Archive | 2021年02月
今日は作者別紹介で、ロシア出身で1940~1950年代に活躍したニコラ・ド・スタールを取り上げます。ニコラ・ド・スタールは戦後すぐの頃は抽象絵画を描いていましたが、やがて具象性を増して色彩も変化していきました。アンフォルメルの文脈で紹介されることもあるものの独自の路線で、フランスだけでなくアメリカでも人気を博しました。日本にはそれほど作品は来ていませんが、今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
ニコラ・ド・スタールは1913年にロシアのサンクトペテルブルクの裕福な軍人の家に生まれました。しかし1917年にロシア革命が起きると、家族は亡命を余儀なくされポーランドに移住し、1919年には両親を亡くしてしまいます。そして2人の姉妹と共にブリュッセルのロシア人の元に預けられてそこで育ちました。大学時代はフランス文学やギリシャの古典などに関心を持ち、同時に美術館やギャラリーでルーベンスやアンソールなどベルギーの画家に魅了されていたようです。さらにオランダに訪れた際にフランドル絵画も発見し、絵画の道を志すようになっていきました。1933年にはブリュッセルの美術学校で古画を学び、装飾の授業も受けて1935年のブリュッセル万国博覧会の農業パビリオンの壁画制作も手伝いました。その後、ヨーロッパ各地を旅行して南仏やパリでセザンヌ、マティス、スーティン、ブラックなどの作品に出会い、スペインでは風景の美しさに魅了されてスケッチや水彩も制作していたようです。そして1937年にマラケシュでジャニーヌ・ギユーという5歳上の女性画家と出会い、翌年には2人でイタリアに旅に出て、その年のうちにパリで一緒に住むようになりました。この時に短期間ですがフェルナン・レジェのアカデミーのクラスに通い、ルーブル美術館の模写などもしています。しかし1939年に第二次大戦が始まるとニコラ・ド・スタールは外国人部隊に志願し、しばらく軍隊生活を送っています。1940年にはニースに住むジャニーヌ・ギユーと合流し、1942年には2人の間に娘ができました。(この時2人は夫婦ではなくジャニーヌは別に夫と連れ子がいた)この頃はジャニーヌの肖像画などをかいていたようで、娘の誕生によって絵画も変化したようです。1943年にはドイツに占領されたパリにジャニーヌと2人の子と共に戻り、貧しい中で一時的に人が住んでいない豪邸を貸してもらい大型作品を多く制作しています。
ニコラ・ド・スタール 「Sans titre (double face)」

こちらは1944年の作品で、タイトルは無題(2つの顔)という意味です。抽象化していて顔なのか分かりませんが、まあ人影のようにも見えるかなw ニコラ・ド・スタールはジョルジュ・ブラックと交流のあった画家なので、ちょっとブラックの作風に似た部分もあるように思えます。
この年の2月にはカンディンスキーと共に展覧会を行っています。ピカソやブラックなどがオープニングに訪れたようですが、抽象美術は批判の対象だったため批評家からの評価は芳しくなかったようです。さらに企画された第2回展ではナチスの秘密警察ゲシュタポの訪問を受けるなど不遇の扱いを受けています。
ニコラ・ド・スタール 「Composition,Maloir」

こちらは1946年の作品。タイトルはコンポジション(構成)で、スタールはコンポジションというタイトルの作品だらけですw 黒を背景に不定形な模様がありザラついたマチエールとなっています。同時期に生まれたアンフォルメルに近いようにも思えるけどカンディンスキーにも通じるものがあるかな。
極貧生活の中、終戦前後辺りからジャニーヌ・ギユーの体調が悪化していたものの、本人はそれをニコラ・ド・スタールには隠していたようです。そして1946年2月にジャニーヌが亡くなると、その悲しみから取り憑かれたように制作しています。しかしその数ヶ月後には2人の子供を養うためにフランソワーズ・シャプートンという女性(ジャニーヌと共に息子のために雇った教師)と結婚しました。この女性とも3人の子供を設けています。
ニコラ・ド・スタール 「Composition」

これはちょっと製作年が分からなかったですが、恐らくこの頃の作品ではないかと思います。というのも全体的に黒っぽくて先程の作品に似た画風に思えるためです。そこに白が効果的に使われていて、荒々しくて動きが感じられる画面となっています。まあ何を描いているのかは分かりませんが…w
1945年から1950年にかけてのニコラ・ド・スタールの絵画は抽象性がむき出しになっていて、色が黒っぽいためか「黒の時代」と呼ばれています。この頃が最も抽象的な作風で、意外なことに後に具象化していきます。
ニコラ・ド・スタール 「コンポジション」のポスター

こちらは1948年の作品(愛知県美術館)パレットナイフで描かれた長方形が集合体となったような幾何学的な絵で、間近で観るとかなり厚塗りされています。色は落ち着いていますが、うねりのようなものを感じ、リズム感がありますね。これは近くで見ないと分からない作品ではあります…。
当時、「1945年から1949年にかけてのスタールの絵画は、梁のようなものであり、衝動的な形のレースのようなものであった。」と評されたようです。確かに柱とか梁みたいなものが連なっているように見えますねw この1948年にはフランスに帰化し、息子が生まれています。その誕生の喜びから光を想起したようで、作品の色も明るくなっていきました。この後、マチエールはますます濃く・太くなる一方で色は繊細で黒が薄れていくのが特徴です。
ニコラ・ド・スタール 「コンポジション(湿った土)」

こちらは1949年の作品。一気に作風が変わって白っぽい!w スタールの作品の中で最も目にする機会が多い(東京国立近代美術館の所蔵)なので、私の中でスタールのイメージはこの作風なのですが、これもまだ過渡期だったりします。絵というよりは左官屋さんの仕事のようにも見えますが、不思議と落ち着いた色彩とマチエールが調和しているように思えます。
この1949年はニコラ・ド・スタールにとって重要な年で、リヨンやパリ、サンパウロ、トロントなどの展覧会に参加しています。それによりアメリカでの知名度があがり、1950年にはニューヨークの雑誌『アートと演劇』に掲載されて個展も大成功させています。フランスでも1950年にパリ国立近代美術館が油彩作品を購入するなどこの頃から偉大な画家として認知されていきました。
ニコラ・ド・スタール 「Footballeurs」

こちらは1952年の作品で、タイトルは「サッカー選手」となります。技法的には四角の集合体みたいな点は変わりませんが、サッカー選手を描いているのが一目で分かる具象性がありますね。足を上げて相手選手と共に躍動している雰囲気がよく伝わってきます。
1952年3月26日にフランスとスウェーデンのサッカーの試合を妻と共に観戦すると、その動きや色彩に魅了されてサッカーをテーマにした10点以上の連作を制作しています。しかし具象になったことで仲間や批評家たちからは抽象を放棄したと考えられ、アンドレ・ロートは「政治的犯罪者」とまで呼んだのだとかw それに対してニコラ・ド・スタールは画家たちへのアンケート(インタビュー?)の回答の中で「私は抽象画と具象画とは反対ではない」と答えていたようです。
ニコラ・ド・スタール 「Ciel à Honfleur」

こちらは1952年の作品で、オンフルール(仏ノルマンディー地方の都市)の天という意味となります。これも空を描いた風景画なのが分かりますね。白や黄色の雲と 澄み渡るような青が爽やかで、赤と紫の地面が強い対比となっています。色使いの明るさに進化を感じます。
1953年にイタリアを旅行し、この頃からジャンヌ・マチューという女性に夢中になります。(お互いに配偶者がいるのに…)この女性への愛がヌード作品への研究を勧め、彼女に近づくためにアンティーブにアパートを借りて家族のいない一人暮らしを始めました。
ニコラ・ド・スタール 「Paysage,Marine」

こちらは1954年の作品で、タイトルは風景、海 という意味です。抽象的でコンポジションのようにも見えますが海の風景と言われれば納得の光景です。細部は分からないものの船か何かの建造物かな。 深い青のため静けさが漂ってます。
この翌年の1955年3月にアトリエのテラスから身を投げて亡くなりました。その前日にはジャンヌの夫に「あなたの勝ち」と言ってジャンヌの手紙をすべて渡しているので、失恋が自殺の原因と考えられています。また、制作に追われていたのも精神的に追い詰められた原因ではないかという説もあります。
ということで、具象から抽象、抽象から具象へと回帰した珍しい画家となっています。一番売れててまだ画風が変化しそうな時期に人妻に手を出して自殺というのが何とも惜しい。日本ではほとんど紹介される機会はありませんが、アメリカやフランスでは評価の高い画家ですので、覚えておきたいところです。
余談:ニコラ・ド・スタールに関する日本版のwikiとフランス版のwikiの熱量の違いを観て欲しいw これがそのまま両国の認識の違いじゃないかなw
参考:
日本版wiki
フランス版wiki
ニコラ・ド・スタールは1913年にロシアのサンクトペテルブルクの裕福な軍人の家に生まれました。しかし1917年にロシア革命が起きると、家族は亡命を余儀なくされポーランドに移住し、1919年には両親を亡くしてしまいます。そして2人の姉妹と共にブリュッセルのロシア人の元に預けられてそこで育ちました。大学時代はフランス文学やギリシャの古典などに関心を持ち、同時に美術館やギャラリーでルーベンスやアンソールなどベルギーの画家に魅了されていたようです。さらにオランダに訪れた際にフランドル絵画も発見し、絵画の道を志すようになっていきました。1933年にはブリュッセルの美術学校で古画を学び、装飾の授業も受けて1935年のブリュッセル万国博覧会の農業パビリオンの壁画制作も手伝いました。その後、ヨーロッパ各地を旅行して南仏やパリでセザンヌ、マティス、スーティン、ブラックなどの作品に出会い、スペインでは風景の美しさに魅了されてスケッチや水彩も制作していたようです。そして1937年にマラケシュでジャニーヌ・ギユーという5歳上の女性画家と出会い、翌年には2人でイタリアに旅に出て、その年のうちにパリで一緒に住むようになりました。この時に短期間ですがフェルナン・レジェのアカデミーのクラスに通い、ルーブル美術館の模写などもしています。しかし1939年に第二次大戦が始まるとニコラ・ド・スタールは外国人部隊に志願し、しばらく軍隊生活を送っています。1940年にはニースに住むジャニーヌ・ギユーと合流し、1942年には2人の間に娘ができました。(この時2人は夫婦ではなくジャニーヌは別に夫と連れ子がいた)この頃はジャニーヌの肖像画などをかいていたようで、娘の誕生によって絵画も変化したようです。1943年にはドイツに占領されたパリにジャニーヌと2人の子と共に戻り、貧しい中で一時的に人が住んでいない豪邸を貸してもらい大型作品を多く制作しています。
ニコラ・ド・スタール 「Sans titre (double face)」

こちらは1944年の作品で、タイトルは無題(2つの顔)という意味です。抽象化していて顔なのか分かりませんが、まあ人影のようにも見えるかなw ニコラ・ド・スタールはジョルジュ・ブラックと交流のあった画家なので、ちょっとブラックの作風に似た部分もあるように思えます。
この年の2月にはカンディンスキーと共に展覧会を行っています。ピカソやブラックなどがオープニングに訪れたようですが、抽象美術は批判の対象だったため批評家からの評価は芳しくなかったようです。さらに企画された第2回展ではナチスの秘密警察ゲシュタポの訪問を受けるなど不遇の扱いを受けています。
ニコラ・ド・スタール 「Composition,Maloir」

こちらは1946年の作品。タイトルはコンポジション(構成)で、スタールはコンポジションというタイトルの作品だらけですw 黒を背景に不定形な模様がありザラついたマチエールとなっています。同時期に生まれたアンフォルメルに近いようにも思えるけどカンディンスキーにも通じるものがあるかな。
極貧生活の中、終戦前後辺りからジャニーヌ・ギユーの体調が悪化していたものの、本人はそれをニコラ・ド・スタールには隠していたようです。そして1946年2月にジャニーヌが亡くなると、その悲しみから取り憑かれたように制作しています。しかしその数ヶ月後には2人の子供を養うためにフランソワーズ・シャプートンという女性(ジャニーヌと共に息子のために雇った教師)と結婚しました。この女性とも3人の子供を設けています。
ニコラ・ド・スタール 「Composition」

これはちょっと製作年が分からなかったですが、恐らくこの頃の作品ではないかと思います。というのも全体的に黒っぽくて先程の作品に似た画風に思えるためです。そこに白が効果的に使われていて、荒々しくて動きが感じられる画面となっています。まあ何を描いているのかは分かりませんが…w
1945年から1950年にかけてのニコラ・ド・スタールの絵画は抽象性がむき出しになっていて、色が黒っぽいためか「黒の時代」と呼ばれています。この頃が最も抽象的な作風で、意外なことに後に具象化していきます。
ニコラ・ド・スタール 「コンポジション」のポスター

こちらは1948年の作品(愛知県美術館)パレットナイフで描かれた長方形が集合体となったような幾何学的な絵で、間近で観るとかなり厚塗りされています。色は落ち着いていますが、うねりのようなものを感じ、リズム感がありますね。これは近くで見ないと分からない作品ではあります…。
当時、「1945年から1949年にかけてのスタールの絵画は、梁のようなものであり、衝動的な形のレースのようなものであった。」と評されたようです。確かに柱とか梁みたいなものが連なっているように見えますねw この1948年にはフランスに帰化し、息子が生まれています。その誕生の喜びから光を想起したようで、作品の色も明るくなっていきました。この後、マチエールはますます濃く・太くなる一方で色は繊細で黒が薄れていくのが特徴です。
ニコラ・ド・スタール 「コンポジション(湿った土)」

こちらは1949年の作品。一気に作風が変わって白っぽい!w スタールの作品の中で最も目にする機会が多い(東京国立近代美術館の所蔵)なので、私の中でスタールのイメージはこの作風なのですが、これもまだ過渡期だったりします。絵というよりは左官屋さんの仕事のようにも見えますが、不思議と落ち着いた色彩とマチエールが調和しているように思えます。
この1949年はニコラ・ド・スタールにとって重要な年で、リヨンやパリ、サンパウロ、トロントなどの展覧会に参加しています。それによりアメリカでの知名度があがり、1950年にはニューヨークの雑誌『アートと演劇』に掲載されて個展も大成功させています。フランスでも1950年にパリ国立近代美術館が油彩作品を購入するなどこの頃から偉大な画家として認知されていきました。
ニコラ・ド・スタール 「Footballeurs」

こちらは1952年の作品で、タイトルは「サッカー選手」となります。技法的には四角の集合体みたいな点は変わりませんが、サッカー選手を描いているのが一目で分かる具象性がありますね。足を上げて相手選手と共に躍動している雰囲気がよく伝わってきます。
1952年3月26日にフランスとスウェーデンのサッカーの試合を妻と共に観戦すると、その動きや色彩に魅了されてサッカーをテーマにした10点以上の連作を制作しています。しかし具象になったことで仲間や批評家たちからは抽象を放棄したと考えられ、アンドレ・ロートは「政治的犯罪者」とまで呼んだのだとかw それに対してニコラ・ド・スタールは画家たちへのアンケート(インタビュー?)の回答の中で「私は抽象画と具象画とは反対ではない」と答えていたようです。
ニコラ・ド・スタール 「Ciel à Honfleur」

こちらは1952年の作品で、オンフルール(仏ノルマンディー地方の都市)の天という意味となります。これも空を描いた風景画なのが分かりますね。白や黄色の雲と 澄み渡るような青が爽やかで、赤と紫の地面が強い対比となっています。色使いの明るさに進化を感じます。
1953年にイタリアを旅行し、この頃からジャンヌ・マチューという女性に夢中になります。(お互いに配偶者がいるのに…)この女性への愛がヌード作品への研究を勧め、彼女に近づくためにアンティーブにアパートを借りて家族のいない一人暮らしを始めました。
ニコラ・ド・スタール 「Paysage,Marine」

こちらは1954年の作品で、タイトルは風景、海 という意味です。抽象的でコンポジションのようにも見えますが海の風景と言われれば納得の光景です。細部は分からないものの船か何かの建造物かな。 深い青のため静けさが漂ってます。
この翌年の1955年3月にアトリエのテラスから身を投げて亡くなりました。その前日にはジャンヌの夫に「あなたの勝ち」と言ってジャンヌの手紙をすべて渡しているので、失恋が自殺の原因と考えられています。また、制作に追われていたのも精神的に追い詰められた原因ではないかという説もあります。
ということで、具象から抽象、抽象から具象へと回帰した珍しい画家となっています。一番売れててまだ画風が変化しそうな時期に人妻に手を出して自殺というのが何とも惜しい。日本ではほとんど紹介される機会はありませんが、アメリカやフランスでは評価の高い画家ですので、覚えておきたいところです。
余談:ニコラ・ド・スタールに関する日本版のwikiとフランス版のwikiの熱量の違いを観て欲しいw これがそのまま両国の認識の違いじゃないかなw
参考:
日本版wiki
フランス版wiki
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今日は作者別紹介で、1930~40年代に活躍した北脇昇を取り上げます。北脇昇は謎の多い画家で、1937年にシュルレアリスム風の作品を発表した為、シュルレアリストとして扱われることが多いように思います。しかしその後は数学や東洋美術を取り入れた作風へと変化し、西洋のシュルレアリスムの文脈だけではない独自の解釈へと発展していきました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
北脇昇は1901年に愛知で生まれましたが、1910年に父親の単身赴任で京都の叔父(住友財閥の重鎮だった)の元へ移ると亡くなるまで京都で活動しました。1919年に鹿子木孟郎の画塾に入ったものの徴兵で画業は一旦ストップし、約10年のブランクの後に1930年からは津田青楓の画塾に入って学んでいます。そして1932年に二科展に初入選すると京都洋画協会の結成に参加しました。以降も独立美術京都研究所や京都青年芸術家クラブに参加し、1930年代の後半にシュルレアリスムに出会い その影響を受けた作風となっていきました。
北脇昇 「独活(うど)」

こちらは1937年の作品で、第7回独立展に出品されました。当時の独立展はフォーヴィスムが主流でしたがこの絵は薄塗りで丹念に描かれ、ウドと言うか人間が血を流しているような生々しさがあります。「ウドの大木」という言葉にかけた洒落でもあるようで、シュールでちょっと怖さもあって面白い作品です。
この頃、北脇昇は身近なものを見慣れぬものに見立てる手法で制作していました。この絵のように植物が人やものを暗示する作風となっています。北脇昇がどうやって画法を習得したか、この作品で急にシュルレアリスム風になったのは何故か、研究者にも不明な部分が多く謎の画家となっています。
北脇昇 「空港」

こちらは1937年の作品。楓の種子を飛行機に見立てたシュルレアリスム的な作風となっていて、どんよりしていることもあって言いしれぬ不安があるかな。寂しげな光景に思え、イヴ・タンギーなどに通じるものを感じます。この作品は阪神淡路大震災を機に書かれた村上春樹 著『神の子どもたちはみな踊る』の表紙に使われたのだとか。
北脇昇はモチーフになる植物の実・種・枝・木片などを日常生活や植物図譜の中から見つけてきたようです。
北脇昇 「空の訣別」

こちらも1937年の作品。まるで戦闘機の戦いを描いているような作品で、よく観るとサンゴや貝がモチーフになっているのが分かります。これは同年8月の南京渡洋爆撃に参加した梅林孝次中尉の乗る攻撃機が被弾して墜落した出来事が主題となっていて、梅林中尉は白いハンカチを振って自爆したらしく、当時は歌まで作られるほど人気となりました。赤いサンゴと巻いたハンカチは梅林中尉は手とハンカチを表し、カエデは戦闘機に見立てられいるのが分かります。戦争を身近なもので表すことで来るべき未来を予見していたのではないか?との解釈もあるようです。シュールな感覚と一種の怖さを感じますね。
1937年には京都青年芸術家クラブ結成にも参加しています。
北脇昇 「孤独な終末」

こちらは1938年の作品。ちょっと作風が変わって見立てというよりかは超現実的な空間表現にシフトしたような感じに見えます。まるで宇宙の中のような空間で、球体は月なのかな? 炸裂する光線や手前の貝のようなモチーフなど謎めいた雰囲気です。タイトルのせいか寂しげな感じもあるかも。
北脇昇はシュルレアリスムの画家のイメージがありますが、シュルレアリスム風の作品は1937年~39年頃に集中しています。そのシュルレアリスムの様式の中でも変化していくのが見て取れると思います。
北脇昇 「美わしき繭」

こちらは1938年の作品。砂漠のようなところに岩と工場があり、繭を突き破るように花を世話する人が描かれています。無関係のものを組み合わせる手法や砂漠のような背景はシュルレアリスムによくありますが、以前に比べて背景が滑らかでモノクロの中にカラフルな部分があることで一層に奇妙なリアルさが感じられます。戦争に向かう時期にこれだけ自由で面白い作品があったことに驚き。
ここまでシュルレアリスム風だった北脇昇ですが、1939年に美術文化協会の結成に参加してからは独自の理念による図式絵画を制作するようになりました。ここから数学的な幾何学性を持つ作品が多くなります。
北脇昇 「相関的秩序」

こちらは1939年の作品。一気に作風が変わりましたw 色とりどりの線で四角や平行線を描いていて、何かのグラフのようにも見えます。意図は分かりませんが、連続して変化する流れのようにも思えて、色と形態が心地良い。
この絵ではありませんが、こうした作風の作品を制作した際、北脇昇は「数学が絵画になった」と言ったそうです。確かにw
北脇昇 「非相称の相称構造(窓)」

こちらも1939年の作品。タイトルからして数学的な感じですが、チェック柄の模様のようにも思えるw 絵というよりはデザインっぽさがあるかな。赤と緑の線や青い点がアクセントになっていて、何か意味がありそうにも思えますね。
北脇昇は孤独な人物だったようですが、この絵は小牧源太郎との二人展に出品されています。他に今井憲一などとも交流があったようです。
北脇昇 「想・行・識」

こちらは1940年の作品。弥勒菩薩半跏思惟像や四天王像などと渦巻模様が組み合わされ、背景には雲が浮かび海辺の岩も表されています。無関係なものを組み合わせるのはシュルレアリスム的ですが、やはり数学的なモチーフもありこれまでの作風を発展させた感じに見えるかな。奇妙な調和があるように思えます。
この頃から日本や東洋の文化を取り入れた作風となっていて、仏像、禅、曼荼羅、易学などが幾何学模様と共に画面に現れるようになっています。
北脇昇 「文化類型学図式」

こちらは1940年の作品。京都学派の哲学者である高山岩男の『文化類型学』を基に描いているそうで、能面、ギリシャ彫刻、中央アジアの塑像の3つが渦巻模様と共に配置されています。何か系譜図のような並びに見えるけど、中央の上段に日本の面を置いたのは優位性を示そうとしたのかもしれません(時代も戦時下なので…) これも意味深ですが意図はハッキリわかっていないようです。
北脇昇は「観相学シリーズ」という作品も手掛けています。古今東西の文化や顔といったモチーフに関心があったのが伺えます。
北脇昇 「竜安寺石庭ベクトル構造」

こちらは1941年の作品。龍安寺の石庭をモチーフに直線を引いてそれぞれの位置関係をベクトル構造として解析したような感じになっています。スッキリとした平行四辺形と対角などに表され、石の周りには円も描かれています。石庭が美しく感じるのはこうした幾何学的な配置となっている為なのかも? 北脇昇は身の回りのものも数学的な構造に見えていたのかも知れませんね。
この時代はシュルレアリスムは反体制的として瀧口修造などは検挙されています。シュルレアリスムっぽさがありつつも日本の文化を取り入れた作風になったのもそうした背景が関係している可能性も指摘されています。
北脇昇 「数学的スリル」

こちらは1942年の作品。まるで矢かミサイルのようなものと人らしき物体が置かれ、それぞれが直角三角形の配置となっています。また見立てっぽい要素が出てきたように思えるけど、やはり意図を探るのは難しいw
北脇昇は旧制中学を中退していて、こうした数学的な知識は独学で学んだようです。他にも自然科学や哲学、歴史など広範な教養があったことが伺えますね。
北脇昇 「オブジェ」

こちらは1942年の作品。先程の「数学的スリル」に出てきた矢のようなモチーフそのものといった感じです。これは木で出来ていて、やはり自然観察と関連がありそうです。
この後、1943~1945年の戦争が激化した時代の北脇昇の作品は観たことがありません。昨年行われたミニ企画展の出品リストにもこの期間の作品が無いので、何をしていたのかちょっと分かりませんでした。戦後は再びシュルレアリスム風の作品を制作しています。
北脇昇 「クォ・ヴァディス」

こちらは1949年の作品。クォ・ヴァディスとはラテン語で「(主よ)いずこへ行き給うぞ」の意味で聖ペトロの言葉です。死に向かう前のキリストへ問いかけたもので、この作品では戦後すぐの日本に向かって問いかける意味が込められています。砂漠の中に岐路があり、大勢の行進や嵐などが迫っているのが不安を感じさせます。手前にある貝殻がシュールな雰囲気。
この翌年の1950年に結核と診断され、1951年に50歳で亡くなりました。
ということで、画風も人生も謎の多い画家となっています。昨年に東京国立近代美術館で常設特集が行われ、23年ぶりのまとまった展示だったようです。東京国立近代美術館以外では目にする機会も少ないですが、異彩を放つ気になる存在となっています。
北脇昇は1901年に愛知で生まれましたが、1910年に父親の単身赴任で京都の叔父(住友財閥の重鎮だった)の元へ移ると亡くなるまで京都で活動しました。1919年に鹿子木孟郎の画塾に入ったものの徴兵で画業は一旦ストップし、約10年のブランクの後に1930年からは津田青楓の画塾に入って学んでいます。そして1932年に二科展に初入選すると京都洋画協会の結成に参加しました。以降も独立美術京都研究所や京都青年芸術家クラブに参加し、1930年代の後半にシュルレアリスムに出会い その影響を受けた作風となっていきました。
北脇昇 「独活(うど)」

こちらは1937年の作品で、第7回独立展に出品されました。当時の独立展はフォーヴィスムが主流でしたがこの絵は薄塗りで丹念に描かれ、ウドと言うか人間が血を流しているような生々しさがあります。「ウドの大木」という言葉にかけた洒落でもあるようで、シュールでちょっと怖さもあって面白い作品です。
この頃、北脇昇は身近なものを見慣れぬものに見立てる手法で制作していました。この絵のように植物が人やものを暗示する作風となっています。北脇昇がどうやって画法を習得したか、この作品で急にシュルレアリスム風になったのは何故か、研究者にも不明な部分が多く謎の画家となっています。
北脇昇 「空港」

こちらは1937年の作品。楓の種子を飛行機に見立てたシュルレアリスム的な作風となっていて、どんよりしていることもあって言いしれぬ不安があるかな。寂しげな光景に思え、イヴ・タンギーなどに通じるものを感じます。この作品は阪神淡路大震災を機に書かれた村上春樹 著『神の子どもたちはみな踊る』の表紙に使われたのだとか。
北脇昇はモチーフになる植物の実・種・枝・木片などを日常生活や植物図譜の中から見つけてきたようです。
北脇昇 「空の訣別」

こちらも1937年の作品。まるで戦闘機の戦いを描いているような作品で、よく観るとサンゴや貝がモチーフになっているのが分かります。これは同年8月の南京渡洋爆撃に参加した梅林孝次中尉の乗る攻撃機が被弾して墜落した出来事が主題となっていて、梅林中尉は白いハンカチを振って自爆したらしく、当時は歌まで作られるほど人気となりました。赤いサンゴと巻いたハンカチは梅林中尉は手とハンカチを表し、カエデは戦闘機に見立てられいるのが分かります。戦争を身近なもので表すことで来るべき未来を予見していたのではないか?との解釈もあるようです。シュールな感覚と一種の怖さを感じますね。
1937年には京都青年芸術家クラブ結成にも参加しています。
北脇昇 「孤独な終末」

こちらは1938年の作品。ちょっと作風が変わって見立てというよりかは超現実的な空間表現にシフトしたような感じに見えます。まるで宇宙の中のような空間で、球体は月なのかな? 炸裂する光線や手前の貝のようなモチーフなど謎めいた雰囲気です。タイトルのせいか寂しげな感じもあるかも。
北脇昇はシュルレアリスムの画家のイメージがありますが、シュルレアリスム風の作品は1937年~39年頃に集中しています。そのシュルレアリスムの様式の中でも変化していくのが見て取れると思います。
北脇昇 「美わしき繭」

こちらは1938年の作品。砂漠のようなところに岩と工場があり、繭を突き破るように花を世話する人が描かれています。無関係のものを組み合わせる手法や砂漠のような背景はシュルレアリスムによくありますが、以前に比べて背景が滑らかでモノクロの中にカラフルな部分があることで一層に奇妙なリアルさが感じられます。戦争に向かう時期にこれだけ自由で面白い作品があったことに驚き。
ここまでシュルレアリスム風だった北脇昇ですが、1939年に美術文化協会の結成に参加してからは独自の理念による図式絵画を制作するようになりました。ここから数学的な幾何学性を持つ作品が多くなります。
北脇昇 「相関的秩序」

こちらは1939年の作品。一気に作風が変わりましたw 色とりどりの線で四角や平行線を描いていて、何かのグラフのようにも見えます。意図は分かりませんが、連続して変化する流れのようにも思えて、色と形態が心地良い。
この絵ではありませんが、こうした作風の作品を制作した際、北脇昇は「数学が絵画になった」と言ったそうです。確かにw
北脇昇 「非相称の相称構造(窓)」

こちらも1939年の作品。タイトルからして数学的な感じですが、チェック柄の模様のようにも思えるw 絵というよりはデザインっぽさがあるかな。赤と緑の線や青い点がアクセントになっていて、何か意味がありそうにも思えますね。
北脇昇は孤独な人物だったようですが、この絵は小牧源太郎との二人展に出品されています。他に今井憲一などとも交流があったようです。
北脇昇 「想・行・識」

こちらは1940年の作品。弥勒菩薩半跏思惟像や四天王像などと渦巻模様が組み合わされ、背景には雲が浮かび海辺の岩も表されています。無関係なものを組み合わせるのはシュルレアリスム的ですが、やはり数学的なモチーフもありこれまでの作風を発展させた感じに見えるかな。奇妙な調和があるように思えます。
この頃から日本や東洋の文化を取り入れた作風となっていて、仏像、禅、曼荼羅、易学などが幾何学模様と共に画面に現れるようになっています。
北脇昇 「文化類型学図式」

こちらは1940年の作品。京都学派の哲学者である高山岩男の『文化類型学』を基に描いているそうで、能面、ギリシャ彫刻、中央アジアの塑像の3つが渦巻模様と共に配置されています。何か系譜図のような並びに見えるけど、中央の上段に日本の面を置いたのは優位性を示そうとしたのかもしれません(時代も戦時下なので…) これも意味深ですが意図はハッキリわかっていないようです。
北脇昇は「観相学シリーズ」という作品も手掛けています。古今東西の文化や顔といったモチーフに関心があったのが伺えます。
北脇昇 「竜安寺石庭ベクトル構造」

こちらは1941年の作品。龍安寺の石庭をモチーフに直線を引いてそれぞれの位置関係をベクトル構造として解析したような感じになっています。スッキリとした平行四辺形と対角などに表され、石の周りには円も描かれています。石庭が美しく感じるのはこうした幾何学的な配置となっている為なのかも? 北脇昇は身の回りのものも数学的な構造に見えていたのかも知れませんね。
この時代はシュルレアリスムは反体制的として瀧口修造などは検挙されています。シュルレアリスムっぽさがありつつも日本の文化を取り入れた作風になったのもそうした背景が関係している可能性も指摘されています。
北脇昇 「数学的スリル」

こちらは1942年の作品。まるで矢かミサイルのようなものと人らしき物体が置かれ、それぞれが直角三角形の配置となっています。また見立てっぽい要素が出てきたように思えるけど、やはり意図を探るのは難しいw
北脇昇は旧制中学を中退していて、こうした数学的な知識は独学で学んだようです。他にも自然科学や哲学、歴史など広範な教養があったことが伺えますね。
北脇昇 「オブジェ」

こちらは1942年の作品。先程の「数学的スリル」に出てきた矢のようなモチーフそのものといった感じです。これは木で出来ていて、やはり自然観察と関連がありそうです。
この後、1943~1945年の戦争が激化した時代の北脇昇の作品は観たことがありません。昨年行われたミニ企画展の出品リストにもこの期間の作品が無いので、何をしていたのかちょっと分かりませんでした。戦後は再びシュルレアリスム風の作品を制作しています。
北脇昇 「クォ・ヴァディス」

こちらは1949年の作品。クォ・ヴァディスとはラテン語で「(主よ)いずこへ行き給うぞ」の意味で聖ペトロの言葉です。死に向かう前のキリストへ問いかけたもので、この作品では戦後すぐの日本に向かって問いかける意味が込められています。砂漠の中に岐路があり、大勢の行進や嵐などが迫っているのが不安を感じさせます。手前にある貝殻がシュールな雰囲気。
この翌年の1950年に結核と診断され、1951年に50歳で亡くなりました。
ということで、画風も人生も謎の多い画家となっています。昨年に東京国立近代美術館で常設特集が行われ、23年ぶりのまとまった展示だったようです。東京国立近代美術館以外では目にする機会も少ないですが、異彩を放つ気になる存在となっています。
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今日は作者別紹介で、アンフォルメルの先駆者とされるジャン・フォートリエを取り上げます。フォートリエは1920年代は「表現主義的具象画」の画家だったものの 次第に抽象へと向かっていきました。一時期は生活苦で画業から離れましたが、戦時中はレジスタンスとしてナチスと戦いながら「人質」シリーズなどを手掛け、終戦直後の個展で一躍有名になりました。その作風はキャンバスに紙を貼って凹凸をつけ、顔料やパステルを塗り固めるもので独特なマチエールとなっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。
ジャン・フォートリエはパリ生まれですが、ロンドンに移住しロイヤル・アカデミーとスレイド美術学校で学びました。ロンドンではテート・ギャラリーでターナーの作品などに影響を受けていたようで、初期には具象的な作品を描いています。1917年に召集を受けてフランスに帰国し、兵役や療養生活を経てパリに居を構えました。
ジャン・フォートリエ 「La promenade du dimanche au Tyrol Tyroliennes en habit du dimanche」

こちらは1921~1922年頃の作品で、日本語にすると「チロルの日曜日の散歩 日曜服のチロルの人々」といった感じでしょうか。独特の民族服のような格好をした女性たちが描かれていて、一見してフォートリエの作品とは分かりません。というか、これだけ具象的なフォートリエの作品を目にする機会は稀です。この時期はまだ具象的だったのがよく分かりますね。
第一次大戦の後はこうした具象的絵画を描いていたようで、1923年には「表現主義的具象画」で最初の個展を開いています。1924年にもパリで個展を開きました。
ジャン・フォートリエ 「La jolie fille」

こちらは1927年の作品で、日本語にすると「可愛い女の子」とか「美女」と言った感じです。かなり抽象化が進んだ感じがするけど、まだ女性を描いたのは認識できますねw 背景も暗いし不気味な雰囲気でとても美女とは思えませんが…。この頃には具象から徐々に離れて行ったのが見て取れます。
こうしてフォートリエは次第に抽象へと向かい1920年代には画商のポール・ギヨームと契約して成功を収めました。しかし1930年代は経済的に困窮し、1934~1936年頃にはアルプスでスキーの指導やホテル経営などをしていたようで、一時は画壇から離れました。そして1937年に創作を再開し、戦争が始まるとパリに戻りました。
ジャン・フォートリエ 「La Juive」

こちらは1943年年の作品で、日本語にすると「ユダヤ人」です。この頃は戦争真っ只中で、1940年にはパリもドイツに占領されていたのでユダヤ人が迫害されていた時期となります。かなり抽象化が進んでいて人には見えませんが、タイトルのせいか赤い線が血を連想させます。画面もかなり物質的なマチエールとなっていて後に「アンフォルメル」と呼ばれる前衛的な絵画運動に直接影響を与えていったのが伺えます。
フォートリエは戦争中にはレジスタンスに参加しナチスに追われていたようです。この絵を描いた1943年にはナチスの秘密警察ゲシュタポに逮捕されていて、パリから逃げて避難先で「人質」シリーズの制作をしています。この頃から紙や石膏で画面を盛り上げて描く独特の作風となっています。
ジャン・フォートリエ 「Lécorché」

こちらも戦時中の1944年の作品。タイトルは恐らくエコルシェ(人物画において、皮膚を除いて筋肉を表しているもの)のことだと思われます。左上と右上の辺りに手か足の指っぽいものがあるのが人体っぽさを感じさせるかな。そこから考えると体とおぼしき場所は折れ曲がっているのが何とも不穏に思えてきます。周りも黒っぽいし、何処と無く死を連想してしまう。
1945年に戦争が終わり、戦時中に制作された「人質」のシリーズが発表されるとフォートリエは注目を浴び、哲学者のサルトルからは「最も戦後的な画家」という賞賛を受けました。
ジャン・フォートリエ 「人質の頭部」

こちらは1945年の作品で、人質シリーズの1枚。ドイツ軍に追われ精神的に圧迫されている中で制作されたもので、これは人の顔を表しているようです。前述の通りフォートリエはナチスへの反抗組織であるレジスタンスに参加して、追われる中で虐殺される人々を目の当たりにしてこうした「人質」シリーズを手がけました。その為、厚く塗り重ねられた上に描かれた線は苦悶の表情に見える気がします。これは直接観ないとただの長方形に見えるかもしれませんが、恐ろしいエピソードのある代表作です。
こうした作品は石膏などで凹凸を作ってパステルを染み込ませているらしく、言い知れぬパワーが伝わってきます。
ジャン・フォートリエ 「Les boites de conserve」

こちらは1947年の作品で、日本語にすると缶詰の意味のようです。確かに缶のようなものが3つほど並んでいるようにも見えるかなw 以前に比べるとモチーフが平和的なせいか背景色も明るくて全体的に爽やかな印象すら受けます。技法自体はそれほど変わっていないけど、この先進性には当時の画壇も驚いたのではないでしょうか。
1950年に批評家ミシェル・タピエによって「アンフォルメル」が提唱され、これはフランス語で「非定形なるもの」を意味します。ドイツ占領下時代のパリでギャラリー・ルネ・ドルーアがオープンした時にフォートリエ、デュビュッフェ、ヴォルスの3人が個展を開催していた為、この3人がアンフォルメルの先駆者とされます。
参考記事:
《ヴォルス》 作者別紹介
《ジャン・デュビュッフェ》 作者別紹介
ジャン・フォートリエ 「無題」

こちらは1956年の作品。やはりグワッシュや石膏、紙などを使って描いていて、もはや絵というよりは立体作品のようにザラついた質感にこだわりがあるようです。近くで見ると凹凸の中にも細かいシミのようなものが無数にあります。モチーフはまた分からなくなりましたw
この1956年に開催された「世界・今日の美術展」でフォートリエの「人質」シリーズが紹介され、こうした独特のマチエールや、戦争の犠牲者という題材、題材自体をより連想させる抽象化した表現などが これまでの絵画とは違う と人々に衝撃を与えて注目を集めました。
ジャン・フォートリエ 「Round box」

こちらは1958年の作品で、日本語にすると「丸い箱」となります。この頃は水色っぽい背景にモチーフらしきものが描かれているのが多いのかも。私の中では氷の中に何かが埋まっているようなイメージですw フォートリエの作品は写真では伝えづらい物質感があるのがちょっともどかしい。
日本では馴染みが薄そうなフォートリエですが、意外にも戦前の日本においてたびたび文献に登場していたようです。また、1959年には南画廊で個展が開かれて大成功を収めたようで、この頃には日本にも伝わっていました。1961年には第6回日本国際美術展で外務大臣賞も受賞しています。
ジャン・フォートリエ 「旋回する線」

こちらは晩年の1963年の作品。これもキャンバスに紙を貼って描いたものですが、ちょっと画風が変わったように見えます。引っかき傷が筆記体の文字のようにうねり、躍動感がありますね。これもマチエールの物質感がありつつ筆の動きがあって新境地を感じます。
この3年前の1960年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレでは大賞を受賞し、世界的に有名な画家となっていました。しかしこの後すぐの1964年にパリで66歳で亡くなっています。
ということで、難解な画風ではありますがマチエールが独特で覚えやすい画家だと思います。戦時中の壮絶なエピソードもあり、戦後すぐの美術界にとって重要な存在です。関東ではアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)や横浜美術館などで目にすることができ、2014年には東京ステーションギャラリーで個展も行われました。ヴォルス、デュビュッフェと共に覚えておきたい画家です。
参考記事:アンフォルメルとは何か?-20世紀フランス絵画の挑戦 (ブリヂストン美術館)
ジャン・フォートリエはパリ生まれですが、ロンドンに移住しロイヤル・アカデミーとスレイド美術学校で学びました。ロンドンではテート・ギャラリーでターナーの作品などに影響を受けていたようで、初期には具象的な作品を描いています。1917年に召集を受けてフランスに帰国し、兵役や療養生活を経てパリに居を構えました。
ジャン・フォートリエ 「La promenade du dimanche au Tyrol Tyroliennes en habit du dimanche」

こちらは1921~1922年頃の作品で、日本語にすると「チロルの日曜日の散歩 日曜服のチロルの人々」といった感じでしょうか。独特の民族服のような格好をした女性たちが描かれていて、一見してフォートリエの作品とは分かりません。というか、これだけ具象的なフォートリエの作品を目にする機会は稀です。この時期はまだ具象的だったのがよく分かりますね。
第一次大戦の後はこうした具象的絵画を描いていたようで、1923年には「表現主義的具象画」で最初の個展を開いています。1924年にもパリで個展を開きました。
ジャン・フォートリエ 「La jolie fille」

こちらは1927年の作品で、日本語にすると「可愛い女の子」とか「美女」と言った感じです。かなり抽象化が進んだ感じがするけど、まだ女性を描いたのは認識できますねw 背景も暗いし不気味な雰囲気でとても美女とは思えませんが…。この頃には具象から徐々に離れて行ったのが見て取れます。
こうしてフォートリエは次第に抽象へと向かい1920年代には画商のポール・ギヨームと契約して成功を収めました。しかし1930年代は経済的に困窮し、1934~1936年頃にはアルプスでスキーの指導やホテル経営などをしていたようで、一時は画壇から離れました。そして1937年に創作を再開し、戦争が始まるとパリに戻りました。
ジャン・フォートリエ 「La Juive」

こちらは1943年年の作品で、日本語にすると「ユダヤ人」です。この頃は戦争真っ只中で、1940年にはパリもドイツに占領されていたのでユダヤ人が迫害されていた時期となります。かなり抽象化が進んでいて人には見えませんが、タイトルのせいか赤い線が血を連想させます。画面もかなり物質的なマチエールとなっていて後に「アンフォルメル」と呼ばれる前衛的な絵画運動に直接影響を与えていったのが伺えます。
フォートリエは戦争中にはレジスタンスに参加しナチスに追われていたようです。この絵を描いた1943年にはナチスの秘密警察ゲシュタポに逮捕されていて、パリから逃げて避難先で「人質」シリーズの制作をしています。この頃から紙や石膏で画面を盛り上げて描く独特の作風となっています。
ジャン・フォートリエ 「Lécorché」

こちらも戦時中の1944年の作品。タイトルは恐らくエコルシェ(人物画において、皮膚を除いて筋肉を表しているもの)のことだと思われます。左上と右上の辺りに手か足の指っぽいものがあるのが人体っぽさを感じさせるかな。そこから考えると体とおぼしき場所は折れ曲がっているのが何とも不穏に思えてきます。周りも黒っぽいし、何処と無く死を連想してしまう。
1945年に戦争が終わり、戦時中に制作された「人質」のシリーズが発表されるとフォートリエは注目を浴び、哲学者のサルトルからは「最も戦後的な画家」という賞賛を受けました。
ジャン・フォートリエ 「人質の頭部」

こちらは1945年の作品で、人質シリーズの1枚。ドイツ軍に追われ精神的に圧迫されている中で制作されたもので、これは人の顔を表しているようです。前述の通りフォートリエはナチスへの反抗組織であるレジスタンスに参加して、追われる中で虐殺される人々を目の当たりにしてこうした「人質」シリーズを手がけました。その為、厚く塗り重ねられた上に描かれた線は苦悶の表情に見える気がします。これは直接観ないとただの長方形に見えるかもしれませんが、恐ろしいエピソードのある代表作です。
こうした作品は石膏などで凹凸を作ってパステルを染み込ませているらしく、言い知れぬパワーが伝わってきます。
ジャン・フォートリエ 「Les boites de conserve」

こちらは1947年の作品で、日本語にすると缶詰の意味のようです。確かに缶のようなものが3つほど並んでいるようにも見えるかなw 以前に比べるとモチーフが平和的なせいか背景色も明るくて全体的に爽やかな印象すら受けます。技法自体はそれほど変わっていないけど、この先進性には当時の画壇も驚いたのではないでしょうか。
1950年に批評家ミシェル・タピエによって「アンフォルメル」が提唱され、これはフランス語で「非定形なるもの」を意味します。ドイツ占領下時代のパリでギャラリー・ルネ・ドルーアがオープンした時にフォートリエ、デュビュッフェ、ヴォルスの3人が個展を開催していた為、この3人がアンフォルメルの先駆者とされます。
参考記事:
《ヴォルス》 作者別紹介
《ジャン・デュビュッフェ》 作者別紹介
ジャン・フォートリエ 「無題」

こちらは1956年の作品。やはりグワッシュや石膏、紙などを使って描いていて、もはや絵というよりは立体作品のようにザラついた質感にこだわりがあるようです。近くで見ると凹凸の中にも細かいシミのようなものが無数にあります。モチーフはまた分からなくなりましたw
この1956年に開催された「世界・今日の美術展」でフォートリエの「人質」シリーズが紹介され、こうした独特のマチエールや、戦争の犠牲者という題材、題材自体をより連想させる抽象化した表現などが これまでの絵画とは違う と人々に衝撃を与えて注目を集めました。
ジャン・フォートリエ 「Round box」

こちらは1958年の作品で、日本語にすると「丸い箱」となります。この頃は水色っぽい背景にモチーフらしきものが描かれているのが多いのかも。私の中では氷の中に何かが埋まっているようなイメージですw フォートリエの作品は写真では伝えづらい物質感があるのがちょっともどかしい。
日本では馴染みが薄そうなフォートリエですが、意外にも戦前の日本においてたびたび文献に登場していたようです。また、1959年には南画廊で個展が開かれて大成功を収めたようで、この頃には日本にも伝わっていました。1961年には第6回日本国際美術展で外務大臣賞も受賞しています。
ジャン・フォートリエ 「旋回する線」

こちらは晩年の1963年の作品。これもキャンバスに紙を貼って描いたものですが、ちょっと画風が変わったように見えます。引っかき傷が筆記体の文字のようにうねり、躍動感がありますね。これもマチエールの物質感がありつつ筆の動きがあって新境地を感じます。
この3年前の1960年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレでは大賞を受賞し、世界的に有名な画家となっていました。しかしこの後すぐの1964年にパリで66歳で亡くなっています。
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