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《ヴァシリー・カンディンスキー》 作者別紹介

今日は作者別紹介で、ロシア出身で抽象絵画の創始者の1人とされるヴァシリー・カンディンスキー (ワシリー・カンディンスキー)を取り上げます。カンディンスキーはモネの「積み藁」を観て抽象絵画に通じる理論を見出し、前衛芸術集団の「青騎士」を結成して色鮮やかな画風でそれを実践しました。一時期はソ連に帰り教育などに携わっていましたが、1920年代にはドイツのバウハウスで教職に就きながら幾何学的かつ音楽的な抽象画を制作していきました。晩年はナチスの「退廃芸術」迫害によって不遇を囲ったものの、現在では名誉を回復し絵画史における重要な画家となっています。今日も過去の展示で撮った写真とともにご紹介していこうと思います。


カンディンスキーは1866年に生まれ、故郷のオデッサの美術大学に進んだものの、1886年から1892年までモスクワ大学で法律と経済を学んでタルトゥ大学で教授職に就いていました。しかし美術の道を再び目指し、職を捨てて1896年にモスクワからドイツのミュンヘンに出ていきました。その頃のミュンヘンではフランツ・フォン・レンバッハが絶大な影響力を持っていて、それに対抗したのが「ミュンヘン分離派」です。カンディンスキーはそのメンバーのフランツ・フォン・シュトゥックに師事して絵を学んで行きます。しかしアカデミックな修行に飽き足らず、仲間と共に「ファーランクス」という芸術家集団を結成しました。ファーランクスは美術学校も設立し、カンディンスキーはそこで絵を教えていました。その生徒の中には、後の妻になるガブリエーレ・ミュンターも入学してきて、次第に緊密な関係となっていったようです。しかし、カンディンスキーはその時点で既婚者で、宗教上 離婚できないという状況でした。そんな追い詰められたカンディンスキーがとった行動はミュンターと一緒に長い旅に出ることでした。(要するに不倫の逃避行ですねw) オランダ、チュニジア、イタリア、フランス、ドイツと巡り、各地で制作していたようです。

ヴァシリー・カンディンスキー 「商人たちの到着」の複製コピー
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こちらは1905年の作品。まだこの頃は具象的な絵を描いていますが既に簡略化や点描・色面のような表現となっています。一方で素朴な雰囲気も感じられるかな。この頃にはカンディンスキーは絵は単に美しい風景や人物を描くものとは別のものではないかと考えていたようで、どちらかというと色彩に対する考えを表現するためにこうした風景を選んだようです。色彩について本人は「黒にくらべれば、他のどんな色も、最も弱い響きしかもっていない色でさえも、ずっと強く、はるかに明確な響きをもっている」と言って下地に黒を使ったのだとか。

この頃カンディンスキーはテンペラやグアッシュで作品を制作し、様々な大きさの色の斑点で描かれた「彩色ドローイング」と呼ばれる作品を残しています。また、カンディンスキーとミュンターは長い旅行の後、ミュンヘンから70kmくらいのところにある湖畔の町「ムルナウ」を見つけ、そこを旧知のヤウレンスキーとマリアンネ・フォン・ヴェレフキン(この2人もカップル)に教えました。その後、夏に4人でそこに滞在したことでカンディンスキーの作風は大きく変わっていきます。(ペインティングナイフから絵筆に持ち替え、強い構築性が出ました) そして、1909年になると「ミュンヘン新芸術家協会」を結成し、カンディンスキーが会長となります。この団体は内的必然性に基づく真の芸術的綜合を提示したそうですが、最初の展覧会では酷評を受けたようです。しかし、その展示を観にきたフランツ・マルクは大きな感銘を受け、1911年に協会に加入し、後の青騎士結成への下地となっていきました。

ヴァシリー・カンディンスキー 「印象Ⅲ(コンサート)」の看板
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こちらは1911年の作品。カンディンスキーは1911年の元日にマルクと出会い、その翌日に行ったアーノルド・シェーンベルクのコンサートに感銘を受けてこの作品を生み出しました。黄色を背景に多くの人々の頭が描かれ、中央には黒い台形をしたグランドピアノが置かれています。白いのは柱らしく、一応実景が元になっているようです。この黄色は音楽そのもののようで、人々を包み込んでいるように見えます。シェーンベルクのその時の曲を聴いたことがありますが、結構激しくてこの絵の持つパワーに合っているように思えました。

1911年頃、カンディンスキーはますます抽象化の道を進んでいき、それを好ましくないと考えた新芸術家協会の穏健派は、作品の大きさが合わないという口実でカンディンスキーの「コンポジションⅤ」という作品の展覧会出品を拒否しました。それに怒ったカンディンスキーはフランツ・マルクとミュンターと共に協会を脱会して、12/18の協会の展覧会に合わせて「第1回青騎士展」を開催しました。これにマッケやアーノルド・シェーンベルクが加わり、翌年には青騎士年間を発行し第2回青騎士展を実施、そこにはヤウレンスキーやパウル・クレー、ピカソ、マレーヴィチといった面々も名を連ね、規模も拡大していきました。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Impressin V」
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こちらは1911年の作品で、日本語にすると「印象V」となります。人らしき姿があるのでちょっと具象性はあるように思えますが、タイトルからして抽象的で、色の響き合いが主なテーマになっているように思えます。赤、黄色、青といった原色が目に鮮やかです。

カンディンスキーは自分の絵画を3つの段階に考えていたようで、
 ・印象 :外から受けたもの
 ・即興 :無意識から出たもの
 ・コンポジション :2つを練り上げたもの
となります。「印象」や「コンポジション」といったタイトルが多いのもそのせいかな。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Mit dem schwarzen Bogen」
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こちらは1912年の作品で日本語にすると「黒い弓を使って」となります。確かにちょっと弓っぽいようにも見えるけど、先程と同じく色彩に重点が置かれているように思えます。描かれているものも記号のようになっていて、後の画風に繋がっていくのが伺えます。

最初の頃の絵とだいぶ変わってきたのが一目瞭然ですが、1909年がカンディンスキーの変革の時期で、実景に基づかない抽象性の高い作品を描き出しました。青騎士の時代はさらにそれが進んでいるように見えますね。1911年に『抽象芸術論―芸術における精神的なもの』を出版すると抽象芸術の考えは大きな反響を呼び、世界的にカンディンスキーへの評価が高まっていきました。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Bild mit rotem Fleck」
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こちらは1914年の作品で、日本語にすると「赤い斑点のある写真」となります。抽象的で何を描いているのか分からないのは同じですが、前に作品に比べるとかなり緻密で、流れのようなものを感じます。放出するようなエネルギーがあると言うか。色彩自体はこの頃の他の作品と共通していますね。

精力的な活動を始めた青騎士ですが、1914年になると第一次世界大戦が始まり、メンバーは離散し幕を閉じてしまいました。そしてカンディンスキーは1918年から1921年までソビエト連邦となったロシアに戻り、美術・芸術の教育などに関わる仕事に就きました。そのためこの時期は作品がほとんどありません。レーニンからは前衛美術は「革命的」と受け入れられていたようですが、スターリンは軽視していたようでスターリンの書記長就任の直前にカンディンスキーは再びドイツへと移りました。

ヴァシリー・カンディンスキー 左:「『小さな世界』: IV」 右:「『小さな世界』: VI」
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こちらは1922年の作品。「小さな世界」というシリーズの1枚で3つの異なる版画技法を使い分けて作られています。以前に比べると直線や球といった明快な形態となっていて、色も滲む感じから色面を使ったものになっています。版画なので油彩とはニュアンスが違うかもしれませんが、また画風が変わったように見えますね。

カンディンスキーは美術工芸学校として1919年にワイマールに設立された「バウハウス」で1922年から教官を務めています。ちなみにバウハウスはミース・ファン・デル・ローエやパウル・クレーなど多くの前衛的な芸術家・建築家・工芸家が教職に就き、そこで学んだマルセル・ブロイヤーなども後に教官となっているなど、今となっては伝説の学校です。

ヴァシリー・カンディンスキー 「デリエール・ル・ミロワール 第60-61号(1953年10月刊)《「白の上に II」のための習作》」
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こちらも1922年(1953年10月刊)の作品。意味は分かりませんが、抽象とも具象とも言えないものが踊るように響きあっているのが非常に心地良い。

1920年代には幾何学的なモチーフが中心となっていて、むしろ記号みたいなものが並びます。また、カンディンスキーは音楽のようなリズム感を絵で表現した画家としても知られていて、楽譜のようなモチーフも出てくるようになります。

ヴァシリー・カンディンスキー 「支え無し」
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こちらは1923年の作品で色と形が音楽的なハーモニーを奏でる1枚。これも何が描かれているか分かりませんが、リズム感があって一目でカンディンスキーと分かる特徴があるのが面白いです。

カンディンスキーはこうした色と形で作者の精神性を表現し、鑑賞者の感情を動かすことができるという理論を築きました。その辺も音楽的な印象を受ける一員かもしれませんね。

ヴァシリー・カンディンスキー 「自らが輝く」
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こちらは1924年の作品。軽やかな色彩と形態が見事で、流れるような曲線が心地よく感じられます。幾重にも半透明の形態が重なるのはちょっとキュビスム的にも思えるかな。

バウハウスは当時のドイツの右翼から攻撃を受け、1925年にワイマールからデッサウへと移転しています。ナチスはバウハウスを目の敵にしてた(というか前衛芸術全般を敵視してた)ので、1933年には閉鎖に追い込まれていくことになります。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Gelb-Rot-Blau」
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こちらは1925年の作品で、日本語にすると「黄・赤・青」です。確かにその3色が使われているかなw これも意味は分かりませんが、私は星や人の顔を想像しました。カンディンスキーの作品には宇宙や原子を思わせるような不思議さも感じます。

カンディンスキーはこの翌年の1926年に『点と線から面へ』を著しています。点と線の響き合いを重視した考え方が書かれているようで、これもカンディンスキーの理論を知る上で重要な著書となっています。

ヴァシリー・カンディンスキー 「網の中の赤」
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こちらは1927年の作品で、幾何学模様のような抽象絵画。これって網なの?という感じですが、これまでと違って規則正しさがあるように思えます。一方で躍動感も健在で、両面が同居しているように思えます。色の組み合わせも楽しい作品ですね。

カンディンスキーは若い頃にモネの「積み藁」を観て、何が描いてあるか理解できないけど色彩が美しいと感じたそうで それが抽象絵画の考え方へと発展していきました。我々がカンディンスキーを観て感じることは かつてカンディンスキーがモネに対して感じたことと同じなのかもw

ヴァシリー・カンディンスキー 「Auf Spitzen」
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こちらは1928年の作品で、日本語にすると「点々に乗って」といった感じでしょうか。確かに台の点に乗ってるようにも見えるかな。最初に観た時、遊園地かデパートのアドバルーンみたい…と思ったものですw この頃は幾何学的なモチーフが多く、背景は淡い色が交じるのが特徴のように思えます。

1933年にバウハウスが閉鎖されると、カンディンスキーはパリに移りました。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Composition IX」
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こちらは1936年の作品で、コンポジション(構成)IXというタイトルです。今までの作品の中で最もポップな印象を受けるのはカラフルな縞模様と有機的な形態の躍動のせいかな。この頃の世相はかなり暗く 戦争へと向かっていった時期ですが、そう感じさせない明るさがあるように思えます。

この頃は直線的なモチーフよりも有機的なデザインが多くなっています。微生物を思わせるようなフォルムですね。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Trente」
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こちらは1937年の作品で、日本語にすると「30」です。縦5×横6の30マスになっているのがタイトルの意味だと思いますが、白黒の市松模様のような中に反転したモチーフが描かれるというスタイリッシュなデザインセンスが溢れています。一種の象形文字のようであり微生物のようでもあるw 1つ1つも面白いけど30面揃った心地よさが見事ですね。私はこの絵が好きで、ポンピドゥー・センターの展示でTシャツを買って今でも着ていますw

この頃になると、以前とは色彩も変わっているのがわかります。滲みのような表現からくっきりとした色面のような表現が増えています。

ヴァシリー・カンディンスキー 「全体」
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こちらは1940年の作品。いくつかのブロックに分かれているのは先程の作品と似た発想ですが、ここでは色彩も用いています。以前よりも色は落ち着いていて、ぶつかり合うような激しさではなく調和を感じるかな。リズミカルなのは相変わらずで、滑らかな印象を受けます。

ナチス時代のドイツではヒトラーが古典的な作風の画家であったこともあり前衛芸術は「退廃芸術」と呼ばれ美術館から排除され安値で叩き売られたり処分されました。(その芸術音痴ぶりがヒトラーが画家として成功しなかった理由に思える訳ですが…) カンディンスキーも作品の展示を禁止され、退廃的芸術家を見なされ不遇の晩年を過ごしています。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Blue de ciel」
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こちらは1940年の作品で、日本語にすると「青空」です。背景が淡く爽やかで、空で謎の生物たちが踊っているような感じに見えるかなw 以前のような直線はなく、柔和な印象を受けます。モチーフの重なりも無いし、また画風が変わっているようにも見えますね。

1941年にフランスはドイツに占領されましたが、カンディンスキーは亡命せずにパリ近郊に留まっています。

ヴァシリー・カンディンスキー 「Un Conglomérat」
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こちらは1943年の作品で、「コングロマリット」というタイトルです。タイトルの通り様々な会社や工場を思わせる形態が並び、再び直線が多い画面となっています。長い棒は煙突みたいに見えるし、全体的には都市のようにも見える。やや重めの色合いで閉塞感があるようにも思えました。

カンディンスキーは不遇のまま第二次世界大戦中の1944年に亡くなりました。しかしドイツが敗れ戦争が終わると、カンディンスキーの名誉は回復し、今では抽象絵画の創始者の1人として非常に高い評価になっています。

ということで、抽象絵画を語る上で避けては通れない重要な画家となっています。観ても何だか分からない… でも心地良い。難しいことを考えずにそういう見方で良いんだと思います。個展は滅多にありませんが、各地の美術館や大型展で観る機会もあると思うので知っておくと一層に楽しめると思います。

 参考記事:
  カンディンスキーと青騎士展 (三菱一号館美術館)
  表現への情熱 カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち (パナソニック 汐留ミュージアム)
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