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《北井一夫》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1960年代後半から現在にかけて活躍される写真家の北井一夫 氏を取り上げます。北井一夫 氏は初期は成田闘争などの社会問題を取り上げた写真集を出していましたが、その視線は闘争よりも人々の平穏だった生活へと向かい、1970年代に日本全国の日常生活を撮った『村へ』のシリーズで第1回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。その魅力は色褪せることなく、今でも名作として展示される機会の多い作品となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


北井一夫 氏は1944年に中国の鞍山に生まれました。1965年に日本大学芸術学部写真学科を中退し、同年に横須賀基地の原子力潜水艦の寄港阻止のデモを撮影した『抵抗』を自費出版しデビューしました。さらに成田空港建設に反対する三里塚の農民を取材した作品を1972年に『三里塚』として出版するなど初期は社会問題をテーマにした作風となっていました。しかし『三里塚』では空港建設をめぐる闘争そのものではなく、むしろそんな事態にならなければずっと続いていたはずの農村の平穏な日常の時間を捉えようとしていて、それ以降に繋がる視点となっています。

北井一夫 「[村へ]より リヤカー 岩手県沢内村」
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こちらは主に1973~1974年頃に撮影した「村へ」のシリーズからの1枚。高度経済成長と都市化の進展で伝統的な農村・漁村も急速に姿を変えつつあった頃の暮らしと風景を捉えたもので、素朴な日本の原風景と言った雰囲気が漂います。

1989年の団地生活を撮った「フナバシストーリー」なども観たことがあるのですが、住人は写っていないけど、写っているキッチンなどを観るだけで住人の気質まで伝わってくるような写真だったのを覚えています。この作品のように留守模様のように人がいないけど人の気配を感じるという手法も使ってたんじゃないかな。

北井一夫 「[村へ]より 海辺 宮城県石巻市」
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こちらは石巻の海辺を撮った作品。電線が画面を分割しているような面白い構図で、子どもたちがこちらの様子を伺っているのも可愛らしい光景となっています。奥にも子どもがいるし、喧騒が聞こえてきそう。

広角レンズの特性を生かし、広がりのある風景の真ん中にまっすぐこちらを観ている人々を配するという構図は「村へ」よりも前のいくつかの作品で北井一夫 氏が好んで撮ったトレードマークのような撮り方となっています。また、実際にはそれほど離れていないものの写真では小さく写っていて、「すごく近くで撮っているけど、写真では遠いような感じ」になり「いちばん自然というか、見た目にに近い感じで対象との距離がはかれる」方法だと北井一夫 氏自身が語っているそうです。

北井一夫 「[村へ]より 夜 宮城県石巻市」
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こちらは面を被った人がひょっこり出てくる様子。子供が観たらめっちゃトラウマになりそうw 村の持つ土着のフォークロア的なものを感じます。

このシリーズは1976年に『アサヒカメラ』誌に続編も合わせて4年 全41回に渡って連載され、連載中の1976年に第1回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。

北井一夫 「[村へ]より 馬方 宮城県石巻市」
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こちらはう荷馬車で木材を運ぶ馬方を撮った写真。1974年にまだこんな光景が残っていたのかという驚きがありますが、当時の様子を知る上でも貴重な写真ですね。山深いところで作業する力強さを感じます。

今回はこの「村へ」のシリーズしかご紹介できませんが、1981年の「新世界物語」1989年の「フナバシストーリー」、1990年の「いつか見た風景」、2001年の「1970年代NIPPON」、2016年の「流れ雲旅」、2020年の「過激派の時代」などがあり、現在でも活躍されています。

北井一夫 「[村へ]より お盆 岡山県久米町」
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こちらは長閑な農村風景。子供の姿がちょっとブレていて素早く動いているのが感じられるかな。手前の灯籠みたいなのは何だろう…。かなり昔の光景に思えます。

コントラストが強く、粒子の粗いプリントは当時の写真雑誌のグラビア印刷と相性が良く、その頃の日本の写真界によく観られたそうです。この連作では同時代のものでありながら既に遠い過去のできごとのような距離感が写真の中に現れるという効果もあったようです。

北井一夫 「[村へ]より 嫁入り 岡山県久米町」
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こちらは嫁入りの様子。舗装されていない道を歩いているところに時代を感じます。周りの人が洋服じゃなかったら江戸時代に見えるかも?? これは現地の文化も伝わってきますね。

北井一夫 氏の他作品でドイツ表現派の建物の写真のシリーズも観たことがあります。ドイツ表現派の美学を如実に感じさせ、建物の魅力を一層に引き立ていました。撮る対象も幅広いですね。

北井一夫 「[村へ]より カマクラ 秋田県横手市」
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こちらはカマクラを撮った作品。中で遊んでいる子供の姿もあり何かの儀式なのかも。陰影が強く明るいカマクラに温かみを感じます。

この「村へ」のシリーズは好評だったので続編の「そして村へ」も連載されました。同作は、その後も編集を変えながら写真集や写真展で繰り返し発表され、現在まで途切れることなく注目されています。

北井一夫 「[村へ]より 湯治場 秋田県孫六湯」
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こちらは当時なの様子。昭和のレトロな室内といった感じで、温和な婆ちゃんと共に良い味わいとなっていますね。私はこの時代には生まれていませんが、何故かノスタルジックな気分になります。

高度成長期にあえて農村を撮ったり、手ブレやピンぼけの「駄目写真」を狙ったりと長閑な雰囲気の割に反逆児のような所がありますw このシリーズは当時の何でもない光景ですが、今となってはもう観ることのできない光景も多いし慧眼と言えそう。技巧的でない為かどこか温かみを感じる写真が多いのも特徴で、観ていてホッとしますね。

北井一夫 「[村へ]より 葬式 青森県木造町」
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こちらは青森の葬儀の様子を撮ったもの。みんな硬い表情をしている厳粛な雰囲気ですが、この衣装に現地の風俗を感じます。昔の葬式の衣装ってこんな感じだったのかな。

この頃、漫画家の つげ義春と日本中に撮影旅行などもしていて、1971年には『つげ義春流れ雲旅』として観光されています。しかしその反面、写真家団体やグループには一切所属せず、師弟関係も無いようで本当に独自で活動されている写真家です。

北井一夫 「[村へ]より 市場 沖縄県那覇市」
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こちらは1975年なので、沖縄返還から約3年後の様子を撮ったもの。雑多な市場でちょっとカオスw 貧しくも逞しい雰囲気で、服の模様などに南国感がありますね。

ということで、今回ご紹介したのは一端でしかありませんが、時代を超えて色褪せない作品を残されている写真家です。特にこの「村へ」シリーズは写美や東近美で観かけることがあり、フジフイルム スクエアで2021/04/01~2021/06/30まで展示も行われるようです。
 参考リンク:写真家がカメラを持って旅に出た 北井一夫「村へ、そして村へ」
六本木に行かれる機会がある方は是非足を運んでみてください(無料です)


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《ゴードン・マッタ=クラーク》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1970年代にニューヨークで活躍した先進的なアーティストであるゴードン・マッタ=クラークを取り上げます。ゴードン・マッタ=クラークは著名なシュルレアリストのロベルト・マッタの息子で、建築と文学を学び建築そのものを素材にするような作品を多く手掛けました。若くして亡くなったので製作期間は10年程度ですが、特に建物を切り取る「ビルディング・カット」と呼ばれる手法は大掛かりかつ大胆で特徴的な作風となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


ゴードン・マッタ=クラークは1943年に双子の弟としてニューヨークで生まれました。父はシュルレアリスムの画家のロベルト・マッタ、母も画家のアン・クラークという芸術家一家でしたが、生後まもなく両親は別れて母と兄と共にニューヨークやチリ、ヨーロッパなど各地で幼少期を過ごしました。やがてニューヨーク州のコーネル大学やパリのソルボンヌ大学で学んでいるのでかなりのインテリだったと思われます。そして1969年にニューヨークに移り、インスタレーションやパフォーマンスの発表を始めました。

ゴードン・マッタ=クラーク 「木の素描」
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こちらは1969年の作品。ニューヨークに帰ってきてから木の素描をよく描いたようで、こうした作品が多く残されています。ただ単に描写しただけでなく、変形した樹木を並べて描いた文字や暗号のような素描や、木を建築の原型とみなして枝を屋根や格子状に変形して描いたものもあるようです。葉の部分に回転するような動きが表され、内側に小さな形や記号が記入されたこうした素描は「エネルギーの樹」と呼ばれるのだとか。大学では建築や文学を学んでいただけに、素描にも様々な考えが投影されているようです。

マッタ=クラークは万物が土、水、火、空気の四大元素から構成されるという錬金術の考えに興味を持っていたそうで、世界を理解する際の比喩として捉えていたようです。マッタ=クラークの作品を読み解く上で手がかりになるかもしれませんね。

ゴードン・マッタ=クラーク 「ミュージアム」
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こちらは1970年の作品。マッタ=クラークは1969~71年にかけて自宅兼スタジオで継続的にゼラチン状の天草をベースにした液体に、様々な植物や瓦礫を混ぜたものを煮立たせたり発酵させていたそうで、これは個展で出されたそうした品と思われます。他にも様々な食品や金属などを材料にした品があったようで、鑑賞者はそれらが引き起こす変化を目の当たりにすることができたようです。何だかよく分からない得体の知れなさがすごいw 

マッタ=クラークは初期はこうした作品や写真を揚げたりするなど、料理をテーマにした作品を発表していました。そして1971年には友人のダンサーのキャロル・グッデンらと共同でソーホー地区に「フード」というレストランを設立しています。この「フード」ではパフォーマンスを行ったりアーティストが不定期に働いて収入を得られるようにしたそうですが、どんなメニューだったんでしょうかねw 揚げた写真が出てこなきゃいいけどw

ゴードン・マッタ=クラーク 「無題(ベラル・アルテスの切断)」
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こちらは1971年の作品。ゴードン・マッタ=クラークは1971年後半に友人のジェフリー・ルウと共にメキシコやペルーを経由してチリを訪れました。父のロベルト・マッタと会うのが目的だったようですが父はパリに戻って会えなかったようです。しかし2人は父が懇意にしていたチリ国立美術館の館長と面会して美術館で展示を行うことになり、ゴードン・マッタ=クラークが階段の屋根に小さな穴を開けて天窓を作りました。そこに実在の壁、穴、鏡、写真を多重に組み合わせ、視覚を幻惑させる空間となったようです。この建物を切り取るという発想はこの後も出てくるので特徴的な手法だと思います。

チリ国立美術館はゴードン・マッタ=クラークが切断の介入を行った現存する唯一の建物とされています。実際にどんな光景なのか観てみたいものです。

ゴードン・マッタ=クラーク 「ツリーダンス」
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こちらは1971年の作品。大学のギャラリーの展覧会に招待された際に作ったハンモックのような作品で、そこに数日間滞在しようとしたものの許可が得られず1日限りのパフォーマンスとなりました。実際にこの映像を観ると楽しげですが、割と悪戦苦闘しているような感じです。

マッタ=クラークはのちに近代建築を「問題の解決に失敗しただけでなく、家というレベルでも、制度というレベルでも、非人間化された状態を作りだした」と批判したようで、この作品のように 天と地の間で生じる水や土や火の関係によって空間を捉え直すという中で樹木に注目していたのだとか。錬金術の考えと建築を結びつけようとしていたんでしょうね。

ゴードン・マッタ=クラーク 「壁=紙」
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こちらは1972年の作品の再現。低所得者層が住む公共団地などの取り壊し中の様子を撮った写真を新聞用紙に印刷したもので、印刷によって写真の細かい部分が省略可されて抽象化され、さらに色彩も施されています。1972年の個展でこの「壁=紙」を連ねて天井から床まで壁一面を覆ったそうで、反復するような感じかな。前衛絵画のような趣きで、ちょっとポップアートのような試みにも思えます。

この作品を展示した際、床に「壁=紙」が山積みにされて来場者が自由に持ち帰ることができたそうです。ちなみに2018年にこの写真を撮った展覧会でもそれを再現していました。 1973年にはこの「壁=紙」を書籍の形状でも発表しています。

ゴードン・マッタ=クラーク 「無題 [アナーキテクチャー]」
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こちらは1972年の作品。秩序が崩壊したようなちょっとシュールな光景となっています。

マッタ=クラークは仲間のアーティストたちと都市に関するミーティングを行い、「アナーキー(無秩序)」と「アーキテクチャー(建築を)」組み合わせた造語「アナーキテクチャー」をこのグループの名前にしました。そして空虚、隙間、余った空間や放置されたまま活用されない空間 または もし機能があるとしてもあまりに馬鹿馬鹿しいので機能という考え方自体が馬鹿にされてしまっているような空間を見出そうとしたようです。その流れで、用途のない小さな土地を使った作品や、落書きの写真を使った作品なども制作されています。

ゴードン・マッタ=クラーク 「ブロンクス・フロアーズ:四方の壁」
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こちらは1973年の作品。1972年後半から1973年にかけてマンハッタンやブロンクス、ブルックリンの空き家に友人と侵入して制作したもので、のこぎりで床や壁の一部を四角く切り取って1つの空間からもう1つの空間への視界を生み出しています。先程のミュージアムの発想と似た作品で、ちょっと穴が増えるだけでそれまでと異なる光景になるのが面白い。

この頃のブロンクスは巨大団地や高速道路の建設によってそれまでの住宅地が破壊されていて、都市の開発と破壊を感じたマッタ=クラークはその中にある住環境に働きかけたようです。壊される空き家とはいえ勝手に切り取ったりして良いんだろうか?って気はしますがw

ゴードン・マッタ=クラーク 「スプリッティング」
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こちらは1974年の代表作。ついに建物全体を切断してしまいましたw 空き家で壊される予定だった家を電動のこぎりやジャッキなどを使ってこのように真っ二つに割ったようです。大掛かりでちょっとユーモアを感じますねw

この年以降に欧米各地で多くの展覧会に出品し、ビルディング・カットやパフォーマンスも行ったようです。この後にも建物自体を使った作品が出てきます。

ゴードン・マッタ=クラーク 「52番埠頭:日の終わり」
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こちらは1975年の作品。ハドソン川の埠頭にある倉庫に入り込んで建物を切断したもので、床は水路のようになり 屋根は太陽の差し込む方向を計算して切り込まれたようです。マッタ=クラークはこの倉庫を「壮大なキリスト教のバシリカ(長方形の採光窓などがある建築様式)のようだ」と語っていたそうです。無機的な空間に装飾が施されたような印象を受けるかな。

この作品を発表した当日に警官が到着して建物を立ち入り禁止にして、ニューヨーク氏は損壊に対して賠償請求を検討したのだとか。 勝手に建物を切り取るとかバンクシーよりヤバい奴ですねw

ゴードン・マッタ=クラーク 「ウィンドウ・ブロウアウト」
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こちらは1976年の作品。この年に「モデルとしてのアイデア」展に招待され、サウス・ブロンクスの窓が割られた建物を撮影したこうした写真を展示会場の出窓に置きました。この地区はアフリカ系やヒスパニックが住んでいたのですが、住宅供給計画によって結果的に締め出されたようで、この計画には同じく出品者のリチャード・マイヤー(マッタ=クラークが建築を学んだコーネル大学とゆかりの深い建築家)も関わっていました。マッタ=クラークはオープン直前の真夜中にモデルガンで展示スペースの窓を割って展示を完成させたようですが、レセプションの前までには取り替えられてしまったのだとか。ゲリラ的というか、アナーキーな活動っぷりに驚かされますw

マッタ=クラークは「モデルとしてのアイデア」という展覧会そのものを素材に、建築と都市計画の制度の閉鎖性、都市生活を抑圧する進歩主義的な建築に問うたと考えられています。まあ元々の住民からしたら独善的な計画に観えたでしょうね。

ゴードン・マッタ=クラーク 「ヤコブの梯子」
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こちらは1977年の作品。聖書でヤコブが天にかかる梯子を天使が上り下りしているのを見たという話を題材にしていて、まさに空に向かって伸びる梯子のようになっています。水平方向の繋がりを基本とした地面の上での生活から抜け出し、空と大地の間に新たな居住空間を想像したとのことで、これも錬金術の思想に関係ありそうに思えます。

この前の年に双子の兄がスタジオの窓から転落して亡くなっています。自死か事故かは不明ですが精神の不調で入院し、退院したばかりだったようです。

ゴードン・マッタ=クラーク 「オフィス・バロック」
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こちらは1977年の作品の模型。ベルギーのアントワープの建物を使った作品で、当初は外から建物の内部を見通せるようにしようと考えたようです。しかしこのプランはアントワープ市によって静止され、結局は建物内部のみを使用することになりました。タイトルはこのときにバロックの巨匠ルーベンスの生誕400年を祝っていたのと、この建物を本社にしていた海運会社の破産(broke)の言葉遊びとなっています。あちこちの床に穴があったり、唐突に壁にスリットがあったりして人が住める気はしませんが、建物自体が彫刻のようで光の入り方など様々なアイディアが伺えます。

この建物はマッタ=クラークの没後に保存が試みられ、多くの芸術家が作品を寄贈して協力したものの1980年に予告なく取り壊されてしまったのだとか。

ゴードン・マッタ=クラーク 「サーカスまたはカリビアン・オレンジ」
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こちらは1978年の作品。こちらはシカゴ現代美術館が隣接する集合住宅を別館に改修する際に依頼したプロジェクトで、ビルディングカットの手法で円形の穴が無数に開けられています。タイトルのカリビアン・オレンジは、カリブではオレンジを縦ではなく横にカットすることに関係があるようで、この作品は人々のために組み上げられたステージを設置しているのでサーカスであるとも語っていました。普通の建物もこうしてカットを入れると一気に現代アートっぽくなりますねw まるで異空間のようになっていて面白い

この年の8月に膵臓ガンで35歳の若さで亡くなりました。ようやく美術館によって公式に残される作品が生まれたばかりだったのに惜しい限りです。


ということで、建築との関わりを持った様々な作風となっています。日本では馴染みがなかったのですが2018年に東京国立近代美術館で大規模な回顧展が行われて注目を集めました。先駆的な存在として覚えておきたいアーティストです。
 参考記事:ゴードン・マッタ=クラーク展 (東京国立近代美術館)



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《横尾忠則》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1960年代半ば頃から現在にかけて活躍を続ける前衛芸術家の横尾忠則 氏を取り上げます。横尾忠則 氏は当初グラフィックデザイナーとして成功し、シュールさナンセンスさ、サイケデリックなど1970年前後の時代の空気を取り入れ、時代の寵児として若者文化を牽引しました。2000年以降にはY字路を描くシリーズを制作し、今なお日本を代表するアーティストとして注目される存在です。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


横尾忠則 氏は1936年に兵庫県の西脇市に生まれました。元々は成瀬家の次男でしたが2歳頃に叔父の横尾家に養子に入っていて、実弟に画家・イラストレーターの成瀬政博 氏がいます。幼い頃から絵を描くのが好きだったようで、『漫画少年』に漫画を投稿するほどだったようです。高校時代に油彩画を制作すうようになり絵画展などで入賞するほどだったようですが、美術大学には進まずに1956年(20歳の頃)に神戸新聞社にスカウトされて入社しました。デザイン・イラストの仕事を手掛け様々な賞を受賞していき、各界の著名人とも交流して1960年代半ばには個展を開いて1969年には第6回パリ青年ビエンナーレ版画部門グランプリを受賞するなど、着実に高い評価を得ていきました。

横尾忠則 「風景 No.17 入れ墨男」「風景 No.1 女の子」「風景 No.3 お葉さん」
横尾忠則 「風景 No.16 自画像」「風景 No.5 海の男」「風景 No.10 ヴォーグの女」
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こちらはすべて1969年の作品。写真をシルクスクリーンとアクリル板・アクリルフィルムで様々な色に変えたもので、アンディ・ウォーホルを彷彿とするかな。色使いがサイケデリックなのが独特で、この辺に横尾忠則 氏の感性の面白さを感じます。

横尾忠則 氏の作風はかなり幅広いのでこれと定義するのは難しいけど(写真数枚で説明できるもんじゃないw) 、1970年頃には若者文化を牽引していて、オカルトブームやサイケデリックな文化が隆盛していた空気も取り込んだような作品も残されています。

横尾忠則 「葬列II」
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こちらは1969/85年のシルクスクリーン・アクリル板による作品。幾重にも人が重なったような感じで、奥行きが圧縮されているように観えます。色面になっていたりポップな雰囲気に見えるけど、右の人は喪服でしょうか。。。それ以外の人も表情が伺えず沈痛な印象も受けます。

この年に横尾忠則自身が主演した大島渚監督の「新宿泥棒日記」が公開され、そのポスターも手掛けました。中央に主演の男女が姿があり、その下に逆さになって足を大きく上げた人のお尻が写っていて、周りにも何人かの人物が写っているというもので、ちょっと安っぽさや笑える部分もありつつ、猟奇とエロスを感じるポスターとなっています。

横尾忠則 「責め場」
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こちらは1969年の作品。右の写真はアップしたもので、それぞれ上下2段に女性が描かれているのが分かります。SMみたいな題材で驚きですねw ちょっと倒錯した感じで既存の美術にはない要素かも。

横尾忠則 氏は1970年に交通事故に遭って一時期休養宣言をしていました。その間もエッセイや写真などの仕事をしていたようですが、歩行できないほどに深刻な状況だったようです。交友関係のあった三島由紀夫は横尾忠則 氏を激励していたものの、その三島由紀夫も同じ年のうちに自衛隊の駐屯地で割腹自殺をしました。

こちらは1974~75年にかけて東京新聞で連載された『幻花』の挿絵の原画
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この『幻花』は瀬戸内晴美 氏(現在の・瀬戸内寂聴 氏)の小説で、室町幕府の8代将軍 足利義政の時代の正室 日野富子と愛妾の今参局との人間関係や幕府の衰退を書いているそうです。その挿絵なので さぞかし古風な人たちが出てくるのだろうなあと予想してしまいますが、予想外の挿絵を繰り出す奔放ぶりとなっています。

例えばこちら。ピラミッドとUFOが出てきますw 室町幕府の話だったはずでは…
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どうやら瀬戸内 氏の遅筆さに業を煮やして、中身を知らないうちに描き貯めて海外に行った際の挿絵のようです。とは言え、もっと無難な絵が描けたはずだろうにUFOにピラミッドとは驚きです。 しかもこれ以外の挿絵にも何度もUFOは出てきますw 挿絵の概念がぶっ飛びますね。

横尾忠則 氏は三島由紀夫の死に衝撃を受け、以降15年程度オカルトや神秘主義といった世界に傾倒していました。インドに何度も赴いて霊的な存在を信じたり、UFO体験もしたことがあるようで こうして作品の中に出てくることがあります。

こちらも1974~75年の『幻花』の挿絵
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緻密で強い目をしていますが、何処と無く女の執念のようなものを感じる…。画面いっぱいに顔を描く大胆な構図も面白い。

先述の通り横尾忠則 氏は日本の著名な芸術家と多く交流していて、この瀬戸内寂聴 氏だけでなく三宅一生、篠山紀信、岡本太郎、和田誠など名だたる巨匠と共に仕事をしてきました。

こちらも1974~75年の『幻花』の挿絵
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一筋の稲妻が黒く表現されているところがカッコいい。稲光なら白と思ってしまいますが反転している所に常人離れしたセンスが感じられます。

横尾忠則 氏は1970年の大阪万博では前衛的な芸術家によって作られた「せんい館」というパビリオンをデザインしています。このパビリオンには四谷シモン 氏の「ルネ・マグリットの男」という大きな人形などが展示されたようで、コラージュされた日本語、英語、ポルトガル語を発し、頭部からはレーザー光線も出る不気味な雰囲気となっていますw 当時の写真や映像を観ると真っ赤な部屋に何体も並んでいて、シュールな光景で意図はよくわかりませんが、怖さを感じるような映像と音楽なのは確かですw

この後2000年代まで撮影可能な作品がありませんでしたが、国際的な展示にも数多く出品され押しも押されもせぬ日本を代表する前衛芸術家となっています。

横尾忠則 「健全な感情」
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こちらは2002年の作品。2000年9月から始まったY字路を描く連作の1つで、中央にあるのは横浜元町のイチカワ理容室というお店となっています。しかし右側は広島駅近くの新幹線のガード、右奥は世田谷の高層ビル、左奥にはパリのサクレクール寺院といったように様々な風景が組み合わさっているようで、実際には存在しない風景となっています。赤や黄色が多く温かみを感じる画風で、どこかノスタルジックな気分になります。

横尾忠則 氏はニューヨーク近代美術館でピカソ展を観た際に衝撃を受け、グラフィックデザイナーから画家へと自身の認識も変化したようです。1980年代後半からは滝を描いたシリーズを手掛け、2000年以降はこうしたY字路をよく描いています。

横尾忠則 「黒いY字路 11」
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こちらは2011年の作品。これは2011年のヨコハマトリエンナーレにも出品されていた「黒いY字路」の16枚の中の1枚で、シュールでキュビスムが流行った頃の作品のようなちょっとレトロさを感じます。このシリーズでは風景を闇の中に消滅させる逆転的な表現を示し、トリエンナーレの会場であった横浜美術館という場に想を得て描かれたのだとか。

Y字路シリーズでは岐路や境界といったテーマを多義的に示し、非現実の風景を顕在させることを試みてきたようです。この2011年には旭日小綬章を受章しています。

横尾忠則 「真夜中の晩鐘」のポスター
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こちらは2011年の作品。現代の日本のY字路が描かれ、周りは闇に染まり真夜中のようです。その交差点の手前にはミレーの「晩鐘」に出てくる男女が祈りを捧げています。何故 現代の交差点にミレーの晩鐘を組み合わせたのかは謎ですが、その為か普通の道端が静かで神秘的な場所のように観えます。


この翌年の2012年に兵庫県に横尾忠則現代美術館もオープンしました。現在でも活躍されていて、2020年には2014年に亡くなった愛猫に関する『タマ、帰っておいで』という画集を発表しています。


ということで、写真が少なくて紹介しきれていない感が強いですが現代日本を代表するアーティストとなっています。現在は84歳となっていますがまだまだ期待したい存在です。

 参考記事:横尾忠則 幻花幻想幻画譚 1974-1975 (ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)


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《ジョセフ・クーデルカ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、旧チェコスロヴァキア生まれで現在でも世界的に注目されている写真家ジョセフ・クーデルカ(ヨゼフ・コウデルカ)を取り上げます。ジョセフ・クーデルカは当初は祖国で演劇写真やジプシーを撮っていましたが、1968年のプラハの春によって人生が大きく変わりました。その歴史的な事件を捉えた写真は匿名のままロバート・キャパ賞のゴールドメダルを受賞し、戦後のフォトジャーナリズムの最高傑作とされています。また、亡命先のイギリスやフランスで撮った『エグザイルズ(亡命者たち)』をはじめ、自身の立場を吐露するような孤独で内省的なシリーズ作品を制作し、高い評価を得ました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


ジョセフ・クーデルカは1938年に生まれ、航空技師として働きながら1960年代初頭に写真を発表しはじめました。知人の紹介で演劇写真を手がけるようになり、1961年1月にプラハのセマフォル劇場のロビーで開催されたデビュー展では当時無名の23歳の学生が並外れた感覚を備えた写真家であることを示し、チェコスロバキアの写真界にその存在を知られることになります。1962年から2年間、月刊誌『劇場』の表紙を担当し、ディレクターの示唆によって最初の年はグラフィックシンボルのシリーズ、翌年は顔をモティーフとするシリーズが制作されました。いずれも人物や風景の写真をもとに要素を切り詰め、フォルムを強調して極端なハイコントラストでプリントされ この実験の成果は後の仕事に確実に受け継がれていきます。

残念ながら1968年以前の作品は私の撮った写真の中にはありませんでしたが、初期は割とテーマがバラバラなものの詩的で内面的な雰囲気の作品が多いように思います。月刊誌『劇場』の頃はまるでレイヨグラフのような実験的な作品も残しました。

1960年代にスロバキアとルーマニアにあるロマ(ジプシー)の居留地で撮影した「ジプシーズ」は最初の大きなテーマを持った連作で、1967年に「門のむこう」劇場のロビーで展示され 現在ではこの作品は写真史における古典の1つと位置づけられています。そして同年に技師の仕事を辞めて独立すると、ロマの取材から返ってきた翌日にジョセフ・クーデルカの運命を大きく変えた1968年8月21日の「プラハの春」が起こりました。

ジョセフ・クーデルカ 「2度にわたり、人がいなくなったヴァーツラフ広場-8月22日、23日」
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こちらは1968年の作品で、プラハの春が始まった翌日の写真です。プラハの春は、当時 共産主義国だったチェコで民主化運動(反共産党運動)が活発化してきたのを、ソ連をはじめとするワルシャワ条約機構軍が危惧し、突如としてプラハを占領した事件です。友好国だったはずのソ連が攻めてきたのをプラハ市民は当然歓迎せず、ジョセフ・クーデルカを含めたプラハ市民達の必死の抵抗活動が始まります。誰もいない広場と、日時を記録しようとする腕時計が緊迫した雰囲気を伝えていますね。

この時の一連の作品は当時のプラハの混乱の様子やソ連軍との戦いが収められ、怒りの目を向ける市民と兵士を撮った作品、街の橋をふさぐ戦車、戦車の兵士に必死に何かを訴える人、戦車を棒で叩いたり乗りあがって旗を振り回す人、戦車にハーケンクロイツ(ナチスマーク)が落書きされた様子などが撮られています。時間が経つとさらに過激な運動となっていて、火をかけられた戦車が燃え盛り、周りのバスや車も燃えて街がメチャクチャになっている様子や、怪我をして倒れている人、恐らく死んでいる人など、ほとんど市街戦のような事態となっているのが伝わります。

このシリーズの目的はその軍事介入を可能な限り正確に伝えるためにあり、プラハ侵攻1周年に際して初めて各国の雑誌に匿名で掲載されました。匿名のままロバート・キャパ賞にも出品されてゴールドメダルを受賞し伝説となりました。ジョセフ・クーデルカはジャーナリストではありませんが、このシリーズは第二次大戦以降のフォトジャーナリズムにおいて最高傑作の1つと評されるほどで、彼の写真はチェコスロバキアの悲劇に留まらずあらゆる地域の軍事介入のシンボルとなっていきます。 しかし一連の作品は本国チェコスロバキアでは1990年まで発表されることは無かったそうで、彼自身もこの作品を発表後の1970年にイギリスに亡命するなど、当時は非常に苦しい立場だったことが伺えます。

ジョセフ・クーデルカ 「『エグザイルズ(亡命者たち)』より スペイン」
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こちらは恐らく1971年の作品(シリーズまとめてキャプションされてたので入れ違ってるかも。) スペインは1975年までフランコによる独裁政権だったので、その時代のものでしょうか。詳細は分かりませんが噴煙を上げるものが写されていて、やはり歴史的な争いに関連してそうですね。

『エグザイルズ』は亡命者や漂流者を意味するシリーズで、プラハ侵攻をきっかけに流浪という視点はクーデルカの作品世界を新たな段階へと導き、自身も亡命者であるためノスタルジーや内省、疎外感に満ちていて、切り離され追放された立場の自らの感情を吐露しているようだと評されています。

ジョセフ・クーデルカ 「エグザイルズ(亡命者たち)より フランス」
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こちらは1973年の作品(他2点と入れ違いかも) 巨大な船を見つめる背中に何とも哀愁漂っています。この人も亡命者でしょうか。寂しい光景で確かに疎外感のようなものが伝わってきます。

当初イギリスに亡命したジョセフ・クーデルカですが、後にフランスに移っています。1971年からはマグナム・フォトに参加し、1974年には正会員になるなど亡命先でも活躍しました。しかしこの時はまだ先程のプラハの春の関連作品はジョセフ・クーデルカの作品であることは伏せられていて、身の危険のなくなった1989年に名を明かしました。

ジョセフ・クーデルカ 「『エグザイルズ(亡命者たち)』より オー=ド=セーヌ、フランス」
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こちらは1987年の作品。雪の平地に黒い犬らしき影がうろついている姿が写されています。これも広い場所に1匹だけがぽつんと写っていて、背景と共に寂しげな雰囲気です。

ジョセフ・クーデルカは1986年からパノラマカメラを使い始め、それによって彼のスタイルは根本的な変化がもたらされました。 その成果の1つが破局にある自然の風景を捉えた黙示録的な写真シリーズで、それは永劫に消滅しつつある世界についての暗い前兆・警告というべきものを提示したようです。このシリーズはカオスという表題の元にゆるやかにまとめられ、人間と環境の間の関係のもろさを示すと同時に、破壊を恐れつつ魅了されもする人間の性向を表しているようです。

ジョセフ・クーデルカ 「『カオス』より ノール=パ=ド=カレー、フランス」(1986年)
ジョセフ・クーデルカ 「『カオス』より ウェールズ、イギリス」(1997年)
ジョセフ・クーデルカ 「『カオス』より ウェールズ、イギリス」(1997年)
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こちらが『カオス』シリーズ。それぞれのモチーフはバラバラだけど、荒廃した雰囲気という点では共通しているように見えるかな。このシリーズは荒涼として寒々しい感じの作品が多く、カオスというよりは黙示録のようでエグザイルと根底は同じようにも思えます。


ということで、プラハの春という歴史的な事件を撮っただけでなく、孤独や流浪を感じさせる傑作を生み出した写真家となっています。現在も存命で、日本でも数年に1回くらい展覧会が開かれ、写美や東近美などにコレクションがあります。実際に観るとアートとしてだけでなく人道的な意味でも考えさせられるので、その背景を知った上でじっくり観たいアーティストです。


 参考記事:
  ジョセフ・クーデルカ展 感想前編(東京国立近代美術館)
  ジョセフ・クーデルカ展 感想後編(東京国立近代美術館)
  ジョセフ・クーデルカ 「プラハ1968」 (東京都写真美術館)


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《髙山辰雄》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、戦後画壇の最高峰として「日展三山」と称された髙山辰雄を取り上げます。髙山辰雄は若くから才能を発揮した画家で、東京美術学校の在学中に帝展に入賞し首席で卒業したほどでした。戦後はゴーギャンに傾倒し強い色彩の画風の時代もありましたが、やがて静かで深い精神性を湛えた画風へと変化し、生や死といった根源的なテーマを感じさせる作品を残しました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


髙山辰雄は大分県大分市に生まれ、1931年に東京美術学校の日本画科に入学しました。松岡映丘に師事して山本丘人らと共に研鑽を積み、在学中の1934年に第15回帝展に「湯泉」で帝展に初入選した上 首席で卒業しています。後の妻となる女性をモデルに描いた卒業制作の「砂丘」は東京美術学校が買い上げるなど、若くしてその才能が認められていました。卒業後は山本丘人や杉山寧らと新日本画の創作を目指す若き画家たちの一員として、制作に情熱を注いでいきます。戦時中は空襲で家を焼かれるなどして制作できない日々が続き、発表の機会にも恵まれず不遇だったようですが、戦後間もない頃には山本丘人の勧めで読んだゴーギャンの伝記に感銘を受け、1950年代はゴーギャンに影響を受けた鮮やかな色彩の時代と呼べる作品が残されています。日展で特選を重ね 抽象的な表現の風景画なども制作していくようになり、1960年代には杉山寧、東山魁夷とともに「日展三山」と呼ばれるほどの存在となっていきました。

残念ながら初期の作品の写真がありませんでしたが、先述の「湯泉」は日本画というよりは洋画のような色彩が特徴で、さらに戦後のくっきりとした色面の画風はゴーギャンの影響が感じられます。

髙山辰雄 「穹」
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こちらは1964年の作品。深い青の夜空に、大きな白い月が左上に浮かんでいる様子が描かれた作品です。よく観ると下の方には森や岩のようなものもあり、明るい月光が照らしています。月は表面の陰影までしっかり描かれていて、ここだけリアルで立体的な感じです。神秘的な光景の中に月が浮かび上がってくるように見えますね。

1960年には日本芸術院賞、1964年にはこの「穹」で芸術選奨文部大臣賞を受けています。戦後画壇の中心人物の1人と言って間違いない存在です。

髙山辰雄 「北国」
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こちらは1966年の作品。この絵の色彩は控えめで、かつての力強さとは異なり静かな印象を受けます。やや平面的な感じや画面構成なんかはゴーギャンぽさも残っているようにも思えるかな。北国とのことですが、どこかプリミティブな雰囲気です。

髙山辰雄は戦後まもない頃には子供向けの漫画も手がけていました。1951年には雑誌『保健同人』の表紙絵なども描いていて、幅広い仕事をしていたようです。

髙山辰雄 「池」
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こちらも1966年の作品。恐らく「北国」の関連作と考えられていて、画面の枠を反復する樹木を利用した構図に共通点があるようです。「北国」にはいない蹲る人の姿もあるので、推敲の様子も伺えますね。

髙山辰雄は本画以外にオイルパステルやフェルトペンでスケッチを描いていたようですが、本画の静謐さとはかなり印象のことなる強い色彩の作風となっています。

髙山辰雄 「机の上」
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こちらは1967年の作品。オイルパステルによるものですが、全く作風が異なっていますねw 静物っぽいですがぐにゃぐにゃして渦巻くように色彩が混じり虹色のような印象を受けます。画材の違いでここまで違うのかと驚きの作品です。

1970年代以降、髙山辰雄は数多くの人物像を描いていきました。代表作の多くに人物が描かれています。

髙山辰雄 「首」
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こちらは1970年の作品。フェルトペンで描かれていて、輪郭はしっかりしていますが色彩は派手で、点描のような塗り方となっています。先程の作風とも異なっていて、かなり前衛的な印象を受けるかな。髙山辰雄はスケッチや素描のほうが攻めてるのが面白いw

1973年には「日月星辰 髙山辰雄展」という個展を開催しています。そこでは六曲一双屏風の5部作など、自然と人間との関わりや人間の根源をみつめる作品を発表しました。

髙山辰雄 「ナス君」
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こちらも1970年の作品。墨とフェルトペンで描かれていて、輪郭が黒く強いのが先程の2点との違いかな。色彩はちょっとサイケデリックな感じもするけど、人物にはどっしりとした風格が感じられます。

先述の1973年の個展では「食べる」という赤褐色地に一心不乱に卓の上のご飯を食べる子供を描いた代表作も発表しています。私はこの絵が非常に好きで、静かな中に人間の生きる力強さを感じます。

髙山辰雄 「いだく」
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こちらは1977年の作品。子供を抱く女性と子供が特に幸せそうで、しみじみと静かにそれが伝わってくるように思えます。背景の色も抑えめなのが神秘的な雰囲気を増してますね。

この頃には点描による静謐で幻想的な画風となり、人間の生と死、人間の存在を問い、現代社会に生きる人間を描くという独自の画境を切り拓いていったようです。

髙山辰雄 「青衣の少女」
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こちらは1984年の作品。窓辺に横たわる緑がかった青い服の女性が描かれ、じっと指を見つめています。わきには赤い花がありますが決して派手さはなく落ち着いた色合いです。窓の外は暗く、夜の室内かな? 静かに物思いに耽るような表情が素晴らしく、精神性を感じさせます。

この5年後の1989年1月8日に平成の御代が始まったわけですが、翌年に天皇陛下の大饗の儀(だいきょうのぎ)の為に東山魁夷と髙山辰雄によって2点の屏風が制作されました。東山魁夷は「悠紀」、髙山辰雄は「主基」を担当した「悠紀・主基地方風俗歌屏風」で、いずれも大饗の儀の際に両陛下の御座の左右に飾られました。悠紀地方・主基地方というのは大嘗祭で神に供えるための新穀を献上する地域で、明治以降は悠紀地方は京都以東の斎田、主基地方は西の斎田が選ばれています。平成の際の主基地方は髙山辰雄の故郷の大分県が選ばれ、大分の景勝地や現代的なビルや工場をやや風化したような色彩で描きました。
 参考記事:両陛下と文化交流―日本美を伝える― (東京国立博物館 本館)

その後も髙山辰雄は活躍を続け、1990年代後半以降は色彩を抑えて輪郭が背後の空間に溶け込むような幽玄な雰囲気の作風へとなっていきました。2006年の日展では94歳の自画像を出品しましたが、その翌年の2007年に亡くなりました。


ということで、戦後の日本画壇にとって重要な人物となっています。心に染み入るような画風が特徴で、私は特に1960年代以降の作風が好みです。様々な展示で観る機会もあると思いますので、覚えておきたい画家の1人です。

 参考記事:人間・髙山辰雄展――森羅万象への道 (世田谷美術館)



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《エミリオ・グレコ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、イタリアを代表する現代具象彫刻家のエミリオ・グレコを取り上げます。エミリオ・グレコは元々は石工の見習いでしたが彫刻家となり戦後に具象的なモチーフで名を馳せました。すらりとした優美な女性像が多く、日本でも1960年代以降に名が広まり、特に1971年の大規模な個展によってコレクションする美術館が増えました。その為 各地の美術館やパブリックアートとして目にする機会の多い彫刻家となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


エミリオ・グレコは1913年にイタリアのシチリア島カターニャに生まれました。当初は石工の見習いとして古代彫刻の摸刻・修復や墓碑の制作に従事していたようですが、彫刻家を志すようになり1940年(27歳頃)からパレルモの美術学校で学びました。1943年から作品の発表もしていたものの、本格的な制作は第二次大戦後で、1946年になってローマのガレリア・デラ・コメータで最初の個展を開催し成功をおさめました。1956年にはヴェネツィア・ビエンナーレで彫刻大賞を受賞しヴゥネツッア市賞も受賞するなど当地での評価を高め、1961年にはフランス国立ロダン美術館や日本で個展を開催し、日本でもその名が知られるようになりました。

エミリオ・グレコ 「水浴の女」
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こちらは1964年の作品。エミリオ・グレコは流麗な線を特徴とする女性像をよく手掛けていて、この作品は特にその特徴が伝わってくるかな。伸びやかでちょっと腰をくねる仕草が動きを感じさせます。

この年には代表作のオルヴィエート大聖堂正面扉浮彫を手掛けています。実際に観たことはありませんが、イタリアを代表するゴシック建築の教会に3年かけて制作しただけに非常に重要な作品と思われます。

エミリオ・グレコ 「水浴びする女 No.6」
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こちらは製作年不明の作品。さっきの作品と全く同じに観えますが、ステートの違いでしょうかw エミリオ・グレコの作品は室内よりも屋外に展示するほうが映えるように思えます。まるで水浴びから出てきたような臨場感がありますね。

1965~67年にはサン・ピエトロ寺院のヨハネス23世のための記念碑も手掛けるなど、この頃には既に最高峰の評価となっていたようです。

エミリオ・グレコ 「ゆあみ(大)」
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こちらは1968年の作品。先程の2点と何が違うのか高度な間違い探しみたいになってますが連作のようです。 こちらの像は台座の上にあるので仰ぎ見るような感じの視点となっていて、一層にプロポーションが強調されて観えます。

エミリオ・グレコの作品は日本各地の美術館の庭やパブリックアートのような形で展示されているので、見かけることもあると思います。1971年に日本でも大規模な個展がありそれ以降に各美術館でもコレクションに加わったようです。

エミリオ・グレコ 「パトリシア・パターソン」
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こちらは1966年の作品。名前で検索してもこの作品が出てくるだけなのでモデルがどんな女性か分かりませんが、頬杖ついて目を閉じているように観えます。西洋絵画の伝統のメランコリーを思わせるポーズで、やや物憂げに見えるかな。何か思案しているようにも思えます。

今回、写真がありませんでしたがエミリオ・グレコは版画も多く手掛けています。版画においても伸びやかな線とコントラストが特徴となっていて、彫刻に通じるものがあります。

エミリオ・グレコ 「アンナ・テイト」
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こちらは1967年の作品。この女性も詳細は分かりませんが、先程の女性と似たポーズとなっています。しかし表情は微笑むような顔となっているのでこの女性のほうが親密で優しく感じられるかなw 頭がやや長めで気品がありますね。

エミリオ・グレコはペリクレ・ファッツィーニと並んで、イタリアの現代具象彫刻を代表する作家とされています。ペリクレ・ファッツィーニの作品は日本で観たことないかも。戦後のイタリア具象彫刻家には他にジャコモ・マンズーなどもいます。

エミリオ・グレコ 「エイコ」
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こちらは1968年の作品。モデルは日本人彫刻家の新谷英子 氏で、兄の琇紀 氏がグレコに学んでいたことから、アメリカ留学の帰途、ローマに寄ってグレコと知り合ったようです。この髪のボリューム感がしなやかな感じですね。

エミリオ・グレコには日本人の弟子もいて、先述の新谷琇紀 氏や緒方良信 氏などが師事しました。

エミリオ・グレコ 「腰かける女」
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こちらは1969年の作品。身をくねらせて腰掛ける様子が優美で、ブロンズなのに柔らかい雰囲気となっています。こちらも しなやかさが見事です。

1968年にはローマ美術学校の教授に就任しています。

エミリオ・グレコ 「腰掛ける女 No.2」
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こちらは年代不明の作品で、先程の作品とよく似ている連作です。グレコの作品は見る角度によって印象が変わるのも特徴で、こちらは特に様々な視点から観たい作品だと思います。腰のひねりもエミリオ・グレコによくある表現かも。

1991年にはイタリア中部ウンブリア州のオルヴィエートにエミリオ・グレコ美術館、1994年には出身地のシチリア島のカターニャにエミリオ・グレコ美術館が開館しています。

エミリオ・グレコ 「うずくまる女 No.4」
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こちらは年代不明の作品。やや不自然なくらいに首を横にしていますが、眠るような顔つきで静かな印象です。肉付きが艷やかな雰囲気を出しているようにも思えるかな。


ということで、有名な割に調べてもあまり詳細が出てこないのが不思議なくらいですが、日本各地の美術館で目にすることが出来る彫刻家です。関東だと箱根彫刻の森美術館や白金台の松岡美術館などで常設されています。実際に観るとまた印象が違うと思うので、見かけることがあったら是非じっくりと視点を変えて観てみてください。



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《田中敦子》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1950年代半ば以降に原色の円と有機的な線を組み合わせた作品を多く残した田中敦子を取り上げます。田中敦子は「具体美術協会」の主要なメンバーの1人として活躍し、電飾を身にまとう「電気服」を制作しました。そしてそれを絵画化するようになると、生涯に渡って同じテーマに取り組み続けました。アンフォルメルの日本的な展開として世界的に評価が高く、MoMAを始めとする有力な美術館にコレクションされているアーティストです。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


田中敦子は1932年に大阪で生まれました。幼少期の詳細は不明ですが1951に京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)に入学し、その年のうちに中退しています。中退後は大阪市立美術館付設美術研究所で学び、そこで出会った金山明や白髪一雄、村上三郎らと共に1952年に「0会」結成しました。
 参考記事:《白髪一雄》 作者別紹介

1953年に入院することになると、その退院を待つうちに数字を絵画にしたことをきっかけにコラージュを使用した「カレンダー」や数字の羅列の「作品」といった数字をテーマにした作風となりました。1955年には「0会(ゼロ会)」の仲間とともに、吉原治良率いる「具体美術協会」に参加し、1956年の第2回具体美術展でついたり消えたりする数百の色電球とコードでできた「電気服」を発表しました。そして「電気服」のためのドローイングが田中敦子を代表する作風へと進化していくことになります。

田中敦子 「Peinture」
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こちらは1962年の作品。円や無数の線が描かれカラフルな画面になっているのが特徴で、これは先程の「電気服」から着想を得た電球とコードが絡み合う様子が描かれたものだと思われます。最初に観た時は何かの野菜かフルーツかと思いました…w 具象と抽象の両面が感じられます。

戦後にジャン・フォートリエやデュビュッフェ、ヴォルスといった画家の作品を批評家のミシェル・タピエは「アンフォルメル(不定形)」と名付けたわけですが、そのタピエが1957年に来日した際に「自由な精神を具体的に提示」しようとした具体美術協会は日本におけるアンフォルメルの展開であると位置づけ、国際的に紹介されました。田中敦子や白髪一雄が海外でも評価が高いのはそうした経緯が関係ありそうです。

田中敦子 「無題」
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こちらは1965年の作品。赤、朱、オレンジ、青、黄色などの円が沢山描かれた作品で、さらにそこから沢山の線が流れ落ちるように描かれています。実際に近くでよく観ると盛り上がっているところもあり勢いを感じさせます。色の取り合わせが強烈で、どこか花束を連想させるかな。

この年に田中敦子は具体美術協会を退会しています。(具体美術協会 自体も1972年に吉原治良が亡くなり、その年のうちに解散しています)

田中敦子 「作品 66 - SA」
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こちらは1966年の作品。モチーフは同じだけど、一層に色が強烈でコードの絡み具合が激しくなってるようなw これも飛び散るような勢いがあり、1本1本の線に存在感があります。色が引き立つような配置になっているのかも。

田中敦子の作品には油絵具ではなく元なめらかな表面が出来上がる合成系の樹脂が使われていて、それも画風の特徴となっています。割と製作年がそのままタイトルに入っているのも共通してるかも。(アルファベットの意味は分かりませんが…)

田中敦子 「作品 67E」
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こちらは1967年の作品。円が小さくなった分 多くなっていて、並び方も比較的規則正しく感じられるかな。原色の強さは変わらないけど整然とした印象を受けます。

田中敦子の作品はMoMAをはじめ海外の名だたる美術館のコレクションに入っていて、海外での評価が高いアーティストです。「電気服」の再現なども何度か行われていて、電気服については制作当時に着た田中敦子は「一瞬死刑囚ならこんな気持ちだろうと思いがかすめた」という言葉を残しています。 電気がショートしたら電気椅子と同じですからね…w

田中敦子 「作品 79X」
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こちらは1979年の作品。これは私の知っている田中敦子の作品の中でも特に円が多いかなw 先程の作品よりもぐちゃぐちゃと入り組んでカオスな雰囲気に思えます。

東京国立近代美術館で行われた1961年の「現代美術の実験」や1973年の「戦後日本美術の展開―抽象表現の多様化」にも参加し、国内でも当時から注目されていたようです。

田中敦子 「1985 B」
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こちらは1985年の作品。この絵は円がかなり巨大になって同心円状に様々な色の輪が重なっています。モチーフや画風は大きく変わったわけではありませんが、表現の違いで受ける印象も変わりますね。

その後も1993年の第45回ヴェネチア・ビエンナーレへの参加を始め海外で個展を開催したり、1998年にドキュメンタリー映画『田中敦子 もうひとつの具体』(監督:岡部あおみ)が制作されるなど活躍を続けましたが、2005年に亡くなりました。


ということで、電気服を絵画化した作品が特に有名な作風となっています。海外の美術館でも目にすることがあり、関東では東京国立近代美術館や横浜美術館などにコレクションがあります。今後も改めて注目される機会もあると思うので覚えておきたいアーティストだと思います。






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《ジャスパー・ジョーンズ》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1950年代末から現代にかけて活躍するジャスパー・ジョーンズを取り上げます。ジャスパー・ジョーンズはネオ・ダダやポップアートの代表的なアーティストで、旗・標的・地図・数字といった2次元のモチーフを絵画にしたシリーズが特に有名です。日本とも関係が深く、日本の本から着想を得た「薄雪」シリーズなどを手掛けています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


ジャスパー・ジョーンズは1930年にアメリカのジョージア州で生まれ、幼少期に両親が離婚したため祖父母や叔母の元で育ちました。特に芸術的な環境ではなかったようですが、サウスカロライナ大学で2年ほど学んだ後に1949年にニューヨークに映るとパーソンズ美術大学へ入学しています。その後、1952年~1954年頃まで兵役につき、朝鮮戦争の期間には仙台にも駐留していたようです。兵役を終えるとロバート・ラウシェンバーグと出会い親交を深め、マース・カニンガム(ダンサーで振付師)とジョン・ケージ(作曲家)から影響を受けて彼らと共に制作を始めます。そして1958年に初個展を開催し、名前が広まって行きました。

ジャスパー・ジョーンズ 「Figure 5」
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こちらは1960年の作品。ネオ・ダダやポップアートのイメージのあるジャスパー・ジョーンズですが、初期はこうした抽象画を手掛けていたのが意外です。ちょっと意図は分かりませんが、円形を白黒に塗って幾何学的な要素を感じます。

かつて既製品を用いた「レディ・メイド」などで美術界を騒然とさせたマルセル・デュシャンは1915年に渡米し、ニューヨーク・ダダの中心的な存在として活動しました。若い作家と直接接触する機会は稀だったようですが、その精神は抽象表現主義に続く表現を模索する作家たちを鼓舞しました。彼らは抽象表現主義の画家たちはあまりにも真剣で悲壮感すら帯びたが、美術はもっと楽観的で日常や生活と関わるべきではないかと疑問を抱いていました。そしてジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグは卑俗な物体やイメージを作品に取り込んで新しい表現を模索していきます。

ジャスパー・ジョーンズ 「スクリーン・ピース」
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こちらは1972年の作品。日用品や廃品などを用いて芸術の垣根を壊したレディメイドの流れを感じます。「Fork should be」の後の文字が何だか分かりませんが、この意味の分からなさがダダっぽいかもw

ジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグはダダイスムの焼き直しという批判を込めて「ネオ・ダダ」と揶揄されましたが、芸術と生活を等価と見なす態度は後続の美術に決定的な影響を与えました。

ジャスパー・ジョーンズ 「フラッグII」
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こちらは1973年の作品。ジャスパー・ジョーンズと言えばアメリカの旗をモチーフにした作品が真っ先に思い浮かび、これはシルクスクリーンによるものですが、鉛で出来た旗の代表作を想起します。星のようなものがうっすら見えるのでアメリカの国旗かも?? 死を連想させ ちょっと皮肉も効いているようにも思えます。

ジャスパー・ジョーンズは1954年に最初の星条旗をモティーフにした作品の制作を始めたそうで、完成した旗の絵は彼をポップアートの偉大な先駆者として認知させると共に、20世紀で最も重要な美術品の1つとなっています。

ジャスパー・ジョーンズ 「標的」
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こちらは1974年の作品で、ジャスパー・ジョーンズの代表作のシルクスクリーン版。絵というよりは記号のようなものを好んで「描いた」あたりにポップアートの先駆者らしさを感じます。色鮮やかで抽象絵画っぽさもあるのが面白い。

ジャスパー・ジョーンズは1950年代の抽象表現主義が抽象的な色彩と形態で絵のイリュージョン(幻影)の代わりとしたのに対して、もともと2次元のイメージを選び絵画からイリュージョンを取り除こうとしました。旗、標的、地図など2次元のモチーフが多いのはそのせいでしょうね。

ジャスパー・ジョーンズ 「うすゆき」
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こちらは1979~81年頃の作品。「Usuyuki」と呼ばれるシリーズの1つで、謎の線がどことなく有機的で生物的な印象を受けます。離れて観ると色がちょっと薄くなっていて風化したような感じに観えます。

ジャスパー・ジョーンズはコレクターのジョン・パワーズ氏に日本の本を勧められたそうで、その中に「うす雪」という言葉があり、この名前が使われたそうです。歌舞伎の『新薄雪物語』という演目がその言葉の由来とされます。

赤丸辺りを拡大するとこんな感じ。
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新聞紙のようなものを張り合わせて、そこに色を塗っています。ジャスパー・ジョーンズはハッチング(陰影をつけるために用いる手法)を並べた作品を一時期よく描いていたらしく、この作品では上から白が薄っすらと塗られていて、確かに薄く積もった雪を思わせます。

1960年以降はワークス・オン・ペーパー(紙を支持体とする作品)の制作にも精力的に取り組んでいます。

ジャスパー・ジョーンズ 「うすゆき」
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こちらは1982年の作品。こちらも先程と似た画風ですが、一層にカラフルな印象を受けます

ジャスパー・ジョーンズはジョン・ケージとの交友を通して日本文化への関心を深めていたようで、1960~70年代には東京に短期間スタジオを構えたこともあるようです。2000年代に入っても薄雪シリーズはつくられていて、日本を題材にするなんて親近感も湧きますね。


ということで、ネオ・ダダやポップアートの旗手といて稀代のアーティストと言えると思います。ちょっと撮影できた作品が少なかったので紹介しきれてない感があり申し訳ないw 現在も存命で ポップアート関連の展覧会でよく作品を目にし、関東では横浜美術館などが数点コレクションがあるので是非覚えておきたい重要人物です。


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《白髪一雄》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1960年前後からロープに掴まって足で床においたキャンバス等に直接描く「フット・ペインティング」で名を馳せた白髪一雄を取り上げます。白髪一雄は始めは日本画を学びましたが1955年に「具体美術協会」に参加し実験的な作風を模索していきました。そして「フット・ペインティング」を考案し、波打つような大迫力の抽象大型作品を制作しました。自身のルーツを表すように血を思わせる作風や水滸伝をテーマにしたシリーズを経て、やがて仏教への関心を深め制作方法にもスキージを用いるようになっていきました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


白髪一雄は1924年に兵庫に生まれ幼少期より書画骨董、チャンバラ映画や芝居、浮世絵版画や中国の怪異小説(特に水滸伝)などに親しんでいました。尼崎の旧制中学に在学中に絵画部に入り、本格的に絵を学ぶために京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)に進学して日本画を学びました。しかし美術専門学校を出てから油彩画に転向し、初期は具象が残っているものの既に大胆な表現となっていて、色も明るく塗り方も荒い感じの画風でした。キュビスムを取り入れた作品などもあり 画風は安定せず、模索の時代となります。そして1952年に金山明・村上三郎・田中敦子らと先鋭的な表現をめざして「0会(ゼロ会)」を結成し、1953年~54年辺りから手を使って制作するようになり、更に素足で描く「フット・ペインティング」を創始していきました。(当時はキャンバスではなく紙に描いていたようです)


白髪一雄 「天異星赤髪鬼」
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こちらは1959年の作品。とにかく赤黒く染まった画面がおどろおどろしい程のインパクトです。赤髪鬼というタイトルも納得ですが、むしろ血みどろの事件現場みたいな…w 

白髪一雄は1955年に「0会(ゼロ会)」の仲間とともに、吉原治良率いる「具体美術協会」に参加し、実験的な作品やパフォーマンスを発表していきました。1956年あたりは野外作品なども手掛けていたようです。

白髪一雄 「地暴星喪門神」
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こちらは1961年の作品で水滸伝の豪傑のあだ名を作品名にしたもの。天○星とか地○星というあだ名で108人いるうちの1人です。 何だか馬が跳ねるような感じに見えるかな。具象的ではないけど躍動感があるのが面白い。

白髪一雄は少年時代に地元の尼崎のだんじり祭で山車と山車が衝突による流血の情景を目にしたことがあるらしく、それが白髪一雄の原風景となり後に血のイメージを意識した作品に繋がっていったようです。先程の絵などは少年時代のトラウマ炸裂と言った所でしょうか。

白髪一雄 「天慧星拚命三郎(水滸伝豪傑の内)」
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こちらは1964年の作品。やはり水滸伝の豪傑の名前をつけていて、赤や黒の多い画面が戦いや血を思わせるような色彩となっています。白髪一雄の作品は近づいて観ると凹凸が深く、足で塗った痕跡やその動きが生々しく残っているのが特徴となります。

水滸伝のシリーズ以外に、1961年頃からイノシシの毛皮をキャンバスの上に張り、その上から赤と黒の絵の具を塗りたくった血を連想させる一連の作品を制作していて、当時 猟友会に入っていたそうです。そしてその時に観た石仏・石塔・梵字などに強く惹かれ、密教への関心を深めていきました。

白髪一雄 「色絵」
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こちらは1966年の作品。見事に半円形が描かれていて、勢いは変わりませんが流れに方向性が出たように思えます。色彩についても確かに色絵の陶器を思わせるような感じかな。以前より明るくなったように思えます。

1965年からスキージを用いる制作が始まり、スキージをコンパスのように用いて扇形や半円をモチーフにした作品を制作していきました。こちらもスキージを使ってると思われます。

白髪一雄 「梁山泊」
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こちらは1967年の作品。やはり赤が目を引きますが、以前より黒っぽさが減って黄色が多くなったせいか生き生きとして一層に力強い印象を受けます。大半は足で描いたと思われますが、ところどころに扇状の部分があるのでそこはスキージを使ったんでしょうね。色のバランスが良いので白髪一雄の作品の中でも特に好みです。

猟友会の活動の際に観た梵字などから1960年代頃から密教への関心を深め、1971年には比叡山延暦寺で得度して天台宗の僧侶(法名は白髪素道)にまでなっています。

白髪一雄 「観音普陀落浄土」
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こちらは1972年の作品。前年に得度したこともありタイトルも仏教っぽくなりました。普陀落(補陀落)は観音菩薩が降り立つ山のことで、赤地の中にある青が滝の流れのようにも見えます。同じ色が連なるのはスキージを使っているのかな。抽象なんだけど具象にも見えるのが面白い。

この頃は密教の教えを取り入れたような大型作品を制作していて、タイトルも密教の仏の名前がついていたりします。

白髪一雄 「曲流」
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こちらは1973年の作品。打って変わって色数は少なめでモノクロとなっていますが、川の水が砕け散るようなダイナミックな画面となっています。まさに曲がりくねった川の流れってイメージです。

この前年の1972年に具体美術協会の吉原治良が亡くなり、その年のうちに具体美術協会は解散しています。

白髪一雄 「貫流」
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こちらも1973年の作品。やはり白黒で流水や山水を思わせるかな。前年までの赤っぽい色合いから一気にモノクロの水墨的な印象を受ける色彩に変わったように思えます。

仏道修行の後、スキージで円相を多く描いていましたが、動きに乏しい円の反復で制作は停滞したようで 1978年に久しぶりに足だけで描くフット・ペインティングと回帰したようです。そして仏教的なタイトルは減っていき、代わりに中国史などにまつわるタイトルが増えていきました。

白髪一雄 「游墨 壱」
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こちらは1989年の作品。黒一色なので墨跡のようで日本っぽさを感じるかな。モノクロの作品も新しい境地のように思えます。

1984~90年代なかばになると黒・白黒・白のみの作品が制作されました。初期のフット・ペインティングとは画法は似ていても色彩がだいぶ違って見えます。

白髪一雄 「酔獅子」
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こちらは1999年の作品。たしかに獅子が下向きで身構えているようにも見えるかもw 足だけで描いた作品はスキージに比べると有機的で無秩序な動きで、炸裂するような勢いを感じさせますね。

1990年代には黄色・オレンジ・ピンクなど明るい色彩が以前よりも頻繁に使用されるようになりました。

白髪一雄 「うすさま」
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こちらも1999年の作品。青やオレンジ、ピンクなどこれまで観なかった明るい色彩が特徴です。色というのは不思議なもので、これは何となく温かみを感じます。 タイトルは恐らく烏枢沙摩明王のことで、ちょっと仏教要素が復活したのかな。


70歳を超えて晩年までフット・ペインティングで制作し、2000年代に入ると海外の美術館やアートマーケットで具体の評価が高まり特に人気のある画家となりました。2001年には地元の兵庫で個展なども開かれましたが2008年に84歳で亡くなりました。


ということで、非常に動的で大胆な画風となっているので覚えやすいと思います。大型作品が多く、近くで見ると写真では分からないような凹凸もあるので是非実際に目にして欲しい画家です。横浜美術館などに常設コレクションがあります。

 参考記事:白髪一雄 (東京オペラシティアートギャラリー)





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《アンディ・ウォーホル》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、1960年代以降のアメリカンポップアートの代表的な作家であるアンディ・ウォーホルを取り上げます。アンディ・ウォーホルは元々は商業デザイナーで成功を収めていましたが、やがて絵画の世界でも認められました。さらに絵画という枠から飛び出し、立体作品、写真、映画など様々な媒体で大量生産・大量消費の時代を象徴する作品を制作し、ポップアートの寵児として注目を集めていきました。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。

アンディ・ウォーホルは1928年にピッツバーグに生まれ、両親はスロヴァキアからの移民でした。その為、東方典礼カトリック教会の信者でありその信仰は後の作品でも伺い知ることができます。アンディ・ウォーホルは幼い頃は自分の容姿にコンプレックスを持っていて 体も弱く内向的だったそうですが、家族からは愛されていたようで、子供時代の写真などが多く残されています。少年時代はアートを学び、1949年に故郷のカーネギー工科大学の絵画デザイン学科を卒業すると、ニューヨークに移住しそこでファッション誌「グラマー」や「ヴォーグ」のイラストや様々な商品の広告を手がけて成功を収め、アートディレクターズクラブ賞など数多くの賞を受賞しました。婦人誌の広告のためのイラストシリーズなどドローイングでウォーホルが多用したのはブロッテド・ライン(シミつきの線)と呼ばれる技法で、ペンで紙にイメージを描き、それに別の紙を押し当ててインクを転写する方法でした。これはインクのにじみで独特の線描を可能とし、アンディ・ウォーホルのトレードマーク的な描法となると共に、反復や転写による複製生産を可能にしたという点で、ウォーホルの制作の原点とも言えます。ニューヨークの画廊で発表する機会にも恵まれ、次の時代へと繋がっていきます。

アンディ・ウォーホルは1950年末から60年代はじめにかけて絵画制作に打ち込み、アーティストとして独自の表現を模索していきました。初期は荒々しい筆跡を残す絵画など試行錯誤していたようですが、一方で同時代に誕生したポップアートに同調し、コカ・コーラやテレビなどの商品や広告を主体とした作品を制作し始めました。そして1962年にキャンベル・スープ缶の絵画32点を出品した個展を開催し、これが画家としての実質デビューとなります。これらの主題は大量生産やメディアを通じた商品の広告、大衆の消費という当時のアメリカ社会が反映されたもので、時代に則したものと言えそうです。また、同年に写真をシルクスクリーンでカンヴァスに転写する技法を使い、新聞や雑誌などの既存のイメージや他者の写真を使った作品も制作し始めます。「ファクトリー」と称した自身のスタジオでカンヴァスにプリントを施していたらしく、「機械になりたい」といって同一のイメージを連続反復させアシスタントを雇って対策やシリーズ作品も作られていきました。

アンディ・ウォーホル 「Ten Lizes」
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こちらは1963年の作品。リズは女優のエリザベス・テーラーのことで、シルクスクリーンの転写で繰り返し描いています。これがアンディ・ウォーホルの特徴の1つで、繰り返すことで一種の記号のようになっていき当初の意味が失われていくように感じます。よく観ると微妙に違うので高度な間違い探しみたいになってますがw

似た手法でエルビス・プレスリーやマリリンモンローのスター、ケネディ大統領夫人のジャッキーなど多くの肖像を手掛けました。また、自殺や自動車事故を主題とした「死と惨事」シリーズでは死んだ胎児を逆さ吊りにしている医師の写真が反復している作品や、自殺の写真、人種暴動の写真、電気椅子の写真などの反復作品があり、悪趣味にも思えますがこれは覗き趣味的反応と暴力に対する鈍感さを表現しているようで、転写はどんどんぼやけて曖昧になっていく作り担っています。他にも最も多く作られた「花」シリーズなどを制作し、シルクスクリーンによってポップアーティストとしての地位を不動にしていきました。しかし、1966年のニューヨークの画廊での展覧会では「牛の壁紙」と「銀の雲」を発表して新たな展開を見せ、やがて絵画への興味を失っていきました。

アンディ・ウォーホル 「マリリン・モンロー(マリリン)」のポスター
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こちらは1967年の作品。アンディ・ウォーホルはよくマリリン・モンローのイメージを使っていて、これもその1つです。マリリン・モンローは1962年に自殺(とされる)に衝撃を受けたウォーホルが彼女を描いた作品を量産しました。同じ絵でも色違いの絵があり、映画「ナイアガラ」のスチール写真を元にシルクスクリーンで複製し、顔の色をそれぞれピンクや緑など明るい色合いにしています。マリリン・モンローはメディアで大量消費される存在であったので、それを意図しているのかな。これぞアメリカン・ポップアートといった感じの作品です。

アンディ・ウォーホルのニューヨークのスタジオは「ファクトリー」と呼ばれ、複数のアシスタントによって工場のように絵画や彫刻の制作が行われていました。同時にファクトリーは美術関係者、ミュージシャン、詩人、俳優、ダンサー等が集まる交流の場であり、彼らを被写体にした実験的映画が多数制作・上映されていたそうです。中でも1963年から68年にかけてのスタジオは内部が銀色で装飾されたため「シルバー・ファクトリー」と呼ばれ、1963年に出会ったビリー・ネームによって発案され、彼自身もここに住んでウォーホルの制作風景や訪問者を写真に収めていったそうです。

アンディ・ウォーホル 「キース・ヘリングとジュリアン」
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こちらは撮影年不詳の作品。画家のキース・ヘリングがパートナーと写っている写真で、当時は同性愛への偏見も強かったのでそれに反撥するような意味もあるのかも。年代がはっきりしないので定かではありませんが、ファクトリーなどで多くの芸術家と交流していたのが伺える作品の1つです。ウォーホルは他にもバスキアやジョセフ・コーネルなど幅広いアーティストと交流していました。日本の草間彌生もウォーホルに激賞されています。
 参考記事:《草間彌生》  作者別紹介

アンディ・ウォーホルは映画にも打ち込んでいて、1963年に16mmフィルムのカメラを入手し、60年代後半までに無数の実験的な映画を作りました。最初の作品はジョン・ジョルノという人物が眠る姿を撮影した「スリープ」で、初期の映画ではカメラを固定し無音で1秒24コマで撮影したものを1秒16コマでゆっくり上映していたそうです。その代表である「エンパイア」では夕暮れから深夜までのエンパイアステートビルを定点観測し、8時間の長さで上映するなど時間の概念を弄んだようです。 また。1963~66年にはファクトリーに訪れた人を撮影した作品を数百本も作り、1960年代中盤にはストーリーの無いセミドキュメンタリーなどを撮っていました。 1965年からはしばらく映画に集中して「画家は廃業」とまで言って打ち込んでいたほどです。そして1965年にはヴィデオも入手し、実験的なビデオ作品にも着手しています。

アンディ・ウォーホル 「フラッシュ」
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こちらは1968年の作品。これらのモチーフはケネディ大統領暗殺を伝える報道記事で、銃とかオズワルドらしき人物が見えるかな。今は解説されないと誰が誰か分からない世代になっていますが、当時は誰もが知っている出来事で、悲劇も繰り返し報道されると何も感じなくなっていくというのを表していると思われます。悲喜が交錯しつつも反復によって意味が曖昧になっているような感じですね。

アンディ・ウォーホルは1972年のニクソン大統領による中国訪問の頃までには本格的に美術制作を再開し、シルクスクリーンによる毛沢東の肖像シリーズを制作していた様子はビデオ作品の「ファクトリー日記」にも写されているようです。その後、ウォーホルはスタジオを移転しましたが、そこはファクトリーではなくオフィスと呼び、ウォーホルはビジネスアートの時代が来ると言って、実際に70年代はビジネスアートの幕開けとなっていきました。また、1970~71年にかけて大回顧展が欧米の権威ある美術館を巡回するなど、ウォーホルは世界的な名声を得ていき、より広範囲な活動を行うようになっていきました。「アンディ・ウォーホル 僕の哲学」の出版や、80年代に放送されたTVCMの出演、政治的/絶滅動物/社会問題をテーマに描いた作品など様々です。抽象的なイメージに興味を持って作られた「カモフラージュ」では抽象的でありつつもすぐそれと分かり多様なものを連想させるそうで、他にもロールシャッハと呼んでいた抽象的な絵画シリーズも手がけました。

アンディ・ウォーホル 「200個のキャンベル・スープ缶」のポスター
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こちらは制作年不明の作品’。ウォーホルのもう1つの代名詞はこのキャンベル・スープ缶ではないでしょうか。この作品ではスープの缶詰が横20個×縦10個(合計200個)並んでいる様子が描かれ、いずれも赤と白の缶で同じように見えますが、味が何種類かありますw 同じ商品を連続して規則的に並べ、1枚の画面を埋め尽くすという技法を初めて使ったこの作品は、最も重要な作品の1つとして挙げられています。。よくよく観ると微妙に色なども違って見えるのですが、これは1つ1つ実際に描いていたためのようで、これ以降の作品では容易に複製できるシルクスクリーンを使うようになったようです。ぎっしり並べられると結構なボリューム感というか圧迫感があるかなw 規則正しく整然とした感じもあり、ただの缶なのに非常にインパクトがある作品です。

アンディ・ウォーホルは1968年に彼の映画にも出演したことがあるフェミニズムの活動家ヴァレリー・ソラナスに銃撃され、瀕死の重傷を負いました(理由はよく分からないのですが、ちょっとぶっ飛んだ思想の人のようです。この人を題材にした映画もあるので、それを見たら分かるのかも??) この事件でウォーホルは心身ともに大きな衝撃を受け、制作から遠のくのではないかと噂されましたが、そうはならず活動の方向転換にとどまったようです。 そして今度は監督ではなくプロデューサーとして映画製作を続け、1969年に雑誌「インタビュー」を創刊しました。「インタビュー」の初期はアンダーグラウンド映画を取り扱っていたようですが、後に有名人へのインタビューを中心にポップカルチャーを題材にしていくこととなりました。

アンディ・ウォーホル 「キャンベルズ トマトスープ」
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こちらは1981年の作品で、野原に現れた巨大なトマトスープの缶です。 これは高さ3m、直径2mもあり同年にコロラド州立大学で行われたアンディ・ウォーホル展で学生との共同で制作されました。キャンベル缶をモチーフにした作品の中では最も大きく、アンディ・ウォーホルのサインも入っています。(世界に3つしかないそうですが、これは伊香保のハラミュージアムアークにあります) こういう大量消費の品をアートにした功績が一目で分かるのが面白い。晩年の貴重な作品です。

40代以上の方はアンディ・ウォーホルが日本のTDKのCMをやっていたのをご存知かも? 当時の日本は好景気だったこともあり日本との関係も深く、著書「アンディ・ウォーホル 僕の哲学」やヤマモトカンサイのニューヨークのファッションショーの映像、日本での展示のために作られた菊をモチーフにした作品、葛飾北斎の神奈川沖浪裏をモチーフにした作品、ジェームズ・ディーンの「理由なき反抗」の日本語版のポスターを絵で描いたものなどもあります。


ということで、写真が少ないので文字多めになってしまいましたが、今でも大人気のアーティストとなっています。昨年には京都で展示もあったようだし、定期的に個展が開かれるように思います。アンディ・ウォーホルからアートに興味を持つ人も多いようなので、詳しく知っておきたい重要人物です。

 参考記事:
  アンディ・ウォーホル展:永遠の15分 感想前編(森美術館)
  アンディ・ウォーホル展:永遠の15分 感想後編(森美術館)


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