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《山口長男》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、日本の抽象絵画の草分け的存在の山口長男(たけお)を取り上げます。山口長男は東京美術学校西洋画科で学んだ後、佐伯祐三やオシップ・ザッキンと交流し、当初はキュビスム風の作品を制作していました。しかし戦後はさらに抽象性を増し、やがて暗色を背景に長方形が重なるような作風へと進化しました。武蔵野美術学園の教授としても20年に渡り教鞭を執り、晩年には学園長になるなど教育面でも活躍した画家です。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


山口長男は1902年に現在の韓国のソウルで生まれ育ちました(父は鹿児島出身) 中学時代から絵画に親しみ、1921年に19歳で東京に出ると本郷洋画研究所へ通い、その翌年には川端画学校にも通うようになり、東京美術学校西洋画科に入学しました。同期生には牛島憲之、荻須高徳、加山四郎、小磯良平、山口長男、猪熊弦一郎、中西利雄、高野三三男、岡田謙三といった後に有名画家となる錚々たるメンバーがいて、和田英作の教室で学んでいます。1927年に卒業するとフランスから帰国していた佐伯祐三を訪ねて、荻須高徳と共に渡仏しました。パリでは始めは佐伯祐三に刺激を受けていたようで、しばらくするとキュビスムの彫刻家であるオシップ・ザッキンのアトリエへ通うようになり、その影響を受けた作品を制作するようになりました。
 参考記事:
  《岡田謙三》 作者別紹介
  《佐伯祐三》 作者別紹介

山口長男 「二人像」
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こちらは1930年の作品で、翌年の第18回二科展で入選しています。フランスでのザッキンからの影響が表れ、キュビスムっぽさが出てるかな。2人は何処にいるのか中々分かりづらいですが、紙の長い女性でしょうか? 色と形態のリズムがありつつ落ち着いた色調なのが心地よく感じられて好みです。

この頃から独自の抽象表現を確立していき、二科展を中心に活動し1936年には第22回二科展で特待となり1938年には二科会会友に推挙されています。

山口長男 「池」
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こちらは1936年の作品。かなり抽象性が増しているけど、池と言われると確かにそう見えなくもないかなw 線や色の塊が軽やかで、水面のゆらめきや反射のように思えてきます。割とカンディンスキーに似た感性かも。

1938年には峰岸義一、吉原治良、山本敬輔、広幡憲、高橋迪章、桂ユキ子とともに発起人となり、東郷青児、藤田嗣治を顧問として九室会を結成し、その創立総会を新宿中村屋で開きました。その後も二科展にも出品していたのですが、1941年になると戦時情勢が緊迫しソウルから作品を送るのが困難となり二科展出品を中止しています。1942年に結婚し、1945年には招集を受けて釜山あたりの漁村で砲座を築く作業をしていたようで、そうしているうちに終戦とないました。

終戦後は二科会も再結成され山口長男も新会員に挙げられました。1946年に妻子と共に日本に戻り、熊本を経て東京に落ち着きました。その後、再び二科展を中心に活躍していきます。

山口長男 「構成」
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こちらは1955年の作品。20年くらい間が空いたので一気に画風が変わっていますw(この間の作品の写真が無かった…) 戦後は1953年頃から黒の地色に黄土、赤茶色一色のみで象形文字風の形を描き始めたそうで、1955~57年頃には垂直、水平による形の組合せを描くようになったようです。確かに文字というか柱の集合体のような何かが渦巻くような感じに見えます。色合いが西洋絵画にはない土のようなどっしりした雰囲気で、前衛なのに何処か懐かしいところも感じます。

この少し前に、二科展の第1回会員努力賞を岡田謙三とともに受賞していて、山口長男は美術雑誌『みづゑ』に「岡田謙三の作品を観る」という記事を寄稿しています。2人とも戦後の抽象絵画に重要な人物だけに面白いエピソードです。

山口長男 「累形」
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こちらは1958年の作品。暗色の背景は先程と同じですが、色面が太く大きくなりました。何だか迫りくるような重厚感がある一方で、朱色と黒が日本的な印象かな。私の中で山口長男の作風はこういうイメージです。

1954年に山口長男は武蔵野美術学校の教授となりました。この頃には二科展だけでなく第1回現代日本美術展での優秀賞を受賞したり、ニューヨークでの第18回アメリカ抽象美術展に出品、1955年の第3回サンパウロ・ビエンナーレ展や1956年の第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ展の日本の代表作家の一人に選ばれるなど国際的に活躍の幅を広げていたようです。

山口長男 「転」
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こちらは1961年の作品。先程の作品と似ていて、色違いと言ったところでしょうか。タイトルの意味や意図は分かりませんが、やや歪んでたり斜めになってるので、幾何学的でも無機質さは感じずむしろ温かみを感じるかな。一目で山口長男の作品と分かる個性があります。

この頃になると国際的な展示の出品作家によく選ばれていて全部挙げるのが大変なくらいです。海外からも高く評価され、この年には昭和36年度芸術選奨文部大臣賞も受けています。しかし意外にも個展は無かったようで、1961年に戦後初めての個展を南画廊で開き、この作品もその内の1枚となっています。

1963年から二科展への出品を中止し、後に二科会から退会してしまいました。その後も画家としてだけでなく武蔵野美術大学の教授(1974年に定年退職)として活躍し、1982年には武蔵野美術学園学園長になったものの その翌年に80歳で亡くなりました。


ということで、日本の抽象画の先駆的な存在となっています。抽象絵画なんだけど、どこか土着の香りがするような独自性があるので覚えやすい画家だと思います。



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《ロバート・フランク》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1950年代から現代にかけてアメリカで活躍したスイス出身の写真家ロバート・フランクを取り上げます。ロバート・フランクは1958年の『アメリカ人』でアメリカの貧困層などを撮った写真を発表し、戦後の繁栄で浮かれる中に一石を投じる作品として大きな衝撃を与えました。ヒッピー文化に影響を与えた詩人らと交友を持ち、カウンターカルチャーを取り上げた映画製作に取り組むようになり、1960年代には映画に没頭して写真からは遠ざかっています。しかしその後、写真集『私の手の詩』を機に写真へと軸足を戻し、晩年はカナダの風景などを撮影しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


ロバート・フランクは1924年にスイスのチューリッヒでユダヤ系の家に生まれました。23歳の1947年でアメリカに渡り『ハーパーズ・バザー』でアシスタントとして働きながら南米やヨーロッパ各地への撮影旅行を重ね、その後は『VOGUE』などの多くのファッション誌で働いていたようです。

ロバート・フランク 「これらの写真は1945年から46年にかけてスイスで撮影した。こんなふうに私は写真を撮りはじめた」
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恐らく1945年~46年の作品。まだスイスに居た頃で、撮り始めでも人々の生活に視点を当てている様子が伺えます。

1951年には雑誌『ライフ』の若手写真家コンテストで入賞したそうで、早くから才能を示し始めていました。

ロバート・フランク 「ニューヨーク1951」
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こちらは1951年の作品。背景のプラカードに宗教的なことが書いてあるので開いているのは聖書かな? 手しか映っていないのが逆に劇的な感じに見えます。凄いセンスの構図ですね。

戦後のアメリカは公民権運動が芽生えた頃だったようで、ロバート・フランクはそうした社会を捉えた作品が残されています。

ロバート・フランク 「メアリーとパブロ、1951年…そして4年後に」
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こちらは1951年と1955年の作品。奥さんと息子を撮ったもので、赤ちゃんだった息子が下の写真では少し大きくなっています。母と子の愛情や赤裸々な雰囲気が出てますね。猫たちも可愛いw

このパブロや娘のアンドレアはこの後にも出てきます。後の自伝的な写真集『私の手の詩』にはこうした家族や友人など身近な人々の写真が多く出てくるようで、幼い頃と成長した姿を上下に並べてレイアウトされ、向かい合うページには「そして何よりも、パブロとアンドレア、良き人生を送る道を探す二人に」という言葉が記されているのだとか。

ロバート・フランク 「ロンドン、1951」
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こちらは1951年の作品。犬が驚いて飛び跳ねていると思われ決定的な一瞬を捉えたような面白さがあります。それにしても周りはちょっとうら寂しい雰囲気すら感じられます。ロンドンらしいので旅行中かな。

1952年のロンドンを撮った作品もあるので、しばらく滞在していたのかもしれません。ちょっとこの辺の経緯は不明です。

ロバート・フランク 「ロンドン、1951」
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こちらも1951年の作品。二階建てバスがロンドンぽさを感じさせるけど、歩いている人の後ろ姿を撮ろうというのがちょっと変わってますねw これと同じようにシルクハットの男性の歩く後ろ姿を撮った作品があるので、そこに時代の空気を感じたのかも知れません。

ロバート・フランク 「スペイン、ヴァレンシア、1952」
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こちらは1952年の作品。スペインなので恐らく旅先だと思いますが、リアルなマネキンが立つ姿がシュールな感じに見えます。(ちょうどシュルレアリスムが隆盛していた頃だけど、関係があるのかは不明)

ロバート・フランク 「スペイン、ヴァレンシア、1952」
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こちらも1952年のスペインでの作品。こちらもコラージュ的な奇妙さを感じる光景かな。その土地の風土なども伝わってくるように思えます。

その後、写真家エドワード・スタイケンの知遇を得てグッケンハイム奨学金を受給することになり、1955年~56年にかけてアメリカ全土を旅しながらリアルな世相を撮っていき、それが後に大きな成果となっていきます。

ロバート・フランク 「アンドレアとパブロ、ロサンゼルスで、1955」
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こちらは1955年の作品。息子と娘を撮ったもので、あどけない顔をしていますね。娘さんはもうちょっと可愛い顔の時に撮ってあげれば良いのにw 生活感がにじみ出ていて面白い。

この娘のアンドレアは後に飛行機事故で亡くなったそうで、1995年にはその名を関する「アンドレア・フランク財団」を設立しています。これは若手芸術家やアート教育を支援する財団で、晩年には若手の育成にも力を入れました。

ロバート・フランク 「サウスカロライナ州エリザベスビル」
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こちらは1955年の作品。これは「ヒルビリー」と呼ばれるアパラチア山脈近くに住む貧しい白人の家族を撮ったもので、その呼称自体が軽蔑的な意味があって差別の対象となっていたようです。まさにこの時代のアメリカの暗部を鋭くえぐるような作品で、この視点が大きな評価へと繋がっていきます。身なりも貧しくちょっと疲れた感じがしますね。

こうした作品は反米的と考えられ好まれなかったようで、撮影当時には発表されなかったようです。

ロバート・フランク 「デトロイト」
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こちらは1955年の作品。今や荒廃した街となったデトロイトですが、1948年頃から白人の流出が始まっていたようなので過渡期と言ったところでしょうか。まだこの頃は整備されて割と裕福そうに見えます。

1958年にこうした全米旅行で撮った作品をフランスで写真集『Les Americains(アメリカ人)』として出版すると大きな衝撃を与えたようです。それは異邦人としてアメリカで感じた疎外感、不安、孤独が表れていた為で、激変するアメリカのリアルをえぐったことに反撥も大きかったようです。翌年にはアメリカ版も出し出版当時は反米的と酷評されたのが、時間を経て評価されるようになっていきました。

ロバート・フランク 「無題(『私の手の詩』より)」
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こちらは1955~56年の作品。かなり色々な場面があるけど、どれも貧しそうな人々を撮っているのが共通点かなw 先述の『アメリカ人』ではアメリカ各地で撮った写真を時系列や地理的な関係を解体し、並べ直して同時代の社会を描き出したのも特徴だったようで、写真をどう並べるかというイメージの連鎖が生む表現の可能性に強い関心を持っていたようです。この作品は後に作られた『私の手の詩』で編集されたものですが、その特徴が伺えるように思います。

ロバート・フランクはインタビューで、「私の母は『なぜ貧しい人の写真ばかり撮るの?』とよく尋ねてきました。それは事実ではありませんが、困難の中にいる人たちに共感を寄せていたのは確かです。そして、ルールをつくった人に対する疑念も」と語っていたのだとか。
 引用元:voage

ロバート・フランク 「アレン・ギンズバーグ、1959」
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こちらは1959年の作品。このモデルは詩人のアレン・ギンズバーグで、1950年代後半から60年代前半にかけて注目されたビートニク文学(ヒッピー文化の先駆的な存在)の中心人物です。メガネをかけて賢そうな眼差しで格好いいw  ロバート・フランクはアレン・ギンズバーグの盟友でありヒッピー文化のシンボルとなった『路上』の著者のジャック・ケルアックとも交友があったそうで、『アメリカ人』の序文を寄稿してもらったのだとか。シンパシーを感じるものがあったんでしょうね。

この頃からロバート・フランクは約10年ほど写真から離れて映画製作に没頭しています。アレン・ギンズバーグなどビートニクの旗手たちを撮った『プル・マイ・デイジー(わたしのヒナギクを摘め)』で監督デビューし、それ以降も映画を撮っていきました。

ロバート・フランク 「映画『ミュージカル 私について』より」
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こちらは1971年の映画作品の一部。これだけ観てもちょっと分かりませんが人の顔が大きく写った写真が多いのが特徴かな。 ミュージカルらしいけど前後関係が分かりませんw

映画を手掛けるようになったのは先程の作品のように映像をどう並べるかに関心があったので、それが深まった結果のようです。

ロバート・フランク 「マブウ」
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こちらは1977年の作品。だいぶ作風が変わって誰も居ない寂しいカナダの冬の景色を撮っています。飾られた写真は1953年の「ニューヨークに着く前のある日」という作品ですが、背景と無関係なものに見えてちょっとシュール。

ロバート・フランクは1969年にこのカナダのマブウという土地に家を建て、それ以来ニューヨークのアパートと行き来しながら暮らしていたようです。

ロバート・フランク 「ノヴァスコシア州マブウの冬」
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こちらは1981年の作品。波が押し寄せいかにも寒そうな光景となっています。人のリアルを撮ってきた人が自然の雄大さをテーマにしていて、ちょっと意外な感じ。現地の情感が伝わってくるのは流石ですね。

マブウは北海道の稚内よりも高緯度で非常に寒いところらしく、『赤毛のアン』で有名なプリンスエドワード島の西にあるのだとか。

ロバート・フランク 「マブウの夏」
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こちらは1981年の作品。夏なのに寂しい光景に見えるのは人がいないせいでしょうか。ミラー越しに風景が写っているという構図が洒落ています。

1987年にはローリング・ストーンズの北米ツアーを記録した映画『コックサッカー・ブルース』を制作するなど、カウンターカルチャーを撮る姿勢は健在だったようです。

ロバート・フランク 「マブウ、1997」
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こちらは1997年の作品。手と静物を並べるのがちょっとシュールで、初期の作品と似たものを感じるかな。何かの物語のいち場面のようにも思える…。

今回ご紹介した作品は出版社 邑元舎を主宰した写真編集者である元村和彦 氏が所蔵していたものとなります。元村氏は映像に没頭していたロバート・フランクに会って、写真集の制作を依頼し1972年の『私の手の詩』を出版した人物で、これによってロバート・フランクは再び写真へと軸足を移しました。

ロバート・フランク 「東京、イビスホテル684号室にて」
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こちらは製作年不詳の作品。東京に来た時の写真で、富士の絵がわかりやすいw 日本とも縁があったのが伺えますね。

ロバート・フランクは長生きして、2019年の9月に亡くなりました。フランクが行った個人の視点に基づく主観的な写真表現は後進に大きな影響を与え、戦後の重要な写真家の1人とされています。


ということで、孤独や世相のリアルを伝えた写真家となっています。日本でも度々展覧会が開かれていて、2019年に亡くなったこともあって最近メディアで取り上げられることが多かったように思います。またそういった機会もあると思いますので、知っておきたい写真家の1人です。



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カテゴリ追加と今後について

今日は近況報告と新しいカテゴリ追加のお知らせです。
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現在、過去に撮った写真を使って作者別に記事を制作しておりますが、これを拡大してテーマ別のカテゴリを追加しました。作者別の記事は最低でも5~6枚は写真を使いたいのですが、写真の数が少ない作者や作者そのものが分からない作品も多数あり、新設のテーマ別記事でご紹介していこうと思います。古代彫刻・仏像や工芸品、建築物などは特に作者不明が多いのでその辺が補強できるのと、宗教画の画題なども取り上げたいと考えています。

コロナの影響で美術館めぐりをしなくなって丁度1年くらいが経ち、手持ちの写真や情報でしのいでいますが、まだもうちょっとこの状況が続きそうかな…。 コロナはワクチンの有効性が伝えられてきていて、それが行き渡れば状況もかなり改善するとは思うものの 様子見も含めてしばらくは自粛しています(せめて田中一村の展示は観たかった…。) ブログの近況としては戦後のアーティストを取り上げて現代へと向かっているところで、それに合わせてアクセス数は減少中のようですw まあ現代アートは難しくて私も苦手ジャンルなので仕方ないかな。ただ、ここから先の時代は記事を作るのが難しく、特に海外のアーティストの写真がかなり少ないです。というのも、いくつか理由があって
 ・戦後のアーティストは存命だったり亡くなって間もないので著作権の関係で撮影不可が多かった
 ・戦後以降のコレクションを持つ美術館が少ない(コレクションも少ない)
 ・私が現代アートの美術展・美術館にあまり行かない
などが挙げられます。特に最初の理由が大きくて、インスタが流行った頃から緩和された感はあるものの過去のストックが無いので記事を作るのが難しかったりします。有名なアンディ・ウォーホルとかキース・ヘリングですら写真が少ないので、この辺は作者別ではなくテーマ別になるかも?? 逆に現在活躍されているアーティストは撮影OKが多かったので、2000年以降くらいのアーティストは写真が多かったりしますw 紹介する時代が現代に到達すると、また古い時代に戻る予定なので、その際にも新設したカテゴリ別を使っていこうと思います。


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《岡田謙三》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1950年代に東洋的な抽象表現の画家としてアメリカで高い評価を得た岡田謙三を取り上げます。岡田謙三は戦前は具象的な画風で日本国内でも評価されていましたが、やがて行き詰まりを感じて1950年に渡米してポロックやロスコに困惑しながら吸収していき、「ユーゲニズム(幽玄主義)」と呼ばれる独自の抽象表現を確立していきました。その評価は世界的で海外で名高い画家となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


岡田謙三は1902年に横浜に生まれました。1921年に明治学院中等部を卒業すると、牧師からジャン・フランソワ・ミレーの話を聞いて感銘を受けて絵画の道を志すようになり、川端画学校に通います。その翌年の1922年からは東京美術学校の西洋画科に入学し、同級生には牛島憲之、荻須高徳、加山四郎、小磯良平、山口長男、猪熊弦一郎、中西利雄、高野三三男など後に活躍した画家たちもいたようです。しかし1924年に中退し、フランスへ新しい表現を模索するため留学し、グランド・ショミエール芸術学校でデッサンを学んでサロン・ドートンヌにも入選したようです。1927年に帰国し1929年からは二科会に出品するようになり1937年には二科会の会員にもなりました。

岡田謙三 「自画像」
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こちらは1940年の自画像。この作品を観ると高いデッサン力で丁寧に質感を描き分ける具象的な画風となっています。岡田謙三はこの時代よりも1950年代以降の作品のほうが圧倒的に名高いので、戦前はこんなに写実的な絵だったのかとちょっと驚きますw この路線で進んでも名が残ったのではないかな。

残念ながらこれ以上前の時代の作品の写真はありませんでした。戦前は叙情性のある具象絵画を描いていて、風景や人物に定評があったようです。フランス留学中には海老原喜之助と出会い、海老原の「絵は描くだけでは何にもならん。絵はつくるものだよ」と言う言葉に迷いが生じて一時は放逸な生活をしていたようですが、帰国後に開催した個展では藤田嗣治に「彼のサンシビリティーの鋭い絵画本質的の最高条件としての彼の豊富なマチエールを持った私の称賛する個展。」と序文を寄せられるなど評価が高かったようです。戦争中には旧満州に旅行してそれを題材にするなど精力的に活動していました。しかし制作に行き詰まりを感じるようになり、終戦後の1950年にアメリカへと渡りました。
 参考リンク:三重県立美術館 渡米前(1950年以前)の岡田謙三

岡田謙三 「黒と象牙色」
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こちらは1955年の作品。さっきの作品と同じ画家とは思えないほど作風が変わっていますw 抽象的で幾何学模様のようなものが組み合わさったもので、何処と無く日本の城壁を思わせるような画面に見えるかなw 50歳を超えてこの進化っぷりに驚くばかりです。

岡田謙三はアメリカに渡った当初、ニューヨークを席巻したポロックやロスコの抽象主義をまったく理解できず混迷のうちに試行錯誤を繰り返していました。しかし翌年にはニューヨークに自宅を構え、最先端の抽象表現に自らの出自を示すような東洋美術の特色を結び合わせていきました。それが1953年にベティ・パーソンズという有力な画商の目にとまり、個展を開催すると大きな反響を呼びました。

岡田謙三 「元禄」
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こちは1957年の作品。どうしてこれが元禄なんだろ?としばらく考えてしまいますが、幾何学的な構成で色合いは日本的な色に見えるかな。漆喰の壁とか、朱塗りのような色彩に思えます。

ニューヨークの批評家からはこの色彩感覚が大いに評価されました。大和絵や料紙装飾の美意識を感じさせる色調とマチエールを岡田謙三は「ユーゲニズム(幽玄主義)」と呼び、アメリカの激しい抽象表現主義最盛期の中で優美で上品な画風として一躍脚光を浴びました。

岡田謙三 「雨」
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こちらは1959年の作品。斜めの線がタイトルの雨っぽさを出しているかな。背景の黄色は確かに料紙っぽいし、群青も日本画でよく観る色彩かな。抽象化されているので難解に感じますが、それぞれの色使いを観ると確かに琳派などを彷彿とします。

1955年にはイサム・ノグチとの2人展を開催し、1957年にはコロンビア絵画ビエンナーレ1等賞、1958年にはベネチア・ビエンナーレで日本人として初めてアストーレ・マイエル賞、ユネスコ絵画コンテスト最高賞を受賞するなど国際的にも非常に高い評価となっています。それ以降も挙げると限がないくらいの栄誉ある賞をもらっていて、日本国内より海外からの評価のほうが高いかも?

岡田謙三 「垂直」
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こちらは1964年の作品。有機的な色面に柱状の白が貫く構成が面白く、これは能舞台の柱に着想を得たと考えられるようです。そう言われて観るとと、左の緑と茶色が松の書き割りのように見えて来るのが不思議w 確かにこれは日本を感じます。

この3年後の1967年には日本で「渡米後の回顧展」を開催し毎日芸術賞を受賞しています。1969年には病気で日本に帰国し、以後は東京とニューヨークを行き来するようになりました。

岡田謙三 「オレンジ・ナンバー2」
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こちらは1975~76年頃の作品。この絵は絵画における「図」と「地」の区分を無効にしていると評価されているようです。…って、なんのこっちゃ分かりませんがw 幽玄というよりは明るい色調に思えて、またちょっと画風が変わっているように見えます。

1982年には東京と福岡で大回顧展が行われました。しかし1982年3月には築地の国立がんセンターに入院し、退院してからは自宅で療養していたものの7月に亡くなりました。


ということで、戦前から評価されていたものの戦後にアメリカで更なるブレイクを果たした画家となります。横浜生まれなので横浜美術館にいくつかコレクションがあり、たまにミニ特集も組まれます。各地の美術館でもたまに回顧展が開かれるので、知っておきたい画家の1人です。



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《ベルナール・ビュッフェ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、抽象絵画が全盛の時代にあって具象絵画を貫いたベルナール・ビュフェを取り上げます。ビュフェは戦後間もない頃に若くして高い評価を得た画家で、時代に呼応するような寂しげな画風が「悲惨主義(ミゼラビリスム)」と評されました。直線的で引っかき傷のような線の多い画面に人物や静物を描き、一目で分かる個性的な画家となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

ビュフェは1928年のパリ生まれで、第二次世界大戦中はドイツの占領下で絵を学びました。15歳で国立美術学校に合格する天才的な才能を持ち 美術学校時代から頭角を現していたそうで、この頃にはシャイム・スーティンやキュビスムの影響を受けました。しかし17歳で母を亡くすと学校を退学してしまいます。貧しい生活をしながら独学で絵を描き続け、戦後間もない1947年(18~19歳)にサロン・デ・ザンデパンダンに出品すると注目を集めます。さらに、個展を開催すると1点が国家買い上げとなるなど華々しいスタートとなりました。そして翌年の1948年には若手の登竜門となる批評家賞を受賞し一躍脚光を浴びる画家になっていきました。

ベルナール・ビュフェ 「Nature morte au poisson」
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こちらは1948年の作品で、日本語にすると「魚のいる静物」となります。沈んだモノクロな色彩と直線や円の多い画風で、引っかき傷のような線も多く描かれているのがビュフェの特徴と言えると思います。もの哀しく静かな雰囲気となっています。

初期はこうした色調を抑えた画風で、最も評価が高く人気がある時期となっています。

ベルナール・ビュフェ 「Femme au filet」
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こちらは1948年の作品で、日本語にすると「ネットを持つ女性」となります。これはどういう状況なんだろうか?w 直線が交差する幾何学的な構図だけど、リズムや動的な感じを受けないのは色彩のせいでしょうか。すべてが細く黒っぽくなっているのに個性を感じます。

ビュフェには油彩だけでなく版画作品などもあり、この年にはドライポイントでの制作も始めました。

ベルナール・ビュフェ 「Le peintre et son modèle」
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こちらも1948年の作品で、日本語にすると「画家とモデル」となります。めっちゃガリガリの人物像で、モデルは後ろ姿となっていて虚無感すら感じます。

この頃は第二次世界大戦が終わったばかりで、冷戦が始まろうとするような時代でした。ビュフェの絵にはその時代の不安や虚無感が表れていると考えられ、「悲惨主義(ミゼラビリスム)」と呼ばれることもあります。

ベルナール・ビュフェ 「Le buveur assis」
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こちらも1948年の作品で、日本語にすると「着席した酒飲み」と言った感じでしょうか。何処かをじっと見つめる様子で、力なく虚ろな表情にも見えます。この独特の寂しさが日本の侘び寂びに似ているように思います。

この時代、芸術の世界では抽象絵画が全盛期を迎えていました。その中でビュフェは具象絵画を生涯貫いていた訳で、安易に時代に迎合しないストイックさを感じます。

ベルナール・ビュフェ 「Portrait du Docteur Girardin」
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こちらは1949年の作品で、日本語では「ジラルダン医師の肖像」でしょうか。縦長の顔でパイプを咥える顔にダンディズムを感じます。ビュフェの数ある肖像の中でも特に好きな作品です。

ビュフェのこうした寂しげな画風は当時の若者でブームとなったサルトルの実存主義やカミュの不条理の思想と呼応していたようです。時代の空気を代弁するような作風だから当時から評価されたのでしょうね。

ベルナール・ビュフェ 「Nature morte au revolver」
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こちらも1949年の作品で、日本語にすると「リボルバーのある静物」となります。ちょっと物騒なモチーフに驚きますが、静かに置かれ重厚さと冷たさが感じられるように思います。弾丸の置き方も水平・垂直になっているなど構成も面白い。

ここまで人物や静物が多いですがビュフェは戦争の悲惨さを描いた作品なども残しています。死んだ人物や廃墟など非常に暗く陰鬱な印象の作品を以前の展覧会で観たことがあり、当時目にしたであろう戦争の悲惨さを淡々と語っているようでした。

ベルナール・ビュフェ 「Nu debout」
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こちらも1949年の作品で、日本語にすると「立っているヌード」となります。裸婦なのに生気が感じられないというか、老人のような雰囲気にすら思えるw 裸体にすると一層に手足の長さが際立ちますが、不思議と違和感がなく調和しているように思えます。

ビュフェは裸婦や女性もよく描きました。後に、避暑地でアナベルという女性と出会い 頻繁にモデルとなって描かれるようになります。やがてアナベルと結婚し生涯を共にしました。

ベルナール・ビュフェ 「Trois nus」
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こちらも1949年の作品で、日本語にすると「3人のヌード」となります。3人共同じ女性なのではないか?ってくらい似てるので、もしかしたら別々のポーズを組み合わせたのかも?? 先程の女性とも見分けがつかない…w

この翌年の1950年に、南仏に住む小説家ジャン・ジオノや詩人ジャン・コクトーを訪ねて交流を深め、プロヴァンスの風景に魅了されました。その翌年にはプロヴァンスに移住し、4年ほど住んでいます。

ベルナール・ビュフェ 「Le boeuf écorché」
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こちらは1950年の作品で、日本語にすると「皮付きの牛肉」となります。吊るされた牛の体は生き物というよりは物質的な感じに見えて一種のオブジェのように思えます。黒々して重厚な印象です。

この頃からよく交流したジャン・ジオノは『木を植えた男』などを手掛けた小説家で、その後に出版した『純粋の探求』ではビュフェが挿絵を21点手掛けています。

ベルナール・ビュフェ 「Portrait de l'artiste」
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こちらも1950年の作品で、日本語にすると「芸術家の肖像」となります。注目は服の色で、ちょっと青っぽく色彩が出てきた感じがします。恐らく自画像だと思いますが、精悍な雰囲気ですね。

まだこの絵では僅かな色彩ですが、南仏の明るい太陽の光がビュフェの画風にも変化をもたらし、この後の1950年代中頃からは徐々に鮮やかな色調に変わって行きます。モノクロ時代のほうが評価が高いものの、色彩が増えてからは人間としての暖かみや情感が現れるようになっていきます。

ベルナール・ビュフェ 「Sainte Face」
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こちらは1952年の作品で、日本語にすると「聖顔」となります。キリストがゴルゴダの丘を登る時に聖ベロニカに布を差し出され、顔を拭いたところ布に顔が浮かび上がったという話をテーマにしています。ビュフェはこうした宗教画(というかキリスト像)も手掛けていて、十字架からの降下を描いた作品では血だらけで惨たらしい雰囲気だったりします。この絵も茨が無数に刺さり歯をむき出しにしていて痛々しい描写に見えるかな。聖なる存在というよりは虐げられた人間的な要素が強いように思えます。

1952年からは画廊との契約でテーマを定めた個展が毎年恒例となったそうで、油彩作品は大型となり、新しく薄塗りのマティエールを試みるようになっていきました。1955~1960年頃はモチーフを描く前にキャンバスに白絵具を塗って、乾いてから黒絵具を油とワニスで薄く引き延ばして背景を作るという技法が用いられています。

ベルナール・ビュフェ 「海水浴場、ドーヴィル」
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こちらは1959年の作品。一気に色が増えて空が青い!w そのせいか海水浴場ののんびりとした雰囲気が伝わってくるようで、戦後間もない頃の虚無的な感じは減ったように思えます。まあ それでも人がいないので静けさと寂しさは漂っていますがw 

この前年の1958年にはパリの画廊で大規模な個展を行い10万人もの人が押し寄せたそうです。そして12月には歌手やモデルとして活躍していたアナベルと結婚し、これ以降もミューズとなり彼女をモデルに多くの作品を発表します。

ベルナール・ビュフェ 「Les oiseaux, le rapace」
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こちらは1959年の作品で日本語にすると「鳥、猛禽」となります。横たわる裸婦はアナベルかな? 大きな鳥がお腹のあたりをじっと見つめて羽を広げています。これまでに比べると輪郭がやや太くなり 赤っぽい色彩が使われて力強い印象を受けます。どういう意図か分かりませんがややシュールな光景ですね。

この年を境に多彩なモチーフ、鮮やかな色彩、より力強く激しい輪郭線、絵具の厚塗りへの移行といった変化が起こったようです。また、1960年代に入ると、「自然誌博物館」、「皮を剥がれた人体」、「闘牛」、「狂女」等のシリーズを内から沸き起こる激情のまま描き出し、力強い描線によって表現主義的傾向を強めていきました。

ベルナール・ビュフェ 「Françoise Hardy」
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こちらは1963年の作品で、タイトルはフランソワーズ・アルディというフランスの歌手・女優の名前となっています。背景が水色っぽいのが初期とは違う点で、顔にも個性が感じられます。この人の写真を検索して観ると、特徴を捉えているのが分かりビュフェらしさと上手く同居している肖像に思います。

この年には東京の国立近代美術館と国立近代美術館京都分館で「ビュフェ展、その芸術の全貌」が開催され、日本でも知名度が上がりました。

ベルナール・ビュフェ 「Les plages,le parasol」
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こちらは1967年の作品で、日本語にすると「浜辺、傘」となります。足を大きく伸ばす女性と傘の円の構成が面白く、横長なので開放感もあるように思います。この頃になると作品全体から漂う雰囲気も戦後とは違って見えますね。

以前「仔牛の頭部2」という絵を描いているビュフェを撮った映像を観たことがあります。タバコを吸いながら結構なスピードでどんどん描いていたのが印象的で、途中で描き直したりもして制作工程が伺えました。出来上がると静かな絵なのが不思議w

ベルナール・ビュフェ 「Les folles, femmes au salon」
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こちらは1970年の作品で、日本語にすると「居間の狂った女性たち」といったニュアンスです。ちょっと異様で戯画的にも思えるくらい倒錯しているかなw 一目でビュフェと分かる個性を保ちつつも色彩やモチーフなどに変化がありますね。

1972年頃から写実的な風景画の連作が始まり、外界との接触を避けてアトリエに閉じこもって制作し、これまでの表現とは全く異なるアカデミックな表現で批評家たちを驚かせたそうです。また、1973年には日本にベルナール・ビュフェ美術館が開館しました。これは世界で唯一で、美術館を建てた親友が日本人であったこともあり、親日家だったそうです。1980年には初来日を果たし、力士の大乃國や東京の高速道路を描いた作品なども残されています。生来物静かだったビュフェの気質も日本に合ったのではないかと言われています。

ベルナール・ビュフェ 「La mort 5」
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こちらは最晩年の1999年の作品で、日本語にすると「死5」です。この2年前にパーキンソン病を発症し、体力が衰えて死を予測したビュフェは、翌年の個展に出品する「死」シリーズを5月に完成させました。これはその中の1枚と思われます。骸骨人間が花嫁のような格好をしてカラスが2羽舞っているのが不吉な感じですが、やはり戯画的な雰囲気があって奇妙な面白さがあるように思います。絶筆が近い人の作品とは思えないほど濃厚な仕上がりですね。

このシリーズを完成させた翌月の6月末には絵筆が執れなくなり、「絵画は私の命です。これを取り上げられてしまったら生きていけないでしょう」という自身の言葉を残し、10月4日に自ら命を絶ちました。

ということで、モノクロな作風から始まり徐々に色彩を増して行った画家となります。日本でも人気で静岡県にベルナール・ビュフェ美術館がある他、数年に1度くらいの割合で関東でも回顧展も開かれます。この記事を書いている2021年2月時点ではbunkamuraでも個展を開催しているので、是非知っておきたい画家だと思います。

 参考記事:
  ベルナール・ビュフェ展 (目黒区美術館)
  ベルナール・ビュフェのまなざし フランスと日本 (ニューオータニ美術館)


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《山下菊二》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、戦後に左翼活動をしながら「ルポルタージュ絵画」と呼ばれる作品を残した山下菊二を取り上げます。山下菊二は自らの戦争体験を悔い、戦後は共産党員となり様々な闘争に参加して、事件をテーマにシュルレアリスムや戯画風に描きました。土着的でグロテスクな描写もあり、異様な存在感のある画風となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


山下菊二は1919年に徳島県で生まれ、小学校の頃は軍人にあこがれていたようですが10歳上の兄で木版画家となった董美の影響を受けて高等小学校を終えると香川県立工芸学校に入学しました。工芸学校を卒業すると一時は百貨店に勤務したものの1938年に上京し洋画家の福沢一郎の絵画研究所に入りました。福沢一郎に影響を受けてダリやエルンストといったシュルレアリスムに傾倒したようで、1940年からは美術文化協会展に出品し受賞も果たしました。

山下菊二 「鮭と梟」
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こちらは1939年の初期作品。写実的な表現で鮭が干してあるのをフクロウが横目で観ているという光景となっています。現実にありそうな光景にも思えるし、軽くデペイズマン(無関係なものを並べるシュルレアリスムの技法)のような感じも受け取れるかな。いずれにせよ戦後の画風とはだいぶ異なっていて神秘的な雰囲気です。

戦時中は応召し戦場を体験しています。残虐な行為を目の当たりにしてショックを受け、1942年に除隊して帰国すると福沢一郎は共産主義者の嫌疑で検挙されるなど後の活動に繋がる辛酸を嘗めることになります。1944年~49年までは東宝映画教育映画部に勤務して、戦後は最大の労働争議と言われる東宝争議にも関わりました。こうした体験が政治的な思想や作風に大きく影響したようで1947年には日本共産党に入党しました。

山下菊二 「植民地工場」
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こちらは共産党員だった1951年の作品。工場労働者の過酷さをシュルレアリスム風に描いていて、タイトルも批判的な感じですね。まるで監獄のようなところから伸びる白く細い手が何とも不気味です。表現は婉曲でありながら思想がストレートに表われているのが分かります。

1946年に日本美術会の結成に参加し、1949年には美術文化協会の会員になるものの翌年に退会しています。そして左翼的な前衛美術会を結成して、それ以降は、前衛美術会展、ニッポン展、日本アンデパンダン展、平和美術展などに出品していきました。

山下菊二 「あけぼの村物語」
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こちらは代表作となる1953年の作品。妖怪の絵みたいに見えますが、実際に山梨で起きた圧政に対する地主への襲撃事件(共産主義者による強盗傷害)を暗示しています。画面は4つの場面から成り、右は銀行倒産のため自殺した老婆とその孫娘、農道敷設によって自分の麦畑が潰されたことに抗議する村娘、地主への抗議および襲撃の先導に立った人物を背負籠に入れて運ぶ男、画面の下辺には赤い河で溺死する事件の主導者となっているようです。不穏なモチーフだらけなのに戯画的でコミカルな雰囲気があるように思えます。この時代の混乱の様子や土俗的な習慣が暗喩的に描かれていそうです。
 参考リンク:曙事件のwikipedia

山下菊二は紙芝居制作のためにこの事件のあった山梨県曙村を実際に訪れて取材をしています。

山下菊二 「あけぼの村物語 関連資料」
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こちらは1953年の作品で、先程の「あけぼの村物語」の関連資料となります。当初の目的はこの事件を取材して公判闘争のための紙芝居を作ることだったようで、このスケッチでは農家や農具などを丁寧に描いています。また、紙芝居のためのプロットの構想段階のメモと表紙のドローイングも含まれていて、これ以外にも多くの関連資料が残されています。しかし山下菊二は紙芝居の制作を中止(原因は不明)し、事件をモンタージュ風のタブローとして描くことを選択しました。

山下菊二はこの前年にも小河内ダム建設反対運動に文化工作隊として参加したり、結構アクティブな共産主義の活動家だったようです。他にも松川裁判、安保闘争、狭山裁判などにも関与したのだとか。しかし1955年には共産党を離党しています。

山下菊二 「射角キャンペーン5月26日」
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こちらは1960年の作品。この年の60年安保の緊張の中、日付を入れて描き継がれた5点の連作の1枚で、アメリカの旗や不定形なものが描かれています。背景は白黒で抽象的で分かりづらいけど有機的な感じがするかな。とりあえず不穏で不気味なのは確かですw 山下菊二はルポルタージュ絵画の画家と言われますが、直接的な描写ではなくこうしたイメージで伝えてくるように思えます。

この年、安保反対運動に革命的芸術家戦線の一員として参加しています。こうした活動の背景には戦争中に上官の言いなりで残虐行為に加担した自責の念があったようで、再びそうなってはならないという決意が原動力となっています。

山下菊二 「おかめのmake-up」
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こちらは1964年の作品。おかめがメイクアップしている様子…のはずですが、顔の中からグロテスクな手のようなものや眼などが出てきて異様な雰囲気です。寄生獣とか伊藤潤二の漫画に出てきそうなグロさ…w この絵では近代化の裏で根強く残る日本の土俗性を表現しているのではないかと考えられるようです。確かにこの時代はまだそういう部分があったのかも。

1960年代後半からは近代天皇制を考察する作品群を制作していました。意外なことに大正天皇を深く敬愛していたのだとか。

山下菊二 「飼われたミミズク」
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こちらは1971年の作品。幼少期の昭和天皇の手を引く皇太子時代の大正天皇や、軍服姿の大正天皇が描かれ これらは雑誌などから収集した画像をスライドでキャンバスに投影し、それを絵筆で治って転写してモンタージュする手法で描かれています。周りにはたくさんのフクロウが首を傾げるように描かれていたり、シュルレアリスム的な雰囲気が戻ってきたかな。リベラルな人物だった大正天皇が現実の政治に翻弄された悲運を描いていると考えられるようで、子供と楽しそうな姿と軍服姿のギャップが象徴的な感じですね。

山下菊二は愛鳥家で若い頃から自宅で様々な鳥を飼育していたそうです。家の中でフクロウを飼ってたこともあったそうで、モチーフになることもありました。しかしこの作品の4年後の1975年に筋萎縮症となり、1986年に亡くなりました。


ということで、左翼思想が強く社会や天皇といった大きなテーマをシュルレアリスムや戯画的に描いて問いかけた画家となっています。東京国立近代美術館にいくつか作品がある他、たまにミニ展示などが開催されるかな。観られる点数は多くないものの強烈なインパクトを残す画家だと思います。


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《アルベルト・ジャコメッティ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、スイス生まれで1920年代頃から1960年代にかけてフランスで活躍した彫刻家アルベルト・ジャコメッティを取り上げます。ジャコメッティは当初はキュビスムやシュルレアリスムに傾倒していましたが、画家である父が亡くなってからはシュルレアリスムと決別し、モデルに基づく彫刻を作るようになりました。何度も試行錯誤を繰り返すうちに作品はどんどん小さくなったり細くなっていったのが特徴で、日本の侘寂にも似た感性となっています。彫刻だけでなく絵画も手掛け、やはり描いては消すという根気のいるスタイルでした。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


アルベルト・ジャコメッティは1901年にスイスのイタリア国境に近い街で生まれ、その近郊のスタンパという村で育ちました。父のジョヴァンニ・ジャコメッティは印象派の画家で、弟のディエゴ(鋳物職人)も後に彫刻作品を残している芸術一家でした。、画家の父の影響もあってか10代の初め頃から、静物や家族をモデルに油絵や彫刻を試みるようになり 高校卒業後にジュネーヴ美術学校で絵画、ジュネーヴ工芸学校で彫刻を学び ヴェネツィアやローマを経て1922年に20歳でパリに出ました。当時は新しい芸術として認められつつあったキュビスムをはじめ、アンリ・ローランスやコンスタンティン・ブランクーシといった同時代の芸術家、さらにルーヴル美術館で目にした古代エジプトやエトルリア美術、民俗学博物館で出会ったアフリカやオセアニア彫刻の造形からも影響を受けました。ロダンの弟子のアントワーヌ・ブールデルに学んだ時期もあったようです。1930年にサルバドール・ダリとアンドレ・ブルトンにシュルレアリスム運動に誘われ、1933年の第1回シュルレアリスム展にも参加しています。この頃は、檻の中や舞台の上に複数のオブジェを組み合わせた彫刻作品を制作していたようです。しかし、1933年の父の死後、頭部を作り始めるようになり、翌年にはシュルレアリスムと決別しました。

シュルレアリスムから離れて翌年の1935年に、ジャコメッティはモデルに基づく彫刻を試みるようになります。やがて空間と人体の関係を探り始めると、胸像や人物像は収縮し、台座が大きくなっていきました。さらに、第2次世界大戦によってジュネーヴに留まることを余儀なくされた間は、記憶による制作を試み、彫像はマッチ棒ほどのサイズにまで小さくなりした。そして作品があまりに小さくなるので、最低でも1m以上という下限を設けることにして、戦後は高さを取り戻したのですが、現実に近づこうとすると今度は細長くなっていきました


アルベルト・ジャコメッティ 「Nature morte à La cafetière」
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こちらは1949年の作品で、日本語にすると「コーヒーメーカーの静物」です。ジャコメッティは彫刻家として有名ですが、絵画作品も残していて絵画はこのようなくすんだ色の具象となります。静かな雰囲気で、キュビスムから離れたものの幾何学的な構成に思えます。

戦時中は故国スイスのジュネーヴに戻っていましたが、1946年に再びパリに出てきました。残念ながら戦前の作品の写真が無かったのですが、以前観た作品ではキュビスムやシュルレアリスムに参加した時期には如実にそれが現れていました。オリジナリティという意味では戦後のほうが強く、評価が高いのも戦後となっています。

アルベルト・ジャコメッティ 「犬」のポスター
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こちらは1951年の作品。犬というよりは恐竜の化石じゃないか?ってくらい骨だけみたいな姿となってますねw この細長いのがジャコメッティの彫刻の特徴で、それは人体像だけでなく動物にも言えます。とぼとぼ歩く孤独な犬みたいな印象を受けます。

以前、ジャコメッティ展の解説で山田五郎 氏はジャコメッティについて「引き算の美学」という面白い見解をしていました。モデルたちがナイスバディであればあるほど、ジャコメッティは不要なものを取り去っていこうとしてガリガリの細長い人物になってしまうようですw 本人は「見える通りに」捉えると考えていたのだから面白い。

アルベルト・ジャコメッティ 「Nature morte aux bouteilles」
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こちらは1954年の作品で、日本語にすると「瓶のある静物」となります。これも灰色と黄土色の背景に瓶の並ぶ様子となっていて、寂しげな雰囲気に思えます。ジャコメッティはキュビストたちと同様にセザンヌを敬愛していたようで、題材やモチーフなどにその影響が伺えるかな。

ジャコメッティは1926年に弟のディエゴとともパリのモンパルナスにアトリエを借り、再びパリに来てからもそこに暮らして金銭的に余裕ができても生涯離れることはありませんでした。 ジャコメッティはその界隈を世界で一番美しいところと言っていたそうですが、実際は何もない地味な通りのようです。また、アトリエはワンルームマンションの部屋よりも狭かったようで親交の深かった矢内原伊作は「アトリエといっても採光などは全然考慮されていない物置のような小さな部屋」と回想しています。しかしジャコメッティはどんどん広く感じるようになったそうで、これも引き算の美学なのかもしれませんねw

アルベルト・ジャコメッティ 「Portrait d'Annette」
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こちらは1954年の作品で、日本語にすると「アネットの肖像」です。アネットは奥さんで、確かに女性の肖像なのは分かるけど眼がアフリカの彫刻みたいな感じに渦巻いていてちょっと怖いw ジャコメッティは敬愛するセザンヌ同様に、モデルに動かないように指示していたようで、長時間に渡って試行錯誤していたようです。この絵からもその様子が伝わってくるように思えます。

この後に矢内原伊作の絵も出てきますが、矢内原とアネットが抱き合っているのをジャコメッティが黙認するという奇妙な関係になった時期があります。ジャコメッティ自身も1959年頃に大女優マレーネ・ディートリヒと何度かデートしたりしていたようで、割と女性関係にこだわりのない人だったのかも。

アルベルト・ジャコメッティ 「ディエゴの胸像」
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こちらは1954~55年の作品で、弟のディエゴをモデルにした胸像です。めちゃくちゃ細身でごつごつした表面をしているのがジャコメッティらしい作風に思えます。ジャコメッティは作っては消し作っては消しを繰り返す制作方法で、前述の通りモデルに動かないことを要求するのでモデルにも忍耐が必要でしたw そのため奥さん、弟、友人の矢内原など身近な人物がよくモデルとなっています。

ちなみに弟のディエゴも彫刻作品を残しているのでちょっと寄り道でご紹介

ディエゴ・ジャコメッティ 「猫の給仕頭」
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こちらはディエゴによる1967年の作品。大きなお皿を持った可愛らしい給仕頭ですw 今なら弟の作品のほうが人気出そうな気がしますねw 本職は鋳物職人らしいけど兄の助手も務めたらしくしっかりした腕前です。

アルベルト・ジャコメッティ 「Branches dans un vase, flacons et pommes」
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こちらは1957年の作品で、日本語にすると「花瓶の枝、フラスコ、リンゴ」です。言われてみるとそれっぽいものが描かれているかなw モノクロで寂しく、日本の水墨画に通じるシンプルさを感じます。

ジャコメッティの故郷スイスのスタンパは山に阻まれてどんなに晴れていても日が差さない街だったようで、その辺が侘び寂び的な精神の根源なのかもしれません。故郷には印象派の画家だった父のアトリエがあり、ジャコメッティもちょくちょく帰郷してそのアトリエにこもって制作していたようです。

アルベルト・ジャコメッティ 「矢内原」
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こちらは1958年の作品。部屋の中にじっと座っている日本人の矢内原(やないはら)を描いた肖像で、ここまで観てきた画風と同じに思えます。それにしても肖像の割に人物が小さく、画面の1/6位しかありませんね。彫刻がどんどん小さくなっていったエピソードを思い起こし、絵画でも同じことが起きていたのかも…。一部は消えかかっていて右肩と左肩でだいぶ違っているなど試行錯誤も伺えます。

矢内原伊作は哲学者で、友人が書いたジャコメッティに関する本をパリに届けに行った際にジャコメッティと意気投合し、帰国の際にせっかくだからと肖像を描いて貰うことになったのが後々大変なことになりましたw 帰国を何度も延期して(3ヶ月くらいだっけかな)モデルを務めることとなり、その後5年ほど夏になるとモデルを務めにパリに行くというのが恒例になったようです。ジャコメッティは初めて東洋人、しかも哲学者という矢内原の精神に触れたこともあり、それを表現するのに夢中になったようです。矢内原も辛抱強くモデルを務めながらジャコメッティがレストランでナプキンや新聞などに走り書きしたスケッチを集めていたようです。ジャコメッティの研究者の間では矢内原クライシスなんて言葉があるくらい矢内原に夢中になってしまったようですw

アルベルト・ジャコメッティ 「頭部」
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こちらは1959年の作品。細長くゴツゴツした表面をしていて凹凸も深くなっています。モディリアーニがアフリカ彫刻に影響を受けて細長い女性像を描いたのと共通したものを感じるかな。ジャコメッティもアフリカやオセアニア彫刻の造形に影響を受けた時期があるので あながち的外れってわけでもないはず…。

ジャコメッティは1935年頃から頭部の構造に関心をもち、同じモデルの顔を繰り返し描くようになりました。その後もこうした頭部像を多く残しています。

アルベルト・ジャコメッティ 「女性立像」
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こちらは1959年の作品。めちゃくちゃガリガリで実際の人体からかけ離れて見えますが、ジャコメッティにはこう見えていたんでしょうね。ここまで来ると一種のカリアティード(柱を女性像にしたもの)のように思えます。

以前観た展示では「ヴェネツィアの女」という1つの作品の制作過程を9バージョン並べていました。矢内原の話にもあった通り、ジャコメッティは1つの作品を造るのに非常に時間がかかり試行錯誤を繰り返すのですが、9つものバージョンからはその苦悩ぶりが伺えました。同じ像を手直ししているはずなのに、どれも形が違って、どういう順番でこうなったのか?というのすら分かりません。作っては石膏で型を取り、また直しては石膏で型を取り を繰り返したようです。ジャコメッティの制作の様子がよく分かるエピソードです。

アルベルト・ジャコメッティ 「歩く男」
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こちらは1960年の作品で、ほぼ人間と同じ大きさとなっています。先程の「女性立像」「頭部」と共にニューヨークのチェース・マンハッタン銀行のためのモニュメントのために作られたのですが、このプロジェクトは実現しませんでした。前傾姿勢で大きく踏み出す仕草が力強く、ちょっと哲学的なものを感じるかな。

ジャコメッティは1940年代半ばから歩く男の姿に取り組み、数多くのヴァージョンを制作していたようです。現在のスイスの100フラン紙幣には、ジャコメッティの肖像が表面、裏面には「歩く男」が描かれているらしいので、このシリーズは代表作と言って間違いないですね。

アルベルト・ジャコメッティ 「Tète de Diego」
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こちらは1962年の作品で、日本語にすると「ディエゴの頭」です。黒くて目がくぼんでいるのがゾンビにしか思えないw 首から下は未完成に見えるし、ジャコメッティらしさが出ていますね。

ここからはタイトルを撮り忘れた、もしくはどれがどれか分からなかった作品となります。年代も分からないけど恐らく1950~60年代の作品と思われます。

作品名不明。1950年代
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先程の「頭部」と似た頭部像。顔だけでなく首も長いのがジャコメッティの頭部像の特徴かな。

ジャコメッティは同時代の詩人たちや実存主義の哲学者に支持されていたようで、ジャコメッティによる挿絵の入った詩人たちの本なども観たことがあります。

作品名不明。1950年代
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こちらは人物像で、胸や腰辺りは膨らんでいるので造りかけみたいな印象を受けるかな。ちょっと詳細は不明。

ジャコメッティは版画集も出していて、『終わりなきパリ』という版画集にはパリを描いた150点ほどの石版画が収録されています。ここでは割と描きたいものがハッキリわかる作品が多く、興味あるものと背景の扱いに差があるような感じかな。

作品名不明。年代不明
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細長い立像。ここまで観た作風そのものですが、それにしてもこの作品は頭部がめっちゃ小さいw

ジャコメッティは素描もあり、人間の姿をしているけど グチャグチャとした線でシルエットのように描いている独特の作風で、やっぱり細長いのが特徴ですw

作品名不明。年代不明
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こちらはちょっと珍しい胸像。作風そのものは同様ではあるけど、まだボリューム感が残っているように思えます。

ジャコメッティは単身像だけでなく群像をいくつか残しています。たまたまいくつかの人物像が並んでいたのを観て面白いと思ったようで、人物は街を行き交う人のようにお互いに無関心のように並んでいるのが特徴で、物語性を感じさせます。

作品名不明。年代不明
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ここまで観た中でもダントツに細いw ここまで来ると石膏を支える芯なのではないかというくらい細いですね。ちょっと動きが感じられるのが気になるところ。

ジャコメッティは1962年のヴェネツィア・ビエンナーレで1室が与えられるなど、晩年には世界的に評価の高い芸術家として認識されていました。

作品名不明。年代不明
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こちらは珍しい坐像。正座してるし、顔つきが矢内原に似ているような気もします。(詳細不明) 体つきは割とボリュームがあって逞しさや強い内面性が感じられます。

矢内原はジャコメッティとの交際を回顧し、後に『ジャコメッティ』という書籍も出版しています。ジャコメッティに描かれ続けただけに研究に欠かせない人物です。

作品名不明。年代不明
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こちらは先程のディエゴの胸像に似ているかな。三角の体つきはキュビスム的な簡略化にも思えたり。

ジャコメッティは1966年にスイスで亡くなりました。その特異な造形は実存主義や現象学の文脈でも評価され、現在でも非常に有名な彫刻家となっています。

ということで、個性的な作風となっています。彫刻だけでなく絵画も多く手掛け、日本にも各地の美術館でコレクションされています。一度観たら忘れない存在なので、眼にする機会があったらじっくりと鑑賞してみてください。


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《麻生三郎》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、戦前から活動し戦後は美術大学の教授としても活躍した麻生三郎を取り上げます。麻生三郎は池袋モンパルナスの画家の1人としても知られ、戦前は警察や軍などの弾圧の中でも作品を発表し続けました。戦後は抽象化を進め、暗褐色をベースにした焦げ付いたような厚いマチエールに人物や内面世界を描いた作品を多く残しました。また、現在の武蔵野美術大学で30年ほど教授を務め後進の指導を行い影響を与えています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


麻生三郎は1913年に現在の東京都中央区に生まれ、周囲のモダンな雰囲気に影響されて洋画を志しました。15歳の1928年から小林万吾が設立した同舟舎洋画研究所で学び、1930年からは太平洋美術学校に入学し、そこで 靉光、長谷川利行、高橋新吉らと知り合います。しかし1933年に美術学校を退学すると個人活動を開始し、翌年から作品を発表し始めました。

麻生三郎 「自画像」
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こちらは1937年の作品。非常にインパクトのある自画像で、目の中に赤が入るとこんなに強い印象を受けるのかと驚きます。麻生三郎は戦中から戦後間もない時期にかけてこうした自画像や妻・娘の肖像画を繰り返していたようで、目まぐるしい社会の変化の中でかけがえのない人の存在を把握するための営為だったのではないかと考えられるようです。この頃から前衛的ではあるけど、後の作風に比べるとかなり具象的に思えます。

この前年の1936年に寺田政明らとエコール・ド・東京を結成し、1937年に第1回エコール・ド・東京展に出品しています。そして、翌年の1938年から数ヵ月間に渡ってフランスに滞在しました。しかし第二次世界大戦に向かっていく世界情勢の悪化で翌年には帰国し、同年の第9回独立展に参加して入選しました。帰国後は現在の豊島区長崎にアトリエを構え、福沢一郎、北脇昇、寺田政明らと美術文化協会を結成しています。池袋モンパルナスの一員と考えられているのはその為ですね。
 参考記事:東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村 (板橋区立美術館)

麻生三郎 「とり」
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こちらは1940年の作品。くすんだ筆致に見えるけど鳥の肉を吊るした様子がリアルに描かれています。画題としては洋画では伝統的なものに思えるかな。この頃は写実的な作風だったように見えますね。背景が灰色でくすんだ感じという特徴はこの頃には確立されてたのかも。

戦時下の1943年には寺田政明、松本竣介、靉光らと「新人画会」を結成し、戦況が厳しく軍部に抑圧されても作品を発表し続けました。1944年には召集を受けて一時は入営しましたが、身体虚弱で兵役不適とされました。戦時中には空襲でアトリエが焼失し、多くの作品が失われてしまったのだとか。

戦後になると松本竣介・舟越保武と共に日動画廊にて三人展を開催し、1947年には新人画会の同人とともに自由美術家協会に加わりました。さらに1952年には武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)の教授となり、その後約30年に渡って後進の指導を行っています。

麻生三郎 「赤い空」
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こちらは1956年の作品です。一気に画風が変わりざらついたマチエールに重苦しいような色彩で、何かを訴えているような人物が意味深に思えます。1950年代半ばにはこうした「赤い空」に集中して取り組み、終戦後も戦争の影響を意識し続け 戦後社会を生きる人間像を批判的に取り上げています。「赤い空というのは都会の重い空で、重い空間のかさなりあいである (中略) そしてその場所から逃れることのできない重圧と圧迫が強くなにものかに対する強い反撥犯行があるのは実感だ」と語っていたようで、色彩から感じられるのはそうした意味が込められているからかもしれませんね。

麻生三郎は1950年頃から世田谷区三軒茶屋に自宅兼アトリエを構え、近所や少年期を過ごした隅田川界隈の素描作品を数多く残したそうです。

麻生三郎 「母子像」
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こちらは1959年の作品。何色とも形容しがたい様々な色の混じった背景に母子らしき姿が浮かび、ちょっと不安な雰囲気に見えるかなw マチエールなどは同時代のアンフォルメルと似たアプローチにも思えるけど具象的で不定形という訳でもないので独自の路線と言えそうです。じっとこちらを見つめる眼が何かを訴えかけているように思えます。

この1959年には第5回日本国際美術展で優秀賞を受賞しています。

麻生三郎 「仰向けの人」
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こちらは1961年の作品。どう観ても抽象画で、どこが人やねん!とツッコみたくなりますが… よーーーく観るといますね。焼けただれたような画面にシミのような人影が。この頃になるとかなり抽象化が進んでいますが、私の中での麻生三郎のイメージはこういう作風です。ちょっと不穏な雰囲気があり、特に赤が印象的。

1963年には芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。大学教授も務めていたので、戦後の日本に重要な画家と言えます。

麻生三郎 「寝ている男」
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こちらは1963年の作品。何となく有機的な造形が集まっているように見えますが、タイトルを観ても何処らへんに男が寝ているのかよく分からない…w こうした素描から油彩になる前から抽象化が進んでいるのが伺えます。

この翌年の1964年に自由美術家協会を退会し、以後は無所属となり美術団体連合展、選抜秀作美術展、現代日本美術展などにも出品して活躍しました。

これ以降の作品の写真が見つかりませんでしたが、2000年まで長生きされています。晩年は神奈川県にゆかりがあったので神奈川県立近代美術館などに多くのコレクションがあり、各地で個展や特集が組まれることもあります。特徴的な画風なので、記憶に残りやすい画家ではないかと思います。



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《ポール・デルヴォー》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、戦前・戦後を通じて独自のシュルレアリスム的絵画を制作したベルギーの画家ポール・デルヴォーを取り上げます。デルヴォーは当初は様々な画風を変遷していましたがシュルレアリスムに出会ってからは自身の体験や価値観を投影するような不思議な光景を描きました。特に目が虚ろな女性、古代風の建物、鉄道、骸骨などをよく登場させ神秘的な静けさを漂わせる作風となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


ポール・デルヴォーは1897年にベルギー南部の母の実家で生まれ、ブリュッセルで育ちました。弁護士をしていた厳格な父、家庭的な母(ちょっと過保護)、後に弁護士になる弟 といったように芸術とは無縁の家庭だったようですが、少年時代のデルヴォーは内気で黙々と絵を描いていたそうです。高校を卒業するとデルヴォーは画家を望んだようですが両親に反対され、建築を学ぶ学校に進学しました。しかし、数学で落第して道を失いかけた時、家族の休暇ででかけた街で偶然出会った王室公認の有名画家(フランツ・クルテンス)にデルヴォーの水彩画が激賞されたため、ついに美術学校に入学することが許されました。当初は写実主義や印象主義の影響を受けた穏やかな風景画が多いようで、ベルギーの画家の伝統も取り込んで曇りがちな空をよく描いていました。一通りの技術を身につけたデルヴォーが30代を迎える頃、さらに自分らしい表現を身につけようと、有名画家の描き方や流行の画風を次々と取り入れていきます。その中でも最も影響を受けたのが 細部の描写に拘らず感情を直接的に表そうとする「表現主義」の技法で、これによって内面世界へと表現が深化していきました。1927年~1934年頃にかけてはフランドルの表現主義を中心に、ペルメーク、ド・スメット、ヴァン・デン・ベルグ、アンソールなどからの影響が挙げられるようです。また、私生活では1929年に後の妻となるタムと出会い恋に落ちましたが、両親の反対によって2人の仲は引き裂かれてしまいます。その為かこの頃は暗い色調の重苦しい雰囲気の絵が多く、喪失感がそのまま出ています。
こうして多彩な画風の時代を経てデルヴォーが試行錯誤の時代を脱したきっかけの1つがシュルレアリスムとの出会いでした。1920年代にパリで始まったこの運動は1934年にはブリュッセルでも「ミノトール展」という展示が開催され、デルヴォーはデ・キリコやマグリット、ダリ、エルンストらの作品を観て大きな衝撃を受けました。そしてその影響からデルヴォーの作品は謎めいた雰囲気が強く漂うようになり、シュルレアリストが好んだ手法を用いるようになったようです。しかしシュルレアリスムの思想や運動からは距離をとり、シュルレアリスムに感化されつつもあくまで独自の画風を作り上げようとしました。また、実在する事物を取り入れた自由な創造への道へと導いたのは、スピッツネル博物館での経験も大きかったようです。スピッツネル博物館では解剖学的な蝋人形が展示されていて、中でも「眠れるヴィーナス」という品は体内に隠された機械によって呼吸が再現され、デルヴォーはそれに心を奪われました。


ポール・デルヴォー 「三つの骸骨」
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こちらは1942年の水彩作品。まるで骨格標本のような正確さですが、お互いに向き合って会話するような不思議さがあります。デルヴォーは骸骨をよくモチーフとしていて、初めて骸骨に出会ったのは小学校の頃で、生物室の骨格模型を見て衝撃を受けたようです。少年時代には骸骨を非常に恐れていたのが、後に突如として美しさと表現力を持ったものとして目に映るようになり、人体の基本構造と捉えて生命の本質と考え、生き生きと描かれるのが特徴となっています。骸骨は死を表すモチーフとして古くから描かれてきましたが、デルヴォーはその真逆ってのが面白いですね。

デルヴォーにはいくつか影響を与えた事柄があり
 1:デルヴォーを溺愛した母の「女は男を破滅させる」という教え
 2:移動遊園地で見た機械仕掛けの裸体の女性像
 3:ジョルジョ・デ・キリコの作品
が挙げられます。それらは如実に作風に顕れるので頭に入れておくと理解しやすいです。また、デルヴォーは幼い時から電車が好きで、家の窓から路面電車(トラム)を毎日眺め、駅長になるのが夢でした。デルヴォーは後に、電車や汽車は「子供時代そのもの」だったと語っていたようで、子供時代に直結するモチーフとしてよく組み合わされます。

ポール・デルヴォー 「夜明け」のポスター
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こちらは1944年の作品。手前に建物の中の白い服の女性が描かれ、戸口の外には布をかぶった裸婦や背景の山が描かれています。モチーフ自体は現実にもありそうなものですが、手前の女性がやけに大きく、奥の女性が極端に小さく見えるなど遠近感が奇妙に感じられます。また、建物には強い光が差し込んでいて明暗は強いものの、何故か細部が平坦に感じられ、全体的にガランとした雰囲気です。それが形而上絵画やシュルレアリスムらしさを感じさせ、夢の中のような独特の世界となっています。

デルヴォーの描く女性は美しく魅力的でありながら人を寄せ付けない冷たさがあります。デルヴォーにとって女性は欲望の象徴でありながら強い恐れを抱く存在であったのではないかと推測されるようで、そうした女性観に特に大きな影響を与えたのは母親と元恋人のタムでした。母親はやや過保護で悪い女性から息子を守ろうとしたため、デルヴォーは思春期に女性に対する抑圧された感情を持っていました。一方、タムは初恋の相手で、別離直後はその不在を埋めるように執拗に彼女の肖像を描いていたそうです。

ポール・デルヴォー 「階段」
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こちらは1948年の作品。駅舎のようなところの階段に 胸を出した女性が表れ、手前にはマネキンが置かれています。背景には上半身裸の女性や巨大な機械などもありそれぞれはリアルな描写なのに夢の中のような不思議な光景です。マネキンはデ・キリコからの影響を感じるかな。デルヴォーのルーツを感じさせるモチーフが集まっているように思えます。

デルヴォーは「私は一貫して、現実をある種の「夢」として描き表そうとしてきました。事物が本物らしい様相を保ちながらも詩的な意味を帯びている。そんな夢として 作品は登場する事物の全てが必然性をもった虚構の世界となるのです。」という言葉を残しています。自身の作風を端的に表していますね。

ポール・デルヴォー 「連作 『最後の美しい日々』/最後の美しい日々」
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こちらは1948年の作品で、クロード・スパークの『鏡の国』の挿絵として8点組で制作されています。こちらは表紙だったかな。この絵には不思議な要素はそれほどありませんが、手だけ見えているのが面白い効果となっています。

この物語を要約すると 死んだ妻を剥製にした男の話で、老いていく自分と若返るような妻とのギャップに悩み、最後は剥製をバラバラにするという話です。ちょっと病んでる話ですねw それぞれの絵はストーリーに沿った内容となっています。

ポール・デルヴォー 「連作 『最後の美しい日々』/死んだ女」
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こちらは先程の連作からの1枚。横たわって寝ているのが死んだ妻だと思われます。これは版画ですが手彩色していて油彩に比べるとややぼんやりした感じなので、柔らかい印象を受けるかな。

デルヴォーの作品にはたまに男性も描かれるのですが、これはジュール・ベルヌの小説に出てくるリーデンブロック教授がモデルで、自分の作品の中で生きたいと考えたデルヴォー自身が姿を変えたものとも考えられるようです。

ポール・デルヴォー 「連作 『最後の美しい日々』/解剖室」
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こちらも連作の1枚。無表情な女性と骸骨の組み合わせがデルヴォーっぽさを増していますw 後ろに鳥の剥製もあるし、剥製になった場面なのかも?

この作品の骸骨もかなりリアルなのが分かると思いますが、デルヴォーは不思議なだけでなくしっかりした素描が下地にあります。デルヴォーは、素描は大切で油彩画に先立って習得すべきであると若い画家たちに薦めていたようで、その言葉の通りデルヴォーは60年間で油彩画を450点程度しか残していないものの、素描は膨大に残していて、入念な製作計画をしてから油彩に取り組んでいたようです。各油彩の準備スケッチや習作は数十点にもなることもあったようで、準備のための素描と即興的な素描の2つの種類が残されています。

ポール・デルヴォー 「連作 『最後の美しい日々』/女と下着(ビュスティエ)」
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こちらも連作の1枚。やけに大きくかかれた女性の存在感がすごいw 死んでいることもあって目は虚ろですね。マネキンもあって、現実的な光景なのにシュルレアリスム的に思えてしまいます。

デルヴォーの女性観に大きな影響を与えたタムですが、別れた18年後にデルヴォーと運命的な再会を果たし結婚しています(再婚) 1929年に別れたので多分この頃に再会したのだと思います。

ポール・デルヴォー 「オルフェウス」
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こちらは1956年の作品。夜の道の中を裸の女性が歩くという夢遊病的な雰囲気の光景となっていますw 堅牢な建物との組み合わせが奇妙で、フラフラと歩いている裸婦が一層に現実離れして見えます

デルヴォーは50代の頃、画家としての地位を築き壁画の依頼も受けるようになっていました。リエージュ大学の動物学研究所のフレスコ壁画を手掛け、創世記をテーマにしてその下絵なども残されています。その作品では影や泉への反射などにデルヴォーらしさがあるもののシュルレアリスム的な要素は薄く、動物学の研究所に相応しい動物が多く出てくる画題となっています

ポール・デルヴォー 「海は近い」のポスター
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こちらは1965年の作品で、日本にあるコレクションでも屈指の名作だと思います。寝そべっている女性は、移動遊園地で見た女性像(ビーナス)の末裔とも言える姿で、エロティックなファム・ファタールにも瞑想する女神にも見えます。 背を向けた女性、ローマ風の建造物、電柱に隠れた月… どれも時が止まったような静けさを感じさせ神秘的です。

この作品のようにデルヴォー作品の背景には古代神殿がよく出てきます。デルヴォーは高校の授業で出会った「オデュッセイア」など古代文学の世界に魅了され、空想の世界に思いを馳せていたそうで、画家となってからはギリシアやイタリアで実物をスケッチすることもあったそうです。しかし作品にする際には街頭や列車と組み合わせ、現実にはない風景としています。

ポール・デルヴォー 「夜の使者」のポスター
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こちらは1980年の作品。大きめの正方形の作品で、手前に5人の女性と1人のメガネの紳士が集まり、その足元にはランプが置かれています。背景には下り坂とそこを横切る路面電車、遠くにはギリシア風の神殿のような建物群が描かれています。手前の物思いにふけるような顔の女性や、光を見つめている女性、ボーっとしている女性など 何を考えているのかちょっと意味深で幻想的にすら見える感じが面白いです。背景の世界はデルヴォーの心象風景なのかな? シュールでありながら、どこか現実感があるように思えます。

デルヴォーは晩年、徐々に視力を失っていったそうで、汽車や骸骨などのモチーフは見られなくなり、裸婦を大きく描くことが多くなっていきました。晩年の作にはシュルレアリスム的な空間や滑らかな絵肌もないものの、デルヴォーが一貫した幻想世界そのものといった感じで それまでのある種の緊張感は無くなり平穏で瞑想的な雰囲気が増していきました。

ポール・デルヴォー 「ささやき」の複製写真
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こちらは1981年の作品。この絵はサーベルビロードという技法で描かれていて、この技法は絹布の定められた位置をサーベルと呼ばれる薄い刃物で一本ずつ切って、平坦な布地をビロードに変えるというものです。観る角度によって光の反射具合が違って、観る印象も変わって幻想的な作品となっています。

デルヴォーは視力のほとんどを失っても水彩画の制作を続けていたのですが、最愛の妻タムの死を境に筆を置きました。かなり長生きで1994年(96か97歳)に亡くなっています。

ということで、神話的な雰囲気のシュルレアリスムが魅力の作風となっています。日本では姫路市立美術館のコレクションが有名ですが、関東だと横浜美術館や埼玉県立近代美術館などにも良い作品があり、たまに観られる機会もあります。ベルギーの美術展の常連でもあるのでそうした展示で目にすることもありそうです。私の大好きなイチオシ画家ですw

 参考記事:
  ポール・デルヴォー 夢をめぐる旅 (府中市美術館)
  ポール・デルヴォー展 夢をめぐる旅 (埼玉県立近代美術館)
  ベルギー幻想美術館 (Bunkamuraザ・ミュージアム)  


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《瑛九》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1930年代~1950年代にかけて活躍した瑛九(えいきゅう)を取り上げます。瑛九の本名は杉田秀夫で 元々は美術批評家として活動していましたが、マン・レイのレイヨグラフに影響を受けたフォトデッサン集『眠りの理由』の出版を機に瑛九と名乗りました。戦時中にスランプになって作品を発表しなかった時期があるものの、写真、コラージュ、油彩、水彩、ガラス絵など様々な媒体で作品を制作し 特に晩年の水玉模様の作品群が代表的な作風となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


瑛九の本名は杉田秀夫で、1911年に宮崎市の眼科医の次男として生まれました。幼少期から文化的に恵まれた環境で育ち、絵画を学びながら10代の頃から美術評論や写真評論を発表していたようで、フォトグラムの制作も試みています。やがて日本美術学校に入り(1年で退学)し、1927~28年頃には『みずゑ』などに美術批評を寄稿しています。1934年頃から油絵制作に専念し、1935年に中央美術展に初入選してその翌年には新時代洋画展の同人となりました。当初はセザンヌや竹久夢二に影響を受けた作品なども残しています。

瑛九 「瑛九氏フォート・デッサン作品集 眠りの理由 より」
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こちらは1936年のフォトデッサンの作品です。この作品集から数枚ご紹介しようと思います。

瑛九 「瑛九氏フォート・デッサン作品集 眠りの理由 より」
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こちらは「眠りの理由」の中の1枚。黒地に白い線や人の形などが抽象画のように交錯する不思議な作風で、絵のようですが写真の一種です。幻想的で夢の中のような光景に思えます。

これらはマン・レイの「レイヨグラフ」(印画紙の上に直接物を置いて感光させる手法)に影響を受けて作ったもので、型紙などを使って表現しています。

瑛九 「瑛九氏フォート・デッサン作品集 眠りの理由 より」
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こちらもシリーズの1枚。手を挙げて舞うような躍動感がありますね。マン・レイの作風をただ真似るのではなく、デッサンして作った型紙を使っているので不思議なだけでなく意味がありそうな光景に見えるのが特徴かもしれません。

このフォトデッサン集を発表したのを機に瑛九(えいきゅう Q-Ei)を名乗るようになりました。瑛九は油彩、写真、コラージュ、水彩、ガラス絵など様々な分野で創作活動しています。

瑛九 「瑛九氏フォート・デッサン作品集 眠りの理由 より」
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こちらもシリーズの1枚。周りの線が動きを表現しているようにも見えます。

こうしたフォトデッサンは油彩のモチーフと共通して使われたこともあったようです。現在でも紙を切り抜いた型が残っていて、瑛九の展覧会が行われると展示されることがしばしばあります。

瑛九 「無題」
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こちらは1937年の作品で、指のようにも思える謎の物体が黒い中に浮かんでいて、フォトデッサンに見えるけどコラージュのようです。フォトデッサンからコラージュに切り替えたのは、技法ばかりが評価されて表現に関して言及されないのに反発したためらしく、瑛九の反骨精神が伺えるエピソードです。

瑛九は世界共通言語として作られた「エスペラント語」を生活の一部に取り入れていました。人類が同じ立場に立つ土壌から美術や社会について考える道へと進んだのだとか。少し前の1934年にはエスペラント語の提唱者のザメンホフを描いた肖像も制作しています。

瑛九 「無題」
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こちらは1937年の作品で、やはりコラージュとなっています。蛇みたいなパイプみたいなものと赤い四角が組み合わさって、抽象のような具象のような不思議な作品となっています。パピエ・コレやシュルレアリスムのコラージュとも雰囲気が違って独特のものを感じます。

この時期には他にもピカソ風の作品やオートマティズムの作品などもあり 様々な画風を試していたものの1937~1939年頃はスランプだったようです。(さらに1940年頃からは作品を制作しても発表していなかった) 1943年頃には「もう一度印象派からやり直さねばならぬ」と言って印象派のような画風なども残しています。

瑛九 「乱舞」のポスター
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こちらは1950年の作品で、沢山の人影が連なって踊っているように見える抽象的なフォトデッサンです。再びフォトデッサンになったけど滲みなどもあって以前と作風が違って見えるかな。この作品を作るために使った型紙と、同じ型を使った反転している作品、制作に使ったガラス棒などを観たことがありますが、工程がわかっても一層に不思議な作風に思えたものですw

この頃から再び活発に展覧会へも出品するようになっています。1951年からは埼玉県の浦和に移住して精力的に制作しました。一方、瑛九は啓蒙家としての資質もあったようで、自由な美術教育を提唱し「創造美育協会」への参加や版画の講習会の開催を通じて美術界の活性化を目指していたそうです。また、瑛九は権威主義に抵抗し自由と独立の精神で制作することも目指したそうで、戦前・戦後を通して「ふるさと社」「自由美術家協会」、自ら主催した「デモクラート美術家協会」などの設立にも参加しています。

瑛九 「空の目」のポスター
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こちらは1957年の作品。タイトルと青っぽい背景のせいか宇宙や土星の輪のようなものを想起させるかな。どこか有機的で貝殻なども思い浮かぶかも。一時はパウル・クレーにも影響を受けたことがあるようで、確かにそれを感じる部分もあります。敷石のモザイクのようにバラバラなようで奇妙な一体感がありますね。

瑛九は晩年3年間に点描画を描いていて、私が思い浮かべる瑛九の作風はレイヨグラフとこの水玉模様の作品です。草間彌生より前にこんな水玉を多様した画家がいたんですねw

瑛九 「れいめい」
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こちらも1957年の作品。黎明という始まりを意味する言葉は宇宙の始まり または 生命の始まりでしょうか。星のようでもありアメーバのような原始生物のようでもある…。それにしても優しい色彩が心地よく、瑛九の中でも特に好きな作品です。

瑛九はオノサト・トシノブを信頼しあって刺激し合う仲間だったようです。確かに作風に似たものを感じることがあります。

瑛九 「田園」
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こちらは1959年の作品。無数の点描で描かれた大型の作品で、黄色や赤が多くて太陽や青空の下の田園風景と言われたらそう見えるかな。田園というのはベートーヴェンの田園交響曲のことらしく、同名の作品は田園を繰り返し聴きながら描いていたというエピソードがあります。先程の水玉をさらに細かくしたような感じで、ほとばしるような勢いと陽光が表現されているように思えます。

1957年頃にはフォトデッサンで用いた型紙を使って、エアコンプレッサーのみで描いた作品なども残しています。1960年に亡くなる直前まで新たな表現に挑戦し続けた画家でした。


ということで、幅広いジャンルで活躍した芸術家となっています。宮崎で生まれ戦後は浦和で活動したこともあり、関東では埼玉県立近代美術館や うらわ美術館、東京国立近代美術館などでコレクションを観る機会があります。それ以外のギャラリーなどでちょくちょく小さな個展も開かれるので、知っておくと面白い存在だと思います。
 参考記事:
  生誕100年記念 瑛九展-夢に託して (うらわ美術館)
  生誕100年記念 瑛九展 (埼玉県立近代美術館)


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