まれて亡くなりました。アンドレ・フリードマンの悲しみは深く、多くの人がその死を深く悼みゲルダ・タローは反ファシストの象徴とされました。彼女の墓碑はジャコメッティがデザインしています。(その後ナチスに破壊されたが再作成しています) そしてこれ以降もアンドレ・フリードマンはロバート・キャパの名義で活動を続けていきました。
ロバート・キャパ 「Dデイ、オマハ・ビーチ、ノルマンディー海岸、1944年6月6日」

こちらは1944年のノルマンディー上陸作戦の様子を撮った作品。海岸で匍匐前進する様子や海に浮かぶ舟などが写っていて、右に見えるのは砲火でしょうか…。まさに歴史が変わる戦場を撮った驚くべき写真です。
1939年にアメリカに移り1940年には永住権を得ています。1938年に日中戦争、1943年には北アフリカ戦線、イタリア戦線を取材し『ライフ』の特派写真家としてヨーロッパ戦線の重要な場面を記録していきました。このDデイシリーズはその中でも最高傑作とされています。
ロバート・キャパ 「Dデイ、オマハ・ビーチ、ノルマンディー海岸、1944年6月6日」

こちらも1944年の史上最大の作戦。まさに存亡をかけた決戦の写真で、ややブレてる感じが逆に緊迫感を出しているように思えます。兵士のこの表情も鬼気迫ります。
このDデイは元々は100枚以上あったようですが、現像の際に興奮しすぎた暗室助手の不手際で11枚しか残らなかったようです。人類史に残る貴重な作品をそんなことで失うとは何とも勿体ない。
ロバート・キャパ 「解放の日、パリ 1944年8月26日」

こちらも1944年の作品で、ナチスからの解放を祝うパリの様子。みんな歓喜の表情でイギリスやアメリカの旗も確認できます。道だけではなくバルコニーや屋根にまで人が溢れて凄い光景です。
これで戦争は終わった訳ではなく、ロバート・キャパはこの後も1945年の終戦まで各地の戦場を取材しています。
ロバート・キャパ 「解放の日、パリ 1944年8月26日」

こちらも同じく1944年の作品。群衆の喜びのエネルギーが凝縮されたような1枚で、これも激動の時代を伝えてくれますね。
終戦後の1946年にアメリカで市民権を得て、戦後はピカソなどの著名人を撮影しています。戦時の報道写真と異なる魅力のどこかユーモアを感じる作風となっています。
ロバート・キャパ 「パブロ・ピカソと息子クロード、ゴルフ=ジュアン、フランス 1948年8月」

こちらは1948年の作品。天才ピカソもこうしてみると子煩悩なお父さんって感じですねw 2人並んで仲睦まじい雰囲気が出ています。
1947年には著書『ちょっとピンぼけ』を出版しました。また、同じ年にアンリ・カルティエ=ブレッソン、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーらと国際写真家集団「マグナム」を結成しています。
ロバート・キャパ 「パブロ・ピカソとフランソワーズ・ジロー、ゴルフ=ジュアン、フランス 1948年10月」

こちらも1948年の作品。このフランソワーズ・ジローは画家でもあり、ピカソと2人の子(さっきのクロードもその1人)をもうけた愛人で、この5年後にピカソに愛想を尽かして出ていきました。ピカソを振った唯一の女性とされています。この頃は仲が良かったようで幸せそうですね。ピカソのおどけた感じも何だかユーモラス
先述のように日本とも縁があったため、1954年に来日して日本各地で写真を撮っています。その直後に第一次インドシナ戦争の取材のため北ベトナムに渡り、その地で地雷によって爆死を遂げました。しかしその名は優れた報道写真に贈られるロバート・キャパ賞として今でも失われることなく残っています。
ということで、本質は報道写真の写真家であるものの アートの分野でも非常に高い評価を得ています。今回ご紹介できなかった有名作も多数あり、今でも伝説的な存在です。横浜美術館にはロバート・キャパの実弟から寄付されたコレクションがあるので、見かけたらじっくりと味わってみて頂ければと思います。
参考記事:マグナムを創った写真家たち~キャパ、カルティエ=ブレッソン、ロジャー、シーモア~ FUJIFILM SQUARE(フジフイルム スクエア)
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更新情報や美術関連の小ネタをtwitterで呟いています。
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今日は作者別紹介で、放浪の画家と呼ばれ1920年代前半から1940年頃まで活動した長谷川利行を取り上げます。長谷川利行はちょっとエキセントリックなところがあり、賞を取った後も東京のあちこちを放浪し各地の光景や市井の人々をよく描きました。フォーヴィスムに似た激しい色彩ではあるものの、他の誰とも違う画風となっていて人柄同様に個性的な画家となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
長谷川利行は1891年に京都に生まれ、青春時代は文学に傾倒し自ら歌集を出版するほどでした。30歳ころまで京都や関西で過ごし、短歌を作る一方で大下藤次郎が主催した水彩画講習会に通っていました。その後上京し1923年の32歳の時に新光洋画会展で「田端変電所」が入選し、画家となる転機となりました。しかしその年の9月1日に関東大震災に被災し、一旦京都へ戻っています。しばらくして再上京し、1926年に日暮里の日蓮宗の修練場に下宿するようになり、その年の二科展では初めて入選を果たしています。さらに翌年の1927年(36歳)には「酒売場」を出品し樗牛賞を受賞、1928年には1930年協会展で「地下鉄道」「カフェ・パウリスタ」などを出して協会賞を受賞するなど順調に受賞を重ねていきました。その画風はフォーヴィスム風とも言えますが、初期の頃から既に長谷川利行らしい独自路線となっていて、個性に驚かされます。
長谷川利行 「カフェ・パウリスタ」

こちらは1928年の作品です。パウリスタとはサンパウロっ子という意味で、1911年の開店の当時から人気で今でも銀座で続いているカフェを描いたものです。これは長らく行方不明だったのがテレビで鑑定に出されて再び世に出たそうで、なんでも鑑定団かな?w 下宿の家賃代わりにおいて行ったそうです。やや抽象的ですが色合いや単純化が好み。
樗牛賞を取った「酒売場」は浅草の神谷バーの店内の様子を描いていて、長谷川利行はこの店によく通って電気ブランを飲んでいたのだとか。馴染みの店や鉄道といった人が集まる場所をよく描いたというのは1つの特徴かもしれません。
長谷川利行 「赤い汽罐車庫」

こちらは1928年の作品。かつての田端駅をモチーフにしていて、強い色彩が目を引きます。タッチも力強くて汽車の印象にあっていますね。この作品は1929年に1930年協会展に出品されたもので、画面も大きいこともあって代表作の1つと言えそうです。
ここまで風景画をご紹介しましたが、長谷川利行は肖像もよく描いています。画家の靉光や井上長三郎や寺田政明など年下の世代の画家と親しかったようで、靉光の家に泊まりに行った時に靉光を彼のパレットと古カンヴァスを使って30分くらいで描いた肖像なんかも残されています。
長谷川利行 「ガイコツと瓶のある静物」

こちらは1928年の作品で、静物はちょっと珍しいかも。この前年には酒売場で受賞したわけですが、その賞金を酒代に使ってしまったそうですw この瓶はウィスキー(ジョニーウォーカー?)の瓶で、頭蓋骨と絵画と密接に並んで描かれています。つまりこの3つは自分を表すモティーフで、一種の自画像ではないか?という説もあるようです。って割と納得してしまうw 独特の筆致で頭蓋骨の質感が特に目を引きます。
長谷川利行は1929年に日暮里から山谷の簡易宿泊所に移りました。当時は経済恐慌で失業者が溢れている状況で、たまに知人のところに滞在することもあったようですが、転々として街をアトリエのようにして現場で描くことが多かったそうです。二科展では会友にも会員にも推されることがなかったものの、二科展にこだわって出品し続け1931年の二科展では「岸田国士像」を出して好評を得ました。
長谷川利行 「岸田国士像」

こちらが二科展で好評だった1930年の作品で、当時 新進の演劇界の岸田國士の40歳の頃の肖像です。やや茶色がかった背景にスーツを着てメガネを掛け、怪訝そうな感じの表情がちょっと変わっていますが聡明そうな印象を受けるかな。岸田国士には長谷川利行の友人の矢野文夫を介して肖像を描かせて欲しいと頼んで4~5日で描いたそうです。その結果、好評だったのは良かったのですが、その後も毎日のように岸田家を訪ねては小遣いをせびり、辟易とされたそうですw 何だか長谷川利行の駄目人間っぷりが分かるエピソードです。
この絵は有名人ですが、長谷川利行はむしろ1回限りしか会わない無名の人々をよく描きました。映画のセリフを話す活弁士や、芸人、カフェの人、浅草の人たちなどを描いた作品などが残され、様々な表現で市井の人を主題にしています。
長谷川利行 「タンク街道」

こちらは1930年の作品。千住にあったガスタンクで、当時は東京らしい名所として知られていたようです。手前は道で、奥行きを感じさせるというよりは色の対比が強くなっているように見えます。筆使いも激しいし、単なる名所絵ではない面白さがありますね。
放浪の画家と呼ばれる長谷川利行が誰よりも共に過ごしたのは矢野文夫で、この人はボードレールの詩を翻訳したり雑誌『美術手帖』を主宰創刊した人物です。2人は上京後に知り合い、長谷川利行の死後には評伝をまとめて顕彰に努めました。この人のお陰で長谷川利行が今日でも評価されているのかもしれませんね。
長谷川利行 「鉄工場の裏」

こちらは1931年の作品。現在の東京都北区の尾久か千住あたりの光景と考えられていて、全体的に縦方向にジグザグした感じの構図となっています。白を貴重に赤や黒が際立って見えて、リズムを感じます。人っ子一人いない場末っぽい雰囲気も出ていて見事です。
長谷川利行は都内各所を描いていて、この頃は下町が多いように思います。日暮里や山谷に居たからかな。
長谷川利行 「お化け煙突」

こちらは1935~36年頃の作品で、恐らく千住にあった煙突のことだと思います。見る角度が変わると煙突の本数が変わって見えるというのがその名の由来で、遠くから見たこの光景でも一際強い存在感があります。とは言え、全体的に白や青の多い淡めの色彩で、のんびりと穏やかな雰囲気に見えます。どこか郷愁を誘う情景ですね。
1936年に友人の天城俊彦が天城画廊を開くと、2年間で14回も長谷川利行展を行ったそうで、1937年には長谷川利行を新宿旭町に引っ越しさせて絵を描かせたようです。この頃は2人でノア・ノア、モナミといった喫茶店に出入りし、女給さんたちを描いた作品も残しています。
長谷川利行 「ノアノアの女」

こちらは1937年の作品。ノア・ノアは新宿にあった喫茶店で、制服姿の女給さんを描いているようです。即興で描いたのか背景は抽象的なほどに簡略的ですが、女性の華やかな雰囲気は感じられます。微笑んでいるようにも見えて、好みの作品です。
長谷川利行は新宿に移った頃から胃を病んで苦しむようになりました。やがて天城画廊が閉じると また山谷に戻っていきましたが、生活も体もどん詰まりの状況に追い込まれていきました。当時は日中戦争も泥沼化していて物資は不足し困難な状況で描く絵も減ってしまいましたが、どういうわけか絵は冴えたようです。
長谷川利行 「新宿風景」

こちらは1937年頃の作品。新宿の街並みを描いたもので、黒い線や点は人の姿でしょうか。簡潔ながらも雑多な雰囲気が感じられます。右下辺りにやけに小さな人影らしきものもあってちょっと可愛いw
長谷川利行は相撲が好きだったそうで、1938年の初場所初日を観戦し その直後には「長谷川利行 春場所相撲絵展」なんて展覧会も開催されたのだとか。しかし病には勝てず、1940年5月17日に三河島の駅の道端で行き倒れました。板橋の東京市養育院へと送られましたが10月12日に胃癌で亡くなりました。亡くなった時は友人もおらず見送る人はいなかったようです。
ということで、作品も生涯も非常に個性的な画家です。万人受けする感じではないですが、もっと人気が出てもおかしくない実力と面白さがあると思います。東京国立近代美術館の常設などで観る機会もあるので、見かけたらじっくりチェックしてみてください。
参考記事:長谷川利行展 七色の東京 (府中市美術館)
長谷川利行は1891年に京都に生まれ、青春時代は文学に傾倒し自ら歌集を出版するほどでした。30歳ころまで京都や関西で過ごし、短歌を作る一方で大下藤次郎が主催した水彩画講習会に通っていました。その後上京し1923年の32歳の時に新光洋画会展で「田端変電所」が入選し、画家となる転機となりました。しかしその年の9月1日に関東大震災に被災し、一旦京都へ戻っています。しばらくして再上京し、1926年に日暮里の日蓮宗の修練場に下宿するようになり、その年の二科展では初めて入選を果たしています。さらに翌年の1927年(36歳)には「酒売場」を出品し樗牛賞を受賞、1928年には1930年協会展で「地下鉄道」「カフェ・パウリスタ」などを出して協会賞を受賞するなど順調に受賞を重ねていきました。その画風はフォーヴィスム風とも言えますが、初期の頃から既に長谷川利行らしい独自路線となっていて、個性に驚かされます。
長谷川利行 「カフェ・パウリスタ」

こちらは1928年の作品です。パウリスタとはサンパウロっ子という意味で、1911年の開店の当時から人気で今でも銀座で続いているカフェを描いたものです。これは長らく行方不明だったのがテレビで鑑定に出されて再び世に出たそうで、なんでも鑑定団かな?w 下宿の家賃代わりにおいて行ったそうです。やや抽象的ですが色合いや単純化が好み。
樗牛賞を取った「酒売場」は浅草の神谷バーの店内の様子を描いていて、長谷川利行はこの店によく通って電気ブランを飲んでいたのだとか。馴染みの店や鉄道といった人が集まる場所をよく描いたというのは1つの特徴かもしれません。
長谷川利行 「赤い汽罐車庫」

こちらは1928年の作品。かつての田端駅をモチーフにしていて、強い色彩が目を引きます。タッチも力強くて汽車の印象にあっていますね。この作品は1929年に1930年協会展に出品されたもので、画面も大きいこともあって代表作の1つと言えそうです。
ここまで風景画をご紹介しましたが、長谷川利行は肖像もよく描いています。画家の靉光や井上長三郎や寺田政明など年下の世代の画家と親しかったようで、靉光の家に泊まりに行った時に靉光を彼のパレットと古カンヴァスを使って30分くらいで描いた肖像なんかも残されています。
長谷川利行 「ガイコツと瓶のある静物」

こちらは1928年の作品で、静物はちょっと珍しいかも。この前年には酒売場で受賞したわけですが、その賞金を酒代に使ってしまったそうですw この瓶はウィスキー(ジョニーウォーカー?)の瓶で、頭蓋骨と絵画と密接に並んで描かれています。つまりこの3つは自分を表すモティーフで、一種の自画像ではないか?という説もあるようです。って割と納得してしまうw 独特の筆致で頭蓋骨の質感が特に目を引きます。
長谷川利行は1929年に日暮里から山谷の簡易宿泊所に移りました。当時は経済恐慌で失業者が溢れている状況で、たまに知人のところに滞在することもあったようですが、転々として街をアトリエのようにして現場で描くことが多かったそうです。二科展では会友にも会員にも推されることがなかったものの、二科展にこだわって出品し続け1931年の二科展では「岸田国士像」を出して好評を得ました。
長谷川利行 「岸田国士像」

こちらが二科展で好評だった1930年の作品で、当時 新進の演劇界の岸田國士の40歳の頃の肖像です。やや茶色がかった背景にスーツを着てメガネを掛け、怪訝そうな感じの表情がちょっと変わっていますが聡明そうな印象を受けるかな。岸田国士には長谷川利行の友人の矢野文夫を介して肖像を描かせて欲しいと頼んで4~5日で描いたそうです。その結果、好評だったのは良かったのですが、その後も毎日のように岸田家を訪ねては小遣いをせびり、辟易とされたそうですw 何だか長谷川利行の駄目人間っぷりが分かるエピソードです。
この絵は有名人ですが、長谷川利行はむしろ1回限りしか会わない無名の人々をよく描きました。映画のセリフを話す活弁士や、芸人、カフェの人、浅草の人たちなどを描いた作品などが残され、様々な表現で市井の人を主題にしています。
長谷川利行 「タンク街道」

こちらは1930年の作品。千住にあったガスタンクで、当時は東京らしい名所として知られていたようです。手前は道で、奥行きを感じさせるというよりは色の対比が強くなっているように見えます。筆使いも激しいし、単なる名所絵ではない面白さがありますね。
放浪の画家と呼ばれる長谷川利行が誰よりも共に過ごしたのは矢野文夫で、この人はボードレールの詩を翻訳したり雑誌『美術手帖』を主宰創刊した人物です。2人は上京後に知り合い、長谷川利行の死後には評伝をまとめて顕彰に努めました。この人のお陰で長谷川利行が今日でも評価されているのかもしれませんね。
長谷川利行 「鉄工場の裏」

こちらは1931年の作品。現在の東京都北区の尾久か千住あたりの光景と考えられていて、全体的に縦方向にジグザグした感じの構図となっています。白を貴重に赤や黒が際立って見えて、リズムを感じます。人っ子一人いない場末っぽい雰囲気も出ていて見事です。
長谷川利行は都内各所を描いていて、この頃は下町が多いように思います。日暮里や山谷に居たからかな。
長谷川利行 「お化け煙突」

こちらは1935~36年頃の作品で、恐らく千住にあった煙突のことだと思います。見る角度が変わると煙突の本数が変わって見えるというのがその名の由来で、遠くから見たこの光景でも一際強い存在感があります。とは言え、全体的に白や青の多い淡めの色彩で、のんびりと穏やかな雰囲気に見えます。どこか郷愁を誘う情景ですね。
1936年に友人の天城俊彦が天城画廊を開くと、2年間で14回も長谷川利行展を行ったそうで、1937年には長谷川利行を新宿旭町に引っ越しさせて絵を描かせたようです。この頃は2人でノア・ノア、モナミといった喫茶店に出入りし、女給さんたちを描いた作品も残しています。
長谷川利行 「ノアノアの女」

こちらは1937年の作品。ノア・ノアは新宿にあった喫茶店で、制服姿の女給さんを描いているようです。即興で描いたのか背景は抽象的なほどに簡略的ですが、女性の華やかな雰囲気は感じられます。微笑んでいるようにも見えて、好みの作品です。
長谷川利行は新宿に移った頃から胃を病んで苦しむようになりました。やがて天城画廊が閉じると また山谷に戻っていきましたが、生活も体もどん詰まりの状況に追い込まれていきました。当時は日中戦争も泥沼化していて物資は不足し困難な状況で描く絵も減ってしまいましたが、どういうわけか絵は冴えたようです。
長谷川利行 「新宿風景」

こちらは1937年頃の作品。新宿の街並みを描いたもので、黒い線や点は人の姿でしょうか。簡潔ながらも雑多な雰囲気が感じられます。右下辺りにやけに小さな人影らしきものもあってちょっと可愛いw
長谷川利行は相撲が好きだったそうで、1938年の初場所初日を観戦し その直後には「長谷川利行 春場所相撲絵展」なんて展覧会も開催されたのだとか。しかし病には勝てず、1940年5月17日に三河島の駅の道端で行き倒れました。板橋の東京市養育院へと送られましたが10月12日に胃癌で亡くなりました。亡くなった時は友人もおらず見送る人はいなかったようです。
ということで、作品も生涯も非常に個性的な画家です。万人受けする感じではないですが、もっと人気が出てもおかしくない実力と面白さがあると思います。東京国立近代美術館の常設などで観る機会もあるので、見かけたらじっくりチェックしてみてください。
参考記事:長谷川利行展 七色の東京 (府中市美術館)
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今日は作者別紹介で、天才的な発想力を持ったシュルレアリストのマン・レイを取り上げます。マン・レイは写真作品が多く残されていますが、それだけでなく立体作品や絵画作品、映画など幅広く活躍しました。数多くの技法を発見し、それを活用した作品を造り後進のアーティストに大きな影響を与えています。アイディアが豊富過ぎて、斬新な事は大体マン・レイがやってしまったような…w 今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
マン・レイの元の名前はエマニュエル・ラドニツキーといい、ユダヤ系ロシア移民の子として1890年にアメリカのフィラデルフィアに生まれました。1897年にニューヨークのブルックリンに移ったのですが、この頃から既に絵を描くことに夢中になっていたそうです。また、高校を卒業する頃には美術館や画廊に興味を持ち通いつめて、ヨーロッパアヴァンギャルドなどを通しこの頃から写真を芸術作品と見なしていました。 1912年には、ラドニツキー一家は苗字をレイに変え、名前も短くマンにしました。(姓名共に元の名を短縮したものです。 日本語に直訳すると人間光線?)マン・レイは芸術家のコミュニティに入って、そこにいたベルギー人の女性アドン・ラクロワとすぐ(1915年)に結婚しました。この頃、マン・レイは地図や図案を描いて生計を立てていて、アドン・ラクロワの影響でアポリネールなどの詩に親しみ、パリで暮らすことを夢見ていたようです。また、自分の絵を写真に残そうと考え、写真を勉強したのだとか。 マン・レイの中では完全に、絵>写真 という制作意欲だったようです。
マン・レイ 「マルセル・デュシャン」

こちらは1919年の作品で、マン・レイが撮ったマルセル・デュシャンのポートレート。恐らく作品と思われる謎の器具に挟まれて作品と一体化しているような…w 中央の立方体だけ妙に奥行きがあるように見えるのが不思議です。
マン・レイは1921年に憧れだったパリに移り住み、すぐにダダイスト(シュルレアリスムの前に起こった芸術運動「ダダ」の芸術家)に受け入れられました。
マン・レイ 「贈物」

こちらは1921年(1970年再作成)の作品。アイロンに棘がついたような奇妙なオブジェで、タイトルと共にシュールな雰囲気です。マン・レイはこれ以前に捨ててあったランプシェードを加工した作品を展覧会に出した際、展覧会の初日に清掃人にゴミと思われて捨てられてしまったことがありますw すると、マン・レイは金属にペンキを塗って同じ形にして作り直したそうで、作品に大事なのはアイディアであるという考えだったようです。マルセル・デュシャンのレディ・メイドに似た考えを持ってたのかも知れませんね。
この頃、生活費を稼ぐために職業写真家としても活動し、「ハーパース・バザー」や「ヴォーグ」の常連写真家として活躍しました。そのお陰で、写真の顧客も上流階級まで広まり、知名度が上がっていきました。また、プライベートではこの時期(1920年代末まで)、エコール・ド・パリのミューズとも言えるキキ・ド・モンパルナスと6年間同棲していました。(1919年にアドン・ラクロワとは破局し、その原因は彼女の浮気でした)
マン・レイ 「カザティ候爵夫人」

こちらは1922年の作品で、私の写真が失敗したのではなく こういう作品ですw 相手の目が4つあると脳が混乱して目がチカチカしますw 眼力も強いし、インパクト強めです。
マン・レイは超有名デザイナーのポール・ポワレに紹介されてファッション写真を撮るようになったそうで、ドレスを見せるだけでなく人間性を出す肖像画的な写真を撮っていたようです。
マン・レイ 「不滅のオブジェ」

こちらは1923年(1965年再作成)の作品で、シュルレアリスムの要素強め。目とメトロノームの組み合わせが何とも奇妙。これが100年近く前の作品とは思えない斬新さがありますね。
この年に「理性への回帰」という映画作品を作っていて、「レイヨグラフ」を使った斬新な映像となっています。「レイヨグラフ」は写真の技法ですがカメラを使いません。暗室で印画紙の上に物を置いて光を当てるとイメージが浮かぶというもので、偶然発見されました。レイヨグラフで作られた写真はまるで抽象画のようで、幻想的なものばかりです。レンズ、コルク抜き、ぜんまい、櫛などをレイヨグラフに使って制作していました。
マン・レイ 「ゆがんだ家」

こちらは1924年(後年のプリント)の作品。レンズで歪んだ景色を撮るという面白い発想となっています。マン・レイはシュールなだけでなく発想力や新しい技法の開発に長けていて、分かりやすい驚きがあります。
マン・レイは「ソラリゼーション」という技法もよく使います。これは白黒写真の現像の時に露光を強くすると白と黒が反転する現象を利用したもので、これも偶然発見されました。ソラリゼーションはその後のマン・レイにとって重要な表現となり、この技法を発見してからは過去のネガを様々に焼きなおして新たな作品を作ったそうです。
マン・レイ 「セルフ・ポートレイト」の看板

こちらは1924年の自分を撮った写真です。左の方が破けているように見えますが、これはガラスのヒビをそのまま使ったため、そう見えるようです。ちょっと神経質そうな顔をしていますが、この作品だけでもユニークな発想の持ち主であるのがわかります。
1925年には第1回シュルレアリスム展に参加しました。1929年にはキキと別れ、1930年代になると絵画作品や他の画家との共同制作をするのに時間を割き、写真からは手を引いていました。
マン・レイ 「標的」

こちらは1933年の作品。意味は分かりませんが、神話的な女性やマネキンを思わせる3体の像はどことなくデ・キリコに通じるものを感じます。背景に数字が並んだ板のようなものがあるのがタイトルの由来でしょうかね??
1940年になると、フランスはナチスに侵攻されていた為、マン・レイは50歳でフランスを離れてアメリカに戻りました。車でニューヨークからロサンゼルスに移り、そこで画家のモデルをしていたジュリエット・ブラウナーと出会い、2人でマン・レイスタジオを構えました。1946年に2人は結婚していて、彼女はマン・レイの死後にマン・レイ財団を設立しています。
マン・レイ 「ヒトデ」の看板

こちらは1940年代の作品。普通にヒトデを撮っただけですが、ヒトデ自体がどこかシュールな生き物に思えるw マン・レイはヒトデに魅せられていたようで、1928年には「L'Étoile de Mer(日本語でヒトデ)」という映画も撮っています。
この時代はマン・レイにとってかなり不遇の時代だったようです。アメリカの評論家はフランスでのマン・レイの活躍を知らず、フランスの焼き増しというような評価をしていたそうで、マン・レイは「カリフォルニアは美しい牢獄」と言っていたのだとか。
マン・レイ 「花を持つジュリエット」の看板

こちらは1950年代の作品。この女性は晩年を共にした奥さんで、ジュリエットはヤギみたいな顔と言われてましたw この頃、マン・レイはカラー写真に興味を持っていたようで、プリントした際に色彩が鈍くなるのを防ぐ工夫を重ねていました。こうして鮮やかな色合いで表現されたのには苦労があったんですね。
1948年にマン・レイの個展が開かれ、ストラヴィンスキーやジャン・ルノワール(画家のルノワールの次男で映画監督)、ハリウッドスター等も訪れ、この時代の頂点と言える展覧会でした。そして1951年にパリに戻り、カラー写真などの新たな創作を始めると共に、過去のモティーフへの回帰も行ったようです。
マン・レイ 「ジュリエット・グレコ」の看板

こちらは1956年の作品で、モデルはシャンソン歌手です。カラー写真で発色もよくマン・レイが考案した色彩定着技法が使われているようです。こちらを見る眼力が強くて聡明そうな印象を受けます。
1961年にはヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞、1966年にはニューヨークで大回顧展など芸術家としての評価も高まり成功を収めました。
マン・レイ 「孤独」の看板

こちらは1972年の作品。タイトルの意味するところは分かりませんが、天に向かって手を伸ばしているように見えますね。ひょろ長くて何処か悲壮感があるように思えます。フランスでは手(Main)とマン(Man)はほぼ同じ音らしく、言葉遊びで光の玉を持つ手の作品(英語で光はRay。つまりマン・レイ自身表す)なんかも作ったりしています。これもそういう意味があるのかも?
この頃、マン・レイは言葉遊び(語呂合わせ)などを用いた作品を作り、彩色されたパン(フランス語で彩色はパンの同音異義語。つまりパンパン)などを作ったりしています。
マン・レイ 「無題(マン)」の看板

こちらは制作年不詳のミクストメディア作品。青いハートに自分の名前を書いています。色は爽やかでポップな印象を受けるけど、断裂しているので心が引き裂かれたような意味でもあるのかな?
最期は1976年にジュリエットに看取られて亡くなりました。マン・レイの墓碑銘には「無頓着、しかし無関心でなく(Unconcerned, but not indifferent)」と「共に再び(Together Again)」と刻まれているそうです。
ということで、作品の意味するところを理解するのは難しいものの、写真のみならずかなり幅広く活動したアーティストとなります。今回は写真が無かったので残念ですが「画家」としての成功に主眼を置いていたので、画家的な視点も感じられると思います。こんな時代にもうこんなアイディアがあったの!?という発想力豊かな人物です。
参考記事:マン・レイ展 知られざる創作の秘密 (国立新美術館)
マン・レイの元の名前はエマニュエル・ラドニツキーといい、ユダヤ系ロシア移民の子として1890年にアメリカのフィラデルフィアに生まれました。1897年にニューヨークのブルックリンに移ったのですが、この頃から既に絵を描くことに夢中になっていたそうです。また、高校を卒業する頃には美術館や画廊に興味を持ち通いつめて、ヨーロッパアヴァンギャルドなどを通しこの頃から写真を芸術作品と見なしていました。 1912年には、ラドニツキー一家は苗字をレイに変え、名前も短くマンにしました。(姓名共に元の名を短縮したものです。 日本語に直訳すると人間光線?)マン・レイは芸術家のコミュニティに入って、そこにいたベルギー人の女性アドン・ラクロワとすぐ(1915年)に結婚しました。この頃、マン・レイは地図や図案を描いて生計を立てていて、アドン・ラクロワの影響でアポリネールなどの詩に親しみ、パリで暮らすことを夢見ていたようです。また、自分の絵を写真に残そうと考え、写真を勉強したのだとか。 マン・レイの中では完全に、絵>写真 という制作意欲だったようです。
マン・レイ 「マルセル・デュシャン」

こちらは1919年の作品で、マン・レイが撮ったマルセル・デュシャンのポートレート。恐らく作品と思われる謎の器具に挟まれて作品と一体化しているような…w 中央の立方体だけ妙に奥行きがあるように見えるのが不思議です。
マン・レイは1921年に憧れだったパリに移り住み、すぐにダダイスト(シュルレアリスムの前に起こった芸術運動「ダダ」の芸術家)に受け入れられました。
マン・レイ 「贈物」

こちらは1921年(1970年再作成)の作品。アイロンに棘がついたような奇妙なオブジェで、タイトルと共にシュールな雰囲気です。マン・レイはこれ以前に捨ててあったランプシェードを加工した作品を展覧会に出した際、展覧会の初日に清掃人にゴミと思われて捨てられてしまったことがありますw すると、マン・レイは金属にペンキを塗って同じ形にして作り直したそうで、作品に大事なのはアイディアであるという考えだったようです。マルセル・デュシャンのレディ・メイドに似た考えを持ってたのかも知れませんね。
この頃、生活費を稼ぐために職業写真家としても活動し、「ハーパース・バザー」や「ヴォーグ」の常連写真家として活躍しました。そのお陰で、写真の顧客も上流階級まで広まり、知名度が上がっていきました。また、プライベートではこの時期(1920年代末まで)、エコール・ド・パリのミューズとも言えるキキ・ド・モンパルナスと6年間同棲していました。(1919年にアドン・ラクロワとは破局し、その原因は彼女の浮気でした)
マン・レイ 「カザティ候爵夫人」

こちらは1922年の作品で、私の写真が失敗したのではなく こういう作品ですw 相手の目が4つあると脳が混乱して目がチカチカしますw 眼力も強いし、インパクト強めです。
マン・レイは超有名デザイナーのポール・ポワレに紹介されてファッション写真を撮るようになったそうで、ドレスを見せるだけでなく人間性を出す肖像画的な写真を撮っていたようです。
マン・レイ 「不滅のオブジェ」

こちらは1923年(1965年再作成)の作品で、シュルレアリスムの要素強め。目とメトロノームの組み合わせが何とも奇妙。これが100年近く前の作品とは思えない斬新さがありますね。
この年に「理性への回帰」という映画作品を作っていて、「レイヨグラフ」を使った斬新な映像となっています。「レイヨグラフ」は写真の技法ですがカメラを使いません。暗室で印画紙の上に物を置いて光を当てるとイメージが浮かぶというもので、偶然発見されました。レイヨグラフで作られた写真はまるで抽象画のようで、幻想的なものばかりです。レンズ、コルク抜き、ぜんまい、櫛などをレイヨグラフに使って制作していました。
マン・レイ 「ゆがんだ家」

こちらは1924年(後年のプリント)の作品。レンズで歪んだ景色を撮るという面白い発想となっています。マン・レイはシュールなだけでなく発想力や新しい技法の開発に長けていて、分かりやすい驚きがあります。
マン・レイは「ソラリゼーション」という技法もよく使います。これは白黒写真の現像の時に露光を強くすると白と黒が反転する現象を利用したもので、これも偶然発見されました。ソラリゼーションはその後のマン・レイにとって重要な表現となり、この技法を発見してからは過去のネガを様々に焼きなおして新たな作品を作ったそうです。
マン・レイ 「セルフ・ポートレイト」の看板

こちらは1924年の自分を撮った写真です。左の方が破けているように見えますが、これはガラスのヒビをそのまま使ったため、そう見えるようです。ちょっと神経質そうな顔をしていますが、この作品だけでもユニークな発想の持ち主であるのがわかります。
1925年には第1回シュルレアリスム展に参加しました。1929年にはキキと別れ、1930年代になると絵画作品や他の画家との共同制作をするのに時間を割き、写真からは手を引いていました。
マン・レイ 「標的」

こちらは1933年の作品。意味は分かりませんが、神話的な女性やマネキンを思わせる3体の像はどことなくデ・キリコに通じるものを感じます。背景に数字が並んだ板のようなものがあるのがタイトルの由来でしょうかね??
1940年になると、フランスはナチスに侵攻されていた為、マン・レイは50歳でフランスを離れてアメリカに戻りました。車でニューヨークからロサンゼルスに移り、そこで画家のモデルをしていたジュリエット・ブラウナーと出会い、2人でマン・レイスタジオを構えました。1946年に2人は結婚していて、彼女はマン・レイの死後にマン・レイ財団を設立しています。
マン・レイ 「ヒトデ」の看板

こちらは1940年代の作品。普通にヒトデを撮っただけですが、ヒトデ自体がどこかシュールな生き物に思えるw マン・レイはヒトデに魅せられていたようで、1928年には「L'Étoile de Mer(日本語でヒトデ)」という映画も撮っています。
この時代はマン・レイにとってかなり不遇の時代だったようです。アメリカの評論家はフランスでのマン・レイの活躍を知らず、フランスの焼き増しというような評価をしていたそうで、マン・レイは「カリフォルニアは美しい牢獄」と言っていたのだとか。
マン・レイ 「花を持つジュリエット」の看板

こちらは1950年代の作品。この女性は晩年を共にした奥さんで、ジュリエットはヤギみたいな顔と言われてましたw この頃、マン・レイはカラー写真に興味を持っていたようで、プリントした際に色彩が鈍くなるのを防ぐ工夫を重ねていました。こうして鮮やかな色合いで表現されたのには苦労があったんですね。
1948年にマン・レイの個展が開かれ、ストラヴィンスキーやジャン・ルノワール(画家のルノワールの次男で映画監督)、ハリウッドスター等も訪れ、この時代の頂点と言える展覧会でした。そして1951年にパリに戻り、カラー写真などの新たな創作を始めると共に、過去のモティーフへの回帰も行ったようです。
マン・レイ 「ジュリエット・グレコ」の看板

こちらは1956年の作品で、モデルはシャンソン歌手です。カラー写真で発色もよくマン・レイが考案した色彩定着技法が使われているようです。こちらを見る眼力が強くて聡明そうな印象を受けます。
1961年にはヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞、1966年にはニューヨークで大回顧展など芸術家としての評価も高まり成功を収めました。
マン・レイ 「孤独」の看板

こちらは1972年の作品。タイトルの意味するところは分かりませんが、天に向かって手を伸ばしているように見えますね。ひょろ長くて何処か悲壮感があるように思えます。フランスでは手(Main)とマン(Man)はほぼ同じ音らしく、言葉遊びで光の玉を持つ手の作品(英語で光はRay。つまりマン・レイ自身表す)なんかも作ったりしています。これもそういう意味があるのかも?
この頃、マン・レイは言葉遊び(語呂合わせ)などを用いた作品を作り、彩色されたパン(フランス語で彩色はパンの同音異義語。つまりパンパン)などを作ったりしています。
マン・レイ 「無題(マン)」の看板

こちらは制作年不詳のミクストメディア作品。青いハートに自分の名前を書いています。色は爽やかでポップな印象を受けるけど、断裂しているので心が引き裂かれたような意味でもあるのかな?
最期は1976年にジュリエットに看取られて亡くなりました。マン・レイの墓碑銘には「無頓着、しかし無関心でなく(Unconcerned, but not indifferent)」と「共に再び(Together Again)」と刻まれているそうです。
ということで、作品の意味するところを理解するのは難しいものの、写真のみならずかなり幅広く活動したアーティストとなります。今回は写真が無かったので残念ですが「画家」としての成功に主眼を置いていたので、画家的な視点も感じられると思います。こんな時代にもうこんなアイディアがあったの!?という発想力豊かな人物です。
参考記事:マン・レイ展 知られざる創作の秘密 (国立新美術館)
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更新通知用twitter
今日は久々に各美術館の休館状況についてです。私は自粛続行中で外出はオススメしない方針ではありますが、再び緊急事態宣言が出されたのでどのような状況なのか1都3県の主な美術館の休館状況をまとめました。

※下記はすべて2021/01/15時点で公式サイトに載っている情報となります。
・いずれの美術館も状況によって休館期間の延長や 開催中→休館にする場合があるようですので、詳細については公式サイトを御覧ください
<東京都現代美術館>
特別展は予約制。MOTコレクションは休室
令和3年1月7日に発出された緊急事態宣言及び都における緊急事態措置等に基づき、東京都現代美術館では、コレクション展「MOTコレクション 第2期 コレクションを巻き戻す」について、当初1/12(火)まで休室だったところ期間を延長し、当面の間休室といたします。
令和3年1月以降に「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展並びに「MOTアニュアル2020 透明な力たち」展のチケットを購入された方は、次回3月20日(土)から開幕する「MOTコレクション展」開催期間中までに1回に限り同展をご観覧いただけます。(ご招待券は除きます。)詳しくは館内インフォメーションカウンターまたは東京都現代美術館までお問い合わせください。
<すみだ北斎美術館>
開館継続
すみだ北斎美術館は、墨田区の方針に従い、緊急事態宣言中も通常通り開館を継続いたします。
MARUGEN100(講座室)及び図書室は、当面のあいだ休業・休室を継続いたします。
MARUGEN100(講座室)利用及び団体観覧の、新規予約受付は当面のあいだ行いません。
※入館の際は、マスクの着用、手指の消毒等をお願いしております。
※遠方からの来館や、発熱及び体調不良の方は、来館自粛のほどお願いいたします。
詳しくは、こちら「ご来館のお客様へご協力のお願い」にてご確認ください。
なお、今後の状況を踏まえ、予告なしに開館期間・展覧会開催等を変更させていただく場合がございます。予めご了承ください。
ご来館に際しては、ご理解・ご協力くださいますようにお願い申し上げます。
<江戸東京博物館>
開館中
•37.5℃以上の発熱や咳・咽頭痛などの症状がある方については、ご来館をお控えください。
•過去2週間以内に感染が引き続き拡大している国・地域への訪問歴がある方は、ご来館をお控えください。
•マスクの着用、咳エチケット、手洗いや手指消毒にご協力ください。マスクを着用でないお客様の入館はご遠慮いたただきます。
•入館時に検温を行います。37.5℃以上の発熱があると認められた際は、入館をお断りいたします。
●展示室内で激しく咳き込まれる等、風邪のような症状のある方には、スタッフがお声がけし、ご退出をお願いする場合がございます。
●館内で(ご観覧中に)体調が悪くなられた場合は、お近くのスタッフまでお申し出ください。
•館内では他のお客様との距離をできるだけ2m取るように心がけてください。
•展示室内での会話はお控えください。
•展示物及び展示ケース、使用を中止している機器等には手を触れないでください。
<東京国立博物館>
夜間開館中止。事前予約(日時指定券)制
<入館予約制>
<入館予約制>
・予約サイトからのみ予約可能です。電話等ではお受けできません。
・日時指定制となります。滞在時間の制限はありません。
・すべてのお客様が対象です。友の会、メンバーズプレミアムパス、国立博物館メンバーズパス、賛助会会員、キャンパスメンバーズ会員、障がい者手帳等をお持ちの方、無料入館対象の方も、予約サイトからの入館予約をお願いします。
・黒田記念館だけの入館には、事前のご予約は必要ありません。但し、入場規制を行う場合がございます。
・資料館のご利用には、資料館への別途事前予約が必要です。
<入館方法>
・ご来館当日は、日時指定券画面、もしくは画面を印刷したものを、入口の係員にご提示ください。提示がない場合はご入館できません。
・友の会、メンバーズプレミアムパス、国立博物館メンバーズパス、賛助会会員、キャンパスメンバーズ会員、障がい者手帳等をお持ちの方、無料入館対象の方は合わせて会員証等をご提示下さい。
お客様へのお願い
・発熱や咳き込み等の症状があるお客様は入館をご遠慮ください。
・入館時に検温を実施しております。平熱と比べて高い発熱が確認された場合、ご入館をお断りいたします。
・入館にはマスクの着用が必要です。
・手洗い及びアルコール消毒にご協力ください。
・展示室内では、お客様同士ゆずりあっての観覧にご協力ください。
・展示室内では会話をお控えください。
・作品、展示ケース、備品や壁にはお手を触れないようお願いいたします。
・展示施設毎に、入場規制を行う場合がございます。
・特別展チケットの払い戻しでお越しのお客さまにも検温を実施しております。平熱と比べて高い発熱が確認された場合、ご入館をお断りいたします。
<国立西洋美術館>
休館中。【全館休館期間】2020年10月19日(月)~2022年春(予定)
<東京都美術館>
特に情報なし(1/18まで休館日)
■皆様へのお願い
ご来館にあたって
・来館者全員を対象に、非接触型温度計による体温測定を実施します。平熱と比べて高い発熱が確認された方、及び風邪症状(咳、咽頭痛)がある方、明らかに体調不良と思われる方については、入館をお断りさせていただきます。
・過去2週間以内に政府から入国制限、入国後の観察期間を必要とされている国・地域への訪問歴及び当該在住者との濃厚接触がある場合は、来館をお控えください。
・ご来館の際には、マスクの着用をお願いします。
衛生面について
・アルコール消毒液での手指消毒、こまめな手洗いをお願いします。
・大人数のグループでのご来館はご遠慮ください。
・咳エチケットなど他のお客様へのご配慮をお願いします。
・館内に間隔の目安を表示しますので、ソーシャルディスタンスを保ってください。
・来館日時についてご自身での把握・記録をお奨めします。また、東京版新型コロナ見守りサービスをご活用ください。
・来館中に体調を崩された場合は、お近くのスタッフにお声がけください。
施設利用について
・入口は、正門及びロビー階エントランスをご利用ください。東門は閉鎖します。
・エレベーターの定員を4名程度までとし、ご利用は、障害をお持ちの方、ご高齢の方及び妊娠中の方などを優先ください。
・館内の過密を防ぐため、入館制限を実施する場合があります。また、展覧会によっては、事前予約制とさせていただく場合があります。
・建物内での会話は、お控えください。
・展示ケースや野外彫刻には触れないでください。
・美術情報室をご利用の方は、電話で事前予約をお願いします。
・お支払いの際には、キャッシュレス決済へのご協力をお願いします。
<国立科学博物館>
緊急事態宣言が発出されたことから、当面の間、一部の展示・事業等の休止を継続するとともに、1月15日以降の金曜日・土曜日の開館時間延長を休止します。
事前予約制
入館に際してのお願い
次の方は、来館をお控えください。
・37.5℃以上の発熱がある
・咳、くしゃみ、鼻水、咽頭痛など風邪のような症状がある
入館前に検温、体調等の確認をし、発熱や上記の症状がある方は入館をお断りいたします。
※館内で激しく咳き込むなど、風邪のような症状がある方には、退館をお願いする場合があります。
入館中はマスクを着用し、咳エチケットを心がけてください。
大声を出さず、静かにご観覧ください。
こまめな手洗いをお願いします。
チケット購入等お支払いの際は、できるだけ電子マネー、クレジットカード、電子チケットをご利用ください。
館内ではまわりの方との距離を保ってご観覧ください。
当面の間、再入館はできません。
<東京藝術大学大学美術館>
不明。恐らく展示替えの休館中
<上野の森美術館>
1/22まで展示替えの休館中
<アーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)> ※予約制
開館中
1月7日の1都3県への緊急事態宣言再発令を受け、アーティゾン美術館・併設のミュージアムカフェ・ショップは、感染症対策を一層強化して開館・営業いたします。弊館の感染拡大防止の取り組みについてはこちらをご覧ください。今後、状況が変化し臨時休館を行う場合は、当ウェブサイトにて発表いたします。
<三井記念美術館>
事前予約制
三井記念美術館コレクション特別展「国宝の名刀『日向正宗』と武将の美」(11月21日~1月27日)は事前予約制となっております。
(電話および当館受付ではご予約いただけませんのでご注意ください。)
新型コロナウイルス感染防止の観点から、当面の間、下記の通り営業を変更いたします。
またご入館に際してのお願いがございますので、ご来館のお客様には必ずご確認いただきますようお願い申し上げます。
開館時間を 11:00~16:00(入館は15:30まで)に短縮いたします。
金曜日のナイトミュージアム・およびナイト割引を中止いたします。
団体でのご来館お申込み受付および団体割引を中止いたします。
イベント(土曜講座・ワークショップ・鑑賞会など)を中止いたします。
「次回展前売券」の販売は中止いたします。
音声ガイドの貸出を中止いたします。
ご来館のみなさまへ ご入館に際してのお願い
以下のお客様につきましては、ご入館をご遠慮いただいております。
発熱や風邪、味覚・嗅覚に違和感のあるお客様
ご体調がすぐれないお客様
ご家庭や職場・学校など身近に新型コロナウイルス感染症の感染者もしくは感染の可能性がある方がいらっしゃるお客様
ご入館に際し、以下のお願いをしております。
マスクの着用(未着用の方は入館をご遠慮いただいております。)
検温(37.5度以上の方は入館をご遠慮いただいております。)
手指の消毒
ご連絡先(携帯電話番号等)のお届け(任意)
お届けいただきましたご連絡先は、当館で新型コロナウイルス感染症の疑いが生じた場合の連絡のみに使用いたします。
展示室内の混雑を避けるため、やむを得ず入場制限を行う場合がありますので、ご了承ください。
館内では、以下のお願いをしております。
作品を鑑賞される際は、ほかのお客様と距離を空けてご鑑賞ください。お連れ様同士も夫々分かれてご鑑賞ください。
ご鑑賞中の会話はお控えください。
感染防止のため、展示ケースや手すり等に触れないようお願いいたします。
感染防止のため各展示室内のベンチを撤去させていただいております。
受付でのお荷物お預かりは中止いたします。できるだけ身軽でご来館ください。ロッカーはご利用いただけます。
トイレ内のジェットタオルの使用を中止しておりますので、ハンカチ等を必ずご持参ください。
ブランケットの貸出を中止いたします。館内が冷える可能性がありますので、必ず羽織物をご持参ください。
館内スタッフがマスク、フェイスシールド等を着用しております。
<出光美術館(東京本館)>
4月12日まで休館中
当館では新型コロナウイルス感染症の状況を鑑み、長らく休館をしてまいりましたが、皆さまに安心してご観覧いただくための環境整備、またオンラインによる日時指定予約システムの準備が整う、2021年4月より、企画展を再開する運びとなりました。
<東京国立近代美術館>
開館中
【美術館】緊急事態宣言の発令に伴う夜間開館中止のお知らせ(1月15日~)
当館では、緊急事態宣言の発令を受け、新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡散防止のため、
2021年1月15日(金)より当面の間、夜間開館を中止し、金曜日・土曜日の閉館時間を17:00に変更いたします。
ご迷惑をおかけいたしますが、ご理解とご協力賜りますようお願い申し上げます。
<東京ステーションギャラリー>
開館中。予約制
【夜間開館中止のお知らせ】
2021年1月15日、22日、29日、2月5日の金曜は閉館時間を現状の20時から18時に変更いたします(最終入館17時30分)
<三菱一号館美術館>
事前予約制
【夜間開館及びCafé1894営業時間変更のお知らせ】
1月17日まで「1894 Visions ルドン、ロートレック展」開催中ですが、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点により、夜間開館時間を現在の21時から20時までに変更いたします。(最終入館19時30分)
なお、今後の夜間開館予定日は下記のとおりです。
・1月8日(金)、12日(火)、13日(水)、14日(木)、15日(金)
今後の政府や東京都の方針次第では変更する可能性もありますので、ご来館の際は当館WEBサイトをご確認ください。
【Café 1894 営業時間】
■期 間:1月8日(金)~2月6日(土)
■営業時間:11:00~18:00(L.O.17:00)
※2月7日(日)臨時休業です。
<国立新美術館>
開館中
「カラヴァッジョ《キリストの埋葬》展」中止のお知らせ
3月24日(水)~5月10日(月)開催予定の「カラヴァッジョ《キリストの埋葬》展」は、
この度の新型コロナウイルス感染症が拡大している状況を受け、バチカンからの作品輸送が困難なため開催中止とさせていただくことが決定いたしました。開催を楽しみにしてくださった皆様には、ご迷惑をおかけいたしますこと、深くお詫び申し上げます。
何卒、ご理解賜りますようお願い申し上げます。
<サントリー美術館>
開館中
サントリー美術館 開館時間変更のお知らせ(1/8更新)
サントリー美術館は、政府の緊急事態宣言発令に伴い、新型コロナウイルスの感染予防・拡散防止のため、2021年1月8日(金)~2月7日(日)の期間、金・土、1月10日(日)の閉館時間を20時から18時に変更します。(shop×cafeも同様)
開館時間:10時~18時
※金・土、1月10日(日)の閉館時間を20時から18時に変更します
※火曜休館(shop×cafeも休業)
今後も開館状況が変更となる可能性がありますので、本ウェブサイトにて最新情報をご確認ください。
1月9日(土)・23日(土)、2月6日(土)のエデュケーターによる鑑賞ガイド、1月21日(木)、2月4日(木)の呈茶席は、予定通り実施します。
ご理解とご協力をお願い申し上げます。
<21_21 DESIGN SIGHT>
開館中
ギャラリー1&2にて開催中の企画展「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」は、2020年11月18日のご来館より事前予約が不要となります。
ギャラリー3はプログラムにより異なりますので、各プログラムのページをご確認ください。
21_21 DESIGN SIGHTでは新型コロナウイルス感染拡大防止のための取り組みを続けてまいります。ご来館に際しては、本ページをご一読のうえ、ご理解、ご協力を賜りますようお願いいたします。
* 状況により、入館方法や内容を変更する場合がございます。あらかじめご了承のほどお願いいたします
<森アーツセンターギャラリー>
休館中(4/22まで改修工事)
<六本木ヒルズ展望台東京シティビュー>
休館中(4月下旬まで改修工事)
<森美術館>
休館中(4/21まで改修工事)
<大倉集古館>
臨時休館中
緊急事態宣言を受け、「海を渡った古伊万里~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇」展の開催を、1/12(火)から当面の間、臨時休館することになりました。
予定しておりました併設イベントは中止となります。
誠に申し訳ございませんが、ご了承ください。どうぞよろしくお願い申し上げます。
<泉屋博古館 分館>
改修工事のため休館
<東京都庭園美術館>
休館中(1/30から次の展示の予定)
今般の緊急事態宣言及びその後の都の方針を受け、東京都庭園美術館では当面以下のとおり対応いたします。
●展覧会
・1月13日(水)より展示替え期間となるため、本館・新館には入れません。
●庭園公開
・1月13日(水)より当面の間公開を休止します。
●東京都庭園美術館コンサート
・1月20日(水)の第7回、第8回については予定どおり実施いたします。
コンサートにご来場のお客様につきましては、以下の点についてご協力をお願いいたします。
・美術館の入口で検温をさせていただきます。
体温が37.5°以上の方は入館出来ませんので、あらかじめご了承ください。
・ご来館のお客様には、必ずマスクの着用をお願いいたします。
・開場前の入口前でお並びいただく場合は、お客様とお客様の間に1メートル以上の間隔をあけてお待ちください。また、トイレ、終演後等につきましても同様に間隔をあけてください。
・手指の消毒の励行をお願いいたします。
・その他、美術館の諸注意、指示に従っていただきますよう、お願いいたします。
●レストラン、カフェ、ショップ
・レストラン デュパルク(正門横)
1月13日(水)より当面の間休止します。
・カフェ庭園(新館)
1月13日(水)より展示替え期間となるため休止します。
・ミュージアムショップ リュミエール(新館)
1月13日(水)より展示替え期間となるため休止します。
なお、今後の状況により、予定が変更となる場合があります。その際は公式ウェブサイトやツイッター等で随時お知らせいたしますので、最新の情報をご確認くださいますようお願いいたします。
ご利用の皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
<目黒区美術館>
開館中
緊急事態宣言再発出に伴う目黒区美術館の対応につきまして
2021年1月9日(土)
1月7日に再発出された緊急事態宣言を受け、当館はこれまでの感染症対策に加え、以下の対応を行います。
ご来館の皆様にはご不便をおかけしますが、何卒ご了承ください。
〇来館者の検温
ご入館にあたり、来館者の皆様に検温のご協力をお願いいたします。
〇入場制限
国及び都のガイドラインに従い、収容率50%の入場制限を実施いたします。
〇ラウンジ(喫茶コーナー)の休業
当面の間、休業とさせていただきます。
<根津美術館>
開館中。日時指定予約
根津美術館は、新型コロナウイルス感染拡大防止策の一つとして、すべての入館者を対象とするオンラインによる日時指定予約制を導入いたしました。
・ご来館前日までに日時指定入館券をご購入ください(クレジットカード決済のみ)。
・根津倶楽部会員や招待はがき等をお持ちで入館無料の方も予約が必要です。
・一回のご予約は4名までとさせていただきます。団体でのご来館は当分の間ご遠慮ください。
オンライン予約を行う環境が無いお客様のため、各日とも若干の当日受付枠をご用意いたしております。ただし、ご来館時にすでに当日受付が終了している可能性もあります。また、事前予約のお客様が優先のため、ご入館まで相当のお時間お待ちいただくことがございます。決済可能なクレジットカードならびにスマートフォン、またはパソコンとプリンタを利用できる環境をお持ちの方は、事前のオンライン予約をお願いいたします。
お客様にはお手数をおかけしますが、下記のお願いとあわせ、ご理解、ご協力のほどお願い申し上げます。
ご利用にあたって
①日時指定入館券の購入完了後に、申込内容の変更、キャンセルはできません。
②予約は、ご来館を希望する日の前日までにお願いします。当日の予約はできません。
③予約時間帯より早くお越しの場合、お待ちいただくことになります。また、受付開始直後は混雑が予想されます。受付開始時刻より少し遅めのご来館をお勧めします(入れ替え制ではありません。入館後は、閉館まで時間の制限なくご鑑賞いただけます)。
<太田記念美術館>
開館中
新型コロナウイルス感染防止のため、2021年1月8日(金)より当面の間、下記の通り営業時間を短縮いたします。(変更前は10:30~17:30)
開館時間 10:30~17:00(入館は16:30まで)
太田記念美術館では現在のところ、ご入館のための日時指定予約は必要ございません。開館時間内に直接お越しください。
ご来館にあたっては〈お客様へのお願い〉を必ずお読みください。
なお、開館にあたっては、ご来館の皆さまに安心して展示を楽しんでいただけるよう、新型コロナウイルス感染拡大防止のための対策を講じてまいります。ご利用の皆様にはご不便をおかけいたしますが、ご理解とご協力をお願い申し上げます。
<パナソニック 汐留ミュージアム>
開館中
午前10時~午後6時(入館は午後5時30分まで)※当館は新型コロナウイルス感染症拡大防止策に最善を尽くし開館しております。予約なしでご入館いただけます。混雑状況はツイッターをご確認ください。
<日本科学未来館>
開館中。事前予約制
・体調がすぐれない場合はご来館をお控えいただくようにお願いします。また、東京都外の方は慎重に来館をご検討ください。
・時間帯によって入館者数を調整するため、入館券はオンラインで事前予約 ・チケット購入をお願いします。
・入口でサーモグラフィーによる検温を実施します。37.5度以上の方は入館いただけませんのでご注意ください。
・入館時や館内滞在中は、マスクをご着用ください。
・団体予約、友の会(クラブMiraikan、年間パスポート)、貸出施設をご利用の方はそれぞれの詳細ページをご確認ください。
見学にあたってのお願い
・各所に手指消毒薬を設置します。入館時および見学中にこまめな消毒や手洗いをお願いします。
・見学中や待ち列にお並びの際は、まわりの人との距離を保ってください。「密集」が見受けられた場合、スタッフがお声がけする場合がございます。
・館内スタッフはフェイスガードやマスクを着用し対応いたします。
・展示や施設等の一部については、安全面を考慮し、休止や運用変更を行います。
<SOMPO美術館(旧名:東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館)>
開館中。事前予約制
<東京オペラシティアートギャラリー>
1/16から開館(1/15は展示替え中)
<Bunkamuraザ・ミュージアム>
開館中
【重要】緊急事態宣言における対応について(1/8現在)
緊急事態宣言および東京都における緊急事態措置の再発令を受けまして、新型コロナウイルス感染症対策のため、1月8日(金)より当面の間、一部の施設、店舗において、下記の通り営業時間を変更させていただきます。また、劇場や映画館などへの入場制限や20時までの営業短縮協力要請に従い、適用となる1月12日(火)から2月7日(日)までの間に開催、発売予定の公演、企画につきましては一部運用を変更させていただく場合がございます。なお、公演、企画ごとに対応方法が異なりますので、決定次第ホームページにてご案内いたします。
ご来館をご予定されていらしたお客様には大変ご迷惑をお掛けいたしまして申し訳ございません。何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
1月8日(金)~当面の間
《営業時間を変更する施設と店舗》
■ル・シネマ 最終回上映終了まで(上映スケジュールは上映作品の詳細ページにてご確認ください)
■ギャラリー 10:00~18:30
※ザ・ミュージアムで開催中の『ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代』(1/24までの開催)の営業時間の変更はございません。
<松濤美術館>
開館中(トークイベント等は中止)
<山種美術館>
開館中。事前予約制
【当館は1月13日(水)~1月17日(日)の間、開館しております】
1月12日(火)は、11日(月)の振替のため、休館となります。
今後の状況により、臨時の休館、もしくは、開館時間が変更となる場合は、ホームページ上に掲載いたします。
平日 10時~16時(1時間短縮)/ 土・日・祝日 10時~17時(通常開館)
※入館は閉館時間の30分前まで。今後の状況により開館時間が変更となる場合があります。
当日、美術館窓口でチケットをご購入いただけます。
※混雑時は入場をお待ちいただく場合があります。最近の混雑状況はこちらをご確認ください。
入館日時のオンライン予約と感染症対策についてはこちらをご覧ください。
<板橋区立美術館>
休館中(展示期間でないため。次展示は2/18から)
お客様へのお願い
・以下のお客様につきましては、ご入館いただけません。
◎マスクを着用されていない方
◎発熱や風邪、味覚障害の症状がある方
◎激しく咳き込まれるなど、風邪のような症状のある方
◎体調がすぐれない方
◎過去2週間以内に感染が引き続き拡大している国・地域への訪問歴がある方
・こまめな手洗いやアルコール消毒液などでの手指消毒の徹底をお願いいたします。
・感染防止のため、壁や展示ケースに触れないようお願いいたします。
・他のお客様と距離(おおむね2m)をとってください。
・展示室内での会話はお控えください。
・原則としてグループでのご観覧はご遠慮ください。
・展示室内の人数が多数となった場合、入場制限を行う場合がございます。
<練馬区立美術館>
開館中
新型コロナウイルスの感染拡大に対応するため、内閣総理大臣は令和3年1月7日、東京都を含む1都3県を対象に、1月8日から2月7日までを期間とする緊急事態宣言を発出しました。これを受け都知事は同日、都民の外出自粛要請や飲食店等における営業時間の短縮要請等を内容とする緊急事態措置を発表しました。
これに伴い、練馬区立美術館の施設利用における制限、ルールを下記のとおりとします。
🔶創作室の利用について
・定員(30人)の50%(15人)を上限とする利用とします。
・利用団体代表者の方は、当日の利用メンバーおよび連絡先の把握をお願いいたします。個人でご利用の方は、連絡先等の提供にご協力ください。
🔶その他の施設利用について
・混雑状況によっては、入場制限をおこなう場合があります。
・利用者の皆様には、引き続き、ご来館前の検温・手洗い、館内でのマスク着用、手指の消毒等にご協力ください。
ご来館の際には、あわせてこちら【ご来館前に必ずお読みください】新型コロナウィルス感染予防対策について もご覧ください。
皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解ご協力のほどお願い申し上げます。
<世田谷美術館>
開館中
〇当館の入館は、ご利用者のみに限らせていただきます。
〇以下の事項が当てはまるお客様につきましては、ご入館をご遠慮いただいております。
1.発熱や風邪、味覚、嗅覚障害の症状等、体調がすぐれないお客様
(展示室内等で激しく咳き込まれるなど、風邪のような症状のある方には、スタッフがお声がけし、ご退館をお願いする場合がございます。)
2.マスクを着用していないお客様
3.ご家庭や職場、学校等身近に新型コロナウイルス感染症の感染者もしくは、感染の可能性のある方がいらっしゃるお客様
〇入館の際のお願い
◆マスク着用の上、ご入館ください。
◆入館にあたっては、消毒液(アルコール消毒液)で手の消毒をしていただくとともに、検温をいたしますのでご協力ください。(37.5℃以上の方は入館できません)
洗面所内には薬用石鹸を配備してありますので、こまめな手洗いをお願いたします。
◆ご入館にあたっては、感染症拡大抑制のために、お名前、連絡先のご記入をしていただきます。(当館において感染者が発生した場合、その感染ルートを特定するうえで、必要な情報を保健所等の公的機関に提供する場合があるため、ご協力をお願いいたします。ご記載いただいた情報は当館において厳重に管理し、保管期間は1か月間となっています)
◆展示室を含む館内すべての場所で、他のお客様との間隔をじゅうぶんにおとりください。
◆ソファにお座りの際にも、他のお客様との間隔をじゅうぶんにおとりください。
◆展示室内での会話はおひかえください。
◆壁や展示ケースなどにお手を触れないようにしてください。
◆展示室内の混雑をさけるため、やむを得ず入場制限を行う場合がありますので、ご了承願います。
また、ライブラリーやショップなどエリアごとに人数制限をさせていただきます。
<静嘉堂文庫美術館>
開館中
美術館からのお知らせ
緊急事態宣言の発令を受け、1/8(金)~2/7(日)の閉館時間を午後4時(最終入館午後3時30分)と致します。また予定していた展覧会関連イベント(1/9、1/14、1/28の列品解説、1/11館長トーク、1/17国際浮世絵学会、1/24学芸員によるスライドトーク)は全て中止といたします。ご了承ください。
当館では、新型ウイルス感染防止対策に取り組んで参りますとともに、皆様のご協力をお願い申し上げます。入館に際しましてのお願い(検温・マスク着用等)につきましてはこちら(重要なお知らせ)をご覧ください。
<府中市美術館>
開館中
<横浜美術館>
開館中。事前予約制
[新型コロナウイルス感染症拡大防止についての取り組みとお願い]
横浜美術館は、緊急事態宣言および横浜市の方針のもと、新型コロナウイルスの安全対策を徹底した上で、平常通り開館いたします。
○ご来館の際のお願いについてはこちら
○展覧会の日時指定予約(原則)についてはこちら
<そごう美術館>
開催中
当面の間、閉館時間は午後7時30分となります(入館は午後7時まで)
<横須賀美術館>
臨時休館
新型コロナウイルス感染症拡大予防対策による臨時休館のお知らせ
[2021年1月12日更新]
この度緊急事態宣言が発令されたことを受け、横須賀美術館(谷内六郎館・ミュージアムショップ・レストラン アクアマーレ)は1月12日(火)から当面の間休館いたします。
皆様にはご迷惑をおかけしますが、何卒ご了承くださいますようお願いいたします。
※再開につきましては随時ご案内いたします。
<神奈川県立近代美術館 葉山館>
<神奈川県立近代美術館 鎌倉別館>
葉山館:臨時休業
鎌倉別館:改修工事のため休館中
新型コロナウイルス感染拡大防止のための臨時休館(2021年1月12日~)について
国の「緊急事態宣言」を受けた「特措法に基づく緊急事態措置に係る神奈川県実施方針」を踏まえ、葉山館は2021年1月12日(火曜)より臨時休館とします。
また、予定されていた下記のイベントを中止します。
再開時期や今後のイベント等の最新情報は、追って当館ウェブサイトとツイッターでお知らせします。
ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
■葉山館
1月9日(土曜)~11日(月曜・祝日)は開館します。事前予約は必要ありません。ご来館にあたってはご利用についてのお願いをご確認ください。
[展覧会]1月12日より臨時休館(当初予定:2021年1月9日~4月11日)
企画展「フランシス・ベーコン バリー・ジュール・コレクションによる」
コレクション展「イギリス・アイルランドの美術-描かれた物語」
[庭園・散策路]休館中はお入りいただけません
[美術図書室]1月12日より休室
[ショップ]1月12日より休業 ショップのページをみる
[レストラン、駐車場]1月12日より休業 レストランのページをみる
■中止となるイベント
・1月30日(土曜)「近代美術館入門講座」(会場:葉山町福祉文化会館/共催:葉山町)
葉山町のページ(外部サイト)をみる
「連続講演会 生命と芸術 5つのメッセージ」(会場:鎌倉商工会議所会館地下ホール)
・2月6日(土曜)「生命誌は表現を求めている-科学の立場から」講師:中村桂子氏
・2月20 日(土曜)「美術と遊行」講師:やなぎみわ氏
・3月13日(土曜)「あいだのつつみかた」講師:小金沢健人氏
・3月20日(土曜)「生と死のあわい-イメージの息づくところ」講師:水野千依氏
・3月27日(土曜)「演劇と移動」講師:佐藤信氏
<埼玉県立近代美術館>
休館中
緊急事態宣言の発出に伴い、休館期間を2021年2月7日(日)まで延長いたします。
※2021年2月8日(月)は通常の休館になります
※休館期間は、今後の感染状況に応じて変更になる可能性があります。
※詳細については、今後ホームページ等でお知らせしますので、ご確認ください。
<一般展示室(施設利用)について>
1 予約いただいている展覧会については、休館期間中も開催します。
展覧会の予定は、下表をご覧ください。
なお、ご来館の際は、「お客様へのお願い」を必ずご確認ください。
2 2021年1月10日(日)から予定していた一般展示室の利用申込みの受付は、当面の間、延期します。(時期未定)
<うらわ美術館>
開館中
令和3年1月7日(木)の緊急事態宣言を受け、うらわ美術館については1月8日(金)から現在開催中の「芳年展」会期終了の1月24日(日)までの間、入場者数の状況により入場制限を行う等、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため十分な対策を講じてまいります。なお、展示室の入場人数の上限を超えた際は、お待ちいただく場合がございます。
対応の内容につきましては、今後の感染状況等に応じて変更する場合がありますので、ホームページ等で御確認ください。御不便をおかけいたしますが、御理解、御協力を賜りますようお願い申し上げます。
<DIC川村記念美術館>
7月2日(金)まで、美術館は改修工事のため休館中です。
<千葉市美術館>
開館中
緊急事態宣言に伴う開館時間等変更のお知らせ
緊急事態宣言発令に伴い、下記のとおり開館時間の短縮等を実施いたしますので、ご案内いたします。
【開館時間変更】
令和3年1月8日(金)から緊急事態宣言発出の末日までの期間、金曜日および土曜日の夜間(18:00-20:00)の開館を中止します。
また、これに伴い、企画展のナイトミュージアム割引を中止いたします。
【入場制限の実施】
展覧会の混雑状況に応じ、入場制限を行う場合がございますので、あらかじめご了承ください。
【新規施設貸出・利用の中止】
令和3年1月8日(金)から緊急事態宣言発出の末日までの期間、次のとおり、ご利用を中止いたします。
〈施設貸出(夜間)の中止〉
夜間(17:00〜21:00)のご利用は、すでに予約(または仮予約)されているものを含め、ご利用を中止させていただきます。
〈定員の制限〉
各貸出施設定員を概ね1/2といたします。
〈利用自粛のお願い〉
同期間以外でも、すでに予約(または仮予約)されているご利用について、ご利用の自粛をお願いいたします。
【地下1階ちょい呑み処「盛」】
令和3年1月8日(金)から緊急事態宣言発出の末日までの期間、次のとおり、営業時間等を短縮いたします。
営業時間:16:30〜20:00 ※酒類の提供は19:00まで
定休日:毎週月・火曜日 (2月1日は休館)
ご来館にあたっては、引き続き新型コロナウイルス感染拡大防止対策にご協力をお願いいたします。
https://www.ccma-net.jp/news/1882/
ということで、各館の対応はまちまちで、事前予約制を導入した美術館もあるので訪問される方は注意が必要です。とは言え、今はまだオススメできない時期です。変異種の懸念も高まっておりますので、ご無理はされないよう…。それにしてもベーコン展がわずか3日で休館になるとは…

※下記はすべて2021/01/15時点で公式サイトに載っている情報となります。
・いずれの美術館も状況によって休館期間の延長や 開催中→休館にする場合があるようですので、詳細については公式サイトを御覧ください
<東京都現代美術館>
特別展は予約制。MOTコレクションは休室
令和3年1月7日に発出された緊急事態宣言及び都における緊急事態措置等に基づき、東京都現代美術館では、コレクション展「MOTコレクション 第2期 コレクションを巻き戻す」について、当初1/12(火)まで休室だったところ期間を延長し、当面の間休室といたします。
令和3年1月以降に「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展並びに「MOTアニュアル2020 透明な力たち」展のチケットを購入された方は、次回3月20日(土)から開幕する「MOTコレクション展」開催期間中までに1回に限り同展をご観覧いただけます。(ご招待券は除きます。)詳しくは館内インフォメーションカウンターまたは東京都現代美術館までお問い合わせください。
<すみだ北斎美術館>
開館継続
すみだ北斎美術館は、墨田区の方針に従い、緊急事態宣言中も通常通り開館を継続いたします。
MARUGEN100(講座室)及び図書室は、当面のあいだ休業・休室を継続いたします。
MARUGEN100(講座室)利用及び団体観覧の、新規予約受付は当面のあいだ行いません。
※入館の際は、マスクの着用、手指の消毒等をお願いしております。
※遠方からの来館や、発熱及び体調不良の方は、来館自粛のほどお願いいたします。
詳しくは、こちら「ご来館のお客様へご協力のお願い」にてご確認ください。
なお、今後の状況を踏まえ、予告なしに開館期間・展覧会開催等を変更させていただく場合がございます。予めご了承ください。
ご来館に際しては、ご理解・ご協力くださいますようにお願い申し上げます。
<江戸東京博物館>
開館中
•37.5℃以上の発熱や咳・咽頭痛などの症状がある方については、ご来館をお控えください。
•過去2週間以内に感染が引き続き拡大している国・地域への訪問歴がある方は、ご来館をお控えください。
•マスクの着用、咳エチケット、手洗いや手指消毒にご協力ください。マスクを着用でないお客様の入館はご遠慮いたただきます。
•入館時に検温を行います。37.5℃以上の発熱があると認められた際は、入館をお断りいたします。
●展示室内で激しく咳き込まれる等、風邪のような症状のある方には、スタッフがお声がけし、ご退出をお願いする場合がございます。
●館内で(ご観覧中に)体調が悪くなられた場合は、お近くのスタッフまでお申し出ください。
•館内では他のお客様との距離をできるだけ2m取るように心がけてください。
•展示室内での会話はお控えください。
•展示物及び展示ケース、使用を中止している機器等には手を触れないでください。
<東京国立博物館>
夜間開館中止。事前予約(日時指定券)制
<入館予約制>
<入館予約制>
・予約サイトからのみ予約可能です。電話等ではお受けできません。
・日時指定制となります。滞在時間の制限はありません。
・すべてのお客様が対象です。友の会、メンバーズプレミアムパス、国立博物館メンバーズパス、賛助会会員、キャンパスメンバーズ会員、障がい者手帳等をお持ちの方、無料入館対象の方も、予約サイトからの入館予約をお願いします。
・黒田記念館だけの入館には、事前のご予約は必要ありません。但し、入場規制を行う場合がございます。
・資料館のご利用には、資料館への別途事前予約が必要です。
<入館方法>
・ご来館当日は、日時指定券画面、もしくは画面を印刷したものを、入口の係員にご提示ください。提示がない場合はご入館できません。
・友の会、メンバーズプレミアムパス、国立博物館メンバーズパス、賛助会会員、キャンパスメンバーズ会員、障がい者手帳等をお持ちの方、無料入館対象の方は合わせて会員証等をご提示下さい。
お客様へのお願い
・発熱や咳き込み等の症状があるお客様は入館をご遠慮ください。
・入館時に検温を実施しております。平熱と比べて高い発熱が確認された場合、ご入館をお断りいたします。
・入館にはマスクの着用が必要です。
・手洗い及びアルコール消毒にご協力ください。
・展示室内では、お客様同士ゆずりあっての観覧にご協力ください。
・展示室内では会話をお控えください。
・作品、展示ケース、備品や壁にはお手を触れないようお願いいたします。
・展示施設毎に、入場規制を行う場合がございます。
・特別展チケットの払い戻しでお越しのお客さまにも検温を実施しております。平熱と比べて高い発熱が確認された場合、ご入館をお断りいたします。
<国立西洋美術館>
休館中。【全館休館期間】2020年10月19日(月)~2022年春(予定)
<東京都美術館>
特に情報なし(1/18まで休館日)
■皆様へのお願い
ご来館にあたって
・来館者全員を対象に、非接触型温度計による体温測定を実施します。平熱と比べて高い発熱が確認された方、及び風邪症状(咳、咽頭痛)がある方、明らかに体調不良と思われる方については、入館をお断りさせていただきます。
・過去2週間以内に政府から入国制限、入国後の観察期間を必要とされている国・地域への訪問歴及び当該在住者との濃厚接触がある場合は、来館をお控えください。
・ご来館の際には、マスクの着用をお願いします。
衛生面について
・アルコール消毒液での手指消毒、こまめな手洗いをお願いします。
・大人数のグループでのご来館はご遠慮ください。
・咳エチケットなど他のお客様へのご配慮をお願いします。
・館内に間隔の目安を表示しますので、ソーシャルディスタンスを保ってください。
・来館日時についてご自身での把握・記録をお奨めします。また、東京版新型コロナ見守りサービスをご活用ください。
・来館中に体調を崩された場合は、お近くのスタッフにお声がけください。
施設利用について
・入口は、正門及びロビー階エントランスをご利用ください。東門は閉鎖します。
・エレベーターの定員を4名程度までとし、ご利用は、障害をお持ちの方、ご高齢の方及び妊娠中の方などを優先ください。
・館内の過密を防ぐため、入館制限を実施する場合があります。また、展覧会によっては、事前予約制とさせていただく場合があります。
・建物内での会話は、お控えください。
・展示ケースや野外彫刻には触れないでください。
・美術情報室をご利用の方は、電話で事前予約をお願いします。
・お支払いの際には、キャッシュレス決済へのご協力をお願いします。
<国立科学博物館>
緊急事態宣言が発出されたことから、当面の間、一部の展示・事業等の休止を継続するとともに、1月15日以降の金曜日・土曜日の開館時間延長を休止します。
事前予約制
入館に際してのお願い
次の方は、来館をお控えください。
・37.5℃以上の発熱がある
・咳、くしゃみ、鼻水、咽頭痛など風邪のような症状がある
入館前に検温、体調等の確認をし、発熱や上記の症状がある方は入館をお断りいたします。
※館内で激しく咳き込むなど、風邪のような症状がある方には、退館をお願いする場合があります。
入館中はマスクを着用し、咳エチケットを心がけてください。
大声を出さず、静かにご観覧ください。
こまめな手洗いをお願いします。
チケット購入等お支払いの際は、できるだけ電子マネー、クレジットカード、電子チケットをご利用ください。
館内ではまわりの方との距離を保ってご観覧ください。
当面の間、再入館はできません。
<東京藝術大学大学美術館>
不明。恐らく展示替えの休館中
<上野の森美術館>
1/22まで展示替えの休館中
<アーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)> ※予約制
開館中
1月7日の1都3県への緊急事態宣言再発令を受け、アーティゾン美術館・併設のミュージアムカフェ・ショップは、感染症対策を一層強化して開館・営業いたします。弊館の感染拡大防止の取り組みについてはこちらをご覧ください。今後、状況が変化し臨時休館を行う場合は、当ウェブサイトにて発表いたします。
<三井記念美術館>
事前予約制
三井記念美術館コレクション特別展「国宝の名刀『日向正宗』と武将の美」(11月21日~1月27日)は事前予約制となっております。
(電話および当館受付ではご予約いただけませんのでご注意ください。)
新型コロナウイルス感染防止の観点から、当面の間、下記の通り営業を変更いたします。
またご入館に際してのお願いがございますので、ご来館のお客様には必ずご確認いただきますようお願い申し上げます。
開館時間を 11:00~16:00(入館は15:30まで)に短縮いたします。
金曜日のナイトミュージアム・およびナイト割引を中止いたします。
団体でのご来館お申込み受付および団体割引を中止いたします。
イベント(土曜講座・ワークショップ・鑑賞会など)を中止いたします。
「次回展前売券」の販売は中止いたします。
音声ガイドの貸出を中止いたします。
ご来館のみなさまへ ご入館に際してのお願い
以下のお客様につきましては、ご入館をご遠慮いただいております。
発熱や風邪、味覚・嗅覚に違和感のあるお客様
ご体調がすぐれないお客様
ご家庭や職場・学校など身近に新型コロナウイルス感染症の感染者もしくは感染の可能性がある方がいらっしゃるお客様
ご入館に際し、以下のお願いをしております。
マスクの着用(未着用の方は入館をご遠慮いただいております。)
検温(37.5度以上の方は入館をご遠慮いただいております。)
手指の消毒
ご連絡先(携帯電話番号等)のお届け(任意)
お届けいただきましたご連絡先は、当館で新型コロナウイルス感染症の疑いが生じた場合の連絡のみに使用いたします。
展示室内の混雑を避けるため、やむを得ず入場制限を行う場合がありますので、ご了承ください。
館内では、以下のお願いをしております。
作品を鑑賞される際は、ほかのお客様と距離を空けてご鑑賞ください。お連れ様同士も夫々分かれてご鑑賞ください。
ご鑑賞中の会話はお控えください。
感染防止のため、展示ケースや手すり等に触れないようお願いいたします。
感染防止のため各展示室内のベンチを撤去させていただいております。
受付でのお荷物お預かりは中止いたします。できるだけ身軽でご来館ください。ロッカーはご利用いただけます。
トイレ内のジェットタオルの使用を中止しておりますので、ハンカチ等を必ずご持参ください。
ブランケットの貸出を中止いたします。館内が冷える可能性がありますので、必ず羽織物をご持参ください。
館内スタッフがマスク、フェイスシールド等を着用しております。
<出光美術館(東京本館)>
4月12日まで休館中
当館では新型コロナウイルス感染症の状況を鑑み、長らく休館をしてまいりましたが、皆さまに安心してご観覧いただくための環境整備、またオンラインによる日時指定予約システムの準備が整う、2021年4月より、企画展を再開する運びとなりました。
<東京国立近代美術館>
開館中
【美術館】緊急事態宣言の発令に伴う夜間開館中止のお知らせ(1月15日~)
当館では、緊急事態宣言の発令を受け、新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡散防止のため、
2021年1月15日(金)より当面の間、夜間開館を中止し、金曜日・土曜日の閉館時間を17:00に変更いたします。
ご迷惑をおかけいたしますが、ご理解とご協力賜りますようお願い申し上げます。
<東京ステーションギャラリー>
開館中。予約制
【夜間開館中止のお知らせ】
2021年1月15日、22日、29日、2月5日の金曜は閉館時間を現状の20時から18時に変更いたします(最終入館17時30分)
<三菱一号館美術館>
事前予約制
【夜間開館及びCafé1894営業時間変更のお知らせ】
1月17日まで「1894 Visions ルドン、ロートレック展」開催中ですが、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点により、夜間開館時間を現在の21時から20時までに変更いたします。(最終入館19時30分)
なお、今後の夜間開館予定日は下記のとおりです。
・1月8日(金)、12日(火)、13日(水)、14日(木)、15日(金)
今後の政府や東京都の方針次第では変更する可能性もありますので、ご来館の際は当館WEBサイトをご確認ください。
【Café 1894 営業時間】
■期 間:1月8日(金)~2月6日(土)
■営業時間:11:00~18:00(L.O.17:00)
※2月7日(日)臨時休業です。
<国立新美術館>
開館中
「カラヴァッジョ《キリストの埋葬》展」中止のお知らせ
3月24日(水)~5月10日(月)開催予定の「カラヴァッジョ《キリストの埋葬》展」は、
この度の新型コロナウイルス感染症が拡大している状況を受け、バチカンからの作品輸送が困難なため開催中止とさせていただくことが決定いたしました。開催を楽しみにしてくださった皆様には、ご迷惑をおかけいたしますこと、深くお詫び申し上げます。
何卒、ご理解賜りますようお願い申し上げます。
<サントリー美術館>
開館中
サントリー美術館 開館時間変更のお知らせ(1/8更新)
サントリー美術館は、政府の緊急事態宣言発令に伴い、新型コロナウイルスの感染予防・拡散防止のため、2021年1月8日(金)~2月7日(日)の期間、金・土、1月10日(日)の閉館時間を20時から18時に変更します。(shop×cafeも同様)
開館時間:10時~18時
※金・土、1月10日(日)の閉館時間を20時から18時に変更します
※火曜休館(shop×cafeも休業)
今後も開館状況が変更となる可能性がありますので、本ウェブサイトにて最新情報をご確認ください。
1月9日(土)・23日(土)、2月6日(土)のエデュケーターによる鑑賞ガイド、1月21日(木)、2月4日(木)の呈茶席は、予定通り実施します。
ご理解とご協力をお願い申し上げます。
<21_21 DESIGN SIGHT>
開館中
ギャラリー1&2にて開催中の企画展「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」は、2020年11月18日のご来館より事前予約が不要となります。
ギャラリー3はプログラムにより異なりますので、各プログラムのページをご確認ください。
21_21 DESIGN SIGHTでは新型コロナウイルス感染拡大防止のための取り組みを続けてまいります。ご来館に際しては、本ページをご一読のうえ、ご理解、ご協力を賜りますようお願いいたします。
* 状況により、入館方法や内容を変更する場合がございます。あらかじめご了承のほどお願いいたします
<森アーツセンターギャラリー>
休館中(4/22まで改修工事)
<六本木ヒルズ展望台東京シティビュー>
休館中(4月下旬まで改修工事)
<森美術館>
休館中(4/21まで改修工事)
<大倉集古館>
臨時休館中
緊急事態宣言を受け、「海を渡った古伊万里~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇」展の開催を、1/12(火)から当面の間、臨時休館することになりました。
予定しておりました併設イベントは中止となります。
誠に申し訳ございませんが、ご了承ください。どうぞよろしくお願い申し上げます。
<泉屋博古館 分館>
改修工事のため休館
<東京都庭園美術館>
休館中(1/30から次の展示の予定)
今般の緊急事態宣言及びその後の都の方針を受け、東京都庭園美術館では当面以下のとおり対応いたします。
●展覧会
・1月13日(水)より展示替え期間となるため、本館・新館には入れません。
●庭園公開
・1月13日(水)より当面の間公開を休止します。
●東京都庭園美術館コンサート
・1月20日(水)の第7回、第8回については予定どおり実施いたします。
コンサートにご来場のお客様につきましては、以下の点についてご協力をお願いいたします。
・美術館の入口で検温をさせていただきます。
体温が37.5°以上の方は入館出来ませんので、あらかじめご了承ください。
・ご来館のお客様には、必ずマスクの着用をお願いいたします。
・開場前の入口前でお並びいただく場合は、お客様とお客様の間に1メートル以上の間隔をあけてお待ちください。また、トイレ、終演後等につきましても同様に間隔をあけてください。
・手指の消毒の励行をお願いいたします。
・その他、美術館の諸注意、指示に従っていただきますよう、お願いいたします。
●レストラン、カフェ、ショップ
・レストラン デュパルク(正門横)
1月13日(水)より当面の間休止します。
・カフェ庭園(新館)
1月13日(水)より展示替え期間となるため休止します。
・ミュージアムショップ リュミエール(新館)
1月13日(水)より展示替え期間となるため休止します。
なお、今後の状況により、予定が変更となる場合があります。その際は公式ウェブサイトやツイッター等で随時お知らせいたしますので、最新の情報をご確認くださいますようお願いいたします。
ご利用の皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
<目黒区美術館>
開館中
緊急事態宣言再発出に伴う目黒区美術館の対応につきまして
2021年1月9日(土)
1月7日に再発出された緊急事態宣言を受け、当館はこれまでの感染症対策に加え、以下の対応を行います。
ご来館の皆様にはご不便をおかけしますが、何卒ご了承ください。
〇来館者の検温
ご入館にあたり、来館者の皆様に検温のご協力をお願いいたします。
〇入場制限
国及び都のガイドラインに従い、収容率50%の入場制限を実施いたします。
〇ラウンジ(喫茶コーナー)の休業
当面の間、休業とさせていただきます。
<根津美術館>
開館中。日時指定予約
根津美術館は、新型コロナウイルス感染拡大防止策の一つとして、すべての入館者を対象とするオンラインによる日時指定予約制を導入いたしました。
・ご来館前日までに日時指定入館券をご購入ください(クレジットカード決済のみ)。
・根津倶楽部会員や招待はがき等をお持ちで入館無料の方も予約が必要です。
・一回のご予約は4名までとさせていただきます。団体でのご来館は当分の間ご遠慮ください。
オンライン予約を行う環境が無いお客様のため、各日とも若干の当日受付枠をご用意いたしております。ただし、ご来館時にすでに当日受付が終了している可能性もあります。また、事前予約のお客様が優先のため、ご入館まで相当のお時間お待ちいただくことがございます。決済可能なクレジットカードならびにスマートフォン、またはパソコンとプリンタを利用できる環境をお持ちの方は、事前のオンライン予約をお願いいたします。
お客様にはお手数をおかけしますが、下記のお願いとあわせ、ご理解、ご協力のほどお願い申し上げます。
ご利用にあたって
①日時指定入館券の購入完了後に、申込内容の変更、キャンセルはできません。
②予約は、ご来館を希望する日の前日までにお願いします。当日の予約はできません。
③予約時間帯より早くお越しの場合、お待ちいただくことになります。また、受付開始直後は混雑が予想されます。受付開始時刻より少し遅めのご来館をお勧めします(入れ替え制ではありません。入館後は、閉館まで時間の制限なくご鑑賞いただけます)。
<太田記念美術館>
開館中
新型コロナウイルス感染防止のため、2021年1月8日(金)より当面の間、下記の通り営業時間を短縮いたします。(変更前は10:30~17:30)
開館時間 10:30~17:00(入館は16:30まで)
太田記念美術館では現在のところ、ご入館のための日時指定予約は必要ございません。開館時間内に直接お越しください。
ご来館にあたっては〈お客様へのお願い〉を必ずお読みください。
なお、開館にあたっては、ご来館の皆さまに安心して展示を楽しんでいただけるよう、新型コロナウイルス感染拡大防止のための対策を講じてまいります。ご利用の皆様にはご不便をおかけいたしますが、ご理解とご協力をお願い申し上げます。
<パナソニック 汐留ミュージアム>
開館中
午前10時~午後6時(入館は午後5時30分まで)※当館は新型コロナウイルス感染症拡大防止策に最善を尽くし開館しております。予約なしでご入館いただけます。混雑状況はツイッターをご確認ください。
<日本科学未来館>
開館中。事前予約制
・体調がすぐれない場合はご来館をお控えいただくようにお願いします。また、東京都外の方は慎重に来館をご検討ください。
・時間帯によって入館者数を調整するため、入館券はオンラインで事前予約 ・チケット購入をお願いします。
・入口でサーモグラフィーによる検温を実施します。37.5度以上の方は入館いただけませんのでご注意ください。
・入館時や館内滞在中は、マスクをご着用ください。
・団体予約、友の会(クラブMiraikan、年間パスポート)、貸出施設をご利用の方はそれぞれの詳細ページをご確認ください。
見学にあたってのお願い
・各所に手指消毒薬を設置します。入館時および見学中にこまめな消毒や手洗いをお願いします。
・見学中や待ち列にお並びの際は、まわりの人との距離を保ってください。「密集」が見受けられた場合、スタッフがお声がけする場合がございます。
・館内スタッフはフェイスガードやマスクを着用し対応いたします。
・展示や施設等の一部については、安全面を考慮し、休止や運用変更を行います。
<SOMPO美術館(旧名:東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館)>
開館中。事前予約制
<東京オペラシティアートギャラリー>
1/16から開館(1/15は展示替え中)
<Bunkamuraザ・ミュージアム>
開館中
【重要】緊急事態宣言における対応について(1/8現在)
緊急事態宣言および東京都における緊急事態措置の再発令を受けまして、新型コロナウイルス感染症対策のため、1月8日(金)より当面の間、一部の施設、店舗において、下記の通り営業時間を変更させていただきます。また、劇場や映画館などへの入場制限や20時までの営業短縮協力要請に従い、適用となる1月12日(火)から2月7日(日)までの間に開催、発売予定の公演、企画につきましては一部運用を変更させていただく場合がございます。なお、公演、企画ごとに対応方法が異なりますので、決定次第ホームページにてご案内いたします。
ご来館をご予定されていらしたお客様には大変ご迷惑をお掛けいたしまして申し訳ございません。何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
1月8日(金)~当面の間
《営業時間を変更する施設と店舗》
■ル・シネマ 最終回上映終了まで(上映スケジュールは上映作品の詳細ページにてご確認ください)
■ギャラリー 10:00~18:30
※ザ・ミュージアムで開催中の『ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代』(1/24までの開催)の営業時間の変更はございません。
<松濤美術館>
開館中(トークイベント等は中止)
<山種美術館>
開館中。事前予約制
【当館は1月13日(水)~1月17日(日)の間、開館しております】
1月12日(火)は、11日(月)の振替のため、休館となります。
今後の状況により、臨時の休館、もしくは、開館時間が変更となる場合は、ホームページ上に掲載いたします。
平日 10時~16時(1時間短縮)/ 土・日・祝日 10時~17時(通常開館)
※入館は閉館時間の30分前まで。今後の状況により開館時間が変更となる場合があります。
当日、美術館窓口でチケットをご購入いただけます。
※混雑時は入場をお待ちいただく場合があります。最近の混雑状況はこちらをご確認ください。
入館日時のオンライン予約と感染症対策についてはこちらをご覧ください。
<板橋区立美術館>
休館中(展示期間でないため。次展示は2/18から)
お客様へのお願い
・以下のお客様につきましては、ご入館いただけません。
◎マスクを着用されていない方
◎発熱や風邪、味覚障害の症状がある方
◎激しく咳き込まれるなど、風邪のような症状のある方
◎体調がすぐれない方
◎過去2週間以内に感染が引き続き拡大している国・地域への訪問歴がある方
・こまめな手洗いやアルコール消毒液などでの手指消毒の徹底をお願いいたします。
・感染防止のため、壁や展示ケースに触れないようお願いいたします。
・他のお客様と距離(おおむね2m)をとってください。
・展示室内での会話はお控えください。
・原則としてグループでのご観覧はご遠慮ください。
・展示室内の人数が多数となった場合、入場制限を行う場合がございます。
<練馬区立美術館>
開館中
新型コロナウイルスの感染拡大に対応するため、内閣総理大臣は令和3年1月7日、東京都を含む1都3県を対象に、1月8日から2月7日までを期間とする緊急事態宣言を発出しました。これを受け都知事は同日、都民の外出自粛要請や飲食店等における営業時間の短縮要請等を内容とする緊急事態措置を発表しました。
これに伴い、練馬区立美術館の施設利用における制限、ルールを下記のとおりとします。
🔶創作室の利用について
・定員(30人)の50%(15人)を上限とする利用とします。
・利用団体代表者の方は、当日の利用メンバーおよび連絡先の把握をお願いいたします。個人でご利用の方は、連絡先等の提供にご協力ください。
🔶その他の施設利用について
・混雑状況によっては、入場制限をおこなう場合があります。
・利用者の皆様には、引き続き、ご来館前の検温・手洗い、館内でのマスク着用、手指の消毒等にご協力ください。
ご来館の際には、あわせてこちら【ご来館前に必ずお読みください】新型コロナウィルス感染予防対策について もご覧ください。
皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解ご協力のほどお願い申し上げます。
<世田谷美術館>
開館中
〇当館の入館は、ご利用者のみに限らせていただきます。
〇以下の事項が当てはまるお客様につきましては、ご入館をご遠慮いただいております。
1.発熱や風邪、味覚、嗅覚障害の症状等、体調がすぐれないお客様
(展示室内等で激しく咳き込まれるなど、風邪のような症状のある方には、スタッフがお声がけし、ご退館をお願いする場合がございます。)
2.マスクを着用していないお客様
3.ご家庭や職場、学校等身近に新型コロナウイルス感染症の感染者もしくは、感染の可能性のある方がいらっしゃるお客様
〇入館の際のお願い
◆マスク着用の上、ご入館ください。
◆入館にあたっては、消毒液(アルコール消毒液)で手の消毒をしていただくとともに、検温をいたしますのでご協力ください。(37.5℃以上の方は入館できません)
洗面所内には薬用石鹸を配備してありますので、こまめな手洗いをお願いたします。
◆ご入館にあたっては、感染症拡大抑制のために、お名前、連絡先のご記入をしていただきます。(当館において感染者が発生した場合、その感染ルートを特定するうえで、必要な情報を保健所等の公的機関に提供する場合があるため、ご協力をお願いいたします。ご記載いただいた情報は当館において厳重に管理し、保管期間は1か月間となっています)
◆展示室を含む館内すべての場所で、他のお客様との間隔をじゅうぶんにおとりください。
◆ソファにお座りの際にも、他のお客様との間隔をじゅうぶんにおとりください。
◆展示室内での会話はおひかえください。
◆壁や展示ケースなどにお手を触れないようにしてください。
◆展示室内の混雑をさけるため、やむを得ず入場制限を行う場合がありますので、ご了承願います。
また、ライブラリーやショップなどエリアごとに人数制限をさせていただきます。
<静嘉堂文庫美術館>
開館中
美術館からのお知らせ
緊急事態宣言の発令を受け、1/8(金)~2/7(日)の閉館時間を午後4時(最終入館午後3時30分)と致します。また予定していた展覧会関連イベント(1/9、1/14、1/28の列品解説、1/11館長トーク、1/17国際浮世絵学会、1/24学芸員によるスライドトーク)は全て中止といたします。ご了承ください。
当館では、新型ウイルス感染防止対策に取り組んで参りますとともに、皆様のご協力をお願い申し上げます。入館に際しましてのお願い(検温・マスク着用等)につきましてはこちら(重要なお知らせ)をご覧ください。
<府中市美術館>
開館中
<横浜美術館>
開館中。事前予約制
[新型コロナウイルス感染症拡大防止についての取り組みとお願い]
横浜美術館は、緊急事態宣言および横浜市の方針のもと、新型コロナウイルスの安全対策を徹底した上で、平常通り開館いたします。
○ご来館の際のお願いについてはこちら
○展覧会の日時指定予約(原則)についてはこちら
<そごう美術館>
開催中
当面の間、閉館時間は午後7時30分となります(入館は午後7時まで)
<横須賀美術館>
臨時休館
新型コロナウイルス感染症拡大予防対策による臨時休館のお知らせ
[2021年1月12日更新]
この度緊急事態宣言が発令されたことを受け、横須賀美術館(谷内六郎館・ミュージアムショップ・レストラン アクアマーレ)は1月12日(火)から当面の間休館いたします。
皆様にはご迷惑をおかけしますが、何卒ご了承くださいますようお願いいたします。
※再開につきましては随時ご案内いたします。
<神奈川県立近代美術館 葉山館>
<神奈川県立近代美術館 鎌倉別館>
葉山館:臨時休業
鎌倉別館:改修工事のため休館中
新型コロナウイルス感染拡大防止のための臨時休館(2021年1月12日~)について
国の「緊急事態宣言」を受けた「特措法に基づく緊急事態措置に係る神奈川県実施方針」を踏まえ、葉山館は2021年1月12日(火曜)より臨時休館とします。
また、予定されていた下記のイベントを中止します。
再開時期や今後のイベント等の最新情報は、追って当館ウェブサイトとツイッターでお知らせします。
ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
■葉山館
1月9日(土曜)~11日(月曜・祝日)は開館します。事前予約は必要ありません。ご来館にあたってはご利用についてのお願いをご確認ください。
[展覧会]1月12日より臨時休館(当初予定:2021年1月9日~4月11日)
企画展「フランシス・ベーコン バリー・ジュール・コレクションによる」
コレクション展「イギリス・アイルランドの美術-描かれた物語」
[庭園・散策路]休館中はお入りいただけません
[美術図書室]1月12日より休室
[ショップ]1月12日より休業 ショップのページをみる
[レストラン、駐車場]1月12日より休業 レストランのページをみる
■中止となるイベント
・1月30日(土曜)「近代美術館入門講座」(会場:葉山町福祉文化会館/共催:葉山町)
葉山町のページ(外部サイト)をみる
「連続講演会 生命と芸術 5つのメッセージ」(会場:鎌倉商工会議所会館地下ホール)
・2月6日(土曜)「生命誌は表現を求めている-科学の立場から」講師:中村桂子氏
・2月20 日(土曜)「美術と遊行」講師:やなぎみわ氏
・3月13日(土曜)「あいだのつつみかた」講師:小金沢健人氏
・3月20日(土曜)「生と死のあわい-イメージの息づくところ」講師:水野千依氏
・3月27日(土曜)「演劇と移動」講師:佐藤信氏
<埼玉県立近代美術館>
休館中
緊急事態宣言の発出に伴い、休館期間を2021年2月7日(日)まで延長いたします。
※2021年2月8日(月)は通常の休館になります
※休館期間は、今後の感染状況に応じて変更になる可能性があります。
※詳細については、今後ホームページ等でお知らせしますので、ご確認ください。
<一般展示室(施設利用)について>
1 予約いただいている展覧会については、休館期間中も開催します。
展覧会の予定は、下表をご覧ください。
なお、ご来館の際は、「お客様へのお願い」を必ずご確認ください。
2 2021年1月10日(日)から予定していた一般展示室の利用申込みの受付は、当面の間、延期します。(時期未定)
<うらわ美術館>
開館中
令和3年1月7日(木)の緊急事態宣言を受け、うらわ美術館については1月8日(金)から現在開催中の「芳年展」会期終了の1月24日(日)までの間、入場者数の状況により入場制限を行う等、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため十分な対策を講じてまいります。なお、展示室の入場人数の上限を超えた際は、お待ちいただく場合がございます。
対応の内容につきましては、今後の感染状況等に応じて変更する場合がありますので、ホームページ等で御確認ください。御不便をおかけいたしますが、御理解、御協力を賜りますようお願い申し上げます。
<DIC川村記念美術館>
7月2日(金)まで、美術館は改修工事のため休館中です。
<千葉市美術館>
開館中
緊急事態宣言に伴う開館時間等変更のお知らせ
緊急事態宣言発令に伴い、下記のとおり開館時間の短縮等を実施いたしますので、ご案内いたします。
【開館時間変更】
令和3年1月8日(金)から緊急事態宣言発出の末日までの期間、金曜日および土曜日の夜間(18:00-20:00)の開館を中止します。
また、これに伴い、企画展のナイトミュージアム割引を中止いたします。
【入場制限の実施】
展覧会の混雑状況に応じ、入場制限を行う場合がございますので、あらかじめご了承ください。
【新規施設貸出・利用の中止】
令和3年1月8日(金)から緊急事態宣言発出の末日までの期間、次のとおり、ご利用を中止いたします。
〈施設貸出(夜間)の中止〉
夜間(17:00〜21:00)のご利用は、すでに予約(または仮予約)されているものを含め、ご利用を中止させていただきます。
〈定員の制限〉
各貸出施設定員を概ね1/2といたします。
〈利用自粛のお願い〉
同期間以外でも、すでに予約(または仮予約)されているご利用について、ご利用の自粛をお願いいたします。
【地下1階ちょい呑み処「盛」】
令和3年1月8日(金)から緊急事態宣言発出の末日までの期間、次のとおり、営業時間等を短縮いたします。
営業時間:16:30〜20:00 ※酒類の提供は19:00まで
定休日:毎週月・火曜日 (2月1日は休館)
ご来館にあたっては、引き続き新型コロナウイルス感染拡大防止対策にご協力をお願いいたします。
https://www.ccma-net.jp/news/1882/
ということで、各館の対応はまちまちで、事前予約制を導入した美術館もあるので訪問される方は注意が必要です。とは言え、今はまだオススメできない時期です。変異種の懸念も高まっておりますので、ご無理はされないよう…。それにしてもベーコン展がわずか3日で休館になるとは…
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今日は作者別紹介で、馬をよく描いたことで知られる日本洋画の巨匠 坂本繁二郎を取り上げます。坂本繁二郎は久留米の生まれで小学校の頃から青木繁と一緒で、共に上京しました。先に売れたのは青木繁でしたが、坂本繁二郎も文展で夏目漱石の激賞を受けて名を挙げて行き、その時描いた牛のテーマにこだわって描いていました。やがてパリに留学すると自信を深め、帰国後は久留米に近い八女に居を構え、馬をよく描くようになりました。晩年は視力の衰えなどで外に出る機会が減り、静物や月が主なテーマとなっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
坂本繁二郎は1882年に久留米で生まれ、父も母も絵心があったそうです。10歳の時にそんなに絵が好きならと知人の紹介で洋画家の森三美の画塾へと通いはじめ、日本画が普通の時代に洋画家に接して遠近法などに驚いたようです。坂本繁二郎の4ヶ月遅れで青木繁も久留米に生まれ、小学校で2人は出会って青木繁も森三美の画塾へと入っています。森の画塾では模写が中心で、手製の絵の具とカンバスの作り方なども教わっていたようです。やがて坂本繁二郎は神童と呼ばれ、森の後任として久留米の高等小学校の代行教員も務めましたが、本格的な洋画習得には東京を目指す必要性を感じていました。一足先に東京美術学校で学んだ青木繁が徴兵の検査で帰省すると、その上達ぶりに触発されて上京を決意するようになりました。1902年に青木繁と上京し、画塾 不同舎に入門し 後に太平洋画会研究所で学んでいます。東京では自己流を精算し本格的な洋画の会得を目指していたようです。青木繁の方が先に名が売れたようですが、1907年の東京勧業博覧会で青木繁は不本意な結果を受け、父の死もあって帰郷しています。(青木繁はその後、九州で放浪の末に1911年に病に倒れて若くして亡くなってしまいました。) 一方、坂本繁二郎は文展に入選(青木繁は落選)し、1910年には妻を描いた作品で褒状を獲得、1912年の第6回文展では夏目漱石の目にとまり理解を得て大きな励みになったようです。1914年には文展から独立を図る二科会に誘われ、以降は二科展が主な発表の場となっています。
参考記事:《青木繁》 作者別紹介
残念ながら初期作品の写真が無かったので、二科展に参加した頃からのご紹介となります。
坂本繁二郎 「三月頃の牧場」

こちらは1915年の作品。のんびりと寝そべる牛たちが描かれ、牧歌的な光景となっています。細部はハッキリせず粗めのタッチでモダンな表現であるものの、土着の力強さも感じられますね。まだ後の作風とは異なった作風に思えます。
夏目漱石の目にとまった「うすれ日」以降、牛のテーマにこだわって描いていましたが、1920年の「牛」を総決算としてフランス留学を決意しました。
坂本繁二郎 「馬」

こちらは1916年の作品。坂本繁二郎といえば何と言っても馬ですw こちらは繋がれて前掻きしてるのかな。ややほっそりした馬で、遠くを見るような視線が気になります。背景は曖昧で全体的に幻想的な雰囲気が出てきたように思います。
1921年にはパリに渡って、二科会をはじめとした多くの日本人留学生と交流し、アカデミー・コラッシでシャルル・ゲランに師事しました。しかし半年で辞めてしまい、以降はパリ近郊のブルターニュ地方で写生したり、アトリエで人物画制作に励んだようです。
坂本繁二郎 「自像」

こちらは1923~30年の作品で、フランス時代から描きはじめ 帰国してからも筆を入れ続けて8年かけて仕上げた自画像です。薄い黄土色を地に、似たような色の服と帽子の姿で描かれていて 振り返るようなポーズでやや怪訝そうな顔でこちらを見ています。以前観た時の解説によると厳しい表情に1人で信じる絵の道を進む覚悟が出ているのではないかとのことで、この頃の心境が現れた作品となっています。
坂本繁二郎は1924年9月に帰国すると、東京ではなく久留米に戻りました。フランス留学で得たのは「画人としての歩みようについて日本で抱いていた気持ちに少しも迷いが生じなかった」ことだったそうで、豊かな明るい色調に堅牢なマチエールの獲得も留学の成果と言えるようです。1931年には画壇の煩わしさを避けて八女に転居し、自宅から1キロの場所にアトリエを建てて毎日通って制作に没頭しました。当時の関心は馬にあり、九州各地の放牧場や馬市に出かけて取材したそうで 馬を描くきっかけとなったのは友人でアトリエの土地を提供した梅野満雄だったのだとか。
坂本繁二郎 「放牧三馬」

こちらは1932年の作品で、第19回二科展に出品された坂本繁二郎の代表作の1つです。青空を背景に3頭の馬が寄り添っていて、特に中央の白馬が目を引きます。金色のたてがみで光を浴びて神々しい雰囲気です。また、隣の馬は後ろ向きで、ポーズの対比なども面白く感じられます。動きもあるし、坂本繁二郎の作品でも指折りの傑作だと思います。
この頃には八女の自宅から見える山を描いた「鳶形山」などの風景画なども残されています。「鳶形山」を観た文豪の川端康成は、この絵の雲を随筆『花は眠らない』の中で「食パンを切ったような十字型の雲」と著しているそうで、確かにその通りに見える代表作です。
坂本繁二郎 「水より上る馬」

こちらは1937年の作品。この水色や黄土色、薄いピンクなどが混ざった色合、この構図、坂本繁二郎らしさが凝縮した1枚と言えるのではないでしょうか。疾走感もあり力強さを感じます。
1939年には専属の画商も得て坂本繁二郎の作品が世の中に出ていきましたが、一方で戦時色が強まり旅行なども不便になり、馬も減って 自身の視力も衰えた事から身近な自然である柿・栗・馬鈴薯などを描くようになっていきました。
坂本繁二郎 「壁画下図」

こちらは1944年(1943年?)の作品。ちょっとどこの壁画の下図か分かりませんが、二科展にも出したようです。前述のようにこの頃は静物が多いけど、肝心な時にはやはり馬を描いてたのかも知れませんね。背景に具象性があり爽やかな光景に思えます。
坂本繁二郎は1943年頃から野菜や果物に加え、能面や植木鉢、レンガなどを描くようになりました。能面は1944~1963年まで30点程度存在し、モチーフは由緒ある面でなくても良かったようです。また、静物が増える一方で馬も再び取り上げていて、戦前は二科会を中心に馬の大作を発表していましたが戦後は二科展には参加せず清光会や草人社展で主に発表していました
坂本繁二郎 「水より上がる馬」の看板

こちらは戦後の1953年の作品で、第2回 日本国際美術展に出品されました。先程の1937年の同名の作品とそっくりで、この記事を書くまで同じ絵だと思ってましたw 比較してみると微妙に違っていて、やや赤みがあったり背景が違うかな。何故そっくりな作品を描いたのかはちょっと分からず…。
この頃、芸術院会員推挙を皮切りに受賞や回顧展を重ねていたようで、1956年には文化勲章も受けています。その際、天皇陛下からの「何を描いていますか?」との質問に「静物を描いています」と答えたようです。
坂本繁二郎 「月」の看板

こちらは1964年の作品。青緑の地に煌々と輝く満月が描かれ、月の黄色の中には青や白があり 周りは虹のように薄っすらと赤くなっています。また、下の方には様々な色の雲もあって、繊細な色彩で風情を出しています。神秘的で象徴主義のような感じにも思えますね。
坂本繁二郎は1964年(82歳)の頃に月雲を描き始めたようで、この頃は視力の衰えが著しくアトリエにも出かけなくなって自宅の2階がアトリエとなっていました。そして晩年の坂本繁二郎は「一生絵を描いて生きた事を幸せに思っています」とか「生まれ変わっても画家になりたい」と語っていたそうです。
坂本繁二郎 「月」の看板

こちらは1966年の作品。やはり満月を描いていて、水色の空に少しだけ雲も描かれています。柔らかく光る月は穏やかで、静けさが漂っているように感じます。背景の下の方は森か山か分かりませんが、山水画のような情感がありますね。
この3年後の1969年に87歳で亡くなりました。亡くなった翌年の追悼展の際に作家の井上靖は坂本繁二郎について「氏の晩年のはなやぎ は美しいと思う」と述べていたそうです。
ということで、馬をよく描いた独特の画風となっています。青木繁の顕彰にも励んだため、2人の関係もよく言及されます。関東では東京国立近代美術館やアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)の常設で観る機会がある他、個展もたまに開かれます。日本洋画の巨匠の1人として有名なので、詳しく知っておきたい画家です。
参考記事:
没後50年 坂本繁二郎展 感想前編(練馬区立美術館)
没後50年 坂本繁二郎展 感想後編(練馬区立美術館)
坂本繁二郎は1882年に久留米で生まれ、父も母も絵心があったそうです。10歳の時にそんなに絵が好きならと知人の紹介で洋画家の森三美の画塾へと通いはじめ、日本画が普通の時代に洋画家に接して遠近法などに驚いたようです。坂本繁二郎の4ヶ月遅れで青木繁も久留米に生まれ、小学校で2人は出会って青木繁も森三美の画塾へと入っています。森の画塾では模写が中心で、手製の絵の具とカンバスの作り方なども教わっていたようです。やがて坂本繁二郎は神童と呼ばれ、森の後任として久留米の高等小学校の代行教員も務めましたが、本格的な洋画習得には東京を目指す必要性を感じていました。一足先に東京美術学校で学んだ青木繁が徴兵の検査で帰省すると、その上達ぶりに触発されて上京を決意するようになりました。1902年に青木繁と上京し、画塾 不同舎に入門し 後に太平洋画会研究所で学んでいます。東京では自己流を精算し本格的な洋画の会得を目指していたようです。青木繁の方が先に名が売れたようですが、1907年の東京勧業博覧会で青木繁は不本意な結果を受け、父の死もあって帰郷しています。(青木繁はその後、九州で放浪の末に1911年に病に倒れて若くして亡くなってしまいました。) 一方、坂本繁二郎は文展に入選(青木繁は落選)し、1910年には妻を描いた作品で褒状を獲得、1912年の第6回文展では夏目漱石の目にとまり理解を得て大きな励みになったようです。1914年には文展から独立を図る二科会に誘われ、以降は二科展が主な発表の場となっています。
参考記事:《青木繁》 作者別紹介
残念ながら初期作品の写真が無かったので、二科展に参加した頃からのご紹介となります。
坂本繁二郎 「三月頃の牧場」

こちらは1915年の作品。のんびりと寝そべる牛たちが描かれ、牧歌的な光景となっています。細部はハッキリせず粗めのタッチでモダンな表現であるものの、土着の力強さも感じられますね。まだ後の作風とは異なった作風に思えます。
夏目漱石の目にとまった「うすれ日」以降、牛のテーマにこだわって描いていましたが、1920年の「牛」を総決算としてフランス留学を決意しました。
坂本繁二郎 「馬」

こちらは1916年の作品。坂本繁二郎といえば何と言っても馬ですw こちらは繋がれて前掻きしてるのかな。ややほっそりした馬で、遠くを見るような視線が気になります。背景は曖昧で全体的に幻想的な雰囲気が出てきたように思います。
1921年にはパリに渡って、二科会をはじめとした多くの日本人留学生と交流し、アカデミー・コラッシでシャルル・ゲランに師事しました。しかし半年で辞めてしまい、以降はパリ近郊のブルターニュ地方で写生したり、アトリエで人物画制作に励んだようです。
坂本繁二郎 「自像」

こちらは1923~30年の作品で、フランス時代から描きはじめ 帰国してからも筆を入れ続けて8年かけて仕上げた自画像です。薄い黄土色を地に、似たような色の服と帽子の姿で描かれていて 振り返るようなポーズでやや怪訝そうな顔でこちらを見ています。以前観た時の解説によると厳しい表情に1人で信じる絵の道を進む覚悟が出ているのではないかとのことで、この頃の心境が現れた作品となっています。
坂本繁二郎は1924年9月に帰国すると、東京ではなく久留米に戻りました。フランス留学で得たのは「画人としての歩みようについて日本で抱いていた気持ちに少しも迷いが生じなかった」ことだったそうで、豊かな明るい色調に堅牢なマチエールの獲得も留学の成果と言えるようです。1931年には画壇の煩わしさを避けて八女に転居し、自宅から1キロの場所にアトリエを建てて毎日通って制作に没頭しました。当時の関心は馬にあり、九州各地の放牧場や馬市に出かけて取材したそうで 馬を描くきっかけとなったのは友人でアトリエの土地を提供した梅野満雄だったのだとか。
坂本繁二郎 「放牧三馬」

こちらは1932年の作品で、第19回二科展に出品された坂本繁二郎の代表作の1つです。青空を背景に3頭の馬が寄り添っていて、特に中央の白馬が目を引きます。金色のたてがみで光を浴びて神々しい雰囲気です。また、隣の馬は後ろ向きで、ポーズの対比なども面白く感じられます。動きもあるし、坂本繁二郎の作品でも指折りの傑作だと思います。
この頃には八女の自宅から見える山を描いた「鳶形山」などの風景画なども残されています。「鳶形山」を観た文豪の川端康成は、この絵の雲を随筆『花は眠らない』の中で「食パンを切ったような十字型の雲」と著しているそうで、確かにその通りに見える代表作です。
坂本繁二郎 「水より上る馬」

こちらは1937年の作品。この水色や黄土色、薄いピンクなどが混ざった色合、この構図、坂本繁二郎らしさが凝縮した1枚と言えるのではないでしょうか。疾走感もあり力強さを感じます。
1939年には専属の画商も得て坂本繁二郎の作品が世の中に出ていきましたが、一方で戦時色が強まり旅行なども不便になり、馬も減って 自身の視力も衰えた事から身近な自然である柿・栗・馬鈴薯などを描くようになっていきました。
坂本繁二郎 「壁画下図」

こちらは1944年(1943年?)の作品。ちょっとどこの壁画の下図か分かりませんが、二科展にも出したようです。前述のようにこの頃は静物が多いけど、肝心な時にはやはり馬を描いてたのかも知れませんね。背景に具象性があり爽やかな光景に思えます。
坂本繁二郎は1943年頃から野菜や果物に加え、能面や植木鉢、レンガなどを描くようになりました。能面は1944~1963年まで30点程度存在し、モチーフは由緒ある面でなくても良かったようです。また、静物が増える一方で馬も再び取り上げていて、戦前は二科会を中心に馬の大作を発表していましたが戦後は二科展には参加せず清光会や草人社展で主に発表していました
坂本繁二郎 「水より上がる馬」の看板

こちらは戦後の1953年の作品で、第2回 日本国際美術展に出品されました。先程の1937年の同名の作品とそっくりで、この記事を書くまで同じ絵だと思ってましたw 比較してみると微妙に違っていて、やや赤みがあったり背景が違うかな。何故そっくりな作品を描いたのかはちょっと分からず…。
この頃、芸術院会員推挙を皮切りに受賞や回顧展を重ねていたようで、1956年には文化勲章も受けています。その際、天皇陛下からの「何を描いていますか?」との質問に「静物を描いています」と答えたようです。
坂本繁二郎 「月」の看板

こちらは1964年の作品。青緑の地に煌々と輝く満月が描かれ、月の黄色の中には青や白があり 周りは虹のように薄っすらと赤くなっています。また、下の方には様々な色の雲もあって、繊細な色彩で風情を出しています。神秘的で象徴主義のような感じにも思えますね。
坂本繁二郎は1964年(82歳)の頃に月雲を描き始めたようで、この頃は視力の衰えが著しくアトリエにも出かけなくなって自宅の2階がアトリエとなっていました。そして晩年の坂本繁二郎は「一生絵を描いて生きた事を幸せに思っています」とか「生まれ変わっても画家になりたい」と語っていたそうです。
坂本繁二郎 「月」の看板

こちらは1966年の作品。やはり満月を描いていて、水色の空に少しだけ雲も描かれています。柔らかく光る月は穏やかで、静けさが漂っているように感じます。背景の下の方は森か山か分かりませんが、山水画のような情感がありますね。
この3年後の1969年に87歳で亡くなりました。亡くなった翌年の追悼展の際に作家の井上靖は坂本繁二郎について「氏の晩年のはなやぎ は美しいと思う」と述べていたそうです。
ということで、馬をよく描いた独特の画風となっています。青木繁の顕彰にも励んだため、2人の関係もよく言及されます。関東では東京国立近代美術館やアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)の常設で観る機会がある他、個展もたまに開かれます。日本洋画の巨匠の1人として有名なので、詳しく知っておきたい画家です。
参考記事:
没後50年 坂本繁二郎展 感想前編(練馬区立美術館)
没後50年 坂本繁二郎展 感想後編(練馬区立美術館)
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今日は作者別紹介で、洗濯船のメンバーで独自の女性美で人気の画家マリー・ローランサンを取り上げます。マリー・ローランサンは画塾でジョルジュ・ブラックと知り合い、その紹介で洗濯船のメンバーと知遇を得て、初期はピカソやブラックのキュビスムの影響を受けました。メンバーの詩人のアポリネールと恋仲になり、褒められて伸びていきましたがモナリザ盗難事件を機に2人は疎遠になり 自暴自棄を起こしてドイツ人と結婚し、第一次世界大戦などで一時は暗い時代を過ごしました。しかし離婚してパリに戻ると1920年代の「狂乱の時代」に上流階級の肖像画家として人気を博し、亡くなるまでパステル調の夢想的な作風で多くの女性像を描きました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
マリー・ローランサンは1883年にパリで私生児として生まれました。私生児と言っても経済的に豊かで母親の教養が高かったようで、マリーはブルジョアのお嬢様の教育を受けていたようです。その頃からマリーは画家になりたいと思ったようですが、当時、画家は女性がなるものではないという風潮があったので、母親は陶磁器の絵付けの学校ならお嬢さんの教育としても問題ないと判断し、通わせたようです。 しかし、マリーはやはり画家になりたいと考え画塾アカデミー・アンベールに通うようになり、そこでジョルジュ・ブラックと会い、その後ピカソ達のアトリエに通うようになりました。ブラックとピカソと言えば、キュビスムの創始者ですが、マリー・ローランサンもその影響を受けました。また、キュビスムを擁護した詩人であり批評家であるアポリネールと出会ったのもこの頃で、やがて2人は恋人関係になります。アポリネールはマリー・ローランサンをよく誉めていたようで、それによって自信をつけた彼女は画家としてどんどん成長していきました。
参考記事:《ジョルジュ・ブラック》 作者別紹介
残念ながら初期の作品の写真が無かったので、モンマルトルにある「洗濯船」の写真

ここに通っていた初期は「エジプト風の横顔のアポリネール」や「アンドレ・サルモン」といった洗濯船のメンバーの肖像などを残しています。初期はキュビスム風ではあるものの、ピカソやブラックのキュビスムのように対象を分解することはあまりせず、装飾的な曲線においてキュビスムを取り入れていました。オルフィスム(キュビスムの一派)を取り入れた作品もあり、最新の芸術に通じていました。
アポリネールやピカソ達と交流を重ね着実に力をつけていましたが、そんな彼らとも別れの時が訪れます。そのきっかけは1911年の「モナ・リザ盗難事件」で、アポリネールやピカソは容疑者として警察に目をつけられます(それ以前にアポリネールの秘書がルーブル美術館から小品を盗んで、何も知らないピカソやアポリネールに渡していたという事件があったため、モナ・リザの件でも疑われたようです) 結局、アポリネールは無関係なのに何日か投獄されてしまいました。そして、それを聞きつけたマリーの母親は、あんな男と付き合うなというような事をマリーに言ったようで、アポリネールとは疎遠になってしまいました。さらにその後、追い討ちをかけるように母親が死んでしまい、失意のどん底に陥っていくことになります。
マリーは失意の中で自暴自棄になり、衝動的にドイツ人男性と結婚しました。1914年に第一次世界大戦が始まるとフランスとドイツは敵対関係となったので、2人はスペインに亡命しました。スペイン時代は夫婦愛も覚めてしまい孤独の時代だったようですが、その環境で作風も進化していきました。やがて戦争が終わると夫の故郷ドイツへ行き、その後離婚して1920年にフランスに戻り「狂乱の20年代」を迎えます。
マリー・ローランサン 「スペインの踊り子たち」

こちらは1920~1921年頃の作品。3人の女性と馬や犬などが重なり合うように描かれ、全体的には落ち着いた色彩となっています。肌がやけに白くて表情も物憂げな感じで、まだスペイン時代の画風の特徴があるように思えます。幻想的で絵本の世界のような雰囲気はローランサンならではの魅力ですね。
これ以前のスペイン時代は色も暗く儚げで、格子状の模様がよく使われるなど心理状態を表すような閉塞感が漂った作風でした。ゴヤやベラスケスから影響を受けた作品なども残されています。
マリー・ローランサン 「ニコル・グルーと二人の娘」

こちらは1922年の作品。淡い色彩で描かれ、ニコルという女性とその娘たちが描かれています。この人はファッションで有名なポール・ポワレの妹で、彼女とはかなり親密な仲でした。ぼんやりと浮かぶような淡さが可憐で か弱い感じもするかな。まだまだ憂いを感じる作風です。
マリー・ローランサンはアポリネールを愛しドイツ人男性と結婚しましたが、離婚後は女性も愛していたようでレズかバイセクシュアルだったようです。男性へのコンプレックスもあったようで、画風でもちょっとそれが伺えるかも。
マリー・ローランサン 「犬を抱く女」

こちらは1923年の作品。まだちょっと暗い感じはあるけど奥の女性は微笑んでいるようだし、そこはかとなく幸せな雰囲気が出てきたように思えます。暖色が多めだからそう感じるのかも。
1920年代はパリで活動し、絵画だけでなく舞台美術を手がけるなど幅広く活躍しました。この頃は景気が良い時代でエコールド・パリと呼ばれる文化が華咲き、マリー・ローランサンもココ・シャネルらと共に時代を代表する女性としても注目され人気画家としての地位を確立していきました。
マリー・ローランサン 「牝鹿」

こちらは1923年の作品。バレエ・リュスのディアギレフから「牝鹿」の為の衣装と舞台美術を頼まれた際に作った舞台背景の為の習作です。2人の女性と鹿らしき獣の姿が描かれ、白い肌と淡い色彩で幻想的でメルヘンチックな雰囲気です。細部はよく分かりませんが、全体的に静かな色で流れるような配置となっていて、習作でも面白く思えます
ドイツに滞在している時に神秘的な森の魅力に目覚めたようで、森を舞台にした作品が多くあります。この絵にも登場している犬なのか馬なのか謎の獣も頻出のモチーフです。
マリー・ローランサン 「マドモアゼル・シャネルの肖像」

1923年こちらはファッションデザイナーのココ・シャネルの肖像で、椅子に腰掛けて頭に手を当て 膝にモコモコした犬を乗せています。背景には謎の獣や鳥の姿もありローランサンが得意としたモチーフが集まってるように思えます。全体的に暗い色調で、モデルも気だるい顔をして物憂げです。モデルとなったシャルルはこの作品が気に入らず受け取りを拒否したそうで、それに対してローランサンは「田舎娘」と一蹴して描き直すことはなかったのだとか。
1920年代は戦争に行った男性の代わりに女性が働いていたため、女子の社会進出が進んでいき、マリー・ローランサンと同い年のココ・シャネルもそうした中で注目されました。ココ・シャネルがこの絵を突き返したのは、自分に似ていないと考えたためのようです。というのも、官能的に描かれた肖像は、「女性も男性のように!」と考えていたココ・シャネルの意に沿うものではなかったためでした。女性はこうあるべきという考えが真逆の2人では衝突も仕方なかったのかも。
マリー・ローランサン 「黒馬 あるいは散策」のポスター

こちらは1924年の作品。女性と馬というローランサンが大好きなモチーフが描かれ、おとぎ話の挿絵のような雰囲気です。細部はちょっと妙な感じはありますが、このメルヘンチックな作風は唯一無二の魅力ですね。
作風のせいか、私はローランサンに対して夢見るお嬢様のイメージを持っていたのですが、実際はぶっとんだ所もあったようで、縄跳びしながらデートに来たとか、ピカソにラマの鳴きまねをして驚かせたとか、ケーキにしりもちをついたとか色々なエピソードがあるようです。 むしろおてんばな不思議ちゃん?w
マリー・ローランサン 「帽子をかぶった少女」

こちらは1924年の作品。真っ白な肌の女性が微笑んでいて優しそうな雰囲気となっています。色は落ち着いているものの、以前のような寂しげな感じはなく幸福感が出ているように見えますね。
この頃には社交界の肖像画家として人気を博していました。ローランサンの黄金期は1920年代なのではないかと思います。
マリー・ローランサン 「ポール・ギヨーム夫人の肖像」

こちらは1924~1928頃の作品。有名な画商ポール・ギヨームの奥さんを描いた作品で、手に花を持ち微笑を湛えながら花を持つ優美な姿で描かれています。犬っぽい獣も可愛らしく、全体的にピンク色の為か温かい雰囲気です。モデルの個性も出ているし、数あるローランサンの肖像の中でも特に好きな作品です。
スペイン時代と違って空間を大きく取っている特長があるようで、それが開放感に繋がっているようです。この絵も背景が広いのが分かると思います。
マリー・ローランサン 「女優たち」

こちらは1927年の作品。舞台の裏なのか垂れ幕がかかりギターを持つ女性と抱き合う女性が描かれています。ここでも微笑んでいて、楽しく幸せそうな雰囲気となっています。ローランサンは描いている時期の精神状態も結構伝わってきますね。
マリー・ローランサン 「3人の若い女」

こちらは1935年の作品。ピンク、赤、黄、緑が使われ、以前よりも色彩が明るくなっているのを感じます。以前は灰色がかっていたけど、より白っぽく見えるかな。
1930年代の第2次世界大戦の頃にはドイツ軍に自宅を接収されたものの マリー・ローランサンは戦時下でも比較的裕福だったそうです。1937年にはレジオンドヌール勲章を授与されています。
マリー・ローランサン 「若い女」

こちらは1937年の作品。今まで平面的だった顔に影がついて立体感を感じます。色も鮮やかになり装飾性も増しています。その分、幻想性は減ったようにも思えるけどこれはこれで良い作風ですね。
1940年頃になると色彩がかなり鮮やかになって行き、ほぼ人物画のみとなっていきます。輪郭も強くなって行き、デッサンの雰囲気は以前と似ていても表現と色彩が以前とは異なっているのが分かるかな。男性へのコンプレックスが消えたことで今まで使わなかった赤や黄色を使うようになっていきました。(若い頃は黄色や赤は男性的な感じがすると考えてあまり使わなかった) そのため画面は明るくなり、また、目鼻が具体的になっています。これも心の安定がもたらしたものなのかも知れません。
マリー・ローランサン 「Portrait de jeune fille」

こちらは戦後の1950年の作品。こちらも先程の画風と似ていて、もうこの頃にはかなり画風は安定しています。目鼻立ちがくっきりして凛々しい雰囲気ですね。
晩年はシュザンヌ・モローという家政婦と暮らしていました。娘のように可愛がり、2人揃って修道女のようで昔のマリーと母親のようだったといわれたそうです。
マリー・ローランサン 「三人の若い女」のポスター

こちらは1953年の作品で、10年かけて完成させたそうです。3人の女性が三角形を作るように並んでいて、横に手を伸ばす黄色い衣をまとった半裸の女性、赤い衣を被って頬杖をつく女性、ギターを持って座る青い服の女性となっています。そして背景にはアーチ状の橋のようなものが描かれています。3人の服の色がそれぞれ引き立てるような感じで全体に華やかで優美な雰囲気があるように思います。ちょっと初期っぽい感じもあるかも。
最晩年には取られた家も取り戻し、家政婦のシュザンヌを養女にしました。1956年に亡くなった際、その遺産はシュザンヌに受け継がれましたが生活に必要な分以外は孤児や修道院のために寄付したそうです。また、遺言により棺にマリーが入ったとき、真っ白いドレスを着て、赤いバラをもち、アポリネールの手紙の束を入れて埋葬されたそうです。やはりアポリネールを愛していたのですね…。ちょっと泣けるエピソードです。
こちらは年代・タイトル共に不明の作品。

洒落た服装をした令嬢と言った感じですね。青い服に紅白のストラップがアクセントになって絵としても面白い。
前述の通りマリー・ローランサンは絵画だけでなく装飾なども手掛けています。こちらはアンドレ・グルーがデザインし、マリー・ローランサンが絵付けをしたもの。

花模様となっていて可憐な雰囲気です。人物像だけでなくこうした作品も手掛け、屏風のような品や、舞台美術、本の挿絵なども残されています。
ということで、遠くから見ても一目で分かる個性を持った画家となっています。現代の日本でも非常に人気で、以前には蓼科湖畔にマリー・ローランサン美術館(後に東京の紀尾井町のニューオータニ内に設立)がありましたが、2021年時点では閉館してしまいました。それでも各地の美術館で観られる機会もあると思いますので、詳しく知っておくと一層楽しめると思います。
参考記事:
肖像画 ニコル・グルーと二人の娘(新収蔵品)シャルロット・ルノーダン(パステル画)特別公開 (マリー・ローランサン美術館)
マリー・ローランサンとその時代展 (ニューオータニ美術館)
マリー・ローランサンの扇 (川村記念美術館)
マリー・ローランサンは1883年にパリで私生児として生まれました。私生児と言っても経済的に豊かで母親の教養が高かったようで、マリーはブルジョアのお嬢様の教育を受けていたようです。その頃からマリーは画家になりたいと思ったようですが、当時、画家は女性がなるものではないという風潮があったので、母親は陶磁器の絵付けの学校ならお嬢さんの教育としても問題ないと判断し、通わせたようです。 しかし、マリーはやはり画家になりたいと考え画塾アカデミー・アンベールに通うようになり、そこでジョルジュ・ブラックと会い、その後ピカソ達のアトリエに通うようになりました。ブラックとピカソと言えば、キュビスムの創始者ですが、マリー・ローランサンもその影響を受けました。また、キュビスムを擁護した詩人であり批評家であるアポリネールと出会ったのもこの頃で、やがて2人は恋人関係になります。アポリネールはマリー・ローランサンをよく誉めていたようで、それによって自信をつけた彼女は画家としてどんどん成長していきました。
参考記事:《ジョルジュ・ブラック》 作者別紹介
残念ながら初期の作品の写真が無かったので、モンマルトルにある「洗濯船」の写真

ここに通っていた初期は「エジプト風の横顔のアポリネール」や「アンドレ・サルモン」といった洗濯船のメンバーの肖像などを残しています。初期はキュビスム風ではあるものの、ピカソやブラックのキュビスムのように対象を分解することはあまりせず、装飾的な曲線においてキュビスムを取り入れていました。オルフィスム(キュビスムの一派)を取り入れた作品もあり、最新の芸術に通じていました。
アポリネールやピカソ達と交流を重ね着実に力をつけていましたが、そんな彼らとも別れの時が訪れます。そのきっかけは1911年の「モナ・リザ盗難事件」で、アポリネールやピカソは容疑者として警察に目をつけられます(それ以前にアポリネールの秘書がルーブル美術館から小品を盗んで、何も知らないピカソやアポリネールに渡していたという事件があったため、モナ・リザの件でも疑われたようです) 結局、アポリネールは無関係なのに何日か投獄されてしまいました。そして、それを聞きつけたマリーの母親は、あんな男と付き合うなというような事をマリーに言ったようで、アポリネールとは疎遠になってしまいました。さらにその後、追い討ちをかけるように母親が死んでしまい、失意のどん底に陥っていくことになります。
マリーは失意の中で自暴自棄になり、衝動的にドイツ人男性と結婚しました。1914年に第一次世界大戦が始まるとフランスとドイツは敵対関係となったので、2人はスペインに亡命しました。スペイン時代は夫婦愛も覚めてしまい孤独の時代だったようですが、その環境で作風も進化していきました。やがて戦争が終わると夫の故郷ドイツへ行き、その後離婚して1920年にフランスに戻り「狂乱の20年代」を迎えます。
マリー・ローランサン 「スペインの踊り子たち」

こちらは1920~1921年頃の作品。3人の女性と馬や犬などが重なり合うように描かれ、全体的には落ち着いた色彩となっています。肌がやけに白くて表情も物憂げな感じで、まだスペイン時代の画風の特徴があるように思えます。幻想的で絵本の世界のような雰囲気はローランサンならではの魅力ですね。
これ以前のスペイン時代は色も暗く儚げで、格子状の模様がよく使われるなど心理状態を表すような閉塞感が漂った作風でした。ゴヤやベラスケスから影響を受けた作品なども残されています。
マリー・ローランサン 「ニコル・グルーと二人の娘」

こちらは1922年の作品。淡い色彩で描かれ、ニコルという女性とその娘たちが描かれています。この人はファッションで有名なポール・ポワレの妹で、彼女とはかなり親密な仲でした。ぼんやりと浮かぶような淡さが可憐で か弱い感じもするかな。まだまだ憂いを感じる作風です。
マリー・ローランサンはアポリネールを愛しドイツ人男性と結婚しましたが、離婚後は女性も愛していたようでレズかバイセクシュアルだったようです。男性へのコンプレックスもあったようで、画風でもちょっとそれが伺えるかも。
マリー・ローランサン 「犬を抱く女」

こちらは1923年の作品。まだちょっと暗い感じはあるけど奥の女性は微笑んでいるようだし、そこはかとなく幸せな雰囲気が出てきたように思えます。暖色が多めだからそう感じるのかも。
1920年代はパリで活動し、絵画だけでなく舞台美術を手がけるなど幅広く活躍しました。この頃は景気が良い時代でエコールド・パリと呼ばれる文化が華咲き、マリー・ローランサンもココ・シャネルらと共に時代を代表する女性としても注目され人気画家としての地位を確立していきました。
マリー・ローランサン 「牝鹿」

こちらは1923年の作品。バレエ・リュスのディアギレフから「牝鹿」の為の衣装と舞台美術を頼まれた際に作った舞台背景の為の習作です。2人の女性と鹿らしき獣の姿が描かれ、白い肌と淡い色彩で幻想的でメルヘンチックな雰囲気です。細部はよく分かりませんが、全体的に静かな色で流れるような配置となっていて、習作でも面白く思えます
ドイツに滞在している時に神秘的な森の魅力に目覚めたようで、森を舞台にした作品が多くあります。この絵にも登場している犬なのか馬なのか謎の獣も頻出のモチーフです。
マリー・ローランサン 「マドモアゼル・シャネルの肖像」

1923年こちらはファッションデザイナーのココ・シャネルの肖像で、椅子に腰掛けて頭に手を当て 膝にモコモコした犬を乗せています。背景には謎の獣や鳥の姿もありローランサンが得意としたモチーフが集まってるように思えます。全体的に暗い色調で、モデルも気だるい顔をして物憂げです。モデルとなったシャルルはこの作品が気に入らず受け取りを拒否したそうで、それに対してローランサンは「田舎娘」と一蹴して描き直すことはなかったのだとか。
1920年代は戦争に行った男性の代わりに女性が働いていたため、女子の社会進出が進んでいき、マリー・ローランサンと同い年のココ・シャネルもそうした中で注目されました。ココ・シャネルがこの絵を突き返したのは、自分に似ていないと考えたためのようです。というのも、官能的に描かれた肖像は、「女性も男性のように!」と考えていたココ・シャネルの意に沿うものではなかったためでした。女性はこうあるべきという考えが真逆の2人では衝突も仕方なかったのかも。
マリー・ローランサン 「黒馬 あるいは散策」のポスター

こちらは1924年の作品。女性と馬というローランサンが大好きなモチーフが描かれ、おとぎ話の挿絵のような雰囲気です。細部はちょっと妙な感じはありますが、このメルヘンチックな作風は唯一無二の魅力ですね。
作風のせいか、私はローランサンに対して夢見るお嬢様のイメージを持っていたのですが、実際はぶっとんだ所もあったようで、縄跳びしながらデートに来たとか、ピカソにラマの鳴きまねをして驚かせたとか、ケーキにしりもちをついたとか色々なエピソードがあるようです。 むしろおてんばな不思議ちゃん?w
マリー・ローランサン 「帽子をかぶった少女」

こちらは1924年の作品。真っ白な肌の女性が微笑んでいて優しそうな雰囲気となっています。色は落ち着いているものの、以前のような寂しげな感じはなく幸福感が出ているように見えますね。
この頃には社交界の肖像画家として人気を博していました。ローランサンの黄金期は1920年代なのではないかと思います。
マリー・ローランサン 「ポール・ギヨーム夫人の肖像」

こちらは1924~1928頃の作品。有名な画商ポール・ギヨームの奥さんを描いた作品で、手に花を持ち微笑を湛えながら花を持つ優美な姿で描かれています。犬っぽい獣も可愛らしく、全体的にピンク色の為か温かい雰囲気です。モデルの個性も出ているし、数あるローランサンの肖像の中でも特に好きな作品です。
スペイン時代と違って空間を大きく取っている特長があるようで、それが開放感に繋がっているようです。この絵も背景が広いのが分かると思います。
マリー・ローランサン 「女優たち」

こちらは1927年の作品。舞台の裏なのか垂れ幕がかかりギターを持つ女性と抱き合う女性が描かれています。ここでも微笑んでいて、楽しく幸せそうな雰囲気となっています。ローランサンは描いている時期の精神状態も結構伝わってきますね。
マリー・ローランサン 「3人の若い女」

こちらは1935年の作品。ピンク、赤、黄、緑が使われ、以前よりも色彩が明るくなっているのを感じます。以前は灰色がかっていたけど、より白っぽく見えるかな。
1930年代の第2次世界大戦の頃にはドイツ軍に自宅を接収されたものの マリー・ローランサンは戦時下でも比較的裕福だったそうです。1937年にはレジオンドヌール勲章を授与されています。
マリー・ローランサン 「若い女」

こちらは1937年の作品。今まで平面的だった顔に影がついて立体感を感じます。色も鮮やかになり装飾性も増しています。その分、幻想性は減ったようにも思えるけどこれはこれで良い作風ですね。
1940年頃になると色彩がかなり鮮やかになって行き、ほぼ人物画のみとなっていきます。輪郭も強くなって行き、デッサンの雰囲気は以前と似ていても表現と色彩が以前とは異なっているのが分かるかな。男性へのコンプレックスが消えたことで今まで使わなかった赤や黄色を使うようになっていきました。(若い頃は黄色や赤は男性的な感じがすると考えてあまり使わなかった) そのため画面は明るくなり、また、目鼻が具体的になっています。これも心の安定がもたらしたものなのかも知れません。
マリー・ローランサン 「Portrait de jeune fille」

こちらは戦後の1950年の作品。こちらも先程の画風と似ていて、もうこの頃にはかなり画風は安定しています。目鼻立ちがくっきりして凛々しい雰囲気ですね。
晩年はシュザンヌ・モローという家政婦と暮らしていました。娘のように可愛がり、2人揃って修道女のようで昔のマリーと母親のようだったといわれたそうです。
マリー・ローランサン 「三人の若い女」のポスター

こちらは1953年の作品で、10年かけて完成させたそうです。3人の女性が三角形を作るように並んでいて、横に手を伸ばす黄色い衣をまとった半裸の女性、赤い衣を被って頬杖をつく女性、ギターを持って座る青い服の女性となっています。そして背景にはアーチ状の橋のようなものが描かれています。3人の服の色がそれぞれ引き立てるような感じで全体に華やかで優美な雰囲気があるように思います。ちょっと初期っぽい感じもあるかも。
最晩年には取られた家も取り戻し、家政婦のシュザンヌを養女にしました。1956年に亡くなった際、その遺産はシュザンヌに受け継がれましたが生活に必要な分以外は孤児や修道院のために寄付したそうです。また、遺言により棺にマリーが入ったとき、真っ白いドレスを着て、赤いバラをもち、アポリネールの手紙の束を入れて埋葬されたそうです。やはりアポリネールを愛していたのですね…。ちょっと泣けるエピソードです。
こちらは年代・タイトル共に不明の作品。

洒落た服装をした令嬢と言った感じですね。青い服に紅白のストラップがアクセントになって絵としても面白い。
前述の通りマリー・ローランサンは絵画だけでなく装飾なども手掛けています。こちらはアンドレ・グルーがデザインし、マリー・ローランサンが絵付けをしたもの。

花模様となっていて可憐な雰囲気です。人物像だけでなくこうした作品も手掛け、屏風のような品や、舞台美術、本の挿絵なども残されています。
ということで、遠くから見ても一目で分かる個性を持った画家となっています。現代の日本でも非常に人気で、以前には蓼科湖畔にマリー・ローランサン美術館(後に東京の紀尾井町のニューオータニ内に設立)がありましたが、2021年時点では閉館してしまいました。それでも各地の美術館で観られる機会もあると思いますので、詳しく知っておくと一層楽しめると思います。
参考記事:
肖像画 ニコル・グルーと二人の娘(新収蔵品)シャルロット・ルノーダン(パステル画)特別公開 (マリー・ローランサン美術館)
マリー・ローランサンとその時代展 (ニューオータニ美術館)
マリー・ローランサンの扇 (川村記念美術館)
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今日は作者別紹介で、アメリカで活躍した日本人画家の国吉康雄を取り上げます。国吉康雄は17歳で渡米し、日本の伝統とアメリカのフォークアートを融合して1920~30年代の「アメリカン・シーン」の流れに乗って高い評価を受けました。やがて時代は日米の戦争を迎えると敵性外国人としてマークされ、対日プロパガンダに協力を余儀なくされます。両国の葛藤は作風にも顕れ、複雑な心境や虚無感を感じさせる名作を生み出しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
国吉康雄は1889年に現在の岡山市で生まれ、染織の工業学校を退学して1904年に17歳の若さで単身で渡米しました。当時は岡山県から多くの人がアメリカに移民していた時代で、国吉康雄もそうした時流に乗ったと思われます(父に勧められて英語学習が目的だったという話もあります) アメリカで様々な職業につく傍ら、美術に興味を示すようになりL.A.やニューヨークで美術学校に入り、1916年からはアート・スチューデンツ・リーグで学んでいます。当初は子供や動物などのモティーフを散りばめた哀愁漂う風景を描いていましたが、後にアート・スチューデンツ・リーグで出会ったジュール・パスキンの影響を受けて憂いを帯びた都会の女性を描くようになっていきます。
国吉康雄 「読書する少女」

こちらは初期の1921年の作品。最初期はセザンヌやルノワールに傾倒していた国吉康雄ですが、この頃はキュビスムに影響を受けていたようで全体的にやや角張った感じの風景画となっています。一方で縦に積み上がる構図は山水画のようであり、国吉康雄が独自性を模索する様子が伺えるようです。くすんだ色彩は特に国吉康雄ならではの哀愁と幻想性を感じさせるかな。手前の少女の表情も目を引きますね。
この翌年の1922年に行われた個展がメディアに紹介されると、国吉康雄は素朴派の画家として有名になりました。東洋っぽさとアメリカのモダニズムの融合で、パリの芸術の物真似でないのが高く評価されたようです。
国吉康雄 「村落」

こちらは1921年の作品。構成はだいぶ違いますが、雰囲気としては先程の作品に似ていると思います。風景があって手前に人物が描かれている構図で、茶色っぽくノスタルジックな印象です。夢想的なところもあって割とシャガールの作風と共通する部分があるように思います。
この時期の国吉康雄の特徴は、空間の手前にあるものから順に下から上へとモチーフを積み上げる遠近法です。また、過去の記憶と想像力で描いたモチーフは、時間も空間も異なる要素を併置しているようになっています。
国吉康雄 「夢」

こちらは1922年の作品。まさに夢の中のような光景で、ちょっとシュルレアリスムのような奇妙さもあるように思えます。赤い牛が特に目を引きますね。
この頃のアメリカは第一次世界大戦の後の孤立主義の影響でナショナリズムが高まり、「アメリカン・シーン」と呼ばれるヨーロッパ・モダニズムへの反動と写実主義への回帰が起きていました。国吉もこの流れの一員と見なされ、他にはホッパーやベン・シャーンなどもカテゴライズされています。
国吉康雄 「雨乞い」

こちらは1923年の作品。手前にいるのはミミズを咥えたカエルかな? 奥には建物があり遠近感もありつつ夢の中の光景のようにも思えます。素朴派と呼ばれる画家たちの特徴として、1つ1つのモチーフはしっかり描いているけど全体では辻褄があわずシュールに見えるってのがありますが それを逆に上手く利用している感じを受けます。タイトルはカエルが雨を待ちわびてるんでしょうか。その発想に日本的な情緒も感じます。
1925年にパスキンの誘いでパリへと渡りました。1928年にもパリを訪れていて、この2度の渡欧で国吉はより写実的な作風に転じていきます。
国吉康雄 「茄子」

こちらは1925年の作品。皿に乗った茄子と建物が描かれていて、キュビスムのように上からの視点と横からの視点が混ざった構成となっています。ちょっと痩せた茄子だけど、描写自体は写実的かな。少し画風が変わっているのが感じられます。
この頃、名もなき女性たちやサーカスの少女などをよく描いていました。どちらもこの後の時代にも出てくるお気に入りのモチーフです。
国吉康雄 「夜警」

こちらは1925~28年頃のリトグラフ作品。全体的に暗くて歪んでいるのが不安な印象を受けます。枯れ木や2人以外に誰もいない街角がますます寒々しくてちょっと怖いw
1929年にはニューヨーク近代美術館の「19人の現代アメリカ画家展」に選出されるなど、当時のアメリカを代表する画家の1人として評価されていました。
国吉康雄 「シュミーズの女(藤椅子に座る女)」

こちらは1929年の作品。椅子にもたれ掛かってややエロティックな雰囲気がありつつ、微笑んでいて親密な印象も受けます。バランスは妙な感じだけど写実的なのはこの頃の特徴かな。非常に良い絵だと思います。
この頃、パリで活躍した日本人で有名なのは藤田嗣治ですが、国吉康雄と藤田嗣治は共通の友人であるパスキンを通じてパリで出会っています。1931年に国吉康雄が1度だけ日本に帰国した際、藤田嗣治が国吉の個展の為に尽力してくれました。
国吉康雄 「秋のたそがれ」

こちらは1929年の作品。寂しげな村の様子を描いていて、色彩や技法は以前の作風に似ているけど夢想的な感じではなく実景っぽい風景画になっています。タイトルの通り黄昏を感じる光景ですね。
先述の通り国吉康雄はアメリカで高く評価されていたため、サロンズ・オブ・アメリカの会長を務めたり、1933年には母校のアート・ステューデンツ・リーグの教授になるなど社会的にも高い地位に就いています。しかし時代は着実に次の大戦へと進んでいくのでした…。
国吉康雄 「サーカスの女玉乗り」

こちらは1930年の作品。サーカスの玉乗りの女性を描いていて、表情は穏やかに見えます。国吉康雄の描く女性は美しいだけでなく生活感というか一種の逞しさも感じさせます。それにしても赤いタイツの色が強くて目を引きますw
1931年に病気の父親を見舞うために故郷の岡山へと戻りました。その際、歓迎されて前述の個展の開催や二科展の会員推挙などもありましたが、日本社会に違和感を覚えたようで、その後の国吉は米国で活動を続けることを選択して二度と日本に戻るはありませんでした(警官に敬礼しなかった為に罵倒されたりしたそうです)
国吉康雄 「バーガンディー」

こちらは1935年の作品。頬杖をついてワインレッドの帽子を被っているのがタイトルの由来じゃないかな。物思いに耽るような表情でちょっと微笑んでいるようにも見えます。国吉康雄の描く人物はその人の性格や人生まで伝わってくるようです。
この頃には世界にファシズムが台頭し、国吉康雄は反ファシズムや反戦の運動をしていました。しかし母国の日本とアメリカの関係は日増しに悪化していくことになります。
国吉康雄 「二つの世界」

こちらは1939年の作品。1935年にアメリカ中西部を旅した際に見た 荒れた大地や険しい山、見捨てられた街などが国吉の心を捉えたようで、この頃からこうした荒野が登場するようになりました。タイトルの「二つの世界」は廃墟のある左側と少し明るい右側の世界という意味ではないか?とのことですが、時代を考えると2つの祖国を暗示しているという説のほうがしっくり来ます。遠くに見える暗い空も時代を象徴しているように見えてしまいますね。
1941年についに日米の間で戦争が始まりました。国吉康雄は強制収容はされなかったものの敵性外国人として取り扱われ、アメリカへの忠誠を証明することを迫られます。そのため、アメリカへの支持の声明を出し、対日プロパガンダの仕事も引き受けることとなります。日本を悪魔的に描いたポスターなどは現在では批判されることもありますが、時代と立場を考えれば致し方ないのかも。
国吉康雄 「イーグルズ・レスト」

こちらは1941年の作品。荒野に錨や門、彫像などが打ち捨てられていて非常に寂しげな光景となっています。人の姿もなく廃墟みたいな。戦争へのやりきれない気持ちが出ているのかも知れませんね。
国吉康雄のプロパガンダポスターは日本の現実に則さない部分が多かったようです。日本を離れて久しく 前述の通り日本の慣習に違和感を感じていたほどで、日本人よりアメリカ人に近い感性でした。
国吉康雄 「誰かが私のポスターを破った」

こちらは1943年の代表作。タイトルから分かるように背景のポスターらしきものが破られています。このポスターは国吉と同時代の画家ベン・シャーンが描いたもので、「我々フランスの労働者は警告する。敗退は隷属、飢餓、そして死を意味する」と描いてあります。それを破られたのがこの女性らしく、物憂げな表情でこちらを見ています。この表情に当時の国吉の心情が代弁されているんじゃないかな。暴力的になったアメリカのナショナリズムへの批判も込められているようです。
終戦直前には全米絵画展で1等を取るなど、国吉康雄の芸術自体は評価されていたようです。戦後になると1947年に美術家組合を設立し、会長となっています。
国吉康雄 「寡婦」

こちらは戦後の1948年の作品。寂しげな雰囲気の顔がタイトル通りの物語を感じさせます。ガランとした風景も心象のような感じ。戦後間もないのでこうした寡婦も結構いたんでしょうね。虚無感が伝わってきます。
この1948年にはホイットニー美術館で、現存作家として最初の個展を開催するなど、国吉は当時の米国を代表する画家として認められるようになりました。
国吉康雄 「カーニヴァル」

こちらは1949年の作品。だいぶ色彩感覚が変わって温かみのある雰囲気となっています。戦後は明るい赤と、対比的な緑や青を効果的に配した鮮やかな作品を描くようになりました。 一方、無表情の仮面は何処と無く日本の鬼のように見えるような…。この頃からちょっと和風なモチーフも登場するので何か関係があるかも??
この翌年の1950年頃から体調が悪化し、1953年に亡くなりました。国吉はアメリカの市民権を得るつもりでしたが手続き中に亡くなっています。
ということで、日本生まれではあるものの画業のほとんどはアメリカの画家となっています。しかし日本にも多くの作品が渡ってきていて、東京国立近代美術館などで作品を観ることができます。岡山などでは個展が開かれることもあり、目にする機会もあると思います。アメリカでは日本以上に評価されているので、当地に行く機会があったら代表作を観てみたいものです。
国吉康雄は1889年に現在の岡山市で生まれ、染織の工業学校を退学して1904年に17歳の若さで単身で渡米しました。当時は岡山県から多くの人がアメリカに移民していた時代で、国吉康雄もそうした時流に乗ったと思われます(父に勧められて英語学習が目的だったという話もあります) アメリカで様々な職業につく傍ら、美術に興味を示すようになりL.A.やニューヨークで美術学校に入り、1916年からはアート・スチューデンツ・リーグで学んでいます。当初は子供や動物などのモティーフを散りばめた哀愁漂う風景を描いていましたが、後にアート・スチューデンツ・リーグで出会ったジュール・パスキンの影響を受けて憂いを帯びた都会の女性を描くようになっていきます。
国吉康雄 「読書する少女」

こちらは初期の1921年の作品。最初期はセザンヌやルノワールに傾倒していた国吉康雄ですが、この頃はキュビスムに影響を受けていたようで全体的にやや角張った感じの風景画となっています。一方で縦に積み上がる構図は山水画のようであり、国吉康雄が独自性を模索する様子が伺えるようです。くすんだ色彩は特に国吉康雄ならではの哀愁と幻想性を感じさせるかな。手前の少女の表情も目を引きますね。
この翌年の1922年に行われた個展がメディアに紹介されると、国吉康雄は素朴派の画家として有名になりました。東洋っぽさとアメリカのモダニズムの融合で、パリの芸術の物真似でないのが高く評価されたようです。
国吉康雄 「村落」

こちらは1921年の作品。構成はだいぶ違いますが、雰囲気としては先程の作品に似ていると思います。風景があって手前に人物が描かれている構図で、茶色っぽくノスタルジックな印象です。夢想的なところもあって割とシャガールの作風と共通する部分があるように思います。
この時期の国吉康雄の特徴は、空間の手前にあるものから順に下から上へとモチーフを積み上げる遠近法です。また、過去の記憶と想像力で描いたモチーフは、時間も空間も異なる要素を併置しているようになっています。
国吉康雄 「夢」

こちらは1922年の作品。まさに夢の中のような光景で、ちょっとシュルレアリスムのような奇妙さもあるように思えます。赤い牛が特に目を引きますね。
この頃のアメリカは第一次世界大戦の後の孤立主義の影響でナショナリズムが高まり、「アメリカン・シーン」と呼ばれるヨーロッパ・モダニズムへの反動と写実主義への回帰が起きていました。国吉もこの流れの一員と見なされ、他にはホッパーやベン・シャーンなどもカテゴライズされています。
国吉康雄 「雨乞い」

こちらは1923年の作品。手前にいるのはミミズを咥えたカエルかな? 奥には建物があり遠近感もありつつ夢の中の光景のようにも思えます。素朴派と呼ばれる画家たちの特徴として、1つ1つのモチーフはしっかり描いているけど全体では辻褄があわずシュールに見えるってのがありますが それを逆に上手く利用している感じを受けます。タイトルはカエルが雨を待ちわびてるんでしょうか。その発想に日本的な情緒も感じます。
1925年にパスキンの誘いでパリへと渡りました。1928年にもパリを訪れていて、この2度の渡欧で国吉はより写実的な作風に転じていきます。
国吉康雄 「茄子」

こちらは1925年の作品。皿に乗った茄子と建物が描かれていて、キュビスムのように上からの視点と横からの視点が混ざった構成となっています。ちょっと痩せた茄子だけど、描写自体は写実的かな。少し画風が変わっているのが感じられます。
この頃、名もなき女性たちやサーカスの少女などをよく描いていました。どちらもこの後の時代にも出てくるお気に入りのモチーフです。
国吉康雄 「夜警」

こちらは1925~28年頃のリトグラフ作品。全体的に暗くて歪んでいるのが不安な印象を受けます。枯れ木や2人以外に誰もいない街角がますます寒々しくてちょっと怖いw
1929年にはニューヨーク近代美術館の「19人の現代アメリカ画家展」に選出されるなど、当時のアメリカを代表する画家の1人として評価されていました。
国吉康雄 「シュミーズの女(藤椅子に座る女)」

こちらは1929年の作品。椅子にもたれ掛かってややエロティックな雰囲気がありつつ、微笑んでいて親密な印象も受けます。バランスは妙な感じだけど写実的なのはこの頃の特徴かな。非常に良い絵だと思います。
この頃、パリで活躍した日本人で有名なのは藤田嗣治ですが、国吉康雄と藤田嗣治は共通の友人であるパスキンを通じてパリで出会っています。1931年に国吉康雄が1度だけ日本に帰国した際、藤田嗣治が国吉の個展の為に尽力してくれました。
国吉康雄 「秋のたそがれ」

こちらは1929年の作品。寂しげな村の様子を描いていて、色彩や技法は以前の作風に似ているけど夢想的な感じではなく実景っぽい風景画になっています。タイトルの通り黄昏を感じる光景ですね。
先述の通り国吉康雄はアメリカで高く評価されていたため、サロンズ・オブ・アメリカの会長を務めたり、1933年には母校のアート・ステューデンツ・リーグの教授になるなど社会的にも高い地位に就いています。しかし時代は着実に次の大戦へと進んでいくのでした…。
国吉康雄 「サーカスの女玉乗り」

こちらは1930年の作品。サーカスの玉乗りの女性を描いていて、表情は穏やかに見えます。国吉康雄の描く女性は美しいだけでなく生活感というか一種の逞しさも感じさせます。それにしても赤いタイツの色が強くて目を引きますw
1931年に病気の父親を見舞うために故郷の岡山へと戻りました。その際、歓迎されて前述の個展の開催や二科展の会員推挙などもありましたが、日本社会に違和感を覚えたようで、その後の国吉は米国で活動を続けることを選択して二度と日本に戻るはありませんでした(警官に敬礼しなかった為に罵倒されたりしたそうです)
国吉康雄 「バーガンディー」

こちらは1935年の作品。頬杖をついてワインレッドの帽子を被っているのがタイトルの由来じゃないかな。物思いに耽るような表情でちょっと微笑んでいるようにも見えます。国吉康雄の描く人物はその人の性格や人生まで伝わってくるようです。
この頃には世界にファシズムが台頭し、国吉康雄は反ファシズムや反戦の運動をしていました。しかし母国の日本とアメリカの関係は日増しに悪化していくことになります。
国吉康雄 「二つの世界」

こちらは1939年の作品。1935年にアメリカ中西部を旅した際に見た 荒れた大地や険しい山、見捨てられた街などが国吉の心を捉えたようで、この頃からこうした荒野が登場するようになりました。タイトルの「二つの世界」は廃墟のある左側と少し明るい右側の世界という意味ではないか?とのことですが、時代を考えると2つの祖国を暗示しているという説のほうがしっくり来ます。遠くに見える暗い空も時代を象徴しているように見えてしまいますね。
1941年についに日米の間で戦争が始まりました。国吉康雄は強制収容はされなかったものの敵性外国人として取り扱われ、アメリカへの忠誠を証明することを迫られます。そのため、アメリカへの支持の声明を出し、対日プロパガンダの仕事も引き受けることとなります。日本を悪魔的に描いたポスターなどは現在では批判されることもありますが、時代と立場を考えれば致し方ないのかも。
国吉康雄 「イーグルズ・レスト」

こちらは1941年の作品。荒野に錨や門、彫像などが打ち捨てられていて非常に寂しげな光景となっています。人の姿もなく廃墟みたいな。戦争へのやりきれない気持ちが出ているのかも知れませんね。
国吉康雄のプロパガンダポスターは日本の現実に則さない部分が多かったようです。日本を離れて久しく 前述の通り日本の慣習に違和感を感じていたほどで、日本人よりアメリカ人に近い感性でした。
国吉康雄 「誰かが私のポスターを破った」

こちらは1943年の代表作。タイトルから分かるように背景のポスターらしきものが破られています。このポスターは国吉と同時代の画家ベン・シャーンが描いたもので、「我々フランスの労働者は警告する。敗退は隷属、飢餓、そして死を意味する」と描いてあります。それを破られたのがこの女性らしく、物憂げな表情でこちらを見ています。この表情に当時の国吉の心情が代弁されているんじゃないかな。暴力的になったアメリカのナショナリズムへの批判も込められているようです。
終戦直前には全米絵画展で1等を取るなど、国吉康雄の芸術自体は評価されていたようです。戦後になると1947年に美術家組合を設立し、会長となっています。
国吉康雄 「寡婦」

こちらは戦後の1948年の作品。寂しげな雰囲気の顔がタイトル通りの物語を感じさせます。ガランとした風景も心象のような感じ。戦後間もないのでこうした寡婦も結構いたんでしょうね。虚無感が伝わってきます。
この1948年にはホイットニー美術館で、現存作家として最初の個展を開催するなど、国吉は当時の米国を代表する画家として認められるようになりました。
国吉康雄 「カーニヴァル」

こちらは1949年の作品。だいぶ色彩感覚が変わって温かみのある雰囲気となっています。戦後は明るい赤と、対比的な緑や青を効果的に配した鮮やかな作品を描くようになりました。 一方、無表情の仮面は何処と無く日本の鬼のように見えるような…。この頃からちょっと和風なモチーフも登場するので何か関係があるかも??
この翌年の1950年頃から体調が悪化し、1953年に亡くなりました。国吉はアメリカの市民権を得るつもりでしたが手続き中に亡くなっています。
ということで、日本生まれではあるものの画業のほとんどはアメリカの画家となっています。しかし日本にも多くの作品が渡ってきていて、東京国立近代美術館などで作品を観ることができます。岡山などでは個展が開かれることもあり、目にする機会もあると思います。アメリカでは日本以上に評価されているので、当地に行く機会があったら代表作を観てみたいものです。
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